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2014年2月17日 (月)

キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・ 1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)                                   2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)                                  3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)

世界中の無数の人々の 多種多様な信仰、要望の対して、
色々な神様がおられる多神教の方が、一神教に比べて
多種類のメニューが用意して沿うことが出来るはずなのに、

どうして、
一神教=単一の神 の キリスト教やイスラム教が、世界中に普及し、
多神教は、ローカルな宗教に留まったのだろうか?

というのが、
幾つもある歴史における私の謎のうちの一つでした。


この数年間、キリスト教関連の本を読んできて、
最近 「こういうことだったのでは?」と、謎が解けたような気がしています。

以下に、私の謎解きについて、お話しさせて頂きます。



1.結論を言うと、

  キリスト教の神様は、
  お一人故に、無限の信者のニーズに応えられるのに、

  多神教の神様は、
  信者のニーズに応えるために、いろいろな神様がおられるのですが、

  それぞれの神様は、担当される個別のニーズにしか応えられない故に、
  多神教は、信者の無限のニーズに応えることが出来ないからだと思います。


  要するに、

  一神教は、
  信者が神様に、どんな信仰や要望をお願いしても、
  全てにお応えになられるのに対して、

  多神教は、
  それぞれ神様が、担当分野を持っておられる故に、

  信者の信仰や要望は、浜の真砂の如く無限にありますから、
  担当分野に漏れが生じて、全てをカバーすることが出来ないのです。



2.キリスト教の神様は、
  どうして 信者の無限の信仰、要望に対応できるのでしょうか?


  私は、
  ① キリスト教が、「神様とは何か」について定義していないことと、
  ② 「神に囚われている」とのキリスト教の教え

  ③ 更に、
    神様の活動を補助する 三位一体論の(無数の)聖霊の存在

  の、3つの要素で、説明できるのでは?との仮説を持っています。


  最初に、
  上記①②③の意味するところをご説明させて頂きます。


  ① キリスト教が、「神について定義しない理由」(仮説)

    キリスト教は、

    「人間は、有限の存在であり、
     有限の存在である人間が、無限の存在である神について
     述べることは不可能である。」

    「言葉は、ある限られた範囲しか説明できない有限の存在であり、
     有限の存在である言葉によって、無限の存在である神を
     説明することは 不可能である」から、

    神について説明できない、定義出来ない、
    と、考えられておられるのだろうと、推察し、
    キリスト教が神を定義しない理由についての仮説としています。

    人間の知恵を遙かに超えて、
    想像を絶する偉大な存在を「神」である と、されておられる以上、
    上記の考えは、一見尤もらしく思える説明ですが、
    私には、屁理屈であり、諸悪の根源のような気がしています。


  ② 「神に囚われている」とのキリスト教の教え

    「神に囚われている」との教えについては、
    詳しくは、次のブログをお読み頂くとして、
    ここでは、簡単に説明させて頂きます

  
    「パウロ・・・第3回 悲惨な歴史の淵源となったパウロの教え」
    1.「神のとらわれている」との信仰について
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-219f.html


    神への信仰を深めていけばいくほど、
    神の教えの意味が良く分かるようになり、

    あるとき、
    自分は、教えに全面的に服従している=神に囚われている、
    との境地に達するのでしょう。

    そうなると、
    神に囚われている自分の考えや行動は、
    神の啓示に従って行動していることになるので、

    自分の考えや行動は、神の考えや行動と同一である、
    と、確信をもつようになるのだろうと思います。

    即ち、
    自分の考えること、行動することは、
    全て神と同一であり、絶対的に義(ただ)しいと
    確信をもつようになるのです。


    例えば、
    トマス・アクィナスの先生である アルベルトゥス・マグナスは、

    限界ある理性に基づく「哲学」は、誤りを犯す可能性があるが、
    理性では把握出来ない 啓示された真理を前提にする「神学」は、
    一層確実であると述べておられます。

    即ち、
    人間の論理に従っている「哲学」は間違えることがあるが、
    神の啓示に基づく「神学」は、間違えることはあり得ない、
    と、おっしゃっておられるのです。


