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2008年12月15日 (月)

「ネイションという神話」第3回 スラヴ人の生い立ち

歴史の本を読んでいると、

エルベ川を越えると スラヴ人がいた
との記述 が あるかと思うと、

ギリシア は、
スラヴ人 が 進出してきて、その支配下になった
との記述 が 出てきます。

スラヴ人は、
ヨーロッパの西北のエルベ川より、
南のギリシア、東のロシアまでの広大な地域に、
散在して居住していたのです。

ゲルマン民族は、
ゴート人、ヴァンダル人、
フランク人、アレマン人、ランゴバルド人など、
それぞれについての記述がなされていますが、

スラヴ人についての記述は、それほどなく、
スラヴ人は、
茫洋としていて、よく分からないな と、思いながらも、

特に それ以上調べようともせずに、
時間が、過ぎてきました。

私にとって、スラヴ人は、
気にはなるけど、放置してきた歴史事象の一つでした。

今回
ギアリ「ネイションという神話」の
スラヴ民族の生い立ちの記述を読んで、

なるほどそういうことだったのか、と、理解できたと共に、

歴史を学ぶに際に 注意せねばならない点 を、
改めて考えさせられましたので、ご紹介させて頂きます、

最初に、
ギアリのスラヴ民族の生い立ちについての記述
を、抜粋してご紹介させて頂きます。

なお、
(注)の記述は、私の補足説明です。

   パトリック・J・ギアリ著「ネイションという神話」(185㌻~193㌻、白水社)


5世紀~7世紀(400年代~600年代)

