« 2012年11月 民族、国家、積み重ねの歴史 についての 友人との対話 | トップページ | 安倍政権は、インフレターゲット政策より、為替政策に注力すべきでは? »

2012年11月21日 (水)

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる

「ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?」のブログの中で
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html


 「ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の領土だったということは、
  どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

  ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
  ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
  無理だということが、身に浸みて理解できました。」

と、記述しましたので、


私がヴェネツィア隆盛期のポイントだろうと考えている
ヴェネツィアとビザンツ帝国の経緯をご紹介させて頂きます。



812年
シャルルマーニュとビザンツ帝国が アーヘン条約を締結して、

シャルルマーニュの皇帝戴冠を承認すると共に、
ヴェネツィアやイタリア南部がビザンツ帝国の領土となりました。


潟の中のリアルトに実質的な建国したばかりのヴェネツィアにとり、
このアーヘン条約は、今後の発展の基礎となる条約でした。

即ち、
ビザンツと提携することで

 1.東方世界で勢力を伸張する基盤を獲得すると同時に、
   フランク帝国内での商業に従事する権利も獲得して
   有利な立場を与えられただけではなく、

 2.ビザンツ帝国の領土となることで、
   事実上の独立を獲得すると共に、

   イタリアを支配していたフランクが干渉してたときには、
   ビザンツ帝国を盾に対抗することが出来たのです。


ビザンツ帝国の領土だったことは、

 1.中世になっても ヴェネツィアが、

   イタリアの政治権力、

   即ち
   皇帝や教皇の支配の外にいることができて、

   他の都市のようにイタリアの政治闘争に巻き込まれることを
   避けることが出来ました。


 2.また、教皇から距離を置くけたことにより

   近世に至るまで イタリアで唯一と言って良い「言論・思想の自由」を
   維持できたもととなったのです。


ヴェネツィアは、
800年代に ビザンツ帝国のために南イタリアに出兵しています。

例えば、

 1.840年
   サラセンに攻撃されたタラントに艦隊を派遣して、敗北しています。

 2.また、867年から871年にかけて

   841年から30年間
   イスラムに占領されたバーリを奪還するための

   フランク(皇帝イタリア王 ルイ2世)とビザンツの連合軍に、
   艦隊を派遣して、バーリ奪還に貢献しています。



なお、バーリは、

876年
ビザンツ帝国が攻略して以来

1073年
ノルマン人のロベール・ギスカールが攻略するまでの約200年間、

南イタリアでのビザンツ帝国の中心都市でした。


992年 5月 ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と同盟条約を締結して、事実上の独立を果たしました。


ビザンツ帝国 バシレイオス2世が、

ブルガリア王 サムイルとの戦いに際して、
ヴェネツィアと同盟を締結したのです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国にとって かけがえのない海軍の同盟者だったのです。

