憲法9条

2020年10月28日 (水)

昭和20年 敗戦時点 で 思考停止しているのでは?・・・日本学術会議 任命拒否問題 再論



前回、
「学術会議の推薦した通り 任命せよ」
との お考えの背景 にある 精神状況 が、

戦前の青年将校や陸軍 と 同質ではないだろうか?
日本 を 危うくする契機 を 含んでいるのではないだろうか?
との 疑問 を お話 を させていただきました。

ネットを拝見していると、
前回の精神状況への不安とともに、

学術会議の先生方の思考が、
敗戦時点 で ストップしていて、
その後の状況変化 を 勘案されておられない のでは?
との疑問 が、生じてきました。

日本を代表する先生方に対して、失礼かとは思いますが、
「学問の自由」を 標榜する先生方 への 根本的な疑問 でもあり、
日本の行く末に関することなので、

我ながら ドン・キホーテみたいだな と 思いつつ、
忌憚のない意見 を 述べさせていただきます。


   **********


私は、
学者先生、とりわけ大学教授は、
世の中に いくつもある 専門職の一つ で、

大学時代の成績が優秀なゆえに、
ある学問分野 を 専門にされ、研究されておられるのだろう
と、考えています。

別な言い方をすると、
専門分野以外 に 関しては、他の職業 に つかれた方 と 同じように、
専門性 を 持たないのでは?と、思われます。

このことが露になり、白日の下にさらされたのが、
東大紛争 の 医学部教授団の処分問題に対する対応 だろう
と、思います。

医学部 の 先生方 は、
医学に関する専門性ゆえに 大学教授 と なられたのであり、

学生 の 処分問題に対しては、
専門性を持たない、素人集団であること が、
明らかになって 批判のされ、

医学部内だけに収まらず、全学的な紛糾をもたらしたのでした。

今回、学術会議のニュースを拝見していると、
憲法の専門家 も 含めて、
戦前の国家 に よる 大学への弾圧 を 繰り返してはいけない
との側面から、今回の政府 を 批判されていて、

戦後の歴史状況 に対する
正面からの回答 が 欠落しているような気がします。

特に 気になる点は、
戦前 の 大学への弾圧、侵害 を 例に出されて、

戦後、私が育った頃(昭和20年代~30年代)と 同じような主張 を
ステレオタイプ的に
21世紀に入り 20年も経過した現時点においても
繰り返して主張されておられる報道 を 見るにつけ、

思考 が、
戦前 から 昭和20年敗戦時点まで で ストップしていて、
それ以降 の 1世紀近くの(正確には75年間の)歴史推移、

とりわけ
最近 の 日本をめぐる国際情勢 に対する ご見解 が
欠けておられるのでは?
と、思われることです。

太平洋戦争中、日本国民 は、
数百万人もの 尊い人命 が、
日本政府により 虫けらのように 屠殺された経験 を しました。

このことが、トラウマになって

「戦争放棄」の憲法9条が、
最近まで 国民 の 熱い支持 を 得てきた所以だと 思います。

国民から 冷たい目 で 見られてきた 自衛隊の努力 に 加えて

アメリカの軍事力 に、日本 が 守られていること と
周辺諸国の軍事力 が、日本 を 征服するほどではなかったこと が、

憲法9条 の 存続の背景 に あったことが 否めませんが、

政府 に 二度 と 虫けらのように屠殺されたくない
との 日本国民のコンセンサス が、
憲法9条 を 支えてきたのでは ないでしょうか?


注)日本国が、主権の発動 として、
  戦争したことを ここで問題にしているのではありません。
  (この問題は、別の議論 だと 考えています。)

  日本国 が 戦争に際して
  兵士 に 十分な武器や食料 を 与えず、

  単に、
  米軍 の 標的 に さらし、餓死させたこと
  を 申し上げているのです。

  例えば、
  兵站 を 無視した インパール作戦 や ガダルカナル島、
  更には、
  軍事的にほとんど無意味な特攻作戦なとで、

  また
  日本の戦力 が 枯渇して、
  戦争遂行能力 を 喪失していたにもかかわらず、

  降伏せずに 漫然と 無駄な時間 を 無為に過ごして
  米軍の空襲(例 東京大空襲、原爆投下)により

  兵士 や 一般市民 を 虫けらのように屠殺したこと に対する
  日本国民の反応(トラウマ)を 申し上げているのです。


大学の先生方 は、
「政府 に 二度と屠殺されたくない」との
日本国民 の トラウマ に 安住して、

現在 に 至るまで、
昭和20年時点より 検討 を 一歩 も 前進させていない
のではないでしょうか。

例えば、憲法9条 は、

諸国民、
とりわけ 周辺諸国 が、平和愛好国である との

アメリカ が 提示した(押し付けた)おとぎ話 に 基づいて、
日本 も そ れらの国のようになること を 決意し、
戦争放棄しているのですが、

もし、周辺諸国 が、
憲法前文 や 憲法9条 が 想定していない
侵略国家だったら

「日本 は どのように対処するのか」
との 規定の欠落 に対して、

憲法学者の間での議論 が 深まっておられる
との ニュース に
お目にかかったこと が ないような 気がします。

日本をめぐる 現実の国際情勢 は、

周辺諸国 が、
憲法が 想定するような国 とは 真逆な存在 であることが
明らかになり、

更には、
日本 が 攻撃される可能性すら 生じてきています。


ロシア は、
北方4島(本当は千島列島)を 敗戦のどさくさで
占領して居座ったままですし、

注)千島列島 は、
  明治時代 ロシアとの間で 樺太 と 千島 の 交換条約により
  日本の領土 と なった れっきとした日本領土であり

  戦争、その他 で 獲得した 台湾、朝鮮 や 太平洋の諸島 とは
  性格 が 異なる領土です。

  念のため申し上げますが、
  千島列島 の 歴史的経緯 を ここで申し上げたのであって

  現時点において
  ロシア に 千島列島の返還を要求するように
  と、申し上げておるわけではないことを ご理解ください


韓国 は、
サンフランシスコ条約 の 調印 と 発効 の間に、
日本国領土(竹島)を 強奪した上に、

最近では
反日姿勢 を 更に 強めて

軽空母 や 原子力潜水艦 の 建造計画 を 立案して、
日本への牙 を 研いでいます。


チャイナ(中国共産党)は、

日本 が、
国連 に 尖閣周辺(東シナ海)に 石油 が 埋蔵されている
と、調査結果 を 報告すると

それまで
日本領土 と 認めていたにもかかわらず
尖閣諸島 の 領有権 を 主張して、

隙あらば
尖閣諸島のみならず
沖縄 も 占領しよう との 動き
を 見せています。

また、
現在 行われている アメリカ大統領選挙において

チャイナ(中国共産党)の
アメリカの民主党やマスコミに対する 工作活動 が

あぶりだされつつあるような気がしていますが、

日本においても、
同様なことが水面下で進展しているのではないでしょうか。

国家間 の 争い においては、
軍事衝突だけでなく、

平時における 工作活動 も 重要な戦略の一つ である
と チャイナ(中国共産党)は公言していますので、

日本においても
水面下で 実施しているのだろう と いうことを踏まえて
対処 を 検討すべきでは?
と、考えるべきではないでしょうか。


以上のような
昭和20年段階では、想定し得なかった
国際情勢 の 変化に対して、

日本学術会議 は
どのような ご見解 を お持ちなのでしょうか。


国家 に 抵抗して「学問の自由」を 守らねばならない
との 敗戦時点の決意 に 加えて、

特に、
最近 の チャイナ(中国共産党)の
水面上 および 水面下 の 侵略工作 に 対して、

憲法9条 を 含む
「日本 が とるべき方策」についての、
日本学術会議 の 提言 を 拝聴したいし

この点に関する 議論 が 進展すればよいのにな
と、考えるのは、私だけなのでしょうか?













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2018年7月11日 (水)

悪法も 法か?

本ブログは、
オーム真理教死刑囚が死刑執行された際に

「オーム真理教死刑囚死刑執行で考えたこと
 ・・・法や刑事裁判の本質からみた
   死刑制度、裁判員裁判反対論・・・」

と 題して

2018年7月11日 に 掲載したものです。

内容は、
1.法学の本質について
2.刑事裁判の本質と裁判員裁判反対論
3.死刑制度について

について記述しています。

この拙文は、
今まで法学について いろいろ考え、ブログに書いてきたことの
私なりの到達点でもありますので、

私の法学本質論を一言で表現する表題がふさわしいのでは、
と、考えて

異例ではありますが、改題させて頂きました。


「法の本質」についての結論を申し上げると、

法曹の方は、本心では
「悪法は、法ではない。
 従って、
 悪法が 法である場合 は、自分が 正しい法 に 修正する」
と、考えておられるのだろうと推察しています。

これが、
ローマ法以来3000年間
営々と築いてきた法学の核心なのだろうと思います。


これに反して、私は、
「悪法であっても、
 法として存在する限り、その法に従うべきである。

 その法が、
 不適当であり、法として妥当性を持たない場合は、
 法律改正して対処すべきであり、

 法律家が、
 個人的な判断で、法を枉げて運用すべきではない」
と、考えます。

この考え方は、
「社会秩序を恙なく維持する為に法律がある」との
法の本来の目的からは、
一見反しているようにお考えになる方が多いのでは?
と、思いますが、

ウソと賄賂が横行し、私利私欲のむき出しが本質である
人間社会を規正する法として、

この程度の制約を課しておいた方が良いのでは?
と、考えるからです。

法曹の方は、
自分のリーガルマインドが絶対であり、
それに従えば、必ず妥当な正しい判断ができる、
その為に、長年修練を重ねてきたのだ
と、お考えだろうと思いますが、

ヨーロッパ史を長年読んできた私にとって、
ある確率で 必ず
私利私欲、自分の立場に基づいて、判断し、行動する人が
存在するので、

法曹のリーガルマインドに、全面的に信頼するのは危険である
と、感じられます。


前書きが長くなり恐縮ですが、

以上を踏まえて
以下の拙文を読んで頂ければ幸いです。

2018年10月12日 追記





オーム真理教の麻原彰晃および信者の死刑 が 執行され、

EU や 死刑廃止論者から
死刑廃止論が、改めて提起されています。


死刑、懲役刑などの刑罰について、

学生時代
応報刑、教育刑の考え方の対立がある
と、教わった記憶があります。


死刑は、

誤審の可能性が否定できない以上、廃止すべきだ
との主張がありますが、

それでは、
被害者や被害者家族の人権は、どうしてくれるのだ
との反論がなされて、

議論が平行線になります。


また、EUが、今回
日本政府に死刑廃止すべきと申し込んだ と、聞くと、

EUで死刑廃止されてから、犯人逮捕の際に、
警察が、どんどん射殺するようになったのでは?

このことは、
裁判を経ずして 死刑を執行するリンチと同じでは?

EUの刑法が、中世に逆戻りしている現れでは?

