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2015年10月21日 (水)

東大紛争を混迷化、泥沼化させた 折原助教授のウェーバ学問論への誤解

以前「東大話法」と「東大紛争」とのブログで、

医学部、文学部の処分問題を、
全学的なストライキ、紛争に拡大させたのは、

「学問の府では、知的誠実が何よりも求められるのに、
大学当局は、知的誠実が欠如している」との
折原さんのアピールであり、

それ故に、
東大紛争の隠れたる最大の論点は、

「学問の府における知的誠実は何か?」
「知的誠実に沿った行動を取るためには、どうしたらよいのか?」
「知的誠実を担保するために、どうしたらよいのか?」
だったと思います、と、述べて、

でも、
折原さんのアピールは、

人類何千年もの歴史の中で
「実現しようと思っても、実現できなかったこと」

言い換えると、
「求めても得ることのできないものを追い求めたのだな」

即ち
「青い鳥」を求めたのだな
と、ため息をついている、と、お話ししました。


    「東大話法」 と 「東大紛争」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-6883.html



上記の考えは、今でも変わっていませんが、

東大紛争の渦中 においても、
そして、
それ以後も

「処分問題」と「学問における知的誠実」が、
何故、結びつくのか?に ついて、疑念を感じていました。

この疑念を、別の言い方をすると、

「処分問題」は、

知的誠実を持ち出さなくても、
処分問題として処理できたはずなのに、

何故、折原さんは、
知的誠実を、あれだけ強くアピールしたのだろうか?

燎原に火がついたように全学的な紛争拡大をもたらした
折原さんのアピールとは何だったのかな?
ということです。

このことは、私にとって

解かねばならない宿題であると共に
解きがたい謎の一つ
だったのです。


また、

何故
処分問題についての議論が深まらないのか?

医学部の処分は、
事実誤認であるからといって
その他の部分も 全て否定されるものなのか?

処分された人々は、
全く問題ないと、胸を張って主張できる行動 を
取っていたのだろうか?

と、訝しく感じていました。


更に

全共闘の行動は、
全て是認されるのだろうか?


彼らの行為には、
犯罪行為というべきものもあるのに、

大学の自治、大学当局の落ち度、教育的配慮 を 掲げれば、
全て 免罪されるのだろうか?

医学部にしろ文学部にしろ、3年生以上ですので、

原則として、
全員、少年法の保護がある未成年ではなく成人です。

(例外は、誕生日以後成人となる
 現役で入学した3年生です)


一般社会で、犯罪行為、違法行為とされるものが、

大学の中だからといって、
学生だからといって

野放図に見過ごされることに対して、
疑問を感じていました。



これらの謎について、

60代半ばをすぎて、
老い先が短くなってきましたので、

生きている内に
自分なりに整理せねばならないなと考えて、

折原さんの東大紛争当時の文章を集めた
「大学の頽廃の淵にて」(以下「本書」)を、

アマゾンの古本(マーケットプレイス)で購入し、
読んでみました。

折原浩著
「大学の頽廃の淵にて・・・東大闘争における一教師の歩み」
筑摩書房 1969年7月30日 初版発行


また、
ウェーバの「職業としての学問」を、

従来読んでいた出口教授の訳に加えて
(河出書房 世界の思想18)(以下「河出」)

尾高教授の訳(岩波文庫)(以下「岩波」)も購入して、
あわせて読み比べてみました。


その結果、

ウェーバーの専門家であられる 折原さんが、
自らを「ウェーバーの徒」とおっしゃっておられます故に、

折原さんのアピールは、

ウェーバーの学問論に基づくもの と、
何の疑いもなく 素直に信じ、思い込んでいたのですが、

実は、それが間違いで、

折原さんは、
ウェーバーの学問論を無視して、
折原流の学問論をアピールを されておられて

しかも、
その折原流の学問論には、

大いに疑問が呈せられるのでは?


率直に申し上げて、

折原さんは、
ウェーバーの学問論に反する
誤った学問論に基づいておられたし、

その結果、

その後の折原さんの行動を、
凧の糸の切れたようなものにした

と、考えられます。


さらに、

ウェーバーの「職業としての学問」を読んでいる内に、

医学部の皆さんが行ったインターン、登録医反対運動
そこから派生した全共闘運動が、

大学内で行うものとして
ふさわしくないものだったのでは?
という気がしてきました。


従って、
遠い昔の東大紛争ですが、

折原さんの知的誠実を求めるアピールや
医学部の皆さんの闘争について、

当時議論されなかった論点について、
私なりに、改めて考えてみたいと思います。


なお、東大紛争は、

処分問題(特に医学部)に関する
拙劣な医学部と東大当局の対応が

事態を紛糾させた一番の原因です。


折原さんは、

当初 医学部や東大当局に対して、
「知的誠実を求め、おかしいではないでしょうか」と、
アピールされただけであり、

そのアピールが、
例え、間違ったウェーバーの学問論に
基づいたものであったとしても、

ウェーバーの専門家が、
何人も 学内におられたにもかかわらず、

彼らが、
折原さんの間違いを 指摘されないどころか、

多くの人が、
アピールの主旨に感銘し、同意したことにより、

紛争が、
混迷化し、泥沼に陥ったわけですから、

東大紛争の混迷化、泥沼化の責任は、
東大当局にあり、

折原さんに、
第一義的な責任があるわけではありません。

(但し、
 ウェーバー学者としての折原さんへの評価は、
 どうなのかについて、

 この拙文を読まれたウェーバー専門家のご意見を
 お聞きできればな との、願望は持っています。)


よって、
以下の拙文は、

折原さん を
非難するためのものではありませんが、

現在の私からみたウェーバーの学問論によると、

折原さんの 知的誠実を求める主張 は、

ウェーバの学問論に対する誤謬
に 基づくものであって、

論理に、瑕疵があるのでは?
不必要に、紛争を混迷化、泥沼化させたのでは?

更には、

全共闘の不法行為に、
主張の論拠や正当性 を 与えたのでは?

との疑問が生じますので、


それを出発点に、

東大紛争について、私なりの整理をするためのものです。


当たり前のことですが、

ウェーバーの専門家、権威であられる 折原さん と、
ウェーバーについて議論しようとは思っていません。

ただ、
ウェーバーが、晩年に、
生涯をかけて積み重ねてきた彼の学問論を要約して講義した
「職業としての学問」(以下「本講演」)を、

折原さんは、

何故かしら
無視されておられると思われますので、

「本講演(職業としての学問)」で

ウェーバーが述べた点 と、
折原さんの学問論 を 比較して、

折原さんへのささやかな疑問 を
投げかけさせて頂きたいと思います。


(注) 折原 浩氏は、

  当時 教養学部の助教授であり、

  その後、
  東大教授となられて、
  定年退官後 名誉教授 となられておられますので、

  現時点で、どのようにお呼びしたら良いのか、
  迷ったのですが、

  学生時代
  普通にお呼びしていた、折原さんを、
  ここでは 使わせて頂きます。

  また、残念ながら
  私は、折原さんの授業を受けておりませんので、
  一面識もありませんが、

  親しくしていた友人が、折原ゼミの一員で、
  お人柄を 友人から聞いていましたので、

  現在でも 個人的には
  誠実な方であると敬愛していることを、

  最初に申し述べさせて頂きます。


(注)本ブログの最後に、参考として

   「マックス・ウェーバー「職業としての学問」要約、抜き書き」
  掲載するつもりでしたが、

  長文になりましたので、

  別のブログとしても、再掲させていただきましたので、
  参照していただければ幸いです。


  マックス・ウェーバー「職業としての学問」要約、抜き書き
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-26c8.html



