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2008年2月11日 (月)

ヘーゲル著 「歴史哲学講義 上、下」

ヘーゲル著
「歴史哲学講義 上、下」(岩波文庫)


          **********


ランケの「世界史の流れ」の冒頭で、
ヘーゲルの「歴史哲学」に対する批判が記述されていたので、
思い切って読んでみました。

ヘーゲルは、
最晩年の10年間(1822年~1831年)に
ベルリン大学で半年単位の歴史哲学を5回講義したそうで、

ヘーゲル没後、その講義録をまとめたのが
今回読んだこの本(「歴史哲学講義」)だそうです。

多分、ヘーゲル哲学を集約したものの1つであろう
と、想像しています。

   ヘーゲル 生没年 1770~1831 享年 61才


読み終わって感じることは、残念ながら、

ヘーゲルの論理 に 「本質的な矛盾」があり、
また
ヘーゲルが、無視or理解していないと思われる点もあって、

非常に「問題の書」、
端的に言うと
「悪魔の書」というものが世の中にあるとしたら、
まさに「この本」であろう、ということです。

長大なヘーゲルの論述を、
一言でまとめるのは、それこそ問題であることは十分承知していますが、

ヘーゲルの矛盾や問題点を端的に判りやすくする為に、
あえてさせていただきます。 

< ヘーゲル歴史哲学の要約 >

  1.理性=神 が 歴史を支配している

  2.歴史の目的は、自由の実現であり、
    この自由実現に向って、歴史は進歩する

    東洋人は、
    一人だけ(専制君主)だけが、自由を知り

    ギリシア、ローマでは、
    特定の人々が自由を知った

    ゲルマン人に到って
     全ての人間が自由を知るようになった

  3.国家が、自由を実現する

  4.世界史は、東から西へと向う

    アジアは、世界史の始まりであり、
    ヨーロッパは、文句なく世界史の終わりである

    中国→インド→ペルシア→エジプト→ギリシア→ローマ→ゲルマン世界 


< ヘーゲル歴史哲学、歴史観 に対する疑問点 >

私が、
ヘーゲルの歴史哲学、歴史観 に対して疑問に感じる点は、
次の4点です。

1.自由の実現の目的に向かって、歴史は進歩する、との 進歩史観 は、
  矛盾した記述だと思います。

  進歩は、
  その本質から「到着点がない、永久につづく無限運動」なのです。

  「到着点のない永久に続く無限運動」が、
  有限の「ある目的」に向かって進んでいくということは、
  矛盾であり、あり得ないことです。 

  もし、
  「歴史が進歩する」というのであれば、

  ヘーゲルが、
  「自由が実現された」と宣言した状態で、
  歴史の進歩が停止することはありえず、
  更に前進するはずです。

  これは、
  ヘーゲルを引き継いだ、 
  「プロレタリアート独裁」において弁証法的唯物論の過程に終止符を打った
  マルクスや、

  「リベラルな民主主義」をもって「歴史の終わり」を主張する
  ネオコンのフクヤマにも
  共通する、矛盾なのです。

  進歩については、
  ランケの批判もありますし、
  私も「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」で述べていますので、
  そちらを参照いただければ幸いです。

  ランケの歴史哲学
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_d322.html

  「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」
  http://chuuseishi.la.coocan.jp/070717.htm


2.「神=理性」が、歴史を支配するということ と、
  歴史の目的が、「自由」の実現であるということは、
  矛盾していると思われます。

  ヘーゲルは、
  敬虔なプロテスタントであることが文章から伺われますので、
  何故矛盾と考えるかについて、
  信教の自由を例にご説明したいと思います。

  信教の自由とは、
  どの宗教、どの神様を自由に信じることができるということです。

  ヘーゲルは、
  勿論 プロテスタントのキリストでしょう。

  でも、
  ヘーゲルが否定するカトリックのキリストを信じる人もいますし、
  イスラム教を信仰する人もいるのです。

  勿論
  仏教徒もいるでしょうし、
  他の地方地方の神様を信じる人が、多数いることは、
  言うまでもありません。

  このように、
  色々な神様 を 自由に信仰できること が 自由なのですが、

  「理性=神が、歴史を支配する」ということになると、
  「1つの神しか存在しない」ことになり、
  色々な神様を信じる自由が奪われることになります。

  このように、
  「神=理性の支配」と「自由」は、両立しない矛盾であり、

  この矛盾が、
  その後の歴史に、大きな災いをもたらす原因ことになったのです。


3.更に、ヘーゲルが、
  「価値観の多様性」を 無視or理解していないことが、
  あげられる と 思います。

  歴史を支配する「神=理性」を、誰が認定するのでしょうか。

  ヘーゲルにとって
  「神=理性」が支配する歴史は、自明のことなのでしょう。

  また、
  ヘーゲルが考える以外の歴史は、存在し得ないのでしょう。

  でも、
  例えば、
  「歴史は、東から西に向って進歩する」とヘーゲルにいわれても、
   事実に反して嘘ですね、ヘーゲル教の信者しか信じませんよ。」
  と、反論したくなります。

  (例えば、ヘーゲルが言及している孔子は、
   ペルシア戦争が終了した年に亡くなっています。)