との疑問が、沸々とわき出てきます。


要するに、
死刑を廃止するかどうか、については、

立場立場、
その人の価値観によって、見解が相違する、
神々の争いの一つであり、

ある面から見ると、こうあるべきだ、
別の面から見ると、別のこうあるべきだ
との考えが浮かぶ性格のものだろうと感じられます。

その意味で、
永遠に続く、結論の出ない議論ではないでしょうか。


法とは、
そういう性格の物事に、一つの社会的な結論を出して、
社会の平穏を維持する為の知恵であり、

法学は、
謎解きを目的とする 他の学問 と 本質的に異なるもの
のような気がしています。



私は、
死刑が存在している理由を考える際に

法律の本質に基づくのでは?
刑事裁判の本質に基づくのでは?
と、考えると、

良い悪いは別にして、
何故 死刑が刑法に規定されるのかが、理解できるのでは?
と、考えます。

今回は、その辺のお話をして、
死刑の賛否を考える際のご参考にして頂ければと考えます。


なお、今回は、
今までいくつかお話ししたものを、
改めて 整理して お話し し直すもの ですので、

必要に応じて、
関連のブログをご覧下さるようお願い申し上げます。




1.法律、法学の本質

法律、法学の本質は、
海上に漂う氷山に例えることができるのでは?
と、考えています。

即ち、
海上部分には、
「法律」と「リーガルマインド」が存在し、

それを、
海面下に存在する「慣習法」が支えている
と、例えることができます。


歴史的に見ると、

長い間、海面下の「慣習法」だけでしたが、

19世紀初めに
ナポレオンが、民法典を制定して、
海面上の部分が表れたのです。


何故、海上部分が、
「法律」だけでなく、「リーガルマインド」も存在するかというと、
次の事情があるからです。


即ち、
法律は、
文章で 規定されていますので、
改正しなければ、変更がありません。

ところが、
法律が規正する社会は、どんどん変化していきますので、
以前に制定された法律が、
社会の変化にそぐわないものになった場合、

法改正は、
そう頻繁に行われないことを勘案すると、

その調整役として、
リーガルマインドが必要となるのです。

フランス民法典が制定される以前でしたら、
慣習法だけでしたので、

判例により、
社会の変化に方が追随していくことができたのですが、

制定法ができてからは、

法律が、
社会の変化から置いてきぼりされてしまう事態ができたので、
それに対処する必要性が生じたのです。

また、
慣習法の時代でも、
判例が、社会の変化に追随する為に、

リーガルマインド が、
制定法の存在する社会よりも、法曹の方に求められたのです。

これが、
アメリカで、ケーススタディの授業が、
日本や大陸法の国々よりも 熱心に行われている所以だろう
と、思われます。


「法律」と「リーガルマインド」の2つにより、
法が運用されていることは、

法律実務者、即ち判事の方が、
次のような不思議なことをおっしゃっておられることにも
表れています。


一つは、
戦前の民法学者で日本における労働法の創始者であられた
末弘先生が著書「嘘の効用」で、
次のような随筆を書かれておられます。

  末弘先生が大学を出て間もないときに、
  刑事裁判官だった先生のお父様が、
  次のようにおっしゃったそうです。

  「一体お前は、法律を むやみに理屈一点張りに
   考え抜こうとしているけれども、
   それがそもそも非常に間違っている。

   俺などは、事件を見ると、全く理屈などを考えずに、
   これは懲役何年とか罰金何円とか言うような具合に、
   頭の中に自然に裁判(判決)が生まれてくる。

   それに、後から
   法条や判例、学説などを照らし合わせて理屈をつける。

   すると、
   俺の頭の中に自然に生まれた裁判(判決)が、
   ちゃんと理屈に合っていることを発見するので、

   お前らは、裁判(判決)が
   三段論法的推理 で 理屈から生まれる ように
   思っているかも しれないが、

   そんなことは、
   駆け出しの裁判官ならとにかく、
   我々は、全くそんなことをしない。

   大学では、
   三段論法ふうに法律を教えているけれども、

   あれは、
   ああしないと学生に分からないからで、
   謂わば教育の方便、

   実際の裁判(判決)は、
   むしろ三段論法の逆をゆくのだ・・・・」


  末弘先生は、
  「全く途方もないこと を 言うものだ」と、思ったと、
  率直に 記述されておられます。

  その後、
  末弘先生が、アメリカに留学して、
  アメリカの法学教育、ケーススタディーをご覧になって
  帰国された後、

  お父様と次のような会話をされた と、
  記述されておられます。

  「お父さんが、かって、
   裁判(判決)は理屈を通してではなしに、自然に生まれる
   と、言われた言葉の意味が分かりました。

   今まで 私たちの当然と考えていた法学教育の方法が、
   いたずらに理論を教えることにのみ専念して、

   学生をして 事を直感せしめた上、
   それに理論的批判を加えて、
   確固たる悟りを開かせることを怠っている、
   それが いけない と 言われたのでしょう。」

  すると、父は言った。
  「何も俺は、それほど難しい理屈を言ったのではない。
   知識の極致に達すると、直感と理論とが自ずから一致する。

   そのことを ただ、俺の体験から感じていっただけのことだ。
   ・・・(以下略)」

  末弘先生は、
  「体験的に、直感と理論との一致が、知識の極致である
   という結論に到達したことに対して、
   理屈なしに頭を下げた」
  と、記述されておられます。

  出所 末弘厳太郎「嘘の効用上 教育と直観」
      冨山房百科文庫 286㌻~193㌻

  注;文中の「裁判」は、

    裁判の結果の結論
    即ち、
    「判決」を 意味していますので、

    分かり易くする為に括弧書きで 「判決」と
    付け加えさせて頂きました。


末弘先生は、別の所で

  裁判官が裁判に当たって
  「事件を審理した上で、結論が先に出るのか?
   それとも、
   法文と理屈とが先に出て、
   その推理の結果漸く結論が先に出るのだろうか」
  について、

  日本の裁判官だけでなく 外国の裁判官に訊ねたみたが、
  殆ど常に
  「結論が、直感的に先に出る。
   理屈は後からつけるものだ」という回答だった。

  「従って、
   裁判官として一番大事なものは、人格の完成です。 

   これ(人格)を完成する一要素として、
   無論 法律の知識 は 必要です。

   しかし、
   それ(法律の知識)は、ほんの一部分です。
   ・・・(以下略)」

と、書かれておられます。

  出所 末弘厳太郎「嘘の効用上」
      冨山房百科文庫 11㌻~12㌻


私の義父も、刑事裁判官でしたが、
40年以上前、家内と結婚したての頃

「司法試験の法律と実務の法律は違うものだ」と言われて、
全く意味が理解できず 困惑したことがあります。


末弘先生のお父様のおっしゃる直感も、
義父の言うことも、

要するに
裁判における結論は、
法文解釈を踏まえた上で、リーガルマインドにより判断する、

法文解釈ができるというのは、初歩の初歩で
専門家は、それを踏まえた上で、リーガルマインドで判断する

と、いうことであろう と、今では 理解しています。



では、
リーガルマインドとは何なんでしょうか。

リーガルマインドとは、
事件(訴訟)の妥当な解決に導く為の
法律家の感性、感覚 即ち センスなのです。

このセンスは、
法律家自身の持っている法的な才能に依存しています。

ですから、
いくら頭が良くても、このセンスがない人は、
法律家に向いていません。

今から学生時代を振り返ってみると、
本当に頭の良いのに、
司法試験を合格するのに苦労して数年費やしたり、
合格せずに諦めた人がいました。

このように、
頭の良さとリーガルマインドは、異なるものなのです。

例えて言うと、
頭の良い人でも、野球のセンスを全く持たない人がいるのと
同様なのです。

法曹を目指そうという人は、
ご自身が、リーガルマインドを持っているかどうか、
冷静に自分を客観視して判断されることをお勧めします。


それでは、
リーガルマインドの機能とはどの様なものなのでしょうか。

リーガルマインドとは、事案の解決に際して、
法律の規定通りに従って判断するか、
それとも、
法律の規定とは異なる解決をするかどうかの
判断し、決定をするセンスです。

法律の規定に反する解決をした方が、
妥当な解決が導かれると、正確に判断できるセンスなのです。


では、
法律に反する解決をするには、
どの様な方法によるのでしょうか?

この点に関しては、
先ほどご紹介した 末弘厳太郎先生の「嘘の効用」で、
大変分かり易く記述されておられます。

末弘厳太郎「嘘の効用上 嘘の効用」
冨山房百科文庫26㌻~59㌻

詳しくは、末弘先生の随筆をお読み頂くとして,
私なりの結論を申し上げると、

法律家は、
いかにも法律を適用しているようなふりをして
噓をつくのです。

勿論、「噓をつく」とは死んでもおっしゃりません。
そうではなく「擬制」を用いるとおっしゃるのです。

末弘先生も「嘘の効用」の随筆は、
「法律における擬制」の研究の途中、
たまたま生まれた随筆である と 書かれておられます。


「擬制」とは、何なのでしょうか。


来栖三郎先生は立法技術として擬制が用いられる
と、記述されておられます。

来栖三郎「法とフィクション」82㌻以下(東大出版会)

例示として、
民法86条三項で「無記名債権は動産と看做す(準用する)」
を、引用されておられます。

「無記名債権」とは、
鉄道の切符、入場券 のようなもので、

大阪までも切符の所持人が、駅で提示すれば、
鉄道会社は、大阪まで乗車させる債務を負うのです。

擬制を採用されたのは、

本来的には、契約法上の規定なのに、
物権法上の動産の規定を準用したら、
動産に関するいくつもの規定を、一条で片付けられる
メリットがあるのです。

このように、
AでないBを、Aと看做すのが「擬制」なのです。

要するに、
法律家は、法を 解釈する際に

Aとは 別物のB を、Aと 看做して
Aに関する法律 を 適用するのです。

私に言わせると、
BをAだと、噓をついて 法律を解釈運用しているのです。


リーガルマインドとは、

良く言うと(肯定的に言うと)、

妥当な解決を 見つけ出して 導く「頭の柔軟性」を
発揮させるセンスなのですが、

冷たく言うと、法解釈において

「平気で嘘をつくことを、頭が柔らかい と 評価している」
と、いうことなのです。

私は、
リーガルマインドがありませんので、

友人の弁護士から、
「頭が固い」と言われたことがあります。


要するに、

ルールから外れてでも
(法律から離れてでも)
そのケースの妥当な解決をはかるべきか

妥当な解決から外れるけど
ルールに従って、即ち 法律に従って 解決すべきか の

いずれを取るか の判断なのです。


リーガルマインドとは、
柔軟に、前者の判断をすべきだ感じるセンスなのです。

リーガルマインドを持っている方は、
法律から離れた解釈をすることが、
正しい、あるべき法解釈である と、確信をされておられるのです。

でも、これは
性格、人生観、更には哲学の問題ではないでしょうか。

「悪法も、法か」というテーゼは、
まさに 同質の問題を提起しているのでしょう。

ただ、
この点について、

自然に対応できる人が、リーガルマインドを持つ人であり、
良き法律家だと、評価されるし、求められているのです。

引っかかって、逡巡し、四の五の言う人は、
法律家に向かない 頭の固い人間だと、
法曹になろうと希望しても、拒否されるのです。

これは、
頭の良さとは全く別物ですから、

優秀な成績で法学部に入学した人でも、
法律家の適性に欠く人が生じる所以なのです。


私は、

「頭が柔らかい」と、褒められるより
「頭が固い」と、言われた方が、
「正直者だ」と、言われた感じがしますし、

良き法律家は、

誰もが納得する問題に対する解決を
導き出す能力を持った方ではありますが、

その解決能力の一部には、

「嘘つき」とまで言わないまでも
「必要に応じて 噓をつく技術を持った人種」
といえるのでは?と、感じています。


以前にもお話ししたことですが、

この点が、
「法の本質」における、致命的とも言うべき欠陥の所在です。

即ち、
1.リーガルマインドに従って、擬制を使用して法を適用した
  と、言っても、

  本当に、リーガルマインドに従ったのか、
  それとも
  別の利害や私利私欲で法を曲げたのか、
  について

  第三者は、ジャッジができません。


2.法を適用するか、
  リーガルマインドによって法に反する決定をするか
  の判断を、裁判官がする
  と、いうことは、

  裁判官が、
  法の上位にいることを意味します。

  要するに、裁判官が、
  この世において 法の判断者として神と同じ地位にいることを
  意味しています。

  「私の考えは、神と同じである」と、言って、
  何人ものキリスト教徒を殺害したカルバンと
  同じ行状をする裁判官が生じる可能性を否定できません。


以上の欠点があるにもかかわらず、
他に方法がないので、

欠陥を認識しながらも、

「法律」と「リーガルマインド」の2本立てで、運用して
「裁判官に、法の運用を 全面的に判断を委ねている」
(判断の全権を委譲している)

ということが、「法の本質」なのです。

私は、

「三審制」の一番の目的は、ここにあるのでは?
と、考えています。

即ち、

全権委譲された 異なる裁判官が、
3回審理して出した結論を尊重することにより、

社会の平穏が維持できる と、考えているのでは?
と、想像しています。

あけすけに申し上げると、
ある裁判官(とりわけ 経験の浅い一審の裁判官)が、
リーガルマインドに基づかない判決を下したとしても
三審の間に、修正が可能であろうと、考えておられるのでは?
と、感じられます。



補足 2018年12月16日 追記


日本の法学には、上記の欠陥に加えて
明治時代
ヨーロッパより 氷山の水面上の実定法を継受したものの

海中にあって
水面上の実定法を支えている慣習法の役割についての認識を
継受しなかった
という欠陥があるにもかかわらず、

いまだに
その点についての認識が持たれていないことが
残念に感じています。

慣習法は、
実定法に、欠落や欠陥が存在したときに
それを修復する機能(自然治癒機能)があるのです。

現在制定されている実定法は、非常に良くできていますので
慣習法の出番の必要性が、殆どありませんが、

唯一
慣習法の自然治癒機能が発揮されていると感じられるのが、
憲法9条に関してでは?と、思います。


この問題は、

今回のテーマから外れますし、
今までに 幾つかブログでお話しさせてきて頂いておりますので、
そちらをご覧頂きたいのですが、

ここでは、

憲法9条で、明確に

「陸海空軍その他の戦力は保持しない、
 国の交戦権を認めない」
と、規定されているのに、

何故、

1.立派な軍隊である自衛隊が存在し、
  最近では、
  共産党を除く 野党も含めて
  合憲のコンセスまで形成されてきているのか?

2.自衛権を野党でさえ認めているのか?
について、

内閣(行政府)や政党(立法府)
更には、
憲法学者からの明快な説明がないのは

慣習法の役割についての講義が、
我が国の法学教育において欠落していることに
拠っているのでは?