  ③ 「聖霊」  

    聖霊は、イエスが昇天した際に、神様が地上に降臨させたとして
    キリスト教徒の皆さんは、毎年 聖霊降臨祭を祝っています。

    聖霊は、
    イエス昇天後、地上において神に代わって
    キリスト教徒一人一人を助けて下さる大変有り難い存在なのです。

    キリスト教は、
    神とイエスと聖霊は、同一である(三位一体)との教理を確立しています。


    聖霊の働きについて、
    矢内原先生が簡潔に説明されておられますので
    次のブログでご紹介した先生の記述を再掲させて頂きます。


    矢内原忠雄著「キリスト教入門」への疑問と批判
    ・・・キリスト教は「詐欺宗教」か?・・・
    3.「聖霊のはたらき」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-7933.html


    矢内原先生は、
    三位一体の「聖霊」は、3つのはたらきがあると述べられておられます。

    ⅰ)真理について迷ったとき、
      これが真理だということを聖霊が確かに言ってくれます。

    ⅱ)この世の苦しみや悩みに悩んだとき、

      本当に 自分の心の中に入ってきて慰める人、
      本当に 自分のことを分かってくれる人、
      聖霊は、そのような役割をしてくれるのです。

    ⅲ)我々が良心の咎めを感じるとき、
      聖霊は、陰に陽にかばってくれます。

    (要するに、)
    この世における忍耐と希望の生涯を、
    日々現実に手を取り耳でささやいて導いてくれるもの。

    これは慰めである と 言って、ささやいてくれる人。

    お前は、もう罪の支配の下にはないものであると言って、
    私どもをサタンの攻撃からかばってくれる人、

    そういうはたらきを、聖霊がしてくれるのです。

    (矢内原忠雄「キリスト教入門」143㌻~146㌻)(中公文庫)


  (注) 「聖霊」は、キリスト教の幾つもある噓の一つです。
      ここは、その話をする場所ではありませんので、
      何故噓なのかについて、ご興味のおありの方は、
      次のブログをご参照下さい。

    堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・
    の4.の文章中の ②の部分 をご覧下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html

    


  次に、
  上記①②③が、
  キリスト教を世界宗教(普遍宗教)たらしめたロジック(仮説)を
  ご説明させて頂きます。


  先ほど申し上げたように、神への信仰を深めたキリスト教徒の方は、
  神の啓示に従って考え、行動しているとの確信をもつようになるのです。

  その確信は、聖霊に助けられて持つに至ったことにより、
  更に強固たるものになるのです。


  多神教では、神様が定義されていますので、
  神の啓示よると考えたものが、神様の定義に沿っているのか、反しているのか、
  割と客観的に判断することが出来ますが、

  キリスト教の神は、定義されていませんので、

  自分が、神の啓示と考えたものが、どんなものであろうとも、
  言い換えると、
  キリスト教徒が描いた啓示や神が、どんなものであろうとも、

  それは、神ではない、神の啓示ではない
  と、否定されることがないのです。

 

  従って、
  キリスト教徒は、多神教とは異なり、

  一人一人の考え、行動が、
  神と同一であり、絶対的に義(ただ)しいとの確信を
  得ることができるのです。

  そして、
  この様にしてキリスト教においては、
  無限に存在する人間一人一人が、直接神とつながるのです。

  一人一人の全ての願いに応える事が出来る神は、
  担当分野が固定していて、担当分野以外は応えられない神よりは、
  好ましいのはいうまでもありません。

  多神教は、
  どうしても信者の願いに応えられない部分が生じてしまいますので、

  信者全員の全ての願いに応えることが出来る一神教の方が、
  信者を獲得できたのは、理の当然ではないでしょうか。

  これが、
  一神教が、多神教を押しのけて 普遍宗教になった所以だと思います・


  神が、全ての信者の 全ての願いに 応えることが出来る との虚構を
  正当化するために というのが、

  カトリック、ギリシア正教、プロテスタント等の
  正統派と言われるキリスト教の宗派が、
  三位一体論に固執した理由なのでしょう。

  旧約聖書の神とイエスと聖霊は、全く別個の存在です。

  それを、
  無理矢理「三位は一体だ」と言って、
  「それを信じるのが宗教だ」と、押し通しているのです。

  カトリックは、アリウス派の方が論理的に優れていて、
  全く白紙の人間だったらアリウス派の方に軍配を上げるのを承知で、
  カトリックは、三位一体論を押し通したのです。

