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2016年3月25日 (金)

ヘーゲル「歴史哲学」における進歩史観やマルクスの史観は、キリスト教終末論のパクリでは?

ヘーゲルやマルクス、
更には、
フクヤマやE・H・カーの進歩史観について、

「なぜ、この様な妄想とも言うべき発想が生まれるのだろうか?」
と、長年 疑問に 思ってきました。


ヘーゲルの進歩史観について、

進歩という無限運動が、何故 目標に達したら、ストップするのか?とか、
自由の実現は、あり得ない とか、
歴史の進歩とは、何ぞや?とか

個別の事項に対する批判は、勿論あるのですが、

それ以前に

常識的に 妄想としか思えないような、
「歴史は、自由の実現という目的に向かって進歩する」という、

ヘーゲルの根本的な構想が、どこから生じたものなのか?、が、
本質的な疑問だったのです。


長年 考えるうちに、

進歩史観というものは、
「積み重ねの歴史」を、「繰り返しの歴史」に 路線を転換させるために、
作り出された理論ではないだろうか、

と、考えるようになりました。


(注)「積み重ねの歴史」「繰り返しの歴史」は、
    私一人だけの絶対的少数説ですので、

    ヘーゲルは、
    この様なお考えを、感覚的に持っておられたのでは?
    と、想像していたのです。


ヘーゲルの進歩史観は、

あるところ(目標達成)まで、歴史は 進歩(前進)するけど、
目標を達成したら、繰り返しの歴史に安住して、

それ以降、
歴史は進歩(前進)しなくなる、

と、説明すると、ぴったり当て嵌まります。


ヘーゲルが、
何故、この考え方に至ったかについて想像すると、

ヘーゲルやマルクスは、
「積み重ねの歴史」の重圧に耐えられないので、

一度走り出した「積み重ねの歴史」を、「繰り返しの歴史」に戻そうとして、
進歩史観という歴史観を創造したのでは?

と、説明すると、一応の回答となります。


多分、この様なことだろう、ほぼ結論が見えたな
と、感じているところで、

最近、
「ミレニアムの歴史」(J・P・クレーベル著、新評論)を、読み出してみたところ、
次の文章を読んで、あっと吃驚してしまいました。

(注) 「ミレニアムの歴史」は、

    キリストが再降臨して、最後の審判がなされると考えられた
    西暦1000年頃のヨーロッパの人々の<紀元1000年の恐怖>について

    記述された本です。


クレーベルは、次のように 記述されておられます。
(番号は、参考のため 私がつけました。)


「ユダヤ・キリスト教的終末論」は、

 1.<始まり>の時の
   無垢さと純粋さ を 再現するためには、

   再創造すべき世界 を 浄化して、<空>に しなければ ならない、
   という 古い信仰の立場 を なおも  とっている

   宇宙 が、
   新しい世界を生み出すためには、

   古いものは、
   全く根こそぎ 消え去らなければ ならないのである。


 2.その終末論 は、
   来たるべき宇宙開闢 を あらかじめ示したものであり、

   「新しい創造は、
    この世界 が 決定的に 廃されない限り起こり得ない。

    この世界を
    完全に再創造するためには、

    もはや 堕落したものを 再生するのではなく、
    古い世界 を 根絶することが 重要なのである。

    <始まり>の 至福状態 に 固執することは、
    存在したが故に 堕落した 全てのものの根絶 を
    要求することになる。

    初めの完全さ に 戻ることだけが、
    唯一の可能性 なのである。」

   (「   」の部分は、
    ジョルジュ・デュヴィ「紀元千年」よりの引用だそうです)


 3.この原初の完全状態というものに、
   ユダヤ・キリスト教的終末論は、新しく重要な概念を付与している。

   即ち、
   崩壊の後に再創造される世界は、

   原初に、
   アダムに提供された黄金時代の、最初の創造の世界 と 同じものとなろう。

   ただし、
   今度 再創造される世界は、永遠である。

   単に、終わりがないということではなく、
   この世界は、変わることがない。

   この世界は、あるがままに続き、
   発展も、進歩もない、完全であるが為に、

   確立された秩序 を 変えようとする 欲望や誘惑 の 何ものをも
   ・・・それが、善いものであり、悪いものであれ・・・
   この世界では 禁じられるのである。

   人間は、
   もはや 空腹、乾き、寒さ、病気、抑圧されたよう欲望 も
   何も感じないだろう。

   これが幸福なのだろうか?
   退屈 や モンテ・カッシーノの修道士達 を 苦しめた 不機嫌 さえも、
   もはや、全く感じない のだろうか?