  たとえ、
  ヘーゲルが、歴史事実を正確に記述したとしても、

  それは、
  ヘーゲルの歴史解釈であり、
  私の歴史解釈は別ですよ、という、
  ランケのような歴史家が当然出てきます。

  このように、意見が対立したときに、
  歴史を支配する「神=理性」が、どちらに軍配を上げているのかということを、
  誰が判定するのでしょうか。

  言い換えると、
  ヘーゲルは、色々な価値観が存在して、色々な考え方がある、
  即ち
  「価値観の多様性」を無視しているのです。

  というよりは、
  私には、理解していないと思われるのです。

  理解していないからこそ、
  啓蒙専制君主のプロイセン王 フリードリヒ2世を賛美し、
  「国家(プロイセン)が、自由を実現する」と平気で言えるのでしょう。


4.最後に、

  ヘーゲルが、
  「人間」
  特に、
  「人間の欲望、エゴイズム、損得への執着、既得権を奪われる際の
   猛烈な抵抗」を無視or理解していないことが、

  上記2点と併せて
  致命的な欠陥だろう と、思います。

  歴史は、
  人間の活動の軌跡なのです。

  それを見て、
  「神=理性」が支配すると感じるのは、個人の感性の問題だと思いますが、

  だからといって、
  歴史が、人間が作り上げたものであることを無視することは、
  誤りの原因だろうと思います。



< 本書の欠陥が、その後の歴史にもたらした例 >

1.大量殺人の悲劇

  ヘーゲルの進歩史観をベースに、
  マルクスが、
  「資本主義が終焉して社会主義の時代が来る」との
  マルクス主義を生み出したのだと思います。

  そして、
  ロシア革命によりソ連が建国され、
  スターリンによる粛清が生じました。

  また、
  ソ連が崩壊して、ほっとする間もなく、

  アメリカで、
  フクヤマの「歴史の終わり」をイデオローグとするネオコンが抬頭して、
  9.11にかこつけて、イラクへの侵略が行われました。

  スターリンにしても、
  ネオコン にしても、

  ヘーゲルの歴史哲学における矛盾が、
  その凶暴性を正当化してお墨付きを賦与しているのだろうと思います。


  スターリンの「粛清が生じた論理」を申し上げると、

  ① すべての人の自由を実現する為には、
    資本主義を革命で打倒して社会主義を実現せねばなない。

  ② 社会主義を実現する為には「プロレタリアート独裁」が必要である。

  ③ プロレタリアート独裁を実現する為には、反対者を粛清せねばならない。

  といって、

  最初は、
  党外の ボルシェヴィキに対する反対者、

  次には、
  党内の反対者、

  更には、
  スターリンの権力掌握を支援した同志を殺害したのです。

  当時のソ連では、外国人と話しただけで処刑されました。

  スターリンの行状は、
  フランス革命のときにロベスピエールとそっくりであり、

  ヘーゲル流に言うと、
  スターリン時代において、スターリン一人だけが自由を知っていたのです。


  何故このようになったのでしょうか。

  ロシア革命は、
  マルクス主義に従って 自由の実現を目指してソ連が建国されました。

  ところが、
  「神=理性が、歴史を支配する」のですから、

  「神=理性」を握ったスターリンが、自由を判定し、
  「自由に反する者=スターリンと意見を異にする者」を処刑したのでした。

  中世において
  「神の代理人」である「ローマ教皇」に従わない異端者が火刑に処されたのと、
  同じ論理です。

  更に、
  ロシアの共産党の支配は、ソ連だけではなく、
  コミンテルンを通じて全世界の共産党が、従わねばならなかったのです。


  同じことが、
  ネオコンにも言えます。

  ホームページ「ブッシュ の イラク戦争」で、詳述していますので、
  そちらをご参照いただければ幸いですが、

  一言でいうと、
  自分の考えと異なる人を、武力で抹殺してまでも、
  「リベラルな民主主義」を実現しようと言うものです。

  「リベラル(自由)な民主主義」を標榜して、
  自分の考えに反対する人々を、抹殺する点は、
  スターリンの粛清と全く同じ論理だと思います。

    ブッシュ の イラク戦争
    http://chuuseishi.la.coocan.jp/030830.htm

  「神=理性」が歴史を支配する こと と、
  「自由」が歴史の目的である ということが、
  並存する矛盾 と、

  「多様な価値観」を認めないヘーゲルの考え方が、
  20世紀に多数の人間が殺された原因となったのだと思います。 

  更には、

  要約では言及しなかった
  ヘーゲルの「ゲルマン人の優越性」の観念が、

  19世紀から20世紀にかけての「黄禍論」や、
  ヒットラーの「ユダヤ人虐殺」の遠因にもなったのだな、
  と、感じられます。

  このように、本書は、
  20世紀の不幸をもたらした「悪魔の書」であるように、私には思えます。

  ヘーゲルは、
  真摯に歴史哲学を講義しただけであり、

  この本が、
  その後の歴史に悲劇をもたらすと予想だにしていなかったと思います。

  だからこそ、
  まさに「ペンは、剣よりも強し」であり、
  1つの本が、これだけの影響を歴史に及ぼすことができるのか、
  と、愕然とするのです。


2.社会主義国の勃興と崩壊

  「社会主義」は、先ほど申し上げた通り、
  ヘーゲル哲学の「マルクス・バージョン」だと思います。

  その「社会主義」のソ連が、
  100年も持たずに20世紀末に崩壊して、
  マルクスが 滅びると予言した「資本主義」が、生き残りました。

  このような現象が生じた理由は、

  先ほど述べた
  ヘーゲル歴史哲学の矛盾や価値の多様性を無視していることに加えて、

  人間の欲望を無視している ヘーゲルの歴史哲学に基づき
  「社会主義」の理論を構築したことが上げられると思います。

  最初に、
  何故「資本主義」が生き残ったのか、についてご説明します。

  「資本主義」は、
  人間が欲望のおもむくまま、自由に経済活動することを前提に
  自然発生的に発展してきました。

  人間が欲望のままに活動すれば、
  行き過ぎが生じ、人道上許されない事態もおこってきます。

  しかも、
  その是正は、自由を前提としている為になかなか困難であり、
  「このような体制は、崩壊するだろう」
  と、マルクスが考えたのも もっともな面があったと、思います。