  注 バシレイオス2世 と サムイル  は、
     991年から1014年の27年間の長きにわたって戦いれました。

    この戦いで、
    バシレイオス2世は、「ブルガリア人殺し」との異名を得たのです。


    「盲者の行進」を参照下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html



ヴェネツィアは、
この条約で、非常に有利な条件を勝ち取っています。

 1.ビザンツ帝国の宗主権の再確認と引換に、
   完全な自立性とビザンツ帝国諸港への自由な出入権を獲得したのでした。

 2.また、ビザンツ帝国の諸港での入出港料が、

   他の国が 30ソルディ金貨だったのに、
   その57%の17ソルディ金貨と優遇されたのです。


同じ年(992年)の7月には、

ヴェネツィアのドージェ(元首)ピエトロ・オルセオロ2世が、
神聖ローマ帝国皇帝に使節を派遣し、

神聖ローマ帝国内での ヴェネツィア商人の商業活動の自由の保証を
要請しました。


ビザンツ帝国との同盟を締結してから5年経った
998年に、

ヴェネツィアは、本格的にアドリア海に乗り出しています。


5月に
ドージェ ピエトロ・オルセオロ2世が、

最初の「海との結婚式(シェンサ)」を行った後、
ザーラの海賊退治に出帆しました。


ザーラで、
アドリア海東岸の20以上の都市に ヴェネツィアへの恭順と服従を誓わせ、

会議に欠席した レジーナ と クルツォラ を 猛攻して、
屈服させたのでした。


この遠征後、
ヴェネツィアのドージェは、

ビザンツ皇帝 バシレイオス2世より ダルマツィア公爵の称号を与えられて、
ダルマツィア公爵と名乗るようになりました。


1002年~1003年に

ヴェネツィアは、
アドリア海南部で、サラセンの海賊を撃破し、

アドリア海の平定を完成して、
アドリア海の統治 を 開始したのでした。


1081年には、
ノルマン人のロベール・ギスカールが、

イタリアよりアドリア海を渡って、バルカン半島に上陸し
コンスタンティノープルを目指して侵入してきました。

この1081年~1085年にかけての
ビザンツ帝国とノルマン人との戦いに際して、

ビザンツ帝国は、
ヴェネツィアと同盟して戦ったのです。


ヴェネツィアにとっても、
ロベール・ギスカールは敵でした。

アドリア海の支配を維持するためには、
アドリア海の出口の両岸を ロベール・ギスカールに奪われるわけには
いかなかったのです。



翌年の 1082年5月
ビザンツ帝国を援助したヴェネツィアは、

皇帝 アレクシオス1世の金印勅書により
例を見ない優遇措置をビザンツ帝国より獲得しました。


 1.ビザンツ帝国内で、何処ででも、
   あらゆる商品を、自由に無税で取引する権利

   → ヴェネツィア商人は、
     帝国内で無制限の自由貿易の権利 と 関税の免除 を 得たのでした。


 2.コンスタンティノープル市内に、

   幾つかの仕事場 と
   ガラタに渡る 3カ所の船着き場が、与えられました。

   → 即ち、
     コンスタンティノープルの金角湾沿いに、

     治外法権のヴェネツィア人の居住区と
     ヴェネツィア船専用の船着き場 を

     獲得したのです。


この優遇措置は、

それだけ ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアの海軍力を必要としていた証(あかし)ですが、

