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2011年8月16日 (火)

ちょっと変わった 第4回十字軍論

第4回十字軍は、
十字軍の中でも「最もおぞましい十字軍」である、と、

高校の世界史で学んで以来、
約30年間、そのように思い込んできました。

ところが、
40代後半よりヨーロッパ史の本を読むようになってから、

「おぞましい十字軍」との評価は、
カトリックを中心とする 一つのイデオロギーからの
一方的な評価であり、

もっと客観的で冷静は評価をせねばならないのでは、
と、思うようになりました。

勿論、
コンスタンティノープルでの掠奪は、

当時の戦争には つきもの だとしても、
感心するものではありませんし、

ましてや、
他人の国である ビザンチン帝国を占領したことは、
許されることではないでしょう。

でも、
最近までの(本質的には現在でも)歴史 は、
弱肉強食の論理が支配していて、

弱みをみせたら、
つけ入れられるのが当たり前だったのです。

第4回十字軍のビザンツ帝国の征服 と
オスマントルコのビザンツ帝国の征服 は、

本質的に
同じような性質のものではないでしょうか。

一つの立場より 歴史につきものの悪を、

あるものは非難し、
あるものを是認するというのは、

公平でも、客観的でもないような気がしています。

その意味で、
第4回十字軍を巡る環境について、

あまり歴史の本では記述されていない
いくつか視点をお話しさせて頂き、ご参考に供したい
と、思います。


第1の視点

第4回十字軍は、
ヴェネツィアとビザンツ帝国とのそれまでの歴史の総決算
ともいうべき事件でした。


ヴェネツィアの立場からすると、

ビザンツ帝国は、
困ったときには、美味しい話で協力を依頼するくせに、

それが過ぎると、
約束を反故にするだけでなく、

ヴェネツィアの生命線である
アドリア海やイタリア本土 を 侵略したり、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人 を
虐殺しているのです。

ですから、
ヴェネツィアにとって 第4回十字軍は、

我慢に我慢を重ねた結果、
乾坤一擲の反撃に出た と、いうことなのだろうと思います。

この点については、
「ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係の略史を
簡単にご説明させて頂きましたので、