と、感じられます。

即ち、
1.日本の周辺国家が、
  憲法前文で規定するような国家でないのにかかわらず、

  憲法が、
  そのような国が存在するときに関する規定が
  欠落している為

2.更に、
  憲法9条は、法学の公理とでもいうべき
  「国家としての正当防衛の権利(自衛権)」を、

  アメリカが、日本より剥奪する為に、
  憲法9条を、日本に押しつけたので、

水面下の慣習法が、治癒機能を発揮して,
自衛隊を形成してきたという 事実 についての認識 が

欠落している故に、
現在の法学界、憲法学者が、回答できず、

政治の世界では、
自衛隊合憲論が主流になっているのに、

相変わらず自衛隊違憲論に固執している原因だろう
と、感じられます。

従って、
現在、自民党政府が推進している憲法9条改憲論は、

上記の事実を認識して、

慣習法が形成してきた自衛隊を、
水面上の法である憲法として認知しようとする動きである
と、理解できまです。

安倍首相が、憲法9条3項を創設して
自衛隊を規定するのは、

周辺諸国が、
1.憲法の前文が規定するような国家であれば
  1項と2項を適用し、

 

2.憲法の前文に反するような国家の場合は、
  3項で対処できるようにする為だ

と考えると、
安倍首相の考えられている趣旨が、素直に理解できます
との指摘に、止めさせて頂きます。


また、
氷山の水面上の法とリーガルマインドについて、
深く研究された 碩学であられる 末弘先生や来栖先生が、

歴史の歯車を逆転させて
実定法ではなく慣習法(判例法)に向かうべきではないだろうか
との結論にいたっておられるのは、

末弘先生のお父様が喝破された
法学とは、実定法(含むリーガルマインド)さえ教えれば良い」
との

慣習法の存在を無視し、
その役割の認識について欠落している
法学教育 が、もたらしたのでは?

という気が、しないでもありません。




2.刑事裁判の本質


私は、長い間
刑事裁判とは、「真実の発見の場」である と、考えていました。

刑事裁判官だった義父の生涯のプライドは、
若いとき起案した判決における事実認定が、
最高裁まで行ってもひっくり返らず、認められたことでした。

このように、裁判官は、
事実の発見、
真実とは何か を 追求されておられるのだなと、
敬服し、尊敬していました。

この考えが、180度ひっくり返ったのは、
ある裁判官から
「法廷に出された事実だけで 判断して、判決する」
と、お聞きしたときでした。

考えてみたら、
これは当たり前のことですが、
それまで気がつかなかったのです。

裁判官が、
法廷に出されてない事実や推測により
判決を出されたら、それこそ大問題です。

でも、それなら、

刑事裁判は、
「真実発見の場」ではなく、

「(被害者を含めた)
 社会のマイナスを少しでも修復する場」なのだな

と、考えるようになりました。

裁判官は、
江戸時代の大岡裁きのように、
自ら捜査することも、取り調べることもできませんから、

法廷に出されたもの以外の事実を、
発見したり利用したりすることができません。

事実や証拠を出すのは、
裁判の当事者である検察官 と、
被告人の弁護士なのです。

彼らは、
それぞれ目的 を 持っていますので、

その目的を達成する為に 何をすれば良いのか、
どんな事実や証拠を法廷に出せば、目的を達成できるか

を、常に念頭に置いておられるのでしょう。


ということは、
彼ら自身が把握している事実や証拠の中から、
必要なものをセレクトして法廷に提出するのです。

必要でないもの、法廷に出すと目的達成できなくなるものは
意図的に法廷に出さないのでしょう。

時々、検察が証拠を隠していた と、
ニュースで報じられることがありますが、

このことは、
全ての事実が法廷に出される訳ではないことを
示しているのでしょう。

大多数の事件においては、
このようなやり方でも、真実を発見できるのだろう
と、思いますが、

全ての裁判において
100%そうだとは言えないのではないでしょうか。

また、
技術の発展段階によっては、
真実を解明できない事もあるでしょう。

DNA鑑定など
科学捜査が現在においては長足の進歩を遂げていますが、

現在の技術レベルに達しなかった過去においては、
証拠があるのに 犯人を特定できないことも あったのでは?
と、思われます。

大学時代の授業で、
弘前大学事件について 講義を受けたことを思い出します。

団藤先生は、躊躇しながらも
「90%の確率で、被告人が犯人であるとの鑑定が出ているので、
 有罪判決もやむを得ない」
と、述べられましたので、びっくりしました。

「10%も誤審の可能性があるのに、それでよいのかな?」
というのが、私の感想でした。

しかも、
大学出てから大分経って 時効が成立してから、
真犯人が名乗り出たとのニュースを見て、

「やっぱし」と、思ったことを覚えています。

でも、
当時の技術レベルでは、
100%の鑑定ができなかったのだろう と、思いますので、

刑事裁判の本質を深く理解されておられた 団藤先生は、
「ないものねだりしても意味がない、
 与えられた範囲で、判断せざるを得ない」と、考えられて
判決に賛成されたのだろうと思います。

このことは、
その時点での技術レベルを前提として、
裁判官が、どの様な判断をすれば良いのか、
の問題を提起しますし、

刑事裁判の本質は、
1.の「法の本質」で述べたように

「裁判の最終決定を、全面的に裁判官に委ねている」
ということを 明らかにしていて、

問題が生じる度に
とりわけ 誤審や再審請求で、過去の判決が問われる度に
繰り返し、問われ、考えさせられることに なるのだろう
と、思います。


100%確実であるとの鑑定や確信がなければ、
無罪判決にすべきだとすれば、

被告人の人権は守られるけど、
世に放たれた凶悪な犯人が、更なる犯罪を犯して、
いたずらに犠牲者を増やす事もあり得ます。

また、
犯罪の被害者やその家族の人権を無視して良いのか?
との 大いなる疑問も生じます。

最近では、
被害者やその親族などの関係者も
法廷で裁判官に所感を述べることを認められるように
なったようですので、

現在においては、
なおさら被害者の人権も考慮せねばならないでしょう。


更に、

裁判官の判断、決定は、
どこまで行っても推定によるものなのです。

たとえ、現行犯逮捕であっても、
「そういう事実があった」との 確信に近い推定 による判断
なのです。

証拠により 「事実と判断した」ことは、
裁判官がまじめに考えた末の「推定による判断」なのです。

ですから、
裁判官が判決で行う事実認定は、

法廷に出された事実や証拠により
裁判官が、
検討した結果の「推定による決断」なのです。

これも、
裁判官を信頼して任すほかに 方法がないから
生じているのですが、

他方、
この方法が、現在考え得る最良の方法である と、
多くの人の賛同に支えられている制度なのです。


ちょっと横道にそれて恐縮ですが、
この点が、
裁判員裁判に疑問を呈する理由でもあるのです。


第1

裁判員裁判は、「憲法違反の制度」だと 思われます。

憲法は、自由について、
公共の福祉に反しない限度で尊重されると規定しています。

行為をする際には、
他の人との調整が必要となりますが、

「行為をしないという自由、何もしない自由」は、
「何人からも侵されない自由」ではないでしょうか。

裁判員になりたくない、と拒否する自由は、
憲法に保障された自由であり、

何人たりとも侵すべかざるものであろう
と、思います。

裁判員を拒否することは、
公共の福祉に反するとおっしゃるかもしれませんが、

明治以来100年以上、

裁判員制度なしに、
即ち、
公共の福祉に抵触せずに

刑法や刑事裁判が運用されてきていますので、

今更 国が 裁判員制度を作ったからといって、
国民に強制するのは、
一種のファシズムみたいなものではないでしょうか。

昭和の初めに 陪審員制度が作られ、
希望者は、陪審員裁判を受けることができるとして、

東京地裁 に、わざわざ
陪審員裁判をする為の法廷まで作ったそうですが、

一人も 希望者が出てこないで、全く活用されなかった
と、大学の授業でお聞きした記憶があります。

陪審員裁判や裁判員裁判は、
日本人に 全く なじまない制度 なのです。



第2

裁判員裁判に反対する第2の理由が、
今までお話したことなのです。


法の本質の一部をなす刑事裁判は、
全面的に裁判官を信頼して、
その運用を一任しているのです。

刑事裁判は、
その人の人権に直接的にかかわるものですから、
高度の専門性を持った専門家が、
長年の修練を経て運用するものなのです。

裁判という場に、
まったく法律の門外漢である一般人が関与することは、

無理であり、
被告人の人権を侵害する可能性が より大きい
と、言わざるを得ません。

また、裁判員にとっても、
自分の人生に全く関係ない事柄について、
突然 強制的に関与させられることは、
問題だろう と、思います。


第3

法律というものは、
「社会に生じたマイナスを埋める機能、回復させる機能」
を、果たしているのです。

即ち、
民事では、

土地(物権)や金(契約)に関する紛争処理、
自動車事故等 他人を与えた損害の賠償、

夫婦間の不和の結果生じる離婚や、
相続争いの際の処理、等

刑事では、
人を傷つけたり殺したりしたときの処理等、

人間社会に於いて生じる
悪臭プンプンたるものの処理です。


例えて言うと、

社会における「ゴミ処理」というべきもの
ではないでしょうか。

「ゴミ処理」については、

一般人は、
分別してゴミを出す程度の協力を求められていますが、

ゴミを実際に処理する現場で働くことは、
専門の方に任せています。

これと同様に、
社会に生じたマイナスの処理については、

裁判員制度ができるまでは、
専門家に一任されてきました。

一般人に、ゴミ処理工場で働けとの要求と
同一の性格を有する裁判員制度の必要性、正統性を、
私はには理解できません。


第4

裁判員制度は、
第一審の地裁でしか行われない 中途半端な制度なのです。

高裁では、
裁判官だけで判決を下されますし、

時々
地裁の裁判員裁判の判決が、
高裁でひっくり返ったとか、量刑が減じられた
とのニュースが、聞こえてきます。

先ほどお話ししたように、
突然 強制的に刑事裁判に引っ張り込まされた
裁判員の方の努力は、結果的に 無視されているので、

それなら、
明治以来100年以上やって来たのだから、
以前の制度に戻して
最初から専門家だけでおやりになったら
と、言いたくなります。

このようなことが生じるのは、
素人に、元々無理なことを押しつけたからでは
ないでしょうか。


捕捉 2019年9月30日 追記

刑事裁判 が 好きで、
長年 国選弁護人 を 数多くやってきた 家内 より、

検察 が、裁判員制度 に 反対しないのは、
立証 が 簡単になったからではないだろうか?

との感想 を、聞いたことがあります。

即ち、
素人の裁判員 に、
見るに堪えない 残虐な犯行現場の写真など を 見せて
精神的負担 を 負わすのは 良くないいので、
見せないようにしよう、とか、

証拠法の精緻な理論 は、
素人の裁判員 に 理解できないだろうから、簡略化しよう
とか、

素人の裁判員 に 諸々の配慮をした結果、
検察の立証の作業 が、簡略化され、楽になったからだろう
というのです。


私は、門外漢なので、
評価する立場にありませんが、

 

もし、
家内 の 云うとおりであれば、

裁判員制度 を 導入したことにより、
刑事裁判の目的が忘れ去られているのでは?
という感じがします。

刑事裁判の第一の目的 は、
被告人が、罪を負うべき人間かどうか を
判定するために行いものではないでしょうか。

その為に、
立証方法や裁判手続きが、適正なものになるよう、
精緻な理論 が、積み重ねられてきたのだろうと思います。

これを、

裁判員制度を導入したから、
素人の裁判員が理解できる程度まで、レベルを落とすことは、

本来の刑事裁判の目的 を、放棄することになると思います。

例えば、
科学技術において、

最先端の理論や技術 は、素人に理解できないものでも、
専門家が分かっていて、技術を前進させれば 良いのです。

刑事裁判においても、
素人が 理解できなくとも、専門家が理解できて、目的に達せれば、
それで良いのではないでしょうか。

素人を入れるために、
今まで積み上げてきた理論や方法を放棄して、
時計の針を逆回転させるようなことは、すべきでは無いと思います。

ゆとり教育の導入により、
日本の学生の知的レベルが落ちたように、

裁判員裁判の導入により、
刑事裁判の質が、まさか 落ちていないでしょうね
と、願っています。



3.死刑制度についての感想


裁判員裁判という横道に
話が逸れて申し訳ございません。

本筋に戻させて頂きます。


以上お話ししたように、
法の本質、刑事裁判の本質は、

理論が論理的に構築されたものではなく、
医学の対処療法的なものなのです。

ですから、
スパッと明快に切れ味鋭く説明できるもの
ではありません。

元々 人間社会というものは、どろどろしたものですから、
そのどろどろした社会の平穏を維持する為には、

理屈で処理するのではなく、
そのときそのときに ベターと思われる判断 を
積み重ねていくしか しようがないのです。


ですから、
最初に申し上げたように、

死刑制度についても、
それぞれの立場、価値観から、正反対の議論が成立しますし、
そのいずれに対しても、
間違っていると切り捨てることもできないのです。

議論すれば、平行線となるもので、
話し合いで結論を導き出すことができる問題ではないのです。

最初に申し上げたように、
「神々の争い」である所以なのです。


従って、
異論があるのは承知の上で、
社会の総意ないし過半数の意向、判断の赴くところで、

基準を作り、運用してみて、
不具合がないかどうか確認し、

必要に応じて修正していくやり方で行われているのです。

日本は民主主義の国ですから、
国民の総意は、国会の議決に表れると考えるべきでしょう。


現在死刑制度が、
強力な廃止論があるにもかかわらず、
存続しているということは、

「凶悪な犯罪を犯した人間は、
 自分の行為に対する責任を 取らねばならない
 (罪に服さねばならない)」
との考え方に賛同する方が、
多数を占めているのではないでしょうか。

死刑制度の致命的な欠陥は、
誤審を 100%避けることができない事だと思いますが、

それも含めて 勘案しても、
死刑の存続を支持する方が多いのでは、と感じられます。

(誤審の可能性より、犯罪を犯した人間が、
 自分の命で責任取らずにすむ数の方が、
 比較にならないくらい圧倒的に多い
 と、考えているからでしょう。

 また、
 日本の裁判所に対する信頼や
 法務省の死刑の実施にあたっての運用に対する信頼が、

 誤審により取り返しのつかない事態が、
 相当程度回避できているのでは?
 と、感じる方、考える方 が、
 多数を占めているからではないでしょうか?)