      **********



1.ウェーバー「職業としての学問」

  最初に、
  ウェーバーの「職業としての学問」の講演について
  極々簡単にご説明させて頂きます。

  詳しくは、本拙文の最後に、
  「職業としての学問」について、私なりの要約、抜き書き を
  ご参考までに掲載していますので、参照下さい。


  ウェーバーは、
  本講演で、「学問の本質」と「大学教師」について述べてられます。


  ① 「学問の本質」について

    まず最初に、

    学問は、無限に進歩するものであり、
    学問上の達成は常に新しい「問題提出」を意味すると述べておられます。


    次いで、

    学問は、「知るに値する」ことを前提に研究されるが、
    
    前提を拒否する者に対して、
    学問は自らの基本的価値を証拠立てすることが出来ない、

    と、述べられて、
    いろいろな学問の前提と証拠立てられない理由を述べておられます。

    要するに、
    学問は、善であるもの、良きものと仮定して、研究されるが、

    学問自体は、その仮定が、善であり、良きものであることを 証明できず、
    各人の価値観により、善か悪の判断が決定する

    と、おっしゃっておられるように、私には思われます。


    最後に、
 
    

    学問が実際生活に寄与なし得るのは、「明確さ(明晰さ)」を導くことであり、
    これが、学問のなし得る限界でもある、とおっしゃって、

    学問により明確になった事柄を、実際上どう利用するかは、
    各人それぞれの価値観によると結論づけておられます。


    (注) ウェーバーは、
        神学は、一般の学問と「似て非なるもの」であることを
        本講演で述べておられ、

        ヨーロッパの知的伝統、キリスト教についての
        ウェーバーの素晴らしい見解で、非常に感銘する内容ですが、

        本拙文の主旨からは外れますので、ここでは、割愛しました。
        本拙文の末尾の「職業としての学問」の要約、抜き書き を
        ご参照下さい。


    ウェーバーのおっしゃっておられることを
    私の経験に即して、解説させて述べさせていただきます。


    私は、
    大学時代全く勉強をしなかった学生で、
    コントラバス(弦楽器)に熱中していました。

    弦楽器をマスターするための原理は簡単で、
     ① 楽譜が読めて、
     ② 左手の指で 音程を決めますので、
        どこを押せばどの音が出るかを知り(ポジションを理解する)、
     ③ 右手の 弦を奏する弓の使い方(ボーイング)をマスターすれば、
    どんな曲でも弾けるようになるのです。

    勿論、大変な練習が必要ですが、
    技術的には、
    特別な技巧的なもの(才能が無ければ弾けない技巧)を除いて、
    練習さえすれば、誰でもマスターできるのです。

    問題は、それからで、
    演奏する際には、
    音符毎に、どう初めて、どうつないで、どう終わらせるか、
    そして、次の音符にどうつないでいくのか、

    ということを、
    一つ一つ設計し、決めていかねばならないのです。

    その際に、
    マスターした技術のどれを、どのように使って、どう演奏すれば、

    言い換えると
    持っている技術のどれを選択すれば、
    聴き手を満足させ、感動させるのか、が問題となるのです。

    この技術の選択基準は何か?
    と、いうことは、

    奏者の価値観によるものであり、
    奏者が選択した価値観の結果は、奏者の音楽的才能として
    判定されるのです。


    私事を申し上げると、
    この点で、3年生の一年間、

    ある価値観を採用すると、他の価値観は反対するので、
    どの価値観を、どのような方法で選べば良いのかという、
    価値観の選択に迷いに迷って、一瞬たりとも楽器が弾けなくなり、

    幾つもある価値観を全て包含して、かつ、全ての人が認める価値
    言い換えると、
    天上の神なら持っているはずの価値が、

    この世、人間世界にあるのだろうか、
    あるとしたら、どんなもので、どのように実現できるのだろうか
    と、いうことを、求めて さまよい歩いていました。

    (注) ここでの記述した問題は、
        楽器の修行過程における「アイガーの北壁」みたいな難所の一つに
        ぶち当たって彷徨っていたのであって、

        この難所を越えた地点では、別の世界が広がっていたのですが、
        ここでは、そのお話は割愛させて頂きます。


    ウェーバーは、
    学問も、同じだとおっしゃっておられるように感じられます。

    学問の研究をいくら進めても、おのずから道が拓けるのではなく。
    最終的には、
    研究した学問を、どう評価して、どう使うのかが、大切であり、

    それは、
    各人の価値観によるものだと、

    即ち、
    「学問 と はさみ は 使いようだ」と、
    おっしゃっておられるのではないでしょうか。


    日本では、
    「学問の蘊奥を極める」などといって、

    いかにも学問は、
    近寄りがたい、非常な価値を持った、有り難く、奥深いもので、
    東大の教授などのごく一部の人間しか理解できないもののような幻想を
    一般の方々に持たせてきましたが、

    ウェーバーは、これを否定して、

    学問は、
    無限に進歩する技術と同じような性格で、
    学者の業績などは、問題提起にすぎず、後輩に追い越されるものである。

    そして、
    学問それ自体に価値があるわけではなく、
    その学問を生かすも殺すも、使う人の価値観による
    と、喝破されておられるのです。


    勿論、
    学問を研究する過程では、知的廉直(知的誠実)が求められますが、

    これは、
    弦楽器を演奏する際に、
    音程や音の長さ、強弱、テンポ等 を適正に保たねばならないのと
    同じ事であろう、

    
    言い換えると、
    学問の本質ではなく、
    学問をする際の必ず守らなければならない方法論の問題だ
    と、思います。


  ② 「大学教師」について

    最初に、ウェーバーは

    大学では、多くは凡庸な人々が幅をきかしているという事実がある
    と、述べておられます。


    次に、

    大学教師は、
    学者としての資格 と、
    教師としての資格 が、求められるが、

    この2つの資格は、決して合致するものではなく、
    非常に優れた学者でありながら、教師としては全く駄目な人もあり得るとして、

    ヘルムホルツやランケの名を挙げておられます。

    更に、
    教育上最も困難な課題は、

    学問上の諸問題を
    頭はあるが未訓練の人々に理解させ、
    かつ、
    これらの問題を自ら考えていくように解説することであり、

    こうした解説の技術は、個人的な天賦であって、
    何ら、学者としての資質と一致するものではない と、されておられます。


    第3番目に、
    学者にとっての「思いつき」の重要性を述べておられます。

    第三者には凡そ馬鹿げている三昧境に浸る「情熱」を持たない人、

    例えば、
    ある写本のある箇所について、
    「これが、何千年も前から説かれないできた、永遠の問題である」として、

    何事も忘れて、その解釈を得ることに熱中するといった心情を持たない人は、
    学者には向いていない と、述べておられます。

    何故かというと、
    「情熱」は、所謂霊感を生み出す地盤であり、
    「霊感」は、学者にとって決定的なものであるから。

    何か有意義な結果を出すためには、
    いつも、その場に適した「ある思いつき」を必要としている。

    作業をすれば、思いつきを得られるわけでもなく、
    情熱だけでも、思いつきを生み出すことは出来ない。

    作業と情熱が合体することによって、思いつきを誘い出す。

    ただ、
    学問上の霊感は、誰にでも与えられるものではなく、
    潜在的な宿命のいかんによって違うばかりでなく、
    特に、「天賦」のいかんによっても違うのである、