  だからこそ、
  カトリックが、アリウス派を
  今でも、蛇蝎の如く 嫌い、内心では、恐れているのです。


  個人が、直接神とつながっていて、
  信者が、神から啓示を受けたことは、神のおっしゃったことだと、
  押し通すためには、

  旧約聖書の神(本来の神)とイエスや聖霊の三位が同一であると
  信者に信じ込ますことが、どうしても必要だったのでしょう。

  もし、これが出来なかったならば、
  キリスト教は、現在の形で存続できたかどうか疑問に思われます。

  キリスト教が、キリスト教たるために、
  別の存在である 神 と イエス を 一体化し、

  聖霊が、ウソであることは、
  キリスト教の歴史を見れば一目瞭然なのに、
  信者に
  聖職者の言っていること以外は、悪魔のささやきだとすり込んで、
  噓を真実だと押し通したのだろうと思います。



3.以上のように謎を解いてみると、
  同じロジックで、次の2つの謎も、芋づる式に解けましたので、
  ご紹介させて頂きます。

  ① キリスト教が、常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂していった理由
  ② キリスト教が、歴史上 殺人、殺戮を繰り返した理由
    (殺人宗教ともいうべき宗教となった理由)


  ① キリスト教が、常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂していった理由
  

    キリスト教が、
    常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂を繰り返したのは 何故だろう と、
    長年疑問に思っていましたし、

    長い間、
    キリスト教は、神様はお一人と説明されているけど、
    旧約聖書の神と新約聖書の神(イエス)のお二人おられるのでは?
    との疑問も持っていました。

    また、この数年間
    秦先生の本から始まって、幾つものキリスト教の本を読んでいる内に、

    新約聖書に4つの福音書があるのは、
    原始キリスト教の派閥が、それぞれ福音書を記述したことが分かって、

    それなら、
    新約聖書の神様は、4人おられることになるのでは?
    と、考えるようになりました。

    この思考を更に広げますと、
    もっともっと神様がおられるのではということになります。

    というのは、
    イエスが没してからすぐに、
    ヘレニストを異端として、排除したことを始めとして、

    例えば、
    アリウス派、ネストリウス派、ドナティスト、ペラギウス派
    中世においてもカタリ派、ワルドー派、更にはフランチェスコ会聖霊派など

    キリスト教は、
    主流派(宗教的権力を握った派閥)と異なる信仰、神学を持つ派閥を、
    次から次へと異端として排除してきました。

    異端として排除できないほどの派閥が生じると、
    キリスト教は、分離、分裂しました。

    カトリック と ギリシア正教 との 分裂 や、
    カトリック と ルター派、カルヴァン派 との 分離 が、その典型でした。

    更に、近世になると
    いろいろな分派がキリスト教に現れてきます。

    私みたいなキリスト教徒でない者にとって、
    それぞれの区別などは、どうでも良いので

    キリスト教史の本(例えば、ゴンザレス)は、
    中世まで読み進めた後、近世に入ると
    途端に読む気を失せてしまって、中断してしまいます。

    今お話しした 異端や分派は、それぞれ自らの神を持っているわけで、
    キリスト教の神は、信者それぞれにとってはお一人なのでしょうが、
    私みたいな部外者からみると、無数の神がおられるのです。


    何故、この様なことになったのか、について疑問に思っていたのですが、

    ⅰ)キリスト教は、神を定義しない宗教であることと、
    ⅱ)「神に囚われている」との教えにより、
      一人一人が神と直接結びついていることにより、

    キリスト教においては、
    信者一人一人に、それぞれの神が存在しているので、
    無数の正統性ある神が存在する
    と、仮説を立てれば、無理なく説明が出来るなと得心しています。

