ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?
昔、塩野七生さんの「海の都の物語」の最初に、
アッチラがイタリアに侵入してきたとき、
アクィレア陥落後、ヴェネツィアに人々が逃げ込んだ、
との話が ありましたので、
ヴェネツィアの西側の本土の人々が、
ヴェネツィアに逃げ込んだのだろう と、思い込んでいました。
というのは、
ヴェネツィアは、東のアドリア海に面した潟(ラグーザ)の島だったからです。
ところが、歴史書を繙くと、
810年
リド島のマラモッコからリアルトに移住したとの記述がありますので、
何で、
西側の本土からではなく、
アドリア海に面したリド島に人々がいたのだろうか、
何故、
リド島の人が リアルトに移住して、
ヴェネツィアの統治権を握ったのだろうか、
との疑問を、長年抱いてきました。
今回(2010年4月)
クセジュ(白水社)「ヴェネツィア史」(クリスチャン・ベック著)を読んで、
この疑問が解消できましたので、
ヴェネツィアの最初の頃の歴史を、簡単に要約してご紹介させて頂きます。
人々が、ヴェネツィアに逃げ込んだ事件は、大きいもので3回あります。
第1回 401年 西ゴート族 アラリック の侵入
第2回 452年 フン族 アッチラ の侵入
第3回 569年 ランゴバルド族 の侵入
アラリックは、
コンスタンティノープルから、遠路はるばるイタリアに侵入し、
アッチラとランゴバルド族は、
ハンガリーより侵入したのですが、
イタリアへの出口は、
3回とも、スロベニアよりイタリア東北部への道でした。
イタリアは、
北はアルプスがありますので、
イタリアへの東側の入り口は、
峠の道以外は、スロベニアからの道なのです。
第一次大戦の際も、
オーストリア軍がイタリアへ攻め入ったのは、
オーストリアが支配していたトリエント地方からと、
アラリックなどと一緒の スロベニアよりの道で、
スロベニア国境からヴェネツィアにかけての地方が、
主な戦場となりました。
伝説によると、
ヴェネツィアの建国は、421年3月25日だそうです。
クセジュ「ヴェネツィア史」の著者 ベックは、
452年 アッチラにより アクィレイア が 焼かれ、コンコルディアが破壊された
466年頃 リアルト(リヴォアルト)に 初歩的な政治体制 が 発足したと思われる
と、記述しています。
コンコルディア ヴェネツィア の東北 50km、アクイレイア の西 40km
リアルト(リヴォアルト) サンマルコ広場~リアルト橋辺り一帯の島々
また、
538年 東ゴート カッシオドルスの書簡に、
ヴェネツィアのラグーナ(潟)の住民について言及されていて、
この書簡が、
ラグーナの住民に関する最古の史料だとのことです。
この様に、
400年代の2度の侵入により、
潟(ラグーザ)に浮かぶ島に人が住むようになったのだろう
と、思われますが、
2回の侵入共に一過性だったため、
戦乱により一時的に避難してきた人が多く、
侵入終了後、
元の住処に戻った人が多かったとのことです。
ですから、
このヴェネツィアに、人々が本格的に定住するようになったのは、
568年 ランゴバルドの侵入以降とのことです。
ランゴバルドは、
ご存じの通り、イタリアに侵入してきてイタリアを支配した民族です。
従って、
ヴェネツィアに避難した人が、
本土に帰ろうと思っても、帰るに帰られなかったのでしょう。
ベック「ヴェネツィア史」クセジュで、
避難の様子を次のように記述しています。
アクレイアの総大司教は、 グラード に 居を移した。
トレヴィーゾから逃げてきた人々は、リアルトの島々 や トルチェッロに 逃亡した。
パドヴァからは、 マラモッコ に、
フリウリ地方からは、グラード や カオルレに集落を作った。
キオッジャ や イエゾロにも、人々が 避難した。
アクレイア ヴェネツィア の東北東 85km
グラード ヴェネツィア の東 85km、アクレイアの南 10km
トレヴィーゾ ヴェネツィアの北 25km
トルチェッロ 潟(ラグーナ)の中の島
パドヴァ ヴェネツィアの西 35km
マラモッコ 潟とアドリア海を分けるリド島の町
フリウリ地方 ヴェネツィアとアクレイアの間のアルプスの南山麓の地方
カオルレ ヴェネツィアの東北東 45km
キオッジャ ヴェネツィアの南 25km、アドリア海沿岸の町
イエゾロ ヴェネツィアの東北東 25km、潟(ラグーナ)の東端南側の町
色々な人々が、ヴェネツィアに避難してきたのですが、
その人々の中心となった
ヴェネツィアの統治権が、リアルトに移るまでのの変遷を、
編年風にご紹介させて頂きます。
569年 ランゴバルド、イタリアに侵入
639年 オデルツォが陥落し、チッタノーヴァ(エラクレア)に権力の中心が移動
697年 チッタノーヴァで、最初のドージェ 選出
742年 チッタノーヴァより リド島 マラモッコ に 権力の中心が移動
751年 ラヴェンナが陥落して、チッタノーヴァのビザンツ支配が終焉した
810年 ピピンの攻撃を撃退した後、
マラモッコよりリヴォアルト(リアルト)に権力の中心が移動
569年
ランゴバルド侵入後も、
ヴェネツィアの地方は、ビザンツ帝国が支配していて、
行政のの中心地は、オデルツォでした。
オデルツォ ヴェネツィア の北 40km、 トレビーゾの東北東 25km
このオデルツォが、
639年に陥落して、行政の中心がチッタノーヴァに移りました。
チッタノーヴァ Cittanova (現在 エラクレイア Eraclea)
ヴェネツィア の東北東 30km、 オデルツォの南南東 25km
ピアーヴェ河畔、ピアーヴェ川河口より 6km
チッタノーヴァは、
Civitas Nova Heracliana(ヘラクレイオス帝の新しい町)が 略されたもので、
現在の都市名 エラクレイアは、ヘラクレイオス帝より 由来しています。
ヘラクレイオス帝 は
7世紀初めの東ローマ皇帝で、実質的なビザンツ帝国の創始者です
東ローマ皇帝 在位 610~641 31年間
余計なことですが、
イタリア語も、Hは フランス語同様 発音しないのでしょうか?
