ベネルックス

2021年10月14日 (木)

フランスとドイツは、積み重ねの歴史の国?それとも 繰り返しの歴史の国?

知人より、掲題の質問 を 受け、次のような回答 を しました。
少し面白いテーマなので、
ご参考までに書き写してご参考に供させていただきます。


          **********


結論から申し上げると

フランスは、

積み重ねの歴史 の 担い手 が、半分
繰り返しの歴史 の 担い手 が、 半分 の国で

これが、
イングランドとの植民地争奪戦(第2次百年戦争)で
フランスが、イングランド に 後れを取った原因 だろう
と、思っています。


ドイツは、

本来的に 繰り返しの歴史の国でした。

フランス革命後
ナポレオンに敗れたプロイセンが、奮起して
プロイセンを 積み重ねの歴史の国に転換させ

ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して
ドイツを統一し、ヨーロッパで覇を唱えるまでの
積み重ねの歴史の国に転換させたのですが

1990年 冷戦終了後、
繰り返しの歴史の産物であるマルクス主義を信奉する
東ドイツを合併したことにより

繰り返しの歴史の国に先祖返りして
繰り返しの歴史の国に戻ってしまった
と、感じられるのが、現在のドイツだと思います。

ドイツに対して、このような感じを持ったのは、
50年以上前に 大学に入学した年の秋に
3週間 南ドイツやオーストリアを中心にバス旅行した経験と

数年前に
ドイツ旅行した経験を比較して 感じたことなのです。

50年前には、
西ヨーロッパの国を訪れたな
との感じを持ちましたが、

数年前は、
ドイツの資本主義の心臓部であるフランクフルトにおいてさえ
冷戦時代の東方の国と思えるほどの 陰鬱さ、沈滞 を 感じて
驚愕したことが忘れられません。


以下、
フランス史とドイツ史の概略をご説明させていただきます。




1.最初に、

  フランスとドイツの国の成り立ちを理解するための前提として
  ヨーロッパと日本の「封建関係」について、
  一言述べさせていただきます。


日本の封建関係 は、
家臣は、主君に忠誠を尽くして、二君に仕えない
のに反して

ヨーロッパでは、
主君と家臣は、契約関係であり、
すく数の主君を持つ者 も ざらにあることが

異なる点である、
とよく言われますが、

私は、
これに疑問を持っていて、
これが、
ヨーロッパ理解を過つ原因になるのでは?
と、感じています。

ヨーロッパにおける封建関係が、
契約関係だとの認識には、同意しますが
日本の封建関係については、
疑問を持っています。


日本の封建関係は、
二層構造になっているのでは?
と、感じられます。

即ち
主君と家臣との関係 と
対等な 主君同士の 主従関係(契約関係)
(例えば、織田信長と徳川家康、豊臣秀吉と徳川家康)

最初の 主君と家臣との関係は、
一般に言われている通りの
複数の主君に仕えない との封建関係です。

二つ目の
対等な主君同士の主従関係(契約関係)とは、
ヨーロッパの封建関係と同質の
利害に基づく関係だろう と、感じられます。

例えば、徳川家康は、
織田信長や豊臣秀吉が存命中は、
信長や秀吉に従順に従っていましたが、

秀吉没後
豊臣家を打倒できる状況になると、

従来の主従関係を無視して、
豊臣家 に 牙をむいて 滅亡させて、
徳川幕府 を 創始しました。

これは、
ヨーロッパの封建関係と、
全く同質のもののように感じられます。


ヨーロッパで
日本のような主君と家臣の関係が一般化しなかったのは、
地域における権力構造が異なっているからのよう に
思われます。

この点への理解が、
ヨーロッパの歴史理解の前提となるような気がしています。

日本においては、
一つの国(尾張の国とか、美濃の国)の主君は、
原則そして 一人でした。

ところが、
ヨーロッパでは、一つの土地に、複数の主君が存在していました。

例えば、中世の北フランスは、
フランドル伯の領地でしたが、

同時に、
同じ土地に対して
フランス王も 国王としての宗主権 を 有していたのです。

更に、
神聖ローマ皇帝(ドイツ王)も、
フランドル伯の君主としての権利を主張していましたし、

フランドルとの緊密な経済関係を有するイングランドも
領土を奪取しようとして 派兵する動きも見せていました。


このように、
一つの領土 に 対して、権利 を 主張する 複数の君主 が 存在したことが

日本におけるような
主君 と 家臣 との 封建関係 が 成熟せず(一般化せず)に

日本における 君主間の契約関係しか
ヨーロッパにおいて成立しなかった原因では?
と、感じられます。


(注)ヨーロッパにおいても、
   主君と家臣の関係は、一般化はしなかったものの
   当事者間では、存在していたことを否定するものではありません。

   尼子家再興 に 奮闘した 山中鹿之助 のような 家臣 も 存在しましたし、
   武士道 と 同質と思われる の騎士道 も ヨーロッパに 存在していました。

   歴史というものは、
   All or Nothing と、明確に区分できるものではなく
   常にグレーゾーンが存在することを、 ご理解ください。



2.フランス史 の 概略

フランスは、

500年ころ ベルギー の トゥルネー から パリ に 進出してきた
クローヴィス が、建国した国です。

西フランク滅亡後(消滅後)
カペー朝が、 フランス王に選出され、

フランス革命まで
カペー朝の血統(本家の血統が途絶えた後は、分家の血統)が
支配しました。


フランス王に即位したカペー朝は、
フランス王として フランス全土に対する統治権を
理論上は持っていましたが、

実際に統治できていたのは
イール・ド・フランス(パリ周辺)
せいぜい パリからオルレアンまでの地域でした。

即ち、
パリ周辺の 弱小領主が、弱小ゆえに
フランス王に即位したのでした。

ドイツでも、
ハプスブルグ家 が 皇帝 に 選出されたように

フランスでも
強大な諸侯 は、フランス王 への 即位 を 阻まれたのです。


カペー朝がフランス王に即位した当時 の
フランス の 領土範囲は

東は、
シャンパーニュまでで
ロレーヌも アルザスも 神聖ローマ帝国(ドイツ)の領土でした。

また、
ソーヌ川、ローヌ川の東側も、
神聖ローマ帝国の領土で、フランスの統治権の範囲外でした。

パリの西側 は、
北のノルマンディーからピレネーまで
フランス王の宗主権の範囲内でしたが、

実際には、
ノルマンディー公、アンジュー伯、アキテーヌ公などが
統治、支配していて
フランス王の宗主権は、名目だけの存在でした

更に、
ブルターニュ公国、トゥールーズ伯は、
フランス王より独立していて、
フランス王の宗主権も及びませんでした。

(注)トゥールーズよりプロヴァンスにかけては、
   南のアラゴンとの統合の方 に 動いていたのでは?
   と、感じられます。

   アラゴン と トゥールーズ および プロヴァンス
   の 統合 を 阻止するため が、

   13世紀前半 に
   フランス王家とイングランド王家が
   プロヴァンス伯家の4姉妹 と 政略結婚した理由では?
   と、想像しています。

また、
北フランス は、フランドル伯の領土 でした。

先ほど述べたように
フランドル伯は、ほぼ独立していて、

その上位に、
フランス王、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、イングランド王が
宗主権を主張して けん制しあう 複雑な政治模様 を 呈していました。

