チェコ

2021年10月14日 (木)

フランスとドイツは、積み重ねの歴史の国?それとも 繰り返しの歴史の国?

知人より、掲題の質問 を 受け、次のような回答 を しました。
少し面白いテーマなので、
ご参考までに書き写してご参考に供させていただきます。


          **********


結論から申し上げると

フランスは、

積み重ねの歴史 の 担い手 が、半分
繰り返しの歴史 の 担い手 が、 半分 の国で

これが、
イングランドとの植民地争奪戦(第2次百年戦争)で
フランスが、イングランド に 後れを取った原因 だろう
と、思っています。


ドイツは、

本来的に 繰り返しの歴史の国でした。

フランス革命後
ナポレオンに敗れたプロイセンが、奮起して
プロイセンを 積み重ねの歴史の国に転換させ

ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して
ドイツを統一し、ヨーロッパで覇を唱えるまでの
積み重ねの歴史の国に転換させたのですが

1990年 冷戦終了後、
繰り返しの歴史の産物であるマルクス主義を信奉する
東ドイツを合併したことにより

繰り返しの歴史の国に先祖返りして
繰り返しの歴史の国に戻ってしまった
と、感じられるのが、現在のドイツだと思います。

ドイツに対して、このような感じを持ったのは、
50年以上前に 大学に入学した年の秋に
3週間 南ドイツやオーストリアを中心にバス旅行した経験と

数年前に
ドイツ旅行した経験を比較して 感じたことなのです。

50年前には、
西ヨーロッパの国を訪れたな
との感じを持ちましたが、

数年前は、
ドイツの資本主義の心臓部であるフランクフルトにおいてさえ
冷戦時代の東方の国と思えるほどの 陰鬱さ、沈滞 を 感じて
驚愕したことが忘れられません。


以下、
フランス史とドイツ史の概略をご説明させていただきます。




1.最初に、

  フランスとドイツの国の成り立ちを理解するための前提として
  ヨーロッパと日本の「封建関係」について、
  一言述べさせていただきます。


日本の封建関係 は、
家臣は、主君に忠誠を尽くして、二君に仕えない
のに反して

ヨーロッパでは、
主君と家臣は、契約関係であり、
すく数の主君を持つ者 も ざらにあることが

異なる点である、
とよく言われますが、

私は、
これに疑問を持っていて、
これが、
ヨーロッパ理解を過つ原因になるのでは?
と、感じています。

ヨーロッパにおける封建関係が、
契約関係だとの認識には、同意しますが
日本の封建関係については、
疑問を持っています。


日本の封建関係は、
二層構造になっているのでは?
と、感じられます。

即ち
主君と家臣との関係 と
対等な 主君同士の 主従関係(契約関係)
(例えば、織田信長と徳川家康、豊臣秀吉と徳川家康)