以上を踏まえて、
私の気になる点をいくつかお話しさせて頂きます。


第1 EUの申し入れについて

(1)死刑制度は犯罪抑制にならない点について

死刑制度が、
犯罪防止の抑止力を持たないことを
日本が理解していないという申し入れについては、

ヨーロッパ人の自分だけが神と並んで善悪の判断ができる との
唯我独尊、独善による 上から目線による決めつけを感じられて、
又か、との嫌悪感を催します。


日本でも、
刑法で刑罰を規定したからといって、
犯罪が抑制できる、なくすことができるとは考えていません。

大学時代、団藤先生が、はっきりと
「刑法で刑罰を規定したからといって、

 犯罪者が、犯罪を犯すとき、自分だけは捕まらないと考えて
 犯罪に及ぶから、犯罪をなくすことはできない」

と、半分面白おかしく講義されておられました。

ですから、
死刑制度は、犯罪抑制の為に規定されているものでは
ないのです。


(2)日本に、死刑制度の廃止を求めている点について

死刑制度を廃止したEUは、
テロリストを逮捕する際に、平気で銃殺していることについて、
どう考えているのか、お聞きしたいと思っています。

最初に 申し上げたように、
裁判を経ずして、事実上の死刑を実行しているのでは
と、感じられるからです。

日本は、武器を持った犯罪者に対しても、
時間をかけて できるだけ殺さずに
説得により逮捕しようと努力します。

そして、裁判にかけて、
裁判所で量刑を決定するのです。

死刑になる犯罪者も勿論いますが、
EUのように、
裁判を経ずして銃殺するようなことは、極力避けているのです。

日本とEUで、どちらが野蛮だというのでしょうか?
EUは、死刑制度だけを見て、非難していますが、
犯罪の全体を俯瞰して、
EUのやり方と日本のやり方を比較して議論しようとの姿勢が
必要ではないでしょうか。


第2 法務大臣による 恣意的な死刑実施拒否について

過去に、法務大臣が、
ご自身の信仰 or 信条に基づいて、

死刑の実施の起案に 承認印を押さずに
(死刑の実施を決済しないで)、
決済箱に放置した とのニュースが ありました。

これは、大問題だと思います。

国会で決めたことを、ご自身の立場を利用して
ご自身の個人的な見解により曲げてしまうことは、
法治国家として許されないことではないでしょうか。

勿論、
個人として、死刑廃止論を唱え、主張することは構いません。

しかし、
法の運用の最高責任者である法務大臣に就任されたからには、
個人的な見解に拠らず、法に規定通りに運用すべきなのです。

個人的な信条により それができない と、いうことも
あり得ると思いますが、

その際には、
法務大臣の就任を辞退する義務があるのではないでしょうか。

死刑にするかどうかの判断は裁判所が行うものであり、
法務大臣が、介入する問題ではありません。

法務大臣は、
あくまで 行政として 死刑の実行を行う責任者に過ぎないことを、
肝に銘じるべきでしょう。

法務省が、
死刑の実行にあたり、大変慎重な検討をされておられるのは
承知しておりますので、

たまたま政治家が、
順番で?法務大臣のポストに就いたからといって、
勝手気ままな行動を取ることは慎むべきだし、

そのような大臣が生じさせない為に、
総理大臣が法務大臣を任命する際に、確認を取って
拒否する方は任命しない義務があるのでは?
と考えます。


追記 2018年 8月1日 記述


民法の講義に於いて、
比較衡量の重要性を、事ある度に 何度も 頭に叩き込まれます。

これは、
法的な判断に於いて、

一方の主張のみを採用して判断するのではなく、
対立する当事者の主張を、虚心に検討して、判断すべきだ
ということを、
身につけさせる為に強調されることだと思います。

本文中でも述べましたように、

どろどろした世の中に於いて、
大方の人が納得するような結論、解決を見つけ出すのが
法学の役割であることから、

お互いの言い分をよく聴いて、
それぞれの主張を、漏れなく検討することが
要請されるのでしょう。


死刑廃止論の議論に於いて、

死刑廃止論者の主張の中に、
死刑制度について、比較衡量をされておられるのかな?
と、疑問を感じる点がありますので、

ご参考までに、お話しさせて頂きます。


第一に、

死刑廃止論者の方は、

被害者やその家族の人権について、
どの様に考えておられるのでしょうか。

犯人の人権と被害者の人権
(殺された人の場合は、最早訴えることのできない人の人権)
を、比較衡量して議論すべきでは?
と、感じられことがあり、

犯人に対する見地からの議論に偏しているのでは?
との疑問に対して、

どの様にお答えになられるのか、お聞きしたいな
と、感じられます。


第二に、

最初に述べたように、

刑罰の目的は、
応報刑なのか教育刑なのかとの議論があります。

言い換えると、
罪と更正(反省)のどちらに重点を置くのか
についての議論だと思います。

刑法を 議論するときには、
双方を念頭に置いて議論せねばならないと考えますが、


死刑廃止論者の方は、

犯罪者は、罪に服さねばならないとの視点が弱いのでは?

あからさまに申し上げると、
無視しているのでは?

と、感じられます。


今回、
死刑廃止論者のある作家の方が、

オーム真理教の被害者や遺族の方の話を聞いた
自分にとって、

「今回の死刑を反対だとは言えない」
と、おっしゃっているのをネットで読みました。

多分
オーム真理教の犯罪に対しては、
死刑という罪を与えねばならない、それほどの犯罪だ
と、感じておられるのでは?
と、推察しています。

逆に申し上げると、
この作家の方の死刑廃止論の中には
罪の観点が、欠落していたのでは?
と、感じられます。


第三に、

EUの主張に対する反論で申し上げたように、

死刑制度だけではなく、
犯罪及び逮捕から裁判プロセス全体からの議論が
必要だと思います。

EUの主張は、

警察官が、犯人を裁判を受けさせずに射殺することの是非
について、無視しているのでは?
と、感じられます。


自分の都合の悪いことを無視して議論する態度は、

犯罪に関連する全ての事柄を検討して、議論すべき
法律論議に於いて許されないことだと考えます。

言い換えると、
一部だけを取り出して、主張を作り上げることは、

許されることでもないし、
多数の賛同も得られないのではないでしょうか?

                               以 上

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2018年1月19日 (金)

憲法9条が混迷した原因・・・本来、立法論で議論すべき問題なのに 議論を封印したから

大学時代の仲間が、全員古稀を迎えた区切りなので、
先月(2017年11月)一泊旅行してきました。

その際に、大学で経済法を教えている友人が、
何かしゃべれとおっしゃったので、

この機会に、
この30年近くヨーロッパについて考えてきたことをまとめて、
メモを皆さんにお配りしましたところ、

後日、メモの中の憲法9条論について、
友人よりメールを頂き、次のような返事を出しました。

数年来、
憲法9条について ブログにいろいろ書いてきたことを、
割と要領よく、簡潔にまとまった文章に仕上がったと思いますので、
ご参考までにご紹介させて頂きます。





     **********




1. 第1点は、

  憲法は、前文で、
  平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、
  国際紛争への武力行使や、戦力、交戦権を禁止していますが、

  ① 諸国民が、平和を愛さない、泥棒国家だったらどうするのか
    の規定が、,欠落しています。

  また
  ② 戦争が絶えることない現実世界に対して、
    どの様な方法で、
    憲法が希求する平和を愛する諸国民ばかりの世界を
    実現すべきか、についてのロードマップ(工程表)も
    提示していません。

  自衛隊の存在は、朝鮮戦争以来、
  慣習法が、
  憲法の欠缺を補って成長させてきたものであり、

  日本では希有な「慣習法の制定法改廃力」が行使されて
  「慣習法の自然治癒機能」が発揮された例だと思うのですが、

  この点について指摘される方が誰もいないのが、
  訝しく感じています。

   注)「慣習法の制定法改廃力」
      来栖三郎「法とフィクション 24㌻ 東大出版会

  法学部の大部分の講義は、
  実定法(制定法)についてですし、

  ヨーロッパ史歴史一般については、
  講義がありません。

  しかも、
  我々が高校生、大学生だった頃は、
  ヨーロッパ中世史の中で、一番重要なフランス史が、
  日本の西洋史学会で欠落していましたため

  フランス中世史が、
  我々が学んだ高校の世界史からも欠落していましたことにより

  ヨーロッパの歴史認識に対する不十分さ、
  そこから拠ってきたる慣習法への認識不足が、
  否めないことが、

  憲法9条の論議で、
  上記の議論が為されない一番の原因だろう
  と、思います。


2. 第2点

  「個人の正当防衛に相当する「国の自衛権」を否定した憲法が、
   制定された点についての議論が 欠落していることについて」

  来栖先生の「法とフィクション」によると、
  法の解釈について
  「立法者意思説」と「法律意思説」があるそうです。
  (学生時代、学んだのでしょうが、失念していました。)

  (来栖三郎「法とフィクション」25㌻ 東大出版会)

  田中耕太郎先生は、
  裁判長をされた砂川判決の補足意見で、

  「法律意思説」に従って、
  個人の正当防衛に相当する自衛権は、
  国際法でも認められた 独立国家が当然保持しているものであり、

  憲法の規定 や 立法者の意思 が どうであれ、
  我が国が自衛権を保持するのは、当然のことである、
  と、私には ちょっと乱暴と感じられる議論を 展開されています。

  私も、
  独立国家は、自衛権を、個別も、集団も 保持するのは、
  当然の権利である と、考えますが、

  アメリカが、
  このこと(自衛権は、独立国家固有の権利であること)を
  認識した上で、

  その自衛権を、
  我が国から剥奪するために、憲法9条を押しつけてきたこと
  について、

  独立を回復した日本として、どうあるべきか、について

  冷静な議論がない、
  もしは
  されてこなかったことが問題だ と、考えます。


  注)田中先生の「立法者の意思を無視して解釈すべき」
    との主張は、

    立法者が、
    わざわざ 自衛権 を 否定していたことについて、

    いくら法律意思説だといっても、
    否定しきれるものではないのでは?

