旧約聖書の神が、キリスト教にもたらしたもの
最近、秦剛平先生のの聖書シリーズを4冊読みましたので、
考えたこと、感じたことを 何回かに分けてお話ししていますが、
今回は、その3回目です。
前回は、
旧約聖書の神が、「とんでもない存在」であることをお話しましたが、
旧約聖書の神を、
キリスト教の首をかしげざるを得ない行状に重ね合わせると
今まで「訝しいな、何故こんなことがありうるのだろうか」
と、疑問に思っていたことが
「なるほどそういうことか」と、分かってきたことがありますので、
思いつくまま、いくつか簡単にご紹介させて頂きます。
旧約聖書の神が、「とんでもない存在」であることについては、
前回のブログ を ご覧下さい。
「旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である」
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html
<参 考> 最近読んだ 秦剛平先生 の 聖書シリーズ
1.「乗っ取られた聖書」
2.「異教徒ローマ人に語る聖書」(創世記を読む)
3.「書き替えられた聖書」(新しいモーセ像を求めて)
4.「聖書と殺戮の歴史」(ヨシュアと士師の時代)
以上の4冊は、
京都大学学術出版会 「学術選書」として 刊行されています。
*********
1.「神の一党の幹部は、何をやっても赦される」との観点から、
次の様な事柄が、「なるほどな」と 納得しています。
① ルネサンス期を始めとして、多くの歴代のローマ教皇が
不品行だと非難されていますし、
ふしだらなで、唾棄すべき聖職者が、数え切れないほど輩出しています。
彼らは、聖書を読んで、
彼らの行為が、聖職者(神の一党の幹部)であれば、
何をやっても 神に赦される、又は、お目こぼしに与ることが出来る
と、考えていたのでしょう。
② 司祭による 罪の赦しの宣告 は、神による赦し を 確証するとして、
罪を告白した信者を、聖職者が神の了解なしに無断で赦していますが、
これも、
同じ理由で、「何の問題もない」と考えて行ったのでしょう。
(以前 私は、「罪を赦せるのは、神のみでは?」と考えていました。)
③ 聖職者が、信者の行いについて 神に口利きを出来る、
煉獄にいる信者を救うため、ミサを捧げれば、その信者が赦される、
お札(免罪符)を買えば、天国に行ける、 として
教会が、信者から金を巻き上げたのも、
旧約聖書の神が、どんなものだったかを知っていたからでしょう。
④ 1140年6月 サンス公会議の前日に、
ベルナールが司教を集めてアベラールを陥れています。
この様な、卑劣な行為も、
「神のための行為である」と、聖職者が自分勝手に考えたことを、
神は、何でも赦す と、ベルナールは 確信していたのでしょう。
⑤ カルヴァンは、「予定説」を主張しました。
カルヴァンは、地獄行き間違いなしと、私には思われるのですが、
ご本人は、当然天国に行くつもりでいたのでしょう。
カルヴァンが、天国に行けるとの確信を持ったのは、
「旧約聖書の神が、神一党の幹部は何をやっても赦していたし
神のために一生懸命働いているではないか、
旧約聖書の神と同じことをしているではないか。」
と、自信を持って考えていたのだろうと、得心しました
①~⑤ のような例は、枚挙に暇がないと思います。
これらの行為は、人倫として許されるかどうかではなく、
「旧約聖書で神は赦している」と、
全て神に責任を負いかぶせて正当化したのだろうと、思います。
その際に、その行為が、
キリスト教の「表の顔」である「十戒」に反していようが、反していまいが
関係がなかったのでしょう。
この様に、
旧約聖書の神は、聖職者の人間性を歪めて、
ユダヤ教、キリスト教 を 堕落させたのだろうと思います。
2.「神に反する者は、抹殺せよ」との点から、
大量の殺戮を生み出し、キリスト教を「殺人宗教」にしました。
キリスト教は、
十字軍や、異端者撲滅の十字軍や異端審問、宗教戦争、
更には、
新大陸でのインディアン、インカ人等のアメリカ大陸の先住民と、
大量に殺戮しています。
以前、ホームページにも書きましたように、
あの世で ヒットラーが、キリストに
「私が殺した人間の数は、到底あんたに及ばない」と言った
との小話がある位です。
また、
教皇やカルヴァンなど、キリスト教の最高幹部から、
末端の司祭、異端審問官等の担当者まで、
自分の考えに反する人間を 異端と烙印を下して、
これが人間のすることかというような 極悪非道な振る舞い を行っています。
普段は、信心深い、高潔な人物が、
ジキルとハイドのように、瞬時に変身して、鬼畜の振る舞いとなるのです。
このおおもとは、
旧約聖書の 神自らの大量殺人であり、
神が、大量殺人を奨励し、正当化しているのです。
キリスト教の「表の顔」は、「愛の宗教」ですが、
その「本質」は、「殺人宗教」だったのです。
私には、
神とカルヴァンと麻原彰晃の三者は、同質の者のように感じられます。
麻原が、「ポアしろ」と命令したことと、
カルヴァンが、セルヴェ等の自分と異なる考えの者を異端者として殺したことは、
本質的に同じ行為のように感じられます。
カルヴァンは、ジュネーヴで権力を握っていたのに反して、
麻原が、権力を握っていない一民間人であったことが、
カルヴァンをして 歴史上の偉人にし、
麻原をして 逮捕され、死刑囚にした 分かれ目 のような気がします。
3.信者に「聖書」を読ませてはいけない との カトリック教会の禁止令
中世、カトリック教会は、信者が「聖書」を読むことを禁止していました。
表向きの禁止理由は、
聖書を良く理解していない信者が、聖書を読んで、
間違った考えを抱くことを避けるため、 ということでしたが、
私には、
教会が、神が、「とんでもない存在」であることを、
信者に 知られたくなかったからだろうと、感じられます。
しかし、
この心配は、杞憂に終わったようです。
宗教改革家は、
カトリックを非難しましたが、神への批判はしませんでした。
また、ユマニストも、
カトリック、プロテスタント(カルヴァン派を含む)を批判しましたが、
神は批判していません。
カルヴァンは、
神と同じような論法で殺戮を行っていますし、
聖書をドイツ語訳して、神の行状をよく知っているはずのルターも、
カトリックは批判しましたが、
神に対しては「神に囚われている」と、
神の教えに忠実であること主張することで、自己を正当化したのでした。
また、
私が尊敬するユマニストである カステリヨンも、
彼の遺書とも言うべき「悩めるフランスに勧めること」(1562年上梓)を読むと、
キリスト教の「表の顔」の論理で、
カトリック、カルヴァン派等を諫めていますが、
「とんでもない存在」である神を、否定していません。
キリスト教が、ヨーロッパを制覇し、他の宗教を駆逐していたため、
神に代わるものがなかったためか、
ユマニストも、神の存在を前提としています。
ですから、
「とんでもない存在」である神を熟知していた
カトリックやカルヴァン派に対して、
「それが キリストと何の関係があるのか?」
(Quid haec ad Christum?)
