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2008年11月20日 (木)

「ネイションという神話」第1回 ユダヤ人が、民族として存続した理由

ギアリの「ネイションという神話」を読んで考えさせられた事柄について、

今後何回かにわたって述べさせていただきます。

            

最初に、

「ユダヤ民族が、民族として存続した理由」について

お話しさせていただきます。

         

ユダヤ人は、

1000年以上にわたって、いろいろな国で、

区別や差別、更には迫害を受けながらも、

民族としてのアイデンティティを持ち続け、

      

第2次大戦後、

イスラエルを建国して自分たちの国を持った、希有な民族なのです。

                

民族移動期に登場したゴート人、ヴァンダル人、フランク人、

更には遅れてきたノルマン人などのゲルマン人は、

支配者としていくつもの国を建国しましたが、

いつの間にか歴史の中に埋没して、消え去ってしまいましたのに、

  

国を持たなかったユダヤ人が、

「20世紀まで、民族として存続してきたのは、何故だろう」

と、長年疑問に思ってきました。

        

今回、ギアリの「ネイションという神話」で、

        

スペインにおいて

① ゲルマン人である西ゴート人が、

  ローマ人と融合して、民族としてのアイデンティティを喪失していく過程 と、

② ユダヤ人が民族としてのアイデンティティが形成されていく過程

を、読んでいて、

        

「なるほど、そういうことか」と一つの仮説が思いつきましたので、

ご参考までにご紹介させていただきます。

        

    パトリック・J・ギアリ著 「ネイションという神話」169㌻~176㌻(白水社)

        

          

まず最初に、

          

スペインでの西ゴート人とローマ人との融合 と

ユダヤ人の民族としての形成過程についての

ギアリの記述を、ご紹介します。

                                         

      

1.スペインでの 西ゴート人とローマ人の融合

        

                  

507年 ヴウィエ(ヴィエ)の戦い で、

西ゴート王 アラリック2世 が、フランク王 クローヴィスに敗れて 戦死した後に、

  

西ゴートは、

トゥールーズ(トロサ)より スペインのトレドに移動しています。

  

    ヴィウィエ(ヴィエ)  ポワティエ の南 15km

              

スペインでの西ゴートは、

徐々にスペイン在住のローマ人と融合していって、

  

約100年後には、

西ゴート人とローマ人の2つの民族が、

一つの民族 即ち スペイン人 となったのです。

          

ギアリ は、

この融合過程を、4段階に分けて記述しています。

             

            

< 第1段階 > 500年代前半の数十年間          

       

西ゴートは、

ローマ人と区別する 次の政策 を とりました。

  1.ゴート人 と ローマ人 との間の結婚 を 禁止

  2.アリウス派信仰の固執(ローマ人は カトリック信仰)

  3.ローマ人と異なる ゴート風の衣装 を 身に付けた

            

ギアリーは、

この最初数十年間で、ゴート人とローマ人をそれぞれ単純化する役割を果たした

と、記述しています。

         

西ゴートは、

移動を始めてから1世紀以上かけて、スペインに定着したのでしたが、

     

移動の過程で、

スエビ人、ヴァンダル人、アラン人など

いろいろな民族(集団)を、取り込んできました。

         

これらの多民族集団が、

スペインに落ち着いた後の数十年間で、

「一つのゴート人」としてのまとまり を 持ったというのです。

         

他方、ローマ人の方も、

  

スペイン在住 の ローマ市民 や

ギリシア正教 の ギリシア人、

シリア人、北アフリカからの人々などの

多種多様な集団が、

  

同じように、

「一つのローマ人」 として まとまった と、記述しています。

               

                

< 第2段階 > 500年代半ば

   

「ゴート人とローマ人 の 区別を撤廃しよう」

との動き が 生じてきました。

              

ゴート人とローマ人の結婚 は、禁止されていましたが、

実際にはある程度生じていました。

      

また、

西ゴート王国の経済を支配していたローマ人 が、

政治権力の外側に置かれていた状況 を 改善しようとするのは、

当然のことでした。

        

しかも、ゴート法では

「ゴート人とは」との定義が定められていなかったため、

       

西ゴート王 が、「ゴート人」と認めれば、

「ローマ人」でも 「ゴート人」として取り扱われたのです。

            

(注) ゴート人 が 移動の過程で、いろいろな民族 を 取り込んできて、

   スペイン定着後、それらの人々が「一つのゴート人」という民族となった、

   ということを、思い起こしてください。

            

さらに、西ゴート王は、

暗殺や党派対立

各地の分離傾向 に 苦しんでいました。

            

       

ゴート人が、

小規模かつ孤立した軍事エリートである間は、

      

