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2012年8月28日 (火)

パウロ・・・第3回 悲惨な歴史の淵源となった パウロの教え

パウロについて、今まで2回お話しさせて頂きました。
 第1回 「パウロの生涯」
 第2回 「パウロの業績」と「パウロ没後のパウロの教え」

今回は、
パウロが確立したキリスト教神学が、
ヨーロッパの悲惨な歴史の淵源になった点について、
お話しさせて頂きます。


     **********


ヨーロッパ史を概観していくと、

キリスト教の教えが、
ヨーロッパ人のエートスに、血となり肉となってしみこんでいて、

ヨーロッパ人を凶暴化させて、
殺戮などの悲惨な歴史を繰り広げさせた と、感じられます。


そのキリスト教の教えの淵源 を 辿っていくと、
キリスト教の実質的な創始者であり、
キリスト教神学を確立したパウロに 到達するのです。


勿論、パウロは、
キリスト教徒を凶暴化させ、殺戮を繰り広げさせようとは、
考えていませんでした。

しかし、
パウロの教えをロジカルに積み重ねていくと、
ヨーロッパ人の凶暴化の淵源となったと言わざるを得ないな、
と、結論づけざるを得ないのです。

何故そう考えるのか、について、簡単にご説明させて頂きます。


私が、
ヨーロッパの歴史に悲惨をもたらしたと考えるパウロの教えは、
現在の所、次の3つを考えています。

 1.「神にとらわれている」との信仰

 2.ユダヤ教の神(=旧約聖書の神)を否定しなかったこと

 3.イエスが持っているはずの 罪を赦す権限 を
   「教会」に認めたこと


     **********


1.「神にとらわれている」との信仰 について

  「神にとらわれている」は、
  キリスト教の信仰の核心だと想像しています。

  前回の最後に、
  森有正先生の文章をご紹介しましたように、

  「神にとらわれているからこそ、自由が実現できる」
  と、キリスト教徒、少なくともプロテスタントは考えているのです。


  A.アルベルトゥス・マグナスの
    「哲学」と「神学」の違いについての見解

  「神にとらわれている」との 信仰について 考え始めたのは、
  松田智雄先生 の ルターの解説 を 読んでいるときでした。

  「とらわれている」と「自由」という 全く矛盾した言葉 に 直面して、
  瞬間理解できなかったこと を 印象深く記憶しています。

  そのとき思い出したのは、
  ゴンザレスのアルベルトゥス・マグナスについて解説した、
  次の記述でした。

  (アルベルトゥス・マグナスは、
   ドミニコ会の神学者で、トマス・アクィナスの先生です。)

  「パリとケルンで教えたアルベルトゥスは、
   哲学と神学をはっきり区別した。


   哲学は、
   それ自体独立した原則によって機能する為、
   啓示ナシに知ることが出来ると考えた。

   哲学は、
   厳密な論理的方法によって、真理を探究しようとする。

   従って、真の哲学者は、
   たとえ議論されるべき事柄が、信仰の教理であるとしても、

   精神が捉える事の出来ない事柄については、
   証明を試みることをしない。


   これに対して、神学者は、
   理性では把握することの出来ない、啓示された真理を
   前提をして論述する。

   このことは、
   神学的教理が、不確実であるということを、意味してはいない。

   むしろ、
   啓示された事柄は、理性に基づく事柄よりも、一層確実である。

   何故なら、
   理性は、啓示とは異なって、誤りを犯す可能性があるからである。


   哲学者は、
   理性が把握することの出来る領域に留まっている限りは、

   いちいち神学によって導かれることナシに、
   自由に探求することが出来なければならない。


   例えば、
   アルベルトゥス・マグナスは、
   世界の永遠性を巡る問題について、

   哲学者という立場からは、
   無からの創造を証明することはできない、
   と、率直に表明している。

   この問題に関しては、
   哲学者は、色々な可能性を 議論する以上のことは 出来ない。

   しかし、
   神学者という立場からすれば、

   彼は、
   世界が永遠ではなく、無から創造されたこと を
   知っているのである。

   これは、
   探求の対象が人間の理性の範囲を 超えているために、
   理性によっては 真理が把握することが 出来ない事例 である。

   もし、哲学者が、理性に基づいて
   世界の永遠性 や 無からの創造 を 証明しようとするなら、

   その人は、
   哲学者としての資質を欠いていることになる。
   理性の限界を無視しているからである。」

   (出所) ゴンサレス 「キリスト教史 上巻」 340㌻  


  B. 森有正先生の見解

  森有正先生も、アルベルトゥス・マグナスと同じ考えを、
  最近読んだ「土の器に」で、次のように 記述されています。


  「キリスト教の神は、
   漠然と神なのではなく、
   イエス・キリストにおいて現れた神なのです。

   哲学においては、
   人間が、神を認識するのですけれども、

   キリスト教(福音)においては、
   神が、
   イエス・キリストにおいて 自分を表したことを
   人間が信ずることを、私どもに要求するわけです。

   語りかけてくる福音(神自身の言葉)ですから、
   人間の側からどうすることもできない。

   神は、
   「こういうものである」と、神様の側から人間に啓示される。

   キリスト教というのは、
   神様が、
   ご自分を 主張なさる。私どもに 要求をなさる。

   これがなかったら
   キリスト教ではないのです。

   他の人間が研究して、神様は存在するということを、
   哲学的に証明した人が何人もいますけれども、

   証明になっているかどうか知りませんが、

   とにかく、そういう
   人間が考え、人間の方から至りつく神
   ではなくて、

   神の方から
   これが神だ と言って、信ずることを要求する
   のですから、
   一点の妥協の余地もない。

   信仰というものは、
   そういう意味で厳格なものです。」

   (出所) 森有正「土の器に」206㌻、207㌻


  森先生が、
  キリスト者として、神の絶対性についても
  言及しておられることに、ご注目下さい。


  C. 「神にとらわれている」と「自由」に、
     ブリッジを架けるロジック

  アルベルトゥス・マグナスや森先生の記述を、
  詳しくご紹介したのは、

  お二人の考え方に、
  「とらわれている」と「自由」という矛盾した言葉に、
  ブリッジを架けるロジックが存在している、と、考えられるからです。


  私が考えているロジックは、次の通りです。

  ① イエス・キリスト(神)を信仰し、
     イエスにとらわれて、イエスと対話している。

  ② 聖霊の助けを受けながら、
     神(イエス)の啓示(命令)を受けて考え、理解するので、

     自分は、
     神(イエス)と同一の考えであり、
     神と同じ理解をしていると確信できる。

  ③ だとすると、
     何を考えても、何を理解しても、
     自分の考えや理解は、神の考えと常に同じなのだから、

     自分の考え、理解は、常に義(ただ)しく、
     それ故、
     自分は、神と同じく自由である。


  要するに、

  神にとらわれている故に、
  神の啓示に従って、
  神の命令するとおり考えているのだから、

  自分の考えは、神と同一であり、常に義(ただ)しい。
  何を考え、理解しても、神と同じ考え が できるなら、
  自分は、自由である、

  とのロジックであろうと、理解しています。

  このように考えると、
  アルベルトゥス・マグナスが言うように、

  ① 哲学は、
     論理の積み重ねであるので、間違う可能性があるが、

  ② 神学は、
     神の命令(啓示)に従って、神の考えと同一なので、
     間違えるはずはなく、常に義(ただ)しい、

  との結論になります。

  絶対者である神を信じ、
  神にとらえられながら、
  常に、神と対話する毎日を 過ごしている内に、

  ある日、
  神のおっしゃりたいことはこういうものだなと
  神を感じる瞬間 が、訪れるのだろうと思います。

  そのとき、
  神より授けられた啓示、命令 が、
  絶対的な信仰の基準であると共に、

  物事を考えたり、理解したりする
  確固たる基準、価値 となるのだろう、
  と、想像しています。

  そして、
  これこそが、
  神の考えであり、絶対に 義(ただ)しく、

  自分は、
  神の考えに従って考えているから、自由である
  と、感じられるのだろう、

  と、想像しています。

  この 神の啓示 を 感じる瞬間 というものは、

  例えば、

  禅宗で
  公案の回答を得るために、座禅を組んで沈思黙考している内に、
  あっとひらめいて、悟りを開く瞬間 と、同じようなものではないだろうか、
  と、想像しています。

  もし、これが正しければ、

  アルキメデスが、
  比重 を 見つけたときのひらめきや、

  ニュートンが、
  リンゴが落ちるのを見て、重力を発見したときのひらめきと、

  とことん突き詰めて考えた結果 ひらめく ということでは、
  同質の精神作用ではないだろうか と、言えるのではないでしょうか。

  神を感じる瞬間、
  啓示を受けたと感じた瞬間 が、

  宗教者として、最高の至福の時なのだろう
  と、想像しています。 


  D. 「神にとらわれている」との考え方の 危険性の所在

  「神にとらわれている」との考えは、
  キリスト教の信者の皆さん の 一般的な考え方であり、

  少なくとも
  アルベルトゥス・マグナスと森有正先生は、
  全く疑問を感じておられないで、信じておられるのだろう
  と、思われます。

  大秀才と、誰からも賞賛された森先生が、
  全くこの考え方に、
  疑問を抱いておられないどころか、

  これこそ、キリスト教の根幹であるような文章を
  書かれておられることは、

  私には、大変な驚きであり、
  キリスト教の持つ危険性 を 感じています。

  というのは、

  これこそが、
  キリスト教に、唯我独尊の独善 と 凶暴性 を もたらしたロジックだ
  と、考えるからです。


  神と対話し、神より啓示を受けることは、その人の頭の中で行われます。
  聖霊の助けを受けるのも、その人の頭の中です。

  従って、
  神の考えというものは、
  実は、その人が考えたことなのです。


  神から 、啓示を受けた、
  神から 、命令を受けた、 と、その人が考えたとしても、

  客観的には、
  (第三者から見ると)