    と、述べておられます。


    最後に、

    政策は、教室で取り上げるべきではないと述べられて、
    大学教師が、自らの政治的見解を、学生に押しつけることを
    禁止されておられます。


    禁止する理由は、

    ① 学生は、
      定められた課程を修了するために、講義に出席しているのであり、

      学生が、教室で、教師に対して批判できる立場でない事を利用して
      政治的見解を押しつけるのは、教師として無責任極まる。

    ② 政治的見解は、
      各人の価値観により判断されるべきものであり、

      学問上、
      ある価値観を支持することは、それ自身無意味である。


      価値観を、神に例えて、

      諸々の価値秩序の 神々を 支配し、
      神々の争いに、決着をつけるものは、

      運命であって、「学問」ではない、


      学問が、把握しうるのは、

      それぞれの秩序(価値秩序)にとって、
      あるいは、
      それぞれの秩序(価値秩序)において、

      神にあたるものは何であるか と、いうことだけである。

      教室で、教師が行う講義も、
      この点を理解させることが出来れば、教師の任務は終わる

    と、おっしゃっておられます。




2.折原さんの ウェーバーと異なる学問論 の ご紹介


  最初に、
  私がウェーバーと異なるのでは?と疑問を持った
  折原さんの学問論をご紹介させていただきます。


  実は、
  本書は、3回 途中で読み進める気がなくなり中断しました。

  これではいけないと、
  4度目は、中断したいのを我慢して終わりまで読んだのです。

  ですから、
  幾つもの疑問や批判があるのですが、挙げるときりがありませんので、

  ここでは、
  折原さんの学問論の中で、主な疑問点を感じた文章を
  4つご紹介させて頂きます。

  (正確を期すために、少し長い引用となることをお許し下さい。
   また、読みやすくするために、適当に改行させて頂きました。)


  第1点

  あるとき、ある研究者が、
  「〇〇世紀の××という思想家を研究することにし」といって、
  その研究プランを話した。

  そのプラン自体は精細を極めたものだったが、
  かれは、一つの問い
  ---- その思想家を研究することが、
      現在のかれ自身 および かれ自身を含む現に生きている人間にとって
      どういう意味をもつのか、
  という問いに、十分に答えられなかった。

  「興味をもつ」
  「学界は一つの有機体で一か所が欠けていても全体としての発展がのぞめない、
   そこでその欠けたいるところを研究する」というようなことを語り、

  最後には、
  「研究テーマの選択は自由だ」ということで、話が途切れた。


  ここにはっきりあらわれている問題は、

  自己の研究の意味を、
  自己を含む現在の生活連関の中で問いながら、研究テーマを選択し、
  研究を方向付けてゆく態度の欠如であり、

  テーマ選択の自由が、
  意味への問いかけを斥ける消極的、防御的姿勢において語られていること
  である。

  わたくしは、
  研究テーマ選択の自由も、
  研究者間の有機的協力の必要性も否定しない。

  しかし、
  テーマ選択の自由は、
  各研究者の、テーマの意味への反省と
  この次元での研究者間のコミュニケーションによって
  裏打ちされなければならず、

  研究者の協力は、
  「学界有機体」がこの反省から自立化するという形でではなく、
  この反省とコミュニケーションの中から生まれてこなければならない
  と思う。


  出所 本書28㌻「学問の自由」とは何か-真の総合大学を形成するために-
      1963年4月30日脱稿



  第2点

  根拠や理由を明示して、
  正しいことは正しいとし、誤りは誤りとする<知的誠実性>こそが、
  学問研究者に不可欠の要件なのではなかろうか。

  なるほど、東京大学の教官各位は、
  それぞれの専門分野においては、
  そのような<知的誠実性>の達人であられるに違いない。

  しかし、
  それではどうして、その<知的誠実性>を、
  自らの職場である<学問と教育の府>における紛争の解決に、
  貫徹していけないのであろうか。

  かえってこの様な問題に対してどういう態度を取るかが、
  <知的誠実性>という学問的態度が
  どのくらい身についた生活態度になっているか、
  をためす試金石なのではなかろうか。

  この点は、
  教官としての大学人の資格にもかかわってくる。


  われわれが、
  学問を通して、学生諸君の人間としての自己形成に働きかけるのは、
  いったいなんのためなのだろうか。

  こういう教育理念の問題については、いろいろなお考えがあろうかと思う。

  しかし、少なくとも共通にいえることは、
  学生諸君の一人一人が、
  <知的誠実性>の生活態度を身につけ、
  大学生活や職場の問題にそのような態度で対決してゆくことを
  期待するからではなかろうか。

  さらには、
  学生諸君の一人一人が、
  必要なばあいには「流れに抗して」生きうる自律的市民として、
  日本社会の「無責任の体系」を批判し、改革してゆくことを
  期待してのことではなかろうか。

  とすれば、
  教官の一人一人が、
  自分たちの職場である大学の問題に、
  学問的な、厳格な態度をもって対決できず、「流れに抗して」生きられずに、
  なんで右のことを学生諸君に期待し、要求することが出来ようか。


  この点はまた、
  大学人の対社会的発言の資格にもかかわってくる。

  たとえば、
  自分の職場の問題を厳密に考え、そこに不正が認められたなら、
  あくまでもそれと戦うという姿勢なしに、
  なんで労働者の職場闘争を批評できようか。


  今回の「東大紛争」の一つの意味は、
  大学人の言行の一致-不一致が
  厳しく問われている点にあるのではなかろうか。

  この重要な意味を認めずに、
  ともかくも「正常」に戻せば良いという発想では、
  問題は決して解決しないし、

  この間の講義や演習の大きな犠牲がつぐないえない。


  出所 本書104㌻「東京大学の死と再生を求めて」
      二 大学人の資格
      1968年8月21日脱稿



  第3点

  この「学園紛争」をめぐる論議において、
  ウェーバーの学問論は、しばしば引用され、

  あたかも
  「専門的経営」の守護神であるかのように、
  擁護されたり非難されたりしているが、

  これらは何れも、
  理由あっての誤解だと思う。

  というのは、
  ほかならぬウェーバーこそが、
  理論は、本来、理論の平面のみで自己増殖とげるものではないこと、

  おのれの生を律する究極の価値理念を明確に自覚した実践主体が、
  そのイデーの実現を阻害する現実と闘うとき、

  はじめて
  本来の<問題>が提起され、
  経験的現実の無窮動のなかから「知るに値する」素材が選択されること、

  その上での個性記述や因果帰属の<客観性>、

  すなわち、
  おのれの熾烈な価値意識によっても曇らされない認識の<客観性>は、

  実践の<責任倫理性>を成立させるモメントとしてこそ、
  要請されるものであること----これらのことを、
  ウェーバーは明瞭に説いているのだが、

  それが、
  <没意味>的「専門経営」を自明の秩序とする
  「とらわれた」視座から解釈されるとき、

  解釈者が、
  解釈されるべき著者のレヴェルに達していないために、

  おのれの「没価値性」を<価値自由>に、
  おのれの「適応『倫理』を<責任倫理>に投射した誤解が生まれ、

  業績稼ぎのペーパーのなかで拡大再生産されてゆくのである
  (安藤英治・内田芳明・住谷一彦三氏の研究を除く)。


  出所 本書181㌻ 「追求集会」における<対話>の創造を求めて
      二 闘う主体としての鋭い認識
      1969年3月13日脱稿


  第4点

  この点(豊川元医学部長、上田元病院長の責任)に関しては、

  私も、昨年7月以来
  「国家権力と既成事実を背景として、上から学生の臨もうとする
   (医学部教授会、並びに、それを陰に陽にバック・アップした大学当局の)
  姿勢」を、

