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2014年2月17日 (月)

キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・ 1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)                                   2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)                                  3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)

世界中の無数の人々の 多種多様な信仰、要望の対して、
色々な神様がおられる多神教の方が、一神教に比べて
多種類のメニューが用意して沿うことが出来るはずなのに、

どうして、
一神教=単一の神 の キリスト教やイスラム教が、世界中に普及し、
多神教は、ローカルな宗教に留まったのだろうか?

というのが、
幾つもある歴史における私の謎のうちの一つでした。


この数年間、キリスト教関連の本を読んできて、
最近 「こういうことだったのでは?」と、謎が解けたような気がしています。

以下に、私の謎解きについて、お話しさせて頂きます。



1.結論を言うと、

  キリスト教の神様は、
  お一人故に、無限の信者のニーズに応えられるのに、

  多神教の神様は、
  信者のニーズに応えるために、いろいろな神様がおられるのですが、

  それぞれの神様は、担当される個別のニーズにしか応えられない故に、
  多神教は、信者の無限のニーズに応えることが出来ないからだと思います。


  要するに、

  一神教は、
  信者が神様に、どんな信仰や要望をお願いしても、
  全てにお応えになられるのに対して、

  多神教は、
  それぞれ神様が、担当分野を持っておられる故に、

  信者の信仰や要望は、浜の真砂の如く無限にありますから、
  担当分野に漏れが生じて、全てをカバーすることが出来ないのです。



2.キリスト教の神様は、
  どうして 信者の無限の信仰、要望に対応できるのでしょうか?


  私は、
  ① キリスト教が、「神様とは何か」について定義していないことと、
  ② 「神に囚われている」とのキリスト教の教え

  ③ 更に、
    神様の活動を補助する 三位一体論の(無数の)聖霊の存在

  の、3つの要素で、説明できるのでは?との仮説を持っています。


  最初に、
  上記①②③の意味するところをご説明させて頂きます。


  ① キリスト教が、「神について定義しない理由」(仮説)

    キリスト教は、

    「人間は、有限の存在であり、
     有限の存在である人間が、無限の存在である神について
     述べることは不可能である。」

    「言葉は、ある限られた範囲しか説明できない有限の存在であり、
     有限の存在である言葉によって、無限の存在である神を
     説明することは 不可能である」から、

    神について説明できない、定義出来ない、
    と、考えられておられるのだろうと、推察し、
    キリスト教が神を定義しない理由についての仮説としています。

    人間の知恵を遙かに超えて、
    想像を絶する偉大な存在を「神」である と、されておられる以上、
    上記の考えは、一見尤もらしく思える説明ですが、
    私には、屁理屈であり、諸悪の根源のような気がしています。


  ② 「神に囚われている」とのキリスト教の教え

    「神に囚われている」との教えについては、
    詳しくは、次のブログをお読み頂くとして、
    ここでは、簡単に説明させて頂きます

  
    「パウロ・・・第3回 悲惨な歴史の淵源となったパウロの教え」
    1.「神のとらわれている」との信仰について
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-219f.html


    神への信仰を深めていけばいくほど、
    神の教えの意味が良く分かるようになり、

    あるとき、
    自分は、教えに全面的に服従している=神に囚われている、
    との境地に達するのでしょう。

    そうなると、
    神に囚われている自分の考えや行動は、
    神の啓示に従って行動していることになるので、

    自分の考えや行動は、神の考えや行動と同一である、
    と、確信をもつようになるのだろうと思います。

    即ち、
    自分の考えること、行動することは、
    全て神と同一であり、絶対的に義(ただ)しいと
    確信をもつようになるのです。


    例えば、
    トマス・アクィナスの先生である アルベルトゥス・マグナスは、

    限界ある理性に基づく「哲学」は、誤りを犯す可能性があるが、
    理性では把握出来ない 啓示された真理を前提にする「神学」は、
    一層確実であると述べておられます。

    即ち、
    人間の論理に従っている「哲学」は間違えることがあるが、
    神の啓示に基づく「神学」は、間違えることはあり得ない、
    と、おっしゃっておられるのです。


  ③ 「聖霊」  

    聖霊は、イエスが昇天した際に、神様が地上に降臨させたとして
    キリスト教徒の皆さんは、毎年 聖霊降臨祭を祝っています。

    聖霊は、
    イエス昇天後、地上において神に代わって
    キリスト教徒一人一人を助けて下さる大変有り難い存在なのです。

    キリスト教は、
    神とイエスと聖霊は、同一である(三位一体)との教理を確立しています。


    聖霊の働きについて、
    矢内原先生が簡潔に説明されておられますので
    次のブログでご紹介した先生の記述を再掲させて頂きます。


    矢内原忠雄著「キリスト教入門」への疑問と批判
    ・・・キリスト教は「詐欺宗教」か?・・・
    3.「聖霊のはたらき」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-7933.html


    矢内原先生は、
    三位一体の「聖霊」は、3つのはたらきがあると述べられておられます。

    ⅰ)真理について迷ったとき、
      これが真理だということを聖霊が確かに言ってくれます。

    ⅱ)この世の苦しみや悩みに悩んだとき、

      本当に 自分の心の中に入ってきて慰める人、
      本当に 自分のことを分かってくれる人、
      聖霊は、そのような役割をしてくれるのです。

    ⅲ)我々が良心の咎めを感じるとき、
      聖霊は、陰に陽にかばってくれます。

    (要するに、)
    この世における忍耐と希望の生涯を、
    日々現実に手を取り耳でささやいて導いてくれるもの。

    これは慰めである と 言って、ささやいてくれる人。

    お前は、もう罪の支配の下にはないものであると言って、
    私どもをサタンの攻撃からかばってくれる人、

    そういうはたらきを、聖霊がしてくれるのです。

    (矢内原忠雄「キリスト教入門」143㌻~146㌻)(中公文庫)


  (注) 「聖霊」は、キリスト教の幾つもある噓の一つです。
      ここは、その話をする場所ではありませんので、
      何故噓なのかについて、ご興味のおありの方は、
      次のブログをご参照下さい。

    堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・
    の4.の文章中の ②の部分 をご覧下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html

    


  次に、
  上記①②③が、
  キリスト教を世界宗教(普遍宗教)たらしめたロジック(仮説)を
  ご説明させて頂きます。


  先ほど申し上げたように、神への信仰を深めたキリスト教徒の方は、
  神の啓示に従って考え、行動しているとの確信をもつようになるのです。

  その確信は、聖霊に助けられて持つに至ったことにより、
  更に強固たるものになるのです。


  多神教では、神様が定義されていますので、
  神の啓示よると考えたものが、神様の定義に沿っているのか、反しているのか、
  割と客観的に判断することが出来ますが、

  キリスト教の神は、定義されていませんので、

  自分が、神の啓示と考えたものが、どんなものであろうとも、
  言い換えると、
  キリスト教徒が描いた啓示や神が、どんなものであろうとも、

  それは、神ではない、神の啓示ではない
  と、否定されることがないのです。

 

  従って、
  キリスト教徒は、多神教とは異なり、

  一人一人の考え、行動が、
  神と同一であり、絶対的に義(ただ)しいとの確信を
  得ることができるのです。

  そして、
  この様にしてキリスト教においては、
  無限に存在する人間一人一人が、直接神とつながるのです。

  一人一人の全ての願いに応える事が出来る神は、
  担当分野が固定していて、担当分野以外は応えられない神よりは、
  好ましいのはいうまでもありません。

  多神教は、
  どうしても信者の願いに応えられない部分が生じてしまいますので、

  信者全員の全ての願いに応えることが出来る一神教の方が、
  信者を獲得できたのは、理の当然ではないでしょうか。

  これが、
  一神教が、多神教を押しのけて 普遍宗教になった所以だと思います・


  神が、全ての信者の 全ての願いに 応えることが出来る との虚構を
  正当化するために というのが、

  カトリック、ギリシア正教、プロテスタント等の
  正統派と言われるキリスト教の宗派が、
  三位一体論に固執した理由なのでしょう。

  旧約聖書の神とイエスと聖霊は、全く別個の存在です。

  それを、
  無理矢理「三位は一体だ」と言って、
  「それを信じるのが宗教だ」と、押し通しているのです。

  カトリックは、アリウス派の方が論理的に優れていて、
  全く白紙の人間だったらアリウス派の方に軍配を上げるのを承知で、
  カトリックは、三位一体論を押し通したのです。

  だからこそ、
  カトリックが、アリウス派を
  今でも、蛇蝎の如く 嫌い、内心では、恐れているのです。


  個人が、直接神とつながっていて、
  信者が、神から啓示を受けたことは、神のおっしゃったことだと、
  押し通すためには、

  旧約聖書の神(本来の神)とイエスや聖霊の三位が同一であると
  信者に信じ込ますことが、どうしても必要だったのでしょう。

  もし、これが出来なかったならば、
  キリスト教は、現在の形で存続できたかどうか疑問に思われます。

  キリスト教が、キリスト教たるために、
  別の存在である 神 と イエス を 一体化し、

  聖霊が、ウソであることは、
  キリスト教の歴史を見れば一目瞭然なのに、
  信者に
  聖職者の言っていること以外は、悪魔のささやきだとすり込んで、
  噓を真実だと押し通したのだろうと思います。



3.以上のように謎を解いてみると、
  同じロジックで、次の2つの謎も、芋づる式に解けましたので、
  ご紹介させて頂きます。

  ① キリスト教が、常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂していった理由
  ② キリスト教が、歴史上 殺人、殺戮を繰り返した理由
    (殺人宗教ともいうべき宗教となった理由)


  ① キリスト教が、常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂していった理由
  

    キリスト教が、
    常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂を繰り返したのは 何故だろう と、
    長年疑問に思っていましたし、

    長い間、
    キリスト教は、神様はお一人と説明されているけど、
    旧約聖書の神と新約聖書の神(イエス)のお二人おられるのでは?
    との疑問も持っていました。

    また、この数年間
    秦先生の本から始まって、幾つものキリスト教の本を読んでいる内に、

    新約聖書に4つの福音書があるのは、
    原始キリスト教の派閥が、それぞれ福音書を記述したことが分かって、

    それなら、
    新約聖書の神様は、4人おられることになるのでは?
    と、考えるようになりました。

    この思考を更に広げますと、
    もっともっと神様がおられるのではということになります。

    というのは、
    イエスが没してからすぐに、
    ヘレニストを異端として、排除したことを始めとして、

    例えば、
    アリウス派、ネストリウス派、ドナティスト、ペラギウス派
    中世においてもカタリ派、ワルドー派、更にはフランチェスコ会聖霊派など

    キリスト教は、
    主流派(宗教的権力を握った派閥)と異なる信仰、神学を持つ派閥を、
    次から次へと異端として排除してきました。

    異端として排除できないほどの派閥が生じると、
    キリスト教は、分離、分裂しました。

    カトリック と ギリシア正教 との 分裂 や、
    カトリック と ルター派、カルヴァン派 との 分離 が、その典型でした。

    更に、近世になると
    いろいろな分派がキリスト教に現れてきます。

    私みたいなキリスト教徒でない者にとって、
    それぞれの区別などは、どうでも良いので

    キリスト教史の本(例えば、ゴンザレス)は、
    中世まで読み進めた後、近世に入ると
    途端に読む気を失せてしまって、中断してしまいます。

    今お話しした 異端や分派は、それぞれ自らの神を持っているわけで、
    キリスト教の神は、信者それぞれにとってはお一人なのでしょうが、
    私みたいな部外者からみると、無数の神がおられるのです。


    何故、この様なことになったのか、について疑問に思っていたのですが、

    ⅰ)キリスト教は、神を定義しない宗教であることと、
    ⅱ)「神に囚われている」との教えにより、
      一人一人が神と直接結びついていることにより、

    キリスト教においては、
    信者一人一人に、それぞれの神が存在しているので、
    無数の正統性ある神が存在する
    と、仮説を立てれば、無理なく説明が出来るなと得心しています。

    (注)「信者一人一人に、それぞれの神が存在する」とは、
       信者のAさんに対する神の啓示と、
       信者のBさんのそれとは、異なるのです。

       ですから、
       神様が無数に存在することになるのです。


    誰もが、それぞれの正統性ある神に従う ということは、
    誰もが、「自分は絶対的に義(ただ)しい」との主張をすることになり、

    その異なる主張、対立する主張に、最終的な白黒の決着をつけるのは、
    多数決ではなく、物理的な力(暴力)によることになります。


    主流派と異なる派閥が、弱小の場合は、異端として排除し、
    個人だったら、異端審問で異端審問や火刑によって、抹殺すれば良かったし、

    異端として排除できない派閥の場合は、分裂を繰り返すことになったのです。

    近世、
    特に、フランスの宗教戦争、ドイツの三十年戦争の後には、
    さすがに暴力(殺し合い)で解決することに反省が出て来て、

    特に、新教内部においては、
    幾つもの派閥(宗派)の並存を認めるようになったのです。


  ② キリスト教が、歴史上 殺人、殺戮を繰り返した理由
    (殺人宗教ともいうべき宗教となった理由)
    


    神の啓示に従っているので、自分は絶対的に義(ただ)しいので
    自分と異なる考えや行動をするこいつは、殺さねばならない。

    神が殺せと啓示されているので、
    あるいは、
    こいつは、地獄に落ちると神が予定しているので、殺せ と、言って、

    キリスト教は、
    他宗教の信徒のみならず、キリスト教徒も、
    機会がある毎に殺しまくってきたのです。


    キリスト教は、
    何故、歴史上幾多の殺戮、殺人を積極的に犯してきたのでしょうか?

    また、
    何故、殺人が許されるどころか 義務と考えられるようになったのでしょうか?


    というのは、
    いくら神に囚われているから、神の啓示に従っているからといって、

    人を殺すことを神が認めたとか、
    殺すのが義務であるとの結論に達するのは、

    いくら歴史的な事実であったとしても、
    キリスト教は、
    愛の宗教と言われているし、十戒で殺人を禁止されてもいますので、

    本当にキリスト教自体が承認していたのか?
    一部のキリスト教徒の暴走ではないのだろうか?
    との疑問が持たれるからです。


    結論から言うと、

    キリスト教及びキリスト教徒は、①で述べたロジックに従って
    殺人を正当化してきたし、
    現代でも、人を殺すことが法律(刑法)上認められるなら、殺人を犯すのです。

    これは、
    敬虔なキリスト教徒であるブッシュ大統領(息子)が、
    噓をでっち上げて、イラクに侵攻しフセインを殺したことでも、明かです。


    実は、
    キリスト教を形成してきた主要人物には、殺人犯が多数おられますので、
    キリスト教は、
    殺人者が創った宗教だと言っても過言ではないような気がします。

    例えば、次の人々をみれば明白でしょう。

    1.神
    2.モーセ

    3.ペテロ
    4.パウロ

    5.アウグスティヌス

    6.十字軍を主導した教皇達(含む、ベルナール)
    7.中世最大の教皇 イノセント3世(アルビジョワ十字軍の主唱者)

    8.カルヴァン


    神とモーセは、
    次のブログをお読み頂きたいと思います。

    旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html


    ここでは、

    モーセは、
    エジプトで殺人を犯して、シナイ半島に逃亡したことと

    神は、
    その殺人犯モーセを使って、ユダヤ人をエジプトから出国させたのですが、

    エジプト出国についてのファラオとの交渉の時を始め、
    ユダヤ人を約半世紀彷徨させたとき、
    更に、
    カナンの地に攻め入ったとき、
    大量の人々を殺害していることをご紹介させて頂きますので、

    詳しくは、上記のブログをお読み下さるようお願い申し上げます。

    なお、
    神に殺害された人々は、ユダヤに敵対した人だけでなく、
    神の教えに従っていたユダヤ人も含まれているのです。

    しかも、首を傾げるのは、
    ユダヤ人に神を裏切るように先頭に立って指導したモーセの兄アロンを、
 

    神は、
    殺すどころか、ユダヤ教の大祭司に抜擢して
    自分のお気に入りには依怙贔屓をして優遇していることも、
    申し添えさせて頂きます。


    ペテロは、
    財産の半分を、全財産だと偽って
    原始キリスト教団に寄付しようとした夫婦を、殺害しています。
    (殺害後、全財産を強奪したのでしょう。)

    ペテロは、
    イエスが処刑されたとき、イエスの預言通り、3回噓を言って
    イエスを裏切っていますし、

    投獄されて、脱獄した後、
    原始キリスト教団トップの座より 宣教師に格下げされ、
    ローマに行って処刑されています。


    パウロは、
    キリスト教徒に改宗する前に、
    ヘレニストの指導者ステファノを、ユダヤ教が処刑したとき、
    第二処刑人として、ステファノ殺害に加わっています。


    アウグスティヌスは、
    ドナティストを異端だとして、ローマ軍を使って殺害しました。

    アウグスティヌスについては、次のブログを参照下さい。

    堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・
    < 「異端は、部分的主張である」との解説について感じたこと >
      のパートの 3 をご覧下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html



    十字軍を主導した教皇は、
    皆様がよくご存じの通り、ヨーロッパの人々を扇動して、
    攻撃する理由も権利もないパレスティナを侵略させています。


    教皇イノセント3世は、
    カタリ派の人々に対する十字軍を主導して、残虐な殺戮を行わさせました。

    アルビジョワ十字軍が、どんなに残虐な十字軍だったのかは、
    次のブログをご覧下さい。

    盲者の行進
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html


    カルヴァンは、
    ジュネーヴに立ち寄ったセルヴェを執念で処刑しました。

    カルヴァンは、①でご説明したロジックの権化で、
    自分の言っていることは神が言っていることだと
    ジュネーヴのキリスト教徒に宣言して、何人もの人を殺害しています。


