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2008年3月15日 (土)

井上成美伝記刊行会「井上成美」(4) ・・・ 海軍兵学校校長、海軍次官 ・・・

井上成美伝記刊行会
「井上成美」(4) ・・・ 海軍兵学校校長、海軍次官 ・・・


          **********


Ⅳ. 海軍兵学校校長

1942年10月26日~1944年8月5日(52~54才) 1年9ヶ月間


海軍兵学校時代の教育方針について、
昭和43年正月 阿川弘之さんに語っていますので、
阿川さんの要約をご紹介させていただきます。

<井上成美>

自分(井上)が、(兵学校校長として)目指したのは、
兵隊作りではない。

生徒を、
まづジェントルマンに育て上げようとした。

ジェントルマンの教養と自恃の精神を身につけた人間なら、
戦場へ出て戦士としても必ず立派な働きをする。

だから、
基礎教養に不可欠な普通学の時間を削減してはいかん。
減らすなら、軍事学のほうを減らせ。

英語の廃止なぞ、絶対認めない。

江田島伝統の教育目標は、

20年30年の将来、
大木に成長すべき人材のポテンシャルを持たしむるに在って、
目先の実務を使う「丁稚」を養成するのではない。

戦争へ行って今すぐ役に立つ人間ばかり欲しいなら、

海軍砲術学校、
海軍水雷学校、
海軍潜水学校等 所謂 術科学校 だけ残して、

兵学校そのものは廃止すべきである。

俗耳に入り易い似非愛国者どもの言に惑わされて、
本来の道を見誤ってはならない。

教室で、戦の話はするな。
生徒をもっと遊ばせろ。

彼らの生活に、
笑いとゆとりと、のびのびしたリズムを与えてやれ。

<阿川弘之>

(井上より、「当時、そこまでは考えていたわけではない」との返事を予想して、)

それらの一連の思い切った措置は、

予め
「敗戦後の日本」と 言うものを、お考えになった上で、
とられたのでしょうか。

<井上成美>

無論そうです。

あと2年もすれば、
日本がこの戦争に負けるのは決まりきっている。

だけど、

公に、
そんなことを言うわけには行きません。
そんな顔をすることすら出来ない。

名分の立たぬ勝ち目のない戦だと、内心思っていても、
勅が下れば、軍人は戦うのです。

新しく兵学校を巣立っていく候補生だって、
私の立場では、
しっかりやって来いとしか言えない。

軍籍にある者のつらいところですよ。

それなら、しかし、
負けたあとはどうするのか。

とにかく、
この少年達の将来を、考えてやらなくちゃならん。

皆で目茶目茶にしてしまった日本の国を、
復興させるのは、彼らなんだ。

その際必要な最小限の基礎教養だけは、
与えておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ。

そう思ったから、

下の突き上げも、
上層部からの非難も無視して、

敢えて
ああいうことをやりました。

  (阿川弘之「井上成美」354㌻) 

海軍兵学校より海軍次官に転勤する際に、

教官に、
次のような離任挨拶をしています。

「私は、
 過去1年9ヶ月、兵学校長の職務を行ってきたが、

 離職に当たって、誰しもが言うような、
 大過なく職務を果すことができた、などとは言わない。

 私のやったことが、良かったか、悪かったか、
 それは、
 後世の歴史がこれを審判するであろう。」

  (本編419㌻)

また、
生徒であった井上成美伝記刊行会の筆者は、

「当時の生徒達が、
 井上の兵学校教育を真に評価するようになったのは、
 戦後しばらく経ってからのことである。

 社会人として再出発した彼らが、
 人間として成長するにつれ、

 井上の真意を実感として理解できるようになったからである。」
と、記述しています。


井上校長の教育方針は、

多分戦時中は、
全く理解も賛同も得られず、

影で、
「国賊」と言われているのを承知で

それこそワンマン校長として、
覚悟を決めて 押し切ったのだろうと思います。

軍務局第一課長の更迭を求めた際に、
「正しきに強い ということを守って、奉公してまいりました。」
と、言い放った迫力を、

生涯通じて貫き通したことが、

戦前より、
戦後において、

「こんな立派な人が海軍にいたのだ」
と、人々を感銘させている所以だと思います。


井上校長の事跡は、
わりと有名で知られていますので、

順不同に、
簡単に箇条書きさせていただきます。

1.兵学校 参考館 の 歴代海軍大将66人の額 を 撤去させた。

  大将の額は、出世主義を暗に認めることになるから、
  との名目ではずさせたが、

  本音は、
  海軍大将の中には、
  海軍の為にならないことをやった人もいるし、

  先が見えなくて、
  日本を対米戦争に突入させた国賊もあったから。

  (「昭和34年11月 小柳中将への談話」資-271㌻)

2.海軍省からの押し売り講演者、海軍高官来校時の訓辞をやめさせた

  海軍省が派遣してきた平泉澄の講演を、
  教官だけにして、生徒には聞かせなかった。

  元帥、大将が視察に来たとき、
  一切訓辞をさせなかった。

  (「昭和34年11月 小柳中将への談話」資-272㌻)

3.生徒の休暇日誌の分隊監事の講評をやめさせた。

  1号生徒(3年生)が、
  3号生徒(1年生)に、

  休暇を 一日早く切り上げて、事前に検閲して、
  「叱られるから、これを消せ、これを書け」と、
  細工させているのが分り、

  「これでは、
   まるで詐欺の訓練そしているようなもの。

   こうようなことを続ければ、
   しまいに 陛下の前へ出て、
   平気で嘘を申し上げるような海軍士官が出来上がる。

   百害あって一利なし。
   やめさせろ。」
   と、言って、やめさせた。

  (「昭和34年11月 小柳中将への談話」資-273㌻)

4.敗戦後を見据えた教育               

  修業年限の短縮 に 反対

  軍事学 を 二の次にして、
  基礎学第一の時間割を組んだ   

  英語教育の継続、
  英英辞書の使用

  (「海軍兵学校と私」資-242㌻)


Ⅴ. 海軍次官

1944年8月5日~1945年5月15日(54~55才) 9ヶ月間

次官として赴任して間もない

8月29日 に、
教育局長高木惣吉少将に、終戦工作の密命をしています。

戦後、
「高木君に、全て 任せきりであり、

 その精進努力が、
 1年後結実して終戦となったのであり、

 その功績は、
 大なりをいわなければならない」

と、記述していて、
具体的に何をやられたのか、判然としません。

  (「昭和34年11月 小柳中将への談話」資-276㌻)


戦後、
アメリカ軍が、
3時間にわたって、大井篤大佐立会いでヒアリングした中に

「終戦のイニシアチーブをとったのは、お前か、
 次官を引き受けたとき、講和の話が出たのか」
と、質問していますので、

終戦に際しての井上さんの役割は、
大きかったのだろう と、推測しています。

  (「昭和34年11月 小柳中将への談話」資-282㌻)


この件については、
機会があれば更に調べてみたいと思っています。


阿川弘之「井上成美」(1) も よろしければご参照ください。
   http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_31bb.html




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