  「大学内部の自由な討論を通じて見いだされる学問的真理に基づいて、
   政治を批判するという 大学本来の重要な機能を放棄し、

   逆に、
   政治権力と結合して、内部討論を圧殺した大学の自殺行為」
  として 問題にしてきたので、

  全共闘の諸君と元共に、断固、この問題に固執し、

  東京大学の教授会メンバーと、
  「確認書」をもって能事終われりとする学生諸君の、

  研究者・学生にふさわしからざる軟弱な知性・責任回避、
  あるいは、
  政治的考慮を優先させて 欺瞞に目をつぶる態度、
  に、抗議しなければならない。


  出所 本書190㌻ 私は、何故、現時点における授業再開を拒否するのか
      二 論理的対決の回避(理由一)
      1969年3月18日脱稿



3.折原さんの学問論が、ウェーバーと異なる点 と それに対する私見

  1.と2.をお読み頂いたので、
  折原さんとウェーバーの見解が異なっていることは、
  ご理解頂いたと思いますので、

  ちょっとしつこくなって恐縮ですが、
  お二人の異なっている点と私見を、述べさせて頂きます。、


  第1点について

  折原さんは、
  研究する際に、「意味が必要である」と、
  ウェーバーとは反対の主張をされておられます。


  <折原さんの記述>

  「かれは、一つの問い
   ---- その思想家を研究することが、
       現在のかれ自身 および かれ自身を含む現に生きている人間にとって
       どういう意味をもつのか、
   という問いに、十分に答えられなかった。

   ここにはっきりあらわれている問題は、

   自己の研究の意味を、
   自己を含む現在の生活連関の中で問いながら、研究テーマを選択し、
   研究を方向付けてゆく態度の欠如であり、

   テーマ選択の自由が、
   意味への問いかけを斥ける消極的、防御的姿勢において語られていること
   である。」


   
   <ウェーバーの記述>

   
  「一般に学問的研究は、更に
   「出てくる結果が、何か「知るに値する」という意味で、重要な事柄である」
   ということも、前提する。

   この前提のうちにこそ、我々の全問題が潜んでいる。

   何故ならある
   研究の成果が、重要であるかどうかを、
   学問上の手段により論証しえないからである。

   それは、
   人々が各自の生活上の究極の立場から

   その研究の成果がもつ究極の意味を、
   拒否するか、あるいは、承認するかによって
   解釈され得るだけである」
   (「岩波」43㌻)


  「いかなる学問も、
   絶対に無前提的ではないが、

   その前提を拒否する者に対して、
   自己の基本的価値を証拠立てることは出来ない。」
   (「岩波」68㌻)


  「人生が、その深層において理解されている限り、

   かの神々の間の永遠の争いからなっているという
   根本の事実に基づいている。

   比喩的でなく言えば、
   我々の生活の究極のよりどころとなり得べき立場は、

   今日 全て 互いに
   調停しがたく、また、解決しがたく 相争っている ということ、

   従って、
   我々は、当然 これらの立場のいずれかを
   選定すべく余儀なくされている ということ、
   が、それである。

   この様な事情の下にあって、
   学問が、
   誰かの「天職」となる価値があるかどうか、ということ、

   また、
   学問それ自身が、
   何かある客観的に価値ある「職分」をもつかどうか ということ、

   これは、
   一つの価値判断であって、

   この点については、
   教室では何事も発言しえないのである。

   何故なら、
   教えるものの立場にとっては、
   この点を肯定することが、その前提だからである。

   私自身、
   もとより、自分の仕事を通じて、この点を肯定している。」
   (「岩波」64㌻)


  「ひとり、自己の専門に閉じ籠もることによってのみ、
   自分は、後々まで残るような仕事を達成したという、

   恐らく、生涯に二度とは味われぬであろう様な
   深い喜びを感じることが出来る。

   第三者には、凡そ馬鹿げている三昧境に浸る「情熱」を持たない人、

   つまり、
   ある写本のある箇所について
   「これが、何千年も前から 解かれないできた、永遠の問題である」として、
   何事も忘れてその解釈をえることに熱中するといった心情がない人は、

   学者には向いていない。」
   (「岩波」22㌻)


  <第1点についての コメント>

  折原さんが、ウェーバーとは異なる主張をされておられるのは、
  読まれれば自明なこととご理解頂けると思います。

  ウェーバーは、

  いろいろな価値が存在する中で、
  学問自体は、
  それ自体価値的には、中性、中立であり、

  学問に意味をもたせるのは、各人の価値観である
  と、おっしゃっておられます。

  更に、
  学者にとって大切なのは、
  凡そ馬鹿げている三昧境に浸る「情熱」が必要だ
  と、述べておられます。

  即ち、
  意味なんて全く見いだせない馬鹿げた研究に没頭するだけの情熱を持たねば、
  本物の学者にはなれないとおっしゃっておられるのです。

  これは、ある意味当たり前のことではないでしょうか。

  研究の意味がわかっておれば、
  全く未知なものを発見することはあり得ないでしょう。

  また、
  折原さんのおっしゃるように、
  人間にとって意味あることしか研究できないとしたら、
  研究の範囲が非常に狭まることになります。   



  第2点について

  この文章は、
  東大紛争における折原さんのアピールの核心と思われる文章です。

  折原さんは、ここで 2つのこと を 述べておられます。

  一つは、
  学者の知的誠実性について、

  もう一つは、
  学生に学問を教える目的についてです。

  <折原さん の 知的誠実性について の 記述>

  「根拠や理由を明示して、
   正しいことは正しいとし、誤りは誤りとする<知的誠実性>こそが、
   学問研究者に不可欠の要件なのではなかろうか。

   なるほど、東京大学の教官各位は、
   それぞれの専門分野においては、
   そのような<知的誠実性>の達人であられるに違いない。

   しかし、
   それではどうして、その<知的誠実性>を、
   自らの職場である<学問と教育の府>における紛争の解決に、
   貫徹していけないのであろうか。

   かえってこの様な問題に対してどういう態度を取るかが、
   <知的誠実性>という学問的態度が
   どのくらい身についた生活態度になっているか、
   をためす試金石なのではなかろうか。


   この点は、
   教官としての大学人の資格にもかかわってくる。」


  <ウェーバー の 知的誠実性について の 記述>

  「大学では、
   多くは凡庸な人々が幅をきかしている という事実がある。

   教授は、選挙によって選ばれるために、
   教皇選挙やアメリカ大統領の選挙と同じように、

   第1の候補者よりも、
   普通には、むしろ第2ないし第3の候補者が当選することが多い。

   しかし、驚くべきは、
   この様にして選ばれるにもかかわらず、
   いつも適任者が任命されることの方が多いということである。」
   (「岩波」16~17㌻)


