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2017年1月 4日 (水)

ミシュレのルネサンス論への疑問・・・ヨーロッパ人の歴史認識を歪める要因の一つ について・・・

2017年1月4日



ワインバーグ著「科学の発見」についてのブログ を
お読み下さった友人から、メールをいただいたので、
次のような返信をしました。

ご参考までに、ご紹介させていただきます。

   スティーヴン・ワインバーグ著「科学の発見」
   http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-b005.html



1.メールの表題とされておられる
  「アルキメデスは、どこに居る?」は、
  ヨーロッパの本質の一つを端的に射抜いておられる名言だ
  と、感心しました。
 

  Tさんが
ご指摘の通り、
  工学や外科などの技術的な分野は、

  インテリのするものではなく、職人が担当する分野である、
  というのが、
ヨーロッパにおける評価だったですよね。

  例えば、

  工
学部は、
  大学ではなく技術学校でしたし、

  外科は、
  床屋さんの副業でした。

  これは、

  はるか昔の中世のことを言っているのではなく、
  例えば、戦前の日本でも、

  工学部は、
  帝国大学の工学部を除いては、
  旧制大学よりワンランク下の高等工業学校で、

  第一高等学
校などと同格の学校でした。

  (例えば、東工大は、
   昭和の初めに旧制大学に昇格するまで、
   東京(蔵前)高等工業学校でしたし、

   父の出身地である 広島の 現在の広島大学工学部は、
   戦前、広島高等工業学校でした。

   なお、広島には、
   東京文理大学(現在
の筑波大学)と並んで
   広島文理大学(現在の広島大)がありました。)

  これは、
  ドイツの学校制度を、日本が導入したしたためですが、

  日本が導入を検討した当時の19世紀後半のドイツでも、
  Tさんがおっしゃるような感覚で、
  世の中が動いていた証拠だと思います。

  (ビスマルクの伝記 を 読むと
   当時のプロイセンは、
   江戸時代の藩と同じような感覚だったのだな
   という感じをもしました。

   ビスマルク が 要職 を 得たのも、
   薩長の藩士が、政府の要人 に 引き立てられたように、

   だれだれの息子だから ということが、
   相当あったのだろう と、思います。)


  医学については、

  近世初期において医者の資格とは、
  病気を治せるかどうかが要件ではなく、
  「ギリシア語の医学書」を 読めることでした。

  ですから、
  16世紀 フランスのラブレー は、

  数か月で 医学部 を 卒業し、
  すぐに 医学博士の資格 を 取り、

  大学で 講義したり、
  当時のフランスの首脳の一人 に 侍医兼高等秘書として、
  仕えています。



2.「古代ギリシャ自然科学(起源)→
  ルネサンス以降 の 西欧自然科学(発展)」
  という図式は、捏造に近い 科学史の通説 ではないか?
  について


  Tさんは、捏造だ と、
  感じられておられますが、

  私は、
  ストレートな捏造ではなく、

  ヨーロッパ人が、自分たちは、
  現在の世界 を 作った エリート であるとの「プライド」、

  というより、
  「我欲から、絶対認めたくないこと」に、
  由来しているのだろう と、考えています。


  ヨーロッパ人が、認めたくないこと とは、

  「アルプスの北の世界」と、「地中海世界」は、
  「別の世界である」という認識です。

  言い換えると、自分たちは、
  「ローマ世界に侵入した 蛮族の末裔 とは 言いたくない」
  と、いうことだろうと思います。

  (そういえば、左翼の偏向教育のおかげなのでしょう、
   「蛮族の侵入」も、
   いつの間にか「民族の大移動」に代わってしまいましたね。)


  例えば、

  フェーヴルの「ミシュレとルネサンス」という本を読んでいると、
  フランス歴史学の祖というべきミシュレは、

  「フランス・ルネサンス」が生じたのは、

  1494年イタリア戦争を始めた シャルル8世が、
  ナポリまで攻め込んだこと が 発端だ

  と、主張しておられるそうです。

  シャルル8世は、

  意気揚々と ナポリまで 遠征しましたが、
  ナポリで、後ろの扉が閉じられたことに 気がついて、
  慌てて、フランスに帰国したのです。

  要するに、
  シャルル8世のナポリ遠征は、

  フランスからナポリまで
  「行ってきただけ」なのです。

  これを、ミシュレは、
  フランス・ルネサンスが生じた原因だ と、
  おっしゃっておられるのです。

  ミシュレ が、

  2つの世界の接触 が、フランス・ルネサンスの契機である
  との仮説を、提示しているとのことですが、
  意味するところは、今ご説明したとおりなのです。


  (参考) フェーブルの記述 の 抜き書き

     人は、こう言うでしょう。

     「若い国王と軍隊が、

      何も知らないままにイタリアを駆け抜けて、
      海峡に着くや否や 踵を返し、
      来たときと同じように 一気に帰っただけで、

      ヨーロッパ革命だ、全体革命だ、とか言うのか?