(注)第4回十字軍 が、ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
   フランドル伯が、十字軍 が 建国したラテン帝国の初代皇帝 に
   即位しています。

   また、
   フランドル伯家 が、短期間で血統 が 断絶した後
   フランドル伯の娘と結婚した カペー朝の分家が
   その後の皇帝に即位しています。

   フランス王ルイ9世 が、 聖遺物を購入して
   パリの シテ島で、サント・シャペルを建立したのは、
   このような関係があったからでしょう。


フランスの歴史を一言で申し上げると、

パリ周辺の弱小領主が、
フィリップ2世以降 フランス王の宗主権を活用して
周辺の大諸侯 を
駆逐するか or 服従させるか、または 併合して、
統治権 を 拡大、確立し、

更には、
神聖ローマ帝国 や、
独立諸侯だった
フランドル伯の一部、ブルターニュ公、トゥールーズ伯より
領土を併合していって

フランスという国 を 統合、統一していった歴史
と、いえるでしょう



積み重ねの歴史の担い手は、
北フランスからフランドルにかけての地域の人々ですので、

フランス の 大部分の地域 では、
繰り返しの歴史の人々 が 居住しているのです。

従って、
フランスにおいては、積み重ねの歴史の担い手は、
少数派というべきでしょう。

しかし、
積み重ねの歴史の担い手が、
カペー朝が、フランス各地を併合する際に
主導的役割を果たしたのでは と、想像しています。

言い換えると、
フランスという国 を
リードし、形成した人 との側面から 観察すると

少数派の積み重ねの歴史の地域の人々が リードしたのでは
との 少し 別の見方 になるような気がしています。

例えば、
16世紀後半 フランスは、
宗教戦争の嵐 が 吹き荒れました。

この時期、宗教戦争をリードしたのは、
北フランス出身の人々だ
と、 渡辺一夫先生は、記述されておられます。

カルバン派
カトリック、
それに
ユマニスト の3派 が 現れましたがが、

その3派 の リーダー は、
全員 北フランス出身者だった というのです。

渡辺先生は、
繰り返しの歴史の地域である
ロワール川下流地方出身のラブレー研究における 世界的権威
で あられましたが、

その先生が、
16世紀後半 の フランス を 分析して、
フランス を リードしたのは、北フランス出身者だ
と、考えておられるのです。

ですから、
フランス史において、
北フランス出身者の影響力 は、無視できないのでは?
と、想像しています。



3.ドイツ史 の 概略

フランクの支配が終了して、ドイツ史と歩み始めたとき
ザクセン朝が、ドイツ王に即位しました、

ドイツは、フランク解体過程で
中フランク(ロタールの国)が、ドイツに編入されたため

ドイツ王が、
神聖ローマ皇帝 を 名乗る とともに

ローマ帝国の本拠だった、イタリア の支配に注力して
ドイツ国内の統治がおろそかになりました。

ザクセン朝の男系血統が断絶して、
ザクセン朝の娘 と 結婚した シュタウフェン朝 が、
ドイツ王 を 引き継いだ後 も、状況 は 変わりませんでした。

というよりは、
更にイタリアの統治 に 注力し、

中世最大の皇帝 と いわれる フリードリヒ2世 においては、
イタリア生まれのパレルモ育ちだったこともあって、

ドイツにはほとんど赴かずに、
イタリアの王様として 生涯 を 過ごしています。

神聖ローマ帝国(ドイツ王)に
北と南から攻められる状況に陥った
教皇権 と ロンバルディアなどのイタリア都市国家が、

シュタウフェン朝に 対抗するために、

フランス を
イタリア に 引き入れて
ヨーロッパ史 を 大きく動かすことになるのですが、

今回とは別の話なので、割愛させていただきます。


皇帝不在(国王不在)のドイツは、
不在の間 に、大諸侯 が 割拠する 領国体制 を 確立しました。

この領国体制が、
19世紀初頭 ナポレオン に ドイツ が 敗北するまでの
500年以上 継続しています。

その間の歴史は、
繰り返しの歴史であり、

積み重ねの歴史を重ねて、実力を蓄えた
イングランドやフランスの後塵を拝したのです。

後塵を拝した表れとして、
フランス王より一つ格上の皇帝だったドイツ王(神聖ローマ皇帝)が
イングランド王やフランス王の家臣として、
先頭に従軍した例をご紹介させていただきます。

フリードリヒ2世に対立した ヴェルフェン家 のオットー4世は、
イングランド王 ジョン王の家臣として、

1214年 ブーヴィーヌの戦いに出陣し、
フィリップ2世に敗北し ドイツに逃げ帰っています。

オットー4世の父は、シュタウフェン朝の皇帝を対立して 敗北し、
ドイツから追放された際に
妻の実家のプランタジネット朝(アンジュー家)を頼って亡命しました、

オットー4世も、父に従って フランスに赴き
ポワトゥー伯として、プランタジネット朝の家臣として働いたのです。

ですから、
ジョン王が、フィリップ2世と戦った際に、
ドイツよりはるばるフランスに出陣し、
ジョン王の家臣として フィリップ2世 と 戦ったのです。


カール4世も、
1346年クレシーの戦いで、
主君である フランス王 に 従って、出陣しています。

カール4世のルクセンブルク家は、事実上フラン王の家臣でした。
カール4世自身も、フランスの宮廷で育っています。


カール4世 は、自分の名前 を
崇拝する フランク王 シャルルマーニュに因んだカールとしました。

シャルルマーニュ
即ち、
シャルル大帝のシャルルは、ドイツ語ではカールなのです。

(フランス語のシャルルマーニュを、
 日本で カール大帝 と 呼ばれるのは そのためです。)

カール4世は、
ドイツ王に即位して間もなく、
父ボヘミア王(チェコ王)ヨハネスに従って、
フランス王の許に はせ参じたのです。

尚、カール4世 は、父 クレシーの戦いで戦死した後
ボヘミア(チェコ)王として、国民から敬愛された国王でした。

カール4世の娘さんが、
イングランド王と結婚したことにより、

カール4世 を 敬愛していた チェコ人 が、
イングランド に 多数 留学して、
ウィクリフの教え を チェコ に 持ち帰り、

チェコで
フス派 が 勃興して、
フス戦争(宗教戦争)を もたらしました。


少し横道にそれましたので、話を戻しますと、

ドイツは、
繰り返しの歴史である 領国体制が、
19世紀初め に ナポレオンに敗北するまで継続しました。

このため、
激烈なイングランドとの積み重ねの歴史を競ってきたフランスに対抗できず、
簡単に敗北してしまいました。


ナポレオンに敗北後、
プロイセンが、奮起して、プロイセンを積み重ねの歴史に転換させ
ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して、