  「大学で教鞭をとる者の義務は何かということは、
   学問的には何人にも明示し得ない。

   彼(大学教師)に求め得るものは、
   ただ知的廉直(尾高訳、出口訳では、「知的誠実」)ということだけである。

   即ち、

   一方では、
    事実の確定、

    つまり、
    諸々の文化財の数学的 あるいは 論理的な関係
    及び
    それらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ。

   他方では、
    文化一般 及び ここの文化的内容 の 価値いかんの問題、
    および、
    文化共同社会 や 政治的団体の中では、
    人は、如何に行為すべきかの問題の答えること。


   この二つのことが、
   全然異質的な事柄であるということを、よくわきまえているのが、
   それである。」
   (「岩波」49㌻)


  <折原さんの 学問を学生に教える目的 についての記述>

  「われわれが、
   学問を通して、学生諸君の人間としての自己形成に働きかけるのは、
   いったいなんのためなのだろうか。

   こういう教育理念の問題については、いろいろなお考えがあろうかと思う。

   しかし、少なくとも共通にいえることは、
   学生諸君の一人一人が、
   <知的誠実性>の生活態度を身につけ、
   大学生活や職場の問題にそのような態度で対決してゆくことを
   期待するからではなかろうか。

   さらには、
   学生諸君の一人一人が、
   必要なばあいには「流れに抗して」生きうる自律的市民として、
   日本社会の「無責任の体系」を批判し、改革してゆくことを
   期待してのことではなかろうか。」


  <ウェーバー の学問を学生に教える目的 についての記述>

  「人が、いつも問題にするのは、物事の価値いかんの問題であるが、

   例えば、
   諸君がこうした問題について、実際にこれこれの立場を取ったとする。

   ところで、
   もし、諸君がこの立場を実際上貫徹するためには、
   学問上の経験から、これこれの手段を用いねばならない。

   ところが、
   その手段は、まさに諸君の避けねばならぬと思うものであるかも知れない。

   そうした場合、
   諸君は、目的とそのための不可避的な手段との間の選択を
   行わなければならない。

   目的が、
   この手段を「神聖にする」かしないか。

   教師は、
   この選択の必然性を諸君に教えることは出来るが、

   教師が、扇動家になるつもりがない以上、
   それ以上のことを教えることは出来ない。」
   (「岩波」61~62㌻)


  「学問上の諸問題を、
   頭はあるが未訓練の人々に理解させ、
   かつ、
   これらの問題を自ら考えていくように解説するということは、

   恐らく、
   教育上最も困難な課題であろう。

   こうした解説の技術は、結局、個人的な天賦であって、
   これは、
   何ら、学者としての資質と一致するものではない。」
   (「岩波」20㌻)


  「有能な教師たるものが、その任務の第一とするべきものは、

   その弟子達が、都合の悪い事実、
   例えば、
   自分の党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを
   承認することを教えることである。

   もし、大学で教鞭をとる者が、
   その聴講者達を導いて、
   こういう習慣をつけるようにさせたならば、

   彼の功績は、
   単なる知育上のそれ以上のものとなるであろう。

   私は、
   敢えて、この様な功績を言い表すのに
   「徳育上の功績」という言葉を持ってしよう。

   勿論、それは、
   教師としては、全く当たり前のことであって、

   これほどまでに言うのは、
   恐らく やや誇大にすぎるであろうけれども。」
    (「岩波」53㌻)


  <第2点についての コメント>

  第2点についても、
  折原さんとウェーバーは、全く異なった見解をお持ちだということを
  お認め頂けると思います。

  ① 知的誠実性について

    ウェーバーは、

    大学教師の義務については、学問的には何人にも明示し得ない。
    大学教師に求め得るものは、
    ただ知的廉直(尾高訳、出口訳では、「知的誠実」)ということだけである、
    と、おっしゃってから、

    大学教師における知的誠実とは
    「事実の確定」と「価値いかんの問題」は、
    異質的な事柄であることをよくわきまえることである
    と、されておられます。

    自分の価値観に基づいて、事実はこうであると主張することは
    避けねばならない と、おっしゃっておられるのではないでしょうか。

    折原さんは、
    このウェーバーの主張を全く無視されておられることが気になります。


    ところで、
    折原さんの知的誠実性を求める主張については、
    ちょっと首を傾げざるを得ません。

    折原さんも、折原さんが批判する他の教官も、
    それぞれの専門知識に秀でているからこそ、
    そのポストについておられるのです。

    ということは、
    教官採用の際の採用基準は、
    専門以外は、一般の入社試験と同じ常識的な評価であり、
  

    教官は、
    専門分野以外については、一般の教養人と同じレベルであると
    考えるのが自然ではないでしょうか。

    医学部の教官は、
    医学のそれぞれの専門分野で秀でているのであって、

    処分問題については、
    一般の教養人と同じく素人なのです。

    その素人が、
    したくもないし、なれてもいない交渉の場に
    無理矢理引っ張り出させられて、

    その結果、
    とんでもない処分をしたのであれば、

    彼らに、
    知的誠実性を求めるのではなく、

    素人でも問題なく結論を出せる方策を提案するとか、

    処分問題は、
    素人には任せないで、専門家に処理を依頼する様にすべきだ
    との提案をするとか、

    生じた紛争を、
    どう解決すべきかの視点からアピールすべきだったのでは?
    という気がしています。

    これは、
    大学当局に対しても、同じ事が言えると思います。

    当時の大河内総長は経済学者であって、
    紛争の処理の専門家ではありませんでした。

    知的誠実性は、
    教官が、それぞれの専門分野で研究する際に求められるべきものだし、

    専門分野での議論においては、
    知的誠実性についての 具体的、客観的な議論が可能だと思いますが、

    専門分野以外について知的誠実性を求めたら、

    それは、
    単なる倫理的な要求であり

    お互いに建設的な議論が難しくなるし、
    解決が見込めない泥沼に陥ってしまうことは、
    東大紛争の経緯を見ても、わかることだと思います。


  ② 学生に学問を教育する目的

    折原さんは、学生が、
    折原さんの価値観 に 基づいて、
    折原さんの価値観 に 従って
    行動するようになることを目的として教育すべきだ
    と、主張されておられますが、

    ウェーバーは、
    それに反対されておられます。

    というか、
    大学教師が、絶対にしてはいけないこと
    と、おっしゃっておられます。

    違いは違いとして、ありうることですが、

    「ウェーバーの徒」とおっしゃっておられる折原さんが、
    ウェーバーと異なることを主張される理由について、
    ご説明がされていないことが、

    知的誠実性の観点からも、訝しく思われます。



  第3点について

  ウェーバーの学問論についての折原さんの認識を記述された文章ですが、

  ウェーバーの使っている単語を使われてはおられますが、
  ウェーバーとは異なった使い方をされておられるのでは?
  と、感じられます。


  <折原さんの記述>

  「おのれの生を律する究極の価値理念を明確に自覚した実践主体が、
   そのイデーの実現を阻害する現実と闘うとき、

   はじめて
   本来の<問題>が提起され、
   経験的現実の無窮動のなかから「知るに値する」素材が選択されること、

   その上での個性記述や因果帰属の<客観性>、

   すなわち、
   おのれの熾烈な価値意識によっても曇らされない 認識の<客観性>は、

   実践の<責任倫理性>を成立させるモメントとしてこそ、
   要請されるものであること----これらのことを、
   ウェーバーは明瞭に説いているのだが、・・・」


  <ウェーバーの記述>

  「これまで、私は、
   個人的な立場を人に強いることについて、
   専ら実際上の理由から、これを避けるべきであると論じてきた。

   だが、これを避けなければならぬ理由は、以上に尽きない。

   実際上の立場を「学問的に」主張することが出来ないということは、
   もっと深い理由によるのである。

   というのは、
   今日 世界に存在する様々の価値秩序は、
   互いに解きがたい争いの中にあり、

   それ故に、
   個々の立場を、それぞれ学問上支持することは、
   それ自身、無意味なことだからである。
   (「岩波」53~54㌻)