  その人の頭の中も浮かんだことであり、
  その人の主観なのです。

  これは、
  自分が考えたこと(主観)が、

  証明もなしに、
  神の考えである、客観的な真実である(客観)となり、

  絶対的に義(ただ)しいとの考えとなってしまうことを
  意味しています。


  ルナンは、
  パウロのダマスコへの途上での イエスの啓示 について、

  「パウロに 親しく啓示を与えた キリスト とは、パウロの幻想 でした」

  「パウロは、「イエスから聞いた」と信じていますが、
   パウロが耳にしたのは、自分自身の声でした。」
  と、書かれておられます。

   (出所) ルナン「パウロ」364㌻

  この記述こそが、
  アルベルトゥス・マグナスや森先生への
  痛烈な批判となっている と、考えています。


  尤も、このようなことを書くので、
  ルナンは、矢内原先生から、
  「宗教の合理化運動だ」との批判を、浴びせられるのでしょう。

  矢内原先生は、ルナンなどを 次のように批判しておられます。

  「科学的合理主義精神の隆盛は、
   宗教に対しても 大きな影響 を 与えずにはいなかった。

   科学的合理主義に 完全に屈服し、
   宗教の本質自身を合理化しようとする動きさえ見られた。

   即ち、
   科学的に納得できない要素を、
   宗教から全て取り去ってしまうというのであって、

   例えば、
   聖書の奇跡の記事は、

   多くの人がつまずくので、
   できる限り合理的に内容に変形して解釈し、

   どうしても説明困難なものは、
   原始キリスト教社会における時代的迷信の混入であるとして
   除去抹殺し、

   後に残る
   歴史的事実と道徳的教訓だけを、キリスト教の内容として認めよう、
   と、いうのである。


   これは、
   早くは、ルナン、
   近くは、H.G.ウエルズなどが 唱えたものであって、

   キリスト教から 奇跡的要素を除き、
   「汝の敵をも愛せよ」という至高の教訓を教えた

   倫理的宗教、
   道徳的宗教としてだけ、その意義を認めていこう、

   これが、
   現代においてキリスト教を生かす唯一の正しい道である、
   と、主張するのである。

   これは、
   いわば宗教の合理化運動である。」

   (出所) 矢内原忠雄「キリスト教入門」35㌻、(中公文庫)


  奇跡を信じる 矢内原先生 は、

  多分
  「パウロは、イエスを見た」とおっしゃるのでしょう。

  でも、
  パウロが、イエスを見たかどうかについては、
  客観的な証明がないのです。

  「だからこそ 奇跡だ」と、おっしゃるのでしょうが、

  それなら、
  イエスより啓示を受けていないのに、
  「奇跡が生じてイエスより啓示を受けた」と、
  ウソを言う人間が出てきたときに、どう判断されるのでしょうか。

  矢内原先生は、
  「聖霊の助けによりウソを見抜くことができる」
  と、おっしゃるのだろうと思いますが、

  私には、その回答は、
  「黙って座れば、ピタリと中る」と称する
  占い師の言葉のように感じられます。

  ウソつき、詐欺師は、
  そのうちメッキがはがれるでしょうが、

  問題は、
  自分が「本当に神と同じ考えをしている」と、
  思い込んでいる人が出てくることです。

  誰が見ても最高のキリスト者であるとされ、

  神の啓示に従って、神と同じ考えである
  と 確信を持った結果、

  人を殺したり、卑劣な行為を行った、
  ベルナール と カルヴァンの例を、
  ご紹介して、

  「神にとらわれている」との考え方が、
  いかに危険かを お考え頂ければと願っています。


  E. ベルナールの卑劣な行状

  ベルナールは、

  12世紀(1100年代)
  教皇以上の権威を持ったシトー会の指導者として、

  また、
  第2回十字軍を組織した人として有名な方です。

  歴史上、
  キリスト教徒として最高位に位置づけられる
  何人かの一人だと思います。


  ベルナールは、
  神を感じるとする神秘主義者で、

  当時、有名な学者だったアベラールと
  正反対の考え方を 持っていました。


  アベラールは、
  人間的、哲学的根拠を重視し、

  理解できないこと(神秘)を、信じることはできないし、

  教える側も、教えられる側も、
  知性によって捉えることができないことを、

  他人に教えるのは馬鹿げている、と、考える「合理主義者」でした。

  ベルナールにとり、アベラールは、

  許すべからざる冒涜者,
  いたずらに知識を弄ぶ者でしたので、

  異端者として告発し、
  1140年6月3日
  フランスのサンス公会議で、審理することになりました。

  ベルナールは、卑劣にも
  公会議の前夜に、
  アベラールを審理する司教たちを集めて、

  アベラールが断罪されるべき19の命題を呈示し、
  アベラールが異端であることを、
  事前に根回しして、決定してしまったのです。

  翌日、アベラールは、

  公会議ではなく、
  異端審問に被告として出廷している自分を知り、

  全ての弁明を拒否したため、
  公会議で、異端として宣告されました。

  ベルナールの伝記を書いたリシェでさえ、

  ベルナールの卑劣さを
  「お世辞にも褒められないような策を弄した」
  と、記述されておられます。

  (出所) リシェ「聖ベルナール小伝」68㌻


  ベルナールは、

  神の啓示に従って、異端のアベラールを 葬っただけだ
  と、考えているのでしょうが、

  その行状は、人間として唾棄すべき「卑劣な行為」でした。


  F. 凶暴な狂信者 カルヴァン

  カルヴァンは、

  16世紀(1500年代)の宗教改革で、
  ルターと並ぶ宗教改革者として有名な方で、

  皆さんよくご存じの方です。


  カルヴァンは、

  1553年
  イタリアへの亡命の途中にジュネーブに立ち寄ったセルヴェを
  逮捕し、火刑に処しました。

  ツヴァイクは、
  「権力と戦う良心」において、
  カルヴァンについて次のように記述されておられます。

  「我々は、
   カルヴァンの花崗岩のような性格、
   鉄のような頑固さ に 突き当たる。

   カルヴァンが知っていたのは、
   ただ一つの真理、
   カルヴァン自身の真理だけだった。

   人に教えることは、
   カルヴァンだけに許されたた天職であり、
   他の人は、
   皆 カルヴァンから教わらなければならなかった。

   このことは、
   カルヴァンにとって自明の公理であった。

   カルヴァンは、
   世にもまじめな確信をもって、文字通りこう言っている。

   「私は、私の教えることを、神から受け継いでいる。
    私の良心がそのことを保証する。」

   恐ろしい不気味なくらいの自信をもって、
   カルヴァンは、
   自分の主張を絶対的な真理と同列におくのだ。

   「恵み深くも 神が、私に、
    何が善く、何が悪いか を、教えて下さった。」

   自分自身に憑かれた カルヴァン は、
   自分の意見 と 違う意見を、誰かが表明すると、
   激しい怒り に 襲われた。

   相手が、
   どんなに客観的に、
   どんなに学問的に展開しても無駄だった。

   相手が、
   大胆にも自分と違った考え方をした という、
   その事実だけで、

   相手を、
   自分の不倶戴天の敵であるばかりか、

   「世界の敵」
   「神の敵」  であるとした。

   シューシューと 音を立てながら向かってくる蛇

   吠え立てる犬、
   野獣、

   無頼漢、
   悪魔の奴隷・・・

   私生活あっては、
   極度の慎みを示したカルヴァンが、

   同時代の一流の人文学者や神学者たちを、
   このような名前 で 罵ったのである。

   人が、カルヴァンに、学問的にでも反駁すると、
   「神の僕」にあらわれた「神の栄光」を、辱めたこと
   になった。

   サン・ピエール教会の説教者(カルヴァン)その人をつかまえて
   「傲慢だ」と、言ったりしようものなら、
   それは、
   「キリストの教会を脅かした」ことになった。

   カルヴァンの考えでは、

   他人と問答することは、カルヴァンの意見に従って、
   相手が、
   改宗し、その信仰 を 告白するのでなければ、意味が なかった。

   一生涯の間、
   神の言葉 を 解き明かす資格 を 備えているのは、
   自分(カルヴァン)一人だけ であり、

   真理 を 知っているのも、自分だけだ、ということを、
   疑ってみたことは、一瞬もなかった。

   カルヴァンが、
   現実の世界で勝利したのは、

   この
   強固なまでの 自信、
   預言者的な 狂信、
   偉大な    偏執狂 の お陰であった。

   この石のような 固い 不動の信念、
   氷のような       非人間的な頑固さ こそ、

   カルヴァンの政治的な勝利 を、明らかにする秘密である。」

   出所 ツヴァイク「権力と戦う良心」44㌻、45㌻、46㌻、
      (みすず書房、ツヴァイク全集17)


