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2016年3月 2日 (水)

憲法9条論議の混迷は、法学の本質ーーリーガルマインドーーに由来するのでは???・・・法学は、キリスト教神学同様 科学でないこと と、 法律家は、リーガルマインドを 実定法より優先すると考えていること について・・・

最近、寝る前に、家内と次のような会話をしました。
(家内は、60才まで弁護士をしていたので、一応法律実務家です。)


家内;1億円息子に贈与し、確定日付をとっておいて、
   時効が成立しても、

   税務署は、
   贈与(見なし贈与)だと認定して、贈与税を課税してくるし、

   裁判所も、税務署の課税を認める。

 

私 ;それはおかしい。
   時効が成立したので、課税はできないはずでは?


家内;1億円を、息子名義で銀行預金しておけば、
   課税されないだろうが、

   普通は、
   自宅の金庫に、1億円を置いたままにしているから、
   贈与を認められないことになる。


   (「銀行に預金すれば、時効が成立し、課税されない」
   というのは、

   ある日、
   1億円もの原因不明の預金が、親から子供に振り込まれたら、

   税務署は、その送金に疑念を持って調査するから、

   事実上時効成立前に、贈与が見つかり課税されるからです。)


私 ;それは、事実認定の問題では?

   1億円が、親の金庫に、そのまま置かれていたら、
   贈与は偽装で、時効は成立していない、
   と、認められるだろうが、

   子供の金庫に保存されてたら、
   贈与されたと認定されて、時効は成立するのでは?


家内;確かにそうだけど、

   実際には、
   1億円を管理していたが誰なのか、
   親なのか、子供なのか

   不明なことが多い。

   その場合は、
   税務署は、贈与は偽装だとして、時効を認めず、
   贈与(見なし贈与)として課税するし、

   裁判所に 持ち込んでも、
   税務署の認定を支持して、課税が確定する。


私 ;それはおかしいのでは?

   贈与された日時が、書面上はっきりしていて、
   証拠上は、時効は成立しているのだから、

   税務署が、贈与は偽装だったと立証しなければ、
   (見なし贈与としでても)課税できないのでは?


   どちらか不明で、判断つかないというのは、
   立法の瑕疵だから、

   税務署は、税法を改正すべきで、

   形式的に、
   法律上は、時効は成立しているのに、

   税務署の恣意(行政の判断)で課税するというのは、
   法治主義ではなくなる。

   ましてや、
   裁判所までぐるになって、証拠を無視して、立証もせずに

 

   贈与と見なして 国民から 財産を召し上げるのは、
   メチャクチャではないだろうか?


家内;法律には、無数に洩れがあるので、

   その漏れを突いて、
   法律にこう書いているから、これも認められるはずだ
   という論理を認めたら、脱税し放題になってしまう。

   法律に書いてなくとも、脱税だと認定しなければ、
   不公正がはびこり、かえって世の中おかしくなってしまう。


私 ;法治主義というのは、法律に従って運営することでは?

   法律に漏れがあるなら、その漏れをなくす努力をすべきで、
   法律の漏れを放置して、
   漏れの欠陥を 国民に押しつけるのは おかしい。


家内;私の言っていることを理解できないのは、
   リーガルマインドがないからだ。

   これを説明しだしたら、 時間がかかるし、
   リーガルマインドがない人間に、
   いくら説明しても意味がないので、
   やめとく。お休み。

 

