「歴史のイエス」 と 「信仰のキリスト」
最近、秦剛平先生のの聖書シリーズを4冊読みましたので、
考えたこと、感じたことを 何回かに分けてお話ししていますが、
今回は、その4回目です。
前回と前々回で、
① 旧約聖書の神(ユダヤ教の神)が、「とんでもない存在」であること
② キリスト教が、このとんでもない神を、自分たちの神としたために、
キリスト教自体が「殺人宗教」となったこと
③ ルターやカルヴァン派は勿論、彼らを批判したユマニストも
旧約聖書の神(ユダヤ教の神)の存在を認め、否定していなかったこと
を、お話しました。
前回、
キリスト教の根本原理である「三位一体」を否定すべきであると、
キリスト教の方がご覧になったら、
即座に「論外」と切り捨てられるようなことを述べました。
私は、キリスト教が
① 旧約聖書の神(ユダヤ教の神)を取り入れなくとも、
宗教として存在し得たのでは、
② キリスト教が、「三位一体」を否定したら、
「殺人宗教」から脱皮できるのでは、
と、考えています。
秦先生は、
「歴史のイエス」を「信仰のキリスト」と区別していると記述されていますが、
この文章が、上記のことをお考え頂く材料となると思いますので、
ご参考までに、秦先生の記述をご紹介させて頂きます。
<参 考> 最近読んだ 秦剛平先生 の 聖書シリーズ
1.「乗っ取られた聖書」
2.「異教徒ローマ人に語る聖書」(創世記を読む)
3.「書き替えられた聖書」(新しいモーセ像を求めて)
4.「聖書と殺戮の歴史」(ヨシュアと士師の時代)
以上の4冊は、
京都大学学術出版会 「学術選書」として 刊行されています。
**********
1.「歴史のイエス」 と 「信仰のキリスト」について、秦先生の記述
出所 秦剛平「乗っ取られた聖書」306㌻~307㌻
私(秦剛平先生)が、
「イエスの登場」と書き、「キリストの登場」と書かなかった理由が
おわかりになるでしょうか?
それは、
私(秦先生)の中に「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」は、異なるとする
厳然たる区別立てがあるからです。
「歴史のイエス」とは、
今から 2000年前の パレスチナのどこかで・・・多分、ベツレヘムではなくて・・・
誕生した一人の人物で、
その彼は、
自分が死後キリストに格上げされることなど夢想だにせずに、
パレスチナのガリラヤの町々で、
一種独特のライフスタイルで、教えを説いたり、聴く者達を挑発した人物です。
彼(イエス)が、
本当に十字架に架けられて死んだのか、
それとも それはフィクションであったのか、
その辺りことは、論証さえ出来ませんが、
それを フィクションではなかろうか と 疑ってかかるのは、
「歴史のイエス」を論じるときには、必要な、正しい、勇気ある態度であろうか
と、 思われます。
「信仰のキリスト」、あるいは「教会のキリスト」は、
教会によって「歴史のイエス」に厚化粧が施されて創出されたものだ
と、想像して構わないでしょう。
その化粧を施した第一号は、福音書記者と呼ばれる者達でしょう。
スッピンの上塗りの化粧は、さらなる化粧を求めます。
化粧がだんだん厚くなってくると、もとの顔はどうだったのかと想像したくなります。
それが、
プロテスタントの新約学者が追究してきた「歴史のイエス」だったのです。
彼らプロテスタントの新約学者達は、
福音書、
なかでも 共観福音書 と 呼ばれる マタイ、マルコ、ルカ の福音書を、
徹底的に調べ上げました。
その結果、
「イエスの語録集」と称して構わないものが、そこから取り出されたのです。
イエスの「語録」の存在。
この存在は、
福音書研究が開始されたとき、想像だにされなかったものですが、
精緻な研究の結果、取り出されてみると、
そのようなものが存在してもおかしくなかったとされるようになりました。
それを後押ししたのは、
1945年ナグハマディ文書の発見であったかも知れません。
そこには、
「イエスの語録」と称されるものがあったのですが、
私達は、西欧の人たちとは異なり、論語の存在を知っております。
ですから、
教師の語録集は、2000年前も前に、
そんなものは存在し得たた と、申し立てることが出来るかも知れません。
(注) ナグハマディ文書
1945年に、上エジプト ケナ県 ナグ・ハマディ村の近くで見つかった、
パピルスに記された 初期キリスト教文書。