19世紀後半に フランスを破り
中世末に フランスに奪われた ロレーヌとアルザスを
ドイツに取り戻したのです。

現在 ストラスブール大学に、
フランス唯一の プロテスタント の 神学部 が 存在するのは

もともと アルザスが、
ドイツだった との経緯 に よるものだろう と、思います。

(注)アルザスは、
   中世において、ドイツ の 政治における心臓部 でした。

   シュタウフェン朝の宮廷は、
   ストラスブールの北のアグノー(Haguenau、ハーゲナウ)に
   所在していて、

   リチャード獅子心王の母 アリエノールが、
   ローヌ川の南の ポワトゥーから 船で ライン川 を 河口から遡って
   身代金を運んだ先が 

   現在においては
   フランス国内の町だったのです。

20世紀に入り、ドイツは
ヨーロッパ
更には 世界制覇 を 目指して
第一次大戦、第二次大戦 と 戦いましたが、
アメリカに 敗北して 挫折しました。

冷戦終了後
西ドイツが、東ドイツを併合して
戦前のドイツに戻りましたが

文化的というか、歴史的というか
ドイツとしての国の立ち位置が

積み重ねの歴史の国から
繰り返しの歴史の国に 先祖がえりをしたような気がしています。

今後、このままでは、
激烈な国際競争の中で、

ドイツが、
経済面で後れを取ることになろうかと思いますので、

ドイツが、いつ目覚めて 積み重ねの歴史の国に復帰するのか
それとも
イタリアみたいな繰り返しの歴史の国のまま推移するのか
注目していく必要があるのでは、と感じています。

というのは、
ドイツの動向が、今後のEUの動向を左右する
大きなファクターとなるのでは?と感じられるからです。

また、
アメリカと中共の間で、戦争が勃発したら、
繰り返しの歴史の国であるドイツの動向も 注目されるのでは?
と、思われるからです。



 

 

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2009年5月 4日 (月)

「フランス人の歴史」・・・第1回 フランスの領土の範囲は?・・・

P.ガクソット著
「フランス人の歴史1」(みすず書房)


          **********

渡辺一夫著作集を通読していく内に、
16世紀のフランス史を読みたくなって、
ガクソットの「フランス人の歴史2」を引っ張り出しました。

以前「フランス人の歴史1」を読んでいますので、
その先を読もうと思ったのです。

開いてみると、
「フランス人の歴史」は、
1.2.3.の3分冊に別れている本だと、分かりましたので、
それならいっそ最初から、と
「フランス人の歴史1」から読み始めました。

「フランス人の歴史1」は、
これで3度目ですので、流石に余裕を持って読んでいますが、
ローマ時代のガリアのところで、案外手間がかかったのは、意外でした。

今まで、ローマ史に対しては、
ガクソットの
ガリアからの視点による ローマ時代のガリア についての 記述を読んでも、

私の方で、無意識的に
イタリア 乃至 ローマの側からの歴史に翻訳して、読んでいたのです。

それが、
だいぶヨーロッパの歴史に慣れてきたこともあって、

今回は、
ガリアからの視点でローマ史を見る、という ガクソットの記述が、
素直に理解できるようになったのかな、と感じています。

一つには、
歴史の本を読む際に、割と丹念に地名を確認していることが、
読み方の変化をもたらした大きな要因では との気がしています。

やはり、歴史をよむ際には、
その時代時代の地理もよく知っておかなければならないな、
と、痛感しています。

渡辺先生が、
「本を読み返す度に 新たな発見がある」というような趣旨を
書かれていましたが、

先生とはレベルが全く違いますが、
私は、私のレベル並みに、
「やはり新たな発見というものがあるものだな」と感心しています。


さて、
読み始めて、感じたのことを
ご参考までに 何回かに分けて お話しさせて頂きます。


1つ目は、

「フランス人が、フランス史を記述する ということは、
 日本人が、日本史を記述するのと同じことだな」
と、いうことです。

フランス人にとって、
フランス史は、自分の国の歴史であり、

フランス人学者は、
フランス人のために歴史を書いているのであって、

外国人、
特に 極東の私みたいな バルバロイ のために書いているわけではない、
ということです。

これは、当たり前のことですが、
意外に大事な点であるのに盲点だな、と感じています。

私は、
今まで幾つかのヨーロッパ中世史の本を読んできましたが、

実は、
フランス人、例えば、ル・ゴフ、や ペルヌーの書いた本は、
余りにフランス人びいきで、
フランス人の都合の良いように歴史を解釈しているのでは、
と、反感に近い感情を持ってきました。

以前 ガクソットを読んだ際には、それほど感じなかったのですが、
今回やはり同じような記述に気がつきました。

フランス人にとってフランス史は、自分の国の歴史ですから、
大げさな言い方をすると、
「フランス人に、フランス国家にとって都合の良い歴史を教育する」との使命が、
学者に課されているのだろうと思います。

そこまで言わなくとも、
フランス史を記述する学者の愛国心から、

彼らにとって 嘘ではない範囲で、
フランスに都合の悪いことは避けて、
フランスにとって都合の良いような記述を 無意識のうちにするのでしょうし、

それが私から見ると、
強引な牽強付会に感じられることがあるのだろうと思います。

これに対して、

例えば
サザーンやランシマンみたいなイングランド人 や
ピレンヌみたいなベルギー人が、
自分の国でない歴史を記述する時には、

自ずから上記のような無意識の操作がなくなり、
私みたいな部外者から見て
比較的客観的な記述をすることができるのだろうと思います。

今まで 
イングランド人の歴史記述は、
第三者的にブリテン島から大陸の歴史を見ているので、
フランス人の記述より公平で、客観的だなと感じてきましたが、

正にその通りで、
フランス史を中心にヨーロッパの中世以前の歴史を読んできたから、
フランス人の自分中心の勝手さが 強く感じられたのだろう と
思うようになりました。

今後、
イングランド人が書いたイングランド史も読んでみようと思っていますので、

そのときに
イングランド人が フランス人と同じかどうか、
比べて読むのを楽しみにしています。

また、
今回、このようなことに気がつきましたので、

今までは、 今後は読むまいと思っていた、ル・ゴフやペルヌーも、
もう一度繙いてみようかな、という気がしています。 

勿論、
彼らに対する拒絶反応は、それだけではありませんので、
読み出したらいやになってしまうかもしれませんが・・・・

でも、
少なくとも「フランス人とはそういうものだ」という整理ができましたので、

今までみたいに
読みながら頭の中で別のことをぶつぶつ言うことは、無くなるだろう
と、期待しています。

更には、
将来 有名なブロ ーデルの「地中海」を読むことを楽しみにしていますので、

その際、フランス人が、
大部分は彼らの外国である地中海の歴史に対して
どのような記述をしているのか、との視点でも読んでみようと、
読む楽しみが また一つ増えたなと、思っています。