   諸々の価値秩序の 神々を 支配し、
   神々の争いに、決着をつけるものは、
   運命であって、
   決して「学問」ではない。


   学問が、把握しうることは、

   それぞれの秩序(価値秩序)にとって、
   あるいは、
   それぞれの秩序(価値秩序)において、

   神にあたるものは何であるかということだけである。


   教室で、教師が行う講義も、
   この点を理解させることが出来れば、その任務は終わるのである。

   もとより、
   その講義の中に隠されている 重大な人生の問題は、
   これで片付いたわけではないが、

   この点については、
   大学の教壇以外の所にある 別の力が ものをいうのである。
   (「岩波」55㌻)


  <第3点についての コメント>

  折原さんは、
  自分が信ずる価値観に基づいて、現実と闘うと、
  初めて、本来の問題が提起され、

  「知るに値する」素材が選択されて、
  自分の価値観によっても 曇らされない客観性が、
  実践の責任倫理性を成立させるモメントとして要請されることを、
  ウェーバーは明瞭に説いている

  と、おっしゃっておられますが、


  ウェーバーは、
  幾つもの価値観が並存していて、
  どの価値観を採用すべきかは、学問的に証明することは出来ない。

  学問は、
  その学問が、「知るに値する」ことを前提にしているが、

  その前提を否定する人には、
  何故「知るに値するか」について証明することが出来ない。
  (この記述については、第1点の ウェーバーの記述を 参照下さい。)

  学問の出来るのは、
  いろいろな価値観があって、

  この価値観によれば、こうなるし、
  こちらの価値観によると、こうなるということを述べるだけであり、

  どの価値観を採用するかは、
  各人がどのような価値観を採用するかによるものであり、
  教師が教えることのできないし、教えてはならないことである、

  と、本講演で述べておられような気がします。


  折原さんがおっしゃっておられることは、
  学問論ではなく、学問の方法論ではないでしょうか?


  ある価値観に基づかなければ、
  ある立場 に拠らなければ、

  研究が進められないのは 理解できます。

  ですから、
  そういう方々が、研究する際には、
  折原さんのおっしゃるような過程を辿ることになるのだろう
  と、思いますが、

  それは、
  学問研究の方法論であって、
  学問の本質論ではないような気がします。


  論文で、
  問題提起や仮説の提示をする際には、
  その人の立場、価値観を明確にせねばならないことは理解できますが、

  その立論は、
  唯一絶対に客観的に正しいものではなく、

  幾つもある価値観の一つによるものだということであり、
  別の価値観に基づく立論もあり得ることを、わきまえてなければならない、

  と、ウェーバーは、強調しておられるのだろうと思います。


  立論の客観性とは、

  ある価値観をスタートとすれば、
  この様な論理に従って、
  この様な結論にいたるという 論理展開が、

  学問で認められた前提に従っていれば、
  客観性を持つということになるのだろう と、思います。



  第4点について

  第4点は、
  折原さんの闘争宣言であり、
  安田講堂落城後の授業再開に反対する第1の理由を、述べておられます。


  <折原さんの記述>

  「私も、昨年7月以来
   「国家権力と既成事実を背景として、上から学生の臨もうとする
    (医学部教授会、並びに、それを陰に陽にバック・アップした大学当局の)
   姿勢」を、

   「大学内部の自由な討論を通じて見いだされる学問的真理に基づいて、
    政治を批判するという 大学本来の重要な機能を放棄し、

    逆に、
    政治権力と結合して、内部討論を圧殺した大学の自殺行為」
   として 問題にしてきたので、

   全共闘の諸君と共に、断固、この問題に固執し・・・・・・」

  <ウェーバーの記述>

  「学問的立場から、政策を取り扱っている場合、
   ことに、教室では政策について取り上げるべきではない。

   何故なら、
   実践的政策的な立場設定と、
   政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、

   全く別のことだからである。」
   (「岩波」47㌻、48㌻)


  「もし、また、
   彼(大学教授)が、

   世界や党派的意見の争いに関与することを、
   自分の天職と 考えているならば、

   彼(大学教授)は、
   教室の外に出て、実生活の市場においてそうするがいい。

   つまり、
   新聞紙の上とか、集会の席とか、
   または、
   自分の属する団体の中とか、

   どこでも自分の好きなところでそうすいるがいい。

   だが、
   聴き手が、

   しかも、
   恐らく自分と意見を異にするであろう聴き手が、
   沈黙を余儀なくされているような場所で、

   得意になって、自分の意見を発表するのは、
   余りに勝手すぎるというものであろう。」
   (「岩波」60㌻)


  <第4点についての コメント>

  折原さんは、

  「学問的真理に基づいて、政治を批判する」のが
  「大学本来の重要な機能」だと、

  ウェーバーの教えと正反対のことを記述されておられます。

  勿論、
  ウェーバーの教えが、絶対的に正しいというわけでなく、
  価値観の選択の問題ではありますが、

  「ウェーバーの徒」とおっしゃる折原さんであるなら、
  折原さんが正しく、ウェーバーが間違っている理由を、
  記述されるのが、知的誠実性というものだと思います。

  私には、
  学問と政治とを峻別して、
  大学教師は、大学内では政治的な発言はすべきでない
  との ウェーバーの主張の方が、真っ当であると思えます。


  更に、
  「政治権力と結合して、内部討論を圧殺した」と
  大学当局を非難しておられますが、

  東大の中には、
  ウェーバーが非難するような、政治的な活動をする扇動者が、
  沢山おられますし、

  彼らの政治活動も又、
  大学自治の阻害要因だと思われますが、

  折原さんは、
  その点について沈黙されておられます。

  折原さんが、
  彼らの一派だから沈黙しているのですか?との質問は、
  皮肉にもならないのかな? と、いう気がしています。


  折原さんの闘争宣言には、
  幾つもの疑問がありますが、

  一々述べると過激となって、穏当を欠きますので、
  疑問点を列挙させて頂きます。

  ① 目的を達成して、授業を再開される状況とは、
    どのような状況だと、折原さんがお考えなのでしょうか。

 
    私には、
    折原さんの要求は、人間心理の奥底にある倫理的な悔悛であり、

    他人である折原さんが、
    東大教官全員の心情を、全て客観的に判定できるとは、
    全く不可能なことですので、

    折原さんが求めておられる状況は、「達成不可能」といわざるを得ず、
    達成不可能なこと、出来もしないことを主張されておられる
    と、思われます。

  ② 闘争宣言後の折原さんの消息は、私は存じませんが、

    ウィキペディアを拝見すると、
    その後、折原さんは、
    東大教授になり、めでたく定年を迎えて名誉教授になって、
    他の大学に天下りされておられますので、

    何処かの時点で、授業を再開されたのでしょう。


    現在の東大は、「東大話法」などが紹介されるように、
    授業再開に反対した折原さんが主張は実現していないと思われますが、

    授業を再開されたとしたら、再開された理由は、
    どのような理由だったのでしょうか?

