« 2012年7月ドイツ旅行・・・ドイツ鉄道とケルン駅の女スリ | トップページ | パウロ・・・第2回 パウロの業績 と パウロ没後のパウロの教え »

2012年8月28日 (火)

パウロ・・・第1回 パウロの生涯

パウロの伝記を2冊読みました。

  エティエンヌ・トロクメ著「聖パウロ」白水社、文庫クセジュ
  E.ルナン著       「パウロ」 人文書院
 

    
        


最初、ルナンを読もうとしたのですが、 

ルナンは、
「パウロ」では、第1回伝道旅行から記述を始めていましたので、

先にクセジュを読んで、
パウロの一生の概略を知ってから、ルナンを読みました。

ルナンは、
パウロの生涯の最後であるローマでの活動は、
次の巻である「反・キリスト」に記述されていますので、
「反・キリスト」のパウロが没するまでの部分も読みました。



パウロに興味を持ったのは、
パウロが、キリスト教を実質できに創った人物だと言われているのに、
今まで全く縁がなかったからです。


読んでみて、
キリスト教の本質や
何故三位一体論が、何故議論されねばならなかったのか
ということが、自分なりにだいたい分かってきましたので、


3回に分けて、パウロについてお話しさせて頂きます。

 第1回の今回は、
 「パウロの生涯と業績」について、トロクメとルナンの記述を中心に紹介し、


 第2回の次回では、
 「パウロの業績」と「パウロ没後のパウロの教え」について


 第3回は、
 「悲惨な歴史の淵源となった パウロの教え」

について、お話しさせて頂きます。





     *************




   < パウロの生涯 >


1.パウロ の 誕生、教育


  パウロの生没年は、はっきりしていません。

  トロクメは、
  誕生は、1世紀の初め頃、
  没年は、62年から68年の間と推定しています。


  なお、パウロの経歴について、トロクメとルナンでは、数年異なっていますので、
  ここでは、トロクメの記述に従って記述させて頂きます。



  誕生地は、キリキアの首都 タルソスで、 
  パリサイ派のディアスポラのユダヤ人の息子として生まれました。

  ローマ市民権を持っていた 裕福で、宗教熱心なユダヤ人家族の出身で、
  タルソス、エルサレムで教育を受けたそうです。

  エルサレムでは、ラビの教育を受けたそうです。


  パウロは、ラテン名で、ユダヤ名は、サウルだそうです。
  (パウロは、Paul ポールであり、セント・ポールは、聖パウロです。)



2.パウロの回心(32年頃)


  イエス没後、エルサレムで、パリサイ派の一員として、
  神殿批判をしていたヘレニスタイ(ヘレニスト)のキリスト教徒を迫害していました。


  32年頃
  ダマスコ(ダマスカス)のキリスト教徒を迫害するために赴く途中、
  パウロの眼前にキリストが現れ、キリスト教に回心しています。


  トロクメは、
  パウロは、ユダヤ教を捨てたわけでないので、
  ユダヤ教よりキリスト教に改宗したことを意味する「回心」の言葉を使うのは控える
  と、記述されておられます。

  (トロクメ「聖パウロ」クセジュ30㌻)



  パウロは、このとき
  イエスを、イスラエルによって待望されていたメシアであるとの確信し、

  この確信を、
  ユダヤ人 および 非ユダヤ人で このことに関心ある人々に広める任務、

  イエスの福音を宣べ伝える任務を、
  イエスから与えられた、と確信したとのことです。


  パウロは、
  「イエスにとらえられた」と記述しているそうです。

  ダマスコへの途上、
  「イエスから啓示を与えられ、それを全生涯の使命とした」のですが、

  だからといって、
  「ユダヤ教を捨てたわけではない」ということも、
  おさえておくべき大切な点であろうと思います。



  パウロは、 
  その場で、キリスト教の迫害者としての任務を放棄し、
  そのままダマスコに行って、シナゴーグでイエスの福音を話したそうです。

  これを聞いたダマスコのキリスト教徒は、びっくり仰天しただろうと思います。


  その後、単身でアラビアに向けて出立したのでしたが、
  すぐにダマスコに戻ってきたため、ダマスコの人々の信用を失い、
  自分の活動を他の場所に求めねばならなくなりましたので、

