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2009年6月 3日 (水)

「フランス人の歴史」 ・・・ 第2回 カトリックが、アリウス派 を 嫌悪をする理由 ・・・

P.ガクソット著

「フランス人の歴史1」(みすず書房)

                                

          **********

               

「フランス人の歴史」を読んでて、気になった2つ目の点は、

ガクソットは、信仰心篤いカトリック教徒だな と、強く感じ、               

それ故に、

「カトリックが、何故アリウス派に、あれほどの嫌悪感を示すのか」

との疑問に答えてくれているな、感じられたことです。

                 

                 

<アリウス派 に関する ガクソットの記述>

                 

(ローマ)帝国内に定住したゲルマン人達は、アリウス派の教義を信奉していた。

           

これ(アリウス派)は、

三位一体説 の「父なる神」にのみ 永遠性と創造主たる性格 を 認めるもので、

         

「子たるキリスト」は、

彼(「父なる神」)によって「創造されたもののうちの 第一」であり、

神からの言(ロゴス、神の子) と 呼ばれる光栄 は 有するが、

「神と同じ者ではない」とする教義である。

       

この説(アリウス派の説)は、

カトリックの玄義(ドグマ)を理解するまでに至らない異邦人(バルバール)の頭に

ちょうど適していた。

             

4世紀においては、この異端と戦うことが、教会の大きな任務であった。 

(教会の中で)ジェローム(ヒエロニムス)とオーギュスタン(アウグスティヌス)が名をあげた。

           

まさに、

「神秘がなければ、宗教もなかったであろうし、

 理解できないことがあるから、信心もおこるのである。

 人を贖うために死んだ人の子(キリスト)が、永遠(神)でないならば、

 キリスト教も存在しないであろう。」

           

異端説が、

理屈にあっていて、粗野な精神にも分かりやすいだけに、

教会にとって 一層恐るべき脅威となった。

            

人々の心を満たし、知的生活の一部となっているアリウス派の教義に対して、

一種の恐怖感が存在した。

        

その上、アリウス派は、カトリックの正統派と大変重要な点で異なっていた。  

それは、

彼らが、聖職者を持たないか、

少なくとも 彼らの聖職者は、国家の中で地位を持たないということである。

          

  出所 ガクソット「フランス人の歴史1」100㌻

            

              

ガクソットの記述を、抜き書きしながら コメントさせて頂きます。

           

私は宗教を信じない人間ですので、

以下のコメントは、

無信仰の人間が、歴史より学んだ宗教に関する見方である点、お許し下さい。

(宗教を信じない者でも、宗教を考えることもあり得ることをご理解下さい。)

            

1. 「この説(アリウス派の説)は、

    カトリックのの玄義(ドグマ)を理解するまでに至らない

    異邦人(バルバール)の頭に、ちょうど適していた。」  

         

アリウス派を信じた人は、ゲルマン人だけでなく

東ローマ(ビザンツ帝国)のインテリも含まれていたのです。

            

そもそも、アリウス派が生じてきたのは、エジプトやシリアの東方世界であり、

この東方世界は、

ずっと後の 12世紀ルネサンスと言われる時期になって

ようやく西欧の社会が理解できるようになった

ギリシア・ローマの文明を自分のものにしていていて、

当時のフランクなどよりは、よほど高度の文化の持ち主でした。

          

アリウス派の人々は、ガクソットの言うような粗野で知的レベルが劣っているから

カトリックの玄義(ドクマ)を理解できなかったのではありません。

                    

カトリックの玄義(ドグマ)より

アリウスの方が、キリスト教の信仰として正しい と 考えたから

アリウス派が、あれほど広まったのです。

         

私には、

カトリックとアリウスの どちらが正しいか との議論は勿論、

宗教として上等か、とか 知的レベルが高いかという議論も、

宗教の本質から離れた 無意味な議論だと思われます。

           

カトリック を信じるか、

アリウス派を信じるか は、

「その人が、どのように神を感じるのか」によって、決まってくるのだろうと思います。

要するに、その人その人の信仰の持ち方により決まるのだろうと思います。

              

ですから、

「カトリックの玄義が、より上等であり、より高度である」

との ガクソットの考えは、

フランス人特有の 中華思想、及び 唯我独尊 の 一つの表れのように感じられます。

                       

また、宗教というものは、

知的レベルが高く、知識が豊富であれば、より高度な宗教心を持つことができる

と、いう性格のものではないのだろうと思います。

        

知的レベル 即ち 知識や学問 よりも、

どれだけ神を感じることができるのか

(どれだけ神の神秘を感じられるのか)とか、

         

どれだけ 神に帰依することができるのか、

どれだけ 神を信じることができるのか

ということが、

宗教において大切なのだろうと想像しています。

            

これは、例えば、

学問をあれだけ嫌った 13世紀のフランチェスコが、

どれだけキリスト者として尊敬されているか

を、考えるだけで、ご理解頂けると思います。

            

           

2. 「神秘がなければ、宗教もなかったであろうし、

    理解できないことがあるから、信心もおこるのである。

    人を贖うために死んだ人の子(キリスト)が、永遠(神)でないならば、

    キリスト教も存在しないであろう。」

            