と、言われて、議論が終了しました。




今回の会話における家内と私の違いは、

法律がある以上、

その法律に従って、
もっと言うと、
法律に殉じて、

社会が運営されるべきである、


言い替えると

法律の文言に従って、論理を積み重ねた結果の結論は
不適当な結論であると見えても尊重すべきであるし、

不適当な結論に達するような法律は、
立法論で解決すべきで、

解釈論の場に持ち込むべきではない

との 私の主張に対して、


家内は、

法律の字句にとらわれずに、

法律以上のもの、
即ち
法律家が保有するリーガルマインド に従って、
法律を解釈運営すべきである、

と、言っていることです。


法律の専門家であるはずの家内が、
何故、その様な主張が成立するのでしょうか。

家内と話している最中に
家内が言わんとすることの真意がひらめいて、

しかも、それは、

「法律の本質」、
言い替えると、
法律を生み出す「法学の本質」を現しているな、
と、直観したのです。




家内と、知り合ってから50年経ちますが、

何度も
私のリーガルマインドのなさについて、指摘されてきましたし、
私も 自認してきました。


今回の会話により、
法学の本質や、リーガルマインドについての
私にとっての長年の謎が、一瞬にして氷解すると共に、

法律家の唯我独尊的な思考をもたらす根底にあるものも
明確になりました。

更には、
折角、法学部に入学したのに、法律の勉強を放棄した
私の心の奥底にあってもやもやしていた理由も、
はっきりと自覚すると同時に、

明治以来言われてきた「学問の蘊奥」とは何かについても
回答を見つけた気がしています。


今回は、その辺についてお話しさせて頂きます。




「リーガルマインド」という言葉を、
真剣に考えるようになったのは、

民法の講義の最初に、

「争っている当事者の主張について比較考量し、
 どちらの主張に軍配を上げるかについて
 リーガルマインドに従って判断しなさい」

と、教えられたときからでした。

 

法的判断とは、
法律に従って、法律の論理を積み重ねることにより
妥当な結論が得られるものだろう と、想像していた私には、

不意打ちを食らって茫然として、
足下が、根底から崩れていくような気がしました。


というのは、
高校までの授業では、例えば数学に於いては、

AならばB、BならばC、と、
論理を積み重ねていけば結論の到達する

と、教えられてきたからです。



「判断基準のリーガルマインドとは何ですか?」
との問いに対しては、

「法律、とりわけ民法の勉強をすすめる内に
 自ずから身について来るものだ」

というのが、回答でした。

要するに、
リーガルマインドとは、

法律家が身につけている感覚であり、判断基準であって
明確に定義されるような性質のものではないので、

一生懸命民法を勉強して、自ずから 習得するように
ということなのです。


例えると、
弦楽器奏者が、ボーイング(弓の使い方)の極意を、
修練によって身につけるのと同様の性質のものだ
ということなのです。

ですから、
法律的な才能豊かな人は、
極端に言うと それほど努力しなくとも習得できるし、

才能の無い人は、
いくら努力しても習得できないということは、音楽と同様だ

と、いうことになります。

そういえば、

芸大は、
戦前、音楽学校、美術学校と言われてきました。

法学部も、
アメリカでは ロースクール(法律学校)と言われているのは、

音楽や芸術と同質のアートである法律を教える学校
と、いうことを 意味しているのでしょう。



では、何故この様なことになったのでしょうか。

それは、
法律特有の性質から由来するものだろうと思います。


法律について、いろいろな定義がされうると思いますが、

人間社会が法律に求めてきたものを一口で言うと、
「紛争を、妥当な解決に導くための道具」ということが
できるのではないでしょうか。

ローマ法以来、約3,000年間にわたって、
いろいろな社会的な紛争、衝突の解決を工夫する度に、
法学が発展してきました。

紛争の解決の先例が、法的な規範力を有するになることで、
慣習法が形成されていったのです。


その慣習法を集約したのが、
「ユスティニアヌス法典」即ち「ローマ法」であり、

その後の法学の発展を、成文法(実定法)に集約したのが
19世紀初めにナポレオンが編纂した「フランス民法典」なのです。


日本の民法典も、
ナポレオンの民法典を輸入してものであり、

社会的な紛争を解決する際に 大変優れて役立つ法律ですが、
人間社会の全ての紛争に対処するには、
不十分であることは否めません。

というより、
人間社会で生じる紛争は、無限に存在しますので、

その一つ一つについて
解決方法を記載した法典を作成することは、
不可能なのです。

ですから、現在に於いても、
法律を創造する根本であるリーガルマインドが、
法律の背後に控えていて、

法律の不備や欠陥が生じる度に、表に出てくるのです。

リーガルマインドとは、
ローマ法以来 3,000年に渡る 法学の発展の結果
抽出されたエッセンスというべきものなのです。


従って、
法律を解釈する上で、
法律の背後に存在し、法律を生み出したリーガルマインドを
身につけておかなければ、

紛争解決において求められる妥当な結論に
到達することができないのです。

現行の法律は、
紛争解決するためのよすがとなる材料の一つであり、

紛争解決するために実質的に機能する法的判断の本質は、
リーガルマインドによる判断であり、
リーガルマインドによるもたらされた結論であると

法律家は考えているのだろうと思います。


確かに、
学生時代の友人を見ていると、

あの頃の司法試験は、
リーガルマインドを身につけた人が合格する試験だったな、

逆に、
リーガルマインドを身につけることができなかった人は、
言い替えると、法律的な才能が少なかった人は、
いくら頭が良くとも合格できない試験だったな
と、感じられます。



この様に法学を考えると、

法学は、
キリスト教神学と、本質を同じくする
科学ではない学問では?