また、発音しないHは、スペルからも消えてしまうのが、
イタリア流で フランス語と異なるところなのですね。
697年に、
チッタノーヴァで、ヴェネツィア 最初のドージェ(元首)が、選出されています。
多分、
ビザンツ帝国より チッタノーヴァの自治権が認められたということだと思います。
ヴェネツィアの最初のドージェは、
ビザンツ帝国の人であってヴェネツィア人ではなかったことをご記憶下さい。
最初のヴェネツィア人のドージェは、
726年(29年後)
チッタノーヴァで選出された 第3代ドージェ オルソ・イバートです。
ドージェ在位 726~737 11年間
チッタノーヴァのヴェネツィア人は、
ビザンツ帝国の臣民にもかかわらず、
聖画像論争でローマ教皇を支持して、
ビザンツ人でない オルソ・イバート を ドージュに選出したのです。
737年(11年後)
オルロ・イバートは、殺害され、
(多分、ビザンツ帝国に都合が悪かったので殺されたのでしょう。)
その後5年間、
チッタノーヴァは、ドージェが選出されずに
ビザンツ帝国の軍政がしかれました。
742年(5年後)
オルソ・イバートの息子 デオタード・イバートが、第4代ドージェに選出され、
即位した742年に、
首都を、チッタノーヴァより リド島マラモッコ に 移しています。
ピアーヴェ川より 船でマラモッコに移動したのだろう
と、想像しています。
マラモッコへの移住は、
ビザンツ帝国の介入を軽減するためだったのでしょうが、
ビザンツ帝国の北イタリアの拠点が、
ヴェネツィア人が支配するチッタノーヴァでしたので、
ビザンツ帝国の拠点も、
この時に
チッタノーヴァより マラモッコ に 移動したのでした。
751年(9年後)には、
ランゴバルド王 アストルフォ(アイスツルフ)が、ラヴェンナを陥落させ、
イタリアでのビザンツ支配に終止符を打ちました。
この時、
ビザンツ帝国は、チッタノーヴァも、失っています。
800年頃(異説 810年)(49年後 又は 59年後)
ヴェネツィアは、シャルルマーニュの息子ピピンに攻撃されました。
これを撃退した後、
810年に、
アドリア海に面したマラモッコより、
潟(ラグーナ)の中央部のリアルトに、ドージェが率先し定住したのです。
これにより、
現在まで続くヴェネツィアの歴史が始まりました。
今回 ベックの「ヴェネツィア史」を読んで、つくづく感じたことは、
歴史というものは、
頭で知っただけではダメで、
身に浸みて理解しなければ理解できないな、ということです。
ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国の領土だったということは、
どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、
ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
無理だということが、身に浸みて理解できました。
恥ずかしながら、
名著と言われるマクニールの「ヴェネツィア」を、何回も読み始めては、
理解する能力がないと、途中で諦めてきました。
今回、曲がりなりにも最後まで読み通すことができたのですが、
それは、
ヴェネツィアがヴィザンツ帝国の領土だったということを
身に浸みて理解していたからだろうと思います。
今までは、どうしても、
ヴェネツィアは、イタリアの一部であり、
西ヨーロッパの側からの視点で歴史を見ていたのです。
これが、
ヴェネツィアの歴史の理解する上での妨げとなっていたのでした。
今回は、
地名の説明をちょっと詳しく記載させて頂きました。
これも、
歴史を理解する上で、
歴史的な事件が起きた場所を、地図で確認することが必要だということを、
身に浸みて感じているからです。
歴史を理解するには、地理学の知識も必須であり、
時間がかかっても、本を読みながら、場所を一つ一つ確認していかなければ、
歴史の理解は不充分となると痛感しています。
逆に、
知らない歴史をよむときに、場所を確認しながら、
また、
今まで作成してきた年表を見ながら読んでいくと、
何とか ぼやっとしたものでも、理解ができるものだと経験しています。
歴史を一歩踏み込んで理解されたい方がおられましたら、
このことを ご参考とされたらよいのでは、と思い、
余計なことを書かせて頂きました。
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