  34年か35年に、
  ダマスコよりエルサレムに行って、ペテロ、ヤコブとだけに会い、
  2週間ほどの滞在の後、故郷のタルソスに戻りました。



3.アンティオキア教会の指導者(43年頃)


  エルサレムよりアンティオキア教会に派遣されたバルナバが、
  大きな成功を収め、異教からのキリスト教への回心者が増加したため、 

  バルナバに加勢する者を見つけることが緊急の必要となり、 
  バルナバが、パウロを選択しました。



4.第1回伝道旅行(45年~48年頃)


  パウロとバルナバは、 
  45年~48年頃にかけて、第1回伝道旅行をを行い、 
  キプロス島 と 小アジアアナトリア高原の4つの町で宣教活動を行いました。


  この旅行で、
  アナトリア高原の4つの町
   ビンディアノアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベで、
  異教徒(非ユダヤ教徒)が、多数キリスト教に改宗し、
  それぞれの町で教会を設立しています。

  異教徒が改宗する際に、パウロは割礼を強制しませんでした。


  アナトリア高原の最初の宣教した町 ビンディアのアンティオキアで、
  その後 パウロが宣教活動する際に、良く生じるパターンが生じています。

  良く生じるパターンとは、

  最初、パウロがユダヤ教のシナゴーグで説教するのですが、
  ユダヤ教徒の反感を買い、

  ユダヤ教徒が町で騒ぎを起こして、 パウロが騒ぎの責任者だと言って、
  パウロを逮捕させるか、町から追い出したのです。


  パウロは、
  それなら非ユダヤ教徒に宣教すると宣言して、
  異教徒に対する布教を行い、多くのキリスト教への改宗者を獲得したのでした。



5.エルサレム教会、アンティオキア教会と断絶(48年頃)


  パウロとバルナバが、アンティオキアに帰国後、
  ユダヤ(エルサレム)から兄弟たちがやってきて、

  異教出身の回心者たちに、
  「救いを得ることを望むなら、割礼を受ける必要がある」
  と、主張しました。

  アンティオキア教会の中に、この主張に賛同する者がいて、
  パウロ、バルナバの「割礼は不要」とする立場が、
  アンティオキア教会の中で認められなかったので、

  最終的な判断をエルサレムの指導者たちから得ることになり、
  パウロ、バルナバを含む使節団が、エルサレムに派遣されました。



  エルサレムでは、
  ヤコブ、ペトロ、ヨハネより、パウロの主張が認められ、
  次の合意を得ることができました。

  ① パウロとバルナバの行動の 完全な自由を認める
  ② パウロとバルナバに、異邦人の宣教を委ねる

  ③ ユダヤ人への宣教は、ペテロが担当する
  ④ パウロがエルサレムに伴った ギリシア人の回心者テトスに
    エルサレムの指導者たちは、割礼を強制しませんでした。