      アルプスを越えるくらい、
      それ以前にも、百回もあったではないか」


     ミシュレは、答えます。

     「百回どころか、千回もあった。

      だが、行ったのは誰なのか?
      商人か、巡礼者か?軍隊か?放浪者か?

      だが、今や、
      全フランス が、
      完璧な小フランスが
      (あらゆる地方 と、あらゆる階層 が)

      イタリアに運ばれ、イタリアを見たのだ。
      イタリアを、感じ取り、吸収したのだ。」

    (出所)フェーヴル「ミシュレとルネサンス」240㌻(藤原書店)


  2つの世界とは、

  ① ゴシック様式の中世世界 である フランス

  ② フランスより 200年先に 進んでいて、
    近代化され 生まれ変わろう としていた イタリア

  とのことです。

    (出所)フェーヴル「ミシュレとルネサンス」244㌻(藤原書店)



  要するに、

  フランスとイタリアは、
  「同質の世界」であるが、

  発展段階 に「時間差」があったため、
  世界が 異なっていた とのことです。


  アルプスの北のゲルマン社会 と 地中海社会 は

  私は、
  「別の世界だ」と、考えてるのに対して、

  ミシュレは、
  「同じ世界だけど、発展段階が異なっていた」と、
  考えておられるのです。


  これには、大いなる疑問 が 生じます。

  「同質ゆえに、接触しさえすれば、
   それに触発され、
   発展段階の差を乗り越えて ルネサンスが生じる」
  との ミシュレの仮説 は、本当なのでしょうか。


  フランス は、

  歴史上、何度も、
  フランスより進んだ
  ギリ シア・ローマ文明の本家本元の担い手である
  ビザンツ帝国 と、接触しています。


  ミシュレは、

  シャルル8世以前に、
  アルプス を 越えたのは、

  即ち、
  ローマ文明、地中海文明 に 接触したのは、

  個人レベルの話で、
  国家レベルの話 ではない と、

  おっしゃっておられますが、
  本当でしょうか?


  例えば、

  ① フランスの初代国王 である クローヴィス は、
     東ローマ帝国より
     執政官の資格 を 授与されていました。

     このことは、
     ビザンツ帝国と接触していたこと を、
     意味しているのです。

  ② シャルルマーニュ は、
     ビザンツ帝国 と 神学論争 を していますし、
     ヴェネツィアを巡って 戦争、講和 も しています。

     更には、実現しませんでしたが
     ビザンツ帝国の女帝との 結婚話までありました。

    (シャルルマーニュ は、
     フランス王であり、

     ドイツは、
     シャルルマーニュに侵略併合された国です。

     言い換えると、
     ドイツにとって「シャルルマーニュ<カール大帝>」は、
     フランツにとっての「カエサル」に相当する人物なのです)

  ③ 十字軍で、フランス人は、
     ビザンツ帝国やパレスティナに遠征しています。

    (注) 十字軍 は、
        フランスが、主体となった運動だったのです。

        フランス王も、遠征していますし、
        エルサレム王に即位したアンジュー伯もおられます。

    とりわけ、
    第4回十字軍 は、

    ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
    ラテン帝国  を 建国し、

    ビザンツ帝国の各地に、
    諸侯が、自分の領土 を 保持して、支配しました。


    ラテン帝国 は、
    最初、フランドル伯 が、皇帝に即位しましたが、

 