    この様に、
    十戒で殺人を禁止しているのは、宣教のための看板にすぎず、
    神様は、言っていることと やっていることを、違えているのです。

    キリスト教の本質は、
    自分の考えに従わないやつは殺してしまえ、抹殺しろ と、いうことなのです
    と、言わざるを得ないな と、感じられます。


    キリスト教を代表する神を始めとする人々が、
    どうしてこの様な、人間とも思えないことを平気でしたのでしょうか。

    これでは、
    キリスト教は、無法者、アウトローの集まりである
    と、いうことになるのではないでしょうか。


    この様になった理由は、
    「神を定義していない」
    「神に囚われている」との教えがあったからだと、簡単に説明ができます。


    「神に囚われているから、
     神の啓示、命令に従って、考え、行動しているので、
     自分の考えは、神と同一であり、絶対的に義(ただ)しい」
    との心境に達したキリスト教徒は、

    自分が思いついたこと、行動することは、
    全て神と同一の考えであり、行動である と、確信しているのです。


    そのようなキリスト教徒が、「あいつを殺したい」と考えたら、
    当然、神も、「あいつを殺せ」と考えているということになるのです。

    そうなると、
    「あいつを殺す」のが、神の啓示であり、命令であるということになります。

    これが、
    カルヴァンが、ジュネーヴで人を殺しまくったロジックなのです。


    「あいつを殺せ」と考えたとき、神の定義がはっきりしていれば、
    神が、そんなことをするはずがない、そんなことを許すはずがない
    と、定義から導き出されるはずです。

    ところが、
    キリスト教には、神の定義がありませんので、

    「あいつを殺す」ことが、
    絶対的に義(ただ)しい、神が望んでいることだ、神が命令していることだ、
    と、なってしまうのです。

    要するに、
    キリスト教には、倫理的な歯止めがないのです。

    ですから、
    毎日神に仕えている敬虔な聖職者ほど、
    「あいつを殺さねばならない」と思い込んだら、
    それを押しとどめるものがなくなってしまうのです。

    これが、キリスト教が、
    歴史上殺人、殺戮を繰り広げてきた理由であり、原因なのです。


    しかし、このことが、
    キリスト教をして、非常に包容力ある宗教にし、
    世界宗教(普遍宗教)たらしめた原因でもあるのです。

    人殺しも、神の命令であるとなるのですから、
    何と包容力のある宗教なのでしょう と、感嘆せざるを得ません。


    ただ、更に問題なのは、
    キリスト教の倫理的欠陥が、宗教内に留まらず
    社会一般にも悪さを及ぼしていることなのです。

    
    「あいつを殺す」との思いが、
    本当に 神が命じたと思っているときには、
    キリスト教内部の欠陥の問題ですが、

    自分の利害、得失のために殺すときに、
    神に囚われている自分に対して、神が命じたのだと、
    噓をつくことも可能なのです。

    しかも、
    噓をついたのかどうかは、第三者には分からないのです。

    このことは、
    キリスト教の教えを悪用して、
    噓をついて、罪悪度を薄めることが可能となるのです。

    ですから、
    キリスト教は、宗教上だけでなく、
    社会一般に対して、悪さを及ぼしているということになります。


    この様なお話をすると、

    神様は、
    十戒を授けておられて、それが倫理的な歯止めとなっている
    との反論を、キリスト教徒の方は、されるでしょう。

    でも、
    旧約聖書で、神とモーセは、
    大変な人を、殺すほどの理由もないのに殺しまくっているのです。
   

    十戒を授けられ下山したとき、
    神を裏切ってユダヤ人を、神は殺していますが、

    その際に、
    お気に入りのモーセの兄アロンは、
    ユダヤ人に神を裏切らせたリーダーだったのにかかわらず、

    殺さないどころか、
    ユダヤ教の大祭司に抜擢して、平気で依怙贔屓しているのです。


    ロトは、
    ソドムから逃れた後、娘と同衾して、
    それぞれの娘に子供を産ましているのです。


    ですから、神は、
    十戒は、建前の話で、本心の話ではない、本気に守れとは思っていなかった
    ということを、自らの行動で示しているのです。

    しかも、このことは、
    キリスト教の幹部=聖職者は、当然ご存じであり、

    自分は、神の考えや行動と同一であるから、
    何をやっても良いと考えていたのでしょう。
 

  


4.残る謎解き

  キリスト教の本質について、
  今回の謎解きで、大体解明できたのではと感じていますが、

  今回お話しした、
  「神を定義しない」宗教であるが故に、何と悲惨な歴史を繰り広げてきたのか
  とか、
  倫理的な歯止めを作ろうとしなかった理由
  について、

  キリスト教側からのご説明がないことが、大きな謎として残っています。


  都合の悪いことは口を拭って通り過ぎるのは、人間の通弊ですが、

  この数年読んだキリスト教の本の中には、
  キリスト教徒でありながら、キリスト教を厳しく批判する方の本を
  何冊も読みました。

  キリスト教は、包容力の大きな宗教であり、
  良いものは善い、悪いものは悪いと議論できる宗教であることを、
  良く理解しています。

  だからこそ、

  無数の大天才と言うべき神学者を輩出したキリスト教が、
  鈍才の上に耄碌した私でも気がつくような、キリスト教徒だったら誰でもご存じの
  「神を定義しない」ことと、「神に囚われている」との教えをスタートとすれば、

  単純なロジックで、
  キリスト教が悲惨な歴史を繰り広げてきた理由を説明出来るのに
  何故 議論されておられないのかが、不可思議です。


  何故、
  悲惨な歴史を回避するような議論、
  殺人宗教から脱するために「神を定義しよう」とする動きが
  生じなかったのでしょうか。

  上記の議論や動きが生じなかったからこそ、
  カルヴァンみたいな 聖人面した とんでもない殺人鬼 が、
  神を定義していないことを奇貨として、
  殺人を扇動し、実行する事態が生じたのです。

  これは、
  アウグスティヌスにおいても 然り、
  教皇イノセント3世においても 然りなのです。


  一つ謎を解いてステップアップすると、
  その地平において、新たな謎が浮かんでくる謎が、上級な謎だと思っています。

  キリスト教を巡る謎は、
  奥が深く、何層にも重なり合った迷宮なのでしょう。

  これからも、できる限り謎を見つけ出して、
  謎解きを、余生の楽しみ としていきたいと、願っています。


追記

この拙文で書きそびれた点について、次のブログで補足しておりますので、
そちらもご覧頂ければ幸いです。

    ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説) ・・・・
    キリスト教謎解きの旅 の 終わりにあたって
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-8f11.html

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2012年11月21日 (水)

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる

「ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?」のブログの中で
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html


 「ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の領土だったということは、
  どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

  ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
  ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
  無理だということが、身に浸みて理解できました。」

と、記述しましたので、


私がヴェネツィア隆盛期のポイントだろうと考えている
ヴェネツィアとビザンツ帝国の経緯をご紹介させて頂きます。



812年
シャルルマーニュとビザンツ帝国が アーヘン条約を締結して、

シャルルマーニュの皇帝戴冠を承認すると共に、
ヴェネツィアやイタリア南部がビザンツ帝国の領土となりました。


潟の中のリアルトに実質的な建国したばかりのヴェネツィアにとり、
このアーヘン条約は、今後の発展の基礎となる条約でした。

即ち、
ビザンツと提携することで

 1.東方世界で勢力を伸張する基盤を獲得すると同時に、
   フランク帝国内での商業に従事する権利も獲得して
   有利な立場を与えられただけではなく、

 2.ビザンツ帝国の領土となることで、
   事実上の独立を獲得すると共に、

   イタリアを支配していたフランクが干渉してたときには、
   ビザンツ帝国を盾に対抗することが出来たのです。


ビザンツ帝国の領土だったことは、

 1.中世になっても ヴェネツィアが、

   イタリアの政治権力、

   即ち
   皇帝や教皇の支配の外にいることができて、

   他の都市のようにイタリアの政治闘争に巻き込まれることを
   避けることが出来ました。


 2.また、教皇から距離を置くけたことにより

   近世に至るまで イタリアで唯一と言って良い「言論・思想の自由」を
   維持できたもととなったのです。


ヴェネツィアは、
800年代に ビザンツ帝国のために南イタリアに出兵しています。

例えば、

 1.840年
   サラセンに攻撃されたタラントに艦隊を派遣して、敗北しています。

 2.また、867年から871年にかけて

   841年から30年間
   イスラムに占領されたバーリを奪還するための

   フランク(皇帝イタリア王 ルイ2世)とビザンツの連合軍に、
   艦隊を派遣して、バーリ奪還に貢献しています。



なお、バーリは、

876年
ビザンツ帝国が攻略して以来

1073年
ノルマン人のロベール・ギスカールが攻略するまでの約200年間、

南イタリアでのビザンツ帝国の中心都市でした。


992年 5月 ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と同盟条約を締結して、事実上の独立を果たしました。


ビザンツ帝国 バシレイオス2世が、

ブルガリア王 サムイルとの戦いに際して、
ヴェネツィアと同盟を締結したのです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国にとって かけがえのない海軍の同盟者だったのです。

  注 バシレイオス2世 と サムイル  は、
     991年から1014年の27年間の長きにわたって戦いれました。

    この戦いで、
    バシレイオス2世は、「ブルガリア人殺し」との異名を得たのです。


    「盲者の行進」を参照下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html



ヴェネツィアは、
この条約で、非常に有利な条件を勝ち取っています。

 1.ビザンツ帝国の宗主権の再確認と引換に、
   完全な自立性とビザンツ帝国諸港への自由な出入権を獲得したのでした。

 2.また、ビザンツ帝国の諸港での入出港料が、

   他の国が 30ソルディ金貨だったのに、
   その57%の17ソルディ金貨と優遇されたのです。


同じ年(992年)の7月には、

ヴェネツィアのドージェ(元首)ピエトロ・オルセオロ2世が、
神聖ローマ帝国皇帝に使節を派遣し、

神聖ローマ帝国内での ヴェネツィア商人の商業活動の自由の保証を
要請しました。


ビザンツ帝国との同盟を締結してから5年経った
998年に、

ヴェネツィアは、本格的にアドリア海に乗り出しています。


5月に
ドージェ ピエトロ・オルセオロ2世が、

最初の「海との結婚式(シェンサ)」を行った後、
ザーラの海賊退治に出帆しました。


ザーラで、
アドリア海東岸の20以上の都市に ヴェネツィアへの恭順と服従を誓わせ、

会議に欠席した レジーナ と クルツォラ を 猛攻して、
屈服させたのでした。


この遠征後、
ヴェネツィアのドージェは、

ビザンツ皇帝 バシレイオス2世より ダルマツィア公爵の称号を与えられて、
ダルマツィア公爵と名乗るようになりました。


1002年~1003年に

ヴェネツィアは、
アドリア海南部で、サラセンの海賊を撃破し、

アドリア海の平定を完成して、
アドリア海の統治 を 開始したのでした。


1081年には、
ノルマン人のロベール・ギスカールが、

イタリアよりアドリア海を渡って、バルカン半島に上陸し
コンスタンティノープルを目指して侵入してきました。

この1081年~1085年にかけての
ビザンツ帝国とノルマン人との戦いに際して、

ビザンツ帝国は、
ヴェネツィアと同盟して戦ったのです。


ヴェネツィアにとっても、
ロベール・ギスカールは敵でした。

アドリア海の支配を維持するためには、
アドリア海の出口の両岸を ロベール・ギスカールに奪われるわけには
いかなかったのです。



翌年の 1082年5月
ビザンツ帝国を援助したヴェネツィアは、

皇帝 アレクシオス1世の金印勅書により
例を見ない優遇措置をビザンツ帝国より獲得しました。


 1.ビザンツ帝国内で、何処ででも、
   あらゆる商品を、自由に無税で取引する権利

   → ヴェネツィア商人は、
     帝国内で無制限の自由貿易の権利 と 関税の免除 を 得たのでした。


 2.コンスタンティノープル市内に、

   幾つかの仕事場 と
   ガラタに渡る 3カ所の船着き場が、与えられました。

   → 即ち、
     コンスタンティノープルの金角湾沿いに、

     治外法権のヴェネツィア人の居住区と
     ヴェネツィア船専用の船着き場 を

     獲得したのです。


この優遇措置は、

それだけ ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアの海軍力を必要としていた証(あかし)ですが、

それにしても与えすぎでした。


ヴェネツィア商人は、

ビザンツ商人より優遇されて、
ヴェネツィアの植民地拡大の基盤が築かれたのですが、

他方、
ビザンツ帝国の商業体制に深い亀裂が入ったのでした。


これ以降、
既得権を維持しようとするヴェネツィアに対して、

ヴェネツィアの既得権を減らそうとするビザンツ皇帝や、
ヴェネツィアに対する ビザンツ商人や市民 の 反感による軋轢 が、

約120年間くすぶり続けて、

1204年の
第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃の結末をもたらしたのでした。


先ず、1111年に、

ビザンツ帝国は、
ピサに通商上の特権を与えて、ヴェネツィアを牽制しています。


更に、
1118年に 即位した ビザンツ皇帝 ヨハネス2世は、

ヴェネツィアを、
36年前の1082年の条約で獲得した地位から締めだそううとしましたが、

ヴェネツィア艦隊に
エーゲ海のビザンツ領の島々を攻撃されて、条約改定に失敗し、


1026年に

1082年条約のヴェネツィアの特権を、
100%認めざるを得ませんでした。



1082年より約70年後の 1155年に
一大転機が訪れました。

ビザンツ皇帝 マヌエル1世が、
南イタリアの征服するために、アンコーナに艦隊を派遣したのです。


同じ年(1155年)に
マヌエル1世は、

1111年にピサに与えたのと同じような通商上の特権を、
ヴェネツィアの最大のライバル ジェノヴァに与えています。



オストロゴルスキーは、
「ビザンツ帝国史」で、

 1.一時的に、バルカンの状態が旧に復した

   即ち、
   ハンガリーとの戦闘も静まり、

   キエフの王座に
   ビザンツの同盟者 ユーリー・ドルゴルーキーが即位したことと


 2.ノルマン・シチリア王 ロジェール2世が、
   前年の1154年に没したために

   イタリア攻撃を決意した
   と、記述されておられます。



これに加えて、
次の事情も、マヌエル1世が 遠征の好機と考えた理由と思われます。


 1.前年(1154年)の秋

   神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭)が
   第1回目のイタリア遠征を開始し、

   北イタリアのピアチェンツァの北のロンカール平原で
   帝国会議を開催した後、

   その後長く続く ロンバルディア諸都市の盟主 ミラノとの対立、諍いを
   開始しています。


 2.また、1155年の春

   ロジェール2世を継いだ ノルマン・シチリア王 ヴィルヘルム1世
   (ギョーム、グリエルモ)が、

   フリードリヒ1世がローマに到着する前に、
   教皇との和平を結べると考えて、

   教皇領に侵入して攻撃を始めています。



ビザンツ帝国は、

ノルマン・シチリア王の教皇領の侵入の空隙をついて、
アプリエンに侵攻して、

バーリ、トラーニなどの都市を占領しました。


このため、
ノルマン・シチリア王は、

教皇領で奪ったものを 教皇に返還し、
教皇 と 和解をして、

ビザンツ帝国に対抗せざるを得ませんでした。


マヌエル1世 と シチリア・ノルマン王との争いは、
1155年から3年間続きましたが、

1158年に、
マヌエル1世がシチリア・ノルマン王と和平を締結して、

イタリアへの侵略を断念して撤退しました。

ただ、
1157年頃取得したアンコナは、

ビザンツ帝国がその後も支配を継続しました。


今回のビザンツ帝国の南イタリア征服に対して、

ヴェネツィアが、
どの様な対応を取ったか、勉強不足のせいか、よく分かりません。


しかし、

ヴェネツィアが、
ビザンツ帝国を宗主と認めたのは、

名目的に認めることにより、
コンスタンティノープルなどビザンツ帝国内での通商を
有利に行うためだったのでしょうから、


ビザンツ帝国が
アドリア海に姿を現して、勢威を振るうようになると、

ヴェネツィアとビザンツ帝国が衝突するようになるのは、
時間の問題でした。



神聖ローマ帝国皇帝 フリードリヒ1世は、

1166年秋に
第4回目のイタリア遠征を開始していますが、


1167年早春には、
自ら軍を率いて エミリア街道をアンコナまで進軍して、

ビザンツ帝国が支配するアンコーナの攻略を開始しました。


この時、
ヴェネツィアは、

ビザンツ帝国が、イタリアに拠点を築くことに 危機感を持って、
マヌエル1世に背を向け、

マヌエル1世の船を提供する要請を拒否しています。


こうしてヴェネツィアは、

1082年獲得した
ヴェネツィア人の商業特権を維持するために必要だった
ビザンツ皇帝への義務 を 破ったのです。


マヌエル1世は、
同じ1167年に、

ハンガリーが支配していた
ダルマチア、クロアチア、ボスニア、シルミウム地方を
武力制圧しています。


ビザンツ帝国が、
ダルマチア沿岸地方を支配することは、

アドリア海の盟主であるヴェネツィアにとり、
危機的な状況でした。


ヴェネツィアは、

ダルマチア沿岸地方の主要な都市を押さえて、
船の物資や船員を補給していましたが、

都市の後背地が宗主であるビザンツ帝国が支配するとなると、
従来のようなスムーズな補給が不安となったのでした。


1168年には、
ヴェネツィア の ドージェ(元首) ヴィターレ・ミキエレが、

マヌエル1世が、
ヴェネツィアの特権継続を渋ったための対抗措置として、

全ヴェネツィア人に、
コンスタンティノープルでの交易を禁止しています。


2年後の1170年に、
ヴェネツィアとビザンツ帝国との和解が成立して、

コンスタンティノープルに、
ヴェネツィア人が見え始めたのですが、

その翌年の1171年 3月12日に、
コンスタンティノープルで

反ヴェネツィアの外国人排斥暴動が勃発しました。


この暴動は、

今まで貯まってきたビザンツ人(ギリシア人)の
反ヴェネツィア感情 が 爆発したものですが、

オストロゴルスキーは、

3月12日の一日で
ビザンツ帝国のヴェネツィア人全員(1万人)が逮捕され、

財産、船舶、商品が没収されたのは、
ビザンツ帝国政府の行政機構が確実に機能して、

事前に徹底的に準備していたことを証拠立てるものだ
と、記述して、

この暴動は、
マヌエル1世の煽動により生じたものだと断定しています。


1171年3月12日の暴動後、

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と国交を断絶しています。


国交断絶は、10年以上続き、
アンドロニコス1世帝(在位1183~1185)の治世に
漸く回復したのでした。

国交断絶期間中
ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の敵として行動しています。

例えば、

1174年春から10月にかけての半年間
皇帝 フリードリヒ1世の特使 マインツ大司教 クリスチャン1世が、

ヴェネツィアと同盟して
アンコーナを攻囲しています。


ヴェネツィアは、

マヌエル1世に、
アドリア海制覇を奪われる危険性の方が、

ドイツに脅かされる危険性より大きいと判断して、

フリードリヒ1世と同盟し、
海からアンコーナを攻撃したのでした。


また、1177年

ヴェネツィア ドージェ(元首)サバスティアーノ・ツィアニが
教皇とフリードリヒ1世の争いを調停し、

1159年から18年間続いた教会分裂を終了させる
ヴェネツィア条約を締結させています。


この1177年、
マヌエル1世は、ヴェネツィアに対して戦争を開始し、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人数千人を逮捕し、
財産と船舶を没収しています。