最初の 主君と家臣との関係は、
一般に言われている通りの
複数の主君に仕えない との封建関係です。

二つ目の
対等な主君同士の主従関係(契約関係)とは、
ヨーロッパの封建関係と同質の
利害に基づく関係だろう と、感じられます。

例えば、徳川家康は、
織田信長や豊臣秀吉が存命中は、
信長や秀吉に従順に従っていましたが、

秀吉没後
豊臣家を打倒できる状況になると、

従来の主従関係を無視して、
豊臣家 に 牙をむいて 滅亡させて、
徳川幕府 を 創始しました。

これは、
ヨーロッパの封建関係と、
全く同質のもののように感じられます。


ヨーロッパで
日本のような主君と家臣の関係が一般化しなかったのは、
地域における権力構造が異なっているからのよう に
思われます。

この点への理解が、
ヨーロッパの歴史理解の前提となるような気がしています。

日本においては、
一つの国(尾張の国とか、美濃の国)の主君は、
原則そして 一人でした。

ところが、
ヨーロッパでは、一つの土地に、複数の主君が存在していました。

例えば、中世の北フランスは、
フランドル伯の領地でしたが、

同時に、
同じ土地に対して
フランス王も 国王としての宗主権 を 有していたのです。

更に、
神聖ローマ皇帝(ドイツ王)も、
フランドル伯の君主としての権利を主張していましたし、

フランドルとの緊密な経済関係を有するイングランドも
領土を奪取しようとして 派兵する動きも見せていました。


このように、
一つの領土 に 対して、権利 を 主張する 複数の君主 が 存在したことが

日本におけるような
主君 と 家臣 との 封建関係 が 成熟せず(一般化せず)に

日本における 君主間の契約関係しか
ヨーロッパにおいて成立しなかった原因では?
と、感じられます。


(注)ヨーロッパにおいても、
   主君と家臣の関係は、一般化はしなかったものの
   当事者間では、存在していたことを否定するものではありません。

   尼子家再興 に 奮闘した 山中鹿之助 のような 家臣 も 存在しましたし、
   武士道 と 同質と思われる の騎士道 も ヨーロッパに 存在していました。

   歴史というものは、
   All or Nothing と、明確に区分できるものではなく
   常にグレーゾーンが存在することを、 ご理解ください。



2.フランス史 の 概略

フランスは、

500年ころ ベルギー の トゥルネー から パリ に 進出してきた
クローヴィス が、建国した国です。

西フランク滅亡後(消滅後)
カペー朝が、 フランス王に選出され、

フランス革命まで
カペー朝の血統(本家の血統が途絶えた後は、分家の血統)が
支配しました。


フランス王に即位したカペー朝は、
フランス王として フランス全土に対する統治権を
理論上は持っていましたが、

実際に統治できていたのは
イール・ド・フランス(パリ周辺)
せいぜい パリからオルレアンまでの地域でした。

即ち、
パリ周辺の 弱小領主が、弱小ゆえに
フランス王に即位したのでした。

ドイツでも、
ハプスブルグ家 が 皇帝 に 選出されたように

フランスでも
強大な諸侯 は、フランス王 への 即位 を 阻まれたのです。


カペー朝がフランス王に即位した当時 の
フランス の 領土範囲は

東は、
シャンパーニュまでで
ロレーヌも アルザスも 神聖ローマ帝国(ドイツ)の領土でした。

また、
ソーヌ川、ローヌ川の東側も、
神聖ローマ帝国の領土で、フランスの統治権の範囲外でした。

パリの西側 は、
北のノルマンディーからピレネーまで
フランス王の宗主権の範囲内でしたが、

実際には、
ノルマンディー公、アンジュー伯、アキテーヌ公などが
統治、支配していて
フランス王の宗主権は、名目だけの存在でした

更に、
ブルターニュ公国、トゥールーズ伯は、
フランス王より独立していて、
フランス王の宗主権も及びませんでした。

(注)トゥールーズよりプロヴァンスにかけては、
   南のアラゴンとの統合の方 に 動いていたのでは?
   と、感じられます。

   アラゴン と トゥールーズ および プロヴァンス
   の 統合 を 阻止するため が、

   13世紀前半 に
   フランス王家とイングランド王家が
   プロヴァンス伯家の4姉妹 と 政略結婚した理由では?
   と、想像しています。

また、
北フランス は、フランドル伯の領土 でした。

先ほど述べたように
フランドル伯は、ほぼ独立していて、

その上位に、
フランス王、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、イングランド王が
宗主権を主張して けん制しあう 複雑な政治模様 を 呈していました。

(注)第4回十字軍 が、ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
   フランドル伯が、十字軍 が 建国したラテン帝国の初代皇帝 に
   即位しています。

   また、
   フランドル伯家 が、短期間で血統 が 断絶した後
   フランドル伯の娘と結婚した カペー朝の分家が
   その後の皇帝に即位しています。

   フランス王ルイ9世 が、 聖遺物を購入して
   パリの シテ島で、サント・シャペルを建立したのは、
   このような関係があったからでしょう。


フランスの歴史を一言で申し上げると、

パリ周辺の弱小領主が、
フィリップ2世以降 フランス王の宗主権を活用して
周辺の大諸侯 を
駆逐するか or 服従させるか、または 併合して、
統治権 を 拡大、確立し、

