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2009年6月14日 (日)

「フランス人の歴史」 ・・・ 第3回 フランス守護聖人 トゥール の マルティヌス(マルタン) ・・・

P.ガクソット著

「フランス人の歴史1」(みすず書房)

                                

          **********

               

「フランス人の歴史」を読んでて、気になった3つ目の点として、

フランスの守護聖人 トゥールの聖マルティヌス(サン・マルタン) についてのガクソットの記述を ご紹介させて頂きます。

             

             

トゥールのマルティヌス(サン・マルタン)の生没年 は、

316頃~397 享年 81才で、4世紀のローマ人です。

            

父は、ローマの軍人で、

父の駐屯地のサバリア(現在のユーゴ)で生まれました。

(注)誕生地 異説 パンノニア(ハンガリ)

            

その後 イタリアに戻り、パヴィア で育ちました。

        

340年頃 ローマの騎兵となり、フランスのアミアンで勤務しています。

           

ローマ軍に勤務中に、

歩いている時に 裸同然の物乞いが施しを求めてきたのですが、

金を持っていなかったので マントの半分を裂いて片方を物乞いに施したところ、

         

その後に 夢の中でマントの半分をまとったキリスト が現れ、

「その男こそ私だ」と告げられた との 有名な逸話があります。

            

このキリストに与えたマント Capella が、チャペルに転化して

教会が、チャペルと呼ばれるようになったそうです。

            

343年頃

キリスト教の洗礼を受け、軍隊を退役して、

ポワティエ司教 ヒラリウス(イレール)に 司祭に叙階された後に、

イタリア各地で隠修士の生活を送りました。

(注) 軍隊の退役時期は、

     343年受洗直後との説と、356年頃との説があります。

            

360年頃 ポアティエ近傍で

西ヨーロッパで最初の修道院 リグジェ 修道院(リギュジェ Liguge)を 建立しています。

           

371年頃

トゥールの第3代司教に就任し、

就任後 マルムーチエ 修道院(マルムティエ Marmoutier)を 建設しました。

             

ガリア各地を巡回説教して歩き、

397年11月8日 トゥールの約50km西のカンド の町を巡回中に没しました。

             

508年

クローヴィスは、トゥール のマルティヌス の バシリカ(教会)で戴冠式を挙行しています。

その後現在に至るまで、

フランス守護聖人の一人として、フランス人から非常に尊敬されている聖人です。

                 

                 

<トゥールのマルティヌス  に関する ガクソットの記述>

                 

1.マルタンが、彼の聖職者、特に 彼を継いだ司祭ブリースや多くの司教達と

  かなり仲が悪かったことは確かである。

           

  彼の僧侶としての、或いは 奇跡を行うものとしての 名声は高く、

  371年か372年には、トゥールのキリスト教徒が、彼を司教の選んだほどであった。

         

  選挙は、その州の司教達の立ち会いのしたに行われる。

  これらの司教達は、マルタンを司教へ叙階するのを拒否することもできた。

       

  彼らは、

  マルタンが余りにもみすぼらしくて、衣服が汚れ、

  髪にはろくに櫛も通っていなかったことを非難した。

        

  しかし、

  彼らは、民衆の満場一致の投票の抗しきれずようやく譲歩した。

        

  後になって、

  彼は肉を絶ちすぎるとか、

  粗毛の衣服を着けているとか、

  豪華な会食を避けるとか、

  車でなく、徒歩やロバで田舎を廻るとか、非難された。

  また、

  下にいる司祭達に、事務的な仕事を任せすぎる、

  特に 彼に仲裁を求めてくるものの裁きを任せすぎるという非難もあった。

         

  しかし、こうした素朴な外観、偉ぶらない態度、慎ましい生活が、

  この聖人の名声を一層高めたのである。

            

  出所 ガクソット「フランス人の歴史1」94㌻

            

           

2.397年の死まで、聖(サン)マルタンの最も大きな仕事の一つは、

  彼の司教区と彼が呼ばれて行くいたる所で、

  グラティアヌス帝の異教排斥を許可した勅令を実行したことである。

              

  マルタンは、

  村々を駆け巡り、弟子達の一隊を引き連れて、

  まっすぐ異教の神殿へ赴き、手短に説教して、取り壊しを指導した。

              

  偶像は粉々に破壊され、壁は倒され、聖なる松は切り倒された。

  時に、農民達が反抗して、乱闘騒ぎになることもあった。

  皇帝の兵士達が司教に力を貸した。

          

  しかし、

  彼(マルタン)は、再建するために、破壊したのだ。

  異教の神殿の土地と財宝は、法律によってキリスト教教会のものとされた。

  メルクリウスやキュベレが祀られていた場所に、礼拝堂や説教所が建てられ、

  マルムーチエの司祭が、一人それを管理するために残された。

            