  例えば、
   若年者や女性の低賃金長時間労働、劣悪な労働環境、
   経営者の恣意による解雇、雇用不安、ストライキした労働者への弾圧、

   勝ち残った資本家による独占の弊害、
   公害などの環境汚染、健康被害、

   自由貿易による経済強国の一方的な搾取、
   景気変動による大不況等々、

  「資本主義」の将来はなく、
  「社会主義」が、理想の社会であろうと思う人々が、多数現れたのでした。

  しかし、
   労働法、独禁法の制定、
   財政出動による経済の安定化、

   公害などに対する環境規制
   国際協調による貿易の安定等々、

  これらの弊害、病根を、一つ一つ解決して、
  孔子の言う「心の欲するところに従いて、踰(のり)を矩(こ)えず」 

  即ち、
  各人が自由に経済活動を実現しつつ、
  弊害を、ミニマイズした社会 を 目指して 努力してきたのです。

  「資本主義国」では、
  各人、各企業が、自分の「欲望」に従って、利益を目指して
   「自由」に好き勝手に、しかも「競争」しながら、活動しました。

  ユーザの支持を得て、「マーケット」で勝利する為に 自由に活動した結果、
  予想もしないアイディアが出現したのです。

  その結果、
  「技術」、特に「先端分野」において、
  20世紀の終わり近くになって目を見張る進歩が表れたのです。

  これに比し、
  ソ連をはじめとする「社会主義国」は、

  国民の自由な活動ではなく、
  共産党が決定する「計画」に従って、国が運営されました。

  個人は、
  言われたことをやりさえすればよいと、自発性は、摘み取られて、
  「自発的な活動」は、国家に対する「犯罪」であると断罪されたのでした。

  「自由の実現」を目指した革命が、国民の自由 を「抑圧」し、
  国全体に将来への希望を見出せずに、前向きな姿勢がなくなってしまい、

  「共産党の特権階級」だけが、良い思いをしていて、
  豊な西側諸国との格差がどんどん拡大していく状況の中で、

  共産党による「統治の正統性」が喪失して、
  ソ連をはじめとする社会主義諸国家が「崩壊」したのです。

  「資本主義」は、
  自然発生した体制ですが、

  「社会主義」は、
  マルクスなどの思想家の創造物だったのです。

  理性=共産党 の 指導者が、
  歴史を支配すれば、自由を実現できる と 思い込み、

  「人間」に対する認識、
  特に、
  「欲望への執着」に対する認識が欠落していた為に、

  「自由が抑圧される社会」を 生み出して、
  「崩壊」していったのです。

  一番皮肉に思えるのは、

  共産党の指導者が、
  彼らが非難してきた資本家以上に すぐに堕落して、
  利権を貪るようになることに、思いを至らなかったことです。

  また、
  利権を貪り、利権にしがみついている 悲惨な自分を、
  鏡に照らして見ることのできなかった 彼らに、
  人間としての哀れみさえ感じられます。

  しかも、
  資本主義は、それぞれの部門間の牽制作用があり、
  マルクスが非難した資本家でも、
  思うような行動を 100%出来ず、是正を強制されたのですが、

  共産党の独裁下では、
  この歯止めがないだけに、
  国民が、一層悲惨な境遇に追い込まれたのでした。

  長年時間をかけて、自然に出来上がってきた資本主義は、
  それなりに柔軟性と対応力があったのですが、

  人工的な社会主義は、
  人間や歴史に対する根本的な認識の欠陥故に、
  硬直的で、存続が不可能だったのです。



< 結語に代えて >

「歴史哲学講義」を読むのに、
12月から1月と2ヵ月もかかってしまいました。

理由は、
途中で読む気がうせてしまったのに、

ヘーゲルの呪縛にかかって、他の本に移ることもままならず、
1ヶ月以上の期間が、無為に過ぎていったのでした。

最後に、
終わりまで読めば離れられるだろうと決意して、
読み通したのですが、

今まで述べたような理由で、
この本は「悪魔の書」であり、
「はい、さようなら」と言って、完全にこの本から離れることができない
何物かを感じています。

多分、この本は、
何かしらヨーロッパ人の深層にある どろどろした「感情」、「エートス」
を、記述しているような気がするのです。

これからは、
ヘーゲルの記述を頭の隅に残しながら、ものを考えていこうと思っています。

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コメント

コメント頂き、吃驚しました。


確かに、
今回ほど激怒したのは、隠居後初めてです。

反省されたとのことですので、私も水に流そうと思っています。
 


今回のブログは、
ヘーゲルの考えに対する批判でしたが、
貴兄とあまり差はないのでは、と感じています。


私にヘーゲル批判を、一言で言い直すと、

1.「自由の実現」と「進歩」の概念は矛盾している。

2.社会生活を円滑に、トラブルなく行うためには、
  「自由」についての調整が必要であり、
  ヘーゲルの言うような「自由」の実現は、あり得ない。


1.について

  「進歩」は、永遠に続く運動であり、
  歴史が進歩するなら、自由が実現しても、
  更に進歩するはずです。


  最初にご紹介したE.H.カーは、

  当初、
  ヘーゲルのおっしゃる通りの言い方をされてましたが、

  それから10年後、
  「ある目的に向かって歴史は進歩するし、
   その目的を達成したら、別の目的に向かって、歴史が進歩する」
  と、言い替えられました。


  これは、
  ヘーゲルの矛盾を認識されたからだろうと想像しています。

  また、この考え方は、
  私の「積み重ねの歴史」とほぼ同じような感がしています。


2.について

  ロビンソンクルーソーならともかく、
  人間同士が円滑に社会生活するには、

  相手をおもんばかって、
  お互い相手を尊重しながら行動しなければならないのは、
  貴兄もおっしゃっておられることです。


  ただ、貴兄は、
  「自由」に「不自由」が含まれるとお考えですが、
  概念として整理不十分なような気がします。
 
 
  TPPが話題になったときに、
  「アメリカは、自由を理解してない国である」
  との趣旨のブログを書きましたので、

  もしよろしければ、そちらをご覧下さって、
  私の考え方を考えて下さい。


  TPP交渉の本質・・・2.「自由とは何か」を理解していないアメリカとの交渉である
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e607.html
 
 
 
貴兄は、
何度も、私がブログを書く目的について
問いかけをされておられました。

あまりにも礼儀をわきまえない書き方であり、
本題から逸れていたので、あえて回答しませんでした。


一段落しましたので、

もし、今でもご興味がおありでしたら、
私のホームページの「年表より」のなかの、
次の記述をご覧下さい。

「まえがき に かえて」
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e607.html


ちょっと補足すると、

私が文章を書くと言うことは、
いろいろ思考していることを、一度外にはきだして、
客観化することを目的としています。

そうしなければ、
いつまで経っても、その事柄について考え続けてしまうので、
他のテーマに移れないからです。

謂わば、
生理作用の一環であり、自分自身のためだとご理解下さい。

投稿: かんりにん | 2015年12月 5日 (土) 22時34分

かんりにんさん

先日は大変失礼いたしました。
心から反省しています。
お詫び致します。

投稿: 暇人 | 2015年12月 5日 (土) 11時52分

不適当なコメントが1件ありましたので、
2015年12月1日 削除しました。

投稿: かんりにん | 2015年12月 1日 (火) 02時29分

暇人さん
 

率直に言って、
貴兄の国語力のお粗末さに吃驚しています。
 
 
 
1.何でわざわざ「給料を得る」という所をカットして
  捻じ曲げて解釈するのですか?