との、結論に至ることにもなります。


私は、
「科学」の定義を、

論理を 積み重ねていっった結果、
誰もが同じ結論に達するし、

その論理を 第三者が、検証可能であるものだ
と、考えています。


これに対して、法学は、

論理を 積み重ねはするけど、

法的な結論は、
裁判官の様な、法的判断に責任を持っている立場の人が、
それぞれのリーガルマインドに基づいて決定するものであり、

従って、
人によって結論が、180度異なることもあり得るし、

第三者が、
その論理を検証しても、同じ結論に達しないことがあるので、

科学とは異なるものである
と、言わざるを得ないのでは?と、考えています。



法学も、一般的には、
社会科学の一分野の「科学」として位置づけられています。

社会科学や人文科学は,自然科学と異なり、
価値観に基づいて論理を積み上げていくとの特性がありますので、

第三者による検証可能であるということは、
同一の価値観に基づいて論理を構築すれば、
誰でも同じ結論に達することを意味していると考えるべきですが、

 

法学は、
論理を積み重ねても、常に同一の結論に達する「科学」ではない
キリスト教神学と本質を同じくする学問である と考えられます。



リーガルマインドは、法学の修練の結果、
法律家各人が自ずから感得して身につけるものですが、
定義がありません。

ですから、
リーガルマインドは、
法律家としての共通的な認識というべきものではありますが、

法律家の一人一人が身につけているリーガルマインドを
細かく分析すると、

おおよそは共通していますが、
100%同一だというわけではないのです。


キリスト教神学では、
定義されない神から論理を発展させています。

キリスト教徒は、
神について、共通認識を共有していると言えますが、
微妙に異なることから、

古くは、
三位一体論争、
ローマ教会とギリシア教会の分離、

更には、
カトリックからプロテスタントの分離と、

どんどん分裂を繰り返しているのです。


法学も同様で、
実定法の背後にある 法律家が保有するリーガルマインドが、

キリスト教の神と同じように、
定義がなく、微妙に異なるために、

紛争解決のための結論が 異なることが
生じているのです。



更に、
非常に申し上げにくいことですが、

リーガルマインドは、

個人の内心のこと故に、

本当に、その人のリーガルマインドに基づく結論 なのか、
リーガルマインド以外の要因 による結論 なのか、

第三者には、判別できないことが、問題なのです。


神学に於いて、
嘘をついても、第三者が否定できないのと
同じ本質を有しているのです。


あけすけに申し上げると、

ある裁判官が、嘘をついていても、
リーガルマインドによる判断だと言い張ったら、

第三者が、嘘によるものだ
と、断定できないのです。


また、
政治的な立場からの結論であっても、

リーガルマインドによるものだと言われたら、
そうですか と、言わざるを得ないのです。


私は、この点が、
三審制が設けられた本当の理由だと考えています。


三審制とは、
このリーガルマインドの根本的欠陥を
是正するための制度なのだろう
と、思います。


即ち、

リーガルマインド以外の要因による判決であっても、
異なる裁判官が改めて判断すれば、
自ずから是正できるだろう。


異なる裁判官が、
三回、同じ結論に到達したならば、

その裁判は、
リーガルマインドによる判断と言っても、
ほぼ間違いがないだろう

と、考えたのでしょう。



例えば、
政治的な訴訟は、
東京地裁より大阪地裁に提訴した方が、主張が通りやすい
との話が、弁護士業界の中ではあるようです。

また、
この判決を最後に退官する裁判長は、

今までの判例の傾向と異なる判決をする率が高い
とも言われています。

これは、

職業的な修練により身につけたリーガルマインド を
横に置いて、

自分の本心や、政治的立場により判
決を下していることがあり得ることを
示しているのでは?と、思います。




次に、

法律家の究極の本音は、
自分のリーガルマインドによる判断が、
実定法の規定より優先すると考えている、

極論すると、

実定法はお飾りであり、
自分のリーガルマインドこそが法律の本質である
と、考えている

と、断定しても、間違いではないだろう
と、思われます。


キリスト教神学においても、
アウグスティヌスにしろ、カルヴァンにしろ、

「自分の言っていること、求めていることは、
