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2013年6月 3日 (月)

E.トロクメ著「ナザレのイエス」その生涯の諸証言から と、神学が、似而非(エセ)学問であることについて

加藤教授と田川教授の本を読ませて頂きましたので、
お二人の先生であるトロクメ教授の
イエスと原始キリスト教の本を読んでみようと考え、

その一冊目として、
「ナザレのイエス」を読んでみました。


本書は、
福音書にあるイエスの発言を、

① 主の言葉、
② アポフテグマ
③ 物語伝承
④ 譬え
⑤ 奇跡物語 に分けて、
それぞれを説明された後、

イエスのガリラヤでの伝道は、
 ① ごく狭い、一地域の人々への限られたものであり、
 ② イエスが、
   地方の一預言者であり、
   国民大多数に対して影響を及ぼしていなかったのは明かである、
と、記述されて、

ガリラヤの名も無い説教師が、
国家的に一躍有名となり、公共の人になったのは、
エルサレム神殿での商人追放であり、

社会秩序維持の責任者であるユダヤ教の権力者とローマの総督が、
イエスに対して驚きと不安となり、
イエスが処刑されることになった、
と、結論づけられておられます。


ガリラヤでのイエスの発言 の 解説のなかで、

① イエスの譬え話は、
  中産階級の家に招かれて会食した際に、
  イエスが、教示した譬え話が、福音書に記述された。

  譬えは、
  本質的に、一般庶民を教える手段であるという考えは、
  福音書記者マルコが、護教上の目的のために考え出したものであって、

  その目的は、
  この文学類型を、教会伝承のなかに統合しようとする
  最初の試みを、打破することであった。 

② イエスの奇跡物語は、
  ガリラヤの東北部とか、
  ティベリヤ湖周辺の村落で行った、治癒行為などを、

  村人が、イエス処刑後も覚えていて、
  その話を、
  マルコが取材して、マルコ福音書に記述したものである、
との記述は、
非常に参考になり、印象深く読ませて頂きました。


本書で最も印象深かったのは、

イエスが処刑された理由を説明した
「第八章 公共の人としてのイエス」でした。


トロクメ教授の要旨を、
私流にまとめると、次のようになります。

神殿でのイエスの商人追放は、
瞬間的な一撃であり、
後に何も残らない性質のものであったが、

例えて言うと、
銀座の四丁目の交差点で、
人の耳目を引き付けるような行為であったため、

瞬く間に、
エルサレムはもとより、ユダヤ全土に、イエスの行動が広まり、

イエスが、
大変有名となり、名声をかちえましたが、

反面、
ユダヤ 及び ローマの指導者階級の人々に、
嫉妬心や敵対心をあおり立てることになって、

イエスが、
民衆を扇動して、
聖職者による少数独裁体制を構成している人々(神殿の聖職者)や、
彼らを支持している外国の人々(ローマ総督)に対して
暴動を起こすのではないか、と、心配された。

特に、
エルサレムのサンヘドリンや
ローマ代官の統治が行われている地域では、

イエスの存在が、
やがて危険なものになると、警戒されるに至った。


この出来事は、
イエスが、逮捕・処刑される、数週間、あるいは 数ヶ月前の出来事であろう
と、トロクメ教授は、推定されておられます。

共観福音書(マルコ、マタイ、ルカの福音書の総称)は、
文学的・神学的動機として、
福音書の終わりに、エルサレムで起こったすべての事件を記すことにした
恣意的操作であるとされて、

伝道の初期に起こった事件であると記述しているヨハネ福音書に
近い考え方をされておられるのだろうと、感じました。

(多分、
 ヨハネ福音書とマルコ福音書の間に生じた事件だ
 と、考えておられるのだろう と、推測しています。)


イエスを、
夜中に逮捕し、すぐに裁判をして、即刻処刑したのは、

イエスが、
① 過越際にやって来た巡礼者の群れを、蜂起させるのを妨げる
  と同時に、
② 群衆が、
  この人気ある囚人のために騒ぎを起こすのを避けようと望んでいたこと