この時
ヴェネツィアが派遣した艦隊は、ビザンツ帝国に敗北しましたが、

その後、ヴェネツィアが、

ザーラとスパラートに 海軍を置くとともに、
シチリア王国と同盟を結んで 体勢を立て直すと、

ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアに恐れをなして 平静を保つようになりました。



1180年9月24日
ビザンツ皇帝 マヌエル1世が没しました。

  マヌエル1世 在位 1143~1180 37年間


息子のアレクシオス2世が 即位し、
母のマリー・ダンティオッシュが摂政となりましたが、

    注 マリー・ダンティオッシュ は、
       十字軍国家 アンティオキア公国 ボエモン3世の娘です。


マリーのラテン人優遇策が、
ビザンツ国民のヨーロッパ人への敵愾心を増大させ、

イタリア商人とヨーロッパ人傭兵が、
彼らの憎しみの的となりました。


1182年5月
コンスタンティノープルの
反ラテン(反ヴェネツィア)外国人排斥暴動を利用して、

マヌエル1世の従兄弟 アンドロニクス1世が、
コンスタンティノープルに乗り込み、

9月には
共治帝の即位し、

11月には
アレクシオス2世をベットで絞殺して単独の皇帝となったのです。


3年後の1185年6月
シチリア王 ギョーム2世が、

アドリア海東岸のディラヒオンに上陸して、
ビザンツ帝国への侵攻を開始しました。


8月24日には、

セサロニキ(テサロニキ)を陥落させて、
コンスタンティノープルを目指して進軍しています。


アンドロニクス1世は、

シチリア王の遠征に対処するために、
ヴェネツィアと条約を締結したのですが、


条約締結後、
コンスタンティノープルに 再びヴェネツィア人が現れるようになると、

アンドロニクス1世の人気が真っ逆さまに急落してしまい、
コンスタンティノープルで貴族が反乱、決起する事態となりました。


そして、9月12日
イサキウス・アンゲロス(イサーク2世)が皇帝宣言して、

アンドロニコス1世は、
黒海に逃れようとして市民につかまり、リンチにより殺害されたのです。


こうして、
コムネノス朝が滅亡して、アンゲロス朝が始まったのです。


又、この事件で、
ビザンツ帝国の反ラテン感情が残り、

それが第4回十字軍の背景となったのでした。



1195年4月

イサーク2世は、
弟 アレクシオス3世に廃位されて、目を潰されて幽閉されました。


翌年(1196年)

イサーク2世の娘 イレーネは、
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップと結婚しています。


フィリップとイレーネの結婚後、
フィリップの兄 皇帝ハインリヒ6世が、

ビザンツ帝国に
1194年頃した要求と同じ脅迫的な要求をして、
金16ケンテーナーリウムの支払いを、
ビザンツ帝国に承諾させています。


皇帝 ハインリヒ6世は、

1185年
ビザンツ帝国を侵略したシチリア王の後継者でもあったのです。


アレクシオス3世は、
ドイツ税を新設だけでは支払いきれないため、

コンスタンティノープルの諸聖使徒聖堂の皇室の墓から
貴金属装飾を剥ぎ取らねばなりませんでした。

このドイツ税は、
ビザンツ帝国の人々の反ラテン感情を 更に悪化させたのでした。


ハインリヒ6世は、
脅迫的要求による法外な支払いだけに満足せず、

1197年
シチリア島 メッシーナ に大艦隊を準備して、

ビザンツ帝国征服に出発しようとしているときの9月に
病没したのです。

(ビザンツ帝国は、
 ハインリヒ6世の死により ドイツ税の支払いを免れました。)


この頃、
ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に
色々な理由から 攻撃されるべき存在と見られていました。


 1.商業上の競争相手
 2.ビザンツ帝国の 西欧人攻撃の 生々しい記憶

 3.シリアとパレスティナでの キリスト教徒の弱体化
 4.東西教会の分裂

 5.ビザンツ帝国のとみに対する羨望
 6.コンスタンティノープルにある 聖遺物


今まで述べたような経緯を踏まえて、第4回十字軍があるのです。


歴史の本を読むと、
今まで述べたような事件が、それぞればらばらに記述されています。

これらを一つの流れとして再構成しないと、歴史の理解が難しいと思い、
拙いお話しをさせて頂きました。


ヴェネツィア史は、

我々が世界史で学んだ西ヨーロッパ側から見るだけでは、
歴史上の出来事の意味を理解するためには 不充分であり、

西ヨーロッパ と ビザンツ帝国 の 両方の視点から
歴史を理解する努力が必要だろう と 思います。


マクニールの「ヴェネツィア」(岩波書店)は、
この両者に加えてスラブ、ロシアを含めた相互連関を記述した名著であり、
ご興味ある方に是非とも一読をお勧めしたい本です。



次回は、

この後生じた第4回十字軍について、
考えていることをご説明させて頂きます。


ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html




ヴェネツィア史 関連ブログ



ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html

539年 フランク ヴェネツィアを占領
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d303.html

ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html

 

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2011年8月16日 (火)

ちょっと変わった 第4回十字軍論

第4回十字軍は、
十字軍の中でも「最もおぞましい十字軍」である、と、

高校の世界史で学んで以来、
約30年間、そのように思い込んできました。

ところが、
40代後半よりヨーロッパ史の本を読むようになってから、

「おぞましい十字軍」との評価は、
カトリックを中心とする 一つのイデオロギーからの
一方的な評価であり、

もっと客観的で冷静は評価をせねばならないのでは、
と、思うようになりました。

勿論、
コンスタンティノープルでの掠奪は、

当時の戦争には つきもの だとしても、
感心するものではありませんし、

ましてや、
他人の国である ビザンチン帝国を占領したことは、
許されることではないでしょう。

でも、
最近までの(本質的には現在でも)歴史 は、
弱肉強食の論理が支配していて、

弱みをみせたら、
つけ入れられるのが当たり前だったのです。

第4回十字軍のビザンツ帝国の征服 と
オスマントルコのビザンツ帝国の征服 は、

本質的に
同じような性質のものではないでしょうか。

一つの立場より 歴史につきものの悪を、

あるものは非難し、
あるものを是認するというのは、

公平でも、客観的でもないような気がしています。

その意味で、
第4回十字軍を巡る環境について、

あまり歴史の本では記述されていない
いくつか視点をお話しさせて頂き、ご参考に供したい
と、思います。


第1の視点

第4回十字軍は、
ヴェネツィアとビザンツ帝国とのそれまでの歴史の総決算
ともいうべき事件でした。


ヴェネツィアの立場からすると、

ビザンツ帝国は、
困ったときには、美味しい話で協力を依頼するくせに、

それが過ぎると、
約束を反故にするだけでなく、

ヴェネツィアの生命線である
アドリア海やイタリア本土 を 侵略したり、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人 を
虐殺しているのです。

ですから、
ヴェネツィアにとって 第4回十字軍は、

我慢に我慢を重ねた結果、
乾坤一擲の反撃に出た と、いうことなのだろうと思います。

この点については、
「ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係の略史を
簡単にご説明させて頂きましたので、

ご覧いただければ幸いです。

  ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる


第2の視点

神聖ローマ皇帝が、承認した攻撃である点


ビザンツ帝国の内紛の一方の当事者を支援する神聖ローマ皇帝
(と、当時の人が考えていたドイツ王 フィリップ)が、

支援し、承認した コンスタンティノープル攻撃であり、

それが、
ビザンツ帝国の征服になったのは、

援助を受けて返り咲いたビザンツ皇帝が、
約束を全く守らなかったためです。

注) この記述は、
   第4回十字軍を正当化しているわけではありません。

   単に、
   2段階に分かれていた事実を、記述しただけです。


ビザンツ帝国の第4回十字軍を導いた内紛は、

1195年4月 イサーク2世が、弟 アレクシオス3世に、
廃位されて、目を潰され、幽閉されたことにより始まりました。

イサーク2世の娘 イレーネは、

1196年に
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップ
と、結婚しています。


イサーク2世の息子 アレクシオスが、
姉のイレーネを頼って、フィリップの許に身を寄せ、

1202年12月に アレクシオスが、
ザーラの第4回十字軍の陣営に赴いて、
コンスタンティノープル攻撃を依頼したことから、

第4回十字軍が、

エジプトではなく、
コンスタンティノープルに向かうことになりました。

このことに関して、

通常の歴史の本に書いていないけど、
見落としてはいけないと感じられるのは、

ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップ を、
当時の人々は、

神聖ローマ皇帝 乃至、もうすぐ皇帝になる人物で、
ローマ教皇に匹敵する人物である と、

考えられていたのであろう と、思われることです。


ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップは、

皇帝 ハインリヒ6世の弟で、

1197年9月 メッシナで 兄 ハインリヒ6世が 没したとき、

甥のフリードリヒ2世(ハインリヒ6世の長男、3才)を
ドイツで 即位させるために、イエージに迎えに行く途中、
ヴィテルボに滞在していましたが、

ドイツで フィリップへの反乱が勃発したので、
危険と追っ手を逃れて
1197年 年末 に ドイツに帰国しました。

1198年3月(ハインリヒ6世の没してから半年後)
ミュールハウゼンでドイツ王に選出されています。

このフィリップに反対したのが、
ローマ教皇イノセント3世やケルン大司教で、

彼らが、
オットー4世を擁立したのですが、
ドイツ国内では、フィリップ支持派が大勢を占めていました。

この争いは、

1204年11月 ケルン大司教が、フィリップと和解して、
オットー4世が見捨てられたことにより
ドイツ国内的には決着したのですが、

ローマ教皇イノセント3世は、
依然として フィリップ の 皇帝即位 を 認めませんでした。

1208年
フィリップは、教皇の反対のため、皇帝に即位できない状況の中、
アルテンブルクで、ヴィッテルスバッハ帝領伯オットーに殺害され、

局面が大転換して、
オットー4世が皇帝の即位したのでした。

ですから、
1202年12月に
フィリップが、妻の弟アレクシオスの依頼を聞いて欲しい、
との意向だったと聞いた、第4回十字軍の幹部連中は、

皇帝(になるだろう人物)からの依頼と受け取ったのだろうと考えるのが、
穏当なところではないでしょうか。

当時皇帝は、
シュタウフェン家のものであり、
シュタウフェン家が ローマ教皇と対立していたことも、
当時の人々には周知のことだったのです。

勿論、一般に言われているように
第4回十字軍が資金が無かったので、
アレクシオスの美味しい話に乗らざるを得なかったことが、
一番大きな要因だと思いますが、

同時に、
フィリップのお墨付きのある攻撃だ、ということは、
ローマ教皇が大反対している状況では、
第4回十字軍の参加者に 心の安らぎ を 与えたのではないでしょうか。


第4回十字軍のレールを切り替えたことに関しては、
総大将が、途中で変わったことも、大きな要因だと思います。

第4回十字軍の総大将は、
最初はフランスのシャンパーニュ伯ティボー3世でしたが、

1201年に ティボー3世 が 没した後、
フィリップの臣下である イタリアのモンフェラート候ボニファチオが、
ソアソン(北フランス)で 後任の総大将に選出され、

ボニファチオは、
その足で フィリップの許を尋ねています。

多分、ドイツで、
フィリップよりコンスタンティノープルを攻撃するよう依頼され、

アレクシオス が、ザーラに赴いてきたとき、
コンスタンティノープル攻撃に意見集約するよう動いたのだろう
と、推測されているようです。


第3の視点
皇帝はじめ、南イタリアの君主は、
ビザンツ帝国を征服することを、常に考えていた。

この点については、

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

 1.ロベール・ギスカールが、ビザンツ帝国を攻撃したこと
 2.皇帝 ハインリヒ6世が、ビザンツ帝国の攻撃直前に亡くなったこと

 3.当時、ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に 色々な理由から
   攻撃されるべき存在と見られていたこと

と、お話しさせて頂きました。

第4回十字軍以後でも、
イタリアから シュタウフェン家 を 駆逐した
シチリア王 シャルル・ダンジュー(フランス王 ルイ9世 の 末弟)も、
ビザンツ帝国を 攻撃しようとしていました。

ところが、
1282年4月の第1週 に、
ビザンツ帝国攻撃するために出帆しようとしていた、
その直前の3月30日に
シチリア晩祷の乱が勃発して、
シャルル・ダンジューが、シチリア島から逆に駆逐されてしまったのです。

この乱は、
シュタウフェン家の遺臣プロチダとビザンツ皇帝ミカエル8世が、
提携して、周到に計画した蜂起である、と記述する歴史家もいます。

この様に、
ビザンツ帝国は、南イタリアに食指をのばし、
南イタリアの支配者は、逆にビザンツ帝国を攻撃しようとしてきたのが、
12世紀から13世紀にかけてのビザンツ帝国を巡る政治情勢なのです。

この中で、
第4回十字軍も位置付けられるべきでは、
と、感じられるのですが、

ヨーロッパの歴史家にとっては、
当たり前のことなのか、それとも、タブーなのか、
あまり言及はありません。


歴史の本を読むことは、
その記述を理解して、
「知らなかったことを知ること」が 大いなる楽しみですが、

その記述を読んで、
「自分なりに熟考すること」も、歴史の醍醐味の一つだと思っています。

歴史の記述は、著者の価値観の反映であり、
記述されている歴史を、別の価値観で見ると、
別の姿が見えることが多々あります。

特に、ヨーロッパ史は、
1000年以上にわたってキリスト教の価値観に基づいて
記述されてきていますので、

ヨーロッパの歴史家は、
無意識のうちに、キリスト教、就中 カトリックの価値観に基づいて
歴史を見ています。

そして、
ヨーロッパに留学した日本の歴史学者、
更には、
彼らから歴史を学んだ我々も、

彼らの歴史の見方を、当然のこと、当たり前のこと と、
無意識のうちに アプリオリに 受け入れているのです。

従って、
彼らや、日本人の歴史家が、記述した ヨーロッパ史 を 読む際には、

そのことを意識して、
その記述を、冷静に、客観的に、その論理を考えてみることが、
歴史を学ぶ際に、非常に大切で、意義のあることだろう
と、思っています。

また、
当事者のヨーロッパ人でない 第三者からの歴史解釈 を 提示することが、
彼らに染みついたキリスト教の見方では 当たり前 と されていることを、
「ちっと違うのでは」と、指摘することが、
日本人の歴史学者に、最も求められていることだろうと、思います。

今回は、
通常の歴史記述と大分異なった、
人によっては脱線しすぎだろう と 思われるようなこと を、
書かせて頂きましたが、

読まれた方の中に、
第4回十字軍についての何かのヒントとなるものが、芽生えられて、
議論が誘発されたらな、と、願っています。

突拍子もないともとられかねないお話しを、
最後までお読み頂き、有り難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2011年5月13日 (金)