 神の言っていること、求めていることである」
と、公言して、

何人もの人を、殺害したのでした。


先程来申し上げているように、

キリスト教神学における「神」と、
法学における「リーガルマインド」は、

それぞれの学問に於いて同じ位置づけにありますので、


キリスト教神学で生じたのと同じこと、

即ち、
「私のリーガルマインドの判断こそが、
 唯一の正しい法的な判断である、

 実定法が、私の判断と異なるなら、
 実定法が間違っている」との主張が

法学でも生じるのです。



大変過激なことを申し上げましたが、

先ほど申し上げた通り、

リーガルマインドは、

法律の不備や欠陥が生じた際に露わになり、
第三者的にも見ることができるようになるものです。


最初にご紹介した家内の主張も、
法律の不備、欠陥があるときの
法律家の反応、対応の典型的な例ですが、


ここでは、
法律の不備、欠陥が明かな、
憲法9条の論議における、法律家の主張
を、ご紹介して、


法律家が、

いかに 自分のリーガルマインドが、
実定法より優先すると考えているか、
(上に位置づけているか)
について、見てみたいと思います。




最初に、

憲法9条が、不備、欠陥の法律である理由 を
ご説明します。


憲法9条は、
アメリカが、日本を永久に戦争できない国にするために
押しつけた規定なのです。

ですから、
法律一般の常識、

即ち、
リーガルマインドに反する規定であることを承知で、

アメリカが、無理矢理立法させたのでした。


法律一般の常識に反する規定だというのは、
日本国の生存 を 維持する方策 を
剥奪しているからです。

国家も、生物の一つですから、
その国固有の権利として生存権が承認されているのです。

アメリカが、日本に

他国が侵略してきても、
対抗して戦争することを放棄させたことは、

アメリカが、
日本国に、自力で生存権保持することを認めない と
押しつけたことを意味しています。

これは、
法律の常識に逆らった、現実に反する絵空事で

実際に生存権が脅かされる事態になれば
一瞬にして、法的規範力を喪失するものであり、

日本が、
いくら敗戦国で、無条件降伏したからといって、

生存を維持することを、自ら禁止させることを徹底するのは、
それこそ、神様でもあり得ないことなのでした。


ですから、
現実に、日本の生存権が他国から脅かされる事態になったら、

具体的には、
中国が、最近、日本を、

とりわけ、
尖閣諸島や沖縄を、侵略しよう
と 牙をむきだす状況が生じたら、

憲法9条は、
実質的に 憲法規範としての機能を
果たさなくなってきているのです。



更に、憲法9条には、
次のような本質的な規定の欠落、不備があります。


即ち、
憲法9条は、

第三国を信頼して武装放棄しているのですが、

第三国が、
信頼できない国であったときにどうするのか、
についての規定が欠落しているのです。

また、
武装放棄して戦争のない世界をどのように創っていくのか、
についての道筋を、指し示す規定も、欠落しているのです。


要するに、
「僕ちゃん、
 戦争は、忌むべきもの、否定すべきもので、したくないから、
 戦争も、戦争するための武力を放棄するよ」

と、幼児が口だけでほざいているの同じような規定なのです。


従って、
日本国、及び 日本国民の安全に責任を有していて
現実的な対処、対策をせざるを得ない自民党政府は、

警察予備隊から始まって、
自衛隊の創設、
防衛庁を防衛省に格上げするなど、

憲法を無視して、
「解釈改憲」との支離滅裂な表現で非難されながら、
必要な措置をとってきました。

これは、
戦前、国民を屠殺しまくった政府 に対する国民の不信感により
憲法9条を改正することを認めない「国民的なコンセンサス」の中での

論理的には、全く感心できない出鱈目な論理による苦肉の策
と、いうべきものでした。

(注)「解釈改憲」が、支離滅裂な表現だと申し上げるのは、

   「改憲」は、
   憲法改正の手続きでしか行えないものであるにかかわらず、

   行政府の解釈で、改憲できる と、
   恥ずかしげも無く、ぬけぬけと主張しているからです。

   また、
   「国民を屠殺しまくった」との超過激な表現を使用した理由については

   「集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html
    Ⅲ 憲法に対する 日本人の対応
       3.日本国民