           

「神秘がなければ、宗教もなかった」

即ち

「神を感じられなければ、宗教もなかった」というのは、その通りだと思います。

           

次の

「理解できないことがあるから、信心もおこるのである」というのは、

論理が逆のような気がします。

        

理解できないことがあれば、

論理を積み重ねて 合理的に説明し、理解できるように努力したからこそ、

近代科学の発展をもたらしたのだろうと思います。

              

逆に、信仰(信心)があるから、

論理的には 理解できない神 を 信じるようになるのだろうと思います。

立派な科学者が、信仰心の篤いキリスト者でもあることがあり得るのです。

          

その次の

「人を贖うために死んだ人の子(キリスト)が、永遠(神)でないならば、

 キリスト教も存在しないであろう。」というのは、

カトリックの独りよがりのように感じられます。

                          

アリウス派のように

「神により派遣された 人間キリストが、

 人類の罪を贖うために、十字架に架けられた」

と、考えても、

キリスト教は十分成立するような気がしますが、いかがでしょうか。

          

アリウス派が、広汎に信じられたということは、

それを証明しているのではないでしょうか。

                

3. 「異端説が、理屈にあっていて、粗野な精神にも分かりやすいだけに、

    教会にとって 一層恐るべき脅威となった。

    人々の心を満たし、知的生活の一部となっているアリウス派の教義に対して、

    一種の恐怖感が存在した。」

                  

この部分が、

カトリックがアリウス派を嫌悪する本音の部分を記述されていると思われます。

           

アリウス派は、カトリックより「理屈にあっている」のに、

言いかえると、

論理的にはアリウス派の方が正しいのに、

それでも、

カトリックが正しいというために、

アリウス派を悪魔のごとく扱うのでしょう。

              

今まで、歴史の本を読んでいて、

アリウス派に対して、他の異端よりもはげしく嫌悪し、

アリウス派の人々は人間ではないような言い方を

カトリックがするのを読んで、何故だろうと思ってきました。

             

カトリックが

理屈では負けているから、

理屈ではかなわないから、

アリウス派に対して人間扱いをしないのだな、

力で押しつけようとしているのだな と、合点しました。

         

カトリックの信仰より、アリウス派の信仰の方が論理的に優れている

と カトリックが心の底では認めているからこそ、

カトリックがアリウス派に負けるのではとの恐怖心を持っていたのだろうと思います。

             

要するに、

カトリックのアリウス派に対する高圧的な態度は、

コンプレックスの裏返しの虚勢であろうと、

ガクソットの記述を読んでいて、感じました。

              

4. 「その上、アリウス派は、カトリックの正統派と大変重要な点で異なっていた。  

    それは、彼らが、聖職者を持たないか、

    少なくとも 彼らの聖職者は、国家の中で地位を持たないということである。」

            

これは、ガクソットの歴史家としての資質に疑問を感じさせる記述です。

            

トリエントの公会議以来、カトリックが努力してきたことの中の一つは、

政教分離ではなかったのではないでしょうか。

          

このような大上段に構えた言い方でなくとも、

そもそも キリストへの信仰に

聖職者や国家の中で地位を持つことが必要なのでしょうか。

           

私は、カトリックが、国家の中で地位を持とうとしたことが、

宗教として堕落した原因の一つなのだろうと感じられます。

           

また、聖職者 や 教会という制度自体が、

信仰にマイナスの面をもたらした面があることを、

ガクソットは歴史の中から、感じ取ることがないのだろうか、と嘆息したくなります。

            

宗教が 聖職者や 教会のような組織を持つということは、

人間の世の中で一つの確固たる基盤を築き、

宗教の永続性をもたらすものであることは、確かだと思います。

         

その反面、

宗教を利用して、現世の利得を目的とする組織に、すぐ堕落してしまうのも、

人間の本性なのだろうと思います。

            

何も ルネサンス期のローマ教皇だけではありません。

他の時期においても、

カトリックの歴史は、改革運動の歴史だといっても過言ではないと思います。

          

司教とか大司教が、世俗にまみれて、

宗教より自分の利得を目指していた人の方が多く、

彼らに対する批判が常になされてきたことは否定できないだろうと思います。

          

ですから、

聖職者がいるからとか、国家の中で地位を持つということ のような、

宗教という面から見ると、必須のものではないものを、

アリウス派は持たないからといって、

アリウス派を、見下したような記述をするのは、

返って カトリックのお里が知れるのではないでしょうか。

          

(注) 聖職者がおらず、教会がなければ、

    宗教の規模は拡大しにくいことは事実ですが、

    規模が大きくすることが、宗教の目的だとしたら、

    それは、堕落した宗教と言うべきだと思います。

                   

カトリックは、

トリエントの公会議以降 努力をして、

中世のカトリックと全く異なったものに生まれ変わった と、よく言われますが、

ガクソットの記述を読むと、

「本質は、全く変わっていないのでは」と、思わず言いたくなりました。

          

            

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