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2009年4月23日 (木)

アンヌ・ド・ブルターニュ

最近 渡辺一夫著作集を 第1巻より読み始めていますが、

第3巻の「胎児監理人」の話 という大変興味深い文章の中に、

アンヌ・ド・ブルターニュについて、次のような文章に出会いました。

           

「しかし、アンヌ王妃は、ルイ12世との間に男子相続人が生まれないことになった時、

 自分の資産であるブルターニュ公領を、ヨーロッパのしかるべき王家の嫡男に譲ろうと思い、

 当時 まだイスパニア王であった 後の神聖ローマ・ドイツ皇帝カール5世に眼をつけ、

 これに娘クロード姫を嫁がせようとした。

 近代国家の誕生前のこと、

 所謂国境よりも、割拠した諸王侯の勢力圏のほうがはっきりしていた封建時代の

 余韻が残っていることであったから、

 国境を固め、国防に全力をあげている現代の国家意識では律し得ないようなことが

 起こりえた。」

 (「渡辺一夫著作集3」25㌻)

              

この文章を読んで、アンヌの心境は、どんなものだったのだろうか、と、

天涯孤独で薄幸なアンヌへの同情が、従来にも増して強く感じられたのです。                

                

                

アンヌ・ド・ブルターニュは、

1477年に誕生して 1514年 に亡くなっています。

37才の誕生日まで あと約2週間 という 享年 36才の若さでした。

           

アンヌの両親は、アンヌが子供の時に没しています。

                

母のマルグリッドは、 1486年 アンヌが9才のときに亡くなっています。

           

父のブルターニュ公フランソワ2世は、1488年 アンヌが11才のときに、

3年間にわたって ルイ・ドルレアン(後の ルイ12世)と共に 戦った フランスとの戦いに敗れて

8月19日 ヴェルジュ条約を締結した 半月後 の 9月9日に、亡くなっています。

             

更に、妹のイザボーも、父が没してから2年後の 1490年に亡くなっています。

               

父 フランソワ2世 が締結させられた、ヴェルジュ条約には、

アンヌは、フランス王の許可なしには、結婚できないことになっていました。

これは、ブルターニュ公国をフランスに併合するため、

フランスが 戦いに敗れたフランソワ2世に押しつけた条項でした。

                 

国が敗れた上に、身よりもない まだ小学生の年齢である 11才の アンヌが 引き継いだブルターニュ公国は、

外には、公国を併合しようとするフランスが控えていて、

内には、フランスより利益供与を受けて、自分の国より自己の利益を優先する大貴族が、反乱を繰り返していたのでした。

                 

早速、公国を引き継いだ アンヌに、

公国の総司令官で 後見人のリュー元帥と アンヌの養育係の フランソワーズ・ド・ディナン (ラヴァル伯爵夫人)が、

フランソワーズ・ド・ディナンの異父弟 アラン・ダルブレとの結婚を、強引に申し入れてきたのです。

                 

これは、4年前に 父 フランソワ2世が、

アラン・ダルブレの軍事援助を期待して、アンヌとの結婚を約束していたためですが、

彼らの目的は、この結婚によって ブルターニュ公国を奪取しようとすることだったのです。 

                      

そうこうしているうちに、

年が明けた1489年1月初め フランスが、

ヴェルジュ条約を無視して、ブルターニュ公国に宣戦布告し、攻め入ってきました。

         

更には、1月半ばには、

リュー元帥とフランソワーズ・ド・ディナンとの結婚話の交渉が決裂し、

彼らは、それではと、アンヌに背いて、ブルターニュ公国のナントを拠点として ブルターニュ公国を分裂させてしまいました。

              

アンヌは、

2月5日に レンヌでブルターニュ女公として即位していますが、

まさに、戦争の最中の即位でした。

        

この時のフランスとの戦いは、

イングランドやスペインからの援軍や、ブルターニュ公国の住民の蜂起により、フランス軍を押し戻し、

7月 フランス王 シャルル8世が、

フランスの北や東から攻められるのを避けれるために マクシミリアン1世と締結した「フランクフルト条約」により、

アンヌが 両者から ブルターニュ公国の君主として認められて、終了しました。

                 

その翌年の1489年3月から5月にかけて 2ヶ月間、

アンヌは、ブルターニュ公国各地を巡幸しています。

          

この巡幸は、明治天皇や昭和天皇の巡幸 と 同じような効果をもたらしたようで、

アンヌは、その後ブルターニュの人々の心に「良き女公」として、記憶されたのでした。

             

