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2013年8月10日 (土)

キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの

トロクメ教授の「キリスト教の揺籃期」を読了して、
ひとまずキリスト教初期の本を切り上げ、
イタリア・ルネサンス 特に、マキャヴェッリの本を読もうと思い、

手始めに
佐々木毅教授の「マキアヴェッリと「君主論」」(講談社学術文庫)を読み始めました。

この本は、
マキャヴェッリの伝記と君主論を内容としているので、
塩野さんの本以来ご無沙汰している人間の入門編として
丁度良いのではと思ったのです。


その序文に、
マキアヴェッリは、フランス王政と異なるので、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」(岩波新書)を参照して欲しい、
と、書かれておられたので、気になってこちらを再読してみました。

この本を再読してみたら、以前読んだときと異なり、
当時の人々の前提としたキリスト教について、ちくりちくりと、
大変な痛みを感じました。

何故、こんなに痛みを感じるのだろう と、考えたらと、
ヨーロッパ人の根底にあるキリスト教によってもたらされた
通奏低音とも言うべきヨーロッパ人の態度に原因があるのでは、
という気がしてきました。

今回は、
この辺についてお話しさせていただきたいと思います。


この機会に、
トロクメ教授、加藤教授、田川教授の本をご紹介くださった、
todoさんに心からの感謝を申し上げます。

ご厚意に反するような文章を書き並べたことを、お詫びすると共に、
数々のご教示に対して厚く御礼申し上げます。

ヨーロッパ史の本を読む限り キリスト教と密接な関係が続きますので、
機会ある毎に、
キリスト教を考え、初期キリスト教の時代にも戻ってくることになる
と、思いますので、

これからも、よろしくご指導、ご鞭撻くださるようお願い申し上げます。


    **********


秦先生の旧約聖書のお話から読み始めてから約2年弱の間、
旧約聖書と初期キリスト教関連の本を読んできて、感じることが、2つあります。

一つには、
意外にも、キリスト教の神は、
不確かであり、確たるものではないな、ということです。

もう一つは、
キリスト教は、
一つの価値、自分の価値観しか認めず、
他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
ということです。


1.キリスト教の神が確たるものでない、という点について


キリスト教は、
罪を悔い改めよ、神に従え等、人間に対して、色々要求しています。

しかし、
神は、一体どのような存在なのか、と考えたときに、
具体的な絵姿を思い浮かべることが出来ません。

私は、今までブログで、
旧教の神と新約聖書の神(イエス)という言い方をしてきました。

しかし、
新約聖書の4つの福音書というのは、

初期キリスト教の各派閥が、
自分たちの都合の良いようにイエスの伝記を記述したもの
(これを、護教的記述というそうです)だそうですので、

新約聖書の神も、
少なくとも派閥の数だけ、

更に、
その後宗派分裂していますので、
大変な数の神が、宗派毎に存在することになります。

(注)4つの福音書とは、

  ① ヘレニストが作った マルコ福音書

  ② 主流派が作った マタイ福音書
    → 主流派の特権として、著作順を無視して、福音書の最初に掲載しています

  ③ パウロ派が作った ルカ福音書

  ④ ヨハネ派が作った ヨハネ福音書
    → ヨハネは、12使徒の一人で、ゼベタイの子です

ですから、
「キリスト教は、一神教の仮面をした多神教ですね」
と、言いたくなるのですが、

キリスト教徒の方から「又か」と、お叱りを受けますので、

ここでは、
「キリスト教の神は、幾つもの顔を持っておられる」
と、定義しておきます。


幾つもの顔を持つ神の好都合な点は、
論者の都合の良いように、神を使えることです。

ですから、
キリスト教徒は、同じ神を信じているという建前の下に、
それぞれの(異なる)神を信じているのだろう、

言い換えると、
神について同床異夢なのだろう
と、私には思われます。


以前、
新約聖書の神に基づくカステリヨンと、
旧約聖書の神に基づくカルヴァンの対立をご紹介しましたが、

ここでは、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」で記述されている中から、
神をいかようにも使える例を、ご紹介させていただきます。


① カルヴァンは、
  次のように、臣民は、王に対して服従せねばならない と、主張した。

  世俗権力は、
  何よりも 教会、真の宗教 神の栄光 に その奉仕が向けられなければならない。

  世俗権力は、
  神に由来し、ある意味で神の代理人である。

  支配者(王)は、神がその地位を与えたのであり、
  臣民は、支配者を 神の使者として尊敬せねばならない。

  支配者の義務を怠るのみならず、
  人間としての義務を踏みにじる悪しき支配者に対しても、従わねばならない。

  何故なら、
  (神より)悪しき支配者を与えられたことは、

  臣民に対する神の裁きの表れであり、
  悪しき支配者も又、神の摂理の基づいてその地位に就いたからである。

  従って、
  「正しい支配者に対してでなければ、服従するべきではない」との考えは、
  反逆的思想として断罪される。

  神の樹てた支配者を打倒することが出来るのは、神のみである。

  カルヴァンが、積極的服従を拒否すべしとするケースは、
  神に反することを命ずる命令に対してであるが、

  この場合も、
  積極的な抵抗行為を命ずるものではなく、
  神に祈り、耐えること、精々 逃れること としてしか現れない。

  この例外的ケースにおいても、
  臣民が、神の栄光を押し立てて反抗することを 認めていなかった。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」123㌻)