更には、
神聖ローマ帝国 や、
独立諸侯だった
フランドル伯の一部、ブルターニュ公、トゥールーズ伯より
領土を併合していって

フランスという国 を 統合、統一していった歴史
と、いえるでしょう



積み重ねの歴史の担い手は、
北フランスからフランドルにかけての地域の人々ですので、

フランス の 大部分の地域 では、
繰り返しの歴史の人々 が 居住しているのです。

従って、
フランスにおいては、積み重ねの歴史の担い手は、
少数派というべきでしょう。

しかし、
積み重ねの歴史の担い手が、
カペー朝が、フランス各地を併合する際に
主導的役割を果たしたのでは と、想像しています。

言い換えると、
フランスという国 を
リードし、形成した人 との側面から 観察すると

少数派の積み重ねの歴史の地域の人々が リードしたのでは
との 少し 別の見方 になるような気がしています。

例えば、
16世紀後半 フランスは、
宗教戦争の嵐 が 吹き荒れました。

この時期、宗教戦争をリードしたのは、
北フランス出身の人々だ
と、 渡辺一夫先生は、記述されておられます。

カルバン派
カトリック、
それに
ユマニスト の3派 が 現れましたがが、

その3派 の リーダー は、
全員 北フランス出身者だった というのです。

渡辺先生は、
繰り返しの歴史の地域である
ロワール川下流地方出身のラブレー研究における 世界的権威
で あられましたが、

その先生が、
16世紀後半 の フランス を 分析して、
フランス を リードしたのは、北フランス出身者だ
と、考えておられるのです。

ですから、
フランス史において、
北フランス出身者の影響力 は、無視できないのでは?
と、想像しています。



3.ドイツ史 の 概略

フランクの支配が終了して、ドイツ史と歩み始めたとき
ザクセン朝が、ドイツ王に即位しました、

ドイツは、フランク解体過程で
中フランク(ロタールの国)が、ドイツに編入されたため

ドイツ王が、
神聖ローマ皇帝 を 名乗る とともに

ローマ帝国の本拠だった、イタリア の支配に注力して
ドイツ国内の統治がおろそかになりました。

ザクセン朝の男系血統が断絶して、
ザクセン朝の娘 と 結婚した シュタウフェン朝 が、
ドイツ王 を 引き継いだ後 も、状況 は 変わりませんでした。

というよりは、
更にイタリアの統治 に 注力し、

中世最大の皇帝 と いわれる フリードリヒ2世 においては、
イタリア生まれのパレルモ育ちだったこともあって、

ドイツにはほとんど赴かずに、
イタリアの王様として 生涯 を 過ごしています。

神聖ローマ帝国(ドイツ王)に
北と南から攻められる状況に陥った
教皇権 と ロンバルディアなどのイタリア都市国家が、

シュタウフェン朝に 対抗するために、

フランス を
イタリア に 引き入れて
ヨーロッパ史 を 大きく動かすことになるのですが、

今回とは別の話なので、割愛させていただきます。


皇帝不在(国王不在)のドイツは、
不在の間 に、大諸侯 が 割拠する 領国体制 を 確立しました。

この領国体制が、
19世紀初頭 ナポレオン に ドイツ が 敗北するまでの
500年以上 継続しています。

その間の歴史は、
繰り返しの歴史であり、

積み重ねの歴史を重ねて、実力を蓄えた
イングランドやフランスの後塵を拝したのです。

後塵を拝した表れとして、
フランス王より一つ格上の皇帝だったドイツ王(神聖ローマ皇帝)が
イングランド王やフランス王の家臣として、
先頭に従軍した例をご紹介させていただきます。

フリードリヒ2世に対立した ヴェルフェン家 のオットー4世は、
イングランド王 ジョン王の家臣として、

1214年 ブーヴィーヌの戦いに出陣し、
フィリップ2世に敗北し ドイツに逃げ帰っています。

オットー4世の父は、シュタウフェン朝の皇帝を対立して 敗北し、
ドイツから追放された際に
妻の実家のプランタジネット朝(アンジュー家)を頼って亡命しました、

オットー4世も、父に従って フランスに赴き
ポワトゥー伯として、プランタジネット朝の家臣として働いたのです。

ですから、
ジョン王が、フィリップ2世と戦った際に、
ドイツよりはるばるフランスに出陣し、
ジョン王の家臣として フィリップ2世 と 戦ったのです。


カール4世も、
1346年クレシーの戦いで、
主君である フランス王 に 従って、出陣しています。

カール4世のルクセンブルク家は、事実上フラン王の家臣でした。
カール4世自身も、フランスの宮廷で育っています。


カール4世 は、自分の名前 を
崇拝する フランク王 シャルルマーニュに因んだカールとしました。

シャルルマーニュ
即ち、
シャルル大帝のシャルルは、ドイツ語ではカールなのです。

(フランス語のシャルルマーニュを、
 日本で カール大帝 と 呼ばれるのは そのためです。)