  出所 ガクソット「フランス人の歴史1」95㌻、96㌻

              

               

ご紹介した文章についての感想を述べさせて頂きます。

        

先ず ガクソットが、

同僚の聖職者達の マルタンへの悪評 を 紹介することにより、

マルタンが、

他の聖職者より、キリスト者として如何に秀でていたのかを、記述していますが、

これは、第三者から見ると、

当時の教会が、如何に堕落していたのか

マルタン以外の大部分の聖職者は、キリストより自分の利得を優先していたことを、

ガクソットが、無邪気に、無防備に 表白しているように思えます。

                     

このような教会組織全般の問題点に対する批判の視点がないことが、

読んでいて非常に気になる点です。

              

            

次に、ガクソットがマルタンの最も大きな仕事として紹介している異教撲滅活動は、カトリックの最大の問題をこれまた無邪気に表白しているように思われます。

          

マルタンのやっていることは、住居不法侵入であり、器物破損ではないでしょうか。

更に、乱闘騒ぎを起こして、住民に障害を与えたら、傷害罪だと思います。

このように、現在でしたら刑法上の犯罪を犯したことを、ガクソットは最大の業績と評価しているのです。

              

何故そうなるのでしょうか。

           

私は、以前ご紹介したルターの「神の捕らわれている」との思想が、

マルタンにも、ガクソットにも共有しているからだろうと思います。

       

別の言い方をすると、

十字軍が、中東で行った蛮行と 同じ考え方であり、同じ性質の行動なのだろうと思います。

              

即ち、マルタンは、

「自分の考えは、神によりもたらされたものだから、絶対に正しい」との信念に基づき、

異教徒を人間扱いせずに、好き勝手し放題の蛮行を繰り広げたのでしょう。

           

異教に対して、

マルタンみたいな蛮行を繰り広げることを、キリストが本当に命令したのか、

私には疑問に思われますし、

マルタンの蛮行は、

キリストの教えではなく、

カトリックの身勝手な組織の論理によるものと思われますが、

ガクソットにとっては、

キリスト教を広めるための キリスト教徒としての模範だと思われるのでしょう。

           

フランスの有名な歴史家の一人であろうと思われるガクソットが、

何故私でも分かることが理解できないのかと、不思議でなりません。

         

            

           

               

            

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コメント

お返事ありがとうございます。私は洋の東西を問わず、歴史大好きなのですが、小説だけでなく、漫画も好きです。名作「ベルサイユのばら」で革命史の流れを知り、「アルカサル」でペドロ一世を知り、現在は「チェ-ザレ」がどのように進行するのか楽しみです。
 日本の漫画家の皆さんはほんとにレベルが高いです。
最近絶版になっていた安彦良和さんの「ジャンヌ」を手にいれ、百年戦争についても読み直しています。
主要登場人物は英、仏、ブルゴ-ニュ、ブルタ-ニュと多岐にわたりますけど、ほとんど全員が聖王ルイの子孫であるところが・・・聖王も自分の子孫たちがこうまで血で血を洗うことになるとは予想だにしなかったでしょう。

投稿: レジ-ヌ | 2009年7月 9日 (木) 01時09分

コメントありがとうございました。

シモン・ド・モンフォールは、私にとっても興味ある人物です。

父がアルビジョワ十字軍、
息子が、シモン・ド・モンフォールの議会、
孫ギー・ド・モンフォール が、父が敗戦後、ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューに身を寄せたのですが、1271年 イタリアのヴィテルボでコンウォール伯リチャード(大空位時代のドイツ王)の息子ヘンリーを、父の復讐のために殺害していますね。
また、ギーの兄弟のジャンは、その後もシャルル・ダンジューに仕えていますね。

この辺の経緯は、ホームページ「ヨーロッパ中世史年表」をご覧いただければ幸いです。

http://homepage2.nifty.com/hj-hiyama/

なお、もしよろしければ、シモン・ド・モンフォールの関連年表を送付しますので、ホームページよりメール下さい。

聖王ルイは、大変な大作だけに、読むのも一苦労だったのではないでしょうか。
あれだけの大作をお読みになって、歴史にはまる人がおられることを知り、嬉しくなりました。

これからもよろしくお願いします。

投稿: かんりにん | 2009年7月 4日 (土) 13時28分

シモン・ド・モンフォ-ルについて検索していてこちらのペ-ジにたどりつきました。
たくさん本を読んでおられますね。
 私はジャック・ル・ゴフの聖王ルイを読んで以来、中世フランスにはまっています。これからも読ませてください。

投稿: レジ-ヌ | 2009年7月 4日 (土) 00時01分

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