それにしても与えすぎでした。


ヴェネツィア商人は、

ビザンツ商人より優遇されて、
ヴェネツィアの植民地拡大の基盤が築かれたのですが、

他方、
ビザンツ帝国の商業体制に深い亀裂が入ったのでした。


これ以降、
既得権を維持しようとするヴェネツィアに対して、

ヴェネツィアの既得権を減らそうとするビザンツ皇帝や、
ヴェネツィアに対する ビザンツ商人や市民 の 反感による軋轢 が、

約120年間くすぶり続けて、

1204年の
第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃の結末をもたらしたのでした。


先ず、1111年に、

ビザンツ帝国は、
ピサに通商上の特権を与えて、ヴェネツィアを牽制しています。


更に、
1118年に 即位した ビザンツ皇帝 ヨハネス2世は、

ヴェネツィアを、
36年前の1082年の条約で獲得した地位から締めだそううとしましたが、

ヴェネツィア艦隊に
エーゲ海のビザンツ領の島々を攻撃されて、条約改定に失敗し、


1026年に

1082年条約のヴェネツィアの特権を、
100%認めざるを得ませんでした。



1082年より約70年後の 1155年に
一大転機が訪れました。

ビザンツ皇帝 マヌエル1世が、
南イタリアの征服するために、アンコーナに艦隊を派遣したのです。


同じ年(1155年)に
マヌエル1世は、

1111年にピサに与えたのと同じような通商上の特権を、
ヴェネツィアの最大のライバル ジェノヴァに与えています。



オストロゴルスキーは、
「ビザンツ帝国史」で、

 1.一時的に、バルカンの状態が旧に復した

   即ち、
   ハンガリーとの戦闘も静まり、

   キエフの王座に
   ビザンツの同盟者 ユーリー・ドルゴルーキーが即位したことと


 2.ノルマン・シチリア王 ロジェール2世が、
   前年の1154年に没したために

   イタリア攻撃を決意した
   と、記述されておられます。



これに加えて、
次の事情も、マヌエル1世が 遠征の好機と考えた理由と思われます。


 1.前年(1154年)の秋

   神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭)が
   第1回目のイタリア遠征を開始し、

   北イタリアのピアチェンツァの北のロンカール平原で
   帝国会議を開催した後、

   その後長く続く ロンバルディア諸都市の盟主 ミラノとの対立、諍いを
   開始しています。


 2.また、1155年の春

   ロジェール2世を継いだ ノルマン・シチリア王 ヴィルヘルム1世
   (ギョーム、グリエルモ)が、

   フリードリヒ1世がローマに到着する前に、
   教皇との和平を結べると考えて、

   教皇領に侵入して攻撃を始めています。



ビザンツ帝国は、

ノルマン・シチリア王の教皇領の侵入の空隙をついて、
アプリエンに侵攻して、

バーリ、トラーニなどの都市を占領しました。


このため、
ノルマン・シチリア王は、

教皇領で奪ったものを 教皇に返還し、
教皇 と 和解をして、

ビザンツ帝国に対抗せざるを得ませんでした。


マヌエル1世 と シチリア・ノルマン王との争いは、
1155年から3年間続きましたが、

1158年に、
マヌエル1世がシチリア・ノルマン王と和平を締結して、

イタリアへの侵略を断念して撤退しました。

ただ、
1157年頃取得したアンコナは、

ビザンツ帝国がその後も支配を継続しました。


今回のビザンツ帝国の南イタリア征服に対して、

ヴェネツィアが、
どの様な対応を取ったか、勉強不足のせいか、よく分かりません。


しかし、

ヴェネツィアが、
ビザンツ帝国を宗主と認めたのは、

名目的に認めることにより、
コンスタンティノープルなどビザンツ帝国内での通商を
有利に行うためだったのでしょうから、


ビザンツ帝国が
アドリア海に姿を現して、勢威を振るうようになると、

ヴェネツィアとビザンツ帝国が衝突するようになるのは、
時間の問題でした。



神聖ローマ帝国皇帝 フリードリヒ1世は、

1166年秋に
第4回目のイタリア遠征を開始していますが、


1167年早春には、
自ら軍を率いて エミリア街道をアンコナまで進軍して、

ビザンツ帝国が支配するアンコーナの攻略を開始しました。


この時、
ヴェネツィアは、

ビザンツ帝国が、イタリアに拠点を築くことに 危機感を持って、
マヌエル1世に背を向け、

マヌエル1世の船を提供する要請を拒否しています。


こうしてヴェネツィアは、

1082年獲得した
ヴェネツィア人の商業特権を維持するために必要だった
ビザンツ皇帝への義務 を 破ったのです。


マヌエル1世は、
同じ1167年に、

ハンガリーが支配していた
ダルマチア、クロアチア、ボスニア、シルミウム地方を
武力制圧しています。


ビザンツ帝国が、
ダルマチア沿岸地方を支配することは、

アドリア海の盟主であるヴェネツィアにとり、
危機的な状況でした。


ヴェネツィアは、

ダルマチア沿岸地方の主要な都市を押さえて、
船の物資や船員を補給していましたが、

都市の後背地が宗主であるビザンツ帝国が支配するとなると、
従来のようなスムーズな補給が不安となったのでした。


1168年には、
ヴェネツィア の ドージェ(元首) ヴィターレ・ミキエレが、

マヌエル1世が、
ヴェネツィアの特権継続を渋ったための対抗措置として、

全ヴェネツィア人に、
コンスタンティノープルでの交易を禁止しています。


2年後の1170年に、
ヴェネツィアとビザンツ帝国との和解が成立して、

コンスタンティノープルに、
ヴェネツィア人が見え始めたのですが、

その翌年の1171年 3月12日に、
コンスタンティノープルで

反ヴェネツィアの外国人排斥暴動が勃発しました。


この暴動は、

今まで貯まってきたビザンツ人(ギリシア人)の
反ヴェネツィア感情 が 爆発したものですが、

オストロゴルスキーは、

3月12日の一日で
ビザンツ帝国のヴェネツィア人全員(1万人)が逮捕され、

財産、船舶、商品が没収されたのは、
ビザンツ帝国政府の行政機構が確実に機能して、

事前に徹底的に準備していたことを証拠立てるものだ
と、記述して、

この暴動は、
マヌエル1世の煽動により生じたものだと断定しています。


1171年3月12日の暴動後、

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と国交を断絶しています。


国交断絶は、10年以上続き、
アンドロニコス1世帝(在位1183~1185)の治世に
漸く回復したのでした。

国交断絶期間中
ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の敵として行動しています。

例えば、

1174年春から10月にかけての半年間
皇帝 フリードリヒ1世の特使 マインツ大司教 クリスチャン1世が、

ヴェネツィアと同盟して
アンコーナを攻囲しています。


ヴェネツィアは、

マヌエル1世に、
アドリア海制覇を奪われる危険性の方が、

ドイツに脅かされる危険性より大きいと判断して、

フリードリヒ1世と同盟し、
海からアンコーナを攻撃したのでした。


また、1177年

ヴェネツィア ドージェ(元首)サバスティアーノ・ツィアニが
教皇とフリードリヒ1世の争いを調停し、

1159年から18年間続いた教会分裂を終了させる
ヴェネツィア条約を締結させています。


この1177年、
マヌエル1世は、ヴェネツィアに対して戦争を開始し、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人数千人を逮捕し、
財産と船舶を没収しています。


