「ネイションという神話」第1回 ユダヤ人が、民族として存続した理由
ギアリの「ネイションという神話」を読んで考えさせられた事柄について、
今後何回かにわたって述べさせていただきます。
最初に、
「ユダヤ民族が、民族として存続した理由」について
お話しさせていただきます。
ユダヤ人は、
1000年以上にわたって、いろいろな国で、
区別や差別、更には迫害を受けながらも、
民族としてのアイデンティティを持ち続け、
第2次大戦後、
イスラエルを建国して自分たちの国を持った、希有な民族なのです。
民族移動期に登場したゴート人、ヴァンダル人、フランク人、
更には遅れてきたノルマン人などのゲルマン人は、
支配者としていくつもの国を建国しましたが、
いつの間にか歴史の中に埋没して、消え去ってしまいましたのに、
国を持たなかったユダヤ人が、
「20世紀まで、民族として存続してきたのは、何故だろう」
と、長年疑問に思ってきました。
今回、ギアリの「ネイションという神話」で、
スペインにおいて
① ゲルマン人である西ゴート人が、
ローマ人と融合して、民族としてのアイデンティティを喪失していく過程 と、
② ユダヤ人が民族としてのアイデンティティが形成されていく過程
を、読んでいて、
「なるほど、そういうことか」と一つの仮説が思いつきましたので、
ご参考までにご紹介させていただきます。
パトリック・J・ギアリ著 「ネイションという神話」169㌻~176㌻(白水社)
まず最初に、
スペインでの西ゴート人とローマ人との融合 と
ユダヤ人の民族としての形成過程についての
ギアリの記述を、ご紹介します。
1.スペインでの 西ゴート人とローマ人の融合
507年 ヴウィエ(ヴィエ)の戦い で、
西ゴート王 アラリック2世 が、フランク王 クローヴィスに敗れて 戦死した後に、
西ゴートは、
トゥールーズ(トロサ)より スペインのトレドに移動しています。
ヴィウィエ(ヴィエ) ポワティエ の南 15km
スペインでの西ゴートは、
徐々にスペイン在住のローマ人と融合していって、
約100年後には、
西ゴート人とローマ人の2つの民族が、
一つの民族 即ち スペイン人 となったのです。
ギアリ は、
この融合過程を、4段階に分けて記述しています。
< 第1段階 > 500年代前半の数十年間
西ゴートは、
ローマ人と区別する 次の政策 を とりました。
1.ゴート人 と ローマ人 との間の結婚 を 禁止
2.アリウス派信仰の固執(ローマ人は カトリック信仰)
3.ローマ人と異なる ゴート風の衣装 を 身に付けた
ギアリーは、
この最初数十年間で、ゴート人とローマ人をそれぞれ単純化する役割を果たした
と、記述しています。
西ゴートは、
移動を始めてから1世紀以上かけて、スペインに定着したのでしたが、
移動の過程で、
スエビ人、ヴァンダル人、アラン人など
いろいろな民族(集団)を、取り込んできました。
これらの多民族集団が、
スペインに落ち着いた後の数十年間で、
「一つのゴート人」としてのまとまり を 持ったというのです。
他方、ローマ人の方も、
スペイン在住 の ローマ市民 や
ギリシア正教 の ギリシア人、
シリア人、北アフリカからの人々などの
多種多様な集団が、
同じように、
「一つのローマ人」 として まとまった と、記述しています。
< 第2段階 > 500年代半ば
「ゴート人とローマ人 の 区別を撤廃しよう」
との動き が 生じてきました。
ゴート人とローマ人の結婚 は、禁止されていましたが、
実際にはある程度生じていました。
また、
西ゴート王国の経済を支配していたローマ人 が、
政治権力の外側に置かれていた状況 を 改善しようとするのは、
当然のことでした。
しかも、ゴート法では
「ゴート人とは」との定義が定められていなかったため、
西ゴート王 が、「ゴート人」と認めれば、
「ローマ人」でも 「ゴート人」として取り扱われたのです。
(注) ゴート人 が 移動の過程で、いろいろな民族 を 取り込んできて、
スペイン定着後、それらの人々が「一つのゴート人」という民族となった、
ということを、思い起こしてください。
さらに、西ゴート王は、
暗殺や党派対立
各地の分離傾向 に 苦しんでいました。
ゴート人が、
小規模かつ孤立した軍事エリートである間は、
スペイン全土を支配できる可能性が、きわめて限定的である故に、