② スコットランドの宗教改革指導者 ジョン・ノックスは、
  カルヴァンの説に反対して、次の様に主張しています。

  王は、その地位を神に与えられたことは、その通りだが、
  貴族も、王と同様に、その地位を神に与えられた神の代理人である。

  従って、
  もし、王が真の宗教の敵となるならば、

  神の名誉と栄光とを妨げる王の所業を矯正、抑圧することが、
  神の代理人たる貴族の義務である。

  佐々木教授は、

  ノックスは、
  貴族と同じ義務を、他の信者一般にまで広げて、
  偶像崇拝を行う者は、実力を用いて制裁されるべきであり、

  その人間が、いかなる地位にあるかは、
  神の栄光の回復のためには考慮に値しない。

  偶像崇拝に加担する王に反抗するのは、
  神の民としての当然んの義務である。

  自らが、偶像崇拝に加担していないと言うだけでは、十分でない。
  支配者その他の冒涜的行為を黙認することは、神の制裁対象となる。

  従って、
  反抗することは、権利ではなく、義務であると、

  他人の行為を黙過する形での神に対する不服従をも批判し、
  全プロテスタントの一斉蜂起を呼びかけた、

  と、記述されておられます。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」135㌻)


この様な違いが生じるのは、
カルヴァンとノックスの立場の違いから生じた
神にこと寄せ、宗教的装いで化粧を施した
個人的な利害によるものでした。

あけすけに言うと、
個人的なエゴを、宗教的表現で正当化しようとしたものです。

カルヴァンは、
ジュネーヴの王、支配者であり、

人民に反抗されたら困る体制側の人間であり、
人民を抑制する立場の人だったのです。

他方、ノックスは、
カトリックのスコットランド女王メアリーに対抗する
宗教指導者、宗教革命の指導者、

即ち
反乱側の人間でした。


キリスト教の神は、

この様に、
論者の都合や立場によって、いかようにでも利用でき、
自分のエゴを正当化するための錦の御旗にすることが出来る、
有り難くも、便利な存在なのです。

この神様が、
ヨーロッパ人のマインドをコントロールしていたということは、

客観的な神の教えではなく、
その時々の宗教指導者の意図するところに従って、
ヨーロッパ人は、導かれていたのです。


以前、神学は、
不確かな神を出発点にしているので、
事実に基づく他の学問と似て非なるものである、
と、お話ししたことがあります。

そこで申し上げたかったのは、
A氏は、A氏が論じる神をスタートとして、論理を組み立てるので、
別のB氏が、B氏の考える神をスタートとして、組み立てた論理と議論しても、

建設的で、ロジカルが議論が不可能であり、
議論は、決裂に終わるだろうということです。

スタートが異なると、別の理論体系ができあがる例として、
高校時代にお話として聞いた、幾何学の話を思い浮かべます。

中学、高校で学んだ幾何学は、ユークリッド幾何学でした。

ところが、
ユークリッド幾何学のスタートである「平行線の公理」を否定したら、
非ユークリッド幾何学という別の幾何学の大系が作り上げられた、
とのことでした。

スタートの前提が異なると、
同じ幾何学でも、全く世界が異なる体系が出来ることの不思議さを、
その時感じましたが、

文科系でしたので、非ユークリッド幾何学とはどのようなものかを、
それ以上学ぶことは出来ませんでした。

神学において、
議論を開始する際の神が、人によって異なるということは、

そこから積み上げられる論理と、
その結果である各人の神学の大系が、
質的に異なることです。

その前提の違いと、
そこから積み上げられた論理過程を、
お互いに分析して、明らかにしてから、議論をせずに、

お互いの議論の積み重ねた結果である結論を言い合って、
すれ違いの議論をしても、決裂するしかないことは、

ルター派とカルヴァン派が、
合意できなかったことでも明かです。

神学者には、
人類史上最高の叡智の持ち主が何人もおられるのに、

私みたいな鈍才が気がつくことを、
何故、無視して、2000年という時間を無駄にしてこられたのだろうか、
と、訝しく感じています。

多分、
人間はエゴの塊であることが、その原因だろうと思いますが、

次にお話する、
一つの価値、自分の価値観しか認めない ということも、
大きな要因だろうと感じられます。



2.キリスト教は、
  一つの価値、自分の価値観しか認めず、
  他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
  ということ


世の中には、色々な価値や価値観が並存していますが、

ヨーロッパ人は、
自分が選んだ価値しか、価値を認めず、
他の価値は、抹殺できれば抹殺してもかまわないと考えているな
と、長年感じてきました。

大学時代、
並存する価値を、全て包含する価値 というものは、あり得るのだろうか?
と、考え、彷徨ったことが、懐かしく思い出されます。

日本人は、
八百万の神が当たり前と考える民族であり、

一つの価値しか認めないとの考え方は、
普通の日本人の方には、

頭で字面は理解できても、
身にしみて理解しづらい感覚だろうと思います。

キリスト教は、先ほど申し上げたように、
色々な顔(性格)を持った神を一つの神として、
その神を信じているのですから、

どの顔の神を信じているのかは人によって異なるのに、
自分が信ずる(思い込んだ)顔の神しか、神ではないと強弁して、
自分以外の神を信じる人を、平気で殺害してきているのです。

この様な状況が、
キリスト教の、常に異端を作り出す歴史 を 作りだしたのではないだろうか
と、感じています。


キリスト教は、
主流派と異なる考え方の人が出てくると、
異端とレッテルを貼って、
キリスト教から追い出し、場合によっては殺してしまう歴史でした。

このことは、
イエス処刑後間もなくから始まっています。

最初に、
ヘレニスト(ギリシア語を話すキリスト教徒)が、異端として追放されました。

次に、
パウロが、アンティオキアで異端として追放されています。

2世紀に入ると、
グノーシス派やマルキオンといった人々が、異端として槍玉にあがりました。

トロクメ教授は、

2世紀に入ると キリスト教は、
ローマ社会に溶け込もうとする主流派に、
キリスト教の独自性を守ろうとした反順応派が対抗したとして、
グノーシス派やマルキオンを紹介されておられますが、

その後のキリスト教の歴史をみると、
キリスト教主流派は、グノーシス派などに対して、
悪魔の手先で、人間ではないような非難を浴びせて、
彼らの存在を抹殺しています。