を、考えるなら、良く理解できる。

この様な二つの危険が存在していたのは、
イエスが、
国民の大部分から、メシヤだと考えられていたからに他ならない、
と、記述されておられます。


トロクメ教授の記述により、
① イエスが、「ユダヤ人の王」として処刑されたことも、
② イエス逮捕の際に、
  ペトロ以下の弟子達が、全員逃亡して隠れてしまった理由が、理解できました。


本書の最初の「日本の読者へ」で、
トロクメ教授は、次のように書かれておられます。

本書の立場を、簡潔に記した名文だと思いますので、
ちょっと長くなりますが、ほぼ全文をご紹介させて頂きます。


「ナザレのイエスの祖国 パレスチナは、
 日本から遙かに遠いとは言え、

 彼(イエス)は、アジアの人であります。

 一人のヨーロッパ人が、
 アジアの人々に、
 一人のアジア人のことを、今更 敢えて説明する必要があるでしょうか。
 うぬぼれていると、思われるかも知れません。

 著者と致しましては、
 そうでないようにと願っております。

 私は、
 本書を、
 フランスの人々と、
 ヨーロッパの同胞のために書きました。

 この論述が、
 日本の読者にも関心を呼ぶだろうと考えて下さる日本の人々がおります。

 そうであって欲しいと祈るものですが、
 お読み下さる一人一人からは、
 本書が、
 随分ヨーロッパ的であると言われることを、覚悟しています。

 更に、
 本書の主張は、
 一方において、
 ヨーロッパの古くからの伝統を、はねのけることにあります。

 この伝統とは、
 イエス解釈は、
 この人物を、ヨーロッパ文化に結びつけることにある、
 といういき方です。

 古典的キリスト論的教理や、
 最近の二世紀のイエス伝は、

 それぞれのやり方で、
 ヨーロッパ的哲学思想や歴史観に、イエスを結びつけようとの
 この試みを、更に遠くまで押し進めました。

 本書では、
 イエスのヨーロッパ的解釈を陳述するのではなく、

 証人達ーー殆ど全部アジア人ーーに、
 ナザレの預言者の生涯について語らせたいと思います。

 この試みは、
 些か無鉄砲であり、
 当然議論が予想されます。

 しかし、
 これによって、
 日本の読者に、更にイエスに近づいてもらえるなら、

 それは、
 本書にとって、大変貴重な証し となります。」


この文章は、
本書の意図を簡潔に述べられておられると思います。

トロクメ教授は、
敬虔なキリスト教徒でありながら、
その信仰の赦す範囲で、
出来るだけ客観的に、公平なイエス像を記述しようとされておられて、

しかも、
成功されておられると、思われ、

本書は、
イエス伝のなかでも、名著に位置づけられる本であるのでは、
という感じがしています。


これから、トロクメ教授の「キリスト教の揺籃期」その誕生と成立 を、
更に読み進めてみようと考えています。



ところで、
本書を読みながら、

1.神学が、他の学問と異なる点
  端的に言うと、
  神学は、学問とは似て非なる似而非(エセ)学問である という点  と、

 
2.私がイエス伝を読む必要性があるのか 

を、考えていましたので、簡単にご紹介させて頂きます。


1.神学が他の学問と異なる点
  (神学が、似而非(エセ)学問 と述べる理由)