    (注)「信者一人一人に、それぞれの神が存在する」とは、
       信者のAさんに対する神の啓示と、
       信者のBさんのそれとは、異なるのです。

       ですから、
       神様が無数に存在することになるのです。


    誰もが、それぞれの正統性ある神に従う ということは、
    誰もが、「自分は絶対的に義(ただ)しい」との主張をすることになり、

    その異なる主張、対立する主張に、最終的な白黒の決着をつけるのは、
    多数決ではなく、物理的な力(暴力)によることになります。


    主流派と異なる派閥が、弱小の場合は、異端として排除し、
    個人だったら、異端審問で異端審問や火刑によって、抹殺すれば良かったし、

    異端として排除できない派閥の場合は、分裂を繰り返すことになったのです。

    近世、
    特に、フランスの宗教戦争、ドイツの三十年戦争の後には、
    さすがに暴力(殺し合い)で解決することに反省が出て来て、

    特に、新教内部においては、
    幾つもの派閥(宗派)の並存を認めるようになったのです。


  ② キリスト教が、歴史上 殺人、殺戮を繰り返した理由
    (殺人宗教ともいうべき宗教となった理由)
    


    神の啓示に従っているので、自分は絶対的に義(ただ)しいので
    自分と異なる考えや行動をするこいつは、殺さねばならない。

    神が殺せと啓示されているので、
    あるいは、
    こいつは、地獄に落ちると神が予定しているので、殺せ と、言って、

    キリスト教は、
    他宗教の信徒のみならず、キリスト教徒も、
    機会がある毎に殺しまくってきたのです。


    キリスト教は、
    何故、歴史上幾多の殺戮、殺人を積極的に犯してきたのでしょうか?

    また、
    何故、殺人が許されるどころか 義務と考えられるようになったのでしょうか?


    というのは、
    いくら神に囚われているから、神の啓示に従っているからといって、

    人を殺すことを神が認めたとか、
    殺すのが義務であるとの結論に達するのは、

    いくら歴史的な事実であったとしても、
    キリスト教は、
    愛の宗教と言われているし、十戒で殺人を禁止されてもいますので、

    本当にキリスト教自体が承認していたのか?
    一部のキリスト教徒の暴走ではないのだろうか?
    との疑問が持たれるからです。


    結論から言うと、

    キリスト教及びキリスト教徒は、①で述べたロジックに従って
    殺人を正当化してきたし、
    現代でも、人を殺すことが法律(刑法)上認められるなら、殺人を犯すのです。

    これは、
    敬虔なキリスト教徒であるブッシュ大統領(息子)が、
    噓をでっち上げて、イラクに侵攻しフセインを殺したことでも、明かです。


    実は、
    キリスト教を形成してきた主要人物には、殺人犯が多数おられますので、
    キリスト教は、
    殺人者が創った宗教だと言っても過言ではないような気がします。

    例えば、次の人々をみれば明白でしょう。

    1.神
    2.モーセ

    3.ペテロ
    4.パウロ

    5.アウグスティヌス

    6.十字軍を主導した教皇達(含む、ベルナール)
    7.中世最大の教皇 イノセント3世(アルビジョワ十字軍の主唱者)

    8.カルヴァン


    神とモーセは、
    次のブログをお読み頂きたいと思います。

    旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html


    ここでは、

    モーセは、
    エジプトで殺人を犯して、シナイ半島に逃亡したことと

    神は、
    その殺人犯モーセを使って、ユダヤ人をエジプトから出国させたのですが、

    エジプト出国についてのファラオとの交渉の時を始め、
    ユダヤ人を約半世紀彷徨させたとき、
    更に、
    カナンの地に攻め入ったとき、
    大量の人々を殺害していることをご紹介させて頂きますので、

    詳しくは、上記のブログをお読み下さるようお願い申し上げます。

    なお、
    神に殺害された人々は、ユダヤに敵対した人だけでなく、
    神の教えに従っていたユダヤ人も含まれているのです。

    しかも、首を傾げるのは、
    ユダヤ人に神を裏切るように先頭に立って指導したモーセの兄アロンを、
 

    神は、
    殺すどころか、ユダヤ教の大祭司に抜擢して
    自分のお気に入りには依怙贔屓をして優遇していることも、
    申し添えさせて頂きます。


    ペテロは、
    財産の半分を、全財産だと偽って
    原始キリスト教団に寄付しようとした夫婦を、殺害しています。
    (殺害後、全財産を強奪したのでしょう。)