その後、
三位一体論争では、アリウス派が異端とされ、
今に至るまで、カトリックから、語るのも汚らわしい との扱い を されています。

カトリックにとって最大のライバルだったから、
未だに執念深く復讐しているのですね、
と、申し上げたくなるくらいです。

アウグスティヌスは、
カトリックの天下を維持するために、
ローマ帝国の迫害の際に、キリスト教を守り通したドナティストを、
ローマ軍の力を利用して積極的に殺しました。

この様に、キリスト教は、
神の自分の信じた顔だけが、神であると主張して、
それ以外の神の顔を否定し、抹殺してきているのです。

このことが、
自分の価値以外の価値を認めない、とのヨーロッパ人を
作りだしてきたのでしょう。


16世紀後半、フランスでは、
カトリックとユグノー(カルヴァン派)との間で、
悲惨な宗教戦争が繰り広げられました。

その根本原因は、人間のエゴであろうと思いますが、
表面上は、
それぞれが信ずる神の顔が異なっていたからです。

先ほど申し上げた、
議論の前提が異なるのに、その前提の違いをお互いよく話し合って整理せずに、

前提から積み上げられた論理の結論について、
お互い罵倒しあったものだから、命の奪い合いとなったのです。

このとき、
「寛容」が、良く主張されました。

例えば、
渡辺一夫先生は、

1533~1534年頃 突然回心する前のカルヴァンは、
旧教会(カトリック)側からのユマニストや新教徒弾圧に、
「寛容」を説く若いユマニストだった。

コップ事件(1533年11月)後、
急速にカトリックから離れ始めて、激突するようになり、

己の理想の為には、
不寛容と罵られてもこれに甘んじ、
己の理想の信仰を阻害する者は、誰であろうと「異端者」として告発する
冷厳な宗教改革者としての道を、徐々に辿り始めた、

と、書かれておられます。

 (渡辺一夫「渡辺一夫著作集5 ルネサンス雑考 下巻」352㌻)

あのカルヴァンも、
20代前半は、寛容を説くユマニストだったということは、
その後のカルヴァンを知る者にとって驚きですが、

この「寛容」という意味は、どういうことなのでしょうか。

私は、「寛容」ということは、
一つの価値しか認めない権力者やカトリックに対して、

他の価値観を持つ臣下やユグノー、ユマニストが、
お目こぼし下さいと依頼することだと思います。

カトリックは、
カトリックの価値以外は認めないし、
この世から抹殺することも厭わない故に、
ユグノーを弾圧したのですが、

それに対して、
並列する価値は、それぞれ存在する権利がある と、

正々堂々 正面から主張するのではなく、
卑屈にお慈悲を願っているのです。

依頼されたカトリックも、
本来なら赦さないのだが、今回は特別の慈悲を持って見逃してやる、
と、言って、赦したのです。

(注)「寛容」を願った人間が、
   卑屈な人間であった ということではありません。

   依頼される権力者やカトリックが、偏狭にこり固まっている故に、
   争いを避けるためには、お慈悲を願うほか選択肢がなかったのです。


「寛容」は、
根本的な解決ではなく、
情緒的な時間稼ぎでしかなかったので、

いつかその決着をつける時を迎えるざるを得なかったのであり、
それが
1572年8月の聖バルテルミーの大虐殺でした。
(バルトロメオ、バーソロミュー)

複数の価値の並存を認める社会では、

権力者だけでなく、全ての人が、
他の人から「寛容」を求められることは、先ずあり得ないはずです。

何故なら、
お互いに、自分以外の価値の存在を容認しているからです。

「寛容」が求められたということは、
自分の価値以外の価値の存在を、
認めない、赦さない、出来れば そういう人間を殺してしまいたい、
という社会だったからだ、というべきだろうと思います。


16世紀後半のフランスで、
日本にはなかった国を二分する宗教戦争が生じたということは、

キリスト教が、
一つの価値、自分の価値観しか認めない宗教だった故の悲劇だろう
と、思います。

ヨーロッパの歴史を通観すると、
複数の価値の並存が理解されるようになったのは、
この半世紀ぐらいではないだろうか、との感じを持っています。

従って、
それ以前においては、
価値の並存を認め、幾つもの価値を比較衡量した人は、いないのでは、
との感を持っっています。

言い換えると、
どんな碩学と言われる学者も、
一つの価値、自分の価値観だけが 絶対の真理だ として、
それに基づいて論理を構築していたのだろうと、思われます。

ただ、
複数の価値の並存を理解していたのでは?と、気になるのは、
マックス・ウェーバーとマキャヴェッリであり、

今回、
マキャヴェッリを読んでみようと考えたのは、
大学時代に考えた価値の問題を、改めて考えてみたかったからです。


     **********


またまた、キリスト教の方を逆なでするような議論をして、
申し訳ございません。

いつも申し上げていることですが、
ヨーロッパ史におけるキリスト教の重要性から、

信者でもない人間が、
歴史的存在としてのキリスト教について、考えていると、
私の場合、この様な議論になってしまったのです。

もし、中世だったら、
異端審問所に呼び出されて、焚刑に処されているでしょう。

今でも、
「出来ればそうしたい」と、お考えになっておられる方がおられるだろう
と、想像しています。


しかし、だからこそ、
キリスト教徒の方に、信仰の面からではなく、
歴史という視座から、歴史的存在であるキリスト教についても、
考えていただきたいのです。

余計なお世話だとは思いますが、

これは、
キリスト教徒の方が信じておられる神により、
自分がどのようなところに連れて行かれるか、を考えるためにも
必要ではないだろうかと考えています。

ヨーロッパ人に、悲惨(地獄)をもたらしたキリスト教の歴史を考えるとき、
帰依した尊師に、地獄まで道連れにされたオーム真理教の信者の悲劇は、
私には、現在のキリスト教徒の方にとっても他人事ではないのでは、
と、思えるのです。