カール4世は、
ドイツ王に即位して間もなく、
父ボヘミア王(チェコ王)ヨハネスに従って、
フランス王の許に はせ参じたのです。

尚、カール4世 は、父 クレシーの戦いで戦死した後
ボヘミア(チェコ)王として、国民から敬愛された国王でした。

カール4世の娘さんが、
イングランド王と結婚したことにより、

カール4世 を 敬愛していた チェコ人 が、
イングランド に 多数 留学して、
ウィクリフの教え を チェコ に 持ち帰り、

チェコで
フス派 が 勃興して、
フス戦争(宗教戦争)を もたらしました。


少し横道にそれましたので、話を戻しますと、

ドイツは、
繰り返しの歴史である 領国体制が、
19世紀初め に ナポレオンに敗北するまで継続しました。

このため、
激烈なイングランドとの積み重ねの歴史を競ってきたフランスに対抗できず、
簡単に敗北してしまいました。


ナポレオンに敗北後、
プロイセンが、奮起して、プロイセンを積み重ねの歴史に転換させ
ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して、

19世紀後半に フランスを破り
中世末に フランスに奪われた ロレーヌとアルザスを
ドイツに取り戻したのです。

現在 ストラスブール大学に、
フランス唯一の プロテスタント の 神学部 が 存在するのは

もともと アルザスが、
ドイツだった との経緯 に よるものだろう と、思います。

(注)アルザスは、
   中世において、ドイツ の 政治における心臓部 でした。

   シュタウフェン朝の宮廷は、
   ストラスブールの北のアグノー(Haguenau、ハーゲナウ)に
   所在していて、

   リチャード獅子心王の母 アリエノールが、
   ローヌ川の南の ポワトゥーから 船で ライン川 を 河口から遡って
   身代金を運んだ先が 

   現在においては
   フランス国内の町だったのです。

20世紀に入り、ドイツは
ヨーロッパ
更には 世界制覇 を 目指して
第一次大戦、第二次大戦 と 戦いましたが、
アメリカに 敗北して 挫折しました。

冷戦終了後
西ドイツが、東ドイツを併合して
戦前のドイツに戻りましたが

文化的というか、歴史的というか
ドイツとしての国の立ち位置が

積み重ねの歴史の国から
繰り返しの歴史の国に 先祖がえりをしたような気がしています。

今後、このままでは、
激烈な国際競争の中で、

ドイツが、
経済面で後れを取ることになろうかと思いますので、

ドイツが、いつ目覚めて 積み重ねの歴史の国に復帰するのか
それとも
イタリアみたいな繰り返しの歴史の国のまま推移するのか
注目していく必要があるのでは、と感じています。

というのは、
ドイツの動向が、今後のEUの動向を左右する
大きなファクターとなるのでは?と感じられるからです。

また、
アメリカと中共の間で、戦争が勃発したら、
繰り返しの歴史の国であるドイツの動向も 注目されるのでは?
と、思われるからです。



 

 

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2008年7月22日 (火)