ちなみに、
今回 気になった ガクソットの ヴェルダン条約 についての記述 を
抜き書きして ご紹介させて頂きます。

ヴェルダン条約は、ご承知の通り
843年
西フランク、中フランク、東フランクに
ルイ敬虔王の息子達が、フランク王国を 3分割した条約 です。

 < ガクソット の 記述 >

「ヴェルダンの談判委員達の包丁捌きが、
 フランスに決して癒えることのない傷を負わせた」
 (ジョゼフ・カルメット)

ルターリウス(ロタール)に割り当てられた領土の内の幾つかは、
さんざん苦労をかけ多くの血を流して、やっと取り戻された。

その他の独立の状態を続けた領土は、
ドイツ文化とガリア・ローマ文化の間で、絶えず争われ張り合わされた。

ヴェルダン条約は、
偶然の取り決め、公証人と測量士の取引に過ぎない。

とはいえ、
一千年以上過ぎても反響が消えなかったほどの影響の強さからいって、

ヴェルダン条約は、
「歴史全体の中で最も重要な条約」(ジョゼフ・カルメット)
と、呼ばれて当然ではなかろうか。

  (注) ジョセフ・カルメット は、フランスの歴史家です
      (生没年 1873~1952 享年 79才)

 出所 ガクソット フランス人の歴史1 126㌻


私が気になったのは、
「ルターリウス(ロタール)に割り当てられた領土の内の幾つかは、
 さんざん苦労をかけ多くの血を流して、やっと取り戻された。」
との記述です。

ガクソット は、
フランスの「正統な領土」を、どのように考えているのでしょうか。

「幾つかの領土は、さんざん苦労して取り返した」
と、記述されておられますのが、

それなら、
取り返していない領土とは、どこ地方なのでしょうか。

この問題を考えるため、
フランスの歴史を概観してみたいと思います。

フランスの歴史は、一言で言うと
「パリのフランス王が、長い期間をかけて領土を侵略併合していった歴史である」
と、言えると思います。

最初は、
アンジュー伯(プランタジネット朝)の領土を、
フランス王として宗主権を利用して併合しました。

この併合の最終決着は、
ご存じの通り百年戦争が終了した15世紀後半までかかりました。

その次に、
手をつけた地方は、トゥールーズ伯で、
13世紀初めアルビジョワ十字軍を利用して、併合しました。

12世紀
アキテーヌ女公 の アリエノール が、

最初の夫のフランス王 ルイ7世や、
2番目の夫のイングランド王 ヘンリー2世に
遠征をさせていますが、この時は併合できませんでした。

その後、
1214年ブーヴィーヌの戦いで、イングランド王ジョンに勝利したのち、

アルビジョワ十字軍の時期に、
フランス王ルイ8世自ら南フランスに遠征して、

最終的には
その息子 ルイ9世の治世の初めに決着しています。

それから、
ルイ9世の弟 シャルル・ダンジューが、
プロヴァンス伯を結婚により入手しました。

プロヴァンスは、
神聖ローマ帝国の領土で、フランスの領土でなかったものですから、

本来は、
皇帝の宗主権に服さなければならないはずですが、
入手した後は、全く自分の領土として取り扱いました。

大西洋岸のプランタジネット朝に対する要求と
全く反対の態度をとったのです。

その後、
神聖ローマ帝国の領土の
ドーフィネ、フランシュ・コンテ(ブルゴーニュ伯領)、
ロレーヌ、アルザス、アルトワ(フランドル南部)を
領土に付け加えました。

また、
15世紀の終わりから16世紀にかけて、

2人のフランス王が ブルターニュ女公のアンヌと結婚して、
ブルターニュを併合しました。

19世紀には、
ピエモンテのオーストリアへの独立戦争に協力する代償として、

ナポレオン3世が、
サルディーニャ王(ピエモンテ王)より
アルプスの西側(フランス側)の領土とニースを、併合しています。

20世紀になっても、
第1次大戦後 ラインラントに進駐してますし、
第2次大戦後も、ザールを入手しようとして、住民投票で阻まれました。

ザールを入手し損ねたので、
その地の鉄と石炭を利用しようということで、
「石炭・鉄鋼共同体」を作って、これが現在のEUに発展したのです。

EUというと、
高邁な理想が実現されたもの と、思い起こされますが、

現実には、
高邁な理想だけによるものではなく、
当たり前の話ですが、
関係各国の利害が妥協できたから 今のEUがあるのです。

フランスの政治家や官僚等の実務家 は、
高邁な理想を、建前として念頭に置いていたでしょうが、

本音は、
「フランスの覇権拡大、領土拡大の一方策」 と 考えて、
EUを主導してきたのでは、という気がしています。


このように、
フランスの歴史を、領土の面から概観してみると、

フランス人が、
「フランス本来の領土」と考えている範囲は、
「クローヴィスのフランク王国の版図」ではないかと、感じられます。

クローヴィスは、
日本人には、「フランク王」ですが、
フランス人には、「初代フランス王」なのだろうと思います。

現在の国境線で見ると、
現在のフランスの領土に加えて、
北側の ベルギー南部からリエージュにかけて、

更には
ライン川の西側の地方も、
本来のフランスの領土に含まれると、考えているのではないでしょうか。

この地域が、
ガクソットのいう「まだ取り戻していない領土」なのだろうと、思います。

このように考えると、
第一次大戦後、
フランスが、ラインラントに進駐したのも、

1000年以上前に失った
フランス人にとっての自分の領土 を 回復のためだったのだな、
と、それなりに合点がいきます。

侵略される周辺国家にとっては、甚だ迷惑な話だし、
余りに自分勝手ではと、私には思われますが、
フランス人にとっては正統な権利の主張なのでしょう。

(注) 先ほど、「合点がいきます」と書きましたが、この合点がいくまでには、
    高校時代、フランスのラインラント進駐を知って以来、
    「何でドイツの心臓部を 無法にも占領したのかな」と、
     40年以上気になってきた点なのです。

    今回 長年の懸案の一つが、自分なりに整理できて、感慨深いものがあります。

現在、
ベルギーがドイツ語圏とフランス語圏とに南北が別れて、
連邦国家になっています。

ベルギーのフランス語圏は、
エノー と アウストラシア北部の地方ですので、

フランス政府は、
カペー朝始まって以来 1000年来の念願である
領土回復の絶好の機会が巡ってきたと、
手ぐすね引いて準備しているのではないだろうか、との気がしています。