余計な文章の 余計なお世話を最後に、
この拙文を終わらせていただきます。

最後までお読みいただき、有難うございました。

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コメント

久保公様

いつもコメントを頂き、有難うございす。

私は、キリスト教は、
久保様がおっしゃる通りと宗教だなと思う反面、
博愛に満ちた信仰の宗教でもあるなと感じて、
どうして正反対の性格を持つ宗教なのだろうか?と、
長年訝しく、不思議に思ってきました。

これが、
この数年、キリスト教の本を読んで、いろいろブログを書かせて頂いた所以です。

最近、キリスト教を、
次の2つのキーワードで説明すると、
相反する性格を無理なく説明出来るなと思うようになりました。


2つのキーワードとは、

1.このブログでもご紹介した「神を定義しない」宗教であること

2.パウロ以来の「神にとらわれている」との教え
です。


この点について、
次の2つのブログでお話をしていますので、
もしよろしければお読み頂ければ幸甚です。

キリスト教の本質についての幾つかの謎解き
・・・・・
1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)
2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)
3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html


ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説)
・・・・
キリスト教謎解きの旅 の 終わりにあたって
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-8f11.html

投稿: かんりにん | 2014年3月 9日 (日) 00時53分

おっしゃるとおり、キリスト教が歴史に残してきた現実について直視することは最重要ではないでしょうか。

キリスト教について、最初に注目したのは小学生の時でした。私たちは神仏に祈っていましたが、わたくしが6歳の時に、原爆 戦災 敗戦・・を見たからです。
「子鹿物語」「若草物語」の映画に洗脳されまして、キリスト教に憧れていましたら、祖母が香川豊彦氏の講演に連れて行ってくれました。
しかし、わたくしにはちんぷんかんぷん。
祖母は「あまり好きになれる宗教ではない。」だから、今までどおり、神仏を祀ると申しました。

長ずるにつれ、「キ教」も「ユ教」にも幻滅しました。
それは、さまざまな書物から垣間見た「歴史」と「実際」のせいです。
彼らが「神あるいはキリスト」と叫ぶと、そこには殺戮と暴虐が繰り広げられるからです。独善としかいいようがありません。
大昔のことは、書物でしか知ることが出来ません。しかし、1945年、日本中に爆弾の雨を降らせ、市民の頭上で原爆を2個もさく裂させたのは・・、そして、2001年アメリカのブッシュが、「正義」を振りかざして中東戦争を繰り広げたのは・・・、聖書を振りかざす人々です。
どうして、そのような仲間になる(信徒になる)のかわかりません。
わたくしたち日本人の民度が低くなってしまいましたが、それでも、それらの宗教に入らないだけの感性があるのは、嬉しいことです。
幼稚なことを申し上げてすみません。


投稿: 久保 公 | 2014年3月 8日 (土) 19時30分

たぬさん


昨日、貴兄のコメントを読んで、私の文章をまともに読んでおおられないことが判って、がっかりしています。


私のブログへのコメントをされるということは、
少なくとも私の書いてあることを正確に理解して、それに対する意見をおっしゃってこられるものと思っていました。

そうはいっても、
私の文章の書き方や読む人の読み方により、私の趣旨と異なる視点からのコメントがありますので、その時は、出来るだけ丁寧に、私の考え方を説明しようと思って、コメントを頂いた方に返事を出しています。

勿論、見解が平行線ということもありますし、それはそれでしかたがないことですが、

今回みたいに、いくら説明しても、まともに読もう、理解しようとしないで、ただ、私にとっては言いがかりと思える文章を投げつけてくる人は、初めてです。


私のブログの趣旨と、
何故、たぬさんがまともに読んでおられないかと判断したかについて
ご説明しますので、
たぬさんが、素直にこの文章をお読み頂くことを願っています。


1.私のブログの趣旨

キリスト教は、悲惨な歴史を引き起こしてきました。

例えば、
(「例える」ということが、どういう意味か、たぬさんの国語力では理解できないのでは? とは、思いますが、他の言い方がないので、使用させて頂きます)

① 十字軍で、
  何の罪もないイスラム教徒を殺戮しています。

② アルビジョワ十字軍や異端審問等で見られるが如く、
  神について、自分と異なる見解の持ち主だ というだけで、罪もない人々を、異端者だとして虐殺しています。
殺戮に際して、キリスト教指導者は、率先して先頭に立っていました。

③ 免罪符を販売して、
  善良なキリスト教徒から金を巻き上げました。

④ 16世紀には、フランスで宗教戦争、
  17世紀には、ドイツでの30年戦争と、
  キリスト教徒同士が、大規模に殺戮しあう原因を作ってきました。


私は、何故この様な悲惨なことが起きたのか、を長年考えています。

歴史を愛好するということは、
歴史的な事件を知りたいとの知識欲を満足させることと共に、
歴史の中に謎を見つけて、その謎を解く楽しみがあるのです。


キリスト教が、悲惨な歴史を何故もたらしたのだろうか?ということも、
私にとっての一つの歴史の謎解きの対象だったのです。


今回のブログは、
この謎解きの結果を、皆さんにご提示しているのです。

言い換えると、
歴史上の謎の原因について、仮説を提示して、活発な議論が起きることを期待しているのです。


謎解きの結論は、次の通りです。

① キリスト教は、
  神について、確たる説明をしていないから、

  これを良いことに、
  指導者が、キリスト教は同じ神を信じているとの建前の下に、自分の都合の良い神を作りだして、これが唯一の神だといって、悲惨な殺戮をもたらしたのでは?