  ⑤ 将来、パウロとバルナバは、エルサレム教会に 援助基金を送金する


  ペトロは、
  それまでエルサレムで活動していましたが、

  パウロの話を聞いて、自分も伝道活動を行う決心をし、
  パウロたちと一緒に、エルサレムよりアンティオキアに同行しました。


  パウロが、アンティオキアに返った後に、
  ヤコブの取り巻きがアンティオキアにやってきて、

  教会のユダヤ人に、
  「異邦人とテーブルを共にしていると、清浄の掟を破っていることになる。」
  と、説明しました。

  この説明を了解した ペトロとバルナバは、
  異邦人たちの兄弟たちに、彼らだけで聖餐を行わせて、
  離れて集まるようにさせました。

  この措置に、パウロを除く全てのユダヤたちが従ったため、
  パウロは激怒し、ペテロを罵倒したのですが、

  この事件により、
  パウロは、アンティオキア教会と断絶することになりました。


  事件後、

  バルナバは、キプロス島へ、パウロは、小アジアへ、
  別々に伝道旅行に出発しました。




5.パウロのガラテヤの者への手紙


  パウロは、第2回伝道旅行に出発する前に、
  ガラテヤの者に手紙を書いています。


  ビシディアとリカオニアの 第1回伝道旅行で創設した教会に
  エルサレム(ヤコブ)からの使者が訪問し、

  「異邦人出身のキリスト教徒は、全員割礼を受けねばならない」
  と、説得しようとしたことに対して、

  パウロが、彼らに次のような手紙を出したのでした。



  <パウロの手紙の概略(ガラテヤ書)>


  神的約束が、
  (割礼を定めた)律法の付与よりも先立つものである。


  キリストに、この神的約束がなされ、
  キリストに信仰を持つ者全てにとって、この神的約束が有効である。


  律法は、

  一種の一時的な監視者であり、
  選ばれた民のメンバーに、一つの規律を課すものである。

  ひとたび、イエス・キリストが到来すれば、律法が演じる役割はなくなる。


  キリストに結びつけられた信者たちは、自由であり、
  そのような状態に留まるべきである。

  彼らが、それが可能なのは、彼らに与えられている霊のためであって、
  この霊によって、彼らが自分の隣人を十分に愛することが可能になっている。


  もし、彼らが、この自由を放棄して、律法のくびきの下に、自分を置くならば、
  彼らは、神的約束の特権を失ってしまうことになる。



  トロクメは、

  ① この文書は、パウロが彼の勧めの神学的根拠を文書で示した最初である。
  ② エルサレム教会にとっては、
    この手紙で展開されている思想は、言語道断なものだった、

  と、記述されておられます。




6.第2回伝道旅行(48年末 or 49年初め~52年)


  最初に
  前回伝導したガラテヤ地方に行って、 

  事前に送ったガラテヤの者への手紙の成功を確認して、
  4つの教会を堅固にした後、


  ダーダネルス海峡の入り口に近い港町トロアス経由、マケドニアに渡り
  フィリピ、テサロニケ、ベレアで伝導し、教会を設立したあと

  アテネ経由、コリントに行きました。


  コリントで、
  50年~51年の1年半滞在して、コリント教会を設立し、

  コリントより 海路 カエサリア経由、アンティオキアに帰国しました。



  第2回伝道旅行におけるトピックスは次の通りです。


  ① パウロは、
    シラスとテモテを伴って、伝道旅行に出発しました。


  ② ガラテヤ地方のリストラで、
    パウロ自ら 弟子のテモテに割礼を施しています。

    テモテは、
    父がギリシア人、母がユダヤ人で、

    ユダヤ法に従って母親の民(ユダヤ人)に属していましたが、
    割礼はしていませんでした。


    ペトロは、
    キリストに獲得されたユダヤ人を、非ユダヤ化していると騒がれ、

    テモテが割礼をしないままだと、
    伝道の際にシナゴーグとの障害になりかねないので、

    テトスに割礼を受けさせたのです。


    ペトロは、

    割礼をしていないキリスト教徒への改宗者に、
    割礼を強制はしませんでしたが、


    自らは、
    ユダヤ教に忠実な正統的なユダヤ人であり、

    ユダヤ教の律法、掟の遵守に関しては、
    状況に応じてきわめて柔軟に対応していたとのことです。


  ③ ルナンは、

    ルカが、
    トロアスで パウロの弟子となり、

    これ以降、パウロがローマで没するまで、パウロに従った
    と、記述されています。

    (トロクメは、ルカについて、特段の記述をしていません。)