    また、
    東大教授に昇進され、名誉教授の称号を受けられた理由は
    何なのでしょうか?

    私は、
    折原さんのような主張は、絶対にしませんが、
    もし、覚悟して主張し始めたならば、目的を達成するまで止めないでしょう。

    ましてや、
    目的も達成していない状況で 定年を迎えたら、
    名誉称号である名誉教授など、お断りして、
    「はいそれでは、さようなら」といって、
    さっさと おさらばするだろう と、思います。

  ③ 教え子に対する責任は、
    どのように考えておられるのでしょうか?

    まさか、
    刑事裁判で証人として弁護すれば、責任を果たした と、
    お考えになってはおられないだろう と、思います。

    (注)折原さんの刑事裁判での証人としての弁論を聞いたある裁判長が、、
       折原さんを「大人子供」と評したことがありました。

       その時は、「何故だろう?」と、訝しく思いましたが、
       この拙文を書いてみて、
       その裁判長がおっしゃった理由が分かるような気がしています。

       (「大人子供」とは、
        見かけは立派な大人だが、言っていること、精神年齢は子供だ、
        ということを意味していると、感じました。)

  ④ 本書で、
    折原さんが、自ら直接 教えても おられない 高校生 に、
    「ゲバ棒をもって暴れろ」と、檄を飛ばしておられますが、
    (本書10㌻ 本書の意味と背景 一 「著書出版」の意味)

    この文書を読んで、折原さんの教えを勘違いをして、
    将来を台無しにする高校生が出て来たら、

    どのような責任をとられるのでしょうか。
    また、
    親御さんにどのような申し開きをするのでしょうか?

    (注)折原さんの受験体制に対する批判に、全く賛成できませんが、
       本拙文の主旨から外れますので、割愛します。

    

4.折原さんとウェーバの違いが生じた原因 についての私見

  以上、
  折原さんの主張が、
  ウェーバーに 全く反していること を、述べてきましたが、
  この様な違いが生じた根本原因はどこにあるのでしょうか。

  私なりの推測、仮説を述べさせて頂きます。


  お二人の違いの 根本 は、

  ウェーバーは、
  複数の価値観が世の中に存在し、
  それを前提に行動すべきであることを、実践されておられるに対して、

  折原さんは、
  複数の価値観の存在を、頭では理解していても、

  実際の行動となると、
  ご自身の価値観を絶対的に義(ただ)しいものとする、
  キリスト教が2000年来積み重ねてきたヨーロッパ的知的伝統に従って、
  行動されておられるということではないだろうかと、考えています。


  折原さんは、
  ご自身を、マージナルマンと定義されておられますが、

  本当のマージナルマンであるなら、複数の価値観を理解するが故に、
  行動に移すことが、困難になるのではないでしょうか。

  行動するということは、
  複数の価値観の中から、一つの価値観のみを選択して、
  その価値観に身を委ねることになるのです。

  例えば、
  カトリックとプロテスタントの両方の価値観を理解していた エラスムスは、
  対立する両陣営から、応援を依頼を受けたにもかかわらず
  片方に与することをしませんでした。


  従って、
  複数の価値観に基づいて、
  複数の価値観を体現して行動することは不可能であるために、

  マージナルマンが、行動に移った途端に、マージナルマンではなくなり、
  ある価値観に基づいて、
  ある価値観を体現してしか行動することになるのです。

  従って、折原さんも、
  歴史上最大のマージナルマンである皇帝フリードリヒ2世 と同様に
  (1194~1250 享年 56才)

  行動に際しては、
  ご自分が信じる一つの価値観に基づいて行動されておられるのです。

  このこと自体は、
  一般的には、当たり前のことであり、特段 問題視することではありません。


  問題なのは、
  折原さんが、行動する際に、知識として知っていたのではなく
  身にしみて

  ① 一つの価値観に従って、自分の価値観を旗幟鮮明にして
    行動せざるを得ないことは、避けることが出来ない
    と、承知しているか、否か、
    (折原さんは、承知しておられない のでは?)

  ② 世の中には、
    幾つもの価値観が並存していることを 理解していて、

    それ故に、
    自分は、その一つの価値観を選択して行動しているのだ と、
    他人が、別の行動しても、それはそれで、あり得ることだ と
    自覚しているか、否か、なのです。
    (折原さんは、自覚されておられない のでは?)

  ③ 更に、
    自分の価値観を真っ向から否定する価値観も、世の中にはあり得る
    と、いうことを、理解していて

    この様な 自分の価値観を否定する価値観と、
    どうやって折り合いをつけていこう と、考えているのか、なのです。
    (折原さんは、考えておられない のでは?)

  この
  自分とは異なる他の価値観を選択すれば、別の行動もあり得ることを
  身にしみて理解しているかどうかが、

  折原さんとウェーバーとの根本的、本質的な違いであり、、

  折原さんは、ウェーバーの本質を理解されておたれない
  と、言わざるを得ないのでは? と、思われる所以なのです。


  ヨーロッパ人の 唯我独尊、上から目線で、
  自分の考えが絶対的に義(ただ)しく、これに反するものは、虫けらに等しい
  との態度は、

  マキァヴェッリとウェーバーを除いては、
  歴史上の全てのヨーロッパ人に当てはまるのでは、と考えていますので、

  折原さんは、
  日本人には、理解しづらい キリスト教的伝統に基づくヨーロッパ思想を、
  大変正確に理解し、身につけておられて、
  普通の欧米人 学識者 と 同じレベルに達しておられると思います。

  ただ、普通の欧米人学識者のレベル自体が、
  独りよがりで 唯我独尊 であることを、気がつかないレベルであり、

  それに気がついていた ウェーバーは、
  通常人のレベルを遙かに超えた例外的な天才である
  と、言うべき存在なのだろうと思います。


  東大紛争のおいて、
  折原さんご自身も、
  周りの先生方、学生達も、

  価値論についての 一番大事な点、極めて常識的な当たり前の点を、
  誰も指摘をせず、表だった議論が存在すらしなかったことが、
  東大紛争を泥沼化させた、一番の原因だろうと思いますし、

  はっきり言って、
  東大も、たいした大学ではなかったのだな、
  東大教授なんて、所詮 学校教師の集まり だったのだな
  と、言わざるを得ません。

  でも、
  多分、他のヨーロッパやアメリカの大学も大同小異でしょうから、
  そんなに落胆せねばならないことでは無いとは思いますが・・・・・・


  但し、
  折原さんご自身に対しては、

  「ウェーバーの徒」を看板に、ウェーバーの知識を生活の糧としている
  「ウェーバー講釈師」ですね と、投げかけざるを得ないな
  と、感じています。

  (注)マージナルマンとは、
    複数の価値観の境界に存在して、
    その複数の価値観を理解している人をいいます。

  (注)ヨーロッパの知的伝統であるキリスト教の論理については、
     次の3つのブログを、ご覧頂ければ幸いです。

     1.「ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説)」
     2.「キリスト教の本質についての 幾つかの謎解き」
     3.「キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの」

  「ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説)」
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-8f11.html
  「キリスト教の本質についての 幾つかの謎解き」
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html
  「キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの」
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-6c54.html