② キリスト教は、
  一つの価値、自分の価値観しか認めず、
  他の価値、他の人の価値観の存在を否定して、可能であれば抹殺する
ということです。

この様な言い方をされると、
キリスト教徒の中には、たぬさんのように、お怒りになる方がおられるだろうと思い、
ブログの最後に、次のような注釈の文書を入れておいたのです。

「またまた、
 キリスト教の方を逆なでするような議論をして、申し訳ございません。

 いつも申し上げていることですが、
 ヨーロッパ史におけるキリスト教の重要性から、

 信者でもない人間が、
 歴史的存在としてのキリスト教について、考えていると、
 私の場合、この様な議論になってしまったのです。

 もし、中世だったら、
 異端審問所に呼び出されて、焚刑に処されているでしょう。

 今でも、
 「出来ればそうしたい」と、お考えになっておられる方がおられるだろう
と、想像しています。

 しかし、だからこそ、
 キリスト教徒の方に、信仰の面からではなく、
 歴史という視座から、歴史的存在であるキリスト教についても、
 考えていただきたいのです。」


キリスト教の「信仰」について記述しているのではなく、
歴史という視座から、「歴史的存在であるキリスト教」について、議論ですよ
と、申し上げたのに、

最初にコメントを頂いたとき、たぬさんは、それを理解されておられないなと感じられたので、

キリスト教を、教会に例えて、

「信仰」の話ではなく、「歴史」の話ですよ、
そこが、たぬさんと私の違うところですよ、

と、お話ししたら、
ますます 言いがかりを 強められたのです。


2.たぬさんが、私の文章を理解していないどころか、まともに読んでいないと判断した理由


① >外から
  外でも内でもよろしいのです。

② >キリスト教を信仰する方は、・・・・
  決めつけですか、それとも唯の希望的観測ですか???そもそも教会の意味を取り違えているわけですから、・・・・


①、②について、

「キリスト教」を、「教会に、例えて」ご説明しているのに、その「例え」という言葉の意味をご理解していないこと、

また、「内でも外でもよろしいのです」とおっしゃっていて、私とたぬさんの立場、視点の違いを説明していることを、全く理解していないことを表白されておられます。

「内と外」では、違いがあるのです。
「内と外」では、立場、視点が 異なるのです、
ということを、全く理解できておられませんね。


③ >組織は、歴史を通観すると・・・
  俗界(娑婆世界)のお話はそのようになるのが当たり前です。信仰のお話と混同なさってはいけません。


これも、私の話を全く理解していないことを表明されておられます。

ブログに、「信仰ではなく、歴史の話です」と、書いてあるではないですか。

たぬさん流の言い方をすると、
「キリスト教が,娑婆世界で行ったこと」について、このブログで話題にしているのです。

信仰と娑婆世界を混同しているわけではありません。

だからこそ、
1.でご説明したように、ブログの最後に、わざわざその点についての説明を記述したのです。


④ >堀米先生の・・・
  また、面白い逃げを使われますね、尊師の云われたことを実行しただけですから、私には全く責任がございませんと、言われた方がいましたが・・・貴方は、それで納得されますか。


これは、
ご紹介した堀米先生の「正統と異端」についてのブログを、全く読んでいないことを表白しています。

私は、ご紹介したブログで、堀米先生のお考えを批判をしているのです。

たぬさん流の言い方をすると、
「尊師の云われたこと」に、異議を申し立てているのです。

今からでも遅くないですから、お読み頂いて確認ください。

尤も、普通の人ならともかく、たぬさんの国語力だと、私の文章が高級すぎて、理解できるかどうか疑問ですが・・・


⑤ >非常に気になる言葉です。
  気になるもなにも貴方・・・単に、貴方が孫引きの孫引きをだけに頼りに、論拠を組み立て、まともに原典に目を通したことすらないとの証拠にしかすぎません。


この言い方も、ひどい中傷ですね。

私は、キリスト教が神について、確たることを説明していないことは理解していると、前回、この点について、次のように書きました。

「神」は、
人間の想像を超える無限の存在で、
言葉にあらわした途端に、無限が有限となるから定義しない、
人知を超えた神について、人間が語ることは不可能である、


今回、たぬさんは、

「他に意味のある用語、広い意味を持つ用語を使うことは単に不正確である以上に、誤ったイメージを抱かせてしまうので忌避するだけです。」
と、書かれておられますが、

私には、私とは別の言い方で、神について確たる説明をしない理由を述べられておられる、と感じられます。


私は、このブログでは、
キリスト教が神について説明をしないことを、議論のスタートにしています。

神について、確たる説明をしないこと を 利用して(奇貨として)、
キリスト教の指導者達が、悲惨な歴史、殺戮の歴史を繰り広げたのでは、と申しているのです。


これは、
私の思索の結果であり、決して孫引きの孫引きを頼りに論拠を組み立てたわけではありません。


以上、
たぬさんが、私の文章をまともに読まずに、因縁をつけおられる所以をご説明しました。

ブログの内容についてのコメントは、大歓迎ですが、
内容に関係ナシに、専ら罵倒を目的とするコメントとも言えない殴り込みは、
お・こ・と・わ・り します。

今後、私のブログに対する投稿は、お・や・め・く・だ・さ・い。


今回は、
普通に歩いていると、見も知らずの人間から、突然訳もなく言いがかりをつけられたのと同じ経験をしました。


宗教というものは、人間の知力を低下させて、マインドコントロールするものだなということが理解できたのと、

マインドコントロールされて、国語力、知力が恐ろしく低下した人と、直に話をしたら、どのようなことになるか、との貴重な経験が出来たことが、唯一の慰めです。

投稿: かんりにん | 2013年12月13日 (金) 21時59分

>上から目線で非難されるのは、余り気分の良いものではありませんので

 この様な姿勢で議論の腰を折られる方とお話しを続けても、あまり得ることはないと云ったものなのですが・・・そもそも、になりますが、間主観性の有る言語が使えないのでは議論など不可能です。