ご覧いただければ幸いです。

  ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる


第2の視点

神聖ローマ皇帝が、承認した攻撃である点


ビザンツ帝国の内紛の一方の当事者を支援する神聖ローマ皇帝
(と、当時の人が考えていたドイツ王 フィリップ)が、

支援し、承認した コンスタンティノープル攻撃であり、

それが、
ビザンツ帝国の征服になったのは、

援助を受けて返り咲いたビザンツ皇帝が、
約束を全く守らなかったためです。

注) この記述は、
   第4回十字軍を正当化しているわけではありません。

   単に、
   2段階に分かれていた事実を、記述しただけです。


ビザンツ帝国の第4回十字軍を導いた内紛は、

1195年4月 イサーク2世が、弟 アレクシオス3世に、
廃位されて、目を潰され、幽閉されたことにより始まりました。

イサーク2世の娘 イレーネは、

1196年に
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップ
と、結婚しています。


イサーク2世の息子 アレクシオスが、
姉のイレーネを頼って、フィリップの許に身を寄せ、

1202年12月に アレクシオスが、
ザーラの第4回十字軍の陣営に赴いて、
コンスタンティノープル攻撃を依頼したことから、

第4回十字軍が、

エジプトではなく、
コンスタンティノープルに向かうことになりました。

このことに関して、

通常の歴史の本に書いていないけど、
見落としてはいけないと感じられるのは、

ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップ を、
当時の人々は、

神聖ローマ皇帝 乃至、もうすぐ皇帝になる人物で、
ローマ教皇に匹敵する人物である と、

考えられていたのであろう と、思われることです。


ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップは、

皇帝 ハインリヒ6世の弟で、

1197年9月 メッシナで 兄 ハインリヒ6世が 没したとき、

甥のフリードリヒ2世(ハインリヒ6世の長男、3才)を
ドイツで 即位させるために、イエージに迎えに行く途中、
ヴィテルボに滞在していましたが、

ドイツで フィリップへの反乱が勃発したので、
危険と追っ手を逃れて
1197年 年末 に ドイツに帰国しました。

1198年3月(ハインリヒ6世の没してから半年後)
ミュールハウゼンでドイツ王に選出されています。

このフィリップに反対したのが、
ローマ教皇イノセント3世やケルン大司教で、

彼らが、
オットー4世を擁立したのですが、
ドイツ国内では、フィリップ支持派が大勢を占めていました。

この争いは、

1204年11月 ケルン大司教が、フィリップと和解して、
オットー4世が見捨てられたことにより
ドイツ国内的には決着したのですが、

ローマ教皇イノセント3世は、
依然として フィリップ の 皇帝即位 を 認めませんでした。

1208年
フィリップは、教皇の反対のため、皇帝に即位できない状況の中、
アルテンブルクで、ヴィッテルスバッハ帝領伯オットーに殺害され、

局面が大転換して、
オットー4世が皇帝の即位したのでした。

ですから、
1202年12月に
フィリップが、妻の弟アレクシオスの依頼を聞いて欲しい、
との意向だったと聞いた、第4回十字軍の幹部連中は、

皇帝(になるだろう人物)からの依頼と受け取ったのだろうと考えるのが、
穏当なところではないでしょうか。

当時皇帝は、
シュタウフェン家のものであり、
シュタウフェン家が ローマ教皇と対立していたことも、
当時の人々には周知のことだったのです。

勿論、一般に言われているように
第4回十字軍が資金が無かったので、
アレクシオスの美味しい話に乗らざるを得なかったことが、
一番大きな要因だと思いますが、

同時に、
フィリップのお墨付きのある攻撃だ、ということは、
ローマ教皇が大反対している状況では、
第4回十字軍の参加者に 心の安らぎ を 与えたのではないでしょうか。


第4回十字軍のレールを切り替えたことに関しては、
総大将が、途中で変わったことも、大きな要因だと思います。

第4回十字軍の総大将は、
最初はフランスのシャンパーニュ伯ティボー3世でしたが、

1201年に ティボー3世 が 没した後、
フィリップの臣下である イタリアのモンフェラート候ボニファチオが、
ソアソン(北フランス)で 後任の総大将に選出され、

ボニファチオは、
その足で フィリップの許を尋ねています。

多分、ドイツで、
フィリップよりコンスタンティノープルを攻撃するよう依頼され、

アレクシオス が、ザーラに赴いてきたとき、
コンスタンティノープル攻撃に意見集約するよう動いたのだろう
と、推測されているようです。


第3の視点
皇帝はじめ、南イタリアの君主は、
ビザンツ帝国を征服することを、常に考えていた。

この点については、

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

 1.ロベール・ギスカールが、ビザンツ帝国を攻撃したこと
 2.皇帝 ハインリヒ6世が、ビザンツ帝国の攻撃直前に亡くなったこと

 3.当時、ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に 色々な理由から
   攻撃されるべき存在と見られていたこと

と、お話しさせて頂きました。

第4回十字軍以後でも、
イタリアから シュタウフェン家 を 駆逐した
シチリア王 シャルル・ダンジュー(フランス王 ルイ9世 の 末弟)も、
ビザンツ帝国を 攻撃しようとしていました。

ところが、
1282年4月の第1週 に、
ビザンツ帝国攻撃するために出帆しようとしていた、
その直前の3月30日に
シチリア晩祷の乱が勃発して、
シャルル・ダンジューが、シチリア島から逆に駆逐されてしまったのです。

この乱は、
シュタウフェン家の遺臣プロチダとビザンツ皇帝ミカエル8世が、
提携して、周到に計画した蜂起である、と記述する歴史家もいます。

この様に、
ビザンツ帝国は、南イタリアに食指をのばし、
南イタリアの支配者は、逆にビザンツ帝国を攻撃しようとしてきたのが、
12世紀から13世紀にかけてのビザンツ帝国を巡る政治情勢なのです。

この中で、
第4回十字軍も位置付けられるべきでは、
と、感じられるのですが、

ヨーロッパの歴史家にとっては、
当たり前のことなのか、それとも、タブーなのか、
あまり言及はありません。


歴史の本を読むことは、
その記述を理解して、
「知らなかったことを知ること」が 大いなる楽しみですが、

その記述を読んで、
「自分なりに熟考すること」も、歴史の醍醐味の一つだと思っています。

歴史の記述は、著者の価値観の反映であり、
記述されている歴史を、別の価値観で見ると、
別の姿が見えることが多々あります。

特に、ヨーロッパ史は、
1000年以上にわたってキリスト教の価値観に基づいて
記述されてきていますので、

ヨーロッパの歴史家は、
無意識のうちに、キリスト教、就中 カトリックの価値観に基づいて
歴史を見ています。

そして、
ヨーロッパに留学した日本の歴史学者、
更には、
彼らから歴史を学んだ我々も、

彼らの歴史の見方を、当然のこと、当たり前のこと と、
無意識のうちに アプリオリに 受け入れているのです。

従って、
彼らや、日本人の歴史家が、記述した ヨーロッパ史 を 読む際には、

そのことを意識して、
その記述を、冷静に、客観的に、その論理を考えてみることが、
歴史を学ぶ際に、非常に大切で、意義のあることだろう
と、思っています。

また、
当事者のヨーロッパ人でない 第三者からの歴史解釈 を 提示することが、
彼らに染みついたキリスト教の見方では 当たり前 と されていることを、
「ちっと違うのでは」と、指摘することが、
日本人の歴史学者に、最も求められていることだろうと、思います。

今回は、
通常の歴史記述と大分異なった、
人によっては脱線しすぎだろう と 思われるようなこと を、
書かせて頂きましたが、

読まれた方の中に、
第4回十字軍についての何かのヒントとなるものが、芽生えられて、
議論が誘発されたらな、と、願っています。

突拍子もないともとられかねないお話しを、
最後までお読み頂き、有り難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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