    ちょっと、強引すぎるのではないだろうか?
    と、感じられます。

    これは、
    現在に至るまで引きずっている重大な問題であり、

    この点をちゃんと整理しないから、
    おかしな議論がまかり通っているのだろうと思います。



    小学生が読んでも、

    憲法は、日本に軍隊の保持や戦争を禁止していることは
    理解されるだろうと思います。


    しかし、
    憲法学者の大半が、自衛隊違憲論だとの話を聞くと、

    学者先生は、
    小学生並みの精神年齢しか持っていないのだなと、
    開いた口がふさがりません。

    憲法学者先生は、

    上記の第1点と第2点について、
    見解を表明する義務 が あるのでは ないでしょうか。


    即ち、

    ① 何故、
       誰が見ても 憲法9条が禁止する軍隊である 自衛隊 が、
      50年以上 厳然と存続してきたのか、

       単に、
      自民党政府が、強引だったらというのであれば、

       野党が、
       近年 自衛隊合憲説に変節した理由についての
       法的な議論 or 説明が 求められます


    ② 法の原則である正当防衛に相当する「自衛権」を、
       憲法9条が否定している点について、
      立法論的に どの様に考えるのか、 について、

      最低限、
      学者としての意見を表明すべきでしょう。


    ③ 更には、
       「慣習法の制定法改廃力」
      「慣習法の自然治癒能力」
       についての議論もあるのですが、

       これは、
      八百屋で、魚を求めるようなもの でしょうから、
       最初から回答して頂くのをあきらめています。

       しかし、
      まともな学者がおられたら、
      ご見解を拝聴したいものです。



  野党の 枝野さんや 福島さん は、

  ① 近年、自衛隊合憲論を唱えていますが
    何故、
    違憲論から 合憲論 に 変更されたのか、


  また、
  ② 個別的自衛権は認めて、
    集団的自衛権を認めない理由は何か、 について

    弁護士だったら、
    やくざな議論でない、ちゃんとした法的論理を
    展開すべきでは、と 考えるのは、

    私だけでは無い と、思います。



戦後、ドイツは、
敗戦になれていたせいか

基本法は制定しましたが、
憲法は、独立を回復してから制定すると行って拒否しました。


初めて戦争に負けた日本は、
まともに法律もしらない米軍の言いなりになって、

自衛権(正当防衛)を否定する 法の原則に反する憲法
を、制定して、

それを
70年間引きずって きています。



以上により

憲法9条については、
本来、
解釈論ではなく、立法論 を 議論をすべきなのに


外国の工作員 や、
反日指向 の 野党やマスコミの宣伝 に対して、

太平洋戦争の時に、
日本政府に 屠殺されまくったことに対するトラウマを
引きずった国民 が 支持したことにより、

憲法9条 という 奇妙な条文が、
70年間にわたって 存続してきた原因だろう
と、思います。



50年前は、

条文が変遷していないのに
「憲法の変遷」が議論され、

さすがにそれではまずいと思ったのか、
近年では

「解釈改憲」などという珍妙な言葉が、
恥ずかしげも無く 専門家の間で 跋扈しているのです。


注)田中先生が、
  乱暴な議論を砂川判決の補足意見で展開されたのは、

  当時、まともな法的議論をしたら、
  「又、戦争をしようとしているのか」との
  野党やマスコミの大合唱に

  国民が、賛同して 袋だたきにあうことが
  明白だったからだろう と、想像しています。

  ですから、
  田中先生が、意図された結果かどうか分かりませんが、

  とりあえず、
  最高裁の判決で、自衛隊の存在を認知させて、

  以後は、
  慣習法の 制定法改廃力、自然治癒能力 に
  委ねたのだろう と、想像しています。




憲法9条の問題は、
この10年以上にわたり ホームページやブログに
書いてきましたので、

私なりの整理と結論を出た問題ですが、


最近は、
ヨーロッパ文明の根幹に存在する「ウソ」について、
考えています。

20年前に、
星野先生の民法の講義で紹介された
末弘先生の「嘘の効用」が、
文庫で出版されたというので、読んでみたのですが、


今から思うと、表面をなぞっただけで、
先生の真髄に触れもしなかったな と、
自分の至らなさ、未熟さを反省しています。

当時、理解できなかったことが
今年の夏、

キリスト教 や 法学の本質を、
自分なりに整理した後 読んでみたら、

末弘先生が、
法学の本質についての 大変な問題意識 を 持たれてながら、
面白おかしく しかも 分かり易く 書いておられるな
と、感心しました。


また、
来栖先生の「法とフィクション」が、数年前に出版されたとき、

何で、法と小説 が 関係あるのだろうと、疑問に感じて
購入しなかったのですが、

熱海で、Mさんと話をしているうちに
来栖先生の「フィクション」とは、擬制(ウソ)のことでは
と、ひらめいて、

ひょっとして
私が知りたいこと(法学のウソ)について

先生の研究結果が書かれておられるのでは
と、期待して

いつもは購入してから数十年間、
本箱に放置する私にとって 超特急とも言うべき
早いタイミングで、読んでみたのです。

(但し、
 来栖先生の思考の経路を知りたかったため
 先生の本文だけを読んで、注釈は、飛ばしました)


こちらの問題も、
重要な問題だと思いますので、

よろしければ、
次のブログをお読み頂ければ幸いです。


   ウソ ; ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪


  第1回 キリスト教における「ウソ」
       1.キリスト教徒の言行不一致
         *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post.html


  第2回 キリスト教における「ウソ」
       2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-c914.html


  第3回 法学における「ウソ」
       1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて
       2.法学が避け得ない根本的な問題
         ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-d25f.html


  第4回 法学における「ウソ」
       3.リーガルマインド とは、
         事案の解決 を、法に拠るか、ウソに拠るか を
         適正に判別し、決定する センス、能力 である
         ・・・末弘厳太郎著「嘘の効用」抜き書き・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7325.html


  第5回 法学における「ウソ」
       ・・・法とは 何か?
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f196.html


  第6回 法学が 他の学問と異なる本質 を 有するものであること
       について
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4b7d.html





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2017年8月22日 (火)

ウソ;ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪       ・・・第3回 法学における「ウソ」             1.法学の本質は、「リーガルマインド」である         2.法学が避け得ない根本的な問題

第1回と第2回で、
キリスト教の「ウソ」についてお話しさせていただきましたが、

今回は、
キリスト教と並ぶ ヨーロッパ文明の根幹 である「法学のウソ」について
私の考えるところをご説明させていただきます。




   ウソ ; ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪


  第1回 キリスト教における「ウソ」
       1.キリスト教徒の言行不一致
         *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post.html


  第2回 キリスト教における「ウソ」
       2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-c914.html


  第3回 法学における「ウソ」
       1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて
       2.法学が避け得ない根本的な問題
         ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-d25f.html


  第4回 法学における「ウソ」
       3.リーガルマインド とは、
         事案の解決 を、法に拠るか、ウソに拠るか を
         適正に判別し、決定する センス、能力 である
         ・・・末弘厳太郎著「嘘の効用」抜き書き・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7325.html


  第5回 法学における「ウソ」
       ・・・法とは 何か?
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f196.html



  第6回 法学が 他の学問と異なる本質 を 有するものであることについて
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4b7d.html




     **********




第3回 法学における「ウソ」

1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて


民法の授業の最初の頃に、

先生が、
「争っているの当事者のどちらを勝たすか検討する場合、
 法律的な論理を積み上げて出た結論を、そのまま採用するのではなく、

 法的検討の結果を踏まえて、どちらを勝たせるか、考えなさい」
と、教えられ、びっくりしました。

では、
どちらを勝たすかについて 考える際の判断基準は何か、
との疑問に対しては、

先生は
「それは、君たちが民法を勉強する内に身につくものである」
と、おっしゃったのです。

要するに、
「法律(民法の解釈学)を勉強すれば、
 自ずから習得するもの、感得するものだ」
と、おっしゃるのです。


学問というものは、
論理を積み重ねて 結論に至るもの だし、

AならB、BならC、よってCならDである、
と、論理展開するものが、学問であり、科学である
と、当時 考えていましたので、

そうではなく、
「論理の積み重ねは、下調べみたいなもので、

 決定するのは、
 判断者の感覚であり、論理的な結果ではない」
と、おっしゃるのですから、ショックを受けました。


法学部と言えば、
「学問の蘊奥を極める」などと、
深遠なる知恵や知識の存在するところのように思わせておいて、

その実は、
チャランポランで、およそ学問や科学とは言えない代物ではないだろうか、

先生は、まじめにそれが正しいと考えておられるのだろうか?

と、大いに疑問に思ったのでした。


実は、
裁判も、同じように定められています。

憲法76条では、

 ① 全ての司法権は、裁判所に属する。
 ② 特別裁判所は、設置できない、
   行政機関は最終審として裁判できない

と 規定した後に

 ③ 全て裁判官は、その良心に従い、独立してその職権を行い、
   この憲法及び法律にのみ拘束される

と、規定しています。


宮沢先生のコンメンタールには、

「その良心に従い」とは、

他から指示に 拘束されることなく、自分の自主的な判断にのみ 従う
の意味であるとのことです。

裁判官は、
良心に従って、その職権を行使すべきだ、

との意味だそうです。


更に、少し詳しくご紹介すると、

 ① 裁判官の行動は、専ら法に従って行われるが、
   裁判官がその法を解釈する場合には、

   自分の自主的な判断に従うべきであり、
   他のいかなる指示にも従ってはならない。

 ② 「良心」とは、
   主観的な 宗教上、倫理上 又は 政治上 の 意見や信念
   を、意味するのではない。
   (以下略)

と、宮沢先生は、解釈されておられます。

  出所;宮沢俊義「日本国憲法」603㌻(日本評論社)


憲法の規定を受けて
民事裁判に於いては、民事訴訟法第247条 で、

 裁判所は、判決をするに当たり、
 口頭弁論の全趣旨及び証拠調べ の 結果を斟酌して、

 「自由な心証」により、
 事実についての主張 を 採用すべきか否か を 判断する。


同様に、
刑事裁判では、刑事訴訟法第318条で、

証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる

と規定されています。


要するに、
裁判官は、憲法及び法律 及び 自分の良心 に従って
事実を判定し、判決しなさいと規定しているのです。


民法での先生の教え と 裁判の規定 の
2つの例をご紹介しましたが、

ともに、
宮沢先生が記述されておられるとおり

法律の(規定の)解釈 及び 事実認定 を、
判定する人 の 判断 に 一任している のです。


要するに、裁判官は、

法律の定めには制約されるけれど、それ以外の制約はなく、
自分の考えに従って判決しなさい と、規定されているのです。

何故、
この様なことになっているのだろうか?。

法律は、
人間の活動全般について、事細かく規定しているのではないか?

だとしたら、
裁判の判決は、法律判断だけに従えばよいのでは?

当てにならない裁判官の判断などは、不要であり、
かえって法的安定性を阻害するのではは?

と、訝しく感じられる方が多いのだろうと思います。



この疑問に対しては、
法学及びヨーロッパの歴史を思い起こして頂くことが必要です。

法学は、
ローマ建国以来、約 3,000年に及ぶ歴史を経てきました。

19世紀初めに、
フランスで ナポレオンが民法典を作成するまでは、
法律とは、基本的に慣習法でした。

現在でも、
イギリスやアメリカでは、

民法典ではなく、慣習法(判例法)により運用している
と、50年前学校で学びました。


ですから、日本では、

実定法が、法律であり、
慣習法は、封建遺物であるかのごとく扱われ、

法学部でも、殆ど講義されませんが、


歴史を振り返ると、

実定法は、たった200年強の歴史か経過していなく、
法の歴史の9割以上の期間、法と言えば、慣習法だったのです。

  注;法学部で、慣習法が殆ど講義されないのは、

    明治時代に、従来の日本の法律からヨーロッパの法律に
    切り替わったことが、原因です。
    (日本におけるヨーロッパ法の継受)

    即ち、
    江戸時代までの法律と、現在日本の法律は、
    断絶しているのです。

    ですから、
    ここで申し上げている慣習法とは、ヨーロッパの慣習法であり、

    西洋法制史 と ローマ法 の授業 を、もっと重要視して拡充すべきでは、
    と、考えています。



しかも、

ヨーロッパやアメリカで、実定法が普及したのは、
フランスやドイツなどの大陸諸国であり、

イギリス及びアメリカは、
先ほど述べたように、民法典は、判例法(慣習法)に拠っているのです。



実定法と慣習法の関係は、
海上に浮かぶ氷山に例えることが できる と、思います。

氷山の海上部分が、実定法であり、
海面下で海上部分の氷山(実定法)を支えているのが、慣習法なのです。


氷山の海上部分である実定法が、

瑕疵があって、
しかも、
立法権により修復されない場合、

海面下の慣習法の自然治癒能力により、
実定法が改正されるまでの間、修復、維持されるのです。


この慣習法の機能は、
法律の性質上、ある意味必然の結果でした。

人間社会おいては、
時代を変遷するに連れて、規範意識は変わってくるものです。

ある時点で適当と考えられた規範が、
時代が進むにつれて、

技術の進歩により、
また、
社会的なコンセンサスの変化により、

不適当で変更せねばならない規範となることが、あり得るのです。

その意味で、
「不磨の大典」は、論理上あり得なず、
法は、時代と共に変遷するのです。

勿論、
現在の日本民法典や刑法典は、
3000年の歴史の風雪により 磨き上げられたエッセンス を
要約したものですから、


明治時代に制定されてから、

いろいろな点では、
時代の変化により、変更が施されていますが、

根幹は、
変更されずに現在にいてっています。


このような法律の性質から、

法を扱う法曹の皆さんに、
  A.実定法の正確な解釈ができる能力 と共に、

  B.慣習法が培ってきた法的思考の根幹、エッセンス を 理解、把握して、
    時代の変化に対応した法律解釈をする能力
が、求められていて、

この能力が、
「リーガルマインド」なのです。


逆説的な極論 を 申し上げますと、
個々のケース(事案) において、

その事案を、
リーガルマインドの観点から見た場合、

対象となっている法律が、
適当かどうか、の検討を踏まえた上で、

その法律を、
解釈せねばならないのです。


民法の先生が、
法的検討した後、どちらを勝たすかもう一度考えろ
と、おっしゃった理由も、

裁判官が、
法律と良心に従って裁判せねばならない
と、規定されていることも、

これが、理由なのです。

  注;但し、解釈の際に、
    法律の文言の定義を超えた解釈(逸脱した解釈)は許されません。

    従って、
    法学においては、解釈論と立法論の2種類が存在します。

    この法律を、解釈すると、こうなるが、(解釈論)
    これでは適当でないので、このような立法が必要だ との議論です。
    (立法論)