前回の貴兄の文章は、
「例えば、仕事をする目的というと、給料貰って生活していくためとすれば、・・・」
でした。


貴兄の文章をご紹介する際に、「給料貰って」省いたのは

普通の常識で、「給料を貰う」ことは、
生活するための手段であり、目的ではないから、

省いた方が分かり易いと考えたからです。


同じような構文で考えてみましょう。

国語の問題において、

「野球をする目的は、
 バットやグローブ使って、ゲームを楽しむため」
という文章が提示され、

「野球をする目的は何ですか?」と設問された場合

普通の人は、
「野球の目的は、ゲームを楽しむため」
と、回答するでしょう。

「バットやグローブ使うこと」が、野球する目的である
と読む人は、貴兄以外にはいないと思います。


貴兄の文章をご紹介する際には、不要な部分を省きましたが、
回答の中では、次のように記述しています。

  その意味で、就職したことは、
  目的の達成ではなく、
  目的の達成のための第一歩が始まった
 と、言うべきでしょう。


普通の人の国語力なら、

「就職したことは」と記述すれば、
給料を貰うようになったことを別の言い方をしているな
と、理解されるのではないでしょうか。

何故なら、
就職すれば、給料が支給されることは、
自明の事柄だからです。


「ねじ曲げて解釈した」と非難されておられますが、
そのままそっくり貴兄にお返しさせて頂きます。
  
  
  
2.>再考頂ければ幸いです。
   なんですかこれは?

1.で申し上げたように、
貴兄が、手段と目的を混同されておられる
と見受けられたので、

もう一度考え直して下さいと申し上げたのです。


「なんですかこれは?」と居丈高になる前に、

「見も知らぬ人間が、何故、この様きつい言い方をするのだろうか?」と、
訝しく思われ、その意味を考えられ、自らを省みられることをお勧めします。
  
  
  
3.>ヘーゲルも、
  > 人類が何千年もの歴史の進歩を経て
  >達成しようとしている目的は「自由の実現である」
  >と、おっしゃっておられるのです。

  なんでわざわざどこにも書いていない「達成」と  いう言葉を引っ張り出して、
  捻じ曲げて解釈するんですか?


歴史が、何千年もかけて、
自由の実現に向けて進歩した結果、自由を実現したなら、
大変な目的を達成したことになるのではありませんか?


目的を掲げて、それに向けて努力し、
その目的を実現すれば、

目的を達成したと、一般的に言われることだ
と、思います。


例えば、
オリンピックのマラソンで金メダルを取る
との目的を掲げて、何年も努力して、
めでたくオリンピックで金メダルを取得したら、

優勝インタビューの最初に、アナウンサーは
「目的達成おめでとうございます」と言ってから、
いろいろ質問をするのは、常識ではないでしょうか。


ヘーゲルが自由の実現としか言ってなく、
達成と言ってないから、
目的を実現したら達成したというのはねじ曲げだ

と、おっしゃる貴兄の国語力、更には頭の構造に
疑問を呈せざるを得ません。


4.自由という言葉が明治時代に作られたものだ
  という主張は分かりましたが、その説明がどうもよく分からない。


この前も言いましたように、
私は言語学者ではないので、

明治時代に「自由」という単語が作られたのだろう
と、想像して申し上げたのです。


言い換えると、
明治に入って、ヨーロッパの学問が輸入された際に、
「哲学」「経済」など、学術用語が作られました。

この中に「自由」も含まれるのだろうと想像したのです。


ただ、貴兄も書かれておられるように、
日本は、
ヨーロッパに匹敵する日本独自の文明を築いていましたので、

「自由」という単語に、
ヨーロッパの概念、定義に加えて、

それに近しい日本人の概念も含まれるように
なったのだろうと想像しています、

と、申し上げたのです。


それから、

貴兄が、
「自由」には「物事が自分の思うままになるさま」
との意味があるとおっしゃっておられるので、

ここは、
ヘーゲルの使用している「自由」について議論する場ですよ
と、申し上げたのです。


「自由」という概念について、

日本人は、
日本人の感覚に基づいて理解していますが、

それは、
ヨーロッパ人と異なることがあり得る
と、考えたからです。


ドイツ語を、日本語に翻訳した文章を読んでいますから、

日本人の感覚で、単語を理解するのではなく、

できるだけ原文の単語の意味、
ここでは、
ヘーゲルが使用している「自由」の意味

を、理解すべきでは、と申し上げたかったのです。


貴兄のように
「自由」を「物事が自分の思うままになるさま」
と、理解して、

例えば、
三カ国語を自由に操ることを
「自由」の意味だと考えて、ヘーゲルを読むことは、
間違いだと私には思われます。


5.「私は自由というものは不自由=制約を伴うものだと思っています。」以下の文章について


貴兄の文章を拝見すると、

貴兄が考えておられる「自由」の概念を、
ヘーゲルも使っていると解釈すべき
と、主張されておられるように感じられますが、

読み方として逆ではないかと思います。


即ち、
ヘーゲルの使用している「自由」の記述を読み込んで、
何を意味しているのかを考えるべきで、

自分が「自由」をこの様に考えるから、
ヘーゲルもその様に考えたはずだというのは、
あまりに不遜ではないでしょうか。。


何度も申し上げますが、

この場は、
ヘーゲルの思想についての意見、感想 
及び、
私のヘーゲル理解についての意見、批判、

を、行う場です。


貴兄のように、
ヘーゲルや、私のブログでの考え方を批判するのではなく、

敢えて言いますが、
ヘーゲルも読まずに、自分の考えはこうだ、
ヘーゲルはこう考えたに違いない

と、おっしゃるのは、迷惑極まりないと申し上げます。


貴兄がヘーゲルルを読んでおられない
と、考えたのは、
次のように貴兄が書かれておられるからです。

 「ヘーゲルの若い時代には、
  自国にはまだ専制君主がいたが、

  その一方で、
  隣国フランスでは革命が起きていて
  社会が新たな段階に向かって進み始めていた。

  それを見ていたヘーゲルは、
  今に、自国ドイツでも専制君主を打倒し、

  人民に新たな自由を獲得する動きが出てくるはずだ、

  でも、
  その自由とは、不自由=制約を伴うものだから
  専制君主の代わりに、
  自分たちの中から為政者を選び出し
  その支配に従うべきだと。」


ブログにも書きましたように、

ヘーゲルは、
専制君主だったフリードリヒ大王を賛美しています。

もし、ヘーゲルをお読みになっておられたら、
上記のような文章は書けないはずであり、

貴兄の考え=ヘーゲルが考えたことであろう
と、決めつけておられるのだろうと、判断しまた。
  
  
  
6.神について

  ヘーゲルの時代は、
  何らかの精神的存在が天地を創った、
  あるいは、
  天地に姿を変えたととるのが当たり前の時代でして、

  その何らかの精神的存在を
  宗教家が「神」と呼び、
  ヘーゲルが「神」と呼んだとしても、

  言葉の中身が同じではないことくらい、
  容易に想像つくでしょう?