    短期間で、血統が途絶えて、
    その後、
    フランス王家の親族が皇帝に即位しています。

    フランス人は、コンスタンティノープルから、
    金銀財宝 を フランス に 持ち込みましたが、

    唯一持ち込まなかったのが、
    ギリシア・ローマ文明です。

    中学生が、
    大学の学問 を 理解できないように、

    当時のフランス人には、
    ギリシア・ローマ文明は、「豚に真珠」だったのでしょう。


  ④ このような政治的な接触だけでなく、

   貿易面で、フランスは、
   ヴェネツィアなどのイタリアの都市を
   介してかもしれませんが、
   ビザンツ帝国などの東方世界と接触していたのです。


   私は、
   ミシュレの言うとおり だったら、

   第4回十字軍で、
   フランスが、ビザンツ帝国を支配したときに


   何故、
   ルネサンスが起きなかったのですか?
   と、お聞きしたいと思っています。


   同じようなことが、
   実は、イタリアでもあります。

   イタリアは、
   1453年 ビザンツ帝国が滅亡した後、
   学者たちが大挙してイタリアに移住してきたため、

   ギリシア・ローマの学問が
   急速に発展したと言われていますし、

   12世紀には、スペインと並んで
   シチリア島で、ギリシア・ローマ文明を継受した
   と、言われています。
   (12世紀ルネサンス)


  でも、
イタリアは、

  中世の初期より、
  というより  ローマ時代から ずっと 続けて、

  レパント貿易 により、
  ビザンツ帝国 や、パレスティナ と、深い関係にありました。

  何故その時に、
  ルネサンスみたいな現象 が、生じなかったのでしょうか。


  サザーン によりますと、

  7世紀(600年代)、
イスラムが勃興して、
  ビザンツ帝国 が、パレスティナ等 を 喪失したことにより、

  15世紀と同様に、
  イタリア に、パレスティナやシリアから、
  大挙して 学 識者 が 亡命してきて、

  この頃の ローマ教皇の大半 は、

  イタリア人ではなく、
  東方の亡命者だった とのことです。

  彼らは、
  当時のイタリアより 高度な文明 を 持っていましたので、

  ミシュレの言うのが本当なら、
  この時に、
  15世紀のようなイタリア・ルネサンスが
  生じているはずですが、

  現実は違っていて、
  当時イタリアは、
  暗黒の中世の始まり に  いたのです。


  (参 考)

  654年~752年
  ローマ教皇 17名中、 

    ギリシア系 11名 (65%)、
    イタリア系 6名(35%)

    内 ギリシア出身 3名
       シリア 出身 5名
       シチリア出身 3名

    (シチリアは、
     当時、ギリシア(ビザンチン帝国)支配下でした)


  654年以前の 100年間
  教皇 15名中、

    ローマ or イタリア出身 13名



  シャルルマーニュの頃

  バクダッドでは、
  異端だとして シリアから追放された
  ネストリウス派などの キリスト教徒 が、

  ギリシア文明を、アラビア語に翻訳して、
  一大文明 を 勃興させました。

  この時 翻訳された本 が、

  12世紀(1100年代)に、 
  スペインやシチリア島で、ラテン語に翻訳しなおされて
  ヨーロッパに輸入されているのです。


  7世紀(600年代)、
  文明を持った学識者が 大挙して イタリア に 亡命してきて、
  ローマ教皇など 重要な職位 についているのに、
  何故、ルネサンスが生じなかった のでしょうか。