この時
ヴェネツィアが派遣した艦隊は、ビザンツ帝国に敗北しましたが、

その後、ヴェネツィアが、

ザーラとスパラートに 海軍を置くとともに、
シチリア王国と同盟を結んで 体勢を立て直すと、

ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアに恐れをなして 平静を保つようになりました。



1180年9月24日
ビザンツ皇帝 マヌエル1世が没しました。

  マヌエル1世 在位 1143~1180 37年間


息子のアレクシオス2世が 即位し、
母のマリー・ダンティオッシュが摂政となりましたが、

    注 マリー・ダンティオッシュ は、
       十字軍国家 アンティオキア公国 ボエモン3世の娘です。


マリーのラテン人優遇策が、
ビザンツ国民のヨーロッパ人への敵愾心を増大させ、

イタリア商人とヨーロッパ人傭兵が、
彼らの憎しみの的となりました。


1182年5月
コンスタンティノープルの
反ラテン(反ヴェネツィア)外国人排斥暴動を利用して、

マヌエル1世の従兄弟 アンドロニクス1世が、
コンスタンティノープルに乗り込み、

9月には
共治帝の即位し、

11月には
アレクシオス2世をベットで絞殺して単独の皇帝となったのです。


3年後の1185年6月
シチリア王 ギョーム2世が、

アドリア海東岸のディラヒオンに上陸して、
ビザンツ帝国への侵攻を開始しました。


8月24日には、

セサロニキ(テサロニキ)を陥落させて、
コンスタンティノープルを目指して進軍しています。


アンドロニクス1世は、

シチリア王の遠征に対処するために、
ヴェネツィアと条約を締結したのですが、


条約締結後、
コンスタンティノープルに 再びヴェネツィア人が現れるようになると、

アンドロニクス1世の人気が真っ逆さまに急落してしまい、
コンスタンティノープルで貴族が反乱、決起する事態となりました。


そして、9月12日
イサキウス・アンゲロス(イサーク2世)が皇帝宣言して、

アンドロニコス1世は、
黒海に逃れようとして市民につかまり、リンチにより殺害されたのです。


こうして、
コムネノス朝が滅亡して、アンゲロス朝が始まったのです。


又、この事件で、
ビザンツ帝国の反ラテン感情が残り、

それが第4回十字軍の背景となったのでした。



1195年4月

イサーク2世は、
弟 アレクシオス3世に廃位されて、目を潰されて幽閉されました。


翌年(1196年)

イサーク2世の娘 イレーネは、
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップと結婚しています。


フィリップとイレーネの結婚後、
フィリップの兄 皇帝ハインリヒ6世が、

ビザンツ帝国に
1194年頃した要求と同じ脅迫的な要求をして、
金16ケンテーナーリウムの支払いを、
ビザンツ帝国に承諾させています。


皇帝 ハインリヒ6世は、

1185年
ビザンツ帝国を侵略したシチリア王の後継者でもあったのです。


アレクシオス3世は、
ドイツ税を新設だけでは支払いきれないため、

コンスタンティノープルの諸聖使徒聖堂の皇室の墓から
貴金属装飾を剥ぎ取らねばなりませんでした。

このドイツ税は、
ビザンツ帝国の人々の反ラテン感情を 更に悪化させたのでした。


ハインリヒ6世は、
脅迫的要求による法外な支払いだけに満足せず、

1197年
シチリア島 メッシーナ に大艦隊を準備して、

ビザンツ帝国征服に出発しようとしているときの9月に
病没したのです。

(ビザンツ帝国は、
 ハインリヒ6世の死により ドイツ税の支払いを免れました。)


この頃、
ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に
色々な理由から 攻撃されるべき存在と見られていました。


 1.商業上の競争相手
 2.ビザンツ帝国の 西欧人攻撃の 生々しい記憶

 3.シリアとパレスティナでの キリスト教徒の弱体化
 4.東西教会の分裂

 5.ビザンツ帝国のとみに対する羨望
 6.コンスタンティノープルにある 聖遺物


今まで述べたような経緯を踏まえて、第4回十字軍があるのです。


歴史の本を読むと、
今まで述べたような事件が、それぞればらばらに記述されています。

これらを一つの流れとして再構成しないと、歴史の理解が難しいと思い、
拙いお話しをさせて頂きました。


ヴェネツィア史は、

我々が世界史で学んだ西ヨーロッパ側から見るだけでは、
歴史上の出来事の意味を理解するためには 不充分であり、

西ヨーロッパ と ビザンツ帝国 の 両方の視点から
歴史を理解する努力が必要だろう と 思います。


マクニールの「ヴェネツィア」(岩波書店)は、
この両者に加えてスラブ、ロシアを含めた相互連関を記述した名著であり、
ご興味ある方に是非とも一読をお勧めしたい本です。