>外から

外でも内でもよろしいのです。所詮貴方の心の投影で有ることは致し方がないことなのですが、あまりにも狭小な視野と知識で、見えていない部分を指摘されただけで逆ギレされる様子では・・・
 暫く前に『 ふしぎなキリスト教 』(講談社現代新書)と呼ばれる本が出版され、物議を醸していました。著者はキリスト教に詳しいとされ、初期にはいわゆるこの国のキリスト教関係者と目される多くの人の賛辞まで集めたのですが、実情を知るところの多くの方から明らかな過ちを指摘され、内容は書き直しが必要で正誤表では間に合わない程のいいかげんな記述だらけであることが明らかになったからでした。哀しいかな、この地域では関係者と目される人ですら、その程度の知識(正確な事実など知らない)しかないって事です。


> キリスト教を信仰する方は、 教会の中で神に祈っておられる方だろうと思います。

 決めつけですか、それともただの希望的観測ですか???そもそも教会の意味を取り違えているわけですから、文そのものが別の意味になってしまう。マアこの辺境の多くの方の心にある教会のイメージは判るのですが・・・それは単に作られたイメージであって事実とは関係有りません。・・・日本教キリスト派の方々はそのような信仰形態なのでしょうが・・・本家とは全く関係ございません。自称しているから って混同されるのは互いに不幸なことです。


>組織(教会、修道会、共同体等々)は、歴史を通観すると、組織の論理が信仰より優先されるようになるので

 俗界(娑婆世界)のお話しはそのようになるのが当たり前です。信仰のお話と混同なさってはいけません。それは人が家庭や氏族に属するのと同時にもっと大きな会社や地域に属するのと同様の軋轢です。貴方はお仕事をなさっているときに、お子さんや奥様から苦情を云われたことは一回もないのでしょうか。信仰と俗界のお話しも同様です。ともすれば生きるためには俗界が優先されがちなのは、有る意味致し方のないお話しです。しかしそのことを混同なさっては・・・貴方にとっては味噌もXXもでしょうか


>堀米先生の・・・

 また面白い逃げを使われますね、尊師の云われたことを実行しただけですから私には全く責任はございません と言われた方がいましたが・・・貴方はそれで納得されますか。実行者本人に責任が全くないとお考えになりますか???それ以上説明は不要ですよね。


>非常に気になる言葉です。

 気になるもなにも貴方・・・単に貴方が孫引きの孫引きをだけを頼りに論拠を組立、まともに原典に目を通したことすらないとの証拠にしか過ぎません。少しでも正当な西洋哲学を学んだことのある方に尋ねられればあたり前に使われる用語です。
 他に意味のある用語、広い意味を持つ用語を使うことは単に不正確である以上に、誤ったイメージを抱かせてしまうので忌避するだけです。もし私が「大日」ともうしたなら貴方は何を差しているか、イメージできますか。おそらく曼荼羅の中央に描かれているようなものを想像するでしょう。一昔前の宣教師は信仰の対象を「大日」と訳詞、「大日」を拝めと指導して、途中で誤解に気づき慌てて用語を換えました。
 と申しましても、この対象が一定の物質であったり、人格神のような定型を取るような状態とは異なるのですが・・・

投稿: たぬ | 2013年12月12日 (木) 06時20分

たぬ様

このブログは、
キリスト教の教義論争をする場ではありませんし、
意図的に曲解して、上から目線で非難されるのは、余り気分の良いものではありませんので、

素直に私の文章を読んで、
出来れば、ご紹介した他のブログもお読み頂いた上で、コメントをお寄せ頂きたいと願っています。


1.「外から教会の歴史を眺めた者として」

前回、最初に、たぬ様と私のスタンスの違いを説明する際に、

「文中に書きましたように、
 私は、歴史的存在としてのキリスト教を考えて、その視点から申し上げております。

 以前にも書きましたが
 例えて言うと、

 キリスト教を信仰する方は、
 教会の中で神に祈っておられる方だろうと思います。

 それに対して、私は、
 教会の外から、2000年単位のスパンで、教会の出来事を眺めている者です。」
と申し上げました。

ここでの「教会」は、この例えとして申し上げた教会です。
全体を通読すれば、普通の人ならご理解頂けることを、あえて、一部分の文章中の単語を取り上げて、全体の趣旨をご理解頂けなかったのは残念です。


2.「1.信仰は個人の者であり、組織とは無縁では?」が、成立するなら、共同体の意味がなく、共同体が成立するなら、1.は全く意味をなさない命題になります。

この文章も、先ほどの延長線上の曲解に基づく言いがかりですね。

前回の回答の中で、この部分では、
キリスト教についての私の個人的な感想の結論を述べたのであり、

批判されるなら、ご紹介した堀米先生の「正統と異端」についての文章をお読み頂いてからにして頂きたいと思います。

一言申し上げると、
キリスト教への私の感想の一つとして、

組織(教会、修道会、共同体等々)は、歴史を通観すると、組織の論理が信仰より優先されるようになるので、信仰への弊害が大きいのではないだろうか?と思っています。

ですから、おっしゃるように、個人的な感想としては、
歴史上存在してきた宗教組織は、信仰という面からは、なかった方が良かったのでは?
との仮説を 持っています。

何故そう考えたのかは、先ほどご紹介したブログをご覧下さい。
(このブログのトップに一つ前のブログが紹介されていますので、そこをクリックしてください。)