  (注)「権力と戦う良心」は、

      カルヴァンの弟子で、
      途中からカルヴァンを批判するようになり、

      カルヴァンに命を狙われた
      カステリヨンについて書かれた本で、
      是非とも皆様にお読み頂きたい本です。


  神の啓示 と 同じ考えを持ってる と、
  思い込んだ人間が、どんなに危険な存在かは、
  カルヴァンを考えただけでも 良く分かると思います。

  カルヴァンは、

  キリストの教えに従っている、
  神の教えと同じ考えである と、称して、
  神の教え と 真逆な殺戮 を、何度も 行っているのです。

  頭の中で 神を感じる ということの危険性 について、
  キリスト教は、
  何故、議論の俎上 に 載せないのでしょうか。

  私には、
  カルヴァンに対する 根本的な批判 が 行わない
  キリスト教自体に、
  カルヴァンと同じような凶暴、狂信の体質、におい
  を、感じるのです。

  「神にとらわれている」との観念 が、
  いかに危険なものであるか、について、

  キリスト教の方だけでなく、
  非キリスト教徒の方も お考え下さることを、

  切に願っています。


  G. 現在でも存在する危険性

  キリスト教の信者の中には、

  近代になり色々反省して、
  中世までの蛮行はもう行わなくなった と、おっしゃる方もおられます。

  このような発言を聞くと、
  「願望を、
   事実である と 思い込んでおられるな。

   現実を 見ておられないな、
   自画像を描くことができない方の言だな」
  と がっかりして ため息が出てきます。

  キリスト教の本質、
  特に
  ここでご紹介した「神にとらわれている」との考え方は、
  パウロ以来 ちっとも変わっておらず、

  本質的には、
  今までご説明したとおりの危険性を、持ち続けているのです。

  変わったのは、

  キリスト教が、
  政治権力を失い 物理的な暴力(武力)を持たなくなったため、
  キリスト教が、
  人を殺したくとも、殺せなくなっただけなのです。

  でも、
  キリスト教に深く帰依する信者が、政治権力者となったら、
  今まで お話ししてきた 危険 が、現実化するのです。

  例えば、
  敬虔なプロテスタントであったブッシュ(息子)大統領が、
  イラクのフセイン大統領に攻め入ったのは、

  信心深く、神にとらわれているが故に
  神と同じ考えを持った 自分(ブッシュ)が 出した結論だから、
  絶対的に義(ただ)しい と、確信し、

  一時的にせよ「これは十字軍」だと言って、
  あんな血迷ったことを、しでかしたのだ
  と、考えられます。

  また、
  あの当時アメリカ政府を動かしたネオコンも、
  「リベラルな民主主義」で、歴史が終わる と 称して、

  これに反対するものは、
  武力で抑圧してでも実現すべきだ
  と、主張しました。

  ネオコンのイデオローグ だった フクヤマ は、
  「神にとらわれている」と考えるヘーゲルの論理に
  従っていたのです。

  このように、
  「神にとらわれている」との観念の危険性は、
  現在でも 生き続けているのだ、ということを、
  ご理解頂ければ幸いです。


2.パウロが、
  ユダヤ教の神(=旧約聖書の神)を否定しなかったこと

  旧約聖書の神は、ユダヤ教の神です。

  旧約聖書は、ユダヤ人が、
  メソポタミアより民族移動して以来の歴史を、
  神の命令、啓示に従って歩んできた、と考えて、
  記述されたのでしょう。

  第三者から この旧約聖書の神を 見ると、
  ユダヤ人の神 故に、非常に不公平な神であり、

  また、
  十戒で「殺すなかれ」と言いながら、
  ユダヤ人の先頭に立って、殺人、殺戮を繰り返して

  「建て前」と「本音」を、平気で違える神 である、
  と、言うことが言えます。

  人間の倫理に反する 唾棄すべき神 を、

  イエスは、
  自らを、「(旧約聖書の)神の子」と呼び、

  ユダヤ教の律法に 従う必要はない と、主張した
  パウロ も、

  イエスに帰依した後も、ユダヤ教を棄教しないで、
  ユダヤの神(=旧約聖書の神)を、神として 認めていました。

  パウロと対立したペテロなどの
  ユダヤ・キリスト教会(原始教会)も、

  キリスト教徒になるには、

  まず、
  ユダヤ人(ユダヤ教徒)になって、
  ユダヤ教の戒律に従うことが 必要である
  と、主張したのです。

  旧約聖書の神 の 行状 は、

  別のブログ、
  「旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である」
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html 

  で、ご紹介しましたので、
  そちらお読み頂きたいのですが、

  一言で言うと、

  殺人犯のモーセを、
  ユダヤ人のリーダーに登用し、

  ユダヤ人をエジプトから出国する際には、
  ユダヤ人の赤ん坊には手をつけないで、
  エジプト人の赤ん坊だけを殺し

  (自分たちの赤ん坊を殺さないでくれたことに対する
   感謝の祭りが、ユダヤ人の「過越祭」です)、

  モーゼ没後、ヨシュアに命じて、
  他人の土地である カナン に 侵攻し、
  カナン人 を 虐殺したのでした。

  自らの命令に従わないユダヤ人を、大量に殺した 反面、

  神の命令に反するよう 民衆を扇動した、
  自分の子分である モーセの兄 アロン を、
  ユダヤ教の初代の大祭司に、任命しているのです。

  要するに、

  イエスが、
  「愛の神」だとすると、

  旧約聖書の神は、
  「殺人、殺戮の神」であり、

  先ほど申したように
  平気で 二枚舌を使う「詐欺師」なのです。

  この神を、
  ユダヤ人が、自分たちの神だと信じ、
  キリスト教も、引き継いだのでした。

  今申し上げたことは、旧約聖書に書いてあるのです。

  旧約聖書 の 神の行状、性格 および その評価 に関して、
  ここで議論しようとしているのでは ありません。

  キリスト教が、
  ユダヤ教の神(=旧約聖書の神)を 神としたことが、

  後の時代に、
  自分たちが行った、もしくは、これから行おうとする
  殺人、殺戮、詐欺などの犯罪を、

  「神がしていることだ、神が認めていることだ」
  と、正当化する キリスト教徒 が、出現した、

  という歴史が生じましたね、と、申し上げたいのです。

  ここで言う「キリスト教徒」 とは、
  単なる「平信徒」だけでなく、

  「ローマ教皇」や「カルヴァン」などの
  キリスト教を代表する人間も含み、

  彼らが率先して
  旧約聖書の神を利用し、悲惨な歴史をもたらしたこと
  を、指摘しているのです。

  パウロが、
  旧約聖書の神が定めた「律法」を、守らなくても良いとしながら、

  その先に踏み込まずに、
  旧約聖書の神を肯定したことが、

  後の時代に、
  旧約聖書の神を悪用する人が生じる淵源となったのだ
  と、思います。

  悪いのは、
  パウロの教えを悪用した人間であり、
  パウロを責める気はありませんが、

  「もう少し考えてくれていたら、
   悲惨な歴史を少しでも緩和できただろうに」

  との愚痴を、こぼしたくなります。

  旧約聖書の神 を 利用したローマ教皇の例としては、
  十字軍や異端審問を上げれば、ご理解頂けると思います。

  十字軍は、
  「神が望んでいる」と教皇が民衆を扇動した 侵略戦争ですし、

  異端審問は、
  自分の考えと異なる人間を抹殺しようとした 殺戮でした。

  両方とも、
  旧約聖書の神が 行ったことです。

  カルヴァンが、
  神を利用して 殺人 を 犯したことは、
  「神にとらわれている」をご説明した際に、ご紹介しました。


  16世紀フランスで
  カルヴァン派(ユグノー)とカトリックの宗教戦争が勃発した際に、

  1562年、カステリヨンは、
  祖国フランスへの遺言である
  「悩めるフランスに勧めること」を書いて、

  カルヴァン派、カトリックの両派に
  「それが、キリストと何の関係があるのか」と
  イエスの立場から諫めたのですが、
  双方から、完全に無視されました。

  カルヴァン派、カトリック両派が、無視した根拠の一つは、
  「自分たちは、
   (旧教の)神に従っている」からだろう と、思われます。


  1世紀から2世紀のキリスト教徒は、

  旧約聖書の神を、キリスト教の神としたことに
  困惑したのではないでしょうか。

  当時は、
  カトリックや東方教会みたいな
  しっかりした教会組織が 確立してなかったので、

  締め付けもなく、
  三位一体論が確立した後よりも
  自由に 信仰 を 考えられたのではないだろうか
  と、いう気がています。

  グノーシス派は、
  現在異端として無視されていますが、
  彼らが創りだした教えは、

  殺人、殺戮の神を、
  どうやったら合理的に受け入れられるのか、
  どうやって神として位置づたら良いだろう
  という努力の一環だったのでは、という気します。

  彼らは、
  「至高神」と「創造神」の2つの神を創りだして、

  旧約の神は、
  一段低い創造神に位置づけました。

  マルキオンが、
  「ルカの福音書」と「パウロの手紙」だけを、「聖書」と認め編纂したのは、
  旧約の神への批判的な立場故の結果ではないでしょうか。

  三位一体論も、
  この延長線上の議論 では、との 仮説 を もっています。

  正統派教会に、
  グノーシス派を否定され、
  2つの神を創ること が できなくなった故に、

  イエス中心の信仰を確立しようとした努力 ではないでしょうか。

  三位一体論の議論の結果、
  (旧約の)神とイエスと聖霊は一体である と、いうことに なったのですが、

  これにより、キリスト教は、
  ① 表の面は、「愛の神」、
  ② 裏の面は、「殺人、殺戮の神」という
  2つの面を持つ神を、信仰することになったのです。

  そして、聖職者が、

  その時々で、
  自分の都合の良い神の面を持ち出して利用したのです。

  このように考えると、
  キリスト教は、
  「倫理的に堕落した、世人を惑わす邪宗である」との非難に
  どのように答えるのでしょうか と、人ごとながら心配になります。


3.イエスが持っているはずの 罪を赦す権限 を、「教会」に認めたこと 

  ルナンは、「罪」について、
  「繊細な心の人にとっての 大きな苦しみ は、良心のとがめだが、
   これを和らげてくれる者は、彼にとって全能者である。

   罪業の深さの思いに打ちのめされた
   パウロも、
   イエスにおいて始めて 心の安らぎを得た。

 

   末々まで人は、全て罪人であり、
   アダムの子孫であるが故に 罪人とされた。

   ユダヤ教は、
   罪について犠牲を供することによって、

   いうなれば、
   人と神との間に、免罪と負債の勘定科目を開設という
   全く根拠のない思想を確立していた。

   根拠がないというのは、
   罪は免除されるのではなく、
   贖われるものだからである。

   犯された罪は、時の終わりまで続いて残る。
   但し、
   罪を犯した心は立ち直って、全く逆の行いを始めることはできる。

   罪の免除は、
   弟子たちが、イエスから授けられた 権原の一つ と考えられた。
   教会にとって、これほど有り難いことはなかった。

   「罪を犯した心 が、さいなまれる」
   これが、クリスチャンになる動機の一つであった。

   「この方による罪の赦しが、告げ知らされ、
    また、
    あなた方が、モーセの律法では義とされなかったのに、

    信じる者は皆、
    この方によって 義とされるのです。」

   (行伝 13 三十八~三十九)