    ペテロは、
    イエスが処刑されたとき、イエスの預言通り、3回噓を言って
    イエスを裏切っていますし、

    投獄されて、脱獄した後、
    原始キリスト教団トップの座より 宣教師に格下げされ、
    ローマに行って処刑されています。


    パウロは、
    キリスト教徒に改宗する前に、
    ヘレニストの指導者ステファノを、ユダヤ教が処刑したとき、
    第二処刑人として、ステファノ殺害に加わっています。


    アウグスティヌスは、
    ドナティストを異端だとして、ローマ軍を使って殺害しました。

    アウグスティヌスについては、次のブログを参照下さい。

    堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・
    < 「異端は、部分的主張である」との解説について感じたこと >
      のパートの 3 をご覧下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html



    十字軍を主導した教皇は、
    皆様がよくご存じの通り、ヨーロッパの人々を扇動して、
    攻撃する理由も権利もないパレスティナを侵略させています。


    教皇イノセント3世は、
    カタリ派の人々に対する十字軍を主導して、残虐な殺戮を行わさせました。

    アルビジョワ十字軍が、どんなに残虐な十字軍だったのかは、
    次のブログをご覧下さい。

    盲者の行進
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html


    カルヴァンは、
    ジュネーヴに立ち寄ったセルヴェを執念で処刑しました。

    カルヴァンは、①でご説明したロジックの権化で、
    自分の言っていることは神が言っていることだと
    ジュネーヴのキリスト教徒に宣言して、何人もの人を殺害しています。


    この様に、
    十戒で殺人を禁止しているのは、宣教のための看板にすぎず、
    神様は、言っていることと やっていることを、違えているのです。

    キリスト教の本質は、
    自分の考えに従わないやつは殺してしまえ、抹殺しろ と、いうことなのです
    と、言わざるを得ないな と、感じられます。


    キリスト教を代表する神を始めとする人々が、
    どうしてこの様な、人間とも思えないことを平気でしたのでしょうか。

    これでは、
    キリスト教は、無法者、アウトローの集まりである
    と、いうことになるのではないでしょうか。


    この様になった理由は、
    「神を定義していない」
    「神に囚われている」との教えがあったからだと、簡単に説明ができます。


    「神に囚われているから、
     神の啓示、命令に従って、考え、行動しているので、
     自分の考えは、神と同一であり、絶対的に義(ただ)しい」
    との心境に達したキリスト教徒は、

    自分が思いついたこと、行動することは、
    全て神と同一の考えであり、行動である と、確信しているのです。


    そのようなキリスト教徒が、「あいつを殺したい」と考えたら、
    当然、神も、「あいつを殺せ」と考えているということになるのです。

    そうなると、
    「あいつを殺す」のが、神の啓示であり、命令であるということになります。

    これが、
    カルヴァンが、ジュネーヴで人を殺しまくったロジックなのです。


    「あいつを殺せ」と考えたとき、神の定義がはっきりしていれば、
    神が、そんなことをするはずがない、そんなことを許すはずがない
    と、定義から導き出されるはずです。

    ところが、
    キリスト教には、神の定義がありませんので、

    「あいつを殺す」ことが、
    絶対的に義(ただ)しい、神が望んでいることだ、神が命令していることだ、
    と、なってしまうのです。

    要するに、
    キリスト教には、倫理的な歯止めがないのです。

    ですから、
    毎日神に仕えている敬虔な聖職者ほど、
    「あいつを殺さねばならない」と思い込んだら、
    それを押しとどめるものがなくなってしまうのです。