3.「異端として主流派から排斥された人々の方が、信仰としては正統性を有するのでは?」

これも、
堀米先生の「正統と異端」のブログを素直にお読み頂ければ、私の考えをご理解頂けることだと思います。

たぬ様の書かれたことぐらいは、先刻承知していますよ、とだけ申し上げておきます。


4.「聖なる四文字で表される方」

非常に気になる言葉です。

何故、「神」とか「イエス」とおっしゃらないのか、理解できません。

これだけ私の言葉の定義に厳格なたぬ様が、
何故「聖なる四文字で表される方」と、それだけでは意味不明な、定義も不確かで、しかもいかにも有り難そうな言い方をされるのが、理解できません。

「神」は、
人間の想像を超える無限の存在で、
言葉にあらわした途端に、無限が有限となるから定義しない、
人知を超えた神について、人間が語ることは不可能である、

というのが、
キリスト教のお考えであろうと 理解していますが、

私には、
カルヴァンやアウグスティヌスはじめ、キリスト教の指導者は、

このような不確かな神を利用して、自分に都合の良い 自分だけの神 を 作り上げて、信者に押しつけて、人を殺しまくったのだろうな、と感じました。


できれば、
このブログで書きましたように、

キリスト教の指導者は、自分に都合の良い神 を 作りだして、信者を誘導し、自分の意見に反する人間を殺しまくった歴史上の出来事についての、たぬ様のご見解をお聞かせ頂ければ幸甚です。

投稿: かんりにん | 2013年12月 7日 (土) 03時19分

>外から教会の歴史を眺めた者として

 用語の定義からして、たいへん申し訳ございませんが、手前勝手で独善的な想像(捏造)と申し上げるしかないのでは・・・教会とは、ekklēsia(ecclesia)の訳語で、共同体が存在して初めて意味をなす用語です。
 1.信仰は、個人のものであり、組織とは無縁では?
 が成立するなら、共同体に意味が無く、共同体が成立するなら、1。は全く意味をなさない命題になります。
 言葉を替えるならば、存在することは存在しないことと同等ですともうされていることと同等になります。マアこの極東の辺境に住まわれる多くの方々は、空論のような哲学がお好きなようですから、全てその線に沿ってお考えになりたがるのかも知れませんが、全く異質の論旨になってしまいます。


>異端として主流派から排斥された人々の方が、信仰としては正統性を有するのでは?

 正統と呼ばれるのか異端と呼ばれるのか、単に多数派が少数派をそのように勝手に呼んだだけであることです。また正当性の定義次第で如何様にも自由な解釈が可能な事柄になります・・・、一種のトートロジーでしょう。大体において、絶対善や絶対正義のような基準が存在しないことは哲学的に証明済みである今現在、正統と如何なる定義を持って定義可能とお考えなのでしょうか??単に言葉遊びだけを考えれば、改革派は全て異端ですし、非改革派は全て旧守派と呼べます。すると世の中には異端しか存在しなくなりますがそれがなにか?


 マア定義も用語使いも何ですから、この様な回答になるかなと思っていましたが・・・
 例えば貴方が接しておられる、貴方の周りにいる自称キリスト教徒さんは、内実は日本教キリスト教派の信者さんであって、聖なる四文字で表される方のことなど爪の垢ほどもご存じない方々です。それが証拠に、工クレシアが存在しないことから明らかに証明できるのです。

 結構昔から読ませていただいて、よく学ぶ姿勢はすばらしいなと思いながら、違和感があったのはやはりともう仕上げるしか・・・

投稿: たぬ | 2013年12月 6日 (金) 07時40分

たぬ様

拙文をお読み頂いて、コメント下さり、有難うございます。

本を読んでいて感じたことを申し上げる このブログの性格故に、
たぬ様が、私が申し上げたいこととは異なるお感じを持たれて、コメント頂いたのかなと思いますので、

ちょっと私の拙文の拠って立つ立場について、ご説明させて頂きます。


文中に書きましたように、
私は、歴史的存在としてのキリスト教を考えて、その視点から申し上げております。


以前にも書きましたが、
例えて言うと、

キリスト教を信仰する方は、
教会の中で神に祈っておられる方だろうと思います。

それに対して、私は、
教会の外から、2000年単位のスパンで、教会の出来事を眺めている者です。


ですから、
信者でもない私には、
神への祈りがどのようなものであるかについて、
語る資格も、能力もありませんが、

教会が、何をしてきたのか、
教会の司祭さんや牧師さんが、どのようなことをおっしゃったのか、

それによって、信者が、
どのような行動を取り、その結果がどのようになったのかについては、

教会の歴史という面から感想を述べることは出来るだろうと考えて、
今まで色々書かせて頂きました。


今回のテーマは、

神について、
キリスト教の指導者は、一神教とおっしゃりながら、
自分の都合の良い神を信者に提示して、導いているので、

キリスト教全体としてみたときに、
色々な神が存在しますね、と申し上げているのです。


これは、
私が、神は、こういうものだ と、
申し上げているのではありません。

キリスト教の指導者達が、一つの神とおっしゃりながら、
実は、
自分の都合の良い神をそれぞれ作り上げて、派閥に分かれて活動しているではないでしょうか、
と、申し上げているのです。


また、
自分の信仰が唯一絶対だとの立場から、
他の人の価値観を全く認めない偏狭性も指摘させて頂きました。


キリスト教の関係者のお気持ちを逆なでするようなことを、
何故、あえて申し上げるのかと言いますと、


キリスト教が、
ヨーロッパの歴史で、大変重要な働きをしているからであり、

今回指摘させられた2つの点が、
ヨーロッパの歴史を理解する上で、大切なポイントであるのでは、
と、考えたからです。


私は、
長年ヨーロッパの歴史の本を読んできて、
ヨーロッパとは何かについて考えています。

その一環として、
この数年間、秦剛平先生の旧約聖書の本を読んだのをきっかけに、
原始キリスト教やアウグスティヌスの本を何冊か読んで、ブログに感想を書かせて頂きました。


また、その前には、
三位一体論争についてゴンザレスの本を読んだ感想をご紹介させて頂いたことがあります。


今回の拙文は、
それらのキリスト教に関する文章のまとめみたいなつもりで、書かせて頂きました。


外から教会の歴史を眺めた者として、

1.信仰は、個人のものであり、組織とは無縁では?
  信仰が組織化した途端に、その信仰は堕落してしまうのでは?