   ユダヤ人にとって、
   これほど魅力的なことがあろうか。

   コンスタンティヌス帝を、
   キリスト教に引きつけた理由の一つは、

   キリスト者だけが、
   息子を殺した父親の心を静めるための罪滅ぼしができる
   という確信であったという。

   全ての者を赦し、
   むしろ
   罪を犯した者を、いわば 優先させることすら 認める

   慈悲深いイエスは、
   人々の魂に、
   大いなる平安をもたらす者として、この混濁の世に あらわあれた。

   こうなると人々は、
   罪を犯したことは、いいことだ、
   全ての免罪は、 無償(ただ)である、
   信仰だけにより、義(ただ)しいとされる、

   と、言い合い始めた。」
  と、記述されておられます。

  (出所) ルナン「パウロ」308㌻


  ルナン が、
  「イエスが、罪の免除を弟子に授けた と言い出したのは、
   パウロである」とは、書かれてないので、

  ユダヤ・キリスト教会(原始教会)が、
  既に免罪の権限を主張していたのかも知れません。

  でも、ルナンが、
  「イエスが、弟子に授けた」と書かれているということは、
  パウロも、このことを是認していたのでしょう。

  これが後に、ローマ教皇が、
  「ペテロ の代理人」(教皇 グレゴリウス7世 在位 1073~1085)
     ↓
  「キリストの代理人」(教皇 インノケンティウス3世 在位 1198~1216)
     ↓
  「神   の代理人」(教皇 インノケンティウス4世 在位 1243~1254)

  と、夜郎自大的に自称を広げて、
  なし崩し的に権限を拡大させた根拠の一つになったのだろうと、思います。

  ルナンは、
  「罪」の最後の文章を、皮肉っぽく書いておられますが、

  誰が考えても、
  教会が罪を赦す権限をもっているというのは、
  おかしなことではないでしょうか。

  全ての人の罪を贖ったのが、「十字架の福音」だから、
  人類には罪がないのでは、との 揶揄は、控えるとしても、

  キリスト教を 普通に理解すれば、
  「罪」を赦すのは、
  旧約の神か、イエス以外には、考えられない
  と、考えるのが常識ではないでしょうか。

  キリストの弟子たち=教会の聖職者は、人間です。
  彼らも、
  「最後の審判」で、神により裁かれる存在なのです。

  人間の罪は、
  最終的には「最後の審判」で神(=イエス)が裁くものであり、

  それを、
  「最後の審判」以前に、早手回しに 人間が、赦してしまうのは、
  どう考えても「おかしい」のではないでしょうか。

  この点について、キリスト教の中で、
  何故 議論にならないのか、
  何故 批判が出てこないのかが、 納得がいきません。

  理解できるのは、
  ルナンが書いてあるように
  「教会にとって有り難いこと、都合の良いこと」だからでしょう。

  人間は、「エゴの塊」です。

  キリスト教 の 聖職者 も、
  それを支持する信者 も、
  やはり「エゴの塊」だったのですね、と、罵倒したくなります。

  私が問題にするのは、
  神学上の議論ではなく、

  「教会が、罪を赦す権限をもっている」ことにより、
  これを 歴史上、教会が 悪用したことを、
  キリスト教は、どのように考えるのですか、ということです。

  例えば、

  ① 「十字軍の参加者は、免罪される」と扇動して、
    侵略戦争にキリスト教徒を駆り立てました。

  ② 「免罪符を買えば、罪が赦される」と称して、

    大司教選挙の買収資金の返済金 と
    ローマ教皇の道楽資金稼ぎのために、
    ドイツ人から金を巻き上げました。

  このような歴史をもたらした教理について、

  何の反省 も なく、
  何の議論 も ないことが、
  あったとしても、
  根本的な変更がないことが、問題だろうと考えるのです。


4.キリスト教徒の皆様に考えて頂きたいこと

  以上の拙文を お読み頂いて、
  キリスト教を信じる方は、お怒りになるだろうと思います。

  お怒りになる前に、
  次のことを 冷静にお考え下さることを、お願い申し上げます。

  私は、
  キリスト教 を、歴史上の存在として、
  キリスト教 を、「外から」見ています。

  キリスト教を信じる方は、
  キリスト教の内部 で、
  ご本人 が、神と 対話されているのだろう と 思います。

  この 視点の違い を、キリスト教を、「教会」に例えると、

  キリスト教を信じる方は、
  教会の中で神に祈っているのです。

  私は、
  教会を外から眺めているのです。

 

  しかも、私は、
  その町の歴史において、

  その教会が、どのような役割を果たしたのか、
  神父の発言により、信徒がどのような行動をしたのか、
  について、考えているのであって、

  神父が説教した話の内容について、
  議論しているのではないのです。

  言い換えると、

  ① 教会の神父が、町の住人に、
    遙かに遠い町を攻撃しろと言って遠征させ、
    虐殺させたことがありました。
    (十字軍)

  ② 隣町に司祭を派遣して、
    お金を巻き上げたことがありました。
    (免罪符)

  ③ 教会の神父が、
    町に立ち寄った自分の考えと異なる旅人のクリスチャンを
    「異端だ」と断定して、火刑に処したこともありました。
    (カルヴァン)

  このような 教会での神父の説教が、
  町の歴史、町の行動にもたらした影響について、

  更には、
  説教を聞いた町の住人が、行った行動について考えて、

  「ちょっと 考えるべきではないでしょうか」
  と、記述しているのです。

  また、
  神父の説教について
  質問したり、記述したりするのは、

  それが、
  町の歴史に大きな影響を与え、
  町の住人の心の底のエートスを 形作っているから と、共に、

  普通人の倫理から見て首を傾げるときに
  端的に言うと、
  刑法犯罪になる時に、
  「ちょっと どうですかね」と、申し上げているのです。

  これらの神父さんの説教は、
  その淵源を辿るとパウロに行き着きます。

  パウロの生涯や教えが、
  後世の歴史に大きな影響を及ぼしたから、

  宗教上からではなく、
  歴史上の観点から
  パウロにスポットライトをあてて、考えてみたのです。

  私とキリスト教の方との「視点の違い」は、
  なかなかキリスト教を信じる方には、ご理解頂けないようです。

  最近も、
  ブログにコメント頂いた機会に、

  私が、
  旧約聖書の神について質問したことから、
  敬虔なクリスチャンと、
  何回か、対話をやりとりしたのですが、

  その方は、
  最初から最後まで、

  先ほどの例えで言うと、「教会」の祈りについて語るのみで、
  私が質問した
  「教会」が歴史上果たした役割について、どう考えるのですか、
  ということについては、一顧だにされませんでした。

  最後には

  「あなたとの対話を通して、
   宗教は、縁なき者や信心なき者には結局のところわからない
   ということが、
   真実であるという確信を、ますます 強められました。」
  と、一方的にレッテルを貼って、議論を停止されてしまいました。

  キリスト教は、
  自分と異なる考えを持つ人間を、「異端」だと一方的に断定し、
  弾圧し、殺戮を繰り広げてきました。

  今回の対話の結果、
  「この本質は、今でも変わっていないな」
  「キリスト教は、
   パウロ以来の信仰の伝統を、きっちり伝え、教育しているのだな」
  と、強く感じたのでした。

  今回ご呈示した
  パウロの教えの3つの点は、

  歴史的存在であるキリスト教 が、
  歴史にもたらした大いなる悲惨 が、
  キリスト教の源であるパウロに淵源を発している、との
  仮説を ご呈示して、

  皆様のご参考に供したい と、願っていることを
  ご理解頂ければ、幸いです。

  キリスト教を、
  一方的に非難、中傷するのでなく、

  ヨーロッパ史におけるキリスト教 について
  ヨーロッパ人のエートス形成に及ぼしたキリスト教の影響 について
  建設的な コメント、議論 を、お待ちしています。

  最後までお読み頂いてありがとうございました。
  御礼申し上げます。

    パウロ・・・第1回 パウロの生涯
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/1-0120.html

    パウロ・・・第2回 パウロの業績とパウロ没後のパウロの教え
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-9e5f.html

    < 今回 >
    パウロ・・・第3回 悲惨な歴史の淵源となったパウロの教え
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-219f.html

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コメント

キリスト教は
今は武力行使をしない方針になっているだけです。
キリスト教を信じている人たちは
自分たちの生き方考え方を至上のものとし絶対化し、
自分たちと同じ考え方生き方を持たない周りの人々を、
滅びの中にある哀れむべき罪人として、
自分たちの信仰を押しつけようとします。
過去の十字軍や魔女狩り、異端狩りなどの
キリスト教の愚行は、現代のキリスト教においては
精神的なものになっているのです。
そこにある精神は、「正統的信仰」を告白しない人々を
火あぶりにするような、かつてのキリスト教と
同じ精神なのです。
彼らをそのようにしてしまうのは、
キリスト教が、あれかこれか、という
二元対立の問いを設定して、その問題設定から、
人が終始抜け出せないようにしてしまっている
ことではないかと思います。
キリスト教の宣教もこの手法をとっていると思います。
あれかこれかの問いを突きつけます。
信仰か不信仰か。救いか滅びか。天国か地獄か。
といったような二者択一を突きつけます。
そして、そのようなハッキリ対立をたててから、
そのどちらかを選びとるように促します。
そして「よい方」を選びとることによって、
信仰を持って自分たちは救われた。
しかし、周りの世界は、それに対して、
罪や暗黒に支配されている
と決めつけるようになります。
そして、自分たちをどこまでも絶対化して、
周りの人たちの生き方考え方を否定する、
という結果になります。