次回は、

この後生じた第4回十字軍について、
考えていることをご説明させて頂きます。


ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html




ヴェネツィア史 関連ブログ



ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html

539年 フランク ヴェネツィアを占領
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d303.html

ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html

 

|

« 2012年11月 民族、国家、積み重ねの歴史 についての 友人との対話 | トップページ | 安倍政権は、インフレターゲット政策より、為替政策に注力すべきでは? »

イタリア」カテゴリの記事

地中海」カテゴリの記事

ローマ、ビザンツ」カテゴリの記事

Blog Selection」カテゴリの記事

コメント

たなかさん

わざわざご返事有難うございました。


「点と点が少しずつ繋がってきつつあります」

これも、歴史の本を読む楽しみの一つですね。

関係ないと思っていたことが、実は大変深い関係だったことが分かったときの驚きと発見したより喜びは、無上のものがありますね。

といっても、
これは隠居のみの言いぐさで、
現役のたなかさんにとっては、卒論の締め切りという時間を気にせざるを得ないので、そんなのんきな気分ではないのでしょう。

興味深い歴史の謎を見つけ出し、その謎解きに成功して、卒論を無事仕上げられることを願っています。

もし、私でもお役に立つことがありましたら、遠慮なくご連絡ください。

投稿: かんりにん | 2015年11月 3日 (火) 03時11分

ご丁寧なお返事ありがとうございます!!
とんでもないです🙇🙇私も今卒論の資料を探している途中で、いろいろな情報が点になっていて頭の中でバラバラになっている時このブログを発見しました。おかげ様で点と点が少しずつ繋がってきつつあります✨
とは、言ってもまだ資料不足の状態で、、思わず聞いてしまいました、、、
そうですよね!焦らず、地道に知識を増やしていきたいと思います!!
本当にありがとうございます😊これからもブログ拝見させていただきます😊

投稿: たなか | 2015年11月 3日 (火) 00時54分

たなかさん

コメント有難うございます。


参考文献を紹介しろと言われて、どうお答えしたら良いのか、絶句しています。

というのは、
一つには、3年前に書いた文章で、細かいことは忘れてしまったことがありますが、

それ以上に、
この文章は、いろいろな歴史の本を読んで、年表に記入した中で、自分なりに見つけ出した謎を解いた文章だからなのです。


いろいろな本を読みながら、
その意味が良く分からず、とりあえず、著者の記述を年表に記入しておいて、

それを、後から読み返して考えたら、
なるほど、こういう風に理解すると、ストンと納得できるな、と考えたことを記述したのです。


ある本のこの部分が、今回のブログのこの文章に対応する
という性格のものではないのです。

従って、
参考文献を。もれなくお知らせすることが不可能なことをお詫びします。


そうは言っても、

 1.オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」(恒文社)

 2.ベック「ヴェネツィア史」(白水社、クセジュ)

 3.マクニール「ヴェネツィア」(岩波書店)

が、今回のブログを生み出す柱になった

言い換えると、
上記の本に記述されておられる歴史事実を元に、私なりの謎解きを組み立てた
と、記憶してます。


これに、
シャルルマーニュからホーエンシュタウフェン朝の歴史や、
ノルマン人の南イタリアの歴史、

更には、
叙任権闘争やフランス史(含むイングランド史)の本などが、

背景に存在して、血や肉になっているのだろうと、今振り返ると感じられます。


長年、歴史の本を読んでいると、

歴史の楽しみは、
未知なる歴史知識を知って、増やすこともありますが、

それよりも、
自分で歴史の謎を見つけ出して、
その謎解きをすることが、一番の醍醐味のような気がしています。


今回のブログは、
その謎解き一つであり、

このブログのような見解を記述された学者の方の本を読んでご紹介したのではない、

即ち、
直接的な参考文献はないことを、
お詫び旁々、ご報告させて頂きます。

投稿: かんりにん | 2015年11月 2日 (月) 22時03分

こんにちは
この記事はなんの参考文献を使っているのですか?
もしよかったら教えてもらいたいです🙇

投稿: たなか | 2015年11月 2日 (月) 19時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる:

« 2012年11月 民族、国家、積み重ねの歴史 についての 友人との対話 | トップページ | 安倍政権は、インフレターゲット政策より、為替政策に注力すべきでは? »