    ルナンによると、

    ルカは、ネアポリス出身、フィリピに帰属するマケドニア人の医者で、
    割礼はしていなかったそうです。

    新約聖書の「ルカの福音書」「使徒言行録」の著者です。


  ④ マケドニアの3つの町では、

    それぞれトラブルに見舞われて、短期間で退去せざるを得なくなりました。


    最初のフィリピでは、

    占いで主人に収入を得させていた女奴隷が、パウロにまとわりついて、

    パウロは、
    「いと高き神の僕手、救いを告知している」と叫ぶようになったので、

    パウロが、
    女奴隷の霊を追い出して、占いの能力を奪ったのですが、


    収入を失った女奴隷の主人が、
    パウロとシラスを公共の秩序を乱したと訴えたため、

    当局に捕まり、むち打たれて投獄されたのでした。

    地震が起こって、パウロたちが逃亡しなかったので、
    当局より釈放され、実質フィリピより追放されました。


    次の テサロニケでは、

    大部分のユダヤ人がパウロに否定的で、
    ならず者を抱き込んで騒ぎを起こさせ、

    パウロを騒ぎの責任者だと告訴したのですが、
    ローマ当局はパウロより保証金を取って、釈放しました。


    しかし、
    民衆の集会で、死刑になる可能性があったので、

    すぐに、テサロニケより出発して、ベレアに移動しました。


    移動先のベレアにも、

    テサロニケのユダヤ人が追っかけてきて、

    テサロニケと同様に群衆を騒がせて、
    民衆の集会にパウロを引き出そうとしましたので、

    兄弟たちが、パウロをアテネに向けて、出航させました。


    パウロは、
    このようにしてアテネに逃亡したのですが、

    弟子たちをマケドニアに残し、教会の基礎を固めさせました。

  ⑤ アテネでは、何の成果も得られず

    失意の内にコリントに移動しました。


  ⑥ コリントでは、

    ユダヤ人追放(ルナン説は、キリスト教徒追放)でローマから来た
    ポントス出身のアキラと妻プリスキラと知り合いました。


    コリントについた数週間後に
    マケドニアに残してきたシラスとテモテが合流したので、

    ペテロは伝道活動に専念し、
    多くのコリント人をキリスト教に改宗させることに成功しました。

    コリント教会は、このときパウロが設立しました。


    ユダヤ人が、
    不法な崇拝を広めていると、地方総督ガリオンに告発したのですが、

    ガリオンは、
    ユダヤ教内部の教義上の争いだとして、訴訟手続きの開始を拒否しました。

    ガリオンは、有名なセネカの弟だそうです。




7.第3回伝道旅行(52年~57年)


  今回も、第2回伝道旅行と同じく、
  最初、アナトリア高原の諸教会に行きました。

  その後、今回は エフェソに行き、エフェソで 3年ほど滞在しました。


  エフェソでも、

  最初は、シナゴーグで説教したのですが、
  3ヶ月ほどたつと、強い敵意を持たれるようになったため、

  シナゴーグとの関係を断って、
  ティラノという者の講堂で賛同者を集めました。


  エフェソの教会は、パウロが創設したのではありませんが、

  この3年間は、パウロにとり 実り豊かな時期で、
  エフェソに根を下ろすことができました。


  56年に、
  エフェソよりトロアス経由マケドニアの諸都市で伝道し、

  56年~57年の冬をコリントで過ごしました。

  57年春、コリントを出発し、
  マケドニアを経由して、トロアスから小アジアの沿岸部を南下し、

  パタラよりパレスティナのティルスに航海して、
  カイサリア経由 エルサレムに 到着しました。


  今回の旅行中に、

  エルサレムへの献金するための募金活動を行い、
  パウロが改宗させた人々を伴って、コリントからエルサレムに向かったのです。



  何故、断絶したエルサレムに、募金をし、改宗した信者を伴って
  パウロはいったのでしょうか。


  トロクメは、

  「パウロは、エルサレムの者達が、パウロが創設した教会に
   絶えず侵入してくることに疲れ果てていたので、

   エルサレムとの兄弟たちとの和解を望んでいた。

   和解をし、エルサレムに受け入れるために、
   パウロは、エルサレムが要求することは何でもする覚悟だった。」

  と、記述されています。




8.エルサレムでの逮捕、ローマへの護送、軟禁生活(57年~62年)