ローマ人を取り込むことが、統治の重要な懸案だったのです。
ですから、
西ゴート王に対して反乱した者が、
多数派のローマ人の支持を得るために、
カトリックに改宗することも生じていましたし、
強力な後ろ盾を求めて、
東ローマの軍隊 を スペインに呼び込むことさえ行われたのでした。
554年
東ローマ皇帝 ユスティニアヌス大帝は、
西ゴート王 アギラに反乱した アタナギルドの要請を受けて、
スペインに ヴィベリウス を 派遣しています。
アタナギルドは、
セヴィラ(セヴィリア)の戦いで、アギラに勝利して、
西ゴート王に即位していますが、
東ローマ を、スペインに呼び込んだことは、
西ゴートの存亡 を 危うくする事態でした。
ユスティニアヌス大帝 は、
ベルサリウスを 北アフリカ カルタゴ の ヴァンダル に 派遣して、
534年
ヴァンダル王ゲリメールを捕らえて、ヴァンダルを滅亡させ、
その後
約20年間のゴート戦役を行って
553年
イタリアの東ゴートを滅亡させ、イタリアの支配を回復させています。
アタナギルドが、東ローマ軍をスペインに呼び込んだのは、
東ゴート を 滅亡させた 翌年であり、
「次は西ゴート」と、
ユスティニアヌス大帝が、考えてもおかしくないタイミングでした。
なお、ちょっと横道にそれますが、
アタナギルドの娘が、
フランク王(アウストラシア王)ジギベルトと結婚し、
6世紀後半のフランク史の主役だった ブルンヒルド です。
< 第3段階 > 570年代~580年代
西ゴート王 レオヴィギルドによる ゴート人とローマ人の区別の打破
西ゴート王 レオヴィギルド 在位 568~586 18年間
西ゴート王 レオヴィギルドは、
バスクを制圧し、
スペイン西北部 ガルシア地方のスエビ王国を併合して、
西ゴートの王権 を、 スペイン全土 に 拡大させた王様です。
また、在位中に、
東ローマの拠点であった コルドヴァ を 奪還しています。
(注)オストロゴルスキーによると、
西ゴートが、最終的に スペイン南部の東ローマを駆逐したのは
624年頃です。
(オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」105㌻)
西ゴート王 レオヴィギルドは、
異なる民族間の結婚禁止 を 取り消して、
カトリック が 禁止していた アリウス派との結婚 を、
カトリック教徒 に 促そうとしました。
このために、
アリウス派の教義 を 一部修正させて、
カトリック教徒 が、
アリウス派に改宗し易くする措置をとっています。
ローマ人とゴート人の障壁を取り除いて、
アリウス派ゴート人主導による ローマ人とゴート人の「融合」、
即ち
「社会的文化的な統合」の試み は、
カトリック教徒に、
教会法を無視することを求めるものでしたので、
正統派カトリックの司教達の強い抵抗により
失敗に終わりました。
< 第4段階 > 589年 トレド教会会議
西ゴート王 レカレド による
西ゴート王国 の アリウス派より カトリックへの改宗
西ゴート王 レカレド 在位 586~601 15年間
西ゴート王 レカレド は、
前任の西ゴート王 レオヴィギルドの次男です。
レカレドは、
即位した翌年の587年に
カトリックに改宗し、
その2年後の589年
トレドの公会議で、
西ゴート を、アリウス派より カトリックに 改宗させました。
レカルドの目指すところは、
「新しい統一的な社会」の創設のとどまらず、
ゴート人か ローマ人か という 伝統的な二分法を超越した
「キリストにならう者達の共同体」だった
と、ギアリ は、記述しています。
ゴート人の王が、
アリウス主義を捨てて、カトリックに改宗したとき、
西ゴートの ゴート人 と ローマ人 の 「2つの民族」が、
キリストにならう者達の「1つの民族」となったのです。
ゴート人 と ローマ人 の 社会的文化的な統合の分野 では、
ゴート人が、ローマ人に吸収されましたが、
ゴート人のアイデンティティは、なくなりませんでした。
西ゴートにおいて重要なのは、
富や権力や祖先ではなく、
「西ゴート王国とのつながり」だったのです。
王国とのつながりさえあれば、
民族的には ゴート人でないものでも、ゴート人となったのです。
また、ギアリは書いていませんが、
彼らが、
西ゴート王国滅亡後、レコンキスタの担い手となったスペイン人であり、