  7世紀(600年代)に生じなかった ルネサンス が、
  時代が下った 15世紀(1400年代)に、花が咲いたのは、
  何故なのでしょう。


  クローヴィス や、シャルルマーニュ が、
  ギリシア・ローマ文明の総本山 の コンスタンティノポリス と

  接触したり、 
  神学論争 や 戦争 を 繰り広げ、

  さらには、
  結婚話まで しているのに、

  何故、
  ギリシア・ローマ文明 が、輸入されずに、
  アルクインなどの イングランド北部の修道院の文化 が、
  フランク に 輸入されたのでしょうか


  第4回の十字軍 で、
  ビザンツ帝国を支配して、財産 を 取り放題だったし、
  略奪して 大量に 持ち出したのに、

  何故、
  学問は、フランス に 輸入されず、
  ルネサンス が、生じなかったのでしょうか。


  逆に、
  シャルルマーニュの頃に、

  バクダッドでは、
  何故、ルネサンス現象が生じたのでしょうか。


  シリア や、パレスチナの人々 が、移住したのに、
  7世紀(600年代)のイタリアでは、
  花が咲かなかった ギリシア・ローマ文明 が、

  9世紀(800年代)のバグダッドでは、
  アラビアン・ナイトの世界 として
  爛熟した文明 が、展開されたのは 何故なのでしょうか。


  更には、
  このような歴史を熟知しているのに

  何故
  このような疑問 に対する 回答 を、
  ヨーロッパ人 は、考えないのでしょうか。


  ミシュレ は、

  ルネサンスだけではなく、
  カエサル以来、19世紀までの 膨大なフランス史 を、
  記述していますので

  今まで述べたようなことは、
  「よく素人が、知ったかぶりするね」と、おっしゃるくらい
  よくご存じのはずなのに、
  何故かしら、無視されておられます。

  (日本では、
   サマリー <と言っても、6冊の叢書ですがが>が、
   翻訳されていますが、

   残念ながら、私は未読で、本箱に鎮座しています。)


  日本人である私は、

  日本人は、
  卑弥呼以来 中国の文明 を 輸入して、

  自分のできる範囲で、
  言い換えると、
  身の丈にあわせて、咀嚼して、

  歴史 を 刻んできました、
  と、考えていますが、


  ヨーロッパ も、
  日本と同じような性質の歴史 を 歩んできた
  と、考えるのが、
  常識的では ないでしょうか。


  即ち、
  日本人が、中国から学んだように、

  アルプスの北のゲルマン人が、
  その時、その時、

  自分の理解のできる範囲で、
  ギリシア・ローマ文明を吸収していったのです。


  ですから、
  文明のレベル が 低かった時には、
  理解できなかったもの が、

  時代が進んで レベルが上がるにつれて、
  理解ができるようになり、吸収していったのです。


  中世初期には、ゲルマン人にとって
  ギリシア・ローマ文明は、
  「豚に真珠」、「坂の上の雲」だったのでしょう。

  それが、時代が進むにすれ、
  徐々に理解できるようになっていって、
  自分のものとなり、

  ルネサンスで、花が咲いたのではないでしょうか。


  シャルルマーニュ の 時代に、

  バグダッドで、
  ギリシア・ローマの文明 が アラビア語に翻訳されて、

  その後、
  アラビアン・ナイトの時代が現出したのは

  バグダッドの人々が、
  ギリシア・ローマ文明 を、理解できるだけのレベルに
  達していたから であり、

  シャルルマーニュ の フランク は、
  達していなかったから ではないでしょうか。



  このように考えると、
  以前に申し上げたかもしれませんが、

  ヨーロッパ、北アフリカ、中近東の地域は、
  「3つの世界 と 1つの宗教」と、
  理解るとわかりやすいのでは と、思っています。


  (従来、
   「3つの世界と3つの宗教」 と、考えていましたが、

   最近、
   「3つの宗教」を、「1つの宗教」としたほうが良いのでは
   と、考えるようになりました。)


  3つの世界とは、

  ① アルプスの北のゲルマン世界
  ② 地中海沿岸地方
  ③ バグダッドなどの チグリス・ユーフラテス地域


  1つの宗教とは、

  ユダヤ教と、
  ユダヤ教から派生したキリスト教、
  イスラム教です。

  三つの宗教を、一つの宗教というのは、
  同じ神を信じていることと、

  例えば、
  キリスト教も、

  ① アリウス派とアタナシウス派、
  ② ローマカトリックとギリシア正教、
  ③ 旧教とプロテスタント、
  ④ プロテスタント内部での多数の宗派
  と、いくつも、分かれていますので、