ユマニスム についての 友人との対話

先日、久しぶりに友人と歓談した際に、その友人から
「バートランド・ラッセルの「西洋哲学史」を読んでいる。」
とのお話しがありました。


帰宅後、
ラッセルの本を本箱から引き出して見てみると、

ユマニストのことを書いておられない感じがしたので、
次の様なメールをしました。


今日話題になったラッセルの「西洋哲学史」に、

ユマニスムがどの様に記述されているのか、
 

ちょっと気になってパラパラとページをめくってみたのですが
ちょっと見た範囲では、記述がされているところが 気がつきませんでした。

詳しくは、ちゃんと読まなければいけないと思いますが、
 
哲学史に書かれていないということについて、
「なるほどな」と得心してしまいました。


というのは、
今日お渡しした遅塚先生の著作についてのブログにも書いてありますが、

ユマニストとは、
「思想(哲学)」ではなく、「精神的態度」なのです。


    遅塚忠躬著「フランス革命を生きた「テロリスト」」



どんな思想の持ち主でも、
又、その人が どの様な思想を持っているか を 問わずに、

ただ、
価値の多様性を認識し、許容して、
一つの価値観に凝り固まっている人に対して、

「それはちょっとおかしいのではないでしょうか」
と、常に問いかける人であれば、ユマニストと言えるのです。


ですから、
哲学史のように、思想を紹介する本には、
対象とならなかったのだろうと思いますが、

「ラッセルともあろう方が、ちょっとどうでしょうかね」
と、言いたくもなります。


ユマニスムが、大切だと思うのは、
価値観の多様性を許容する人が増えることにより、
社会の物の考え方が変わっていくことです。


遅塚先生は、
ロベスピエールの提唱した生存権が、
20世紀半ばに実現した と 書いておられますが、

何故実現したかを考えるときに、
このユマニスムが広まったからだろう と 思います。

(「ちょっとおかしいのでは、こうしたらよいのでは」
  と 言う人が増えたからだと思います。)


今日 お目にかかったときに
人文科学の分野では、「進歩」はないと申し上げました。

確かに、
「哲学」みたいな「思想」は、進歩というものは無いだろうと思いますが、

精神的態度である「価値の多様性」を 認める人の「割合が増える」ことにより、
社会の物の考え方 が 変化していくことを、

私は、
「積み重ね」と言いますが、
人によっては、
「進歩」と 言う人もおられるだろう と 思っています。


ユマニストについては、
多分 渡辺一夫先生の著作集 を 読まれるのが 一番だと思いますが、

取りあえずは、渡辺一夫先生の

「フランスユマニスムの成立」(岩波全書)とか
「フランス・ルネサンスの人々」(白水社)

を、お勧めします。


余計なことと思いますが、

カステリヨンが、
宗教戦争が始まるときに、祖国フランスへの遺言として書かれた
「悩めるフランスに勧めること」のノートを、添付させて頂きます。

この著作は、殆ど知られていないし、
私自身この文書をあると知ったとき、読むことは出来ないだろう
と、思っていたのですが、

渡辺一夫先生が手を回しておられて、
世界文学大系74「ルネサンス文学集」に、
お弟子さんの二宮敬先生に訳させておられたのでした。


このカステリヨンの祖国への遺言が、
ユマニスムの神髄を表していると、私は思っています。

読まれると、
「何だ当たり前のことを書いているだけではないか」
と、感じられると思います。

でも、
その「当たり前のこと」が 理解できずに、
血を血で洗う 宗教戦争 が フランスで起こったし、

その後、
30年戦争 や フランス革命、

更には
第1次大戦、第2次大戦などの
むごたらしい惨事が、歴史上繰り返されたのでした。


現在でも、
テロへの戦争と言って、繰り返されており、

決して カステリヨンが書かれた「当たり前のこと」を、
人類が完全にマスターして、卒業したということではない
と、思います。


ユマニスムは、
哲学(思想)ではありませんが、

人間の態度のあり方として
「こういうものも あるのだ」と、認識して頂ければ幸いです。



メールをすると
すぐに、次の様な返事を頂いたのですが、
その内容に、深く感心しましたので ご紹介させて頂きます。
(私信ですので、要旨だけをご紹介させて頂きます。)

ラッセルの西洋哲学史には、ユマニスムの記載がありません。
何が真か、何が善か、に関する
合理的な学問体系が哲学とすれば、
確かに、スタンス論であるユマニスムは
取り上げなかったのかもしれません。
ご指摘のように、「当たり前のこと」が大切です。
言い方をかえれば、
「当たり前のこと」が、「物事の本質」なのかもしれません。
哲学って、結局
「当たり前のこと」を、どのように説明するのか、実現するのか
と、いうことであり、
その学問体系が
修辞学や論理学、文法などのリベラルアーツということになる
と、考えています。



< 補 足 > 2012年 正月元旦(1月1日) 記述

  上記の次の文章は、
言葉足らずの記述ですので、
  補足説明をさせていただきます。


  「どんな思想の持ち主でも、
   又、その人が どの様な思想を持っているか を 問わずに、

   ただ、
   価値の多様性を認識し、許容して、

   一つの価値観に凝り固まっている人に対して、

   「それはちょっとおかしいのではないでしょうか」
   と、常に問いかける人であれば、ユマニストと言えるのです。」
 
 


  ここに書いてあるユマニストの定義は、
  私が歴史上のユマニストから抽出した「定義(理念型)」であり、

  渡辺一夫先生が記述されておられる
  歴史上のユマニストとは異なっています。


  渡辺先生は、ユマニストは、
  「Quid haec ad Christum?(それが キリストと何の関係があるのか?)」
  と、呟いただけだけど、
  その呟きは、
  その後の歴史にとって、非常に重要であり、大切であった
  と、記述されておられます。


  < 渡辺先生の記述 >
    「旧教会の人々から 異端者呼ばわり された 新教徒 も、
    今度は 自分たちが 異端者を製造せざるを得なくなっているのである。
    この1553年前後は、
    ユマニスムの息の根が絶えてしまったかのように思われた時期だった。
    しかし、
    Quid haec ad Christum? という問いは、
    依然として、例えば、カステリヨンの口から呟かれていたのである。


    ユマニスムの息の根が、絶やされ 没落したのでも 何でもない。

    ただ、
    ユマニスムの勧めに従っていては 都合の悪いことの多い
    相対する両派の人々の狂信と集団的暴力とが、
    わが世の春を謡っていただけの話である。


    ユマニスムは、

    狂信と暴力に対して批判はし得るが、
    暴力を相手に格闘はできないのである。

    格闘すれば、ユマニスムの死しかない。
    ユマニスムには、ただ隠忍するだけの道しかない」


    < 出 所 >
      渡辺一夫著作集5 ルネサンス雑考 下巻 323㌻(筑摩書房)
      渡辺一夫著「フランス・ユマニスムの成立 151㌻(岩波書店、岩波全書)



  言葉足らずである、と申し上げたのは、
  カステリヨンを始めとする「ユマニスト」は、
  「多様な価値観」に基づいて発言したのではなく、
  当時のカトリックやカルヴァン派が、「キリストの教え」から外れている
  と、呟いているということです。


  言いかえると、

  「キリストの教え」という「単一の価値観」に基づいて
  カトリックやカルヴァン派を批判しているのであって、
  決して「多様な価値観」を認めて、
  それに基づいて批判しているのではないのです。
  ヨーロッパ人が、
  「単一の価値観」に基づいているということについて
  正面からの議論は、寡聞にして聞いたことはありませんが、
  ヨーロッパを考える際の出発点となる重要な認識の一つであろう
  と、思います。


  私には、この点こそが、
  ヨーロッパ人の意識の最も深いところにあるエートスの一つであるように
  感じられます。


  勿論、
  「単一の価値観」に基づいたからといって、

  私が尊敬するカステリヨンのように、
  一見「多様な価値観」に基づいているような議論は可能ですし、
  19世紀、20世紀と時を経るに従って、
  ユマニストの考え方が広まり、共有されるようになってきていますので、
  ユマニスムの果たした功績は、
  いくら評価しても評価しすぎであることはないと思います。
  しかしながら、

  「単一の価値観」に基づいたヨーロッパが、世界制覇したことが、
  (自分以外の価値観を認めないヨーロッパが、)
 
  21世紀になっても 争いが根絶できない一つの原因だろう
  と、思われますので、

  「単一の価値観」に基づいたヨーロッパ論についての議論を深めれば
  大変得るところが大であろう思われます。
  別の言い方をすると、
  もし、争いが利害得失だけの争いであれば、
  困難ではあっても、利害の調整は可能であり
  争いは 回避できるのではないでしょうか。
  利害調整できず、
  未だに争いが回避できず頻発していることの一つの要因として、

  「自分の価値観」が、
  神が保証する「絶対的な正義」であるとの立場に立つ

  欧米人の築いた文明が
  世界を支配していることに あるのではないだろうか と 思われます。
  このことに気がついているヨーロッパ人が、
  どれだけおられるのか、疑問に感じています。
  キリスト教が染みついたヨーロッパ人にとっては、
  多分 彼らの「偏狭性」に対する私のような指摘は、

  自ら 気がつきづらい事柄の一つではないだろうか、
  と、想像しています。


  日本人は、
  ヨーロッパを岡目八目で見ることの出来る立場であるに加えて、

  古来から「八百万の神々」が存在してきた、

  言いかえると、
  「多様な価値観」を理解してきた
  多分 数少ないの民族の一つだったのだろうと思います。
  勿論、日本人もそれほど立派なではなく、

  人間の弱さ故に、
  「多様な価値観」よりも 自分の利害得失の方を
  優先する人が大半だったのですが、
  それでも、
  キリスト教を当然の前提とするヨーロッパ人とは、
  相当距離を有しております。


  従って、
  「人類が、「多様な価値観」を
   相互に承認し、共有できるようになるためには、どうすればよいのか」
  についての提言を、
  これからの日本を担う若い方が、まとめていただいて
  欧米を始め、世界に発信下さり、
  世界の平和を実現する一翼を担っていただけることを
  祈念しています。

< 補足の追記 > 2012年3月6日 記述


  カステリヨンが、

  「多様な価値観」に基づいて
  カトリックやカルヴァン派を批判したように見えたのは、
  「キリスト教の特質 も あったのかな」と、思うようになりました。
  秦先生の聖書シリーズの本を読んでいて感じたことは、

  キリスト教の神は、
  表と裏の「2つの顔」を持っているということです。


  「表の顔」は、
  カステリヨンが拠った「イエス・キリスト」であり、

  「裏の顔」は、
  「旧約聖書の神」即ち「ユダヤ教の神」です。


  旧約聖書の神は、

  殺人犯のモーセの親分であり、
  神自身が大量の殺人者である「とんでもない神」なのですが、

  この2つの神を、「三位一体」としたことが、
  キリスト教の根本的な欠陥だろうと思います。


  カステリヨンは、

  「イエス・キリスト」の教えに従って、
  カトリックやカルヴァン派を批判し、改善を求めましたが、

  「旧約聖書の神」を否定はしていませんでした。


  カトリックやカルヴァン派は、
  「旧約聖書の神」に従って、殺戮を繰り返していたのですが、

  カステリヨンは、
  内心批判的であっただろうと推察はしていますが、
  「旧約聖書の神」を否定することをしていません。


  ですから、
  この「神の二面性」に着目せずに、カステリヨンの文書を読むと、

  カステリヨンが、
  いかにも「多様な価値観」があることを前提にして、
  カトリックやカルヴァン派を批判しているように
  読めるのだろうと思います。
  いずれにせよ、

  ヨーロッパ人がキリスト教の教えに従って、
  「自分の価値観が正しく、他の価値観は抹殺すべきだ」との
  「単一価値観」を持つに至ったこと


  及び 

  神が二面性((二つの価値観)を持っていて、
 
  ① ヨーロッパ人が、その時々において、都合の良い方を使い分けることと

  ② 一方の神が、
    殺戮を自ら陣頭指揮し、殺人を正当化、奨励する神であることが、
  「人類の不幸の一つである」と言っても過言ではないと感じています。


   (注) 「神の二面性」について 

       「秦剛平先生 の 聖書シリーズ」のブログの内
       次のブログを参照頂ければ 幸いです。


    第2回 旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html

    第3回(今回) 旧約聖書の神が、キリスト教にもたらしたもの
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-cb42.html

    第4回 「歴史のイエス」 と 「信仰のキリスト」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-de7f.html

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2011年5月 2日 (月)

遅塚忠躬著「フランス革命を生きた「テロリスト」」

遅塚忠躬著
「フランス革命を生きた「テロリスト」」(NHK出版)


          **********


昨年(2010年)11月13日に亡くなられた
遅塚先生の遺作が出版されたと知り、
早速購入して、読ませていただきました。

本書は、
遅塚先生の未完成交響曲
或いは、
建設途中で中断された壮大な大聖堂
と いうべき作品だろうと思います。

 

この機会に、
懸案となっていた先生の「フランス革命」(岩波ジュニア新書)と
本書のノートを作成することにし、作業を始めたのですが、
4月いっぱいかかってしまいました。

おかげさまで、
フランス革命についての先生のお考えの骨格が
きっちり認識できることが出来ました。


本書の最初に、「はしがき」が記述されていますが、
普通の「はしがき」である本書を執筆した経緯や動機にプラスして、
遅塚史学のエッセンス、本質が、簡潔に記述されています。

多分、
本書の直前に書かれた「史学概論」の核心部分をお書きいただいたのだろう
と、思いいますので、
「史学概論」も、早い時期に読ませていただこうと思っています。

次に、
「序論」がありますが、
ここでは、
テロリズムの略史が簡潔に書かれておられます。

これを読むと、
本書の題名の中で、先生が わざわざ 括弧付きで「テロリスト」と
記述された意味が理解できます。

括弧付きにされたのは、
本書の主人公 ルカルパンティエ は、通常の「暗殺者、刺客」ではなく、
「恐怖政治を遂行する者」との テロリストの本来の語源を体した人物であった
と、おっしゃりたかったのだな、と得心されます。

その後、
農民層出身の革命家「ルカルパンティエ」の一生が記述されていますが、

「はしがき」、「序論」の重厚なの門構えからして、
多分 ルカルパンティエの伝記は、
大作の中の何分かの1の部分だと思われます。

遅塚先生は、2002年頃から
「フランス革命を生きた男たちーー革命的テロリズムの意味を問う」と題した
出版構想を描かれていたそうで、

それがどの様な構想をお持ちだったのか、私には窺い知れませんが、
編者の岩本裕子さんは、
その出版構想の一部を構成したであろう「2つの付論」をつけて下さっています。

この付論は、
シューベルトの未完成交響曲の第3楽章のはじめみたいなもので、
先生の本書の構想全てを明らかにしているものではなく、
多分 更に 色々書かれる予定だったのだろうと思われますが、

岩本さんのご尽力により、
先生の意図されておられたであろうことの一端を ご教示いただき
感謝しております。

付論1. ルソー、ロベスピエール、テロルとフランス革命
付論2. ポワシ・ダングラースーーフランス革命期のあるプロテスタントの生き方

付論1.は、
フランス革命200年を記念して、札幌日仏協会が
1989年~1994年に毎年1回シンポジウムを開催した際の
1993年に 1793年について担当された遅塚先生の講演録です。

このシンポジウムの講演録は、
勁草書房より「フランス革命の光と闇」と題して出版されています。

付論2.は、
2000年秋に 東北学院大学キリスト教文化研究所 での講演録で、
この講演を「研究所紀要」論文とする際に、大幅に加筆されたそうです。


遅塚先生は、
「フランス革命」(岩波ジュニア新書)において、

「(当時 貴族、ブルジョワ、大衆(都市の貧民と農民)が
 フランスを構成していたが)、

 フランス革命は、
 ブルジョワだけの利害に適合した社会、
 即ち
 資本主義の発展に適合した社会をもたらしたという意味で、
 その基本的性格は、ブルジョワ革命 と 言って良い」
と、述べておられます。

(遅塚忠躬「フランス革命」93㌻)

フランス革命の経緯を見ても、
「ブルジョワが中心となって担った革命だ」
と、言うことが出来るだろうと思います。


遅塚先生の記述を要約すると、
おおよそ次の通りになるのだろうと思います。

第1期
1789年の革命後、
ブルジョワが、自由主義貴族と共に、大衆を切り捨てて、
91年体制を確立しました。

しかし、
貴族の反乱や、外国からの戦争、
更には、
ルイ16世の逃亡による王家への信頼失墜などにより、
大衆の力を借りなければ、フランスの存亡がはかれなくなりました。

第2期
1792年8月10日の蜂起(第2の革命)により、共和制が成立し、
大衆との妥協を図ろうとした
ロベスピエール率いる ブルジョワのジャコバン派(国会内党派として 山岳派)が、
権力を掌握しました。

ところが、
ブルジョワと大衆の利害の対立の調整が不可能だったため、

ロベスピエールは、
自己の主張を貫徹するために、恐怖政治により

先ず、 
ブルジョワ自身の利害を追究する ジロンド派を、

次には、
山岳派の左派と右派を追放、処刑したのでしたのでしたが、

支持基盤が少数となり、
1794年7月のテミドールのクーデターにより、失脚処刑されたのでした。

第3期
テミドールのクーデター後は、
ブルジョワが、ブルジョワだけの総裁政府を成立させました。

ブルジョワは、
貴族や大衆の左右からの攻撃に対して、
あまりに弱体だったため、軍隊に頼らざるを得なくなり、

最後は、
1799年ナポレオンのクーデターにより
フランス革命が終焉を迎えたのでした。


本書を読むと、
遅塚先生のフランス革命への思いは、1793年にあるように感じられます。

ロベスピエールの恐怖政治は、
多数の人間を処刑したとのマイナス面があるものの、

その後の人類にもたらした 何よりもの貴重なプラス面は、
マイナス面を補って価値があるもの と、感じておられるような気がします。


93年のプラス面とは、 

1.93年憲法で 政治的デモクラシーの原理を樹立したこと。

  即ち、
  ① 成人男子の普通選挙
  ② 直接民主制
  ③ 更には 国民の抵抗権をみとめたことです。

2.ブルジョワの自由主義経済、資本主義の発展を拒否して、
  社会的デモクラシーの実現を目指したこと。

  即ち、
  ① 私的独占、団結の禁止法
    (買い占めや談合による価格のつり上げに刑罰を課した)
  ② あらゆる領主的諸権利の完全無償破棄
    (アンシャン・レジームの打倒 を 完成させた)
  ③ ロベスピエールが、
    生存権(生きる権利)は、所有権より優越すると主張したこと