投稿: やまだはなこ | 2020年12月19日 (土) 01時36分

返信ありがとうございます。

キリスト教は
「敵を愛せよ」とか
「片方の頬を打たれたらもう片方の頬も出せ」
などという教えもあります
-- そして、そこだけが宣伝されます -- が、
よくよく結論である新約聖書の最後
(ヨハネの黙示録)まで読んでみると、
お前を殴ったヤツはいずれ、
神の手によって酷い目に遭い、
殴られたお前こそが、
神の手によって助けられるのだから、
今は我慢しろ、という話なのです。

異端者を火あぶりにし、
非キリスト教国家を侵略したキリスト教ほど、
たくさん人を殺した宗教はありません。
新約聖書の教えに
そのまま盲目的に従えば、
自分の生き方をキリストの生き方と同一視する者が、
自ら武器を持って、自分の教えを信じない者たちを
大量殺人(最終戦争)で処理しようとしても、
なんの不思議もありません。
キリスト教の異端狩りや宗教戦争や侵略・植民地政策は、
聖書の教えに忠実であったがゆえになされた
と考えられます。
今は武力行使をしない方針になっているだけです。

投稿: やまだはなこ | 2020年12月19日 (土) 01時26分

やまだはなこさん

ご指摘ありがとうございます。

ヨハネ黙示録では、神とキリストが降臨すると書いてあると
記憶してましたので、

旧約の神が、人類に災いを及ぼしているのでは、
と、考えていました。

キリスト(新約の神)については、
本音を言うと、愛の神を装っているけど、
本性は、旧約の神と同じだろうと想像しています。

というのは、
アウグスティヌスやカルヴァン
ヨーロッパ史における キリスト教徒の蛮行
(十字軍、異端審問、宗教戦争等)
の 行状を見たら、
キリストが、愛の神、博愛の神だと、考えられないからです。


投稿: かんりにん | 2020年12月18日 (金) 15時36分

新約聖書の神は旧約聖書の神よりもっと残虐です。
むしろ、新約聖書で描かれる神は、
旧約聖書で描かれる神より
はるかに残虐な形で、人殺しを命じています。
(「ヨハネの黙示録」6章9〜19章21節)
ここに書かれている<未来のキリスト>の姿は、
人々を、
火と硫黄の中に投げ込んでいったり、
剣で切り殺したりする、
騎馬上の軍神(「王の王」)です。
ここに書かれている神の「お怒り」は、
新約聖書「ヨハネの黙示録」の神です。
いくら旧約聖書の神が怒りの神であるとはいえ、
これほど陰険な残虐さはありません。
新約聖書「ヨハネの黙示録」は
激しい復讐心にかき立てられて書かれた
<復讐の書>です。
自分たちの教えに反逆する者は、
最終的に殺されて当然、神の目から見て正しい、
とする考えは、新約聖書(キリスト教)の教え
そのものです。
その教えにそのまま盲目的に従えば、
自分の生き方を
キリストであるイエスの生き方と同一視する者が、
自ら武器を持って、自分の教えを信じない者たちを
大量殺人(最終戦争)で処理しようとしても、
なんの不思議もありません。

投稿: やまだはなこ | 2020年12月14日 (月) 22時17分

さなだむしさん

コメントありがとうございます。
また、ご返事が遅くなり申し訳ございません。

久しぶりに、カスティリオンを思い出し、感慨に耽っています。
カスティリオンを日本にご紹介されたのは、渡辺一夫先生だと思います。
私は、最初佐々木先生の本で知り、渡辺一夫著作集を読んで、先生の詳しいご紹介を読み
紹介されたツヴァイクの本を読みました。

日本では、殆ど話題にもなりませんが、
ヨーロッパ史を理解するためには、
渡辺先生がご指摘されたヨーロッパに流れるユマニスムの底流が
重要な視点ではないかと考えています。

キリスト教に関する私の考えをまとめたのが、

キリスト教の本質についての幾つかの謎解き
・・・・・
1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)
2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)
3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html

ユマニスムに関するものは、
遅塚忠躬著「フランス革命を生きた「テロリスト」」
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-32c7.html

をお読み頂ければ幸いです。

取り急ぎ、御礼まで

投稿: かんりにん | 2020年8月 9日 (日) 20時31分

はじめまして,

カルヴァンについて調べ物をしていて、このページにたどり着きました。

私はここにコメントしている皆様のような良識を持ち合わせてなく、思慮も乏しいので、きちんと理解できたかわかりませんが、とても面白く読ませてもらいました。

特に
「4.キリスト教徒の皆さまに考えていただきたいこと」
の中にある、架空の町を出して、①十字軍②免罪符③カルヴァンのたとえ話は、言いえて妙といいますか、実にしっくりきて納得しました。

 キリスト教の二面性にも思わずうなりました。
 愛の神と殺戮の神、場合によりその神を宿して独善的に使い分ける
 どんな罪を犯しても(心に罪悪感を感じても)免罪符や懺悔で、風呂から上がったようにきれいさっぱりし、新たな戦場へ出向き、愛を語り、人を殺す。
 効率が良いというか、小学生が夏休み遊びまわって疲れて眠って、また遊びだしに行くようで、エネルギーに満ちているというか、後ろめたいものがなくむしろ健康的とすら思えてきます。

 私はステファン・ツヴァイクのファンで、最近読んだ「権力と戦う良心」の中で出てくるカルヴァンに衝撃を受けました。

 自分の浅い知識の中ではカルヴァンはプロテスタントを始めた一人で、
「よく働きましょう、
 天職にはげみなさい、
 稼いだお金は汚いもんじゃありません、」
という教えのおかげで、ヨーロッパの資本主義が発展しました。
っていう、比較的良いひととして教科書で教わった気がします。

 それが、ツヴァイクの語り口では、カルヴァンは恐怖政治(テロル)のさきがけ、フランス革命もかわいいもんだ、と語ります。(、とバルザックを引用します)

 私はツヴァイクの書く文章が好きで、(訳者が素晴らしいのかもしれません)歴史に対しても、登場人物に対しても愛情をもって真摯に書かれている印象を持っていました。
 しかし、この「権力とたたかう良心」の中のカルヴァンには、ツヴァイクの憎しみが内臓から裏返って吐き出しているように感じられます。

 「ジョセフ・フーシュ」のときも、フーシュを大悪党としないで、どこか滑稽な小物と笑って物語っているようだったし、南アメリカへ虐殺に明け暮れたコンキスタドール(バスコ・ヌニュス・デ・バルボア)でさえも、冒険活劇のように筆を躍らせているのに、カルヴァンに至っては、身体的特徴の描写からして悪意に満ちている。

 ツヴァイクの作品すべてをすべて読んだわけでないのですが、ちょっといつもの彼の文体でないような気がして、こりゃちょっと盛ったんじゃありませんか?と、カルヴァンについて書かれているものを物色していたのでした。

 インターネットで調べてみると、予定説とプロテスタントの勃興ぐらいの話しか出てこず、プロテスタント系の神父さんのコラムでは、ジェネーブを発展させたとほめてまでいます。

 ツヴァイクの話では向こう200年ルソーの現れるまでジェネーブは死んだ街になったと書いてあったのに、何が本当なのであろう。できればツヴァイクの肩を持ちたいけれど…。

 と思っている中、このページにたどり着きました。

 どうやら、カルヴァンの行った恐怖政治はあったようで、おかしいかな、安堵してます。
 なぜ、学校でポル・ポト、スターリン、ロベスピエールなどと同列に並べて教えないのか不思議です。プロテスタントの開拓者として、ルターと並べているはおこがましいです。
 
 ツヴァイクが怒りを禁じえない、恐怖政治。
 禁止と監視、告げ口と疑心暗鬼で世界から快活なものを奪う社会。
 まさか日本には訪れなかろう、と思ってましたが、ふとそう言えばと思い当たりました。
  
 平家が滅んで、街から禿(かむろ)(密偵)が消えて清々したって話を聞いたことがあったっけ。
「驕る平家は久しからず」、の言葉の中に市井の人の恨めしいものを感じなくもありません。
 連合赤軍事件も、尼崎の角田美代子の事件も、北九州監禁殺人事件も、身近なところで規模の大きい小さいはありますが、恐怖で支配する状況はよくあるものなのだと思い知らされます。


 昨今のコロナ自粛も、これに近づきつつある気がします。
疑心暗鬼にして他人と連帯感を失わせるのがどの時代でも共通の権力者のやり口のようです。

 長々とパウロと関係のないことを書いてしまいました。
 文章に失礼なところ、軽率で気分を害されたところなどありましたらすみません、ご容赦ください。
まとまりのない文章を読んでくださりありがとうございます。

まだ「ちょっとした話」さんの読んでないページがたくさんあるので楽しみです。
古い記事を蒸し返してコメントしてすみません。
また目からうろこが落ちる話をみつけたら、コメントさせてください。

投稿: さなだむし | 2020年7月15日 (水) 20時37分

はじめまして,

カルヴァンについて調べ物をしていて、このページにたどり着きました。

私はここにコメントしている皆様のような良識を持ち合わせてなく、思慮も乏しいので、きちんと理解できたかわかりませんが、とても面白く読ませてもらいました。

特に
「4.キリスト教徒の皆さまに考えていただきたいこと」
の中にある、架空の町を出して、①十字軍②免罪符③カルヴァンのたとえ話は、言いえて妙といいますか、実にしっくりきて納得しました。

 キリスト教の二面性にも思わずうなりました。
 愛の神と殺戮の神、場合によりその神を宿して独善的に使い分ける
 どんな罪を犯しても(心に罪悪感を感じても)免罪符や懺悔で、風呂から上がったようにきれいさっぱりし、新たな戦場へ出向き、愛を語り、人を殺す。
 効率が良いというか、小学生が夏休み遊びまわって疲れて眠って、また遊びだしに行くようで、エネルギーに満ちているというか、後ろめたいものがなくむしろ健康的とすら思えてきます。