   の項目を、参照して下さい。



以上の、憲法9条の欠陥、不備を踏まえて、
法律に欠陥、不備があるときに、法律家がどのような判断をするのか
に、焦点を絞ってお話しさせて頂きます。


憲法9条は、解釈に争いがありますので、
相対する陣営の主張を比較するために、

ここでは、現在、自民党が憲法9条の根拠としている、
砂川判決の核心である田中裁判長の補足意見のポイントと、

「個別的自衛権は合憲だけど、集団的自衛権は違憲だ」との
護憲派の野党の主張について、簡単に見てみようと思います。


< 田中先生の補足意見 >

田中先生は、
当時、最高裁長官で、砂川判決の裁判長を務められておられる、
高名な商法学者であられましたので、

以下、田中先生と呼ばせて頂きます。


田中先生は、

最初に、

本件は、
立ち入り禁止されている施設内に、
正当の理由なく立ち入ったとの極めて単純且つ明瞭な事件であり、

それを判断をすれば、終了する事案であるとのべられた後、

東京地裁の判決で、
本来、事件の解決の前提としても
問題として判断すべき性質のものでない
米軍駐留を違憲と判断したので、

最高裁が、
やむを得ず判断せざるを得なくなったと、述べられて、

憲法9条についての解釈を記述されておられます。


田中先生の論理は、

自衛権について、
正統的な国際法上の常識に基づいて、

国家がその存立のために自衛権を持っていることは、
一般に承認されているところでり、

ただ、
どれだけの防衛力を持つか、
充実の程度やいかなる方策を選ぶべきかの判断は、
政府の裁量にかかる純然たる政治的性質の問題である。


更に、
正当原因による戦争、

生命権を脅かされる場合の
正当防衛の性質を有する戦争の合法性は、

古来一般的に(国際法で)承認されている、
と、記述された上で、

憲法9条の解釈について、次の様の述べられました。

少し長くなりますが、
その部分について、以下に抜き書してご紹介させて頂きます。



 我々は、
 その解釈について 争いが存する 憲法9条2項をふくめて、
 同条全体 を、

 一方、
 前文に宣明されたところの
 恒久平和 と 国際協調 の 理念からして、

 他方、
 国際社会の現状 ならびに 将来の動向を
 洞察して 解釈しなければならない。


 字句に拘泥しないところの、
 すなわち、
 立法者が 当初持つていた 心理的意思でなく、

 その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、
 あらゆる法の解釈に 共通な原理として
 一般的に認められているところ である。

 そして、このことは、
 とくに憲法の解釈に関して 強調されなければならない。



 憲法9条の平和主義の精神は、
 憲法前文の理念と相まつて不動である。

 それは、
 侵略戦争と国際紛争解決 のための 武力行使 を
 永久に放棄する。

 しかし、
 これによつて わが国が、

 平和と安全のため の国際協同体に対する義務 を
 当然 免除されたもの と、誤解してはならない。

 我々として、
 憲法前文に 反省的に述べられているところの、
 自国本位の立場を去つて、

 普遍的な政治道徳に従う立場 を とらないかぎり、

 すなわち、
 国際的次元に立脚して 考えないかぎり、

 憲法9条を、
 矛盾なく 正しく解釈することは できないのである。



 
かような観点に立てば、

 国家の保有する 自衛に必要な力 は、
 その形式的な 法的ステータス は 格別として、

 実質的には、
 自国の防衛 と ともに、

 諸国家を包容する 国際協同体内 の
 平和と安全の維持の手段たる性格 を
 獲得するにいたる。

 現在の過渡期 に おいて、

 なお、侵略の脅威が全然解消したと認めず、

 国際協同体内 の 平和と安全の維持 について
 協同体自体の 力のみに 依存できない
 と、認める見解があるにしても、

 これを、全然否定することはできない。

 そうとすれば、
 従来の「力の均衡」を 全面的に清算することは、
 現状の下では できない。

 しかし、将来において、
 もし、平和の確実性 が 増大するならば、

 それに従つて、
 力の均衡の必要は漸減し、
 軍備縮少が漸進的に実現されて行くであろう。

 しかるときに、
 現在の過渡期において

 平和を愛好する各国が、
 自衛のために 保有し また 利用する力 は、
 国際的性格のものに 徐々に変質してくるのである。

 かような性格 を もつている力 は、
 憲法9条2項の禁止しているところの戦力 と
 その性質を、同じうするものではない。



 
要するに、
 我々は、
 憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、

 それを超える立場
 すなわち、
 世界法的次元に立つて、

 民主的な平和愛好諸国 の 法的確信 に 合致するように
 解釈しなければならない。

 自国の防衛 を 全然考慮しない態度 は もちろん、
 これだけを 考えて、
 他の国々の防衛に 熱意と関心とを もたない態度 も、

 憲法前文に、いわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であつて、
 真の平和主義に忠実なものとはいえない。