    即ち、
    解釈論では、言葉の定義による制約がありますが、
    立法論では、どの様な法律、条文が適当か、白地で検討できるのです。

    裁判官が、法律により制約される とは、
    裁判官ができるのは、解釈論であり、立法論は、禁じられている
    と、言い換えることができると思います。



リーガルマインドとは、

民法の先生がおっしゃったように、
民法を学ぶに従って身につけ、感得するものであるもであり

定義などできない、法的センス とも言うべきもの なのです


実定法は、大変な分量のものであり、
法律家といえども、全ての法律を読破している訳ではありません。

必要に応じて、実定法を読んで、
正確に解釈する技術を持っている方が、法律専門家なのです。

即ち、法律専門家は、

リーガルマインドを持っているが故に、
法律を正確に解釈できる能力を身につけた方のです。

また、
法学教育に於いて、リーガルマインドを身につけよと、
何度も繰り返して言われるのもこれが理由なのです。

従って、
法学の習得は、楽器の習得と同じく、
個人の才能によって差が出てくるのです。



では、
3000年の法律の歴史の結果のエッセンスであるリーガルマインドとは、
どのようなものなのでしょうか。


法学とは、
社会生活で生じる紛争を、つつがなく解決するための技術です。

言い換えると、
ある事件により生じたマイナスを、ゼロにするための規範 を、
定めたものです。

ですから、
関係者が納得できる解決であれば、目的を達成したことになります。

そのために必要とされるのは、

誰もが、
この解決方法だったら、仕方が無いな、
不満はあるけど、冷静に考えたらこのような方法しかないだろう

との コンセンサス を 得られる解決案 を、導き出す技術なのです。


この為に必要とされるものは、
その社会で共有されている共通の感覚でしょう。


英米法では、

法 は、コモン・ロー と呼ばれ、
日本では「普通法」と訳されてています。
コモン・センス(常識)のコモンです。

社会一般の誰もが持つ共通のセンスが、
コモン・センス(常識)であり、

コモン・センス(常識)により
法的技術を駆使して判例として積み重ねられ、

法規範となった判例法(慣習法)を
コモン・ロー と 呼ぶのだろうと思います。


個人的なことで恐縮ですが、

戦後、日響(現在のN響)のコンサートマスターは、
当時東大法学部の学生だった岩淵龍太郎さんでした。

父は、音楽学校(現在の芸大)出身でしたので、
あるとき、岩淵さんに

「東大の法学部は、何を教えるところですか」
と、質問したところ、

岩淵さんは
「日本で最高の常識を教えるところです」と、答えられた

と、子供のときに聞いたことを覚えています。


今から考えると、
岩淵さんのおっしゃった「常識」が、「リーガルマインド」だったのです。

即ち、
社会生活における どんな問題においても、
適正な結論、判断に導いて、つつがなく過ごすための感覚を、
「常識」と言いますが、

「リーガルマインド」は、
まさに、適正な紛争の解決を導くセンス、感覚なのです。

岩淵さんは、
その後、演奏活動が忙しくなって、東大を中退されたそうですが、

さすがに、きっちり勉強され、
法律とは何かを身につけておられたのだな と、尊敬しています。




2.法学が避け得ない根本的な問題
  ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・


実は、
今回お話ししたいことは、ここから始まります


法が、1.で述べたものであることが、
法が、避けることができない 根本問題を 生じさせるのです。


根本問題とは、2つあります。

① リーガルマインドに従って判断することになっているにかかわらず、
  他の邪念や政治的立場から、結論を導いていても、

  第三者には、分からないことです。

  これは、カルヴァンみたいに
  神と同一の考えを持つに至ったと確信している キリスト教の聖職者 が、
  「神のお考えである」と、言ったときに、

  本当に神のお考えに従った発言なのか、
  それとも、
  邪念や政治的立場からの発言なのか、

  本人以外の第三者には 分からないのと 同様なのです。


  要するに、
  法曹(法律専門家)や裁判官が「ウソ」をついても、

  第三者には、
  それが「ウソ」だと証明できないのです。


② 法曹(法律専門家)の意識の根底では、
  自分のリーガルマインドが、法律に優先すると考えておられることです。

  勿論、
  このようなことを公言する法曹の方は、おられません。

  でも、
  いろいろな局面での法曹の発言や判断から、
  そのような考えが根底にあるから、おっしゃっておられるのだな、
  と、感じられたことが、

  大学を出てから半世紀の間に、何度も経験してきましたので、
  私の確信となっています。


① リーガルマインドの「ウソ」

  リーガルマインドに基づいたかどうか、第三者には証明できませんので、
  私が最近疑念を持っている点について、お話しさせて頂きます。

  A.福井県の高浜原発の稼働再開について、
    何故、福井地裁でなく、大津地裁で争われるのだろうか。

    多分、提訴した弁護士さんは、
    大津地裁の裁判官だったら、要求通りの決定を下すであろう事を
    ご存じか、期待できると考えておられたからでしょう。

    普通の感覚なら、
    原発の所在する福井県の地裁に提訴するはずですし、

    便利を考えたら、
    わざわざ大津にしないで、京都地裁でも良いのでは?
    という気がします。

    大津地裁には、
    リーガルマインドによらず、
    政治的な見地から反政府的な判決をお出しになる裁判官が
    おられるのでは?との疑念を持っています。


  B.衆議院選挙の定数に関する違憲判決

    衆議院選挙や参議院選挙を実施される度に、
    違憲訴訟が提訴されますが、私がこのところで気になっているのは、

    最近の選挙で、
    広島高裁の岡山支部が、違憲判決を出されたことです。

    岡山の選挙区は、
    最高裁の基準では、違憲状態ではない のでは ないでしょうか。

    選挙は、全国全てに関わっているものですから、
    もし、岡山支部の判決が確定すれば、おかしな事になるのでは?
    という気がしています。

    このようなことが生じるのは、
    リーガルマインドに従わないで、政治的な見地から違憲判決を
    厭わない判事が、おられるからではないでしょうか。


  C.大阪地裁

    弁護士さんの仲間内の話として、

    反政府、反行政の性格を持つ事件の場合、
    東京地裁より大阪地裁にを提訴した方が、勝訴判決を採りやすい、
    というのが常識だそうです。

    そういえば、
    最近、大阪地裁で、朝鮮学校の無償化の裁判で、
    原告側勝訴の判決が出ました。


    大阪地裁がこのような傾向を持つのは、

    最高裁が、
    一カ所にそのような人を集めた方が、目が届きやすいので、
    大阪にそのような判事を意図的に配置しているのでは?

    と、辛辣に言う人 も います。


以上ご紹介した例は、全て確証がありません。
単に、私が不思議だなと思っているだけのことです。

でも、
全くあり得ないということもないのでは? という気がしていますので、
皆さんが、お考え頂く際の参考となればと思い、ご紹介させて頂きました。

あくまで「ご参考のため」ということを、ご承知おき下さい。



② 法曹(法律専門家)は、

  ご自身のリーガルマインドが、法(法律)より上位にあり、優先する
  と、確信していることについて。


  この点に関しては、
  憲法9条の論議で、あらわに出ていると思いますので、

  以前書かせて頂いた次のブログと重複しますが、
  簡単にご紹介させて頂きます。


   憲法9条論議の混迷は、法学の本質ーーリーガルマインドーーに
   由来するのでは???
   ・・・法学は、
      キリスト教神学同様 科学でないこと と、
      法律家は、リーガルマインドを 実定法より優先すると考えていること
      について・・・
      http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e8ca.html


  A.砂川判決の補足意見で、
    田中先生(当時の最高裁長官)は、次のように述べておられます。

      我々は、
      その解釈について 争いが存する 憲法9条2項をふくめて、
      同条全体 を、

      一方、
      前文に宣明されたところの、恒久平和 と 国際協調 の 理念からして、

      他方、
      国際社会の現状 ならびに 将来の動向を 洞察して
      解釈しなければならない。


      字句に拘泥しないところの、
      すなわち、
      立法者が 当初持つていた 心理的意思でなく、

      その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、
      あらゆる法の解釈に 共通な原理として
      一般的に認められているところ である。

      そして、
      このことは、とくに憲法の解釈に関して 強調されなければならない。


    先ほど述べたように、法学概論の授業で、 

    法の解釈では、立法論と解釈論があり、

    解釈論は、
    法の条文の定義を超えて(逸脱して)解釈することは できず、
 
    もし、その法(法律)が不適当であるなら、
    立法論 で 議論すべきである と、

    田中先生のおっしゃる目的論的解釈方法の前に、
    講義されるのです。


    ですから、
    立法者の当初持っていた心理的意志を無視して、
    自分の解釈で行うべきだと言うことは、

    法(法律)の解釈としては、邪道であり、

    もし、
    このような議論を法学部の学生が答案で書いたら、
    多分、「不可」即ち「落第」と判定されるでしょう。


    以前書かせていただいたように、

    田中先生は、

    当時の社会情勢、世論を踏まえて
    最高裁長官として、国家の存亡にかかわる事態を防がねば
    と、お考えになって、非常の手段に出られたのであり、

    その後の砂川判決が果たした役割を勘案すると、
    先生の業績は、高く評価されるべきものと、考えています。


  B.野党で護憲派の福島さんや枝野さんも、

    同様に、
    ご自身のリーガルマインドが、憲法9条より優先する
    と、お考えになっておられます。

    ニュースを拝見していると、
    お二人とも、

    A.個別的自衛権は、合憲だが、
      集団的自衛権は、違憲である。

    B.個別的自衛権の行使のための自衛隊は、合憲である

    と、おっしゃっておられるような気がしています。


    憲法9条は、

    交戦権を否定し、陸海空軍その他の戦力を保持しない
    と、明確に規定しています。

    お二人は、
    自衛隊は、陸海空軍その他の戦力ではない
    と、おっしゃるのでしょうか。

    以前、
    警察ご出身の後藤田さんが、日経新聞の「私の履歴書」で、

    自衛隊が創設された頃、
    「自衛隊は、警察か?」と、聞かれたときに
    「自衛隊は、軍隊である」と、明言していた、

    と、書かれておられました。


    誰が見ても、
    自衛隊は、外国の軍隊と戦うための組織であり、
    軍隊である と、思いますが、

    お二人には、
    別の見解をお持ちなのでしょうか。

    それなら、
    その理由を、国会で明確にすべきでは?と、思うのは、
    私だけではないでしょう。


    お二人のお考えを 推測しますと、
    お二人とも弁護士で、法律専門家ですから、

    さすがに、
    国家の正当防衛にあたる自衛権を否定できないのでしょう。

    ですから、
    憲法9条の条文に何が書いてあっても、

    お二人のリーガルマインドにより、
    法の 基本原則、真理 である 正当防衛 が、優先する
    と、お考えになっておられる のでは ないでしょうか。

    だとしたら、
    法律(憲法)の規定より、
    ご自身のリーガルマインドを、優先させておられるのです。


    ただ、
    お二人が、中途半端なのは、

    自衛権には、
    個別と集団 との 2つ が ありますので、

    その一方だけを 合憲だとされるのは、
    論理的におかしいのでは?

    と、いうことです。


    突然 理由もなく
    暴漢に、殺されようになったとき、

    単独で、防戦するのも、
    隣にいる友人と共同で、防戦するのも、

    どちらも正当防衛として認められるのではないでしょうか。


    国家の場合も同様で、
    自衛権(国の正当防衛)が 認められるなら、

    個別の自衛権 も、
    集団の自衛権 も、
    同列に 扱われるもの なのです。


    以上を勘案すると、
    政治的に、自民党の政策に反対するために
    憲法9条の護憲 を 主張されながら、

    法律専門家(弁護士)故に、
    お二人のリーガルマインドが原因で、

    護憲の主張 を、貫徹することができず、
    中途半端で 論理的には破綻した主張 を、されておられる のでは?
    と、推察しています。



③ 憲法9条解釈における 憲法学者のウソ

  憲法9条の論議に於いて、一番問題だと感じているのは、
  憲法学者の怠慢ともいえる態度であり、

  9割を占めると報道されている 護憲派憲法学者は「ウソ」をついている
  と、言っても良いレベルに達しているのでは?
  と、感じています。

  小学生でも、
    軍隊は持ってはいけない、
    交戦権は認めていない

  と、いうことは、
  読めば理解できますので、

  彼らは、小学生の知的レベルでしかないのでは、
  と、感じられるくらいです。

  私も、小学生のとき、憲法を教わった際に、

  自衛隊は、
  明確に憲法に反しているのに(違憲なのに)、
  何故、存在しているのだろうか?

  との疑問を 持ちました。


  戦後 アメリカが、
  日本軍は、兵隊は優秀だったが、将校は無能だった
  と、評価しましたが、

  護憲派憲法学者は、
  まさに、
  アメリカが批判した 日本軍の将校に、相当するのではないでしょうか。


  憲法学者として、議論すべきは、

  憲法9条が、
  アメリカが、日本を 未来永劫 無防備の国家に貶めておこう
  と、意図して、無理矢理 制定させた経緯から、

  法の普遍的原理、法の真理 である、
  国家の正当防衛の権利まで 剥奪している事に対して、どの様に考えるか

  を、議論することではないでしょうか。


  アメリカが、無理矢理押しつけたから、改憲せねばならない
  と、言っているのではありません。

  法学を学んだ者として、
  更には、
  生涯の専門とされておられる学者として、

  憲法9条が、

  政治的ではなく、
  法的に、どの様な評価をされるもの なのか、
  について、正面から 正直に議論すべきでは?