ゲルマニア とされた地域の東側 を
バルカン半島や黒海地方のローマ帝国属州を含め バルト海~地中海まで
スラヴ人 が 支配した。

スラヴ人の起源は、
ローマ側の史料が
スキタイ人、サルマタイ人と呼ぶ者 と

ゲルマン人軍団が
ローマ帝国に向かった際に残した エルベ川東部地域のゲルマン系集団
の 混合体 として形成された。

最近の研究では、

数世紀前(200年代前半)に
西方のライン川沿岸で フランク人とアレマン人が 誕生した
のと 同様に、

ビザンツ帝国 の 軍事的、経済的圧力のもとにあった
ビザンツ辺境地域 で スラヴ人 が 誕生した
と、もっともらしく 説明している。

  (注)ギアリは、最近の研究の結果に、賛同してないようです。

スラヴ人支配への変化は
強力な王の物語もなく、あまり目立たずに起こった。

スラヴ人自身の資料が 残っておらず、
ビザンツ帝国、ラテン世界 の 観察者による 理解や記録 も 乏しかったが、
スラヴ化の影響 は、きわめて深かった。

ローマ と 同盟を結んだ 西方の蛮族(ゲルマン諸部族)は、
ローマ の 政治体制、宗教、入植地 を 引継ぎ、
最終的には 完全なローマ人となったが、

スラヴ人の移住は、
ローマ の課税制度、農業、社会構造、政治組織
を 取り入れたり、
それを 基礎とすること が なかった。

スラヴ人の組織は、
ローマを模範とするものではなく、

その指導者も、
通常は、
ローマの富で 成功を買うようなまね を しなかった。

それ故に、
彼らの影響力は、
ゴート人、フランク人、サクソン人が及ぼした影響 を、
遙かに上回っていた。

  (注)ローマ帝国は、
     侵入してきたゲルマン民族に、
     金を渡して引き取らせることがよくありましたが、

     スラヴ民族は、
     原則として ローマの買収に応じなかった、ということです。

7世紀(600年代)を通じて
スラヴ人は、ドナウ川を越えてバルカン半島に少しずつ入っていた。

スラヴ人 は、
ゲルマン民族のような 税を取り立てる軍団としてではなく、
農耕民 として現れた。

従って、征服後、
先住民を スラヴ人の 言語構造 や 社会組織 に 組み込んだ。

こうした拡大は、
まとまりを欠き、急速に分散化した。

戦士 と同時に 農耕民でもある スラヴ人の征服 は、
2世紀前の 単に税収の移転だけだった ゲルマン人の征服 とは 異なっていた。

スラヴ人 は、
捕らえた兵士を 殺害したり、身代金を取って 売却した。

その地 に とどまった者は、
逃亡するか、スラヴ社会の農民層 に 組み込まれるか の決断を迫られた。

  (注)ゴート族やヴァンダル族などのゲルマン民族は、
     兵士の集団でしたので、

     多数のローマ人を支配するために、地域的に まとまらざるを得ず、
     その収入を、ローマの行政組織(徴税組織)に依存したのでした。

     これに対して、
     スラヴ人は、農民でしたので、

     先住者の農民を、駆逐するか、農奴にして、
     自らが、征服地に分散して耕作に従事したのです。

     ゲルマン民族に支配されたローマ人は、
     原則として税金さえ納めれば、従来の生活を維持できましたが、

     スラヴ人に支配されたローマ人は、

     移住するか、
     スラヴ人の下で農奴として下働きをするか

     の 選択を、迫られたのでした。

中世盛期に至るまで、
スラヴ人 の 言語 や 物質的文化 は、
東ヨーロッパ全体で、驚くほど均質であった。

これと対置されるのが、
内部の集権的権力 の 著しい欠如 だった。

スラヴ人の成功の鍵は、この権力の分散化 だった。

スラヴ人には、
王や有力な首長 が いなかったので、

ビザンツ帝国は、
スラヴ人を 滅ぼしたり、
帝国体制に 組み込んだりしよう とは 考えなかった。

スラヴ社会を、
大規模かつ階層的 に 組織化する場合、

必然的に、
外部から持ち込まれた指導体制 に従って 行われることになった。

スラヴ人の組織化のきっかけは、アヴァール人だった。

スラヴ人の軍は、
アヴァール人の指揮下に入り、

その他のスラヴ人は、
アヴァール人の支配を受け、
アヴァール王国が続く限り、その構成要素となった。

アヴァール人が現れる前から、
エルベ川~ドナウ川下流にかけて、
スラヴ化が 進行していた。

スラヴ人は、
新興の草原帝国 アヴァールに 押しやられる形で、
ビザンツ帝国との境界地域 を 窺うようになった。

6世紀後半(500年代後半)
スラヴ人が、ギリシア半島に初めて侵入した原因
は、これによって説明がつく。


< アヴァール族の進出についての ギアリの記述 >

558年 or 559年 ローマ帝国 ユスティニアヌス帝 に使節 を 送り
            毎年の報酬支払い と 引き換えに帝国の敵と戦うと申し出た

567年 カルパチア に 姿を現し、ゲピート族を打倒して アヴァール王国建国

 アヴァールのハン(支配者)  バヤーン(バヤン)
   在 位  562~602 40年間

   バルカン地方 の 支配権 を 確立し、
   ウティグール人、アント人、ゲピート人、スラヴ人を 戦い、
   20数年間で 巨大な多民族連合 を 作り上げた。

   ランゴバルド人が、
   パンノニアよりイタリアに移住後
   パンノニア(ハンガリー)に、確固たる支配を樹立した。

626年
アヴァールのコンスタンティノープルでの大敗北の後、
アヴァール人の周辺にいた 多くの集団 が 反乱を起こし、

西においては、
フランク人 と アヴァール・ハン国の間に、サモの王国、

東では、
ビザンツ帝国 と アヴァール・ハン国の間に、
複数の自立的な政体が、作り上げられた。

サモ の 王国は、

フランク人サモが、
現在のチェコ地域 で、アヴァールに反抗して、

生まれも様々な スラヴ人の一団 を、
戦闘的な集団へとまとめ上げ、35年以上にわたって統治した。

626年
アヴァールのコンスタンティノープルでの大敗北の後、
サモに率いられたスラヴ人が、
アヴァール王国の同盟軍から離れたが、

これは
敗北後の いくつもの反抗運動 の 一例に過ぎない。

10世紀(900年代)に、
クロアチア人、セルビア人として知られる集団 も、

626年の敗北後、
アヴァール・ハン国が、内部危機を迎えた この時期に、生まれた。

ブルガール人についても、
同様の起源 を みることができる。 

  (注)626年夏 アヴァール族のコンスタンティノープル攻囲

     622年~628年(6年間)
     ビザンツ皇帝 ヘラクレイオスが、ペルシア遠征しました。

     遠征中の626年夏に
     ペルシアが、アヴァール族と同盟して反撃の為に
     皇帝の留守を狙って、コンスタンティノープルを攻撃しました。

     ペルシア軍は、
     対岸のカルケドンに陣を取り、
     実際にコンスタンティノープルを攻撃したのは、アヴァール族でした。

     アヴァール族は、
     スラヴ族やゲピート族、ブルガール族を引き連れて、

     7月27日に
     海陸からコンスタンティノープルの攻囲を開始して、

     8月10日
     総攻撃をかけましたが、壊滅的な打撃を受けて敗退しました。

       <出 所> オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」140㌻


     ギアリは、
     敗北後アヴァール人の中核部分は、
     勢力 を かなり衰えさせたものの、滅亡せずに なんとか持ちこたえた
     と、記述しています。 

     また、
     アヴァールの最後について、

     シャルルマーニュが、
     ハンガリー の アヴァール王国中心部まで攻め込んだ。

     これにより、
     アヴァール王国は、多民族的な連合軍 を 維持できなくなり、

     その後、
     大きな戦いもないまま 1世代のうちに
     アヴァールは、歴史から消えてしまった
     と、記述しています。

     シャルルマーニュ の アヴァール戦役

     791年 レーゲンスブルクで交渉決裂後、ハンガリー遠征

     795~796 第2次ザクセン戦役終了後 再開し
             息子のイタリア王ピピンが、パンノニア に 遠征して
             アヴァール王国 を 滅亡 させ、フランク王国 に 併合し
             →  アヴァール 辺境領 (オスト マルク)を 設置した