   (クレベール「ミレニアムの歴史」24㌻)


あっと驚いたのは、

最後の審判の後、
天上のエルサレム が 地上に降りてくることは、知っていましたが、

降りてきた地上のエルサレムが、どのようなものか について、
勉強不足で 知らなかったものですから、

今回の記述 を、読んでいるうちに、
ヘーゲルの進歩史観で  自由が実現した後、進歩が止まった世界が
地上のエルサレム と 重ね合わされて、閃いたからです。


クレベールは、

中世の人は、
神が、6日間で世界を作り、7日目に休まれたのと同様に、

 

千年を、7回繰り返す度に、
神の重要な奇跡を行って、人類を教え導いた と、考えていた。


キリストの降誕 は、
6回目の千年の時代の初めに起こったことで、

キリストの千年後に、
最後の審判を経て、最後の千年が始まると、考えていた

と、記述されておられます。


クレーベルの記述を読んでいると、

キリスト教は、
千年毎の循環論の中に、

イエス・キリストの降誕以後の千年について、
最後の審判に向けて、歴史が歩んでいく との 直線論を導入したところが、

他の宗教と異なっている と、おっしゃっておられるような 気がしました。


そして、これこそが、
ヘーゲル の おっしゃっておられる 歴史哲学そのもの ではないでしょうか。

ヘーゲルの論理に従って考えると、
「自由の実現」した後は、地上のエルサレムが実現するので、
歴史の歩みがストップするのは当然のことなのだろう
と、納得できます。



最後の審判に向けて、歴史が歩んで行く との
キリスト教の考え方 は、

歴史の発展過程において、
資本主義が出現し、革命により社会主義から共産主義社会に至る
との マルクスの史観にも、ぴったり当て嵌まります。

その資本主義において、

資本家が、
労働者を搾取し、公害をまき散らして、疫病を流行らせ、
労働者始め大半の人民の塗炭の苦しみの上に、
支配者として、諸悪の根源として、君臨する様子は、

まさに、
資本家は、「反キリスト(アンチ・キリスト)」である と、言えるでしょう。


この資本家に対して、
労働者が立ち上がって、革命により資本者を打倒して、
新たな社会を作るとのドラマは、

神の審判の後に、地上のエルサレムが出現する話 と、そっくりです。

そして、
完全無欠な地上のエルサレムの代わりに、
完全無欠な労働者の楽園である共産主義社会が実現すれば
歴史の歩みが停止すると考えるのは、自然のことだったのでしょう。

でも、
これは、歴史が証明しているように
妄想によるイリュージョンだったのです。


いずれにしても
マルクスにおいても、

ヘーゲル同様、
社会主義社会を経て 共産主義社会が実現すると、
歴史の歩みは、ストップしますので、

これは、
地上のエルサレムは、完全無欠で、変わりようがない との
キリスト教の考えを、コピーしたものでは?
と、言いたくなるくらい、同じのもの であるような 気がします。


ネオコンのフクヤマの
「リベラルな民主主義」の実現により歴史が終わるとの歴史観も、

ヘーゲルの亜流と共に、
キリスト教の終末論の焼き直しと言うべきでしょう。



今回、考え込されたのは、

1.キリスト教が、
  如何に、
  ヨーロッパ人の心の奥底にまで 染み込んでいるか、

  キリスト教の影響力が、如何に根強いか
  に、ついてでした。


  「宗教(キリスト教)は、アヘン」と言ったマルクスでさえ、

  その歴史観の根本は、
  キリスト教の終末論という妄想に基づいているのですから、

  ヨーロッパ人は、
  お釈迦様の手の外に出られなかった孫悟空と同様に、

  キリスト教の歴史観から離れられないのだな、
  と、ため息をついています。


2.キリスト教 は、
  基本的には 「繰り返しの歴史」の世界 の 宗教 ですから、
  (循環論のベースの中に 一部 直線論(進歩論)を含んだ歴史観)

  ヨーロッパ人 が、
  ヨーロッパの歴史 が
  「繰り返しの歴史」から「積み重ねの歴史」に転換していることを認識せずに、

  相変わらず
  「繰り返しの歴史」の発想で、現在の歴史を刻んでいることに、
  憂慮に絶えません。


  即ち、
  今まで、何回か述べてきたように

  「積み重ねの歴史」は、凶暴な性格 を 持った歴史 ですから

  自分たちの刻んでいる歴史 の 凶暴性 に 気がつかずに、
  世界をリードして、歴史を積み重ねている危険性を、憂慮しているのです。

 

 

 

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