スペイン全土を支配できる可能性が、きわめて限定的である故に、

ローマ人を取り込むことが、統治の重要な懸案だったのです。

            

ですから、

西ゴート王に対して反乱した者が、

      

多数派のローマ人の支持を得るために、

カトリックに改宗することも生じていましたし、

          

強力な後ろ盾を求めて、

東ローマの軍隊 を スペインに呼び込むことさえ行われたのでした。

          

554年

東ローマ皇帝 ユスティニアヌス大帝は、

      

西ゴート王 アギラに反乱した アタナギルドの要請を受けて、

スペインに ヴィベリウス を 派遣しています。

          

アタナギルドは、

セヴィラ(セヴィリア)の戦いで、アギラに勝利して、

西ゴート王に即位していますが、

          

東ローマ を、スペインに呼び込んだことは、

西ゴートの存亡 を 危うくする事態でした。

        

              

ユスティニアヌス大帝 は、

ベルサリウスを 北アフリカ カルタゴ の ヴァンダル に 派遣して、

       

534年

ヴァンダル王ゲリメールを捕らえて、ヴァンダルを滅亡させ、

        

その後

約20年間のゴート戦役を行って 

       

553年

イタリアの東ゴートを滅亡させ、イタリアの支配を回復させています。

            

        

アタナギルドが、東ローマ軍をスペインに呼び込んだのは、

東ゴート を 滅亡させた 翌年であり、

     

「次は西ゴート」と、

ユスティニアヌス大帝が、考えてもおかしくないタイミングでした。

       

            

なお、ちょっと横道にそれますが、

      

アタナギルドの娘が、

フランク王(アウストラシア王)ジギベルトと結婚し、

6世紀後半のフランク史の主役だった ブルンヒルド です。

             

            

< 第3段階 > 570年代~580年代

         

西ゴート王 レオヴィギルドによる ゴート人とローマ人の区別の打破

    西ゴート王 レオヴィギルド 在位 568~586 18年間

 

                

西ゴート王 レオヴィギルドは、

     

バスクを制圧し、

スペイン西北部 ガルシア地方のスエビ王国を併合して、

西ゴートの王権 を、 スペイン全土 に 拡大させた王様です。

   

また、在位中に、

東ローマの拠点であった コルドヴァ を 奪還しています。

           

(注)オストロゴルスキーによると、

   西ゴートが、最終的に スペイン南部の東ローマを駆逐したのは

   624年頃です。

   (オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」105㌻)

   

             

西ゴート王 レオヴィギルドは、

異なる民族間の結婚禁止 を 取り消して、

     

カトリック が 禁止していた アリウス派との結婚 を、

カトリック教徒 に 促そうとしました。

      

このために、

アリウス派の教義 を 一部修正させて、

     

カトリック教徒 が、

アリウス派に改宗し易くする措置をとっています。

                 

       

ローマ人とゴート人の障壁を取り除いて、

アリウス派ゴート人主導による ローマ人とゴート人の「融合」、

       

即ち

「社会的文化的な統合」の試み は、

         

カトリック教徒に、

教会法を無視することを求めるものでしたので、

       

正統派カトリックの司教達の強い抵抗により

失敗に終わりました。

             

           

< 第4段階 > 589年 トレド教会会議

        

西ゴート王 レカレド による

西ゴート王国 の アリウス派より カトリックへの改宗

    西ゴート王 レカレド 在位 586~601 15年間

        

          

西ゴート王 レカレド は、

前任の西ゴート王 レオヴィギルドの次男です。

         

レカレドは、

即位した翌年の587年に

カトリックに改宗し、

      

その2年後の589年

トレドの公会議で、

西ゴート を、アリウス派より カトリックに 改宗させました。

              

        

レカルドの目指すところは、

「新しい統一的な社会」の創設のとどまらず、

      

ゴート人か ローマ人か という 伝統的な二分法を超越した

「キリストにならう者達の共同体」だった

    

と、ギアリ は、記述しています。

             

        

ゴート人の王が、

アリウス主義を捨てて、カトリックに改宗したとき、

       

西ゴートの ゴート人 と ローマ人 の 「2つの民族」が、

キリストにならう者達の「1つの民族」となったのです。

               

         

ゴート人 と ローマ人 の 社会的文化的な統合の分野 では、

ゴート人が、ローマ人に吸収されましたが、

  

ゴート人のアイデンティティは、なくなりませんでした。

      

           

西ゴートにおいて重要なのは、

      

富や権力や祖先ではなく、

「西ゴート王国とのつながり」だったのです。

      

王国とのつながりさえあれば、

民族的には ゴート人でないものでも、ゴート人となったのです。

          

      

また、ギアリは書いていませんが、

       