  同じ神 を 信じる キリスト教 と イスラム教 も、

  ユダヤ教も含めて、
  「同じ宗教だ」と、括ったほうが、

  正確な理解ができるのでは?
  と、考えるからです。


  「3つの世界 と 1つの宗教」に 関しては、

  まだ、考えを深めねばならないことも ありますし、
  このメールの主題では ありませんので、
  今回は、ご紹介だけにさせて頂きます。



  最後に、

  ヨーロッパ人が、

  異なる世界 を 自分の世界、
  他人様のご先祖 を、自分のご先祖 と、

  言い張るようになったのは、
  ローマの支配 が、あったからだろう と、思います。


  ローマ は、
  ライン川左岸より 西のヨーロッパ大陸 と、
  イングランド、ウェールズを征服しました。

  先住していたケルト人(ガリア人や、ブリトン人)は、
  ローマ文明の恩恵に浴しているのです。


  でも、
  彼ら先住民(ケルト人)が、
  更には、
  ケルト人を吸収し、支配するようになった、ゲルマン人が、

  ローマ文明 を、ローマ滅亡後 も、
  そのまま 維持できるだけのレベル に あったかというと、

  そうではなかった と、
  いわざるを得ないと思います。


  ですから、
  ローマ時代のものは、ローマが終了したら、 
  維持、管理できなくなって、「遺跡」となっているのです。

  もし、
  ガリア人やブリトン人 が、
  更には
  ゲルマン人が、

  ローマ文明 を、自家薬籠中のもの としていたなら、
  ローマ文明 は、
  遺跡とならずに、現在まで続いているはずです。


  例えば、

  ローマの後半に、
  ローマ文明に編入されたキリスト教は、

  かろうじて、
  ケルト人やゲルマン人にも 担われました。

  そのため、
  6世紀に 建立された ラヴェンナのサン・ヴィターレ寺院は、
  遺跡とならずに、現存しているのです。

  でも、
  ローマ文明本体は、

  イタリアでも、
  イタリアに住んでいた人(ローマ人ではありません)が、
  維持管理できなかったので、遺跡 と なりました。


  同様に、
  フランスでも、

  自分たちが育んだ ロマネスク教会 や、ゴシック教会 は、
  遺跡とならずに、現存しています。

  自分のものは、維持管理できますが、

  他人様のハイレベルな文明は、「豚に真珠」であり、
  維持管理したくとも、できなかったのです。


  これは、
  建物だけでなく、ローマ法も同様です。

  ローマ法 は、
  ローマが終焉した後、イタリアから消え去ってしまいました。


  それが、
  中世も だいぶ進んで、イタリア人のレベルが上がってきて、
  ローマ法を理解できる段階になってから

  ようやく、
  イタリア人が、勉強し始めたのです。

  ヨーロッパ人は、
  これを「ローマ法の復活」と言っていますが、

  ローマ人と中世のイタリア人は、全く別の人々ですから、

  ここでも、
  他人様のご先祖を、自分のご先祖様 と、
  詐称しているのです。




  以上が、今回お話ししたかったことですが、

  ここまでお読みいただいたら、

  イタリア人は、
  ローマ以来 イタリアに住んでいたのであり、

  ローマ人は、
  イタリア人にとって、他人様のご先祖ではないのでは?

  と、疑問 を 持たれるだろう と、思いますので、

  長いメールが、さらに長くなりますが、
  もう少し、お話を続けさせていただきます。



  まず、

  西ローマ帝国の滅亡時点 で、
  イタリアでは ローマは 蒸発していたのです。

  ローマ皇帝 を、オドアケル が、廃位して滅ぼした
  と、学校時代 学びましたが、

  オドアケル も、
  滅ぼされた西ローマ皇帝も、

  ともに、
  アッチラの家臣の末裔 だったのです。


  その後、
  東ゴートが、イタリアを支配し、

  その東ゴート を、
  ビザンツ帝国 が ゴート戦争 で 滅ぼしたら、

  ランゴバルド が 入ってきて、
  イタリア を、支配するようになりました。

  そのランゴバルド も、
  シャルルマーニュ によって 滅ぼされ、

  1250年まで、
  基本的にイタリアは、
  ドイツ人の支配下に 入りました。


  東ゴートまでのイタリア は、
  確かに、ローマ文明のかけらは、残っていました。

  即ち、
  テオドリック に 殺された ボエティウス や、
  ヴィヴァリウム修道院 を 建立した カッシオドルスなどの人々 が、
  おられましたが、

  その後のゴート戦争の最中に、
  彼らのような ローマの元老院階級 は、胡散霧消 してしまい、

  ローマ文明の担い手は、
  イタリアから いなくなってしまった のです。


  東ゴート や、ランゴバルドといった ゲルマン人 には、
  ローマ文明 を 担うことは、到底 できませんでした。


  ガリア(フランス) でも、

  ローマ時代の司教座 は、
  ある時期消滅して、

  50年~100年後に、
  更には、その後に、

  イングランドからの布教により、
  ローマ時代の司教座と同じ場所に 司教座 が、建設された

  と、ピレンヌ は、記述しています。

  (再建時期が同じころにそろっているのは、
   シャルルマーニュの布令で 司教座 が 建設されたからだ
   と、思います)