 
我々は、
 「国際平和を誠実に希求」するが、

 その平和は、
 「正義と秩序 を 基調」とするもの でなければならぬ こと

 憲法9条が 冒頭に 宣明するごとくである。

 平和 は、
 正義と秩序の実現

 すなわち、
 「法の支配」と不可分である。

 真の自衛のための努力 は、
 正義の要請 である と ともに、
 国際平和に対する 義務 として 各国民に 課せられている のである。



 
以上の理由 からして、
 私は、本判決理由 が、

 アメリカ合衆国軍隊の駐留を
 憲法9条2項前段に違反し許すべからざるもの
 と、判断した原判決を、

 条項および憲法前文の解釈を誤つたものと認めたことは
 正当であると考える。



この拙文は、

リーガルマインドによる判断が、
法律の判断より優先すると法律家が考えていること
を、説明する為のものですので、

田中先生の憲法解釈についてではなく、

先生のリーガルマインドが、
憲法9条を優先していると主張するロジックに注目して、
お話しさせて頂きます。



先生のリーガルマインド及び国際法の常識に基づく判断と、
憲法9条の差異については、

価値観の違いによるものであり、
論理的に説得し、解決できるものでないため、

田中先生は、
次の文章により非常の手段を執られたなと、感じられます。


即ち、
「字句に拘泥しないところの、
 すなわち、
 立法者が 当初持つていた 心理的意思でなく、

 その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、
 あらゆる法の解釈に 共通な原理として
 一般的に認められているところ である。」


少なくとも、私が学んだ目的論的解釈方法とは、

その記述(法律や契約文面)が
目指しているところのものに基づいて解釈することでした。

先生のように、
憲法の文章や立法者の目指しているものを 無視又は否定して、

ご自身の考えが目指すところのものに従って、
それに都合の良いような解釈をすることは、

厳しく禁じられているのではないでしょうか。


立法者の目指すものが不適当であるなら、
解釈ではなく、
改憲という立法により解決すべきものであり、

その意味から、田中先生の主張は
「解釈論の場において立法論を持ち込んでおられる」
との批判が、なされるのではないでしょうか。


この部分に於いて、

田中先生が、
実定法より、ご自分のリーガルマインドが、優先する
と、お考えなっていることが、

衣の下の鎧の如く、垣間見られたような気がします。


俗な感想を言わせて頂くと、
田中先生は、正宗の名刀であり、
憲法9条は、村正の妖刀なのです。

いくら名刀を振り回しても、

妖刀とは世界が違うので、
刃を切り結ぶことができないのです。


妖刀に対しては妖刀で対抗すべきでしょう。

憲法9条の推移を見ていると、
時間が進むにつれて、
最初に申し上げたような不備が露わになって、

妖刀と言うべき慣習法の憲法が、
憲法9条の不備を補うために形成されてきていて、

その慣習法の憲法の原点ともいうべきものが、
田中先生の砂川判決の補足意見だろうと感じられますし、

その意味で、
私みたいな素人にあきれられるような論理を、あえて展開して

強引な判決を下すことにより、
判例法の憲法の礎石を置かれたことに、大いに敬服しています。


この辺については

「憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?」
 http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

「集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・」
 http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html