  と、申し上げているのです。


  個人も,国家も
  正当防衛 は、

  何人(なんびと)も、剥奪できないし、
  どんな国でも、認められている権利ではないでしょうか。

  このことは、
  少しでも法律を学んだ者なら、

    自明の理 であり、
    法の真理 である

  と、確信しているはずではないでしょうか。

  自明の理であるものに対して 反対 を 主張する人 は、

   何か含むところ、
   憲法9条の場合は、政治的な意図
  を持って 発言している人であり、

  政治家ならともかく

  法律家としては、
  「ウソ」をついている人だろう と、感じられます。


  まじめに、リーガルマインドに従って考えれば、
  法律の真理に反する護憲の主張は、できなくなるはずです。

  先ほどご紹介した、
  社民党の福島さんや 民進党の枝野さんでさえ、

  政治的な場に於いて、
  個別的自衛権 を、認めざるを得ないのです。

  言い換えると、
  お二人でさえ、正当防衛を否定できないのです。


  外国が、日本を侵略してきたとき、

  憲法は、

  交戦権を 認めていませんし、
  軍隊も 認めていませんので、

  憲法の従えば、
  日本は、簡単に占領されるでしょう。


  日本政府は、

  米国と安全保障条約を締結して、
  アメリカを 用心棒様に(半傭兵様として)雇っていますが、

  アメリカは、

  所詮、他人であるどころか、
  この前、日本と4年間も戦った相手ですので、

  とことん信用できる という訳には いかないでしょう。


  アメリカも、日本と同様に 独立国家ですので、
  アメリカの国益 から見て、

  日本を 防衛するよりも、
  侵略国に 日本を占領させた方がメリットがある

  と、判断すれば、

  わざわざ
  アメリカ人の血を流してまで、日本のために戦うことはないのでは?
  ということも、考えておかねばなりません。

  更に、
  将来、中国系のアメリカ大統領が出現したら、

  中国は、
  アメリカは日本を応援しないと見込んで
  沖縄、更には日本を占領しようと
  戦争を仕掛けて来るかもしれません。

  その際に、
  アメリカが、どの様な態度を取られるのか は、
  容易に推測できるのでは ないでしょうか。



  野党や護憲派の憲法学者の皆さんに、
  厳しい批判をさせて頂きましたが、

  政府や改憲派憲法学者の皆さんに対しても、
  「怠慢だな」 と、感じています。


  というのは、
  憲法の欠陥を自覚されておられながら、

  それを、
  正面から国民に説明しないことです。


  先ほどご紹介した
  田中先生の砂川判決の補足意見の根底には、

  先ほどお話しした
  法で 当然認められた 正当防衛の権利 は、
  何人(なんびと)といえども 奪うことができない
  との原則 を、

  少々乱暴な言い方で おっしゃっておられることが
  あるのです。


  当時は、
  今申し上げた事(田中先生の本音)を、直裁に主張しても、

  「又、戦争を始めるつもりなのだな」と、
  火に油を注いで、袋だたきにあることが、目に見えていたので、

  正面からおっしゃらなかったのだろう と、思います。


  でも、
  戦後70年を過ぎた現在に至って 漸く、

  このことに対して冷静な議論ができる土壌ができてきた
  と、思いますので、

  政府、自民党におかれましては、
  真正面から 国民 に、

  A.無防備国家 で、良いのですか、
  B.外国が侵略してくることに 備えなえないで よろしいのですか、

  C.自衛権とは、
    個人でも認められた 正当防衛 を、国家レベルで言う言葉 であり、

    個人と同様に、国家でも、
    正当防衛、即ち 自衛権 が、認められているのですよ、

  ということを説明して、

  国民のコンセンサスを醸成して、
  憲法9条を改正されることをを切に願っています。


  (注) 元弁護士の家内から、

      憲法制定した議会で、憲法9条第2項に、
      「前項の目的を達成するため」との文言を追加したことにより、

      私の解釈と異なる解釈が成立するので、
      法律専門家は、別の解釈をしている と、強烈な批判を受けました。

      私の意見は、
      家内の主張する解釈(以下「この解釈」と略します)を踏まえて、
      ご紹介しているのですが、

      この解釈について、
      今までにも お話ししたことがありますが、
      ここで、少し詳しく 繰り返して お話しさせて頂きます。


      この解釈は、
      「法律家特有の詭弁、ウソ」である と、考えています。

      ウソとは、
      「事実でないものを、事実だ と言って、人を騙すこと」
      ですが、

      この解釈は、
      まさに ウソの定義通りのもの です。

      即ち、
      言行不一致なのです。


      竹島は、
      韓国に不法占拠されて以来、半世紀以上経過していますし、

      北朝鮮は、
      我が国に侵入して、日本人を拉致誘拐して主権を侵害しています。

      最近では、
      中国がドローンにより領海侵犯を繰り返しています。


      これに対して、
      日本政府は、何をしたというのでしょうか。

      自衛権を保持しているなら、
      主権を侵害されたら、侵害を排除するのが

      独立国として、主権を守ることのはずです。

      何故、
      竹島を、実力行使して 奪回しないのでしょうか。
      (石原元知事によると、
       海上保安庁の船が竹島に近づくと、韓国は、砲撃してくるそうです。)

      何故、
      北朝鮮に拉致誘拐された日本人を、
            実力行使して、取り戻さないのでしょうか。

             何故、
      領海侵入した中国のドローンを打ち落とさないのでしょうか。

      ドローンに対して何もしなければ、

      中国は、
      次には、船舶や飛行機による領海侵犯、
      更には、尖閣上陸の行動に及ぶのではないでしょうか。

      そのときも、
      指をくわえて、眺めているだけなのでしょうか。

      もし、そうなったら反撃する と、おっしゃるなら、

      船舶や飛行機の領海侵犯と、
      ドローンによる領海侵犯との法的な差異は、どこにあるのでしょうか。

      中国の領海に、日本が領海侵犯した場合の中国の対処と
      日本政府が、同じ対処をしなければ、

      日本政府は、
      日本国 を 貶めていることになります。


      日本政府が、自衛権を行使しないのは、

      憲法第9条第1項
      「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
       国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、

       国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
      との規定に阻まれて、

      指をくわえて、眺めているからではないでしょうか。


      口では、
      自衛権を保持している と、言いながら、

      実際には、
      自衛権を行使していないのです。

      即ち、
      言っていること と、
      やっていること が、異なっているのです


      言い換えると、

      砂川判決以来
      やる気が無いのに、ウソをついて 国民を騙している のです。

      (この選択(ウソ)を、
       以下に述べる事情により 国民が根強く支持して
       喜んでウソに騙されてきたことも、事実です。)





何度も、このブログで書いてきましたことを
この項の最後に、一言 付け加えさせて頂きます。


憲法は、

前文で、周辺諸国が平和を愛好する良い国だと、
勝手に妄想して、軍隊も交戦権も放棄しているのです。

本来なら、

周辺諸国が悪い国、侵略国だったら、どうするのか
を、規定しておかねばならないのに、

それが欠落しているのです。

また、
戦争のない世界を築くのに、

日本がどの様な行動をすべきか、
どの様な努力をすべきか、

についても、規定していません。、


ここで思い起こして頂きたいのは、

最初に述べた、
慣習法が実定法を支えていると言うことです。

ソ連(現ロシア)は、
北方4島(本当は千島列島)を不法占拠し、

韓国は、
竹島を不法占拠しています。

中国も、
尖閣諸島のみならず、沖縄を日本より掠奪しようと、
公然と工作活動を、日本国内でも行っています。

このように、
周辺諸国が、悪い国、侵略国だらけなので、

慣習法が、
実定法の欠陥を埋めて、自然治癒機能を発揮してきたのが、

自衛隊の歴史であり、
今回の安保法制であると、考えます。

ですから、

憲法9条は、

法規範として、
法の真理に反する規定であることに加えて、

その存在が、
日本国の存亡の危機に貶めかねない規定であるため、

改憲すべきであるのに、


この前の戦争で、

日本政府が、日本国民 を 屠殺しまくって、
国民に、トラウマを植え付けたために、改憲できなかったのです。


野党や護憲派憲法学者が、
国民のこのトラウマを利用して、

日本を貶め、
周辺諸国の侵略に資するために、

活動してきているのです。


従って、
憲法9条を 正面から改正すべきだと考えていますが、

その際に

戦争のない平和な世界を希求するのが、
日本の使命であり、目指す道 で ありますので、

単に、
「日本国は、自衛権、軍隊 を保持する」
と、書き直すのではなく、

現行の平和憲法の理念を、

 どの様に 実現するか、
 どの様に 努力するのか

できるだけ 具体的に 記述した上で、

その理念が 実現できるまでの間、
現実的な対処として、

我が国も、
他の国と同様に、自衛権、軍隊を保有する

との趣旨の規定にして頂ければ
と、願っています。


このように規定することが、

  世界で最初に、軍隊と戦争を放棄したことによる歴史的使命を
  忠実に希求する 我が国 の「あるべき姿」だ

と、確信しています。


ちょっと熱が入って、脱線気味になったことをお詫びします。

以上お話ししたことは、

長年ヨーロッパ中世史の本を読んだ結果、生み出された思考であり、
法律専門家の皆さんとは、異なる視点も含まれているのでは?

と、考えましたので、敢えて 書かせて頂きました。




3.法律家、とりわけ裁判官 の「ウソ」への 裁判制度上の対策

裁判に於いて、
法律家が「ウソ」をつき放題で、
何ら対策を打たれていない という訳ではありません。

以前、
ある裁判官が世間を騒がしたときに

「民間会社だったら、何をするか分からない社員がいたら、
 倉庫番とか、全く会社活動に被害を及ぼさない所に
 配置するのだろうけど、

 裁判官は、
 裁判官として任官させたからには、
 どこかで裁判をさせなければならないのが、頭痛の種です。」

と、裁判官出身の弁護士さんの嘆きを、お聞きしたことがあります。


ですから、
公言されている訳ではありませんが、

裁判官が、

リーガルマインドではなく、
邪念や政治信条から判決を書くことがあるべし、
との前提で、

裁判制度 が、作られているのだな と、思います。


裁判官の中には、

共産党の青法協に所属する裁判官や、
外国系の裁判官
(法的には日本人であっても、
 日本のためでなく外国のために裁判しようと考えている裁判官)
もおられますので、

そのような方の存在を前提に、考えられているのだな、
と、感心しています。


私が見るところ、

裁判制度は、
次の2つの対策 が 講じられていると思います。

即ち、

① 三審制

② 刑事裁判 は、

  真実の発見の場ではなく、
  社会が受けた傷に対して妥当な解決を図る場、
  社会が受けた傷を、癒やす場 であること。



① 三審制

  ある裁判官が、

  良心(リーガルマインド)ではなく、
  邪念や政治信条により判決しても、

  上級審で、否定すれば、
  一時的に、悪影響が生じたとしても、
  最終的には、悪影響を避けられることができます。


  従って、地裁の判決を、
  高裁、最高裁と、2回審理して決定することにしたのでしょう。

  三審制の目的は、他にもあると思いますが、

  良心によらない判決がされても、
  確定判決として効力を持つことを避けることも、

  表面的には語られない 目的の一つだろうと、想像しています。


② 刑事裁判は、
  真実の発見の場ではなく、社会が受けた傷を癒やす場であること


  私は、10年くらい前迄まで、

  刑事裁判は、
  真犯人であることを確認した上で、量刑を決定する場である、

  言い換えると、
  真実を発見する場である、と考えていました。


  家内の父が、刑事裁判官でしたので、
  日頃、裁判に於いて事実認定に心血を注いでいたことを知っていましたし、

  義父の刑事裁判官として生涯のプライドは、
  若いときに起案した判決における事実認定が、
  高裁、最高裁においても 覆られなかったことです。

  ですから、
  刑事裁判は、真実を発見する場であると、確信し続けてきました。


  ところが、10年ほど前、

  誰もが有罪判決だろう と思っていた裁判 で、
  無罪判決を出された裁判官に、お話を伺ったら、

  法廷外の週刊誌などの報道を無視して、
  法廷に出された事実だけで検討せねばならない
  とのルールに従ったら、有罪とならなかった

  と、おっしゃったので、びっくりしました。


  私は、
  内心、納得できなかったので、

  「その被告人は、悪い人では?」とお聞きしたら、
  「彼ぐらいの悪い人間(ワル)はいない。」と、回答されましたので

  更に、びっくりしました。

  それ以上は、お聞きしませんでしたが、

  多分、その裁判官も、

  個人的には、犯人では?と、感じられて おられながら、
  ルールに従って 厳密に事実認定したら、
  無罪判決との結論になったのだろうな、

  と、想像しています。


  この経験が、

  裁判 は、真実の発見の場ではない、
  と、考える きっかけ と なったのです。


  法廷に出される事実は、誰が出すのでしょうか。

  当たり前ですが、
  刑事裁判においては、検事と弁護士でしょう。

  現代の裁判は、
  ヨーロッパ中世の異端審問 や 江戸時代の大岡裁き とは
  異なりますので

  裁判官は、
  自分で取り調べすることができず、

  双方から出された証拠だけで 判断せねばならない のです。


  検事や弁護士は、
  どんな証拠を出すかについて、裁量権、決定権があります。

  ですから、
  A.それぞれに都合の悪い事実は、出さないこともあり得る、

  B.言わないことで、裁判官が誤認することがあっても、
    それが、自分に都合が良ければ、黙っていることもあり得る、

  ということを、否定できません。


  これは、
  全ての真実が、法廷に出されないこともあり得る
  と、いうことです。


  更に、
  真実を追究して、確認、確定できなければ、罰しない
  となると、

  殺されたり、傷害を負わされた
  刑事裁判に登場しない被害者 の 人権や立場 は、どうなるでしょうか。


  A.真犯人でなければ、罰してはいけない
    と共に、

  B.被害者の人権を救済するため にも

  刑事裁判があるはずです。


  更には、

  その時代の科学的技術、知見では、
  どうしても解明できない場合、どうするのか

  という問題 が あります。

  例えば、
  現代では、DNA鑑定で、
  ほぼ100%、被告人が犯人かどうか、判定できるようになったと思いますが、

  一昔前には、
  DNA鑑定により、かえって間違えてしまうこともあり得ました。


  私が思い出すのは、刑法の講義を受けた際に、

  弘前大学の事件で、

  法医学の教授の、9割の確率で、犯人であろう、との鑑定に基づいて、
  有罪判決が出されたこと に対して、

  団藤先生が、首をかしげて 躊躇しながら

  「9割の確率があったら、有罪判決もやむを得ないと考える」
  と、講義されたことです。


  それをお聞きして、

  10%も誤判の可能性があるなら、
  「疑わしきは罰せず」の原則があるのだから、

  有罪判決 を 出してはいけないのでは?
  ちょっと先生 は、乱暴すぎるのでは?
  と、内心憤慨しました。

  しかも、
  大学卒業後 大分経って、時効が成立してから、
  真犯人が、名乗り出たこと を ニュースで知って、

  「案の定だな」と、内心つぶやいていました。


  でも、
  今から考えると、当たり前のことですが、

  団藤先生は、
  刑事裁判の性格や、その限界、を熟知された上で、
  判断されたおられたのだな

  と、改めて尊敬しています。


  当時の鑑定技術では、
  100%の鑑定は、不可能だったのでしょう。

  裁判官は、
  不完全な鑑定に基づいて、
  被告人と被害者の両方を勘案しながら、

  判断せねば ならなかった、
  決断 を 迫られていたのだろう

  と、思います。


  ちょっとでも不確かなことがあれば、有罪としない
  と、すれば、

  誤判は、避けられるでしょうが、
  真犯人を放任して、社会に不安を広めることことにもなりかねません。


  このように考えると、
  刑事裁判 は、

  真実を発見する場ではなく、
  社会の傷を修復する場であることを 意味していることだろう

  と、思います。


  更には、
  法廷に出た事実は、厳密の検証できますので、

  良心(リーガルマインド)に従った判決かどうか、
  第三者である上級審でも検証できることになります。

続きを読む "ウソ;ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪       ・・・第3回 法学における「ウソ」             1.法学の本質は、「リーガルマインド」である         2.法学が避け得ない根本的な問題"