  ヨーロッパ人は、
  キリスト教 が、フランスで連続している と、言い張りますが、

  ピレンヌによると、
  ローマ時代の司教座は、一度なくなって、

  イングランドより、大陸に布教されて、
  ローマ時代の司教座座があった場所に
  改めて 新たに 作られた とのことです。

  (カロリング・ルネサンス を 担ったのは、
   イングランドから来た アルクイン が、中心でした)


  ローマの教会の消滅 を 記述した ピレンヌ が、

  このことが、歴史上 どんな意義があるのか について
  何故、言及していないのだろうか と、訝しく感じています。


  (参 考)

  ピレンヌが記述している 司教の空位期間は次の通りです。

 
  都 市      空位開始年 司教復帰年 不在期間

  エクス       596     794     198
  ディエ       614     788     174
  ジュネーブ    650     833     183
  アンティベ     660     788     128
  ボルドー      673     814     141
  シャロン       675     779     104
  ユゼ        675      788     113
  エンブリュン   677      828     151
  オランジュ    679      879     200
  カルパントラ   679      879     200
  マルセイユ    679      879      200
  トゥーロン     679      879      200
  ニーム       680     788      108
  アグド       683     788     105
  マグロンヌ    683     788     105
  カルカソンヌ   683     788     105
  エルヌ       683     788     105
  アルル      683     794     111
  ロデーヴ     683     817     134
  ベヂエ      693     788      95
  レクトゥル    696     762      66
  コマンジュのサン・ベルトラン 
            696     762       66
  サン・リジエ   696     762      66
  エール      696     762      66
  オータン     696     762      66
 
出所;ピレンヌ「ヨーロッパ世界の誕生」276ページ
 
 上記の表は、私のホームページの
 「ガリアは、ローマ文明を 灯し続けたのか?」に記載したものです。
 
 
  文明というものは、
  築き上げるには、大変な労力と時間がかかりますが、
  断絶するには、一世代あったら十分なのです。
 
  最近の例では、
  韓国 が、
  1970年以来、漢字廃止政策を行った結果、
 
  半世紀近くたった現在では、
  国民の大部分が、ハングル文字しか読めなくなって、
 
  これではまずい と、漢字を復活させようとしても、
  教える先生がいなく 復活できない との話 を、
  聞いたことがあります。
 
  韓国の反日捏造政策が、
  根強く国民に、信じられ 支持されているのは、
 
  戦前の文章のような 漢字交じりの文章 は、
  ごくごく一部の専門家を除いて誰も読めないので、
  自分で調べる能力のない国民は、
  政府の宣伝が正しいと信じているとのことです。
 
  ハングル文字は、
  朝鮮人が無視していたものを、
  日本が復活させたものですが、
  戦前は、
  漢字交じりのハングルだったのが、
  現在では、
  ハングルだけになったのです。
 
 
  余談ですが、
  漢字は、
  文字ごとに概念がありますが、
  「ひらがな」みたいなハングルには、概念がありません。
 
  韓国人が、
  理性的な思考ができない理由
  あけすけに言うと、
  思考能力のレベルが低く、幼稚なことの原因の一つに、

  この問題があるようです。
 
  (ちなみに、
   英語は、単語が一塊として、
   漢字と同じように それぞれ 概念 を 持っているので、
   論理的な思考が可能だ ということのようですが、
   本当でしょうか、

   もしよろしければ、ご教示下さい。)
 
 
  文化の断絶について、他の例としては、
 
  四半世紀以上も前に 製鉄所の製銑部にいたころ、

  日本鉄鋼業は、
  コークス炉を作り直せないかもしれない
  との話 を 聞きました。
 
  現存するコークス炉ができてから、一世代経ってしまうと、

  定年退職した社員の技術を、
  次の世代の社員が伝承ができずに、
  コークス炉の製造技術が、日本から消滅してしまうのでは?
 
  また、現状では
  日本全体のコークス炉の再建に必要な
  大量のレンガを作る設備能力を、煉瓦メーカーが失っている
  とのことでした。
 
  毎年補修はされているし、
  煉瓦メーカも、毎年 煉瓦を作っていますので、
  本当かな?と、訝しがっていたのです。
 
  また、
  戦後、日本鉄鋼業が いくつもの製鉄所を作ったとき、
  煉瓦メーカーが、設備増強して ついてきたではありませんか、

  との疑問も、ありました。


  近況をご存じでしたら、ご教示いただければら幸いです。
 
 
大変な長文になってしまい、申し訳ございません。
遅くなりましたが、ご返事とさせていただきます。
 

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