  マックス・ウェーバーは、「職業としての学問」で、

  ① 学問的な研究をして生じる結果は、
    「知る価値がある」という意味で重要であるという前提である。

    この前提そのものを、
    学問の手段を持ってして証明する訳にはゆかない。

    この前提は、
    その究極の意味にかかわらせて解釈されるものであるが、

    その究極の意味というのは、
    そのあとで、
    めいめいが、自分たちのぎりぎりの生活態度に照らしてみて、

    拒否するなり、
    承認するなり、しなくてはならないものである。

  ② 物理学や化学や天文学などの自然科学が、
    自明な前提としているのは、究極の諸法則を知る価値がある、
    ということである。

    その法則を知っていると、
    技術的に有効な成果が得られるからして、知る価値がある、
    というだけではなく、

    更に、
    学問が「職業」であるならば、

    学問は、
    「それ自身のために」も知る価値があるからだ、
    というのである。

    この前提は、
    それ自体、証明しようとしてもできるものでは絶対にない。

    自然科学が描くこの世に、
    1) 存在するだけの価値があるかどうか、
    2) この世には「意味」があるかどうか、

    また、
    3) この世に生きて意味があるのかどうか、
    ということは、

    尚更証明できる事柄ではない。 

  ③ 医学についても、
    医学の研究の一般的な「前提」は、
    1) 生命を維持するという課題と、
    2) 苦痛を出来るだけ和らげることとが、

    ひたすらにそれ自体として、肯定される、
    ということである。

    医者は、
    危篤の病人が、死にたいと嘆願する場合にも、
    色々と手段をつくして病院を助ける。

    医者は、
    医学の前提と刑法典とのために、

    その(死にたいという患者や患者の身内の)望みを
    叶えるわけにはゆかないのだ。 

  ④ 美学においても、
    芸術品が存在するということは、
    美学にとって与えられた事実である。

    この事実が生ずるときの条件を、
    美学は、根拠づけようとする(学問である)。

    芸術品が存在すべきかどうか、
    ということは、
    美学の問うところではない、 

  ⑤ 法学についても、
    1) 法が、存在すべきかどうか、
    2) 他ならぬ かくかくの規則を立てるべきかどうか、
    については、
    法学は答えはしない。

    法学が示すことが出来ることは、
    もし、
    我々が 法的施行の規範に従って、ある効果を望むならば、
    かくかくの法規が、その効果を上げるために一番適当な手段である、
    ということである。 

  ⑥ 歴史的文化科学は、
    1) 昔には、
      これらの文化諸現象が存在する価値があったのか、
      又、
      今もあるのかどうか、
    という問題には、自らは答えないし、