2.異端として主流派から排斥された人々の方が、信仰としては正統性を有するのでは?
  正統と言われる派閥(例えばカトリック)は、信仰の面からではなく、組織維持の立場から信仰を曲げているのでは?

との感想を持っています。


この点については、
今回の一つ前のブログ

「堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・」
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html

を、お読み頂ければ幸いです。


たぬ様のコメントの、2つのご指摘について、以上で、お答えしたつもりですですが、

回答になっていないとお感じになりましたら、もう少し詳しくご説明させて頂きますので、ご連絡ください。


取り急ぎ、御礼方々ご回答まで

投稿: かんりにん | 2013年12月 5日 (木) 00時17分

 余計な場所から押しかけて、社会的な基盤が異なる方に申し上げても殆ど通じないとは思いますが、二つ申し上げておきます。

 一つ目は一般的に、この辺境に生を受けた方に、聖なる四文字、又は口にすることを憚る方のことは理解可能と思うことが論理から外れてしまいます。言語そのものが単なる概念を他人に伝えるための不確かな道具(手段)にすぎない事を踏まえて、元々所持していない概念をいくら説明を受けても理解できるわけがありません。
 当然GODの概念とも異なることはお解りかと・・・
 例えで云えば、Johanna Mansfieldが外からいくら教えても、教え子の心に言語概念が芽生えるまでは何をしても無駄だったことが証明です。

 二つ目は、貴方の云われるキリスト教と呼んでいる対象が殆どパウロの末に偏っていることです。信者数で申せば確かに主流派と呼べますが、それは貴方が真実は多数決で全て定まるとお考えならよろしいのですが・・・
 非カルケドンなど、外から見ると、単に違いを言い立てているに過ぎなく見えるかも知れませんが・・・

 聖なる四文字で表される方は、この辺境で思われているような、困ったときに何かをお願いしたり、助けて戴くための便利な道具や手段ではありません。
 いつの間にか名称だけが西洋風になった日本の信仰が変形した考え方を、擬似的に同一視して誤解されている方々が大半なので、数に押されて真実が見えなくなっていることは確かなのですが・・・
 まあ、漢字の読みが正規でなく慣用として間違て流布してしまい、誤用の方を皆さんが当たり前に使うようなものですから・・・

投稿: たぬ | 2013年12月 4日 (水) 19時21分

todoさん、コメント有難うございました。

本文にも書きましたように、
色々ご指導頂き、言葉では表せないほど、有り難く感謝しております。
これからも、よろしくお願い申し上げます。

コメントに関して、一言感想を述べさせて頂きます。

1.原発事故と海洋汚染について、どのような見解をお示しになられるのか、楽しみにしています。

私は、30年以上前に東電と大きな交渉をしたことがありますので、決して東電は立派な会社であるとは思っていませんが、

今回の福島原発事故が、これだけ大きな災害となったのは、当時の菅首相の行動が、一番の原因では、と想像しています。


2.宗教は、不要だとは思っていません。

私みたいに、神の存在することが理解できない人間には、宗教は不要でしょう。

でも、
神を感じられる方には、宗教が必要であろうと、理解しているつもりです。

私が首を傾げていることは、
神への帰依が、個人レベルから 教会などの共同体に発展して、成立するや否や、

神への信仰が二の次となって、
共同体(教会)の論理が最優先されること

言い換えると
共同体(教会)においてはに、神(信仰)よりも 組織を指導する人間(聖職者)のエゴが、共同体(教会)の名により優先される事態が歴史的に生じてことです。

その辺は、前回

堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・

http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html

の最後に書きましたので、
ご興味がおありでしたらお読み頂ければ幸いです。

(異端が正統だなどという キリスト教の方からすると、とんでもない議論を展開していますので、先回りして、お詫びしておきます。)


3.「超越した存在としての神をこういうものだと、人間は説明できないと思います。
説明できるなら、それはもはや神ではない、
しかし、
説明できないものをどう理解するのかがポイントになるでしょうが。」について

おっしゃる通りだと思います。
ですから、
私などが、キリスト教の神は、確たるものではないなとの印象を持ったのでしょう。

私が、疑問に思うのは、

神は、説明できないものであることを奇貨として、
自分勝手に神を作りだして、
自分の言っていることは神が言っていることだ と、信者をリードしてきたキリスト教指導者が、歴史上に沢山おられることです。

「人間が説明できるなら、それは神ではない」ということから、

大秀才が輩出している神学において、
勝手に神を語って、信者を導くのは許されないとの議論が、何故、起きなかったのだろうか?

アウグスティヌスやカルヴァンといった 神を詐称した人間が、
何故、いまだにキリスト教のリーダーの一人として尊重されているのだろうか、

という疑問に答えて下さる方がおられないのかな、と、感じています。

投稿: かんりにん | 2013年8月13日 (火) 22時11分

原発事故と海洋汚染について、資料を収集していて、書き込みが遅くなり失礼しました。お書きになった内容は、大部分に賛同です。はっきりと明確に指摘されている点に好感を覚えております。自分のページに書こうと思っている事も多々あります。違いは『宗教は必要なのではないか』という点で、何故宗教は求められるのかについて、書こうと思っていますが、なかなかの難題です。どうまとめようかと思案中。超越した存在としての神をこういうものだと、人間は説明できないと思います。説明できるなら、それはもはや神ではない、しかし説明できないものをどう理解するのかがポイントになるでしょうが。

投稿: todo | 2013年8月13日 (火) 18時46分

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