  哲学者の言う神と宗教家の言う神が同じだったら、
  ヘーゲルはアホでしょう?

  神が無限か有限かなんてどうでもいいことです。


(必要な部分だけ紹介すると、
 ねじ曲げて解釈すると談じ込まれますので、
 貴兄の文章をそのままご紹介しました。)


貴兄の上記の文章を、ヨーロッパ人が読んだら、

「何にも知らない日本人が、偉そうによく言うよ。
 日本人は、無知の知ということを知らないのだな」

と、呆れて 苦笑するだろうと思います。


ヨーロッパの知識人は、
ヘーゲルほどでなくとも、
宗教家と同じレベルの宗教的知識、神の認識をお持ちです。

ですから、
宗教家のおっしゃる「神」について、
一般の人も同じ概念を共有されておられるのです。


問題は、

「神」の概念が、宗派によって異なるから、
言い換えると、
宗教家同士、異なる「神」を信じているから、

政治的利害の対立も重なって
宗教戦争や三十年戦争が生じたのです。


ですから、

フランス革命の指導者が、
「理性」を神に置き換えると言っった「理性」と、

敬虔なキリスト教徒が信ずる「神」とは、

私みたいな日本人から見たなら、
質的には異ならないのだろう と、想像しています。


また、

「有限」も「無限」もどうでもいいこと、
と、書かれておられることも、

貴兄のキリスト教への無知を現しておられます。


ご自分の意見を表明するからには、
想像と思いつきではなく、ちゃんと勉強してからにして下さい。
 
 
 
最後に、

先ほど述べたように、
ブログの対象について、私と異なる考え方もあるよ、とか、
私の考え方は、この様な点がおかしいのでは、と
のコメントは、大歓迎ですが、

貴兄のように、
言葉の言葉尻を捉えて、難癖をつけるようなコメントは、
お断りさせて頂いて、回答を終わらせて頂きます。

投稿: かんりにん | 2015年11月28日 (土) 23時27分

かんりにんさん、お返事どうもです。

1.まず目的についてですが。
私は「目的」とは言っても、具体的には何を目的にするかによっては、その実現のあり方が違ってきますよという事を例を挙げて述べたのです。
その一例を仕事をする目的としてあげたのですが、何でわざわざ「給料を得る」という所をカットして捻じ曲げて解釈するのですか?
かんりにんさんの挙げたゴールの例のように、ボールがゴールに飛び込んで終わり(達成)ということもあるでしょうし、そうではない場合もあると述べたのです。

ヘーゲルは「歴史の目的は、自由の実現であり、この自由実現に向って、歴史は進歩する」と述べていて、
どこにも「達成」とは書いていませんよ?
>もう一度「目的」が達成されたと言うことは、
>どのような状態なのかについて、
>再考頂ければ幸いです。
なんですかこれは?

>ヘーゲルも、
> 人類が何千年もの歴史の進歩を経て
>達成しようとしている目的は「自由の実現である」
>と、おっしゃっておられるのです。
なんでわざわざどこにも書いていない「達成」という言葉を引っ張り出して、捻じ曲げて解釈するんですか?

かんりにんさんがブログを始めた「目的」はなんですか。それは実現されましたか?達成されましたか?
実現されたなら実現し続ければよいですし、達成されたならさっさと終わりにして次の目的を探せばいいだけの話しです。

2.自由という言葉の意味についてですが
自由という言葉が明治時代に作られたものだという主張は分かりましたが、その説明がどうもよく分からない。

私は自由というものは不自由=制約を伴うものだと思っています。

>東洋人は、一人だけ(専制君主)だけが、自由を知り
古代中国では皇帝(自由)とその支配下の多くの人民(不自由、制約)がいた。しかしその皇帝が自由好き勝手にやっていたら、たちまち権力の座から引きずり降ろされ、殺されてしまうのではないですか。そうではなく、自由に思いのままに支配していたから権力の座から落ちることもなく、ヘーゲルはそこに「自由」をみたのではないですか。

>ギリシア、ローマでは、特定の人々が自由を知った
古代ギリシアには多くの自由市民がいた一方で多くの奴隷もいたそうです。自由市民たちは奴隷が反抗反乱しないように自由に思いのままに支配していて、その傍らで自分たちは対話など自由に思いのままに(好き勝手では対話は成立しません)精を出す暇があった、その中からソクラテスの問答みたいなものが現れた。そういう市民たちを自由だと見たのではないですか。

>ゲルマン人に到って全ての人間が自由を知るようになった
ここで言うゲルマン人ですが、ドイツ人を指してのものと、ゲルマン民族の大移動という言葉もあるようにその周辺一帯の人間を指す場合もあると思いますが、ヘーゲルが政治家ならば自国民を指したかもしれませんが、哲学者なので後者の意味と捉える方が妥当でしょう。
ヘーゲルの若い時代には自国にはまだ専制君主がいたが、その一方で隣国フランスでは革命が起きていて社会が新たな段階に向かって進み始めていた。
それを見ていたヘーゲルは、今に自国ドイツでも専制君主を打倒し、人民に新たな自由を獲得する動きが出てくるはずだ、でもその自由とは不自由=制約を伴うものだから
専制君主の代わりに、自分たちの中から為政者を選び出しその支配に従うべきだと。
しかし、こんな事を言ったり書いたりしたら、いくらヘーゲルでもたちまち捕まり処刑されてしまいかねない。だからオブラートにくるんだモノの言い方をしたのではないですか。


同じようなことは日本でも起きていたとみるべきで、過去その時々の政権は思いのままに人民を支配していた、しかし徳川五代目将軍綱吉のように人民を無視して、自由好き勝手に生類憐みの令などを制定すると、庶民から反発され場合によっては政権転覆につながりかなない。
明治以前の日本は階級社会で身分差があり、身分の差を超えた結婚などほとんどなかったはず。場所を移動するにも要所要所に関所があり交通は制限されていた。しかし、その制約の中では何をやってもそれこそ自由好き勝手思いのままに行動できたはずです。身分が同じもの同士なら誰と結婚しようが、親の勧め等あるにせよ問題なかったはずです。お上の制約を受けない範囲ではどこに行こうが好き勝手だったはずです。