もし、
この念願を果たした その次には、
ベルギーのドイツ語圏にある フランドル北部 と
ベルギーの隣国 ルクセンブルク を 狙うことになるのでしょう。

それが実現できれば、
先ほど述べたラインラントの隣まで、領土を拡大できるのです。

更に、
もし、ラインラントを、フランスの領土に併合できれば、

ガクソットの念願であろうと思われる
ヴェルダン条約で失った「ロタールの国の本来フランスの領土の部分」

即ち
「クローヴィスの フランク王国の版図」を、復活できたことになり、
フランス人にとっては、目出度し目出度しということになるのでしょうが、           

でも、
皮肉なことに、もしそれが実現したとしても、

私には フランスが、
魚の王様を釣り上げた「おとぎ話」に出てくる漁師の運命と、
重なり合っているように思えてなりません。

20世紀末に
国民国家の時代が終了して
地域共同体、更には地球連邦へ 人類の歴史が歩み始め、
その歩みの最先端に、ヨーロッパがあるのです。

EUの歩みが、進めば進むほど、
ヨーロッパ全体を束ねるEUに、
各地方が、国民国家を飛び越えて 直接結びつこうとするようになって、

国民国家の存在意義が、
徐々に失われていくのだろうと思います。

また、
技術の進歩により、

ちょうど 江戸時代の各藩が、
明治以後存在価値を失っていったのと同じような動きが、
これからヨーロッパの国民国家に生じてくるのだと思います。

フランスの各地方が、
パリのフランス政府を飛び越して、直接EUに結びつこうとする可能性は、
いくつも思い浮かんできます。

例えば、
バスクは勿論として、

フランス革命の時に中央政府に武力蜂起したブルターニュも、
ブルトン人のアイデンティティーを主張して、
フランスから離れて EUの中の1個の独立行政体として
直接EUと結びつきたい との動きが 出てくるかもしれません。

また、
中世において ドイツの心臓部だった アルザス が、
ドイツ人の魂を蘇らせて、
フランスから離れて、EUの中での独自の地位を要求するかもしれません。

(注) フリードリヒ・バルバロッサや、ハインリヒ6世、フリードリヒ2世の宮廷は、
    アルザス北部のハーゲナウ(ドイツ語読み、フランス語読み では、アグノー)
    にありました。

更には、
リヨンが、
パリに対抗して、中世のアルル王国の復活 を 目指して 動き始めるかもしれませんし、

トゥールーズが、
パリよりもピレネーの向こうのバルセロナと一緒に行動したいと、
同じような動きを始めるかもしれません。

フランスは、
一見すると 中央集権国家 に見えますが、

これは、
本来的には、別々の存在であるモザイクのような地方を、
パリの政府が人工的に結びつけてきた
フランス革命以来の政策の結果であるような気がします。

地方と国家との結びつきは、日本人が思うほど強くはなく、
実は、
19世紀にやっと統一したドイツよりも 本質的には弱いのでは、
という気が、しないでもありません。




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2009年4月23日 (木)

アンヌ・ド・ブルターニュ

最近 渡辺一夫著作集を 第1巻より読み始めていますが、
第3巻の「胎児監理人」の話 という大変興味深い文章の中に、
アンヌ・ド・ブルターニュについて、次のような文章に出会いました。

「しかし、アンヌ王妃は、
 ルイ12世との間に男子相続人が生まれないことになった時、
 自分の資産であるブルターニュ公領を、
 ヨーロッパのしかるべき王家の嫡男に譲ろうと思い、

 当時 まだイスパニア王であった
 後の神聖ローマ・ドイツ皇帝カール5世に眼をつけ、
 これに娘クロード姫を嫁がせようとした。

 近代国家の誕生前のこと、
 所謂 国境よりも、割拠した諸王侯の勢力圏のほうがはっきりしていた
 封建時代 の 余韻が残っていることであったから、

 国境を固め、国防に全力をあげている
 現代の国家意識では律し得ないようなことが、起こりえた。」

 (「渡辺一夫著作集3」25㌻)


この文章を読んで、
アンヌの心境は、どんなものだったのだろうか、と、
天涯孤独で薄幸なアンヌへの同情が、従来にも増して強く感じられたのです。

アンヌ・ド・ブルターニュは、
1477年 に 誕生して
1514年 に 亡くなっています。

37才の誕生日まで あと約2週間 という
享年 36才の若さでした。

アンヌの両親は、アンヌが子供の時に没しています。

母のマルグリッドは、
1486年 アンヌが9才のときに亡くなっています。

父のブルターニュ公フランソワ2世は、
1488年 アンヌが11才のときに、
3年間にわたって ルイ・ドルレアン(後の ルイ12世)と共に 戦った
フランスとの戦いに敗れて

8月19日 ヴェルジュ条約を締結した 半月後 の
9月 9日 に、亡くなっています。

更に、
妹のイザボーも、
父が没してから2年後 の 1490年に亡くなっています。

父 フランソワ2世 が締結させられた、ヴェルジュ条約には、
アンヌは、
フランス王の許可なしには、結婚できないことになっていました。

これは、
ブルターニュ公国をフランスに併合するため、
フランスが、戦いに敗れたフランソワ2世に押しつけた条項でした。

国が敗れた上に、
身よりもない まだ小学生の年齢である 11才の アンヌが 引き継いだ
ブルターニュ公国は、

外には、
公国を併合しようとするフランスが控えていて、
内には、
フランスより利益供与を受けて、
自分の国より自己の利益を優先する大貴族が、反乱を繰り返していたのでした。