 私はステファン・ツヴァイクのファンで、最近読んだ「権力と戦う良心」の中で出てくるカルヴァンに衝撃を受けました。

 自分の浅い知識の中ではカルヴァンはプロテスタントを始めた一人で、
「よく働きましょう、
 天職にはげみなさい、
 稼いだお金は汚いもんじゃありません、」
という教えのおかげで、ヨーロッパの資本主義が発展しました。
っていう、比較的良いひととして教科書で教わった気がします。

 それが、ツヴァイクの語り口では、カルヴァンは恐怖政治(テロル)のさきがけ、フランス革命もかわいいもんだ、と語ります。(、とバルザックを引用します)

 私はツヴァイクの書く文章が好きで、(訳者が素晴らしいのかもしれません)歴史に対しても、登場人物に対しても愛情をもって真摯に書かれている印象を持っていました。
 しかし、この「権力とたたかう良心」の中のカルヴァンには、ツヴァイクの憎しみが内臓から裏返って吐き出しているように感じられます。

 「ジョセフ・フーシュ」のときも、フーシュを大悪党としないで、どこか滑稽な小物と笑って物語っているようだったし、南アメリカへ虐殺に明け暮れたコンキスタドール(バスコ・ヌニュス・デ・バルボア)でさえも、冒険活劇のように筆を躍らせているのに、カルヴァンに至っては、身体的特徴の描写からして悪意に満ちている。

 ツヴァイクの作品すべてをすべて読んだわけでないのですが、ちょっといつもの彼の文体でないような気がして、こりゃちょっと盛ったんじゃありませんか?と、カルヴァンについて書かれているものを物色していたのでした。

 インターネットで調べてみると、予定説とプロテスタントの勃興ぐらいの話しか出てこず、プロテスタント系の神父さんのコラムでは、ジェネーブを発展させたとほめてまでいます。

 ツヴァイクの話では向こう200年ルソーの現れるまでジェネーブは死んだ街になったと書いてあったのに、何が本当なのであろう。できればツヴァイクの肩を持ちたいけれど…。

 と思っている中、このページにたどり着きました。

 どうやら、カルヴァンの行った恐怖政治はあったようで、おかしいかな、安堵してます。
 なぜ、学校でポル・ポト、スターリン、ロベスピエールなどと同列に並べて教えないのか不思議です。プロテスタントの開拓者として、ルターと並べているはおこがましいです。
 
 ツヴァイクが怒りを禁じえない、恐怖政治。
 禁止と監視、告げ口と疑心暗鬼で世界から快活なものを奪う社会。
 まさか日本には訪れなかろう、と思ってましたが、ふとそう言えばと思い当たりました。
  
 平家が滅んで、街から禿(かむろ)(密偵)が消えて清々したって話を聞いたことがあったっけ。
「驕る平家は久しからず」、の言葉の中に市井の人の恨めしいものを感じなくもありません。
 連合赤軍事件も、尼崎の角田美代子の事件も、北九州監禁殺人事件も、身近なところで規模の大きい小さいはありますが、恐怖で支配する状況はよくあるものなのだと思い知らされます。


 昨今のコロナ自粛も、これに近づきつつある気がします。
疑心暗鬼にして他人と連帯感を失わせるのがどの時代でも共通の権力者のやり口のようです。

 長々とパウロと関係のないことを書いてしまいました。
 文章に失礼なところ、軽率で気分を害されたところなどありましたらすみません、ご容赦ください。
まとまりのない文章を読んでくださりありがとうございます。

まだ「ちょっとした話」さんの読んでないページがたくさんあるので楽しみです。
古い記事を蒸し返してコメントしてすみません。
また目からうろこが落ちる話をみつけたら、コメントさせてください。

投稿: さなだむし | 2020年7月15日 (水) 20時34分

久保 公さん

再度のコメントありがとうございました。

私は、原先生の教室の隅っこで、講義を聴講させて頂いただけで、先生のお話は右から左へ通り抜けていきましたので、「原先生が私の恩師だ」などとは、とてもいえるような生徒ではありませんでした。
ただ、前回お話しした、「危機の時代である」とのお教えは、その後もずっと印象に残っていて、「時代は、いずこからいずこへ」と常に考えていました。
(考えるだけで、勉強はしませんでしたが・・・)
お陰様で、1989年12月、マルタ島沖での米ソ首脳会談により冷戦終結することを報じるアメリカ人記者の軍艦上からの現地レポートを、テレビのニュースで見て、
「500年来の国民国家の時代が終了して、人類の歴史が、地域共同体から地球連邦に動き出すターニングポイントが今だ」と、歴史を感じることが出来ましたが、
これは、原先生のお教えの賜物だと、心から感謝していますし、先生の翻訳を読むことを楽しみにしています。


今回も、色々ご教示くださりありがとうございました。

特に、
パウロが、第3回の旅行の際に、多額の寄付を集めて、それを持ってエルサレムに行って、ユダヤ教と和解しようとしたことは、承知していましたが、
それが、キリスト教の信者から金を巻き上げる集金機構の始まりだとは、気がつきませんでした。
確かに、イエスは、すべてを棄ててついてきなさいと言っているだけで、お金を要求していなかったですね。
一つ、目の鱗が取れたような気がしています。

イスラム教とキリスト教は、同じ神様ですから、キリスト教とイスラム教が対立することは、本来ないのだろうと思います。
それがそうならないのは、神を奉じているそれぞれの宗教の幹部=人間が、自分の都合の良いようにしようとするからではないでしょうか。
その意味で、宗教上の争いと言うよりは、政治的な対立、人間の歴史がもたらした対立とみるべきではないかな、と感じています。

改めて、今回も、貴重なコメントありがとうございました。御礼申し上げます。
これからもよろしくお願い申し上げます。


投稿: かんりにん | 2013年1月23日 (水) 00時09分

早速、ご返事賜り、ありがとうございます。
こちらこそ、いろいろ、すばらしい問題提起に接することができ、錆びついた脳のありがたい潤滑油になっております。

日常生活においても、ブログ上の交友においても、キリスト教やパウロにたいする批判などを論じ合えることは、これまで皆無でございましたので、つい饒舌になってしまいます。

「反キリスト者」を翻訳された原佑氏が大学時代の恩師でいらっしゃるとは!!!!
氏のニーチェに対する深い理解度が、その訳文に表れているように思います。

わたくしは、無学です。勉学環境に恵まれておりませんでしたが、中学生のころから、自分の考えを理解してくださる方がこの世にはいないように思えて、書物を通じてその著者と対話する癖がついたようです。

何百冊、いや千冊以上学者の本をも買ったり読んだりしましたけれど、殆どが・・・・性に合わないのです。
そして、不思議なことには、昔の本に気が合うものが多いことに気が付いたのです。

しかし、アウグスティヌスの「告白」「三位一体論」などは、言の葉が茂りすぎていて、見通しが悪く、光が見えないので、2,30年ほど前にギブアップしてしまいました。72歳の今となっては、もう、この本のページをめくる気力もございません。


パウロは、キリストの幻影を見たどころか、パリサイ派としてせっせと迫害していたキリスト教を、蛇のように、すっぽりと丸呑みする戦術を編み出したのであろうと思っています。こうした観点が、ニーチェと合うのです。

イエスは、「私が去ると、すぐに“闇”が来ます。だから、光あるうちに光の中を歩みなさい。」と言われたのは、闇=パウロと思われます。


パウロは、キリスト教に、経済観念を、つまり、集金機構を導入し、「意味不明の原罪」を売りにする術策を創始した人物です。その意味からから言って、カルヴァンはパウロを踏襲していると存じます。
カルヴァンは、ルターを改竄して、ルター派の上層部に居座る権謀術策を編み出し、「よりユダヤ的」に改革したと言えるのではないでしょうか。


キリストが、献金制度の創始者のように思われていますが、イエスが金持ちに「財産を捨てて付いて来なさい」と言われたのは、隣人愛の本質に迫ると同時に、「ローマ脱出」を示唆したものであろうと思います。
イエスの真の弟子たちは、結局、パウロとも袂を分かち、「ローマ脱出=エルサレム脱出」をはたして、東へ東へと向かいました。

政治上の王の上に君臨して、法の上の法を行使するに、「十字架のカリスマ性+剣+金の威力」を以って制圧する方法に「盲者の大群の群集心理を操作する術」が加わっているのですから・・・闇が2000年間も続いたわけです。

しかし、今、「アラーのカリスマ性+剣+金の威力」+「盲者の大群の群集心理を操作する術」との対決の時代になっているのではないでしょうか。

ワンワールド、新世界秩序とは言っているものの、この亀裂はどうなるのでしょう。


歴史における罪業の深さ、市民の愛好するドラマなどの残虐さなどから推し量った場合、「キリスト(パウロ)教+ユダヤ教」の方が不利のように思えますが・・・


投稿: 久保 公 | 2013年1月22日 (火) 22時44分

NNさん

再度のコメント、ありがとうございました。
前回、ホームページの拙文をお読み頂きたいとお願いして、大変なご迷惑をおかけしたことをお詫びします。


「キリスト教を勉強すると、人間の本性が見えてきます。」は、全くその通りだと思います。

信仰する人は、人格的に立派な人だと、思いがちですが、本当にそうなのか、と疑問に感じられることが多々あります。

また、キリスト教の教義自体が、およそ人間としてあり得ないものなのに、それを2000年という長い間、維持してきた人々がおられることに対して、不思議な気がしています。