「カトリックへの改宗により、スペイン人 が 誕生した」
と、言って良いのだろうと思います。
ドプシュは、
カトリック信仰が受け入れてから、
公会議の影響力が際だって発揮され、
公会議に 俗人の有力者までが登場して、
公会議 が、正式の王国会議に発展した
と、記述していますが、
ギアリのいう、
カトリックの司教達が指導する「キリスト教徒の共同体」が、
いかに強力なものだったのかが理解できます。
(ドプシュ「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」520㌻)
(注) タナーは、
589年のトレドの公会議で、
ローマ教会 と ギリシア正教 が 分裂する名目となった「フィリオクエ」が、
ニカイア信条 に 付け加えられたと記述しています。
(タナー「教会会議の歴史」43㌻)
2.ユダヤ人 の 民族としての形成過程
ギアリは、
「キリスト教徒の共同体」の成立が、
「ユダヤ民族を誕生させた」
と、記述しています。
キリスト教徒の共同体が成立するまで、
ユダヤ人は、ローマ人に属していました。
そのローマ人が、
キリスト教信仰 と ローマ人であることとが、
今まで以上に強く結びつけられた
「ゴート人と融合した キリスト教徒の共同体」
に 属することになったことにより、
ユダヤ人は、
ローマ人アイデンティティ を 失って、
「ローマ人 とは 見なされなくなり」、
「自らのエスニック」を 形成した、
即ち
「ユダヤ民族」が 形成された、
と、記述しています。
さらに、ユダヤ人は、
近隣のカトリック教徒から嫌われ、
ユダヤ人に対する「区別」が、「差別」となり、
ユダヤ人の排除と迫害にと、進んだのでした。
ドプシュによると、
ユダヤ人への迫害は、
西ゴートのカトリックへの改宗からまもない
西ゴート王 シシブト の時代に 始まったとのことです。
西ゴート王 シシブト 在位 612~621
(ドプシュ「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」903㌻)
しかも、ギアリは、
この動きは、
ビザンツ帝国でも同様の展開が見られたが、
西ゴート の 排除と迫害の方が遙かに激しかった、
と、記述しています。
ユダヤ人は、
すさまじい圧力がかけられて、
キリスト教への洗礼 か、
残酷な刑罰 か、
の 決断を 迫られたのでした。
また、
西ゴート王の定めた法 は、
キリスト教 に 改宗したユダヤ人 でさえも、
キリスト教の敵 であること が 含意されていた、
と、記述しています。
そして 1世紀後には、
最終的に、
すべてのユダヤ人を「奴隷化する」との
反ユダヤ立法 が 制定されました。
(注) ギアリは、
ユダヤ人奴隷化の立法は、
西ゴート王 エルウィグ が行ったと記述していますが、
この法律は、694年に 制定されているはずなので、
エルウィグの次の西ゴート王 エギカが制定したのだろうと思います。
以上が、ギアリの記述のご紹介ですが、
ユダヤ人が、
キリスト教社会で 区別され、差別され、
時には迫害を受けたことが、
ユダヤ人が民族として
1,000年以上存続させた所以だろうと思います。
ユダヤ教を信ずる ユダヤ人一人一人 が、
ずっと継続して、
「おまえはユダヤ人だ」 と 周囲のキリスト教徒から指さされ、
社会から排除されてきたのです。
いわば
「時効の中断」が、常に繰り返しされてきたのです。
多分、
キリスト教徒となったユダヤ人は、キリスト教社会に溶け込んしまい、
ゲルマン人 が
いつの間にかゲルマン人でなくなったのと同様に、
時間がたつにつれて、
ユダヤ人でなくなったのでしょう。
ユダヤ教を信ずるユダヤ人が、
個々人レベルで差別されたことにより、
皮肉なことに、
ユダヤ民族として存続したのだろうと思います。
ご説明は以上ですが、
「ユダヤ人が、ローマ人だった」、とか、
「6世紀末から7世紀にユダヤ人が民族として成立した」、
との文章をお読みになって、
「ちょっと違うのでは」
と、お考えになる方がおられると思いますので、
次回、
何故 ギアリがそのように記述したのか、
私が理解するところを ご説明させていただきます。
次回 「ディアスポラ(離散の民)について」
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