出所 「ウィキペディア」
マグ・ハマディ カイロの南 460km
アスワンの北 240km
2.「歴史のイエス」についての、秦先生の別の記述
秦先生は、同じ本の別の場所で、
イエスの十字架刑 や 語録集の形成 について、
次の通り記述されておられます。
出所 秦剛平「乗っ取られた聖書」147㌻~149㌻
ガリラヤに登場した「歴史のイエス」と、
2000年間キリスト教徒の信仰の中で生き続けてきた「イエス・キリスト」は、
違います。
イエスが、ガリラヤで活動を開始した時期は不明ですが、
その活動は、
紀元後20年代の後半ぐらいまで続き、
27年か28年に亡くなったとされます。
30年頃であったかも知れません。
福音書によれば、
イエスの最後は、エルサレムでの十字架上の死ですが、
果たして歴史的にそうだったのかは疑ってかかれるものです。
ガリラヤの町で、十字架刑が執行された例はありませんから、
それがなされた場所は、エルサレムか、その近郊の土地となります。
ヨセフスは、70年のある時期に、
彼の知り合いの3人が、エルサレムの郊外で十字架に架けられているのを知って、
ティトスに泣きつき、そこから降ろしてもらった話を披露していますが、
イエス以前にも、そして、イエスの時代にも、
エルサレムや その近郊で 十字架に架けられたユダヤ人は、多数いた
と、思われます。
十字架に架けられた者達は、
政治犯や、扇動者、メシアを称して民を煽動した者達です。
・・・(途中略)・・・
とにかく、
パレスティナの一部の土地では、十字架に架けられた者は大勢いたのです。
日常茶飯事の光景だったのです。
イエスの生涯を、
十字架の死から想像しますと、
十字架に本来的に付せられてしまっている神学的な前提に
足をすくわれることになりますので、
イエスの最後を、
十字架から切り離して想像してみましょう。
イエスの死後、何年か経つと、
生前のイエスについて語る群れが、ガリラヤの土地に登場しました。
これは自然なことです。
彼らは、集まると、
イエスは、生前「ああ言っていた」とか、「こう言っていた」と
思い出話に花を咲かせました。
誰かが
「やっこさんの話は面白かったべ」と言えば、
それに相づちを打つものが出て、
やがて
イエスの言葉の核心部分が語り継がれていくようになります。
イエスの言葉が集められました。
誰がどうやって集めたかは不明ですが、
その言葉は、「語録集」の形で纏められました。
この語録集の写しがいくつか作られたと想像されます。
それを持ち歩く者達は、
「これは、イエスの教えである」と言って、
イエスの人となり、
イエスの言葉や ライフスタイルを語り、
その大胆で率直な言葉から、聞く者達に向かって、
新しい生き方をしてみるのだ、
社会の流れに棹さしてみるのだ、と、語りかけたのです。
このイエスの語録は、
福音書(マタイとルカ)の伝承層の基層に埋め込まれておりましたが、
新約学者は、そこからそれを取り出してみせたのです。
3.秦先生による「イエスの語録」の紹介
秦先生は、2.の「歴史のイエス」についての記述の後、
アメリカの新約学者
バートン・マック教授の「失われた福音書」(秦剛平訳、青土社)から
「イエスの語録」のうち 全体の半分強を 紹介されておられますので、
ちょっと長くなって恐縮ですが、抜き書きさせて頂きます。
「イエスの語録」の紹介
出所 秦剛平「乗っ取られた聖書」150㌻~154㌻
<これはイエスの教えである>
<群集を見ると、彼(イエス)は、弟子達に言った>
何と幸運な者だ。貧しい者は。彼らには、神の王国がある
何と幸運な者だ。飢えている者は。彼らは。腹一杯に満たされるだろう。
何と幸運な者だ。泣いている者は。彼らは笑うだろう。
おまえたちに言っておこう。
敵を愛し、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈ってやれ。
お前の頬をぴしゃりと打つ者には、反対の頬も向けてやれ。
上着を奪い取ろうとする者には、シャツもくれてやれ
求めるものには与えてやれ。
おまえの持ち物を奪うものがいても、返してくれなどと言うな。
人さまにしてもらいたいと思うことを、彼らにもしてやれ。
おまえたちを愛してくれる者達を、愛したところで、それが何だというのだ。
徴税人達でさえ、彼らを愛するものを愛しているじゃないか。
兄弟達だけに挨拶したところで、
他の者より何か善行でもしているというのか?