    注) 先生の著書「ロベスピエールとドリヴィエ」は、
       ③の経緯を記述されおられます。


しかも、
フランス革命の成果は、
フランス革命の時点で、全てもたらされたのではなく、

フランス革命が播いた種が、
100年後の第三共和制において 普通選挙が定着し、

20世紀半ばの第2次大戦後、
ロベスピエールが提唱した 「生存権の優位」 や
93年憲法に書き込まれた 「公的扶助の義務」が、
福祉国家の理想を示すものとして 賛同を得るようになった
(遅塚忠躬「フランス革命」128㌻)

と、記述されておられるのを重ね合わすと、

「だから、93年は、何物にも代え難い価値(プラス)があったのだ」
と、おっしゃりたかったのでは、と感じました


先生の93年への思い、
フランス革命への思い は、

「93年のフランス人は、自らの血を流して、後の世界に 大きなプラスを遺した」
 ((遅塚忠躬「フランス革命を生きたテロリスト」223㌻)
に、言い尽くされているのだろうと思います。



遅塚先生は、本書の「はしがき」において

「歴史学は、
 仮説としてのある解釈を提示して、
 読者の選択肢を豊富ならしめるということに尽きるであろう。

 (仮説提示者としての研究者は、
  同時に、他の研究者の提示する仮説の読者である。)

 歴史学という営みの目指すところは、
 読者が歴史について思索を巡らすための素材を提供することに尽きるであろう。

 本書において、
 革命的テロリズムに関する私(遅塚)の拙い解釈を提示するだけでなく、
 フランス革命を生きた男の姿の一端を描くことによって、
 読者の思索のためのささやかな素材を提供したい と、思っている」
 (遅塚忠躬「フランス革命を生きたテロリスト」29㌻)

と、記述されておられますので、

以下に、
先生の記述(仮説)に対する私の「率直な感想」を 述べることを
お許し下さるようお願い申し上げます。


まず最初に、

先生の記述を読んでいて、
大学に入った当時の疑問、不満を思い出しました。

当時授業を聞いていて、出てくる話は、
近代以降か、
唐突に ギリシア・ローマ(含むキリスト教)の 昔に飛んでしまい、

歴史的経緯からの視点
即ち
中世の話がなかったのです。

(歴史的経緯を述べるために、
 ギリシア・ローマに飛ぶことに 違和感を感じていました。)


私は、
ギリシア・ローマ(含むキリスト教)は、ヨーロッパ人とは別のオリジンで、

ヨーロッパ人は、
日本人が、
卑弥呼以来 中国文明を学びながら 歴史を積み重ねてきたのと同じように、

ギリシア・ローマ(含むキリスト教)の文明を 継受して、
徐々に自分のものにしながら 歴史を積み重ねてきたのだろう
と、考えています。

注) ギリシア・ローマとヨーロッパは別の話である については、
   私のホームページの幾つかの文章をお読み頂ければ幸いです。

   ヨーロッパ史の基礎視座
   http://chuuseishi.la.coocan.jp/030516.htm

   ガリアは、ローマ文明を灯し続けてきたのか?
   http://chuuseishi.la.coocan.jp/080215.htm 

   ピレンヌテーゼへの疑問
   http://chuuseishi.la.coocan.jp/010923.htm   


ですから、
フランス革命を含めて
近代、更には現代のヨーロッパ史の基礎、土台には、
中世以来連綿と積み重ねてきたヨーロッパ人のエートスみたいなものがあって、

そのエートスが、
先生のおっしゃる事件史や構造史を規定しているのだろうと感じられるのです。


遅塚先生は、そのような点を省いて、
フランス革命当時の歴史事象だけを記述されていますが、

表面上の歴史事象の根底にあるものを掴まなければ、
フランス革命の本質の理解は難しいのではないかな、
との疑問を持っています。

失礼を顧みず述べさせて頂くと、
先生の議論は、「建物の建て付け」について述べておられますが、
「その土台や基礎についての議論」が 省かれているような 気がするのです。


今日のヨーロッパをもたらした、
「彼らの根底にあるエートスとは、何か?」ということを、
私がヨーロッパ史を読む際の最大の目的としているのですが、

残念ながら
未だに 発見はおろか、その方法論は 勿論
何をどこから、どの様に手をつければ良いのか 分からずに 彷徨っています。

そのような暗中模索の中ですが、
遅塚先生の記述を読んでいて、「議論が必要ではないだろうか」と感じた点を、
2つばかりご紹介させて頂きます。


第1点は、

ロベスピエール も
ロベスピエールに対立する立場だった ル・シャプリエも、

共に
自己は、「一般的利害」を代表し、
相手は、「個別的利害」にこだわっているから、

自己の主張が正しいのだといって、「排除の論理」を展開した
と、記述されておられる点です。

(遅塚忠躬「フランス革命を生きたテロリスト」207㌻)


何故、彼らは
この様な唯我独尊の考え方をするようになったのでしょうか。

遅塚先生は、
利害の対立が激しくて、妥協の余地がなく、
自己の立場の正統性を振りかざして、相手を排除して押し切るしかなかったからだ
と、記述されています。

この認識は、全く正しいのだろうと思います。

でも、
何故立場を異にする2人が、全く同一の考え方をするようになったのでしょうか。

これを探究すれば、
「フランス革命を担った人々の根底にあるエートスみたいなもの を
 探ることが出来るのではないだろうか」と、いう気がしています。

私は、
「キリスト教の影響ではないだろうか」と、いう気がしています。

トマス・アクィナスの先生である アルベルトゥス・マグヌスは、

哲学は、
理性(厳密な論理的方法)によって、真理を探究するので、
誤りを犯すことがあるが、

神学は、
理性では把握することの出来ない
(間違いを犯すことのない)
啓示された真理を前提をして論述するので、
確実である(誤ることはない)

と、述べています。

    スコラ学者 アルベルトゥス・マグヌス の 哲学と神学の差
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_309f.html


また、ルターは、
「私の良心は、神の言に捕らえられている」と言っています。

    会田雄次、渡辺一夫、松田智雄著「ルネサンス」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-e411.html


アルベルトゥス・マグヌスは、
「神の啓示に従っているから、 自分の考えは正しいし、間違えることはない」

ルターも、
「神に捕らわれているから、
 (私を通して 神がお考えを述べておられるので)
 私が言うことは、他の誰よりも 正しい」

と、述べているのです。

自分が思い込んだ 神の啓示なり命令 が、
「絶対に正しい、間違いない」と、主張しているのです。

主観的な信念が、客観的な議論や検証もナシに、
気がついたら 突然 絶対的な真理となって現れ、

自己の真理に従わない 対立する宗派 に 対しては、
人殺しの論理にさえなったのです。

マグヌスやルターの論理から、神をなくせば、
ロベスピエールやル・シャプリエの論理に、すぐつながります。

ロベスピエールやル・シャプリエの論理は、
2人に限ったことではなく、ヨーロッパ人全般に通用する論理であり、

フランス革命だけでなく、
それ以前も、それ以後も 幾多の悲劇をもたらし、
現在ももたらしている論理ではないでしょうか。

この点について、
遅塚先生からご意見を伺えなかったことが残念です。


第2点目は、
遅塚先生が ユマニスム、ユマニストに関する言及がないように感じられることです。

ユマニスムとは、何でしょうか。

渡辺一夫先生の著述を読んで、私が理解したユマニストとは、

偏狭な狂信者 に対して、
「それが キリストと何の関係があるのか?」
(Quid haec ad Christum?)
と、問いかけ続ける、精神的態度です。

ユマニストは、
16世紀、偏狭なカトリック に対して 問いかける と共に、

その偏狭なカトリックに対して
「それが キリストと何の関係があるのか?」の問いかけから始まった
カルバン派が、変質して偏狭となったとき、

ユマニスト は、
カトリック に 対してと 同様の問いかけ を、カルバン派 に 投げかけたのでした。

ユマニストとしては、
エラスムス や
フランスではルフェーヴル・デタープルがリーダーだったモーの人々が
有名ですが、

私は、カステリヨンに着目しています。

カステリヨンは、
カルヴァンの弟子で、その後 袂を別ち、
セルヴェがジュネーヴでカルヴァンにより火刑に処されたとき、
一命を賭して カルヴァン批判の書 を 公表しました。

また、
フランスで宗教戦争が勃発したときに、
争いを諫めた遺言の書を書いておられます。

ご興味ある方は、
ツヴァイク全集17「権力とたたかう良心」(みすず書房) を ご覧下さい。


ユマニスムとは、
私流の理解で申し上げると、 

「多様な(複数の)価値観」の存在を 是認して、
「単一の価値観、自分の立場」に 凝り固まった人に対して、

「別の見方もありますよ、その考えはおかしいのでは」と、
問いかけ続ける人々です。

渡辺一夫先生は、次の様に書かれておられます。

「ユマニスム は、
 狂信と暴力 に対して 批判は し得るが、
 暴力を相手に 格闘は、出来ないのである。

 格闘すれば、ユマニスムの死しかない。
 ユマニスムには、ただ 隠忍するだけの道しかない。」

(「渡辺一夫著作集5」323㌻)(筑摩書房)


(注)  ここでご紹介した 私のユマニストの定義 は、
     歴史上のユマニストから抽出した「定義(理念型)」であり、
     歴史上のユマニストとは異なっています。

     例えば、カステリヨンは、
     「多様な価値観」に基づいて発言したのではなく、

     当時のカトリックやカルヴァン派が、
     「キリストの教え」から外れている、と、呟いているということです。

     言いかえると、
     カステリヨンが正しいと信じていた「キリストの教え」という
     「単一の価値観」に基づいて、
     カトリックやカルヴァン派を批判しているのであって、

     カステリヨンが、
     「多様な価値観」を認めて、
     それに基づいて 批判しているのでは ないのです。

     この点について、
     ユマニスム についての 友人との対話
     http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-9a8b.html

     
を、ご覧頂ければ 幸いです。


遅塚先生は、
付論2.のポワシ・ダングラースを、リベラリストと捉えられておられますが、

私には、
リベラリストと同時に ユマニストの部分もあったのでは、
という気がしています。

革命当時、
ポワシ以外のユマニストが おられたのだろう と 思います。

また、
遅塚先生がポワシに着目された点は、
まさにポワシの「ユマニストの精神」にあるような気がしています。

ユマニストの伝統は、
連綿としてフランス革命当時も 底流に流れていたのだろうと思います。

ユマニストの武器は、
言論による「問いかけ」だけですから、
一見弱々しく、何の実効性もないように見えますが、

時間が経過する内に、
その主張が 徐々に個々人の心の中に広まっていって、
いつの日かは、ユマニストの理想が、実現するのです。

山岳派やロベスピエールの理想を、100年単位で実現させた原動力は、
一見ひ弱に見える ユマニスムの精神 が 広まった結果によるもの
ではないだろうか、と、感じています。

この様な性格を持つユマニスムについて
遅塚先生は、どの様にお考えなっておられたのでしょうか。

先生のご見解をお聞きできなかったことも、
今となっては心残りの一つです。


最後に、

ジャコバン派の恐怖政治は、
プラスとマイナスが表裏一体であり、

(マイナス面は避けられなかったが、
 マイナスを上廻る)プラス面を評価できるから

と、おっしゃっておられる遅塚先生の記述に、違和感を覚えます。

多分、先生の熱情が、
ロベスピエールやルカルパンティエの熱情に共鳴して、
そのような評価をされたのだろうと、推察しています。

でも、
個人的なお立場でそのように評価されるのはともかく、
日本を代表する歴史家として、
そのような評価をされるのは、ちょっと疑問に感じます。

私は、
「歴史を評価するときに ダブル・スタンダード が 求められるな」
と、日頃感じています。

ここで「ダブル・スタンダード」というのは、
通常使われている意味ではなく、
言葉通りの「2つの規準、視点」という意味です。

「2つの規準、視点」のうち、

「1つの規準、視点」は、
歴史となった事実 が 生じた時点での価値観、倫理感、法律などから、
その時点の事績 を 評価せねばならないと、言うことです。

後から見て、色々な批判されるような行為でも、

その時点においては、
許容されていたり、
非難されるような行為を回避し得る 期待可能性 が なかった場合
も、あるでしょう。

歴史は、
「後知恵で批判するのではなく、
 その時点の基準で評価せねばならない」
と、言うことです。

この意味で、
遅塚先生の93年の評価は、納得できるものであり、
説得力のある評価だと思います。


ただ、歴史を考えるとき、
「もう一つの規準、視点」が要請されるのではないでしょうか。

それは、
「人類が昔から持っている倫理」からの評価です。

難しいことを言っているのではありません。

「人を殺してはいけない」
「人の物を盗んではいけない」と、いうような
人類一般の倫理に反する行為は、

たとえその時点で、法律的にも許容されていたとしても、
やはりそれは、
「避けるべきものだった」との評価になるのではないでしょうか。

また、
そのような行為は、いつかはツケが回ってくるのだろうと思います。

植民地支配を謳歌した帝国主義列強が、
その植民地支配のツケを現在いろんな意味で支払わされているのが、
典型的な例だと思います。


誤解して頂きたくないのは、
だからといって、
「当時の人々の行為を糾弾しよう」ということではありません。

ロベスピエールは、沢山の人を殺しました。

その殺人が、
当時 合法であったり、それ以外の行為が期待できなかった場合、
ロベスピエールは、非難されるべきではないでしょう。

でも、
行為者を「糾弾」する趣旨ではなく、
そのような「行為」を 現在から冷静に、客観的に見たときに、
人類共通の倫理に反するものであるなら、

やはりそれが、いくらプラスがあったとしても
「避けるべきだった」との「歴史に対する評価」
に なるのでは ないでしょうか。

革命や政治的な対立の際に、
最も しかも 簡単に生じることで、絶対にしてはいけないことが、
ロベスピエールが行ったような、自己に対立する者 の「抹殺」です。

冷静なときには、その通りだ と 認めても、
頭に血が上っている 修羅場 では、すぐに忘れ去られるのです。

こういうときにこそ、
先ほど述べた「ユマニスムの精神」が、必要とされるのではないでしょうか。


以上により、
遅塚先生の93年に対する評価は、
人類一般の倫理を基準とした評価が欠けておられるため、

残念ながら私には
「一面的な評価で、納得がいかないな」と、首をかしげています。

この点も、
先生のお考えをお聞きできればと思うのですが、
今となっては 残念なことです。



以上、率直な感想を述べさせて頂きましたが、

文章を終わるにあたって、改めて
フランス革命について、
分かりやすく、明快に解説して頂いて導いて下さった
遅塚先生に感謝申し上げると共に、

遅塚先生のご冥福をお祈りいたします。(合掌)

 

 

追記 2020年4月5日 記述

ブログを読み直して、考え込んでいます。

現在の所、解決策が見つけられず、
今後の課題として考えていきたいと考えていますので、

とりあえず、
問題の所在 について 以下で ご説明させていただきます。


ブログの最後の部分で、

歴史を評価する際に、
「ダブルスタンダード」即ち「2つの基準、視点」
が、求められるのでは? と、記述し、

「2つの規準、視点」のうち、

「1つの規準、視点」は、
歴史となった事実 が 生じた時点での価値観、倫理感、法律などから、
その時点の事績 を 評価せねばならないと、言うことです。

(言い換えると)
歴史は、
「後知恵で批判するのではなく、
 その時点の基準で評価せねばならない」
と、言うことです。

(但し、)
歴史 を 考えるとき、
「もう一つの規準、視点」が要請されるのではないでしょうか。

それは、
「人類が昔から持っている倫理」からの評価です。

難しいことを言っているのではありません。

「人を殺してはいけない」
「人の物を盗んではいけない」と、いうような
人類一般の倫理に反する行為は、

たとえその時点で、法律的にも許容されていたとしても、
やはりそれは、
「避けるべきものだった」との評価になるのではないでしょうか。

また、
そのような行為は、いつかはツケが回ってくるのだろうと思います。

と、述べさせていただきました。


読み直して 考え込んでしまった点 は、

「人類が、昔から持っている倫理」からの評価です。
との文章です。

私は、
「積み重ねの歴史」である日本 で 生まれ育った人間 ですので、

無意識のうちに、
「積み重ねの歴史」が、積み重ねてきたモラル を
当然視していることを、最近 痛感しています。

今回のブログは、
主に、日本人である私が、
日本人の皆様に お話ししているものですから、

「積み重ねの歴史」が、積み重ねてきたモラル(倫理)を、
「人類が、昔から持っているモラル(倫理)」
と、当然視してしまっているのです。

何度も申し上げていますように、

「積み重ねの歴史」は、
ヨーロッパの一部 と 日本 が、生み出した歴史であり、
「繰り返しの歴史」が、他の大多数の歴史なのです。

即ち、
我々 日本人 と、ヨーロッパの一部の人々 は、
人類全体から見たときには、特殊の歴史に属する人々 なのです。

ただ、
「積み重ねの歴史」が、世界中の地域を征服して、植民地化し、
英語同様、世界基準となった と、一般的には 思われていますので、

私も 無意識のうちに、
「積み重ねの歴史」が積み重ねてきたモラル(倫理)が、
人類共通のモラル(倫理)と思い込んでしまい、
そのようにお話ししたのです。

最近の米中対立は、
「積み重ねの歴史」に対して
「繰り返しの歴史」が、復権 を 試みて 反撃したこと生じた対立である
と、感じられます。

チャイナ や 韓国 の モラル(倫理)は、

「ウソ」をついても良い、
「ウソ」に騙される者が 悪い
というものであり、

「積み重ねの歴史」のモラル(倫理)と、真っ向から対立するものです。

これも 何度も 申し上げてきたことですが、

「繰り返しの歴史」こそが、
人類に 受け入れやすい歴史であり、

それが 築いてきたモラル(倫理)こそが、

言い換えると、
チャイナ や 韓国 の モラルの方 が、

人類 に 受け入れられやすい、
人類にとって 親しみやすい 安易なモラル(倫理)だろう
と、思います。

ですから、
「積み重ねの歴史」に属する人間が、歴史を評価する際には、

私が、ご説明した「2つの基準、視点」が、妥当であろう
と、考えますが、

それが、
全人類共通の基準だ と 主張するのは、
ちょっと無理があるのでは
と、感じられます。

では、

どの様な基準にしたら、人類共通の基準となり得るか?
についての 解答 が、
今すぐには 思いつきませんので、

ここでは、
問題点の指摘だけに留めさせていただきます。

(現時点では、
 追い求めても 得ることが出来ない「青い鳥」ではないか
 との予感を 持っています。)