5.医学部闘争について

  全共闘や医学部闘争について、お話しするには
  本拙文が長くなりすぎましたので、ポイントだけ、お話しさせて頂きます。

  ① 全共闘は、
    全体としてみたら、子供じみた「革命ごっこ」だったと思います。

    敢えて刺激的な「革命ごっこ」の言葉を使用したのは、
    革命を起こすには、余りにも子供じみて、お話にならなかったからです。

    許せないのは、
    他の大学の学生を引き入れたことと、
    東大の正門に毛沢東の肖像を掲げたことです。

    大学の自治、知的誠実などと、主張しながら、
    自らは、これに反する暴力行為、犯罪行為を平気で行って、
    恥じることがなかった点は、未だに不可思議で、理解が出来ません。

    (注)「全体として」と、申し上げたのは、
      個人個人のレベルでは、
      純粋に考え、誠実に行動した人が、多数おられたことを
      知っているからです。

      全共闘の指導者は、その人々の純粋な熱情を裏切って、、
      人間として許すべからざる行為 を したのです。

  ② 医学部のインターン・登録医反対闘争も、
    大学内の行為としては、不適切であり、
    してはいけないことをされたのだと思います。

    医師免許を取得したにもかかわらず、
    インターンとして、ただ働きを強制されることは、理不尽であり、
    是正すべき問題であることは、その通りだと思います。

    でも、
    医学部は、学生に医学教育をするところであり、
    東大病院は、患者さんの治療を行う場所なのです。

    それに従事している先生方に対して、
    インターンは、不当であると抗議しても、

    要求された教官は、変更する権限は持っていないのです。

    抗議は、制度変更の権限を持っている
    厚生省や国会に対して行うべきものであり、

    身近の先生方に対して、鬱憤をぶつけても、
    何の解決にもならないのではないでしょうか。

    敢えて言うと
    幼児が、かんしゃく を 起こして 駄々をこねているのと
    同じではないでしょうか。


    問題となった処分についても、
    その場にいなかった人物を処分したことは、論外ですが、

    集団で、アポイントもナシに、仕事の最中に交渉に応じろと
    押しかけるのは、非常識極まる行為であったといわざるを得ません。

    また、その場におられなかったのに処分された方は、
    他の大学にオルグに行っていたとのことですので、

    これは、
    他の大学の自治に対する侵害であり、
    あってはならないことではないでしょうか。


    自分たちの主張を通すためには、何をやっても良い、との
    一般社会から隔絶した論理の不当性が、
    東大紛争中に、何故議論されなかったのか、

    折原さんが、
    大学当局に対して知的誠実を要求して、あれだけ責め立てただけに、

    人間として、恥ずかしくないのですか?と、
    大いに疑問を感じる次第です。

    折原さんは、
    「医学部闘争が、「話し合い」では、解決できないという
     言語表現の限界性の自覚から出発しており、

     東大闘争の一つの意味も、
     言語表現の限界を明らかにした点である」と、

    折原さんを追求する集会において、
    全共闘の皆さんがこもごも主張したと書いておられます。
    (本書179㌻ 「追求集会」における 対話の創造を求めて 
     一 非言語的行為による特権的自己の否定)

    だとすると、闘争の指導者は、
    医学部闘争の最初から、
    医学部や東大病院の先生方と、建設的な話し合いをしようと考えておらず、
    騒ぎを起こすために騒いでいたということを、
    自供しているということではないでしょうか。

    東大の医学部は、「白い巨塔」と言われて、
    封建的であると批判をされる部分が大きくあることは承知していますが、

    紛争や喧嘩の素人の先生方が、
    虎視眈々と喧嘩をふっかけようとするストーカーまがいの連中の
    餌食になったのだな、との同情や感慨も、浮かばないわけではありません。



6.東大紛争をもたらした時代背景・・・結びに代えて・・・


  私の東大紛争に対する見解をご紹介するためと言いながら、
  折原さんには、失礼を顧みずに、批判させて頂きましたし、

  一言ですが、
  全共闘や医学部闘争に対して、お怒りを買うような文章を書かせて頂きました。

  議論の場とは言え、失礼の段、深謝させて頂きます。


  最後に、結びに代えて
  東大紛争が生じた背景には、大きな歴史的な時代背景があったのでは、
  との私の仮説をご紹介させて頂きます。

  ヨーロッパ史を大きく見ると、

  13世紀に、
  フランスのカペー朝が力強い歩みを始めて、

  アンジュー家(プランタジネット朝)を、イングランドに駆逐し、
  ブルゴーニュ公国との内紛を終結させて、
  15世紀の終わりに国民国家の歴史を開始しました。

  イングランドにおいても、
  フランスから駆逐されたアンジュー家が、

  バラ戦争を終結させて、
  フランスと同時期に、国民国家を同じように開始しています。

  (注)国民国家は、
     1494年イタリア戦争の開始をもって開始したと考えています。

  19世紀後半には、
  ドイツ、イタリア、日本が、国民国家を形成し、

  19世紀の最後に、フロンティアを解消させたアメリカ、
  第一次大戦後にソ連が国民国家を確立しました。

  これらの国民国家は、
  世界中を植民地として、帝国主義の覇権争いを行い、

  準々決勝として、第一次大戦、
  準決勝 として、第二次大戦、
  決勝戦 として、冷戦という名の第三次大戦を繰り広げたのです。

  その結果、
  1989年に、アメリカがソ連に勝利し、ソ連が崩壊したのと同時に、

  歴史が、
  500年来の国民国家の時代から大転換して、
  地域共同体から世界連邦への、新たな数百年の歴史を歩み始めたのです。


  東大紛争が生じた、1968年は、
  500年単位の歴史の大転換が生じる 20年前の時期で、

  夜明けの前が一番暗い のと同様に、
  時代の閉塞感が最も強く感じられた時期でもあり、
  価値観の混迷が極まった時期でもありました。

  私自身、学生の時、
  価値の問題と共に、
  「時代が、いずこからいずこへ向かっているのだろう」と、
  悩みに悩んだ経験をしました。

  なんやかんや言っても、
  東大は、
  やはり 優秀な人々が集まっていて、
  時代への感度が皆さん鋭かったのだろうともいます。
  

  それ故に、
  皆さんが感じていた 時代の閉塞感への 何とも言えないイライラが、
  医学部や文学部の処分をきっかけに、噴出したのだろうと感じられます。

  同じ時期に、
  パリでも、学生が 騒いでいますし、
  プラハの春が、あった年でもありました。

  ですから、
  東大紛争を、今から振り返ると、
  大きな時代の流れの中で生じた 歴史の一つの泡 だったのだな
  と、しみじみ感じられます。



  以上述べたことについては、
  ホームページに、拙文を掲載していますので、お読み頂ければ幸いです。

  「歴史における現在 *** 国民国家 から 世界連邦へ ***」
   http://chuuseishi.la.coocan.jp/000801.htm

  「ブッシュ の イラク戦争( 「歴史における現在」 再論 )」
   http://chuuseishi.la.coocan.jp/030830.htm


長文を、最後までお読み頂き、有難うございました。

蛇足ではございますが、
ウェーバーの「職業としての学問」の要約、抜き書きを
ご参考としてご紹介させて頂きます。



< 参 考 > マックス・ウェーバー 「職業としての学問」の要約、抜き書き
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-26c8.html

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