誰でもそうするじゃないか。
返してもらうことをあてにして貸すなら、それが何だというのだ。
悪人どもでさえ、返してもらうことをあてにして、身内の者に貸している。
しかし、お前達は、
敵を愛し、良いことを行い、何も期待しないで貸してやれ。
そうすれば、
お前達の受ける報酬は大きく、お前達は、神の子らとなる。
なぜなら、その方(神)は、
邪な人間の上にも、善良な人間の上にも、太陽を昇らせ、
正しい者の上にも、正しくない者の上にも、雨をお降らせになるからだ。
おまえたちの父が憐れみ深いように、哀れみ深い者になれ。
裁くな、そうすれば、裁かれないですむ。
お前達が(裁きに)使う物差しが、逆に お前達を裁く物差しになるからだ。
盲人に、盲人の手を引けるか?
2人とも 穴に落ちはしないか?
弟子は、師にまさらない。
師に似ていればそれで十分だ。
おまえは、兄弟の目の中にある おが屑は見えるのに、
なぜ、自分の目の中にある 丸太に気づかないのだ?
自分の目の中にある丸太を見ないで、
兄弟に向かって「あなたの目にあるおが屑をとらせて下さい」
と、どうして言うことが出来るのだ?
偽善者よ、
まず、おまえの目から 丸太を取り除け。
そうすれば、はっきりと見えるようになって、
兄弟の目の中にあるおが屑を取り除くことが出来る。
よい木は、腐った実を結ばず、
朽ちた木は、よい実を結ばない。
茨から イチジクが採れるか?
薊(あざみ)から、 葡萄が採れるか?
どの木も その結ぶ実によって知られる。
善良な人間は、倉から良い物を取り出し、
邪しまな人間は、いかがわしい物を取り出す。
なぜなら、
口は、心からあふれ出るものを語るからだ。
わたしを「先生、先生」と呼びながら、
なぜ、わたしの言うことを実践しないのだ?