今回 追記した問題 について、
次のブログ を ご参照頂ければ 幸いです。

米中対立 の 根底に潜む ヨーロッパ文明 の 解決不能な難問


以 上

 

 

 

 












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2011年3月15日 (火)

高木少将語録 第4回「陸軍の本土決戦論」

「私観太平洋戦争」で、
高木少将は昭和20年6月頃の本土決戦論について、
次のように記述されています。

太平洋戦争を象徴する 愚行の総決算 と思われ、
唖然となり 考え込んでしまいました。

< 高木少将の記述 >

「私観太平洋戦争」245㌻以下(文藝春秋社)

陸軍の本土決戦論 が 大勢を風靡して、
まず最初に現れたのは 在郷予備役の大量召集であった。

19年3月における 陸軍の動員総兵力は 約365万に達したが、
召集可能の予備員は あと約100万といわれていた。

ところが、本土防衛が熱を帯びてくると、
19年10月末の在郷軍人 約639万、
その内 召集可能人員 約469万という、桁違いの大きな数となり、

レイテ決戦の前後から、
参謀本部から、150万の新たな召集計画が提起され、
陸軍省側も、非常な困難に直面した。

・・・ 途中略・・・

ところが、
軍需生産の動向はどうか といえば、

16年度平均を100として、
17年度 132%、19年9月が 最高339%に達したが、

それからは 急激に低下して、
20年7月は、139になり、

航空機は19年9月の44%に落ち、
陸軍兵器は57%、
海軍兵器は43%、
艦艇   47%、
商船   20% という残状、

そこに、
大規模な召集が強行されたのだから、

八大造船所の実例を見るように、
正規従業員は、戦前水準の1/3(20%)に切り詰められ、

未熟練の徴傭工45%、
学徒勤労令による少年10%、
女子挺身勤労令による婦人4%という姿になり、

19年の日本労働者一人当たりの生産額は、
16年の40%になってしまった。

従って、
動員部隊の装備を擁する小銃100万挺も、
9月迄の配給見込み 最大45万挺というわけで、

小銃も靴もないわが召集部隊が、
かげで竹槍部隊と批判されたのは、
生産力を無視した兵員数本位の頭数だけで戦力と考える誤りであった。

飛行機時代に大艦巨砲と、夜戦万能主義に執着した海軍と好一対である。


    * * * * * * * * * *


少し感想を述べさせて頂きます。


150万人召集して、
鉄砲の生産が45万挺と知り、言葉も出ませんでした。

召集された多くの人々は、土木作業をさせられた後、
米軍が上陸してきたら、何の抵抗も出来ずに屠殺されたでしょう。

この様な事態は、
狂信的な陸軍の責任とされていますが、

冷静に考えたら、
日本政府が自国民をこの様な扱いをしていたのであり、
責任は日本政府に存するのです。

日本政府の要人が、
自分たちの命が惜しいために、或いは、自分のメンツのために、
陸軍に対して反対もせずに、国民を屠殺しようとしたのです。


「終戦により、集団自殺が免れた」との言い方があります。

ここでは、
「敗戦」を「終戦」と言いかえる狡猾さについては横に置いておいて、
「集団自殺」について述べさせて頂きます。

「自殺」とは、
自らの命を絶つことです。

召集された人々が、自分が死にたいと思っていたのでしょうか。

自らの意志に反して、強制的に命を絶たされることは、
「自殺」とは言わず、「殺人」と言うべきです。

日本国政府は、
国民を殺そうとしていたのです。

このことは、
殺される立場の国民は承知していました。

これが、
戦後 軍隊、とくに陸軍に対する嫌悪の根源であり、
憲法9条が今まで支持された原因でしょう。

私は、長い間、憲法9条について、

理想は貴いものだけど、
戦争は、人類にとっての病理であり、

人類の知恵が戦争を克服していない以上、
実際の国際関係では、実力により決着する時代が続いている。

その中で、
軍隊を持たずに、
自分の国の防衛を、アメリカにあなた任せにするのは
かえってまずい筈なのに、

何故、
軍隊を持たないことを、国民は支持しているのだろうか、
と、訝しく思っていました。

太平洋戦争で
日本政府は、理不尽にも国民を屠殺しまくっていたのです。

その反動が、
通常では考えられないトラウマを日本人に残したのでした。

そして、
その国民感情を、戦後今まで 社会党などの左翼政党は勿論
韓国、中国、ソ連といった周辺諸国も利用してきたのです。

日本政府が、
昭和16年以来国民を屠殺しまくっただけではものたらずに、

戦争遂行能力を失った昭和20年に於いても、
国民の愛国心を逆用して 更に屠殺しようとした象徴が、

150万人の追加召集しながら、
戦うための最小限の武器も持たすつもりがなかったことだと感じます。

このように考えると、
アメリカ軍の蛮行である「原爆投下」も、別の見え方がしてきています。

個人的なことですが、
私の祖父は、
原爆ドームの川向こうの建物で執務していて、原爆で殺されました。

机から上は、骨だけ残した状態で、
祖母が遺体を焼き場(野焼きしたようです)におぶって運んだそうです。

祖父には、
私の父を含めて 息子が3人、娘が1人いました。

父は次男で、普通の学校に行ったのですが、
父の兄と弟は、職業軍人だったそうです。

当時、
父の兄(伯父)は、南方に行っていましたが、
父と弟(叔父)は日本にいました。

(父は、召集されて 満州で結核となり、
 日本に帰国して病院で療養していました。)

原爆が投下されずに、アメリカ軍が上陸していたら、

父と叔父は、
陸軍の下級将校でしたので、アメリカ軍に殺されていたのでしょう。

言いかえると、
祖父が、自分の命と引換に、息子達を救ったのです。

こういう言い方をすると、
「不謹慎だ」と、怒られる方がおられるかと思いますが、

私には、
祖父が息子達を助けたように

原爆投下により、
原爆で殺された人々の何倍の人が助かったのだな、
という気がしています。

そして、
そのような思いをさせる状況に追い込んだ「日本政府」に対して、
言いようのない怒りを感じるのです。

太平洋戦争に関して、
陸軍が悪者になることが多いと思いますが、

よくよく考えてみると、
陸軍をコントロールできなかったことも含めて、
日本政府が根本の責任を負わなければならないと思います。

敗戦後60年を過ぎ、
私の子供の世代 や 更にもっと若い世代の方々は、

我々の世代以上の日本人が持っている
陸軍に対する恨み、
軍隊に対するトラウマが、
薄れてきたように感じています。

また、いつの日か、
憲法9条改正される日も来ることになるだろうとも想像しています。

更に、
韓国や中国を見ていると、

日本が戦争を避けたいと思っても、
避けられない事態が生じるかも知れないな、という気もしないではありません。

だからこそ、
現在の為政者、更には 政権を引き継ぐ人々には、

日本政府が、
国民を屠殺した前科があることを深く深く肝に銘じて頂いて、

前車の轍を踏んで
再度、国民を屠殺することがないようにと願っています。


追記

1.上記の文章は、戦争を否定も肯定もしているものではありません。

  先ほど述べたように、戦争はおぞましいもので、極力避けるべきものですが、
  他方、人類の病理でもあり、
  人類の知恵が戦争を克服するまでは、なくならないものだと思っています。

  ですから、
  どうしても避けられない戦争に際したときに、

  せめて、
  太平洋戦争の時のような 国民を屠殺するような愚を避けて欲しい、
  と、申し上げたいのです。


2.この様な文章を書くことに、逡巡がありました。

  でも、
  私の太平洋戦争に対する根本的な見方は、
  日本政府が自国民を屠殺したことですよ、と言うことを述べさせて頂くことは
  何らかの意味を持つかも知れないと考えて、記述した次第です。

  心の奥に秘めておくべきかも知れないことを、お話しした心情 を
   ご理解頂ければ幸甚です。




高木少将語録 として、4回にわたり記述しました。
お読みいただければ幸いです

    第1回 日本軍批判
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/1-12db.html 

    第2回 高木少将のサイパン島奪還論
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d65b.html

    第3回   「開戦を阻止しなかったこと」についての
          天皇陛下のご所見 と 高木少将のご所見批判
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-6ee3.html

    第4回 「陸軍の本土決戦論」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3f2d.html

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2011年3月 2日 (水)

ドゴール大統領 の フランス領土範囲論

エリック・ルーセル著
「ドゴール」(祥伝社、ガリマール新評伝シリーズ)


          **********


今年になって、
ドゴール大統領がどんな事績を残されたのか知りたくなり、
最近出版された「ドゴール」を読んでみました。

 ドゴール
 生没年 1890年11月22日~1970年11月 9日 享年 79才
 大統領 1958年12月21日~1969年 4月28日 10年4ヶ月間

フランスの第2次大戦から戦後の歴史については、
新聞記事による断片的な知識しかありませんので、
皆様にお話し出来るような感想はありませんが、

ただ一つだけ、
ドゴール大統領のフランス領土範囲論を読んで、

フランス人は、
「クローヴィスの統治した領域」をフランスの領土範囲と考えているのでは
との 持論と殆ど同じだったと、感じられましたので、
その部分について ご紹介させて頂きます。

以前、
今回のテーマについて 次のブログでもご紹介しましたので、
それをご参照頂きながらお読み頂ければ幸いです。

「フランス人の歴史」・・・第1回 フランスの領土の範囲は?・・・
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-678a.html


1.第2次大戦後(1945年) フランス領土範囲論に関する発言

 < 1945年 の ド・ゴール発言(著者 ルーセルの抜き書き) >

「当時 ド・ゴールは、
 外務省の政治問題部長 モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル に 書いている。

 ・・・・・・現状においては、なすべき最善のことは、
 中部ドイツに 行政機関を組織し、

 同時に
 バイエルン国、バーデン国、ヴュルテンベルク国、
 ヘッセン・ダルムシュタット国、ヘッセン・カッセル国、
 ハノーヴァー国 といったものを 作って 生きながらえさせることだ。

 その際、
 我々は、カールスルーエ を 手に入れる必要があろうし、

 また
 アメリカは、ヴュルテンベルク全体を 占領しなければなるまい。」

 (エリック・ルーセル「ドゴール」163㌻)

 注) カールスルーエ Karlsruhe は、ライン川の東側の町
        シュトゥットガルト の西北西 65km
        ストラスブール   の東北  70km
        マンハイム     の南    50km

この抜き書きの直前に、著者 ルーセルは、

「ドゴールにとっては、
 ドイツは、解体されなければならず、
 ライン左岸は、占領されねばならないのだ。」
と、記述しています。


2.晩年に、フランス語圏の人々に 独立を促す発言をしていますが、

  その中に、
  フランスが併合したいとのドゴールの領土範囲についての本心が窺えて、
  興味深いものがありました。

 ① < 1967年7月24日 カナダ モントリオール での演説 >

  カナダ200年祭にカナダ訪問した際に、
  フランス語圏のモントリオールで、次のような演説をしています。

 「モントリオールという フランス人の都市を目の前にして、万感迫る思いです。
  古い国の名、フランスの名のもとに ご挨拶いたします。
  私の心からのご挨拶です。

  皆さんに一つ秘密を明かすつもりですが、
  皆さんは それを広めたりしないでしょう。

  今宵、この地で、そして ここへ来る途中、
  私は、パリ解放のときに似た雰囲気を感じていました。」

 そして、
 カナダのフランス人の解放を呼びかけた後、
 ド・ゴールは、最後に言った

 「モントリオール万歳! 
  ケベック万歳!
  自由ケベック万歳!
  フランス人のカナダ万歳、
  そして フランス万歳」 

  このアジテーションに対するカナダからの猛烈な反発により、
  ドゴールは日程を早めて首都のオタワに行かず、帰国せざるを得なくなりました。

  しかし、
  ドゴールはこの訪問に満足していたようで、

  オルリー空港に出迎えた閣僚達に、
  「いや、実に素晴らしい訪問でしたよ。
   カナダのフランス人と話をする必要がありましたから。
   歴代のフランス王は、彼らを見捨ててきたのです。」
  と、言ったそうです。

 (エリック・ルーセル「ドゴール」286㌻)


 ② < 1969年6月(4月28日に大統領辞任した約1ヵ月後)の発言 >

 「もし、私が 政権に留まっていたら、
  ワロン地域、ジュラ州、ジュネーヴ、ヴォー州 の人々、
  アングロ・のルマン諸島の住民達の 自立を助けただろう。

  私が、ケベックでしたことは、とても重要だ。
  これで、
  フランス系カナダ人は、独立国家の地位を目指して歩んでいけるはずだ。」

  注 1.ワロン州 → ベルギー南部 フランス語圏

    2.ジュラ州 → スイス西北部、フランスとの国境を接する州、
               州境が、バーゼル の西南 40km 

    3.ヴォー州 → ジュネーヴ の北、レマン湖の北の州 ローザンヌ が首都 

    4.アングロ・ノルマン諸島(ノルマンディー諸島、チャンネル諸島)
     ノルマンディー半島 の西方海上にある イギリス領の島々

 (エリック・ルーセル「ドゴール」317㌻)


以上により、ドゴールは、
クローヴィスが支配した領域をフランスの領土範囲と考えているのだろうと、
想像されます。

ドゴールは、
フランス人の保守派の人々を代表している人物だろうと思いますが、

第2次大戦のフランスの英雄であり、
第5共和制を開始し、アルジェリアの独立を認めた大統領でありますので、

40年ぐらい前までのフランスは、
ドゴール的な領土範囲に関する 基本認識があったと言えるでしょうし、

EUが深化してきた現在でも、
ドゴール的な考え方は、フランス人の根底に 流れているのではないだろうか、
と、考えるのが自然だろうと思います。

印象的だったのは、

ドゴールが、
ジュネーヴとヴォー州(レマン湖の周りの地方)も
フランス人の領土だと考えていることです。

ジュネーヴは、
フランス人のカルヴァンが神政政治を行った町ですし、

1450年頃には、
サヴォイア公国が、この地方を支配していました。

「Wikipedia サヴォイア公国」 の 右下の地図 を 参照下さい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E5%85%AC%E5%9B%BD

サヴォイア公国は、
16世紀から17世紀の初めに
サヴォイア公国のフランス側の大部分を、フランスが侵略して入手したことが、
フランスの領土範囲だと主張する根拠なのか、
と、皮肉を言いたくなります。

私は、
フランドルから北フランス、

及び、
彼らが1066年のノルマン・コンクエストで征服したイングランドの人々が、
ヨーロッパの歴史の担い手と考えています。

その中で中核となるのが、
フランスであり、

フランス史というのは、
ヨーロッパを考える上でも重要な歴史だろうと思っています。

そのフランス史における 膨張主義、侵略主義の歴史は、
一つ一つの個別の歴史事象としては、記述されますが、

フランスの悪口と取られかねないせいか、
フランス史の先生方がまとめて取り上げることが少なく

普通の日本人は、
その重要性が気がつかないで過ごしているのではないだろうかと思い、
敢えてブログで記述させて頂きました。

フランスに対して反感を持っているから お話ししたのではなく、

フランスが重要な国だからこそ、
ヨーロッパ史を理解する上で欠かせぬポイントの一つだろうと思い、
お話しさせて頂いたことをご理解頂ければ幸いです。


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2011年1月28日 (金)

高木少将語録 第2回 高木少将のサイパン島奪還論

今回も「私観太平洋戦争」の記述のうち、
昭和19年6月アメリカ軍がサイパン島が攻撃したときに、
高木少将がどの様に考え、行動したかについてご紹介させて頂きます。

最初に、
当時の経緯を簡単にご説明させて頂きます。

昭和19年6月15日 アメリカ軍がサイパン島攻撃開始

      6月24日 嶋田軍令部総長が サイパン島奪回断念の上奏
      6月27日 東条首相と岡田海軍大将が会談
             → 会談後 東条内閣倒閣運動が表面化