早速、
公国を引き継いだ アンヌに、

公国の総司令官で 後見人のリュー元帥 と、
アンヌの養育係の フランソワーズ・ド・ディナン (ラヴァル伯爵夫人)が、

フランソワーズ・ド・ディナンの異父弟 アラン・ダルブレとの結婚を、
強引に申し入れてきたのです。

これは、
4年前に 父 フランソワ2世が、アラン・ダルブレの軍事援助を期待して、
アンヌとの結婚 を 約束していたためですが、

彼らの目的 は、
この結婚によって ブルターニュ公国を奪取しようとすることだったのです。 

そうこうしているうちに、
年が明けた1489年1月初め フランスが、

ヴェルジュ条約を無視して、
ブルターニュ公国に宣戦布告し、攻め入ってきました。

更には、
1月半ばには、
リュー元帥 と フランソワーズ・ド・ディナン との 結婚話の交渉 が、決裂し、

彼らは、それではと、
アンヌに背いて、ブルターニュ公国のナントを拠点として
ブルターニュ公国 を 分裂させてしまいました。

アンヌは、
2月5日に レンヌでブルターニュ女公として即位していますが、
まさに、戦争の最中の即位でした。

この時のフランスとの戦いは、

イングランドやスペインからの援軍や、
ブルターニュ公国の住民の蜂起により、
フランス軍を押し戻し、

7月 フランス王 シャルル8世が、
フランスの北や東から攻められるのを避けれるために
マクシミリアン1世と締結した「フランクフルト条約」により、

アンヌが 両者から
ブルターニュ公国の君主として認められて、終了しました。

その翌年の
1489年3月から5月にかけて 2ヶ月間、

アンヌは、
ブルターニュ公国各地を巡幸しています。

この巡幸は、
明治天皇や昭和天皇の巡幸 と 同じような効果をもたらしたようで、

アンヌは、
その後ブルターニュの人々の心に「良き女公」として、記憶されたのでした。

その3月に、
ハプスブルグ家 の マクシミリアン1世が、アンヌに結婚の申し込みをしています。

マクシミリアン1世は、
ブルゴーニュ公 シャルル突進公の娘 マリアが没してから
再婚していなかったのです。

この結婚交渉がまとまって、
1489年12月19日に、
アンヌとマクシミリアン1世は、レンヌのサン・ピエール大聖堂で 結婚したのでした。

但し、
結婚式に、マクシミリアン1世は出席せず、
マクシミリアン1世にアンヌとの交渉に派遣された ボルハイム元帥が、
新郎 マクシミリアン1世の代理人として 出席したのでした。

アンヌは、
現在だったら まだ小学生の12才の年齢 で、
自分の判断で マクシミリアン1世との結婚を決断しているのです。

まだ子供といえるアンヌの双肩に、
ブルターニュ公国の将来が託されていたのです。

この時のアンヌの気持ちは、どんなものだっただろうと、
いろいろ考えさせられるものがあります。

この結婚を聞いた フランス王 シャルル8世は、激怒して、
すぐさま ブルターニュ公国に攻め入ってきました。

激怒した理由は、2つあります。

1つは、
アンヌの結婚にはフランス王の許可が必要と定めた
ヴェルジュ条約に違反していることです。

アンヌの今回の結婚は、
アンヌの結婚相手を指定して、フランスのものにできると思っていた
ブルターニュ公国を失うことになるのです。

もう1つは、
アンヌの結婚が現実になると、
ブルターニュ公国を自分のものにできないどころか、
敵対する マクシミリアン1世のものとなり、

フランスは、
西は ブルターニュ、
北は フランドル、
東は ブルゴーニュ と

マクシミリアン1世に3方面から包囲され、
フランスの安全が脅かされるからです。

「ヴェルジュ条約に違反する 」との シャルル8世の言い分は、
フランスが、
ヴェルジュ条約を締結してから半年も経たないうちに
ブルターニュ公国に宣戦布告していますので、
私には勝手なものと思われます。

でも、
歴史というものは、勝てば官軍なのです。

アンヌは、
マクシミリアン1世に救援を求めましたが、

ちょうど同じ時期に、ベーメン・ハンガリー王が亡くなり、
マクシミリアン1世は、
ハンガリー王の即位を主張して、戦っている時でしたので、

1491年3月のニュルンベルクの帝国議会で、
マクシミリアン1世が 父の 皇帝 フリードリヒ3世に、
ブルターニュ公国への救援を要請した時に、

「ハンガリー問題を解決せよ」と拒否されて、
アンヌへの救援に赴くことができませんでした。

このため、
アンヌは、レンヌに閉じ込められて、

10月に降伏して、
11月15日に「レンヌ条約」が締結されました。

この時、
アンヌは、シャルル8世との結婚に承諾させられ、

11月19日には 婚約式、
12月 6日には ロワール川中流の ランジェ城 で 結婚させられたのです。

この時の アンヌの気持ちは、どんなものだったのでしょうか。
特に、
マクシミリアン1世に対して、どんな感情を持っていたのか、
いろいろ想像させられます。

聡明な上に、
子供とはいえ 大変な苦労を重ねてきたアンヌのことですから、

「マクシミリアン1世が救援に赴いて来てくれなかったことに対して
 感情を害していなかったのでは?
 マクシミリアン1世への思いは 残っていたのでは?」
と、何とはなしに 思っていました。

「アンヌが、
 マクシミリアン1世の孫の カール5世 と 娘のクロードを結婚させようとした」
との 渡辺先生の文章を読んで、
2つの思い が 生じてきました。

1つは、
「やはりそうだったのか、
 マクシミリアン1世が 忘れられなかったのかな?」
との思いですが、

もう1つは、
「アンヌにとり最も重要だったのは、ブルターニュ公国の独立だったのだな」
との思いです。

どちらが正しかったのか、
はたまた、
両方とも正しかったのか、
これからアンヌの記述を読む際に、考えていこうと思っています。

アンヌは、
その後、ルイ12世と再婚していますが、
長くなりますので別の機会にお話しさせて頂きます。


ところで、
シャルル8世のアンヌとの結婚は、
マクシミリアン1世にとり、全くひどい話でした。

正式に結婚した妻を奪われたばかりでなく、
娘 マルグリットのシャルル8世との婚約が 解消されているのです。

マルグリットは、
シャルル8世が成人に達した 1490年頃より 王妃と呼ばれていたようです。

(日本の歴史書では、
 マルグリットの最初の夫は シャルル8世
 と 記述されているのが多いようです。)

シャルル8世とマルグリットは、
1482年12月 アラス協約により 婚約することになりました。

このアラス協約は、
シャルル8世の父 ルイ11世が、フランドルの市民と交渉した結果を、
マクシミリアン1世に押しつけたものでした。

当時 マクシミリアン1世は、
フランドルともフランスとも戦う力がありませんでした。

ちなみに、
マルグリットは、1480年に生まれていますので 当時2才の幼児でした。
(シャルル8世は、1470年生まれですので、12才です)

アラス協約は、
単なる「婚約の取り決め」だけでは ありませんでした。

ルイ11世は、
マクシミリアン1世の妻マリアの父 ブルゴーニュ公シャルル突進公が戦死した後、
ピカルディ、アルトワ 及び フランシュ・コンテ 等のブルゴーニュ公国の領土を、
火事場泥棒的に占領していたのでした。

マクシミリアン1世に押しつけた アラス協約には、
「これらの領土は、
 一度マクシミリアン1世に返還するが、
 マルグリットの婚資としてフランスのものとする」
との条項があったのです。