人間社会には現在より過去の方がはるかに制約が多かったですが、その範囲内では自由だったはずです。どこの社会でも昔から自由制約といった言葉や観念はあったはずです。

だからかんりにんさんの「「自由」という日本語は、明治になって作られた言葉だと認識しています。」と言うこの言葉はウソであり、ありえないことです。

3.神について
ヘーゲルの時代は何らかの精神的存在が天地を創った、あるいは天地に姿を変えたととるのが当たり前の時代でして、その何らかの精神的存在を宗教家が「神」と呼び、ヘーゲルが「神」と呼んだとしても、言葉の中身が同じではないことくらい、容易に想像つくでしょう?哲学者の言う神と宗教家の言う神が同じだったら、ヘーゲルはアホでしょう?神が無限か有限かなんてどうでもいいことです。

投稿: 暇人 | 2015年11月28日 (土) 14時55分

暇人さん、
貴兄のコメントに、少し感想を述べさせて頂きます。

1.「一口に有限なある目的と言っても、
   すぐに実現されてそれで終わりどころか、

   一生かかっても実現できるかどうかという目的も
   あると思います。」

  「一例として、
   仕事のする目的を、生活していくためとすれば、
   すぐに実現されて終わるどころか、
   定年まで、更には、定年後までも続くことがある」

と、ご指摘されておられます。


先ず、
「目的」について、

E.H.カーは、
「ゴール」という言い方をされています。

ヘーゲルが使った「目的」という言葉よりも、
カーの使った「ゴール」という言い方の方が、

分かり易いし、正確に理解できると思います。


次に、
貴兄が例示された
「仕事の目的を、生活のため」としたなら、

目的を達成した と言える状態 は、
仕事をしないでも、或いは、仕事を辞めても、
生活できるようになること、だと思います。


その意味で、就職したことは、

目的の達成ではなく、
目的の達成のための第一歩が始まった
と、言うべきでしょう。

どれだけの財産を稼げば良いかは、
その人の考えによるでしょう。

自分の一生の生活のために充分な財産
と考える人もいるでしょうし、

子供や孫、
更には、
自分の子孫 全ての 生活をまかなえる財産

を、目的とする人もいるでしょう。


貴兄がお考えになっておられる、
目的を実現したけど、それで終わりではない例
について、

もう一度「目的」が達成されたと言うことは、
どのような状態なのかについて、
再考頂ければ幸いです。


最後に、

目的は、
すぐに実現できるものばかりでないことは、
ご指摘の通りです。

ヘーゲルも、
人類が何千年もの歴史の進歩を経て
達成しようとしている目的は「自由の実現である」

と、おっしゃっておられるのです。


2.「自由」の言葉の意味について

「物事が自分の思うままになるさま」も、
自由の意味である

と、おっしゃっておられますが、


ヘーゲルの「歴史哲学」について
議論している場であることを、ご理解頂ければ、
と、思います。


一般論を申し上げると、

「自由」という日本語は、
明治になって作られた言葉だと認識しています。

従って、
ヨーロッパで使用されている「自由」の概念
に加えて、

日本人が、江戸時代まで認識してきた
ヨーロッパ流の「自由」の概念に近しいものも、

「自由」という言葉の意味に含まれたことは、
充分にありうるだろうと考えています。


(私は言語学者ではないので、
 「自由」の日本語の概念についての分析を
 できないのが 残念です。)


ですから、

ヘーゲルが、
ドイツ語の「自由」という単語を記述したので、

翻訳者が、
それを、日本語の「自由」と翻訳した場合、

翻訳された「自由」という言葉の解釈について、
日本語では他の使い方、意味もあると主張することは、

トンチンカンと、笑われること、
場合によっては
「頭、大丈夫?」と言われること

ではないでしょうか。


ヘーゲルは、
ブログの最初でご紹介した様に、
「自由」について次のように述べておられます。

  歴史の目的は、自由の実現であり、
  この自由実現に向って、歴史は進歩する

  東洋人は、
  一人だけ(専制君主)だけが、自由を知り

  ギリシア、ローマでは、
  特定の人々が自由を知った

  ゲルマン人に到って
  全ての人間が自由を知るようになった

私は、この記述に基づいて、
ヘーゲルの考えておられる「自由」について、
自分なりの解釈をしました。


3.「神」について

先ず、
ヘーゲルを含めた キリスト教徒の皆さんも、

貴兄がおっしゃるように、
「万物を創造した理性的な精神的存在」が「神」である
と、考えておられると想像しています。


キリスト教は、
「神」について定義をしていません。

理由は、

一つには、
「神」は、無限の存在であり、
有限の人間が説明出来るわけがない。

また、
「言葉」では、
「有限」の範囲しか説明出来ないので、

無限の存在である「神」について、
「言葉」で言い表すことは不可能である、

と、いうことだろうと、想像しています。


ですが、
天地創造の聖書の部分から理解できるように、

「神」について、
貴兄のおっしゃるような認識を持っておられるだろう
と、私も想像しています。


次に、

「神=理性」とヘーゲルが記述されたのは、
本書が、大学の講義録であることが、あるのだろう
と、想像しています。

フランス革命では、
従来のキリスト教の「神」を否定して、
「理性」を「神」に置き換えた宗教が作られました。

ですから、
19紀前半、大学で講義する場合、
「神=理性」と講義するのが穏当だったのだろう
と、想像しています。

投稿: かんりにん | 2015年11月27日 (金) 22時47分

こんにちは。
検索していたらこちらにたどり着きました。

ふと思ったのですが、有限な「ある目的」ですが、
たとえば、タバコを切らしたんでちょっと近くのコンビニまで買いに行ってくるとか、今日の仕事は○○と××を片づけるとか、あるいはかんりにんさんがヘーゲルを読んで感じたことや考えた事を記事にしてUPするなど、すぐに実現されてそれで終わりという目的もあります。

でも反対に、たとえば仕事をする目的というと、給料貰って生活していくためとすれば、すぐに実現されて終わりどころか定年まで続く、それだけでは足りなくて年金支給までアルバイトするとか、かんりにんさんがブログを始めた目的も、何か読んだり聞いたことについての感想、考えを不特定多数の誰かに読んでもらい、場合によってはコメントを待つという事だとしたら、論じるネタが尽きるまで、あるいは飽きてしまってイヤになるまで、あるいはかんりにんさんの生涯終わるまでという事にもなると思います。一口に有限なある目的と言っても、すぐに実現されてそれで終わりどころか、一生かかっても実現できるかどうかという目的もあると思います。