を、お読み頂ければ幸いです。




< 護憲派野党の主張 における、リーガルマインドの優先>


弁護士出身の福島さんや枝野さんも、やはり法律家なのだなと感じたのは、

「自衛隊や個別的自衛権は合憲だけど、
 集団的自衛権は違憲である」と、主張されたときでした。


憲法9条は、
何度も申し上げている通り、日本の自衛権を剥奪しようとして
アメリカが日本に押しつけた規定です。

ですから、
日本が防衛行動すること、
即ち、
自衛権を保持することを禁止しているのです。


従って、
護憲を名乗るのであれば、

自衛隊も個別的自衛権も違憲である
と、主張すべきではないでしょうか。

確か、自衛隊創設当時、野党の皆さんは、
「自衛隊は違憲であり、解散すべきだ」と、
主張されておられたような気がしています。


それが、
いつの間にか、合憲となったのは、
どのような経緯や理屈があるのでしょうか。


一つは、
政治的な立場からでしょう。

国民の大半が、
自衛隊や個別的自衛権を承認しているのに、
それに反する主張をすると、相手にされなくなる
と、お考えになったからではないでしょうか。


もう一つは、
最初に申し上げたように、
福島さんも枝野さんも、政治家である前に法律家であり、

個別的自衛権までもを 否定することは、

お二人 の リーガルマインド
即ち
法律家としての常識 が、
許さないから では ないでしょうか。


でも、
自衛隊や個別的自衛権を合憲とした上で、
護憲を主張されることは、

論理矛盾であり、

敢えて、
その様な主張をなされておられるのであれば、

お二人のリーガルマインドが、
実定法である憲法9条より優先する
と、お考えになっているからだ
と、言わざるを得ません。




この拙文を書いている最中に、次のような判例が、
アメリカで出されたとのニュースが、ヤフーで掲載されました。

まさに、
リーガルマインドが、法律より優先する と、裁判官が公言した
そのものズバリの判例ですので、最後にご紹介させて頂きます。


 ニューヨークの米連邦地方裁判所は、29日(2016年2月29日)、
 麻薬事件で、
 捜査当局が押収した iPhone(アイフォーン)のロック解除
 について、

 米司法省が、
 製造元のアップル社に強制することはできないとする判断を示した。

 端末のロック解除を巡って、同社と司法当局は対立しているが、
 米メディアによると、
 この問題で裁判所の判断が明らかになったのは初めてという。

 司法省は、
 捜査当局に広い権限を認めた18世紀の法律を根拠に
 端末ロック解除を求めていたが、

 地裁判事は、
 「合憲性に疑いがある」として主張を退けた。

 また、
 現代のプライバシーとテクノロジーにかかわる重大な問題は
 「過去の法律の再解釈ではなく今の立法府によって判断されるべきだ」
 との判断も示した。

 同省は、
 控訴する意向で、最終的には連邦最高裁の判断に委ねられる公算が大きい



このニュース記事からだけで判断しますと、

私には、この連邦地裁の裁判官は、
この裁判官のリーガルマインドが、法律より優先してると考えて、

自分の判断が正しい
と、主張しているように感じられます。


司法権は、
違憲審査権を保持していますので、

対象となった法律が違憲であれば、
違憲判断をすれば良いのです。

ところが、この判事は、
「合憲性に疑いがある」と述べて、違憲判断を回避し、

それでいて、
問題となった法律は、
古いから新たな法律により判断されるべきだと、

法の適用を否定して、
立法権に介入しているのです。


法律の有効性、妥当性の判断は、
立法府の権限であり、
裁判官に与えられていないのです。

法律が古いからではなく、

立法府が、
その法律では不適当であると判断したら、
立法府が、改正すれば良いのです。

裁判官は、
その法律が、違憲かどうかを 判断すれば良いのですし
違憲かどうかの判断しか 権限を有していないのです。

ですから、
裁判官が、違憲判断まで至らないなら
現在ある法律 を おとなしく適用して
判決を書くべきなのです。


その法律が 憲法に反して 問題だ と、判断するなら、
違憲であると、はっきり主張すべきなのに、

この判事は、
卑怯にも、違憲判断 を 回避した上で、
自分の勝手な持論に基づいて、
法律の有効性、妥当性を 否定しています。


これは、
「自らのリーガルマインドによる判断が、法律より優先する、
 自分の考えが、法律である」
と、言っているようなものであると、感じられます。



以上、
法学におけるリーガルマインドの重要性をご説明してきましたが、
「法学というものは、適当なものなのだな」 と、感じられたとするなら
「ちょっと趣旨が違いますよ」と慌てて申し上げさせて頂きます。


法学の奥の院、
明治時代の言い方をすると「学問の蘊奥」について、
今回、お話しさせて頂いたもので、

リーガルマインドは、
普段は、背景に鎮座していて、表に出てこないものなのです。

即ち、
法律解釈の議論により、大半の紛争は解決しているのです。

戦いに於いて、
落城寸前、本丸も陥落するかというときに、

最後の砦、或いは 伝家の宝刀として リーガルマインドがあることを、
ご理解頂ければ幸いです と、願っています。



追記 2019年6月10日 記述

今回、この拙文を読み直してみて、
今時点の感想を、追記させていただきます。

明治時代に、ヨーロッパ法を日本に継受する際に、

実定法のみを継受して、
実定法を支えている慣習法を継受しなかった欠陥が、
憲法9条議論に露わになったなと痛感しています。

私は、学生時代、実定法と慣習法は、
横並びの存在のような感じを持っていました。

即ち、
仏独の実定法と英米の慣習法(コモンロー)が、
併存していると 考えていました。

中年以降、ヨーロッパ史の本を少しずつ読んでいる内に
慣習法が、実定法を支えている。
喩えると、海上に浮かぶ氷山のように
海面上の実定法を、海面下の慣習法が支えているのだな
と、感じるようになりました。