マクシミリアン1世の娘を奪うと同時に、
どさくさに紛れて簒奪した領土も、フランスのものにしようというものでした。

アラス協約の締結の半年後の1483年6月に 、
シャルル8世とマルグリットの婚約式の後、

マルグリットは、
人質同然に フランス アンボワーズ城に連れて行かれて、

その後
シャルル8世の姉 アンヌ・ド・ボージュ に養育されたのでした。

シャルル8世は、
アンヌとの結婚により、マルグリットとの結婚(婚約)は解消しましたが、
マルグリットの婚資の領土は 返還しようとしませんでした。

このため、マルグリットは、
1493年5月 サンリス条約で、婚資問題が解決するまで、
再度 人質同然に フランスに留め置かれていたのでした。

フランスは、
アンヌとマルグリットの2人の女性を天秤にかけて、
アンヌを選択したのではありません。

天秤にかけたのは、
ブルターニュ公国とマルグリットの婚資の領土でした。

フランスにとって、ブルターニュ公国は、
2人の王が
他の誰よりも優先して アンヌを妻にし、獲得するだけの価値があった領土なのです。

この2つの結婚により、
ブルターニュは フランスの領土となりましたが、

ブルターニュの人々は、
フランスの植民地支配に苦吟したそうです。

ですから、
アンヌの娘 クロードと、ハプスブルグ家の カール5世との結婚を、
フランス王家が認めるわけがありませんでした。

クロードは、アンヌが没した数ヶ月後、
ルイ12世の次のフランス王 フランソワ2世と結婚しています。

どうして
形だけでも クロードとカール5世との婚約が成立したのか、
しかも、
数年後 更に確認の条約まで締結されたのか、

訝しく感じ、
機会があったら調べてみたいなと思っています。


最後に、
カール5世の婚約者について 少しお話しさせて頂きます。

カール5世の祖父 マクシミリアン1世 は、
「最後の騎士」といわれた皇帝ですが、

その名にふさわしく、
国の存亡の危機に瀕した2人のお姫様から、救援を求められています。

1度目は、
白馬?にまたがって 駆けつけ、お姫様を救出して めでたく結婚したのですが、

2度目は、
それが かないませんでした。

これに反して、
孫のカール5世は、
赤ん坊の時から、ふられっぱなしで、かわいそうなくらいなのです。

先ほど述べたクロードとの婚約は、
1500年8月に成立しています。

カール  は、1500年2月に生まれ、
クロード は、前年の1499年に生まれています。

アンヌは、
カール5世が 生まれた直後に 話を進めて、
8月には 婚約まで持ち込んだのです。

しかも、
1504年 ブロワ条約で、婚約を確定させています。

ところが、
1506年に、
アンヌの2度目の夫ルイ12世により、この婚約が破棄されています。

カールにしてみたら、
生まれたての赤ん坊の時に約束された未来の奥さんが、

6歳の時に、
生涯の仇敵となるフランス王に奪われたのでした。

さらに、
カール5世の悲劇は続きます。

カール5世は、
その後、イングランド王の娘 メアリーと婚約したのですが、

このメアリーも、
アンヌ没後、フランス王ルイ12世に奪われてしまいました。

最初にご紹介した渡辺先生の「胎児監理人」の話は、
このルイ12世とメアリーの結婚後の話なのです。

このように、カール5世は、
人生の初めにおいて、自分の知らないところではありますが、
2度もフランス王家により 婚約者を奪われているのです。

カール5世は、
生涯フランスと戦い続けた皇帝ですが、
その戦いは、
実は 赤ん坊の時から始まっていたのでした。




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2008年8月 3日 (日)

ベルギーが、なくなるかも?

アテネフランスのメルマガを愛読しているのですが、

最近のメルマガで、
「7月17日
 ベルギーのルテルム首相が、辞意を 表明したが、
 国王に認められず、
 有力政治家などによる事態の収拾を計ろうとしている。」
とのニュースのご紹介から始まり、

北部のドイツ語圏と南部のフランス語圏の根深い対立が、
ますます深まっていて、
「ベルギー解消も、タブーでは なくなってきた」との記事がありました。

本ブログでは
「ベルギー ヨーロッパが見える国」で、

ホームページでは
「ベルギーへの誘い(いざない)」で、

ベルギーの 分裂の可能性 について、
書かせていただいておりますが、

「分裂への終わりの始まりが、本当に始まったのでは」
との感じが、しないでもありません。

    「ベルギー ヨーロッパが見える国」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_9488.html

    「ベルギーへの誘い(いざない)」
    http://chuuseishi.la.coocan.jp/070411.htm


EUについては、

最近 アイルランドが、
条約の批准を国民投票で否認して、
国家主権の根強さを、改めて認識させられましたが、

ベルギーの動きは、
逆に、
国民国家のタガが緩んで、

国民国家の中の民族(ネイション)が、
国家を無視して、強く主張し始めた現われだと思われます。

今後 EUは、

一方では、
従来の国家主権に固執する動き、

他方では、
民族(ネイション)により 国家を分裂させようとする動きが、

せめぎあいをしながら、
EUの統合への道を、徐々に歩んでいくのだろうと、思います。

その意味から、

北アイルランドやバスク、

更には、
ユーゴ、

場合によっては、
北イタリア と共に、

ベルギーのフランス語圏とドイツ語圏の今後の動向は、
目を話せられないものだろうと、感じています。

なお、
少し先回りしすぎだろうと思いますが、

もし、
ベルギーのフランス語圏が、
国民投票でフランスに併合されるようなことになったとしたら、

歴史上あれだけ(北部)フランドルを取得しようとしたフランスが、
今回 タナボタで、取得することに対して、
感慨深いものを感じるのは、私だけではないと思います。


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2007年10月 1日 (月)

「繁栄と衰退と」

岡崎久彦著
「繁栄と衰退と」(オランダ史に日本が見える)
(文芸春秋社)


          **********


本書は、
外交官であられた岡崎さんの憂国の書です。

「オランダが、イギリスに 敗北し 衰退した状況が、
 1990年頃までの日本と重ねあわせられるので、
 日本の将来を考える際の教訓が得られる」
との論証は、説得力があります。