      7月 5日 サイパン島より
             「玉砕を以て太平洋の防波堤たらんとす」の訣別電報
             → 残勢力 3,000名が 突撃して玉砕、陥落

      7月18日 東条内閣総辞職


 < サイパン島攻撃されたときの 高木少将の行動についての記述 > 

6月22日
午前から午後にかけて 鈴木(貫)、岡田、米内さん大将を歴訪して
宮様の意向をはじめ、サイパン喪失の重大な影響を説き、
その奪回の必要を強調し、大将方の応援を頼んだ。

鈴木大将は、
賛成だったが、沖縄が大事だから 早くその手当を進めることを
繰り返し主張され、

米内大将は、
沈痛な表情で 自らの意見をあまり述べず、
軍令部の意向とか、陸軍の熱意など、
この問題をめぐる 陸、海軍の雰囲気をしきりに質問された。

岡田大将は、
全面的に賛成で、マリアナを失うと、由々しい危険に陥るから、
早速 鈴木、末次、米内とも話し合って
伏見、高松両宮さま、海相その他に 会って促進しようとの返事だった。

6月23日は、亡き母の七七忌なので、
出勤前に 真福寺の秦住持に法要を頼み、終わってから出かけて、

保科兵備局長、矢牧軍務二課長その他を訪ねて
サイパン奪回を説いてまわった。

海軍省側は、
今次大戦の山として、海軍が 最後の決意を固めるべき時機だと
見るものが 多数で、
反対とか、気乗り薄というのは 殆ど見当たらなかった。

しかし、
翌日 神大佐に 軍令部の模様を聞くと、
山本親雄一課長、中沢佑一部長とも、
奪回作戦の主旨には反対しないが、実行不可能として蹴られたらしい。

理由は、
飛行機の展開が出来ないし、
燃料補給、輸送護衛の見込みが立たず、
船腹の徴傭、陸軍の賛成も望みがない、というのが要点、

ソロバンを取れば、それくらいのことは誰にでも分かる。

当然のことで、
作戦当事者としての計測を先にすれば、断るのも無理がないが、

勝算は、
開戦の初めから無理だからこそ、
山本大将は、
危険を覚悟で 真珠湾に賭けたのである。

最後の勝負所と判断したら、艦隊の全滅を賭けるべきで、
要は、
決断と責任に対する 勇気の問題 である

島田総長のサイパン奪回断念の上奏は、
既に3日前の24日に行われ、
陛下は上奏の裁可を保留され、元帥府に諮問されている

サイパン島の防衛戦は、時々刻々に苦境に落ち、
7月5日付で
「我ら玉砕を以て 太平洋の防波堤たらんとす」の訣別の電報を最後に、
通信連絡は絶えてしまった。

海軍の南雲、陸軍の斎藤両中将は、6日午前10時自決して、
最後の残勢力 3,000名の突撃の餞(はなむけ)としたのである。

  出所 高木惣吉著「私観太平洋戦争」(文藝春秋)187㌻~188㌻、197㌻


いくつか感想を述べさせて頂きます。

1.ご紹介した記述は、
  高木少将語録 第1回 でご紹介した 日本軍批判が、
  そのまま高木少将にブーメランのようにもどってくるのでは、
  との感じがしています。

  高木少将は、
  井上海軍次官の命令により終戦工作に携わった功労者
  ということになっていますが、

  この終戦工作は、上司の命令により行っただけで、
  本質的には他の軍人達と同じではないだろうかという気がします。

  というのは、
  「ソロバンをはじけば分かる」とおっしゃりながら、
  何故 最後の勝負所と判断して、
  艦隊全滅を賭けなければならなかったのでしょうか。

  海戦は、サイエンスの戦いであり、
  科学的、合理的な思考に基づき作戦を立てて
  戦うものではないのではないでしょうか。

  サイパンに特攻すれば、艦隊が全滅することは明かで、
  全滅した後 その後の戦争をどうしようとしてされていたのでしょうか。

  勝利のあてもない作戦で、部隊が全滅すると言うことは、
  はがき1枚でかり集めた 国民を 屠殺しようとしていたこと意味しています。

  もともと勝負所というのは、
  ここで踏ん張って戦えば 勝てるときに言う言葉 ではないでしょうか。

  子供が弁慶に立ち向かうような戦力の格差があるときに、
  自己満足だけのために力んで、

  しかも、
  ご自分は海軍省という安全地帯にいて、
  他人を特攻させようという気が知れいません。

  山本大将の名前を出せば、全て正当化されるわけではないでしょう。

  高木少将が、
  全く話にならない「イノシシ武者」ぶりを発揮して、
  重臣達の間をあちこち動き回っているのは、
  全く感心できませんし、気違い沙汰としか言いようがない気がしています。

  高木少将に比べたら、
  この機会を捉えて東条倒閣に動いた岡田大将の方が、
  よっぽど大人であり、合理的だと思います。

  ここにはご紹介を省きましたが、
  この時期、高木少将は、東条首相の暗殺も計画しています。

  陸軍に跋扈した政治将校と同じような まともな精神状況とは思えない行状
  ではないでしょうか。

  このような人物が、
  海軍省教育局長の重責を担っていたとは、全く信じがたいことだと思います。

  更に、高木少将は、
  第1回でご紹介した「日本軍批判」を記述された後、

  「著者(高木少将)は、太平洋戦争の計画とその実施においては、
   身近に観察しうる立場にはあったが、
   自らその責任を取る地位におかれなかった。

   従って、
   一切の作戦計画とその遂行に対し、全く感情的先入観を抱いていないこと
   を 明らかにしたい。(以下略)」
  と、記述されておられます。

    出所 高木惣吉著「太平洋海戦史」(岩波新書)ⅹⅱ㌻

  重臣や海軍首脳部に。
  「サイパン島を奪回すべし」と サイパン島特攻 を 説得しましたが、
  たまたま、説得が功を奏さなかっただけではないでしょうか。

  もし、説得に成功して、何万にもの兵士が特攻により屠殺されたら
  その責任をどの様の取られるつもりだったのでしょうか。

  無責任な立場で、動き回ったことこそが、
  厳しく批判されるべきと考えますし、
  高木少将の倫理感の欠如に あきれています。


2.高木少将もそうですが、
  日本軍(陸海軍)は、兵士の命をどう考えていたのでしょうか。

  先ず、
  サイパン島をアメリカ軍が攻めてくることは、分かっていたから
  南雲中将以下の守備隊を配置したのでしょう。

  サイパン島で、籠城戦を行おうとするのであれば、

  島全体を要塞化することが必要でしょう。
  大砲を備え、地雷を敷設して、アメリカ軍と対等な火力を用意した上に
  制空権と補給路を確保しなければ、籠城戦に勝利することは不可能です。

  単に、
  何万人かの兵隊を配置しただけでは、何の意味をなさないことは、
  十分に承知していたはずです。

  6月15日に、アメリカ軍が攻撃開始し、
  6月24日には、天皇にサイパン奪回断念を上奏しています。

  このことは、
  参謀本部、軍令部が奪回不可能と考えたのは、
  上陸のすぐ後だったのでしょう。

  というよりは、
  米軍が攻撃してきたら「それまで」と、分かっていて、
  サイパン島の兵士を見殺しにするつもりだったのでしょう。

  ですから、
  軍人達の 自分たちは頑張ったとの言訳のために
  国民は、はがき1枚でかり集められて、軍に屠殺されたと申し上げるのです。

  「これなら勝てる」との作戦計画を策定する際にも、
  人命の損失を極力少なくするように配慮するのが当然なのに、

  全滅するのがわかりきっていて、しかも その後の展望もない作戦を、
  ご本人は、安全な東京にいて現地に命令するのは、
  まともな神経とは思われません。

  人命軽視、人命無視は、

  高木少将だけでなく、
  参謀本部、軍令部を含む陸海軍全体に言えることだと思います。

  特に、
  7月5日 決別電報時点においても
  3,000名もの兵士が まだ生きていたですから、

  何故、その兵士達を「万歳突撃」させて、
  屠殺せねばならなかったのでしょうか。

  このことは、
  サイパンに限ることではなく、太平洋戦争全般に共通することです。

  何百万の兵士が、
  本来 国を守り、国民を守るべき軍隊、軍人に 屠殺されたことは、
  人類に対する犯罪である米軍の原爆投下とは異質の
  国民への卑劣な裏切り行為であり、犯罪であることを、
  永く伝えていかねばならないことだと思います。

  はがき1枚で召集して、
  まともな作戦も立てず、まともな装備も用意しないで、

  国民を守るどころか、ナチスのユダヤ人ジェノサイドと同様に
  どぶに捨てるように 自国民である兵士を屠殺して平然としていた軍人は、

  彼らが叫んだ「鬼畜英米」の言い方を借りると
  「鬼畜軍人、鬼畜狂人」と言うべき連中であろうと思います。


大変激しい文章で恐縮しています。

高木少将のここでの記述は、
言葉では言い表せないくらいの憤怒を、私に呼び起こす文章でありました。

高木少将は、
この時期は 井上次官の命令で、敗戦工作に従事する以前であり、
自らの判断で動いておられましたから、

高木少将の本性は、
米内大将や井上大将と異なり、
他の軍人同様、鬼畜軍人の一人であり、
命令により敗戦工作したことで償われるものではない気がしています。

(敗戦工作については、
 今回述べた点とは別個に その功績を評価すべきだと考えています。)




高木少将語録 として、4回にわたり記述しました。
お読みいただければ幸いです

    第1回 日本軍批判
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/1-12db.html 

    第2回 高木少将のサイパン島奪還論
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d65b.html

    第3回   「開戦を阻止しなかったこと」についての
          天皇陛下のご所見 と 高木少将のご所見批判
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-6ee3.html

    第4回 「陸軍の本土決戦論」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3f2d.html

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2010年12月18日 (土)

日本経済 再生の処方箋 再論

「失われた10年」が、
いつの間にか「失われた20年」になり、

「失われた30年」目指して驀進中なのが
現在の日本経済だと言っても過言ではないと思われます。


このことは、
これまで行われた経済対策の大半の処方箋が、間違っていること
を示しています。

何故間違ったのでしょう?

私には、
学校で学んだ言葉を弄んで、
現状に適合するかどうかの観点を無視しているからだ
と、思います。

井上成美さん流にいうと
「明治の頭で、昭和の戦いをしようとしている」のです。

ものの本質を深く考えずに、
上っ面だけを見てものを言い、対策を打っているからなのです。


間違った処方箋とは、

例えば、
「デフレを脱却せねばならないので、インフレターゲット政策を実施すべきだ」
とか

「需要に対して供給が過剰なので、
 需要を喚起するために公共投資をもっとするべきだ」
との主張の類です。

「デフレ」も、「供給過剰 又は 需給ギャップ」も、
「現象」であり、「結果」であって、
「原因」ではないのです。

これらの主張は、

間違った対処療法であり、日本経済を さらに悪化させるだけで、
現在の日本経済が陥った根本原因は何かについて、説明していませんし、
根本治療でもありません。

私には、
私利私欲に基づく発言に聞こえます。


当たり前の話ですが、
現在の日本経済の状況を好転させるためには、
原因を追及して、それに基づく対策を打たねばなりません。

何故「デフレ」が生じたのか、
何故「供給過剰」となったのか、について


言いかえると、

「原因」についての明確な認識がなければ、
対策は立てられないはずなのに、

それについての議論を聞いたことがない、との感が否めません。


要するに、
この20年間、小泉内閣を除いて、

根本治療ではなく、
対処療法、藪医者の見当はずれな投薬が続いたので、
治る病気も治らなかったのだろうと、思います。


日本経済の建て直しのためのキーワードは、

「メガコンペティション、経済のグローバル化」と
「一物一価」です。


この点については、

9年前に私のホームページに
「日本経済再生 の 処方箋」を記述していますので、
詳しくはそちらをご覧下さい。


ここでは、要旨をご説明させて頂きます。

「日本経済再生 の 処方箋」
http://chuuseishi.la.coocan.jp/011215.htm


1990年代、
「失われた10年」と言われた経済不況が始まったとき、

大半の方は、
バブルの崩壊が原因だと、説明されていました。


勿論、
「バブルの崩壊」は、大きな衝撃だったのですが、

「失われた10年」が、
「失われた20年」更には「失われた30年」となったのは、

「バブルの崩壊」と同じ時期に始まった、
「冷戦」が終結して、「国民国家」の時代が終了し、

「地域共同体」更には「世界連邦」への500年単位の「歴史の大転換」により、
新たな歴史の歩みが始まったのが原因でした。

500年単位の歴史の大転換については

「歴史における現在」
http://chuuseishi.la.coocan.jp/000801.htm
大転換をもたらした原因については、

「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」
http://chuuseishi.la.coocan.jp/070717.htm