彼らが、

西ゴート王国滅亡後、レコンキスタの担い手となったスペイン人であり、

「カトリックへの改宗により、スペイン人 が 誕生した」

      

と、言って良いのだろうと思います。

          

       

ドプシュは、

  

カトリック信仰が受け入れてから、

公会議の影響力が際だって発揮され、

          

公会議に 俗人の有力者までが登場して、

公会議 が、正式の王国会議に発展した

     

と、記述していますが、

       

        

ギアリのいう、

      

カトリックの司教達が指導する「キリスト教徒の共同体」が、

いかに強力なものだったのかが理解できます。          

    (ドプシュ「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」520㌻)

            

            

(注) タナーは、

    589年のトレドの公会議で、

    

    ローマ教会 と ギリシア正教 が 分裂する名目となった「フィリオクエ」が、

    ニカイア信条 に 付け加えられたと記述しています。

    (タナー「教会会議の歴史」43㌻)

              

        

     

2.ユダヤ人 の 民族としての形成過程

  

   

ギアリは、

      

「キリスト教徒の共同体」の成立が、

「ユダヤ民族を誕生させた」

と、記述しています。

         

               

キリスト教徒の共同体が成立するまで、

ユダヤ人は、ローマ人に属していました。

           

    

そのローマ人が、

       

キリスト教信仰 と ローマ人であることとが、

今まで以上に強く結びつけられた

        

「ゴート人と融合した キリスト教徒の共同体」

に 属することになったことにより、

            

ユダヤ人は、

ローマ人アイデンティティ を 失って、

「ローマ人 とは 見なされなくなり」、

         

「自らのエスニック」を 形成した、

即ち

「ユダヤ民族」が 形成された、

と、記述しています。

          

           

さらに、ユダヤ人は、

     

近隣のカトリック教徒から嫌われ、

ユダヤ人に対する「区別」が、「差別」となり、

   

ユダヤ人の排除と迫害にと、進んだのでした。

            

        

ドプシュによると、

      

ユダヤ人への迫害は、

西ゴートのカトリックへの改宗からまもない

西ゴート王 シシブト の時代に 始まったとのことです。

    西ゴート王 シシブト 在位 612~621

    (ドプシュ「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」903㌻)

          

しかも、ギアリは、

      

この動きは、

ビザンツ帝国でも同様の展開が見られたが、

        

西ゴート の 排除と迫害の方が遙かに激しかった、

と、記述しています。              

  

                 

ユダヤ人は、

すさまじい圧力がかけられて、

         

キリスト教への洗礼 か、

残酷な刑罰 か、

の 決断を 迫られたのでした。

               

       

また、

西ゴート王の定めた法 は、

        

キリスト教 に 改宗したユダヤ人 でさえも、

キリスト教の敵 であること が 含意されていた、

と、記述しています。

          

      

そして 1世紀後には、

       

最終的に、

すべてのユダヤ人を「奴隷化する」との

反ユダヤ立法 が 制定されました。

               

(注) ギアリは、

   ユダヤ人奴隷化の立法は、

   西ゴート王 エルウィグ が行ったと記述していますが、

    

   この法律は、694年に 制定されているはずなので、

   エルウィグの次の西ゴート王 エギカが制定したのだろうと思います。

            

             

以上が、ギアリの記述のご紹介ですが、

         

ユダヤ人が、

キリスト教社会で 区別され、差別され、

時には迫害を受けたことが、

       

ユダヤ人が民族として

1,000年以上存続させた所以だろうと思います。

 

                

ユダヤ教を信ずる ユダヤ人一人一人 が、

ずっと継続して、

     

「おまえはユダヤ人だ」 と 周囲のキリスト教徒から指さされ、

社会から排除されてきたのです。

        

いわば

「時効の中断」が、常に繰り返しされてきたのです。

        

            

多分、

   

キリスト教徒となったユダヤ人は、キリスト教社会に溶け込んしまい、

      

ゲルマン人 が

いつの間にかゲルマン人でなくなったのと同様に、

        

時間がたつにつれて、

ユダヤ人でなくなったのでしょう。

            

ユダヤ教を信ずるユダヤ人が、

個々人レベルで差別されたことにより、

    

皮肉なことに、

ユダヤ民族として存続したのだろうと思います。

              

        

ご説明は以上ですが、

        

「ユダヤ人が、ローマ人だった」、とか、

「6世紀末から7世紀にユダヤ人が民族として成立した」、

との文章をお読みになって、

             

「ちょっと違うのでは」

と、お考えになる方がおられると思いますので、

          

次回、

何故 ギアリがそのように記述したのか、

私が理解するところを ご説明させていただきます。

               

    次回 「ディアスポラ(離散の民)について」

    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6652.html

               

                

               

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