法律とは生き物ですから、実定法に規定漏れや、瑕疵があれば
慣習法が実定法を補って、自然治癒機能を発揮するのです。

憲法9条の論議で、

違憲の自衛隊が、何故存在しているのか、

野党でさえ、
政治的には、自衛隊は合憲だとおっしゃるようになったのは何故か
について、

憲法学者の皆さんが、正面から説明できないのは、

日本の法学が、
明治時代に、実定法のみを継受して、慣習法を無視したからでは

言い換えると
実定法のみが、法であり、慣習法は、法ではない と考えたから

と、感じられます。

このことは、
来栖三郎先生の著書「法とフィクション」において

「従来、法の一般理論を論じているときには、

 「法の欠缺」だとか、
 「慣習法の制定法改廃力」だとか
 「悪法は法にあらず」だとかいう
 威勢のいい議論も為されることがあるのに、

 現実の解釈問題となると、
 法の欠缺さえなかなか認めようとせず、

 況んや、
 慣習法の制定法改廃力だとか、
 悪法は法にあらずとか いうことになると

 制定法がある以上・・・などと、
 非常に臆病になるのが普通である。」

と、記述されておられます。

  出所 来栖三郎「法とフィクション」24㌻


来栖先生の記述されるようなことから、

「陸海空軍その他の戦力」であり
外国との戦争を本来の目的として
「交戦権を禁止する」憲法に
正面から衝突する存在である

自衛隊についての憲法議論が、
一歩も進まない原因になっているのだろう
と、思います。

私は、政治的な立場から離れて
憲法9条を素直に読んで

憲法9条の制定の目的 及び 憲法前文の記述から
憲法の規定の欠落している点を、

および
憲法に反する自衛隊が、
何故、半世紀以上に亘って存在してきたかを
虚心に議論すれば

自ずから、方向性が見えてくるのでは と考えています。

国会での議論は、政治が絡みますので、
せめて、憲法学者の間では、政治色を除いて
議論されることを願っています。




< 補足 >

法学、神学が、他の学問との差異を生じる理由



法学、神学以外の学問は、
それぞれの学問のフィールドにおいて、

学者が、
謎を見つけ出して、その解答を仮説として提示するものなのです。


謎を解く際には、
その学者の価値観から出発して、
論理を積み上げ、結論(仮説)に到達します。


ですから、

価値観が異なれば、
その積み上げる論理過程も異なり、結論も異なりますます。


しかし、

その学者の仮説のベースとなってい価値観に基づいて、
論理を積み上げれば、

他の人が検証したとしても、
同じ結論に達することになります。

私が、
「科学は、検証可能な学問でなければならない」というのは、
この意味においてです。


価値観が異なれば、その後の論理展開も異なり、
異なる仮説に到達するのは当然なことだ
と、認められています。


従って、

学問上の論争は、

 1.ある価値観に基づく論理展開に
   瑕疵がないかということ共に、

 2.その仮説が拠って来たるところの
   価値観の是非について

議論が展開されることになります。


価値観についての論争は、
「神々の争い」とも言われるものですので、

最終的には物別れとなりますが、

その論争を見ている人々が、どう判断するかによって、
その仮説の価値が判定されるのです。


この意味から、
法学、神学以外の学問は、

学者個々人 の 書斎や研究室 における
それぞれの世界における仮説の構築

と、言うことができるでしょう。


これに反して、
法学や神学は、社会的な存在であり、
その共同体、社会全体に影響を及ぼすものなのです。


即ち、

神は、
全ての人に対する神であり、

法律は、
いろいろな価値観を持つ人々に
共通して法的規範力を及ぼすものなのです。


自分は反対だからと言っても、
法律に反すれば、罰せられるのです。

他の学問では、
「私は、そう思わない」
と、主張することは可能ですが、

法廷で、
「私は、そう思わない」と言っても、
法廷の決定に従わねばならないのです。


言い替えると、

世の中には、
いろいろな価値が並存しているのに、

法規範を構築している 一つの価値観 を、
広く 人々に適用し、強制せねばならないのです。


それ故に、

法学は、
ローマ法以来3000年近くにわたって、

  いろいろな価値観を有する人々に、
  共通して適用するために、どうすれば良いのだろうか?

  いろいろな価値観を持つ人が
  納得できるような解決をもたらすと同時に、

  いろいろな局面において、
  同一基準で解決する方策を設定するには
  どうしたらよいのだろうか、

ということを、
試行錯誤しながら積み重ねてきているのです。


その結果が、

現在の民法典を初めとする法体系 と、
その学問的裏付けとしての法学なのです。


でも、

いろいろな価値観が存在して、
幅広く活動する人間社会の

全ての事象に適用するような法律を
作り上げることは、不可能ですので、

本文に述べたように、

法学教育において、
リーガルマインドを有する人材を養成して、
その人達に法律の適用を委ねているのです。


さらに、
裁判を、三審制にして、

リーガルマインドによる
その事件における判断の是非について、

また、
リーガルマインドの名のもとの
恣意的な判決で ないかどうか、

即ち、
法律の適用を委ねた裁判官が、
堕落していないかどうかについて、

二回も検証して、
判決の妥当性を高めようとしているのだろう

と、私は想像しています。

 

 

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