を、ご覧下さい。


この歴史の大転換が、経済面で現れたのが

「経済のグローバル化」
「メガコンペティション(大競争)」
と、言われる現象でした。

技術の発展により経済単位が拡大し、
今までは国単位だったものが、地域単位に拡大したのです。

国境という垣根が低くなり、
地域単位の経済圏の中で、更には、地域単位の経済圏を超えて、
競争が激化しているのです。

外国企業だけでなく、日本企業も、
中国を初め外国で作った製品を日本に輸出するようになりました。

皆さんがお使いになっている工業製品の生産国を調べられたら、
中国製が多いのに驚かれるだろうとおもいます。

というよりは、
中国製が当たり前の時代になっているのだろうと思います。

家電の量販店に行くと、
今まで名前も聞いたことのない会社の製品が、
驚くほどの安価で陳列されているのが日常茶飯事になりました。

この様なことが、
経済の「グローバル化」であり、
日本企業は、「メガコンペティション」の中で、悪戦苦闘しているのです。


この様なマーケットにおいて、
「一物一価」の意味が、変わってきました。

「一物一価」とは、
「一つの市場(同じマーケット)」において成立する経済学の定理なのです。

従来は、
国単位のマーケットでしたので、、
「それぞれの国別のマーケット、市場」で価格が設定されてきました。

即ち、
一つのものを

日本   では、日本のマーケット が 決める価格、
中国   では、中国のマーケット が 決める価格、

アメリカ では、アメリカマーケット が 決める価格、
ヨーロッパでは、ヨーロッパマーケット が 決める価格等々
で、取引されてきており、

世界中を見渡すと
「マーケット毎」に価格が設定されますので、
「一物多価」が原則だったのです。


即ち

「一物一価」は、
一つのマーケットで通用する原則であり、

複数のマーケットを横並びで比較すると
「一物多価」が、原則なのです。


例えば、

中世において、
「胡椒」が東西貿易の主力製品として有名で、

胡椒を求めて、ヴェネツィアに対抗するため、
ポルトガルが喜望峰周りのインド航路を開拓したのですが、

その動機は、
インドで購入する胡椒を、遠く離れたヨーロッパに持ってくれば
莫大な利益を得ることができるからでした。


即ち、
「一物多価」を利用して、暴利をむさぼっていたのでした。              


要するに

「同一マーケット」の中では、
「価格」は「一物一価」に収斂し、

「異なるマーケット」では、
「価格」は異なり、世界中では「一物多価」となるのですが、


「異なるマーケット」同士が合体して、
「一つのマーケット」になると、

「一物一価」の経済学の定理が働いて、
商品価格が、一番安い価格に収斂していくのです。


具体的には、
東アジアが一つのマーケットとなったことにより、

先ほど述べたように、
東アジアマーケットで一番安い中国の価格に、
日本の価格も 限りなく近づいていくのです。

これが、
現在の日本経済のデフレの原因です。


また、

日本企業がどんどん中国で工場立地して、
そこの安い製品を日本に輸出していますので、
国内の工場の稼働率がどんどん下がっていくのです。

これが、
日本の供給力が余っている原因です。


この様な状況下で、インフレターゲット政策をするのだと、
日本政府が紙幣を増刷して、
インフレを起こしたらどうなるでしょうか。

デフレは止まらず、
円の価値は、国内ではインフレで下がっていきますので、
スタグフレーション(Stagflation)が惹き起こされるでしょう。

また、
赤字国債で公共投資をすることは、
目先 需要が回復するでしょうが、

それにより景気の好循環は生じないで、
公共投資が止まると、需要も落ち込んでしまうでしょう。

この20年間、
小泉内閣以外の内閣は、
この様な愚策を何度も繰り返してきたのです。

公共投資は、
重症患者にモルヒネを投与して痛みを緩和させるだけの
対処療法であり、

後々借金により悪性のインフレーションが生じたり、
子孫に借金の返済を押しつけることになります。

私が、
麻生元首相のような「公共投資をどんどんするべき」との論者に
私利私欲を感じるというのは、

日本全体の利益を損なうことを承知で、
自分の目先の利益をむさぼろうとしていると、感じられるからです。

ここまで書いてきて、
9年前の文章と全く同じ趣旨を述べていることに気がついて、

日本は、この10年間 全く変化がなかったな、
日本は、繰り返しの歴史の国になったのか、
と、愕然としています。


従い、
現在の日本経済に対する処方箋は、9年前と同じですので、

具体的にどうすればよいかについては、
先ほどご紹介したホームページをご覧下さい。

日本経済再生 の 処方箋
http://chuuseishi.la.coocan.jp/011215.htm




9年前と重複もありますが、
気になる点を 3点 述べさせて頂きます。


1.9年前より、日本人がことに対処しようとする意欲が少なくなったのでは、
  と、感じています。

  どうやら、
  麻生政権から始まって、民主党政権に引き継がれた「バラマキ政策」が

  日本人を根底からスポイルして、
  日本国が根っこから腐り始めているのでは、と心配しています。


  (注)「バラマキ政策」

     時系列的には、上記の通りですが、

     経緯的には、
     民主党の「バラマキ政策」の主張により、

     富士川の平氏みたいに「票が逃げる」とあわてた麻生政権が
     民主党亜流の「バラマキ政策」を実施したのだろうと思います。

     要するに、
     国民は「パンとサーカス」さえ与えておけば

     我々の政党になびくとの発想しかない 低レベルの与野党政治家が
     この国の政治の舵取りをしているのです。



  小泉内閣で

  「格差が広がった」とか、
  「地方を切り捨てている」とかの議論がすぐ出てきて、

  受け身、国からのバラマキを待望するばかりで、
  ケネディではないですが
  「自分が何をする」との意見が見られなくなったような気がします。

  ローマは、
  市民が「パンとサーカス」を求めるようになって、滅亡しました。

  日本も、
  国民一人一人が努力しようとの気概を失うことにより、
  衰亡の道に入っているのではないでしょうか。



2.東アジアが、一つのマーケットとなったと言っても、
  それぞれの国の主権は健在です。

  それ故に、

  それぞれの国のエゴが、健全な経済の発展の阻害要因になることを
  避けなければなりません。


  この点で、
  現在一番気になるのが、「元の為替水準」です。

  健全な貿易の発展には、公平な為替レートが必要ですが、

  現在の元のレートは、
  中国のエゴにより公平な為替レートとは言えなくなっています。

  中国は、
  日本が、プラザ合意で為替レートを円高に是正したことにより、

  日本経済が失速した轍を踏むまいとして、
  「元安」を頑強に維持しています。

  これでは、
  中国の 50㍍走るタイム と、
  日本の100㍍走るタイム とで 競争することになり、
  健全な貿易の発展を望めませんし、

  このままでは、
  日本国の存亡に関わる重大事態に追い込まれることが明らかです。

  日本政府は、
  アメリカと協力して、中国に為替水準の是正させることを、
  強力に交渉して、事態を打開する努力をするべきですし、

  中国が、
  自国の利益に固執する場合は、経済戦争も辞さずの覚悟をもって
  対抗施策を実行すべきだろうと考えます。

  場合によっては、
  元の為替を適正化するために、

  中国政府のコントロールから離れた 自由な元の為替市場を、
  ニューヨーク、ロンドン、東京に創設する等の非常手段も
  検討する必要があるかも知れません。



3.この20年間求められて、日本が実行しなかったことが
  FTA(自由貿易協定)です。

  現在では、
  後を走っていた韓国にも追い抜かれてしまっています。

  このFTAを実施しなければ、
  確実に「失われた30年」が実現するでしょうし、

  その後も

  「失われた40年」
  「失われた50年」と継続し、

  国内の産業は、壊滅的な状況に陥って、
  日本国が衰亡の危機に陥ることが、私にははっきり見えています。


  FTAの一番の阻害要因は、
  「コメ」の自由化を反対することにあります。

  反対論者は、コメの国内価格が、
  国際価格より遙か彼方に隔たった高額であることを
  認識している故に、頑強に反対しているのだろうと思います。

  私には、
  自由化すると、コメの値段を下げられるとの思い込むのは、

  まったくものの本質、経済の本質を理解されておられないな、
  と、感じられます。


  外食業界では、
  厳しい価格競争に曝されていますが、

  いくらコストを切り詰めても、
  美味しいコメでなければ売れないというのが常識だそうです。


  数年前、
  コメが不作の年に、外国から輸入したことがありましたが、
  日本人は、外国のコメには見向きもしませんでした。

  いくら安くとも、まずいコメは日本人は食べないのです。


  日本のコメは、
  世界一 高いかも知れないが、
  世界一美味しいコメだとの認識をすべきだと思います。

  また、
  日本の消費者は、

  コメの品質について 世界一シビアな目を持った需要家だと言うことを、
  認識すべきだと思います。


  このことは、

  いくら安くとも、まずいコメは、日本で売れない、
  美味しいコメは、まずいコメから消費者により保護されている
  ということを、意味しています。


  牛肉もそうです。

  あれだけ家族同様に丁寧に飼育しているからこそ、
  何処にも負けない美味しい牛肉が提供されているのです。

  この様に、
  美味しいコメや牛肉は、当然コストがかかりますが、

  マーケットでは、
  品質見合の価格が当然認められるはずですし、

  事実、
  まずいコメは日本ではマーケットから拒絶されるです。


  以前に、
  国内ミカンが壊滅するからと言って、
  グレープフルーツの自由化に大反対したことがありました。

  アメリカに押し切られて、グレープフルーツを自由化したのですが、
  その後、ミカンは壊滅したでしょうか。

  グレープフルーツは、日本でマイナーな地位を確保しましたが、
  ミカンの地位は、微動だにしていません。

  逆に、その後の努力により、
  ミカンが一層美味しくなり需要が増加しているのではないでしょうか

  また、ミカンをアメリカに輸出し、
  アメリカでミカンは高級果物との評価され定着しているとのことですし、 
  ジュースにして国内のみならず、外国にも輸出しており、


  グレープフルーツの自由化により、
  かえってミカンの競争力が増したのではないでしょうか。  


  コメや牛肉も、自由化して、
  最高級品として輸出すれば良いではありませんか。

  勿論、
  高い値段に見合っただけの品質、おいしさを維持せねばなりませんから、
  外国との競争に負けないよう、今まで以上に頑張らねばなりません。

  でも、
  自由化したら、コメが壊滅するという固定観念は間違いであり、
  品質の良さを正面にたててPRすれば、必ず道が開けるのです。

  要は、
  前向きに努力する姿勢が大切なのです。

  日本人は、
  工業生産において素晴らしい地位を築きました。

  自由化により 外国との競争で鍛えられたからこそ、
  現在の地位がもたらされたのです。

  農業においても、
  同じような地位を築くことは、大いなる努力さえすれば可能だろうと思います。


  勿論、自由化すれば、

  今みたいにバラマキの恩恵で、黙っていても
  戸別保証だと政府から補助金をもらうことはできなくなり、
  今まで以上に 一生懸命働き、工夫せねばならなくなるでしょう。


  また、農家のライバルとして、
  外国で大規模に経営する商社系の日本企業が登場して、
  彼らと熾烈な戦いを強いられることになるでしょう。


  でも、
  そのようなライバルの存在が、日本農業を強化するのです。

  今みたいに「パンとサーカス」を求めていたら、
  数十年~100年くらいは持ちこたえるでしょうが、

  いつの日にか、
  日本の農業は滅亡することになるのです。


  同様に、
  今のようなバラマキ政策を継続したら、

  たとえ財政的に破綻が来さなくとも、

  国民の意欲や活力が喪失して、
  日本国が根っこから腐ってしまい、

  ローマ帝国同様、
  衰亡、場合によっては 滅亡 するのです。

  「パンとサーカス」を求める市民により滅亡したローマ帝国の歴史は、
  現在の日本と全く無縁の存在ではないということを、
  肝に銘じるべきだと思います。


 (注) 自由化は、日本のイニシアティヴで進めるべきことは論を待ちません。

    例えば、

    日本国内で活動するための資格試験を、英語で行えとの要求などは、
    きっぱり拒否するべきなのは、当然のことです。

    最近、
    政治の世界で、戦後全く聞かれなかった「売国」という言葉が、
    良く聞かれるようになりました。

    外国の利益のために、日本を売るようなことが
    自由化の美名の下で行われることを、危惧しています。

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2009年6月 3日 (水)

「フランス人の歴史」 ・・・ 第2回 カトリックが、アリウス派 を 嫌悪をする理由 ・・・

P.ガクソット著
「フランス人の歴史1」(みすず書房)


          **********


「フランス人の歴史」を読んでて、気になった2つ目の点は、

ガクソットは、
信仰心篤いカトリック教徒だな と、強く感じ、

それ故に、
「カトリックが、何故アリウス派に、あれほどの嫌悪感を示すのか」
との疑問に答えてくれているな、感じられたことです。


<アリウス派 に関する ガクソットの記述>

(ローマ)帝国内に定住したゲルマン人達は、
アリウス派の教義を信奉していた。

これ(アリウス派)は、
三位一体説 の「父なる神」にのみ
永遠性と創造主たる性格 を 認めるもので、

「子たるキリスト」は、
彼(「父なる神」)によって「創造されたもののうちの 第一」であり、

神からの言(ロゴス、神の子) と 呼ばれる光栄 は 有するが、
「神と同じ者ではない」とする教義である。

この説(アリウス派の説)は、
カトリックの玄義(ドグマ)を理解するまでに至らない
異邦人(バルバール)の頭に ちょうど適していた。

4世紀においては、
この異端と戦うことが、教会の大きな任務であった。 

(教会の中で)
ジェローム(ヒエロニムス)とオーギュスタン(アウグスティヌス)が名をあげた。

まさに、
「神秘がなければ、宗教もなかったであろうし、
 理解できないことがあるから、信心もおこるのである。

 人を贖うために死んだ人の子(キリスト)が、永遠(神)でないならば、
 キリスト教も存在しないであろう。」

異端説が、
理屈にあっていて、
粗野な精神にも分かりやすいだけに、

教会にとって一層恐るべき脅威となった。

人々の心を満たし、
知的生活の一部となっているアリウス派の教義に対して、
一種の恐怖感が存在した。

その上、
アリウス派は、カトリックの正統派と大変重要な点で異なっていた。

それは、
彼らが、聖職者を持たないか、
少なくとも 彼らの聖職者は、国家の中で地位を持たないということである。

  出所 ガクソット「フランス人の歴史1」100㌻

ガクソットの記述を、抜き書きしながら コメントさせて頂きます。

私は宗教を信じない人間ですので、
以下のコメントは、
無信仰の人間が、歴史より学んだ宗教に関する見方である点、お許し下さい。
(宗教を信じない者でも、宗教を考えることもあり得ることをご理解下さい。)


1. 「この説(アリウス派の説)は、
    カトリックのの玄義(ドグマ)を理解するまでに至らない
    異邦人(バルバール)の頭に、ちょうど適していた。」  

アリウス派を信じた人は、
ゲルマン人だけでなく
東ローマ(ビザンツ帝国)のインテリも含まれていたのです。

そもそも、
アリウス派が生じてきたのは、
エジプトやシリアの東方世界であり、

この東方世界は、

ずっと後の 12世紀ルネサンスと言われる時期になって
ようやく西欧の社会が理解できるようになった  ギリシア・ローマの文明
を 自分のものにしていていて、
当時のフランクなどよりは、よほど高度の文化の持ち主でした。

アリウス派の人々は、
ガクソットの言うような粗野で知的レベルが劣っているから
カトリックの玄義(ドクマ)を理解できなかったのではありません。

カトリックの玄義(ドグマ)より
アリウスの方が、キリスト教の信仰として正しい と 考えたから
アリウス派が、あれほど広まったのです。

私には、
カトリックとアリウスの どちらが正しいか との議論は勿論、
宗教として上等か、とか
知的レベルが高いかという議論も、
宗教の本質から離れた 無意味な議論だと思われます。

カトリック を信じるか、
アリウス派を信じるか は、
「その人が、どのように神を感じるのか」によって、決まってくるのだろうと思います。

要するに、
その人その人の信仰の持ち方により決まるのだろうと思います。

ですから、
「カトリックの玄義が、より上等であり、より高度である」
との ガクソットの考えは、
フランス人特有の 中華思想、及び 唯我独尊 の 一つの表れのように感じられます。

また、宗教というものは、
知的レベルが高く、知識が豊富であれば、より高度な宗教心を持つことができる
と、いう性格のものではないのだろうと思います。

知的レベル、即ち 知識や学問 よりも、

どれだけ 神を 感じることができるのか
(どれだけ 神の神秘を 感じられるのか)とか、

どれだけ 神に 帰依することができるのか、
どれだけ 神を 信じることができるのか
ということが、
宗教において大切なのだろうと想像しています。

これは、例えば、
学問をあれだけ嫌った 13世紀のフランチェスコが、
どれだけキリスト者として尊敬されているか
を、考えるだけで、ご理解頂けると思います。


2. 「神秘がなければ、宗教もなかったであろうし、
    理解できないことがあるから、信心もおこるのである。

    人を贖うために死んだ人の子(キリスト)が、永遠(神)でないならば、
    キリスト教も存在しないであろう。」

「神秘がなければ、宗教もなかった」
即ち
「神を感じられなければ、宗教もなかった」というのは、その通りだと思います。

次の
「理解できないことがあるから、信心もおこるのである」というのは、
論理が逆のような気がします。

理解できないことがあれば、
論理を積み重ねて 合理的に説明し、理解できるように努力したからこそ、
近代科学の発展をもたらしたのだろうと思います。

逆に、
信仰(信心)があるから、
論理的には 理解できない神 を 信じるようになるのだろうと思います。

立派な科学者が、
信仰心の篤いキリスト者でもあることがあり得るのです。

その次の
「人を贖うために死んだ人の子(キリスト)が、永遠(神)でないならば、
 キリスト教も存在しないであろう。」というのは、
カトリックの独りよがりのように感じられます。

アリウス派のように
「神により派遣された 人間キリストが、
 人類の罪を贖うために、十字架に架けられた」
と、考えても、

キリスト教は、十分成立するような気がしますが、
いかがでしょうか。

アリウス派が、広汎に信じられたということは、
それを証明しているのではないでしょうか。


3. 「異端説が、理屈にあっていて、粗野な精神にも分かりやすいだけに、
    教会にとって 一層恐るべき脅威となった。

    人々の心を満たし、知的生活の一部となっているアリウス派の教義に対して、
    一種の恐怖感が存在した。」

この部分が、
カトリックがアリウス派を嫌悪する「本音の部分」を記述されている
と、思われます。

アリウス派は、

カトリックより「理屈にあっている」のに、
言いかえると、
論理的には、アリウス派の方が正しいのに、

それでも、
カトリックが正しいというために、
アリウス派を 悪魔のごとく扱うのでしょう。

今まで、歴史の本を読んでいて、

アリウス派に対して、他の異端よりもはげしく嫌悪し、
アリウス派の人々は、人間ではないような言い方 を
カトリックがするのを読んで、何故だろう と 思ってきました。

カトリックが
理屈では負けているから、
理屈ではかなわないから、

アリウス派に対して
人間扱いをしないのだな、
力で押しつけようとしているのだな
と、合点しました。

「カトリックの信仰より、アリウス派の信仰の方が論理的に優れている」と
カトリックが心の底では認めているからこそ、

カトリックが、「アリウス派に負けるのでは」
との恐怖心を持っていたのだろうと思います。

要するに、
カトリックのアリウス派に対する高圧的な態度は、
コンプレックスの裏返しの虚勢であろうと、
ガクソットの記述を読んでいて、感じました。


4. 「その上、アリウス派は、カトリックの正統派と大変重要な点で異なっていた。
    それは、彼らが、聖職者を持たないか、
    少なくとも 彼らの聖職者は、国家の中で地位を持たないということである。」

これは、
ガクソットの歴史家としての資質に疑問を感じさせる記述です。

トリエントの公会議以来、カトリックが努力してきたことの中の一つは、
政教分離ではなかったのではないでしょうか。

このような大上段に構えた言い方でなくとも、
そもそも キリストへの信仰に
聖職者や国家の中で地位を持つことが必要なのでしょうか。

私は、
カトリックが、国家の中で地位を持とうとしたことが、
宗教として堕落した原因の一つなのだろうと感じられます。

また、
聖職者 や 教会という制度自体が、
信仰にマイナスの面をもたらした面があることを、
ガクソットは歴史の中から、感じ取ることがないのだろうか、
と、嘆息したくなります。

宗教が、
聖職者や 教会のような組織を持つということは、
人間の世の中で一つの確固たる基盤を築き、
宗教の永続性をもたらすものであることは、確かだと思います。

その反面、
宗教を利用して、現世の利得を目的とする組織に、すぐ堕落してしまうのも、
人間の本性なのだろうと思います。

何も
ルネサンス期のローマ教皇だけではありません。

他の時期においても、
カトリックの歴史は、改革運動の歴史だといっても過言ではないと思います。

司教とか大司教が、世俗にまみれて、
宗教より自分の利得を目指していた人の方が多く、
彼らに対する批判が常になされてきたことは否定できないだろうと思います。

ですから、
聖職者がいるからとか、
国家の中で地位を持つということ のような、

宗教という面から見ると、必須のものではないものを、
アリウス派は持たないからといって、

アリウス派を、見下したような記述をするのは、
返って
カトリックのお里が知れるのではないでしょうか。

(注) 聖職者がおらず、教会がなければ、
    宗教の規模は拡大しにくいことは事実ですが、

    規模が大きくすることが、宗教の目的だとしたら、
    それは、堕落した宗教と言うべきだと思います。

カトリックは、
トリエントの公会議以降 努力をして、
中世のカトリックと全く異なったものに生まれ変わった と、よく言われますが、

ガクソットの記述を読むと、
「本質は、全く変わっていないのでは」と、思わず言いたくなりました。

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