    また、
    2) 文化諸現象を知ることが、苦労のしがいのあることかどうか、
    という問題にも、答えはしない。

    歴史的文化科学は、
    文化諸現象を知れば、

    それによって、
    「文化人」の社会に参加するという利益がある、
    ということを、前提としている。

    だが、
    こういう前提が、実際にあるのかどうかは、
    「学問的」に、誰にも証明できることではない。

    また、
    文化科学が、上のことを前提するからと行って、

    その前提が、
    自明であるということが証明されるものでは決してない。


要するに、
ウェーバーは、
学問が存在する価値があるとの前提に基づいて、学問が存在するのであり、

その学問が存在する価値あるとの前提については、
即ち、
研究すること、及び 研究した結果が、意味、価値があることは、
証明できないと、縷々説明されているのです。

従って、
学問とは、
学問それ自体を目的として組み立てられる技術(アート)である、
ということだろうと思いますし、

この点については、
神学も、
他の学問同様、当てはまるのだろうと思います。


神学と他の学問が、決定的に異なるのは、
研究の出発点が、
事実に基づかない ことです。

ウェーバーが例示した諸学問は、
ある事実をスタートラインとして、研究を積み上げていくことが、
価値があるものであるとの前提にしている、ということです。

ところが、
神学のスタートラインには、

人間が創り出した神、
即ち
架空の存在 が、鎮座しているのです。

神は、架空の存在ですから、
何とでも作り出し、言うことができますし、

これが神だと言えば、
だれも「そうではない」と反論や証明することができないものです。

これに、
人間は、エゴイストである との性格が加味されると、

神学者やキリスト教団の都合、妄想、により、
何とでも理屈をつけることが可能になるのです。

要するに、
スタートラインが事実に基づけば、
その後、
どの学者が論理が積み重ねても、同じ結論に到達するのです。

ところが、
スタートラインが架空の存在であれば、
いくら論理を積み重ねても、

砂上の楼閣であり、かつ、幻にすぎず、
人によって結論が異なるのです。

従って、
神学は、他の学問とは「似て非なるもの」と言えるだろうと思います。

神にとらえられているルターと、
自分の言葉は神の言葉だとするカルヴァンが、
神学上の合意できなかったのが、

神学が、
他の学問と似て非なるものであることが表面化し、、
幻にすぎないことが、露わになった 象徴的な事例だ と、思います。


もともと、
福音書は、

福音書記者が、護教的な目的から恣意的操作をしていると、
トロクメ教授は記述されておられます。

要するに、
あること無いことを福音書記者が記述していて、

今となっては、
どれが事実なのか分からない、ということです。


その文書を、神学者が、
それぞれの立場から、自分の都合の良いように構築し、記述して、

事実に基づいて組み立てた理論とは、大幅に乖離した化け物
というべきものを、作り出してきたのでは、
と、感じられます。

矛盾だらけの旧約聖書も同様です。


キリスト教は、
2000年にわたって、非常に優秀な方々が、
他の学問とは似て非なる作業を繰り返されておられるのです。

 ① 神は、勿論のこと、
 ② 人間に原罪があること、

 ③ キリストが十字架で、人々の罪を贖ったにもかかわらず、
   悔い改めなければ、最後の審判で地獄送りになるぞと脅かすこと、

 ④ 旧約の神と新約の神、及び聖霊が三位一体である、
   等々、

事実に基づかない荒唐無稽な理論を構築して、

弱い立場の人間を追い詰め、
マインドコントロールし、
金銭を巻き上げるための手段となり、

更には、
殺人や、拷問などの残虐な犯罪行為や、
聖職者の邪悪な欲望 や、嘘・出鱈目・詐欺

を、強弁し、正当化してたのが、「神学」なのです。


要するに、
出発点が架空のものですから、

論者に都合の良い理論や結論を いかようにも導き出せます。

「神学」は、このことを悪用して、
強盗犯や脅迫犯を正当化する 用心棒的な理論 というべきものを
作りだして、提供して

世俗組織の一つであるキリスト教会の犯罪行為を覆い隠し、
聖職者の 犯罪行為 や 地位・金・性欲を含むあらゆる欲望 を 満たす為に、
多大の貢献をしてきているのです。


今後、本を読むときには、

キリスト教の愛だとか、博愛だとの
表面上のプロパガンダの裏にある本質、

とりわけ、
人間が創りだした 事実に基づかない 神 を、
スタートラインとする神学 が、

どのような詭弁や法螺を作り出して、人を惑わそうとしているのか
どのように 犯罪行為に誘導しているのか、
について、
特に、注意せねばならないな、と、考えています。


 (注)上記のキリスト教神学に対する考察は、

    キリスト教に対する次の2つの考察に基づいていますので、
    こちらも ご参照頂ければ幸いです。


    キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・
    1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)
    2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)
    3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html


    キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-6c54.html




2.私がイエス伝を読む必要があるのか?

神学が、他の学問とは似て非なるものであるから、読む必要が無い、
と、考えているのではありません。

神学が、他の学問とは 似て非なるものであるなら、
尚更、詳しく分析せねばならないはずです。


私が、
イエス伝を読む必要があるのかな?
と、疑問に考え出したのは、

私のキリスト教に対する視座が、歴史にあるからです。

即ち、
キリスト教の存在が、歴史にどのような影響を及ぼしたのだろうか、
との視点で、キリスト教を見ています。

田川教授やトロクメ教授のイエス伝は、
キリストの真実を掴もうとされている努力であるだろうと、感じられます。

これは、
非常に貴重な作業であり、
そういう面までも視野に入れた方が良いのでは、
とは、思いますが、

現時点でイエスの真実が明らかになったとしても、
歴史において語られたイエスとは、異なるものなのです。

歴史において語られたイエスを含めたキリスト教の活動が、
歴史に及ぼした影響を考えるとすれば、

昔に語られていたイエス伝、
ウソも含んだ聖書に記述されているイエス伝の方が、
歴史を考える際の資料として適当なのでは、

こちらの方が、
当時の人々の考え方に迫れるのでは、という気がするのです。

貧弱な能力と限られた時間のなかで、
幅広く歴史を考えたいと思っている人間にとって、

イエスの真実に迫ろうとする近代や現代の神学的な営為は、
とりあえず置いておいても良いのかな、
という気がしています。


またまた、
キリスト教関係者のお気持ちを逆なでする議論を 展開してしまいました。

キリスト教を、
中傷非難する趣旨ではなく、

歴史におけるキリスト教をどう考えたら良いのか
との思索の一環であることを、

ご理解頂いて、お許し下さることを、願っています。

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