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2009年4月 3日 (金)

「職業としての学問」

マックス・ウェーバー著

「職業としての学問」(河出書房「世界の思想」18)

                                

          **********

               

大学の1年目の最初の学期に読んだ本を、40年ぶりに読み直してみました。

           

ウェーバーは、

「物事の本質」を最短距離で掴み、

分かりやすい言葉で説明ができる史上でも有数の天才だな、と、感嘆しました。

                

今回感心したのは、次の2点です。

第1点は、

先ず、「進歩」について、

ヘーゲルみたいな馬鹿をいわないで、

「無限に進歩するものだ」と、

その本質を簡潔に述べておられるのは、さすがだと、感心しました。

         

次いで、「学問の性格」を、

永遠に進歩する故に、現在の業績は、将来追い越される性質があり、

この追い越されることを目的とする営為であるし、自分も覚悟している、

と、記述されておられます。

         

これは、なかなか認めにくいことを、ずばっと言い切っておられて、

ウェーバーが、世紀の大学者たる所以だな、と、感心しました。

           

逆に、

「ことの本質」、言い替えると「真理」を述べている業績は、

無限に進歩する学問の中で、いつまで経っても価値を失わず、

永遠の生命を持ち続けるものだと思います。

            

ウェーバーが、

「学問は、永遠に進歩するものだし、自分の業績も また、追い越されるものだ」

と、言ったことにより、

本書(正確には本講演)が、永遠の価値を持つに至ったと思います。

             

時代が経っても追い越されることなく、燦然と聳え立ち続ける「不朽の名著」というものを、

ウェーバーは、「そういうものはあり得ない」と否定することによって

証明されておられるのだな、と感じました。

            

              

第2点は、

「学問は、前提に基づくものであり、学問の前提自体を証明することは不可能である」

とおっしゃっておられる点です。

              

ウェーバは、いろいろな学問を例に挙げて、述べておられますが、

この部分が本講演の白眉だと思います..

         

例えば、医学について、次の様に述べておられます。

 「医学は、生命の維持、苦痛を和らげるということが、肯定されるとを前提にしている。

  危篤の病人が、死にたいと嘆願しても、

  医学の前提 と 刑法典のために、患者の望みを叶えるわけにはいかない。」

           

また、美学についても、次の様に述べておられます。

 「美学も同じである。

  美学は、芸術品が存在することを前提にしている。

  芸術品が存在すべきかどうかは、美学の問うところではない。」

              

医学について、

まさに現在の医学が苦悩していることを、

100年前にそれが本質だと、喝破されておられのに、びっくりしました。

            

医学は、

病気を治すこと、

患者を病気で死なせないこと、

を、永遠の目標にしてきたのだと思います。

           

現在、従来だったら生命を維持できないような末期の患者が、

「もう、これ以上苦しみたくないから、死なせて欲しい、

 スパゲッティーみたいな管を外して欲しい。」

と、要望するほどに、医学が進歩したのですが、

           

ウェーバーが言うように、

上記の患者の願いに対して、医学も法律も、

全てにあてはまる判断基準はこうですよ、との回答を持っていません。

               

              

「前提」を、議論せずに「所与」のものとし、「善」であるとして、

そこからスタートしているのが、学問の本質なのです。

           

別の言い方をすると、

大学は、学問という「技術」を教えるところであり、

「真理」などというものは、

「八百屋で魚を願うものだ」と、喝破されておらるのです。

              

音楽学校が、楽器の弾き方を教えるものであり、

美術学校が、絵の描き方や、彫刻の仕方を教える

のと、同じように、

法学部では、法律の解釈の仕方、

経済学部では、経済の分析の仕方という「技術」を教えるところなのです。

            

ウェーバーがいうように、

美学という哲学の一種でさえ、

芸術の解釈の仕方(=「技術」)を教えるものであり、

そもそも芸術とはというようなものは、対象としていないのです。

                  

我が国では、明治以来 大学とは、「学問の蘊奥」を極めるところである

と、もっともらしく、ありがたそうな言われ方が、されてきましたが、

ウェーバーは、

これは「もっともらしい嘘である」と、ばらしているのです。

               

今回省みて、

40年前は、全くこの本の本質を理解できていなかったな、

と、感慨深いものがありました。

         

当時でも、勿論、書いてある字面(じづら)は、理解していました。

しかし、ウェーバーが述べている「学問の本質」を、理解できていなかったのです。

             

大学に入った頃は、

学問というものは、私なんか及びもつかない、雲の上の存在であろうと、想像し、

学問という「技術」の養成所であるとは、これっぽっちも想像しませんでした。

             

ですから、専門課程(法学部)にいっても、

つまらない法解釈のテクニックの講義ばかりで、

いつまで経っても、

学問というものの 「奥の院」の「ありがたい入口」さえ教えてもらえないのだな

と、思っている内に、「はい、卒業」ということになりました。

              

(私は、教養課程は、勿論、専門課程でも、殆ど勉強せず、

 他のこと(ゲバ棒ではありません)をしていました。

 幸い、学園紛争で、試験がなくなりレポートとなったのを幸いに、

 殆どの単位を取ったので、卒業できたのです。

 周りの友人は、まじめに勉強していましたので、

 「勉強せずに卒業した100年に1人の人間だな。でも ほめられないな。」

 と、苦笑しています。)

                 

今から思うと、

大学の学問を学ぶ前に 本書を読んで、「学問とはこういうものだよ」と、言われても、

理解できるはずがなかったな、と思います。

その意味で、

専門課程にいってから、もう一度この本を読んでおれば、理解できたのでは、と思いました。

          

(理解できても、それでは、学問に いそしんだか どうかは、分かりません。

 多分いそしまなかっただろうと思いますが・・・。)

           

最後に、

勉強しなかったのに 変な話ですが、老婆心ながら申し上げますと、

大学での勉強とは、学ぶ科目が違うだけで、

することは、高校時代の勉強と同じことなのです。

                

学問を「研究」するとは、

高校時代した勉強と同じような勉強をして、その学問を理解し、身に付けた人が、

その上で、自分独自の考え、仮説を作り出すことなのです。

この 自分独自の考えというものは、

勉強している中から 自ずからわき出てくるものだろう と、思います。

勉強して、学問を身に付ける前に、研究ができると思われておられるとしたら、

それは錯覚だろうと思います。

               

私が、大学に入学した時に、勝手に想像して、勘違いしたように、

「大学での学問とは、今まで(高校時代)とは違うのでは」との 過度な期待 を、持たれないことを 願っています。

             

大学に入学されて、期待に胸をふくらませておられる方がおられましたら、

バケツで水をまくようなことを申し上げたことを、お詫びします。

              

           

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