その3月に、ハプスブルグ家 の マクシミリアン1世が、アンヌに結婚の申し込みをしています。

マクシミリアン1世は、ブルゴーニュ公 シャルル突進公の娘 マリアが没してから再婚していなかったのです。

              

この結婚交渉がまとまって、

1489年12月19日に、アンヌとマクシミリアン1世は、レンヌのサン・ピエール大聖堂で 結婚したのでした。

但し、結婚式に、マクシミリアン1世は出席せず、

マクシミリアン1世にアンヌとの交渉に派遣された ボルハイム元帥が、

新郎 マクシミリアン1世の代理人として 出席したのでした。

            

アンヌは、現在だったら まだ小学生の12才で、自分の判断で マクシミリアン1世との結婚を決断しているのです。

まだ子供といえるアンヌの双肩に、ブルターニュ公国の将来が託されていたのです。

この時のアンヌの気持ちは、どんなものだっただろうと、いろいろ考えさせられるものがあります。

                

                   

この結婚を聞いた フランス王 シャルル8世は、

激怒して、すぐさま ブルターニュ公国に攻め入ってきました。

            

激怒した理由は、2つあります。

1つは、

アンヌの結婚にはフランス王の許可が必要と定めた ヴェルジュ条約に違反していることです。

アンヌの今回の結婚は、アンヌの結婚相手を指定して、フランスのものにできると思っていたブルターニュ公国を失うことになるのです。

          

もう1つは、アンヌの結婚が現実になると、

ブルターニュ公国を自分のものにできないどころか、敵対する マクシミリアン1世のものとなり、

フランスは、

西はブルターニュ、北はフランドル、東はブルゴーニュと、

マクシミリアン1世に3方面から包囲され、フランスの安全が脅かされるからです。

             

「ヴェルジュ条約に違反する 」との シャルル8世の言い分は、

フランスは、ヴェルジュ条約を締結してから半年も経たないうちに ブルターニュ公国に宣戦布告していますので、私には勝手なものと思われます。

でも、歴史というものは、勝てば官軍なのです。

              

アンヌは、マクシミリアン1世に救援を求めましたが、

ちょうど同じ時期に、ベーメン・ハンガリー王が亡くなり、

マクシミリアン1世は、ハンガリー王の即位を主張して、戦っている時でしたので、

              

1491年3月のニュルンベルクの帝国議会で、

マクシミリアン1世が 父の 皇帝 フリードリヒ3世に、

ブルターニュ公国への救援を要請した時に、

「ハンガリー問題を解決せよ」と拒否されて、アンヌへの救援に赴くことができませんでした。

              

このため、アンヌは、レンヌに閉じ込められて、

10月に降伏して、

11月15日に「レンヌ条約」が締結されました。

この時、アンヌは、シャルル8世との結婚に承諾させられ、

11月19日には婚約式、

12月6日には ロワール川中流の ランジェ城 で 結婚させられたのです。

          

この時の アンヌの気持ちは、どんなものだったのでしょうか。

特に、マクシミリアン1世に対して、どんな感情を持っていたのか、いろいろ想像させられます。

                  

聡明な上に、子供とはいえ 大変な苦労を重ねてきたアンヌのことですから、

「マクシミリアン1世が救援に赴いて来てくれなかったことに対して、感情を害していなかったのでは? マクシミリアン1世への思いは 残っていたのでは?」

と、何とはなしに 思っていました。

                

「アンヌが、マクシミリアン1世の孫の カール5世 と 娘のクロードを結婚させようとした」

との 渡辺先生の文章を読んで、2つの思いが生じてきました。

              

1つは、

「やはりそうだったのか、マクシミリアン1世が 忘れられなかったのかな?」との思いですが、

もう1つは、

「アンヌにとり最も重要だったのは、ブルターニュ公国の独立だったのだな」との思いです。

                

どちらが正しかったのか、

はたまた、 両方とも正しかったのか、

これからアンヌの記述を読む際に、考えていこうと思っています。

             

アンヌは、その後、ルイ12世と再婚していますが、長くなりますので別の機会にお話しさせて頂きます。

              

               

ところで、

シャルル8世のアンヌとの結婚は、マクシミリアン1世にとり、全くひどい話でした。

正式に結婚した妻を奪われたばかりでなく、

娘 マルグリットのシャルル8世との婚約が 解消されているのです。

                

マルグリットは、シャルル8世が成人に達した 1490年頃より 王妃と呼ばれていたようです。

(日本の歴史書では、マルグリットの最初の夫は シャルル8世 と 記述されているのが多いようです。)

                

シャルル8世とマルグリットは、

1482年12月 アラス協約により 婚約することになりました。

            