わたしの言葉を聞き、それを実践する者はみな、
岩の上に家を建てた者に似ている。
雨が降り、激流が襲っても倒れなかった。
岩が、土台だったからだ。
しかし、
わたしの言葉を聞いても実践しない者は、
砂の上に家を建てた者に似ている。
雨が降り、激流が襲うと、倒れてしまった。
ぺしゃんこだった。
ある人が、彼(イエス)に向かって言った。
「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります。」
すると、イエスは答えた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。
だが、人の子には 枕するところがない。」
別の者が
「まず、わたしの父を葬りにいかせて下さい」と言うと、
イエスは彼に言った。
「死んでいる者達に、自分たちの死者を葬らせるがよい。」
また 別の者も言った。
「先生、わたしはあなたに従います。
しかし、まず家族にいとまごいさせて下さい。」
イエスは彼に言った。
「鋤に手をかけてから振り返る者は、神の王国にふさわしくない。」
彼(イエス)は言った。
「収穫は多いが、人手が足りない。
だから 収穫の主に、刈り入れのために働き手を送ってくれるよう願うのだ。
さあ、行け。
わたしはおまえたちを遣わす。
それは、小羊を 狼の群れの中に送り出すようなものだ。
金も、バッグも、サンダルも、杖も 携えてはならない。
道中で 誰にも挨拶するな。
どこかの家に入ったら、開口一番、
「この家に平安があるように!」と言ってやるのだ。
もし、平安の子が、そこにいるなら、おまえたちの挨拶は受け入れられる。
もし、いなければ、その平安は、おまえたちに戻ってくる。
同じ家にとどまり、そこで出される物を食べ飲むがよい。
働く者が、報酬を受けるのは当然だ。
家から家へと 渡り歩くな。
町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べるのだ。
病人の世話をし、
そして 彼らに、
「神の王国はあなた方に近づいた」と言ってやるのだ。
しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、
出て行くときには、足についた塵を払い落として
「だが、これだけは確実だ。神の王国は近づいた」と言ってやれ。
祈るときは、こう言うのだ。
「父よ、あなたの名が崇められますように。
あなたの支配がありますように。
わたしたちに 毎日、日々のパンを与えて下さい。
わたしたちの負債を赦して下さい。
わたしたちも、わたしたちに負債のある者を みな赦しますから。
わたしたちを 誘惑に遭わせないでください。」」
**********
以上が、秦先生の「イエス語録」のご紹介です。
(「イエス語録」の半分強だそうです。)
長い抜き書きで恐縮していますが、
長い長い新約聖書と比べると、本当に短い語録だと思います。
イエスもユダヤ人だからなのでしょうが、
「しかし、お前達は、敵を愛し、良いことを行い、何も期待しないで貸してやれ。
そうすれば、お前達の受ける報酬は大きく、お前達は、神の子らとなる。」
と、利益誘導して勧誘している点は、ちょっと首をかしげますが、
旧約聖書の神(ユダヤ教の神)のような、
殺戮をけしかけ、正当化することは言っておられないようです。
イエスが、ユダヤ教の神を自分の神と考えていたのか、
それとも、
このイエス語録が、キリスト教になる過程で、
旧約聖書の神(ユダヤの神)と一体化したのか、
キリスト教の形成史の本を読んで、確かめたいと思っていますが、
いずれにせよ、
イエスの神と旧約聖書の神が一体化したことが、
その後の歴史に大きな悪影響を与えたのだろうと思います。
もし、
三位一体論争の際に、アリウス派が勝利していたら、
悪影響が軽減されたかも知れませんし、
アリウス派を突き詰めていくと、神とキリストが分離したかもしれません。
私が、歴史の本を読んでいて、
人間がつくづく厭になり、愛想つけたくなるのは、
歴史を担う人間の大半が、
自分の役割、歴史的使命 に基づいて行動するのではなく、
自分の利益を求め、既得権を譲るまいとして、行動するのを読むときです。
戦争や殺戮の大半は、これが原因で生じています。
その際に、
キリスト教が、犯罪者である彼らを正当化する根拠となったことが、
また、
キリスト教がそのようなものだということを、
キリスト教徒であるヨーロッパ人(含むアメリカ人)が、
知っているくせに、素知らぬ顔をしていて、無視していることが、
暗然たる気持ちになります。
その意味から、「三位一体」は、
ヨーロッパ人自らが、自分の都合のために育み育てていった概念なのだろう
と、感じられますし、
何度も申し上げて恐縮ですが、
キリスト教が「殺人宗教」以外の何ものにもなろうとしなかった原因でもあろう
と、思います。
長い抜き書きを引用したことを、改めてお詫び申し上げます。
お読みいただいて有り難うございました。
< 秦剛平先生 の 聖書シリーズ >
第1回 旧約聖書の神も、ユダヤ人も、
カナンを「約束の地」とは 考えていなかったのでは?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-bf1b.html
第2回 旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html
第3回 旧約聖書の神が、キリスト教にもたらしたもの
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-cb42.html
第4回(今回) 「歴史のイエス」 と 「信仰のキリスト」
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-de7f.html
第5回 旧約聖書 の ちょっとした話
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-2dc2.html
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