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2008年3月 8日 (土)

「新しい社会」での カーの「進歩史観」

カー は、
「新しい社会」の最後で、彼の「進歩史観」を、要約して記述しています。

カーの「進歩史観」は、
「歴史とは何か」でも、記述されていますが、

「新しい社会」の記述の方が、まとまっているのと、
「新しい社会」は、現在入手が困難だと思いますので、
抜書きしてご紹介させていただきます。


          **********


私(カー)は、
決して「19世紀風の意味での進歩」を信じているのではありません。


私(カー)は、
「科学の法則」に似た「歴史の法則」があって、

社会現象はこれに従って、絶えず一定の規則的過程 を 通じて、
一層高い条件へ進んで行く

(また、法則に従って、
 順次に 或いは 絶えず 交代に 前進したり、没落したり)

など と、考えているのではないのです。

同様に、私(カー)は、
歴史の過程を通じて、「神の摂理」が働き、
人間の善行を賞し、その罪を罰する とも、信じていません。

私(カー)は、
何か、進歩の「客観的定義」を提供するとも、申しますまい。

「進歩」とは、
文字通り「進んでいくこと」です。 

人間にとって、信ずるに値し、努力に値すると思われる「目的」に向かって、
意識的に進んでいくことです。

これ等の目的や、
それによって刺激される活動 には、

人間のあらゆる目的や活動と同じく、
「善」と「悪」とが、色々な割合 で 相混じっています。

或る「グループ」乃至「時代」の 目的や活動 は、
「同時代」の人々 乃至 「次の時代」の人々によって、
淘汰され、テストされ、受け容れられ、斥けられます。

しかし、
人間の「善」が、「悪」に対抗する力 を 持っていて、

単に 船を浮かせて 航海させるだけでなく、
「ゴール」或いは「使命」という 気持ちを吹き込むと、
信ずるのでなければ、

(この信仰が、
 或る宗教 や 非宗教的信念によって 支持される と 否とに 関 しません)

疑いもなく、
「進歩」ということは、「無意味」であります。


確かに、
「進歩の仮説」がなければ、「歴史」はありません。

人間が、歴史に現れるのは、
過去があること気づいたときであり、

過去の業績を、
未来の業績の出発点として意識的に利用するときであります


「非歴史的民族」とは、
「理想」のない民族であり、
前方を見ないが故に、「過去」を見ない民族なのです。

「未来」への信仰こそ、
「過去」への有意義な関心の一つの条件なのです。

しかし、
進歩の「内容」を規定せよ、と求められたら、

私(カー)は、「自由」という、
使い古された言葉へ立ち戻らねばなりません。


また、
若し、現在、私達が進もうとする「ゴール」を規定せよ、と求められたら、

私は、
近代の偉大な業績であった「少数者のための自由」に対立させて、
「万人のための自由」乃至「多数者のための自由」
を、挙げねばなりません。


この「自由」を規定せよ、と、求められたら、

私(カー)は、
ペルジャーイェフの定義 「創造的活動のための機会」
に、すぐるものはないと思います。

この定義の中には、
「必然性の承認」というような
古い、いやに消極的な定義も含まれています。

といいますのは、
「創造的活動」は、それが 追及されるときの 条件の理解 を
含んでいるからです。


「政治」の世界は、「歴史」の世界であります。
(今日、政治的でないものがありましょうか。)

歴史が示す「条件」や、「可能性の知識」を 抜きにして、
「価値ある政治活動」を、行うことは出来ません。


「歴史」がなければ、「自由」はありませんし、
逆に、
「自由」がなければ、「歴史」はないのです。


この講演で、私(カー)は、

 過去 と 未来
 客観性と主観性
 決定 と 自由

この両者の「相互作用の過程」を、示そうと試みてまいりました。

これ等は、
「歴史」の本質的要素、
「自由」の本質的要素
と、思います。


また、私(カー)は、
そこから引き出し得るものは、

科学者 に 期待するような「絶対不変」の判断ではなく、
歴史 及び 政治の研究に属する「批判的洞察」であること
を、示そうと試みてまいりました。

そして、この「批判的洞察」は、
絶えず、他の人々の洞察に修正を加えようとするものでありますが、

また、
それ自身、耐えざる批判と修正とに服するものであります。


歴史における唯一の絶対者は、「変化」であります。

今日、私達の眼前で絶えず「変化」を遂げていく世界、
そういう世界に、私達が住んでいることは、誰も疑いはないでしょう。

  (出所;カー「新しい社会」171㌻~173㌻)


          **********


以上が、
カー の「進歩史観」の抜書きですが、
幾つか、感想を述べさせていただきます。


1.カーも、やはり「ヘーゲルの徒」であるなとの印象が否めません。

  ヘーゲルの「歴史哲学講義」で、述べさせていただいたように、
  「ゴール」のある「進歩」 との 「テーゼ」は、矛盾しているのです。


  (注) 矛盾している理由については、「歴史学講義 上、下」をご参照ください。
      http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_ed14.html

  また、
  「自由」は、カーが本書で述べているように、

  A自由 を 実現する為には、
  B自由 を 抑制せざるをえないものであり、

  「全ての自由」の実現は、
  永久に実現しないもの、ありえないものなのです。

  更には、
  「万人のための自由」
  「多数者のための自由」は、

  カーの生きている時代に現れた20世紀的な、
  即ち
  「特定の時代」の「一時的な」目標であり、

  「少数者のための自由」が、
  19世紀には持っていた価値が、20世紀には喪失したことと
  同じことが、理屈上は 将来起こりえますので、

  歴史を通じた「普遍的な目標」とはいえないのです。


  カーは、マルクスを
  「弁証法がもはや作用しない「階級なき社会」と言う「絶対的な目標」を設定する。」
  と、批判していますが、

  カー自身が、「進歩史観」で、
  歴史の名を借りた「政治目標」「ユートピア」 を、表明しているのだろう
  と、感じます。

   「危機の二十年」
   http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_0938.html


  「政治」というものは、
  「目的」たる「旗」を立てて、それの実現に努力するものであり、

  カーが、
  「政治の世界」は「歴史の世界」であるといっているのは、
  いみじくもそのことを告白しているような気がします。

  カーが、「危機の二十年」で、
    こうなると、
    ユートピアニズムが、リアリズムの城塞に侵入してゆくことになる。

    そして、
    ある「有限の目標」に向かって「連続しているー無限ではないー過程」を
    心に描くことが、
    政治思考の一条件であることが分ってくる。

  と、記述している通りだと思います。

     (出所;カー「危機の二十年」174㌻)


2.「進歩の仮説がなければ、歴史はありません。」以下の記述で、
  歴史的民族と非歴史的民族を分けているのも、ヘーゲル的であり、

  カーが、
  ヨーロッパの歴史しか念頭においていない現われだろうと思います。

  この辺の点については、
  ホームページの「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」で
  述べさせていただいていますので、ご参照いただければ幸いです。

    「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」
    http://chuuseishi.la.coocan.jp/070717.htm


          **********


2月以来、カーの本を何冊か読んできて、

カーの史観について、
私なりの感じがつかめて一段落したような気がしています。

カーを研究するには、
更に カーの歴史記述を 読むべきだと思いますが、

カー研究を目指して、カーの本を読んだわけではありませんので、

カーについては、ひとまず終わりにして、
私の興味の順位に従って、
カー以外の方の本を読んでみようと考えています。

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