自由という言葉でもかんりにんさんは、何をしようがオレの勝手という意味を想定されているようですが、ネット辞書を見てもすぐに分かりますように、「物事が自分の思うままになるさま」という意味もあり、例として「三か国語を-にあやつる」 「 -がきく」 というのがあります。

神という言葉にしても、かんりにんさんは宗教での信仰の対象としての神を想定されているようですが、神=理性とあるように、あるいはニュートンが神の一撃と言ったとされていますが、この場合も信仰の対象としての神というより、万物を創造した理性的な精神的存在とでも考えた方がいいような気がするのですが。

これは7年前の記事ですので今はかんりにんさんがどのようにお考えになっているかはわかりませんが、つらつら思ったことを書かせていただきました。

投稿: 暇人 | 2015年11月26日 (木) 17時01分

かげなびく星さん

コメントありがとうございました。

「どう見ても資本主義も崩壊しています。」と書かれておられますが、私には、理解出来ません。

広辞苑(第一版)で「崩壊」は、「くずれこわれること」と説明しています。

「建物が崩壊した」とは、
建物が崩れて壊れてしまって、瓦礫の山となってしまうことを言います。

ですから、
ソ連は、確かに崩壊しましたし、ソ連の社会主義も、崩壊したと、考えています。

ソ連邦は、
ウクライナ、白ロシアなどの内なる植民地が、ロシアから独立して、ロシアだけになりましたので、ソ連邦は崩壊したと言うことが出来ると思います。

また、ソ連の社会主義も、
形式上資本主義に変わりましたから、ソ連の社会主義は、崩壊したと言って良いと思います。

おっしゃっておられるとおり、
もし、資本主義が、崩壊しているとしたら、
資本主義が「くずれこわれ」て、他のものに変わっているはずです。

ところが、
日本も、アメリカも、ヨーロッパも、ソ連が崩壊したような大変革が生じていませんし、今もって資本主義国と言われています。

ですから、
おっしゃっておられる意味が分からないと申し上げているのです。

多分、「資本主義は、当初の形態から大幅に変容した」と、おっしゃりたいのではないでしょうか。

それなら、
本文にも書いていますように、私もそう思っています。

さらに、
「日本は、世界で最も先端を歩んでいる社会主義国だ」との言い方もあります。

戦後、自民党政権の政策に従って、計画通り経済が発展し、その結果、他の国より、貧富の格差が少なく、大半の国民が中流階層であり、健康保険が行き渡って、長寿を保ち、

社会主義国が理想とした社会、人類が長年夢に見た社会を実現していると言って良いほどの社会が現実化しているからです。

でも、
これは、資本主義が崩壊したのではなく、
資本主義の欠点を改良し、資本主義を変容させてきた結果であり、
資本主義が行き詰まって崩壊したから実現したわけではないと思っています。

(勿論、現在の日本は、
欠点がないわけでもないどころか、欠点だらけであり、更に改良せねばならない課題が山積していることも事実です。

また、この20年間、
政権及び経済学者が、ヤブ医者ぶりを発揮して、誤っ処方箋により経済運営してきて、更にそれを続けようとしていますので、
この繁栄が一時期で終わることも、大いにあり得るのではと、心配もしています。)
 
 
(注) 「誤った処方箋」について

日本経済は、
経済のグローバル化により、従来だったら別のマーケットだった中国やその他のアジア諸国と同一のマーケットに所属するようになりました。

このため、
同一マーケットにおいては一物一価であるとの経済原則に従って、国内価格がアジアのマーケット価格に収斂する過程で、デフレが生じた、現在も続いているのです。
この20年間、公共投資をしても効果が一時的である原因もここにあります。

この根本原因に対処するために、政府および経済学者が正面から処方箋を書かれないのが、私には全く理解出来ません。

現在のアジアのマーケットの問題点は、為替水準が不適正である点です。
今般安倍政権が、為替水準の是正に力を入れていることは、大いに評価もし、期待していますが、
インフレターゲットは、パンドラの箱をあけることになり、将来大いなる禍根が生じる契機となるのでは、と心配しています。

投稿: かんりにん | 2013年1月17日 (木) 21時43分

どう見ても資本主義も崩壊しています。
資本主義も市場という計画された神のいる点で
社会主義との双子だと思いますよ。

ただいえることは社会主義化での他律的な支配より
資本主義化の自由は人間の尊厳たる自律性を引き出す事が可能だったのではないかと思います。
それは資本主義ではなく自由がもたらしたものです。

人は道徳律に自ら従う事の出来る自由がありますすが、資本主義、いわゆるリバタリアニズムは
そういう強者の自由を理解しない。弱者の自由です。自由とは人の可能性なのですから。

資本主義もまた欲望によって崩壊した。
それが目下の現実ですよ。

投稿: かげなびく星 | 2013年1月17日 (木) 09時51分

ぷりんたべたい通りすがりさん


コメントありがとうございました。
コメントに、簡単に回答させて頂きます。


  
1.第1の論点

ここで、ヘーゲルの記述する「歴史の進歩、自由」の内容についての議論をしているのではありません。


進歩は、
常に前進するものであり、

常に前進するものが、ゴールを持つということは、論理矛盾であり得ないのでは、
ということだけを、申し上げているのです。


ヘーゲルは、
いつの日か自由が実現すると考えていたはずです。

もし、自由が実現できないと考えていたなら、
それを目的、ゴールにすることは、おかしいし、考えられないのではと思います。


フクヤマは、
「リベラルな民主主義で歴史が終わる」と主張しています。

ヘーゲルの論理矛盾が、
このような奇妙な論理を生み出していることを勘案して頂ければ、その論理矛盾性がご理解頂けると思います。


私は、
歴史の積み重ねはあるが、進歩はない、
自由の実現は不可能である、と考えていますが、
だからヘーゲルが間違っていると言っているのではないことを、ご理解下さい。