  パウロは、
  エルサレム到着の翌日に、ヤコブを訪問しました。

  パウロとヤコブの会談に、エルサレムの長老たち全員が立ち会いましたが、
  冷たい態度の迎え方でした。


  パウロは、
  ユダヤ人出身のキリスト教徒の怒りを避けるため、

  直ちに、律法に服従している証拠を示そうと、
  4人の貧者と一組になって、7日間神殿に籠もることにしました。

  (貧者4人の籠もる費用もパウロが負担せねばなりませんでした。)


  これは、
  パウロが異邦人出身の信者たちに行っていた
  絶対的自由への呼びかけを放棄させられることを意味していました。



  パウロが、エルサレムに連れてきた信者の一人である エフェソのトロフィモが、
  エルサレムの町中でアジア地方のユダヤ人に見つかり、

  ユダヤ人たちが、

  パウロが、異邦人であるトロフィモを、
  禁止されている神殿に連れ込もうとしている と、思い込んで、

  パウロを捕まえて、神殿の外に引き出しましたが、

  ローマ軍が介入して、
  パウロをローマ軍のアントニア砦まで連れて行きました。


  ローマ軍は、群衆が騒いだ理由を知るために、
  パウロを、鞭打ちによる尋問をしようとしましたが、

  パウロが、
  自分はローマ市民であるころを明らかにしたため、
  拘置されるだけに留まりました。


  ゼロテの者と思われるユダヤ人が、
  パウロの暗殺を企てているとの情報がアントニア砦にもたらされたため、

  ローマの千人隊長は、
  パウロをカイサリアのユダヤ総督フェリクスの許に護送しました。

  (パウロは、回心する前キリスト教を迫害していましたので、
   ゼロテの者達は、パウロを裏切り者だとして、暗殺しようとしたのです。)


  ユダヤ当局は、
  パウロが投獄されたことで満足したため、

  パウロは、
  その後2年間 カイサリアで獄中生活をすごすことになります。



  59年、
  フェストゥスが、ユダヤ総督に任命されました。


  ユダヤ当局が、着任したフェストゥスに挨拶した際に、
  パウロをエルサレムで裁くことを要請しましたので、

  パウロは、
  ローマ市民の権利を行使して、ローマの皇帝に上告しました。



  このため、
  59年~60年の冬に、パウロはローマに護送されました。


  60年~62年の2年間、
  パウロは、監視付の家で、ローマで軟禁生活をおくりました。



  皇帝への上告の結果は、はっきりしていませんが、
  どうやらローマで放免されたようです。



  その後のパウロの動静は分かっておらず、
  62年~68年の間に、ローマで殉教したと想像されています。

  (異説は、スペインに伝道しようとして、スペインの道中かスペインで没した。)



  ローマで殉教しただろうと推定されるのは、

  64年、ローマの大火は、キリスト教徒によるものだと、
  皇帝ネロがキリスト教徒を迫害した際に、

  ペテロとパウロが巻き込まれて、
  ペテロは、ヴァチカンで逆さ十字刑、
  パウロはオスティア街道で斬首された、と想像されているからです。

  (処刑方法に差があるのは、
   パウロはローマ市民、ペテロはローマ市民でなかったためとのことです。)

      出所 森有正「土の器に」16㌻


         

 

    < 今回 >

    パウロ・・・第1回 パウロの生涯

    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/1-0120.html

    パウロ・・・第2回 パウロの業績とパウロ没後のパウロの教え

    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-9e5f.html

    パウロ・・・第3回 悲惨な歴史の淵源となったパウロの教え

    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-219f.html

|

« 2012年7月ドイツ旅行・・・ドイツ鉄道とケルン駅の女スリ | トップページ | パウロ・・・第2回 パウロの業績 と パウロ没後のパウロの教え »

読後感」カテゴリの記事

キリスト教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: パウロ・・・第1回 パウロの生涯:

« 2012年7月ドイツ旅行・・・ドイツ鉄道とケルン駅の女スリ | トップページ | パウロ・・・第2回 パウロの業績 と パウロ没後のパウロの教え »