と ユマニストが批判しても、全く効果がなかったのです。
何故なら、
カトリックやカルヴァン派は、
「旧約聖書の神がおやりになった通りのこと、
神が命じられること」を、行っているのだ と、確信しており、
「批判されるような悪いことは、ちっともしていない」
「キリスト者として、やらねばならぬことをしているのだ」
と、思って、殺戮に励んでいたのです。
ですから、
キリストと旧約聖書の神を切り離して、両者は別であると論じ、
旧約聖書の神の悪行を指摘し、批判した上で、
「神と同じことをしているのは、問題である」と主張しなければ、
カトリックやカルヴァン派を、説得するのは不可能だったのです。
(注) 「説得できるとしたら、この方法しかなかっただろう」
と思われる主張を述べているのであって、
このような主張をしても、
頭に血が上っていた彼らには通じなかっただろうとは思いますが・・・
また、この主張は、
神とキリストと聖霊の「三位一体」を否定していますので、
大変な混乱をもたらすことになったでしょう。
いずれにせよ、
カトリック教会やプロテスタント、カルヴァン派を
あれだけ冷静に批判した エラスムスやカステリヨンなどのインテリが、
旧約聖書を隅から隅まで精読していながら、
「とんでもない存在」である神について、批判しなかったのは理解に苦しみます。
また、先ほど述べたように、
ユダヤ人の行状の集約であり、象徴でもある
旧約聖書の神より離別することによって
キリスト教を再生しようとしなかったことも、不可思議です。
当時 ヨーロッパには、
キリスト教の神しか神はいませんでしたから、
神を否定すれば、選択肢として残っているのは無神論だけでしょう。
従って、
敬虔なキリスト教徒であるユマニストにとって、
「三位一体」を否定して、宗教家として大前提に疑問を呈することは、
考えられなかったのだろうと思います。
しかし、
宗教改革や反宗教改革で、「とんでもない存在」である神についての
根本的な議論がされず、
神について見直すか、旧約聖書の神を 遺棄して、
キリスト教が愛の宗教へ抜本的に改革されなかったことが、
今後 キリスト教の存立の基礎が蝕まれていく原因となるだろう
と、私には思われます。
第2次大戦後、
ヨーロッパでも教会に行く人が少なくなってきたという話を聞いたことがあります。
神を客観視し、神がなくても生きていける人が増加していくと、
従来の束縛から解放されて、
「とんでもない存在」であるキリスト教の神が、
批判されるようになっていくのかな、
それとも、
神の存在が否定されれば、
神への批判は無意味となり、批判されなくなるのかな、
と、あれやこれや、考えています。
私は、長期的トレンドとしては
最後の審判という脅しをかけながら、
「とんでもない存在」である神を信じなさい という キリスト教の存在意義 は、
薄くなっていって、あっても無きが如く 無視される存在になっていくだろうし、
信者も 徐々にではあるでしょうが、減少していくだろう
と、推測しています。
もし、
「裏の顔」が消え去っていって、「表の顔」だけの宗教に 変容することができれば、
キリスト教が真の意味で甦るかも知れません。
そのためには、
旧約聖書より訣別することが必要であり、前提であろうと思います。
でも、
旧約聖書の神の行状が、人間の性(さが)であるのならば、
キリスト教に 旧約聖書の神を棄て去ることを求めるのは、
八百屋で魚を求めるようなものでしょう。
< 秦剛平先生 の 聖書シリーズ >
第1回 旧約聖書の神も、ユダヤ人も、
カナンを「約束の地」とは 考えていなかったのでは?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-bf1b.html
第2回 旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html
第3回(今回) 旧約聖書の神が、キリスト教にもたらしたもの
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-cb42.html
第4回 「歴史のイエス」 と 「信仰のキリスト」
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-de7f.html
第5回 旧約聖書 の ちょっとした話
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2dc2.html
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