歴史にゴールがあるとの発想は、
キリスト教の「最後の審判」から来ているのだろうと思いますが、

日本人である私が、
ヨーロッパ人の発想を有り難く受け入れる必要はないと考えています。

      
2.第2の論点


「神=理性」の支配下に入れば、自由は失われます。

例えば、
アダムとイヴは、神の支配下に入ったから、リンゴを食べる自由を失われ、

命令に反したら、エデンの園から追放されたのです。


このように、
ある者の支配下に入れば、その命令に服さなければならず、自由は失われるのです。

ここでは、単純にその論理を申し上げているだけなのですが、納得頂けませんでしょうか。


私は、
ヘーゲルは次のように考えているのだろうと、想像していますので、ご参考までにご紹介させて頂きます。


キリスト教には、

パウロ以来ルターに至るまで
「神(イエス)にとらわれている」との観念があります。


「神にとらわれていて、自分の考えは神の啓示に従っているから、自分の考えは、神の考えであり、絶対的に正しい」との論理が導かれ、

哲学は、論理に基づくから間違いをするが、
神学は、神に従っているので、絶対に間違わない、
との考え方になるのです。


このような考えをすると、

神の支配に服することは、
自分の考えが、客観的な論証なしに、全く正統であり、正しいとの信念になるのだろう、

自分の考えが、神の考えと同一故に、自分は自由であると感じるようになるのだろうと、思います。


ヘーゲルは、
このように考えているのだろうと想像していますが、個人的な考えなので、記述するのを避けさせて頂きました。

   
3.第3の論点

ヘーゲルは、
歴史を支配する「神=理性」をどのように認定するのか、記述していません。

そんなことは「当たり前」と考えているのだろうと想像しています。


でも、
貴兄のおっしゃる「一つの真理を提起する学問的態度や学問の仕方」に基づけば、
ヘーゲルは、ロジカルに「神=理性」はこういうものであると、説明すべきでしょう。

それに対して、ヘーゲルと異なる 色々な立場、視座、価値観からの議論が始まるのだろうと思います。

この手順を、ヘーゲルは踏んでいないから、
「神=理性」を、誰が認定するのですか?と、書かせて頂いたのです。

       
4.第4の論点

ヘーゲルの本を読んで、
本来なら記述されるべきことが、記述されていないので、こう書かせて頂きました。

説明がないとのことですが、
ヘーゲルが、何か書いてあれば、それに対して記述しますが、
何も書いていないから、「無視or理解していない」と書いたのです。


この件は、
<本書の欠陥が、その後の歴史にもたらした例>を読んで頂ければ、ご理解頂けるだろうと考えたのですが、

言葉足らずであったなら、お詫びします。

     
最後に、
今回のコメントに対して、改めて御礼申し上げます。

今回久しぶりに、色々考えさせて頂きました。
これからも、知的興味をそそる刺激的なコメントを頂ければ幸いです。

投稿: かんりにん | 2012年7月31日 (火) 22時11分

この記事は非常によくまとまっていて素晴らしいです。それでも、本質的な欠陥というには、以下の点で、まだ批判が精密でないと感じます。


1つ目の論点について

>「到着点のない永久に続く無限運動」が、有限の「ある目的」に向かって進んでいくということは、矛盾であり、あり得ないことです。 
という点についてですが、自由の実現という目的が有限であるといえる理由を教えて下さい。目的を仮に、完全な自由と完全な不自由とに分類し、その2つとも永久にたどりつけない目的なのだとしたら、無限だといえませんか?ヘーゲルは単に、不自由ではなく自由に向かっていると宣言したといえませんか。
それに、あなたのおっしゃるように、もし、自由の実現という目的が有限なのだとしても、自由が実現した瞬間、歴史が停止するわけではありません。次の瞬間からまた不自由になるのかもしれませんし、永久に続く無限運動という主張に矛盾していないのではないでしょうか。

2つ目の論点について

>2.「神=理性」が、歴史を支配するということと、歴史の目的が、「自由」の実現であるということは、矛盾していると思われます。

>「理性=神が、歴史を支配する」ということになると、「1つの神しか存在しない」ことになり、色々な神様を信じる自由が奪われることになります。

この2つの点についてですが、後者は正しいと思います。しかし、それぞれの人間が勝手に思い通りの神を信じる自由というのは、放埓といえる、と定義するならば、それは自由の範囲外であるのであり、矛盾しないことになります。このように、自由の定義のいかんによって、矛盾するかどうかは変わるはずです。
そして前者の意見ですが、これはあなたのおっしゃる論法によると、神は人それぞれなのだから、あなたには批判する権利がない、ということになりませんか?価値の多様性をもちだしてきて価値相対主義に与すると批判する権利を失うはずです。

3つ目の論点について

これはヘーゲルに対する批判ではなくて学問の在り方に対する批判であり、一つの真理を提起するという学問的態度や学問の仕方に異議を唱えているにすぎません。繰り返すようですが、これは価値相対主義に近い考えだと思われます。したがって、歴史を支配する神はどのように証明されるかという問題とこの主張とは関係ありません。

4つ目の論点について

>ヘーゲルが、「人間」特に、「人間の欲望、エゴイズム、損得への執着、既得権を奪われる際の猛烈な抵抗」を無視or理解していないことが、上記2点と併せて致命的な欠陥だろう と、思います。
これについての説明がありません。

批判するのはよろしいのですが、本質的欠陥だとか、致命的な欠陥だとかいう矯激な言葉を使われますと、主張に同意しにくいです。

投稿: ぷりんたべたい通りすがり | 2012年7月30日 (月) 23時25分

たーぼーさん

過分なコメント有り難うございました。

文中にも書きましたが、ヨーロッパを理解する上での多分一番大切なものの一つが、ヘーゲルの「歴史哲学」にあるのだろうと、感じています。

私は、そのヨーロッパの根底にあるエートスを求めて、海図もナシに、方法論も見つからず、何をどうした良いか分からずに、 ただ 老後の楽しみとして さすらっています。

多分、どこかで行き倒れになるのだろうと思いますが、感じでもつかめればと願っています。

その意味でも、たーぼーさんのご意見、ご感想を楽しみにしてます。

投稿: かんりにん | 2011年5月 2日 (月) 00時28分

こんばんは。

実は、今ヘーゲル著「歴史哲学講義」(岩波文庫版)を読んでいます・・・。いちどは放り投げ、再読です。
大学で史学科考古学専攻に属していた者です。

ヘーゲル「歴史哲学講義」に対する貴殿の、深い洞察にしばし目を見張りました・・・。「歴史哲学講義」を読破した後、また読ませていただきます。


投稿: たーぼー | 2011年5月 1日 (日) 22時29分

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