過去の歴史は、現在や将来を考える上の参考になる
と、よく言われますが、

17世紀のオランダと日本の政治構造が、
これほどぴったりと重なっていることを指摘された岡崎さんに
敬意を表します。

特に、
オランダを衰退させた宰相 ヤン・デ・ウィットを髣髴させる

国益を無視して 党派の利益を優先する
小沢代表率いる民主党が、参議院で多数を占めるようになった
最近(2007年秋)の政治状況においては、

この本が書かれたときよりも、
議論されていることの重要性が高まっているな
と、感じられます。

(注)私は、
   民主党だけでなく、自民党に対しても、 距離を置いて見ています。


岡崎さんの政治的立場に
反感を持つ方もおられるのでは思いますが、

立場を問わず、
今後の日本の行く末を考えてみよう とされる方に、
一読をお勧めします。


          **********


本書は、
前半部分が、読みづらい本であろうと思います。

著者の意見を理解してもらうために、

16世紀から17世紀にかけての
ベルギー(スペイン領ネーデルランド)、オランダの歴史
を、記述していますが、

特に、
16世紀(1500年代)のスペインに対する独立戦争の経緯は、
読み進めるのが困難と感じられる方が、多いのではと思われます。

もし、
そのように感じられたら、

細かいことは 後から調べなおそう との 気楽なおつもりで、
是非とも読み進めて頂きたいと思います。

というのは、
この部分は、
著者が言いたいことを理解してもらうための
「前段の記述」であるからです。

また、
歴史書というのは、最初理解しづらくても、
一度読み終えて再読すると、よく理解ができるものであり、

本書も その典型であろう
と、思われるからです。

17世紀の記述になると、
イギリスとオランダ
その後、
フランスとオランダとの 単純な関係の歴史となるので、
読みやすくなるし、

この17世紀のオランダこそが、
著者が憂える日本 と 対比されるべき対象なのです。

ここまで来ると
その後は、
一気呵成に終わりの結論まで 読み終えることができる
と、思いますので、

くれぐれも 途中で中断されないように、
著者に成り代わってお願い申し上げます。


          **********


岡崎さんの歴史観は、

ギリシア、ローマのあとは、
中世を飛ばして
宗教改革以降に飛んでしまう、

ヨーロッパのアカデミックな伝統を引き継ぐものと思われ、

必ずしも
私と一致するものではないような感じがしています。

しかし、
本書の対象とする分析においては、
トータルの歴史観は大きな支障をきたすことにはならないので、

この点についてのコメントは、
別の機会にさせていただきたいと思います。




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2007年9月14日 (金)

「ルクセンブルクの歴史」

G.トラウシュ著
「ルクセンブルクの歴史」(刀水書房)


     **********


ルクセンブルクが、
何故、独立を維持できたのか、読み終わっても分らなかった。

ルクセンブルクは、
他の国の地方と、何がどう違うのだろうか。

ルクセンブルクが、独立を維持できるなら、
他の国の地方で、
立派に一国として独立してやっていける地方が、幾つもあるだろう。

それが
何故 独立できなかったのだろうか。


ルクセンブルクが
一国として存在できたのは、単なる歴史の偶然と、
割り切ることのできない「何か」があるような感じがする。

でも、
このように考えるのは、歴史を「深読みしすぎ」でいるのだろうか。


ヨーロッパの中に、塊(かたまり)として
「独立できる部分」と、「できない部分」があって、

それは、
外から見る日本人には分らないということか。


また一つ考えるべき宿題ができたので、
自分の考えを熟成すべく この宿題を温めていこう。

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2007年9月10日 (月)

「ベルギー ヨーロッパが見える国」

小川秀樹著
「ベルギー ヨーロッパが見える国」(新潮社 新潮選書)


          **********


ベルギーが、
オランダ語 と フランス語 の 2つに分かれることは 知っていましたが、

オランダ語圏とフランス語圏は、お互い 別の邦(くに)だけど、
ベルギーという国 は 従来どおり維持しよう と、いうことで、

国家の体制を、
「連邦制」に 最近変更したことを知り びっくりしました。


「国民国家が、
 地域共同体(地域連合)である EUに進化することにより、
 国家としてのタガが緩んで、

 国家の中のそれぞれの地域が、
 国家をスキップして 直接 EUにつながりたいと、今後求めるであろう。 

 だから、
 アンブロシウス共和国(北イタリア)やスコットランド、ウェールズが
 独立するかもしれない」
と、書いたことがありました。


この本を読んで、EUのお膝元であるベルギーで、
北イタリアやイギリスより早く
その事態が現実のものになっていることを知り、
感慨深いものがあります。


私の頭の中で考えていたことが、正しかったことが検証できたわけで、
個人的には喜ばしいことではありますが、

この事態が、
果して良いものなのかどうか、
今後どのような方向に進展するものなのか、
を、今後の大きな問題として 考えていかねばならないと 思います。


最後の方に
「周辺(辺境)理論」を記述されておらますが、

「周辺(辺境)理論」よりは、
「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」に分けて考える方が、
私には正しいような気がしています。


「周辺(辺境)理論」は、
一見もっともらしい歴史の考え方ですが、

よく考えると、
「歴史の担い手」を ぼやかすことができるので、

ヨーロッパ人にとって
都合が良いから主張された歴史観ではないだろうか
と、感じられます。


例えば、
「周辺(辺境)理論」を展開すると、
「風が吹くと桶屋が儲かる」と同じように、

他人様のご先祖様である「古代ギリシア人」を、

自分たちのご先祖様である と、
詭弁を 弄することができるようになりますので、

首を傾げざるを得ないなと思っています。



    ************


(注) スコットランドでも、
    つい最近 独立を目指す動き が 具体化し始めています。


    2007年8月14日
    英スコットランド自治政府 サモンド首相が、
    「スコットランドの未来を選択する国民的対話」と題した
    49ページの政策報告書を大々的に発表し、

    独立の是非を問う住民投票の2010年までの実施を
    目指すと意気込でいる。


    サモンド首相は、

    スコットランド独立 を 党是とす
    スコットランド民族党(SNP)の党首

    (出所;2007年8月18日 時事通信 の 記事)




    ************



補足 1.

小川さんの本に触発されて、
ホームページに「ベルギー への 誘い(いざない)」を
掲載させていただきました。

一度ご覧いただければ幸いです。

http://chuuseishi.la.coocan.jp/070411.htm



    ************


補足 2.

若い頃 「周辺(辺境)理論」は、

「文明の周辺(辺境)部分に現れる「マージナルマン」が、
新たな歴史の発展の原動力になるのでは」と、考えて、

歴史を分析する上で 大事な考え方だな と 思っていました。


その後、
ヨーロッパ中世史の歴史事象を
一つ一つ年表に記入していくうちに、

「周辺(辺境)理論」は、

ヨーロッパ人が、
自分の都合で作り出した 幾つかの理論、理屈の一つ だな
と、考えるようになりました。

そのため本文で書いたように、

歴史には、

ごく一部の民族の「積み重ねの歴史」と
人類の大半の民族の「繰り返しの歴史」があって、

その切り口から歴史を考えた方が、

ヨーロッパ史の本質を、
極端に言うとワンワードで、理解できるのでは、

と、考えています。


「周辺(辺境)理論」について直接言及していませんが、

ヨーロッパが、
世界中を征服して植民地にした理由、

中国やイスラムが、
ヨーロッパの後塵を拝した理由、

更には、
イスラム過激派が、
アメリカなどの西欧文明に挑戦する理由

の根本原因である「ヨーロッパ史の本質」について、

私なりに考えたことを

ホームページに
「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」 との題で
掲載させていただきました。

長文で恐縮ですが、
こちらもお読みいただければ幸いです。

http://chuuseishi.la.coocan.jp/070717.htm

 

 

 

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