    これが、キリスト教が、
    歴史上殺人、殺戮を繰り広げてきた理由であり、原因なのです。


    しかし、このことが、
    キリスト教をして、非常に包容力ある宗教にし、
    世界宗教(普遍宗教)たらしめた原因でもあるのです。

    人殺しも、神の命令であるとなるのですから、
    何と包容力のある宗教なのでしょう と、感嘆せざるを得ません。


    ただ、更に問題なのは、
    キリスト教の倫理的欠陥が、宗教内に留まらず
    社会一般にも悪さを及ぼしていることなのです。

    
    「あいつを殺す」との思いが、
    本当に 神が命じたと思っているときには、
    キリスト教内部の欠陥の問題ですが、

    自分の利害、得失のために殺すときに、
    神に囚われている自分に対して、神が命じたのだと、
    噓をつくことも可能なのです。

    しかも、
    噓をついたのかどうかは、第三者には分からないのです。

    このことは、
    キリスト教の教えを悪用して、
    噓をついて、罪悪度を薄めることが可能となるのです。

    ですから、
    キリスト教は、宗教上だけでなく、
    社会一般に対して、悪さを及ぼしているということになります。


    この様なお話をすると、

    神様は、
    十戒を授けておられて、それが倫理的な歯止めとなっている
    との反論を、キリスト教徒の方は、されるでしょう。

    でも、
    旧約聖書で、神とモーセは、
    大変な人を、殺すほどの理由もないのに殺しまくっているのです。
   

    十戒を授けられ下山したとき、
    神を裏切ってユダヤ人を、神は殺していますが、

    その際に、
    お気に入りのモーセの兄アロンは、
    ユダヤ人に神を裏切らせたリーダーだったのにかかわらず、

    殺さないどころか、
    ユダヤ教の大祭司に抜擢して、平気で依怙贔屓しているのです。


    ロトは、
    ソドムから逃れた後、娘と同衾して、
    それぞれの娘に子供を産ましているのです。


    ですから、神は、
    十戒は、建前の話で、本心の話ではない、本気に守れとは思っていなかった
    ということを、自らの行動で示しているのです。

    しかも、このことは、
    キリスト教の幹部=聖職者は、当然ご存じであり、

    自分は、神の考えや行動と同一であるから、
    何をやっても良いと考えていたのでしょう。
 

  


4.残る謎解き

  キリスト教の本質について、
  今回の謎解きで、大体解明できたのではと感じていますが、

  今回お話しした、
  「神を定義しない」宗教であるが故に、何と悲惨な歴史を繰り広げてきたのか
  とか、
  倫理的な歯止めを作ろうとしなかった理由
  について、

  キリスト教側からのご説明がないことが、大きな謎として残っています。


  都合の悪いことは口を拭って通り過ぎるのは、人間の通弊ですが、

  この数年読んだキリスト教の本の中には、
  キリスト教徒でありながら、キリスト教を厳しく批判する方の本を
  何冊も読みました。

  キリスト教は、包容力の大きな宗教であり、
  良いものは善い、悪いものは悪いと議論できる宗教であることを、
  良く理解しています。

  だからこそ、

  無数の大天才と言うべき神学者を輩出したキリスト教が、
  鈍才の上に耄碌した私でも気がつくような、キリスト教徒だったら誰でもご存じの
  「神を定義しない」ことと、「神に囚われている」との教えをスタートとすれば、

  単純なロジックで、
  キリスト教が悲惨な歴史を繰り広げてきた理由を説明出来るのに
  何故 議論されておられないのかが、不可思議です。


  何故、
  悲惨な歴史を回避するような議論、
  殺人宗教から脱するために「神を定義しよう」とする動きが
  生じなかったのでしょうか。

  上記の議論や動きが生じなかったからこそ、
  カルヴァンみたいな 聖人面した とんでもない殺人鬼 が、
  神を定義していないことを奇貨として、
  殺人を扇動し、実行する事態が生じたのです。

  これは、
  アウグスティヌスにおいても 然り、
  教皇イノセント3世においても 然りなのです。


  一つ謎を解いてステップアップすると、
  その地平において、新たな謎が浮かんでくる謎が、上級な謎だと思っています。

  キリスト教を巡る謎は、
  奥が深く、何層にも重なり合った迷宮なのでしょう。

  これからも、できる限り謎を見つけ出して、
  謎解きを、余生の楽しみ としていきたいと、願っています。


追記

この拙文で書きそびれた点について、次のブログで補足しておりますので、
そちらもご覧頂ければ幸いです。

    ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説) ・・・・
    キリスト教謎解きの旅 の 終わりにあたって
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-8f11.html

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