      <出 所> 五十嵐修 「地上の夢 キリスト教帝国」 150㌻


以上が、ギアリの記述の抜き書きですが、

この本を読んで、

スラヴ人に対する基本認識ができたことを喜んでいると共に、
歴史書を読む際に、

西ヨーロッパやビザンツ帝国の視点から、
スラヴ人やアヴァール人を見ていたから分からなかったのだな、
と、痛感しました。

我々は、
西ヨーロッパの学者の本や
西ヨーロッパに学んだ日本人の本を読んで勉強しています。

彼らの視点は、
当然のごとく西ヨーロッパにありますので、

例えば、
アヴァール人の侵入から崩壊までを、
アヴァール側からの視点で記述するのではなく、

西ヨーロッパやビザンツの歴史を記述する中で、
関係する場合にのみ、その時々の事象を記述しています。

ですから、
スラヴ人のような 西ヨーロッパ人から見ると二流の歴史の担い手は、
必要がない限り記述されないことになるのだろうと思います。

だからこそ、
西ヨーロッパ人の書いた書物を読む際に、
読者側が意図的にスラヴ人について
自分なりの整理をする必要があるのでは、
と、思います。

また
私は、最近歴史の本を読むことは、
ジグソーパズルをするようなものだな、
と、つくづく感じています。

歴史の一つ一つの事象が、
ジグソーパズルのピースのようなもので、

勿論、
一つ一つのピースを丹念に蓄積することが、
最初の作業として必要ですが、

それ以上に、
ジグソーパズルのピースを、歴史書を読む際に、
我々読者側が、主体的に意味づけをして、

それぞれのピースを組み合わせる努力が、
必要なのではないでだろうか と、感じています。

また、その際に、
ピース一つ一つの意味を、理解するためにも、

ピースを組み合わせて できあがるであろう歴史の全体像 を、
概略でも良いから描こうとする努力も必要だと思われます。

これは、
今回のご紹介で割愛しましたが、

オストロゴルスキーの「ビザンツ帝国史」を以前に読んで、
オストロゴルスキーのブルガール人の記述を、
一つ一つのピースとしてしか理解できなかったものが、

今回ギアリの文章を読んで、
いくつものピースが、あっという間に結合して、

初期のブルガール人の歴史が理解できるようになったことで、
痛感した次第です。

更に、
歴史、特に世界史は 暗記科目だ、と嫌われています。

これは、
ピースを、一つ一つ暗記せねばならない
と、思われるからだろうと思います。

でも、
ジグソーパズルのピースの山を集めることは、
ジグソーパズルを始めるための最初の行為であり、

ピースの山を積み上げても、
ジグソーパズルを解いたことにならない
と、同様に、

歴史の事象を暗記することは、
歴史を学ぶ前提作業のようなものであり、
歴史を理解したことになりません。

ただ、
暗記しておけば、

暗記の際に、
自分の頭の中で いろいろな思考 が 自ずから生じてきて、
歴史を考える際に、より深く考えられる利点はありますので、

特に 暗記がそんなに苦にならない方には、
できるだけの暗記を 推奨いたしますが、

歴史を考える際において、
暗記することよりも もっと大切なことは、

どのような視点で、ピース一つ一つを認識して、
歴史の全体像を構築していくかだろう と、思います。

ホイジンガ-は、

 「物理と対比して、結論的に言うならば、
  歴史的知識や理解の物理的完全性などは、
  どんな点からも考えられない。

  誰も、世界史や大帝国の歴史 の
  ありとあらゆる細部までは知ってはいない
  という意味ばかりでなく、

  もっと深い意味、

  つまり、
  一つしかない対象についての歴史的知識は、

  A氏の頭とB氏の頭とでは 違って考えられてしまうし、
  たとえ、
  あらゆる書物 を 共に読み通していても、同じことが起こる」
  と、記述しています。

   <出 所>ホイジンガ「文化史の課題」(7㌻、東海大学出版会)

私は、
歴史のピースピース一つ一つの解釈が、人により異なり、

従って、
できあがった歴史像も 全く異なるからこそ、
歴史はおもしろいと感じています。

今回 ギアリ-の本を読んで、
ギアリーという秀でた歴史家 の すばらしい視点から、
いくつものピースを組み合た 見事な歴史絵画を 十分に堪能させて頂いき、

久しぶりに
読後の余韻に浸れる本 を読んだなと、感謝しています。


    次回 「オドアケル」              
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-4c22.html



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