歴史上、あれだけ優秀な人が多数おられたのに、私でも気がつくような疑問を何故、議論して解決しなかったのか、不思議でなりません。

異端だと認定されたものでも、色眼鏡なしに自分で考えて、判断すべきなのに、マインドコントロールされたためか、全くされていないのが不思議です。

例えば、
今読んでいるアウグスティヌスの伝記の中での、ペラギウス派の扱いが、その典型です。

ペラギウス派は、
エルサレムの司教、ローマの司教(教皇)により、「全く正統である」と認定されています。

それを、
アウグスティヌスが、西ローマ皇帝の宮廷に賄賂工作して、ひっくり返したのです。

アウグスティヌスは、
キリスト教会内の理論闘争で負けたから、外部の西ローマ皇帝の力(暴力)を利用して、自分の考えを押し通したのです。

このことは、
ブラウンは「アウグスティヌス伝」で、ほのめかしていますが、ちゃんと書いていませんし、多分他の方も同様なのでしょう。

ただ、アマンの「アウグスティヌス時代の日乗生活」に、アウグスティヌスの親友のアリピウスが、是非を判断するために宮廷に招集された騎士達に、サラブレッドの種馬を賄賂として渡して、ひっくり返したと書かれているので、知ることができました。

このように、
聖人と言われるアウグスティヌスも、人格的に問題がある人だな、と感じられますし、

異端と罵倒されているペラギウスの考え方も、本来正統と認められるべきだったのでは、という気もしないではありません。


ちょっと横道に逸れて、申し訳ございません。

NNさんには、色々ご教示頂き感謝しております。
これからも、気がつかれたことがありましたら、よろしくご指導くださるようお願い申し上げます。

取り急ぎ、御礼まで。

投稿: かんりにん | 2013年1月22日 (火) 18時22分

度々すみません。
今日もブログ内を拝見させていただいたのですが、何ということか、ブログだけでなくHPもあったのだと、今日気づきました。驚愕しました。しかもちゃんと教えていただいていたのに><
本当に申し訳ありません><

粗忽者で、何をどう読み間違えたのか「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」がブログの記事で、あちこち読んで勉強していくうちに見つかるのかとばかり勘違いしていました。

今日は教会会議でのイエス解釈の移り変わりを読ませていただいています。
結局は、人間であったイエスを神と神聖化するための紆余曲折なのかなあ、などと思いました。
それも「自分の解釈」=「真理」「真実」と強弁するあたり、複眼的な視点の放棄、自己過信、排他性、独善性なのだろう、などと考え考え読ませていただきました。

旧約の神を捨てきれなかったのは、イエス神格化のための長い歴史のある権威(ユダヤ教)への依存であり、「自分達の思い込みの神格化」への利用で、その後の、「黒人の奴隷化」、「異教徒の殺戮」など神学的理由付けに重宝する旧約という事にも繋がっていったのだ、と思うと、心底腹立たしく、これこそ人間と神への冒涜なのでは、と思います。
「天国と地獄」「死後の世界」「永遠の命」などなど、マインドコントロールに重宝しそうなキーワードが満載で、一部の聖職者には信仰はお金の儲かる「打出の木槌」だったのでしょうね。

キリスト教を勉強すると、人間の本性が見えてきます。

また長くなってきてしまいました><
本当に度々お邪魔してすみませんでした。

投稿: NN | 2013年1月22日 (火) 11時46分

こんばんは。
おひさしぶりです。先日はお返事をありがとうございました。
私も相変わらずキリスト教の恐ろしさを考察しています。管理人様のお返事も参考にさせていただきつつ、自分の勉強(ユダヤ、キリスト教に対する)と合わせて、ブログ内を復習させていただいております。

キリスト教は、2つの本来は別の宗教があるのでは、という一文を読んで、思い出したのが(ちょっと的外れかもしれませんが)ユダヤ人で心理学者フロイトの「モーセと一神教」という本です。
フロイトによれば、紀元前14世紀エジプトのアメンホテプ4世が信仰したアテン教という一神教が排斥される過程で、その神官(モーセ、レビ族)と信者(奴隷状態のヘブライ人)達がパレスティナに追放された。その途中のミディアン在住中の40年間に火山の神であった残酷な神(悪魔)ヤハウェと習合してしまった。つまりユダヤ教の神=「エジプトのアテン神+地方神ヤハウェ」で、両者の性質を受け継いでいるらしいです。

http://blog.goo.ne.jp/ogamiitousai/e/54a286fd5067f55264c892e299f4bc2d

今「出エジプト記の秘密」というユダヤ人の書いた本を読んでいますが、やはり似たような事を言っています。


ニーチェの「アンチクリスト」は「キリスト教は邪教です!」を読みましたが、パウロ神学の事は口を極めて攻撃しています。私もパウロの受けた啓示とはやはり幻覚だったと思います。
一種の閃きのような神秘的直感を、当の本人は神の掲示、神や聖霊からのお導き(神の考えそのものの伝授)と思い込む事は、恐ろしい事です。


また原始キリスト教の世界においても、(ミスラさんがおっしゃるように)パウロの神学は反対者がいたようですし、イエスの言葉や行動には関心が薄く、「十字架上の死と復活」「原罪と贖罪」に重きを置きすぎ、その反駁として「マルコの福音書」が書かれた、とも聞きます。マルコの福音書はイエスが復活した場面は書かれていません。


最近、ヨシュア記などに見られる旧約の神の「聖絶」に関して、「神様ってかっこいい!正義のために異教徒を懲らしめてるなんて当たり前!偶像崇拝者は死ね」というクリスチャンのコメントがありました。「自分の神・父と信じた者のなさる事は、正義のための殺戮でもかっこいいし、当然」と言った無批判、盲信ぶりに愕然としました。
十字軍や魔女狩りと言った負の部分の反省のない人も多そうです。全てを踏まえ、原因の追求、反省、熟考の上での信仰でなはない人も多そうで、油断が出来ないなあ、と警戒してしまいました。簡単にコロッと「神の正義」は人命に優先する、となってしまうようです。オ○ムでもそうでしたが、案外人間って簡単に洗脳されるもんだと感じました。


またそこに強大なものや、権威あるもの(白人のヨーロッパの伝統を持つ)に擦り寄る嫌らしさ、一体化の快感、自分の内面への無批判さがあるような気がします。
ついでに黒人のマリアやイエスで、アフリカとかアマゾンの宗教だったら、まったく同じ教えでも従わなかったんじゃ、と疑っています。


「権威に盲従してはいけないよ、権威の言うことは、疑ってかかれ」というのは素晴らしいですね。自分の頭で考えろ、ということですが、キリスト教は盲従を美化し、疑問を持つことをサタンの誘惑、とか言って断罪しそうです。この「サタン」とか言うのも厄介な存在です。神学的にもキリスト教徒の頭の中でも実在ですし。。。


カルヴァンも怖いですね。また記事を読み直してしみじみ思いました。「預言者」というのも困った存在です。

塩野七生さんの「神の代理人」では、やはり自分は本物の預言者だと言っていたサヴォナローラが描かれています。
彼は、説教壇に上がると、聖霊に満たされ、火を噴くような説教が口をついて出る。押しとどめようもない神の霊の働きである、というような事を言っており、神がかり的熱狂がよく描かれていて興味深いです。
ちなみに、彼の説教の主な内容は「世界を修道院に」「異教徒を殺せ」だそうです。


福音書もマルコに後続する福音書は、各教団の教義を反映していて、反ユダヤ主義(ユダヤ人は悪魔の子)な言葉をイエスに言わせていたのか、と思うと汚い、と思わざるを得ません。
キリスト教は「イスラエルの歴史を、それがおのれの事業の前史でもあるかのように見せかけるために、改悪して」しかも反ユダヤ主義を積極的に推し進めました。

「自惚れに満ちた、獣の宗教」という側面をしみじみと感じています。

なんだかまとまりのない文章で申し訳ありません。これからもブログの記事を反芻させていただきたいと思います。

投稿: NN | 2013年1月22日 (火) 00時30分

久保 公さん

コメントありがとうございました。
大変参考になり、勉強させて頂きありがとうございます。

前回NNさんにお書きしたように、キリスト教は、2つの本来は別の宗教であるものが、同居、並存しているのでは?と感じています。

一つは、イエス→パウロ→ルター、
もう一つは、旧約聖書の神→アウグスティヌス→カルヴァンです。

パウロの「神に囚われている」とアウグスティヌスの恩寵論が相まって、ヨーロッパ人の「自分はすべて正しい、自分ら以外は虫けらだ」との唯我独尊をもたらしたのでは?との問題意識で、色々考えている途中です。

久保さんのコメントの中で、原先生がニーチェを訳しておられると知り、大学1年生のときに、原先生の哲学概論で、「現代は危機の時代である。危機の時代とは、曲がり角の時代である」と講義されておられたことを、懐かしく思い出されました。

この先生の教えは、私が歴史を考える際の出発点となっています。現在アウグスティヌスの本を何冊か読んで、さっぱり考えが纏まらず苦闘していますが、それが終わったら、久しぶりに原先生の翻訳を読んでみようと思っています。

また、コメントして頂いて、色々教えてください。
取り急ぎ、御礼まで。

投稿: かんりにん | 2013年1月19日 (土) 15時09分

はじめまして
パウロが確立したキリスト教神学が、ヨーロッパの悲惨な歴史の淵源になった点について

徳川幕府は、キリスト教が日本に宣教するための「布教の際の3条の教則」を有していることに注目しました。
1、神仏を拝んではならない。
2、王命や政府よりも道(キリスト教)に従う。
3、父母骨肉よりもキリスト教を・・

これらの教則は、日本人が国民として、家族として、隣人として関わっているすべての紐帯を断ち切って、キリスト教宣教師の指導に従え・・というマインド操作を秘めていることに等しいのです。このような宣教は、不満分子、反政府分子を養成する温床ともなります。

そこで、1613年12月23日、キリシタン禁止令をだしたのですが、その理由を、
 それ、日本は元これ神国なり。
 キリスト教徒党派は、
 政令に反し、正法を誹謗し、
 義を残し、善を損じ、
 刑人あるを見れば即ち駆けつけ、自ら拝し自ら礼して、
 これを以って宗旨の本義となす。
 急いで禁止せざれば、後世必ずや国家の患とならむ。
 ことに政府の掌にあたって、これを制ぜずんば、
 かえって天譴をこうむらん。