フス派 と ウィクリフ

歴史の中には、
「気にはなるけど、放置したまま」になってしまう事柄があります。

昔、高校で、
「ウィクリフの考え方が、
 イギリスへの留学生によりチェコに輸入され、
 フス派に影響を与えた」
と、学んで、

「フランスやイタリア等ではなく、
 何故
 チェコ人が、イングランドに 留学したのかな」

「ウィクリフは、
 何故
 チェコだけに広まったのかな」

と、気にはなりましたが、
それ以来40年以上、放置してきました。

  ウィクリフ 生没年 1320頃~1384 享年 64才位
  フス     生没年 1370頃~1415 享年 45才位

最近、
ゴンサレスの「キリスト教史 上巻」を読んでいたら、

「当時、
 イングランド王リチャード2世が、ボヘミアの王女の結婚していた関係で、
 多くのチェコ人学生が、イングランドで学んでいた。

 このため、
 ウィクリフの著作は。彼らによってボヘミア(チェコ)にも持ち込まれた。」
との記述を読んで、

びっくりすると共に、
早速「ウィキペディア(英語版)」で、調べてみました。

  出所;ゴンサレス「キリスト教史 上巻」374㌻


リチャード2世は、

1382年1月22日
神聖ローマ皇帝 兼 ボヘミア王 カール4世の娘  アン・オブ・ボヘミア と
結婚しているのです。

アンは、可哀想なことに、
12年後の 1394年6月7日に ペストで没しています。

リチャード2世は、
1396年 フランス王 シャルル6世の娘 イザベラ と再婚しています。

  アン       生没年 1366年7月11日~1394年6月7日 享年 27才
  リチャード2世 生没年 1367~1400 享年 33才
  カール4世   生没年 1316~1378 享年 62才

アンは、
父カール4世が没してから、15才で イングランドに嫁いでいます。

10代のアンが嫁いだイングランドに、
チェコ人が、多数留学したというのですから、

チェコ人が、イングランドに留学したのは、
アンの父親である カール4世へのチェコ人の親愛の情の表れでは、
と 思われます。

カール4世は、
チェコ人に よほど好かれていた王様だったのでしょう。

そのカール4世の息子 ジギスムントが、
1415年
コンスタンツ公会議 で フスを だまし討ちみたいな形で 処刑し、

チェコ人の反乱(フス戦争 1419~1436)を招いたのは、
避けることの出来ただろう 残念な歴史の一つだと思います。

カール4世は、

皇帝の選挙制を確定させた 1356年の「金印勅書」や、

1348年 
ドイツでの最初の大学として プラハ大学を創設したことが有名ですが、

私には、
1346年 クレシーの戦いに、

歴代ドイツ王(皇帝)の中で、フランス王の臣下として参戦した
ただ一人のドイツ王(皇帝)として、印象に残っています。

クレシーの戦いでは、
カール4世の父 盲目のボヘミア王 ヨハンが、 戦死しています。

ヨハンは、
目が見えないのに、敗戦と知って、
馬に体をくくりつけて、敵陣に飛び込んでいったのですから、
殺されるのは当たり前ですが、

それだけ、
主君のフランス王への忠誠心が篤かったのだろうと、思います。

ルクセンブルク朝以外のドイツ王(皇帝)で、
外国の王様の臣下だったのは、

1214年
ブーヴィーヌで フランス王 フィリップ2世 と 戦った、オットー4世がいます。

オットー4世は、
皇帝に即位する前に、

アンジュー家(プランタジネット朝)ジョン(欠地王)の臣下(ポワティエ伯)として
仕えていました。

オットー4世の主君のイングランド王ジョン(欠地王)が、
ブーヴィーヌの戦い の事前の戦いで敗れていたため

ブーヴィーヌの戦いには参戦できませんでしたので、
形は、
皇帝とフランス王の戦いとなりました。



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2007年9月16日 (日)

「物語 チェコの歴史」

薩摩秀登著
「物語 チェコの歴史」(中公新書)


     *********


分りやすいチェコの歴史で、よく纏まった好著の一つだと思う。


モラヴィアがチェコだとはっきりしたのは、収穫。

「外国に支配されている時代は、歴史として語るものがなくなるのだな」
と、痛感した。

というのは、
モラヴィア王国から中世にかけての生き生きとした歴史が、
18世紀になると様変わりになるからである。

著者が、「あとがき」で、
「ハプスブルグ家が支配した17世紀から19世紀まで、暗黒時代と呼ばれた。

 それにしては、
 この国が世界に誇る文化遺産が、この時代に多いのもなんとも不思議だ」
と、書かれているが、

「物質的に満足する状態であっても、
 民族としての主体性を発揮できる独立国でなければ、歴史は築かれない」との表れ
のような気がする。


どんなに貧しくとも、
独立を目指す抵抗運動の歴史が途絶えることがないのは、
このことによるのであろう。

これも、
このような経験のない日本人には、
肌で感じることのできない歴史上の事象の一つなのであろう。


「よその国や民族に支配された国の歴史は、成立するのか、
 このような国の歴史とはとは何か」との、
歴史を考える上での難しい問題が浮かび上がってきた。

 

 

 

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