このアラス協約は、

シャルル8世の父 ルイ11世が、フランドルの市民と交渉した結果を、マクシミリアン1世に押しつけたものでした。

当時 マクシミリアン1世は、フランドルともフランスとも戦う力がありませんでした。

           

ちなみに、マルグリットは、1480年に生まれていますので 当時2才の幼児でした。

(シャルル8世は、1470年生まれですので、12才です)

            

アラス協約は、単なる「婚約の取り決め」だけでは ありませんでした。

             

ルイ11世は、

マクシミリアン1世の妻マリアの父 ブルゴーニュ公シャルル突進公が戦死した後、

ピカルディ、アルトワ 及び フランシュ・コンテ 等のブルゴーニュ公国の領土を、火事場泥棒的に占領していたのでした。

             

マクシミリアン1世に押しつけた アラス協約には、

「これらの領土は、一度マクシミリアン1世に返還するが、

 マルグリットの婚資としてフランスのものとする」との条項があったのです。

              

マクシミリアン1世の娘を奪うと同時に、

どさくさに紛れて簒奪した領土も、フランスのものにしようというものでした。

             

アラス協約の締結の半年後の1483年6月に 、

シャルル8世とマルグリットの婚約式の後、マルグリットは、

人質同然に フランス アンボワーズ城に連れて行かれて、

その後 シャルル8世の姉 アンヌ・ド・ボージュ に養育されたのでした。

            

シャルル8世は、

アンヌとの結婚により、マルグリットとの結婚(婚約)は解消しましたが、

マルグリットの婚資の領土は 返還しようとしませんでした。

           

このため、マルグリットは、

1493年5月 サンリス条約で、婚資問題が解決するまで、再度 人質同然に フランスに留め置かれていたのでした。

            

フランスは、

アンヌとマルグリットの2人の女性を天秤にかけて、アンヌを選択したのではありません。

天秤にかけたのは、ブルターニュ公国とマルグリットの婚資の領土でした。

               

フランスにとって、ブルターニュ公国は、

2人の王が 他の誰よりも優先して アンヌを妻にし、獲得するだけの価値があった領土なのです。

この2つの結婚により、ブルターニュは フランスの領土となりましたが、

ブルターニュの人々は、フランスの植民地支配に苦吟したそうです。

          

ですから、

アンヌの娘 クロードと、ハプスブルグ家の カール5世との結婚を、

フランス王家が認めるわけがありませんでした。

クロードは、アンヌが没した数ヶ月後、

ルイ12世の次のフランス王 フランソワ2世と結婚しています。

             

どうして 形だけでも クロードとカール5世との婚約が成立したのか、

しかも、数年後 更に確認の条約まで締結されたのか、

訝しく感じ、機会があったら調べてみたいなと思っています。

          

             

最後に、カール5世の婚約者について 少しお話しさせて頂きます。

          

祖父のマクシミリアン1世は、「最後の騎士」といわれた皇帝ですが、

その名にふさわしく、国の存亡の危機に瀕した2人のお姫様から、救援を求められています。

1度目は、白馬?にまたがって 駆けつけ、お姫様を救出して めでたく結婚したのですが、

2度目が、それが かないませんでした。

             

これに反して、孫のカール5世は、

赤ん坊の時から、ふられっぱなしで、かわいそうなくらいなのです。

先ほど述べたクロードとの婚約は、1500年8月に成立しています。

カールは、1500年2月に生まれ、

クロードは、1年前の1499年に生まれています。

アンヌは、

カール5世が生まれた直後に話を進めて、8月には婚約まで持ち込んだのです。

しかも、1504年 ブロワ条約で、婚約を確定させています。

               

ところが、

1506年に、アンヌの2度目の夫ルイ12世により、この婚約が破棄されています。

           

カールにしてみたら、

生まれたての赤ん坊の時に約束された未来の奥さんが、

6歳の時に、生涯の仇敵となるフランス王に奪われたのでした。

                

さらに、カール5世の悲劇は続きます。

              

カール5世は、その後、イングランド王の娘 メアリーと婚約したのですが、

このメアリーも、アンヌ没後、フランス王ルイ12世に奪われてしまいました。

最初にご紹介した渡辺先生の「胎児監理人」の話は、このルイ12世とメアリーの結婚後の話なのです。

             

このように、カール5世は、

人生の初めにおいて、自分の知らないところではありますが、

2度もフランス王家により 婚約者を奪われているのです。

                 

カール5世は、生涯フランスと戦い続けた皇帝ですが、

その戦いは、実は 赤ん坊の時から始まっていたのでした。

              

              

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