国家にとって危険きわまりない偽善と欺瞞、そして、侵略の道が内在していることをいっているのです。

現今のキリスト教はちがうという異論がでましょうが、その、支持しているキリスト教徒のキリスト教諸国が、主導して原爆を製造して我が国の無辜の市民の頭上にさく裂させたのですから、関係ないとは言えません。
キリスト教は、今日なお、欺瞞的であり、迫害者にして、ときに殺戮的であるという特質を有しています。

キリスト教とはパウロ教であり、それは、迫害者であったパウロの遺伝子ともいえる部分を延々と受け継いでいます。
個人のことを言っているのではありません。組織としての行状を非難しているのです。

わたくしは、ルナンよりもニーチェのパウロ観を採ります。ルター派教会の牧師の息子であったフリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900年)は、その著「反キリスト者」(原佑訳 筑摩書房)でキリスト教を糾弾し、また、そうしたキリスト教の倒錯の根幹が使徒と自称したパウロにあることを看破し、こうした「虚偽の教義」がもたらすものは、「破壊」であると述べています。

「キリスト教の本当の歴史を物語る。
 すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤謬である。
 パウロは初代キリスト教の歴史を捏造し、さらに、
 彼はイスラエルの歴史を、それがおのれの事業の前史で もあるかのように見せかけるために、改悪して、
 すべての預言者が、パウロ救世主について語ったことに されてしまったのである。
 後に、キリスト教会は、人類の歴史をキリスト教の歴史 へと偽造した。

 パウロの創造せる神は神の否定なり。

 パウロは、虚言の「信仰」が必要であると捉えた。
 教会が後になって再びパウロを捕らえた。
 師その人(イエス)が、ひとりのパリサイ人、神学者にで っちあげられた。
 法外な仕方でイエスを持ち上げ、おのれから引きはなす ことによって、事実上の地上の幸福への、
 ひとつの新しく徹底的に根源的な素地が葬られてしまっ たのである。

 また、人格の不滅性という大虚言が本能的に、あらゆる 理性やあらゆる自然性を破壊する。
  
 いかなる目的のために虚言がなされたかが問題である。
 果たして虚言は存続に属するのか、
 あるいは破壊に属するのか。
 人はキリスト者とアナーキストとを同一視してよい。
 彼らの目的、彼らの本性は、破壊のみを目指している。 この命題への証明は歴史から読み取りさえすればよい。
 歴史のうちには、この証明がすさまじい明瞭さで実在し ているからである。」

引用が長くてすみません。
パウロはイエスの弟子ではないという一事が重要な鍵であると考えます。
自称使徒、偽使徒、偽牧者などを、イエスの言葉で表現しますと、「羊の群れの中に、門を乗り越えて進入する者は強盗で人殺し」(ヨハネ福音書10章)です。
イエスは、私の羊は、私の声を聞き分けます。そして、けっして、他の者にはついていきません。」とは、非常に重要な示唆です。

この言葉を、忠告と受け止めて聖書を読みますと、旧約聖書にも新約聖書にも「神の声」「モーセの声」「イエスの声」とは言い難い、非常に不愉快な部分、不協和音を聞き取ることができます。

新約聖書の場合、それは、パウロの手掛けた部分で、傍聴席で、犯人側の陳述を聞いている気分です。


しかし、パウロ教を、一方的に悪玉として糾弾できないのではとも思います。なぜなら、極楽往生を説く仏教や、ご利益を売り物にする神道と、欺瞞と無責任ということにかけては、変わりはないのですから。

そして、今は、この日本も原子力発電所を50か所以上に設置するという愚かな殺戮行為を平気でしているのですから、暴虐という点でも同じです。

ながながと、失礼いたしました。

投稿: 久保 公 | 2013年1月19日 (土) 02時04分

NNさん

暖かいコメントありがとうございました。
何よりのクリスマスプレゼントを頂いたと、喜んでいます。

ブログでも書きましたように、
私は、ヨーロッパの本質を考えるために 色々散策している内に、今年は、キリスト教も読んと思い、幾つかの本を読んでいます。

現在、アウグスティヌスの「三位一体論」を読む前提として、何冊かの本を読んでいます。

まだ途中なので、確たることは言えませんが、

1.キリスト教の大きな流れとして、

  イエス→パウロ→ルター と
  旧約聖書の神→アウグスティヌス→カルヴァン

との、2つの大きな流れがあるのでは、と感じています。

高校の世界史で、
何でプロテスタントが2つあるのだろうと疑問に思いましたが、半世紀ぶりにその謎が解けたような気がしています。

この点は、
アウグスティヌスの三位一体論を読んで、
必要なら更に幾つかの本を読んで、確認したいと思っています。


2.もう一つ大事なことは、

「異端」を無視してはいけないな、
 注目して、彼らが言っていたことを、よく考えなければ、歴史を理解出来ないのでは、と感じています。

グノーシス、アリウス派、ペラギウス派は、カトリックなどの正統派が、蛇蝎の如く嫌いました。

嫌ったのは、それだけの理由があるので、
その理由を考えなければ、本当のことは 理解は出来ないだろうと思います。

「権威に盲従してはいけないよ、
 権威の言うことは、疑ってかかれ」との格言?は、ここにも当てはまると思います。


もし、ご興味をお持ちで よろしければ、
私のホームページでの「歴史論」も、お読み頂ければと、願っています。

とりあえずは、

「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」
http://homepage2.nifty.com/hjhiyama/070717.htm
をお読み頂ければ幸いです。

これからも、遠慮なくコメント頂ければ幸いです。
良いお年をお迎えください。

投稿: かんりにん | 2012年12月31日 (月) 04時01分

こんにちは。
「ダヴィンチコード」を見て以来、今に伝えられる福音書はイエスの死の直後に編纂されたものでないらしいというのが、心に引っかかっていました。最近「捏造された聖書」など聖書に関する本を随分も読みました。
そしてイエスが実在だったにせよ、その教えはまさしく歪められたのだと知りました。他にも随分勉強しました。どこをどう見ても人間以下の獣である旧約のユダヤ人の守護神をイエスの愛の言葉と同時に抱え込んだキリスト教というものが理解できませんでしたが、結局聖職者や権力者の都合で保存されていたのですね。今はおとなしいキリスト教ですが、どんな綺麗事を言っても、構造的に凶悪な部分があるのは確信しています。
しかも「信仰を持てないのはお恵みがないから。盲信できるのは神のお恵み」とか新興宗教のような事を言い出す始末です。
ネット内でもサタンが実在すると信じ込んでいる人が結構います。
キリスト教の上っ面と醜悪な影を把握するには、聖書も読まねばならず、色々な人の意見や歴史と照らし出さねばならず、なかなか結論に達するのは大変です。「イエス様大好き」と依存してしまったほうがずっと楽です。管理人様のすごい知識と人間的な誠実さに心から感動いたしました。頑張ってください。

投稿: NN | 2012年12月30日 (日) 16時57分

ミスラさん

コメントありがとうございました。

パウロは、
原始教会(ユダヤ・キリスト教会)において、異端だったと思います。

ユダヤ教は、
キリスト教より異端に対しての締め付けが緩やかだったため、

パウロも、
エルサレムで殺されかけましたが、あの程度で済んだのでしょう。


キリスト教が、世界宗教となったのは、
やはりパウロの功績が大きかったのだろうと思います。


第三者から見ると、
パウロの教えは、悲惨な歴史を生み出しましたが、

キリスト教にとってみると、
①「神にとらわれている」との考え方により、信仰の核を確立したことと、

②旧約聖書の神を神として認めたことにより、
 エゴの塊であるキリスト教徒が、安心して信仰することが出来る宗教となったことが、大きいと思っています。


人間社会は、
屈原みたいな純粋で清らかな人間は絶対少数派であり、

悪を含んだキリスト教は、
人間社会の身の丈に合った宗教だったからこそ、世界宗教として広まったのだろうと思います。

投稿: かんりにん | 2012年9月 9日 (日) 18時07分

仰る通りキリスト教の負の側面は多くをパウロに負っていると思います。
「イエスを信じることでしか赦されない罪」はキリスト教による最悪事の根拠となり、今も自分達だけが神と通信できると考えている独善のキリスト教徒もいます。

しかしやはり1~2世紀にパウロの評価は芳しくなかったのです。シリアから西へ伝道し西側に信奉者は得てもエルサレム初代教会、東側のヘブライスト達には勝手に教義を作ったパウロを「大敵」として見る向きも少なくなかった。最終的にはパウロらヘレニスト(ギリシャ語使用者)が作った教団がヘブライストを上回り4世紀に皇帝から"カトリック(普遍的)"の公認を受けたのです。

http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/035.htm
> ユダヤ戦役によるエルサレム陥落(70年)後、東方ヨルダンのベラに逃げたとされるユダヤ系キリストト教徒の一派の系譜… 非ユダヤ人をユダヤ教に改宗させることなくキリスト教を彼らに伝道したパウロ等を中傷してますので、キリスト教徒というよりもほとんどユダヤ教徒に近かったと考えられます。

罪人とは、"ユダヤの律法を遵守できない人"の事でして、パウロの言うような全人類が先天的に背負う物ではなかったと思います。
「取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである」(マルコ2:15)

パウロは明らかにユダヤ教に無知な人間向けの(脅迫的な)教義を説いているが、「アダムから遺伝する罪」は彼の書いた最後の書簡にしか登場せず(『ローマ人への手紙』)、思い付いた釣り道具だったという推論も立てられます。いずれにせよディアスポラには彼の様な信仰心も旧約知識も半端なユダヤ人が多くいた、そしてイエスと正反対の物を教義に含ませることになったのだと私は思っています。

投稿: ミスラ | 2012年9月 8日 (土) 22時34分

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