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2016年3月 2日 (水)

憲法9条論議の混迷は、法学の本質ーーリーガルマインドーーに由来するのでは???・・・法学は、キリスト教神学同様 科学でないこと と、 法律家は、リーガルマインドを 実定法より優先すると考えていること について・・・

最近、寝る前に、家内と次のような会話をしました。
(家内は、60才まで弁護士をしていたので、一応法律実務家です。)


家内;1億円息子に贈与し、確定日付をとっておいて、
   時効が成立しても、

   税務署は、
   贈与(見なし贈与)だと認定して、贈与税を課税してくるし、

   裁判所も、税務署の課税を認める。

 

私 ;それはおかしい。
   時効が成立したので、課税はできないはずでは?


家内;1億円を、息子名義で銀行預金しておけば、
   課税されないだろうが、

   普通は、
   自宅の金庫に、1億円を置いたままにしているから、
   贈与を認められないことになる。


   (「銀行に預金すれば、時効が成立し、課税されない」
   というのは、

   ある日、
   1億円もの原因不明の預金が、親から子供に振り込まれたら、

   税務署は、その送金に疑念を持って調査するから、

   事実上時効成立前に、贈与が見つかり課税されるからです。)


私 ;それは、事実認定の問題では?

   1億円が、親の金庫に、そのまま置かれていたら、
   贈与は偽装で、時効は成立していない、
   と、認められるだろうが、

   子供の金庫に保存されてたら、
   贈与されたと認定されて、時効は成立するのでは?


家内;確かにそうだけど、

   実際には、
   1億円を管理していたが誰なのか、
   親なのか、子供なのか

   不明なことが多い。

   その場合は、
   税務署は、贈与は偽装だとして、時効を認めず、
   贈与(見なし贈与)として課税するし、

   裁判所に 持ち込んでも、
   税務署の認定を支持して、課税が確定する。


私 ;それはおかしいのでは?

   贈与された日時が、書面上はっきりしていて、
   証拠上は、時効は成立しているのだから、

   税務署が、贈与は偽装だったと立証しなければ、
   (見なし贈与としでても)課税できないのでは?


   どちらか不明で、判断つかないというのは、
   立法の瑕疵だから、

   税務署は、税法を改正すべきで、

   形式的に、
   法律上は、時効は成立しているのに、

   税務署の恣意(行政の判断)で課税するというのは、
   法治主義ではなくなる。

   ましてや、
   裁判所までぐるになって、証拠を無視して、立証もせずに

 

   贈与と見なして 国民から 財産を召し上げるのは、
   メチャクチャではないだろうか?


家内;法律には、無数に洩れがあるので、

   その漏れを突いて、
   法律にこう書いているから、これも認められるはずだ
   という論理を認めたら、脱税し放題になってしまう。

   法律に書いてなくとも、脱税だと認定しなければ、
   不公正がはびこり、かえって世の中おかしくなってしまう。


私 ;法治主義というのは、法律に従って運営することでは?

   法律に漏れがあるなら、その漏れをなくす努力をすべきで、
   法律の漏れを放置して、
   漏れの欠陥を 国民に押しつけるのは おかしい。


家内;私の言っていることを理解できないのは、
   リーガルマインドがないからだ。

   これを説明しだしたら、 時間がかかるし、
   リーガルマインドがない人間に、
   いくら説明しても意味がないので、
   やめとく。お休み。

 

と、言われて、議論が終了しました。




今回の会話における家内と私の違いは、

法律がある以上、

その法律に従って、
もっと言うと、
法律に殉じて、

社会が運営されるべきである、


言い替えると

法律の文言に従って、論理を積み重ねた結果の結論は
不適当な結論であると見えても尊重すべきであるし、

不適当な結論に達するような法律は、
立法論で解決すべきで、

解釈論の場に持ち込むべきではない

との 私の主張に対して、


家内は、

法律の字句にとらわれずに、

法律以上のもの、
即ち
法律家が保有するリーガルマインド に従って、
法律を解釈運営すべきである、

と、言っていることです。


法律の専門家であるはずの家内が、
何故、その様な主張が成立するのでしょうか。

家内と話している最中に
家内が言わんとすることの真意がひらめいて、

しかも、それは、

「法律の本質」、
言い替えると、
法律を生み出す「法学の本質」を現しているな、
と、直観したのです。




家内と、知り合ってから50年経ちますが、

何度も
私のリーガルマインドのなさについて、指摘されてきましたし、
私も 自認してきました。


今回の会話により、
法学の本質や、リーガルマインドについての
私にとっての長年の謎が、一瞬にして氷解すると共に、

法律家の唯我独尊的な思考をもたらす根底にあるものも
明確になりました。

更には、
折角、法学部に入学したのに、法律の勉強を放棄した
私の心の奥底にあってもやもやしていた理由も、
はっきりと自覚すると同時に、

明治以来言われてきた「学問の蘊奥」とは何かについても
回答を見つけた気がしています。


今回は、その辺についてお話しさせて頂きます。




「リーガルマインド」という言葉を、
真剣に考えるようになったのは、

民法の講義の最初に、

「争っている当事者の主張について比較考量し、
 どちらの主張に軍配を上げるかについて
 リーガルマインドに従って判断しなさい」

と、教えられたときからでした。

 

法的判断とは、
法律に従って、法律の論理を積み重ねることにより
妥当な結論が得られるものだろう と、想像していた私には、

不意打ちを食らって茫然として、
足下が、根底から崩れていくような気がしました。


というのは、
高校までの授業では、例えば数学に於いては、

AならばB、BならばC、と、
論理を積み重ねていけば結論の到達する

と、教えられてきたからです。



「判断基準のリーガルマインドとは何ですか?」
との問いに対しては、

「法律、とりわけ民法の勉強をすすめる内に
 自ずから身について来るものだ」

というのが、回答でした。

要するに、
リーガルマインドとは、

法律家が身につけている感覚であり、判断基準であって
明確に定義されるような性質のものではないので、

一生懸命民法を勉強して、自ずから 習得するように
ということなのです。


例えると、
弦楽器奏者が、ボーイング(弓の使い方)の極意を、
修練によって身につけるのと同様の性質のものだ
ということなのです。

ですから、
法律的な才能豊かな人は、
極端に言うと それほど努力しなくとも習得できるし、

才能の無い人は、
いくら努力しても習得できないということは、音楽と同様だ

と、いうことになります。

そういえば、

芸大は、
戦前、音楽学校、美術学校と言われてきました。

法学部も、
アメリカでは ロースクール(法律学校)と言われているのは、

音楽や芸術と同質のアートである法律を教える学校
と、いうことを 意味しているのでしょう。



では、何故この様なことになったのでしょうか。

それは、
法律特有の性質から由来するものだろうと思います。


法律について、いろいろな定義がされうると思いますが、

人間社会が法律に求めてきたものを一口で言うと、
「紛争を、妥当な解決に導くための道具」ということが
できるのではないでしょうか。

ローマ法以来、約3,000年間にわたって、
いろいろな社会的な紛争、衝突の解決を工夫する度に、
法学が発展してきました。

紛争の解決の先例が、法的な規範力を有するになることで、
慣習法が形成されていったのです。


その慣習法を集約したのが、
「ユスティニアヌス法典」即ち「ローマ法」であり、

その後の法学の発展を、成文法(実定法)に集約したのが
19世紀初めにナポレオンが編纂した「フランス民法典」なのです。


日本の民法典も、
ナポレオンの民法典を輸入してものであり、

社会的な紛争を解決する際に 大変優れて役立つ法律ですが、
人間社会の全ての紛争に対処するには、
不十分であることは否めません。

というより、
人間社会で生じる紛争は、無限に存在しますので、

その一つ一つについて
解決方法を記載した法典を作成することは、
不可能なのです。

ですから、現在に於いても、
法律を創造する根本であるリーガルマインドが、
法律の背後に控えていて、

法律の不備や欠陥が生じる度に、表に出てくるのです。

リーガルマインドとは、
ローマ法以来 3,000年に渡る 法学の発展の結果
抽出されたエッセンスというべきものなのです。


従って、
法律を解釈する上で、
法律の背後に存在し、法律を生み出したリーガルマインドを
身につけておかなければ、

紛争解決において求められる妥当な結論に
到達することができないのです。

現行の法律は、
紛争解決するためのよすがとなる材料の一つであり、

紛争解決するために実質的に機能する法的判断の本質は、
リーガルマインドによる判断であり、
リーガルマインドによるもたらされた結論であると

法律家は考えているのだろうと思います。


確かに、
学生時代の友人を見ていると、

あの頃の司法試験は、
リーガルマインドを身につけた人が合格する試験だったな、

逆に、
リーガルマインドを身につけることができなかった人は、
言い替えると、法律的な才能が少なかった人は、
いくら頭が良くとも合格できない試験だったな
と、感じられます。



この様に法学を考えると、

法学は、
キリスト教神学と、本質を同じくする
科学ではない学問では?

との、結論に至ることにもなります。


私は、
「科学」の定義を、

論理を 積み重ねていっった結果、
誰もが同じ結論に達するし、

その論理を 第三者が、検証可能であるものだ
と、考えています。


これに対して、法学は、

論理を 積み重ねはするけど、

法的な結論は、
裁判官の様な、法的判断に責任を持っている立場の人が、
それぞれのリーガルマインドに基づいて決定するものであり、

従って、
人によって結論が、180度異なることもあり得るし、

第三者が、
その論理を検証しても、同じ結論に達しないことがあるので、

科学とは異なるものである
と、言わざるを得ないのでは?と、考えています。



法学も、一般的には、
社会科学の一分野の「科学」として位置づけられています。

社会科学や人文科学は,自然科学と異なり、
価値観に基づいて論理を積み上げていくとの特性がありますので、

第三者による検証可能であるということは、
同一の価値観に基づいて論理を構築すれば、
誰でも同じ結論に達することを意味していると考えるべきですが、

 

法学は、
論理を積み重ねても、常に同一の結論に達する「科学」ではない
キリスト教神学と本質を同じくする学問である と考えられます。



リーガルマインドは、法学の修練の結果、
法律家各人が自ずから感得して身につけるものですが、
定義がありません。

ですから、
リーガルマインドは、
法律家としての共通的な認識というべきものではありますが、

法律家の一人一人が身につけているリーガルマインドを
細かく分析すると、

おおよそは共通していますが、
100%同一だというわけではないのです。


キリスト教神学では、
定義されない神から論理を発展させています。

キリスト教徒は、
神について、共通認識を共有していると言えますが、
微妙に異なることから、

古くは、
三位一体論争、
ローマ教会とギリシア教会の分離、

更には、
カトリックからプロテスタントの分離と、

どんどん分裂を繰り返しているのです。


法学も同様で、
実定法の背後にある 法律家が保有するリーガルマインドが、

キリスト教の神と同じように、
定義がなく、微妙に異なるために、

紛争解決のための結論が 異なることが
生じているのです。



更に、
非常に申し上げにくいことですが、

リーガルマインドは、

個人の内心のこと故に、

本当に、その人のリーガルマインドに基づく結論 なのか、
リーガルマインド以外の要因 による結論 なのか、

第三者には、判別できないことが、問題なのです。


神学に於いて、
嘘をついても、第三者が否定できないのと
同じ本質を有しているのです。


あけすけに申し上げると、

ある裁判官が、嘘をついていても、
リーガルマインドによる判断だと言い張ったら、

第三者が、嘘によるものだ
と、断定できないのです。


また、
政治的な立場からの結論であっても、

リーガルマインドによるものだと言われたら、
そうですか と、言わざるを得ないのです。


私は、この点が、
三審制が設けられた本当の理由だと考えています。


三審制とは、
このリーガルマインドの根本的欠陥を
是正するための制度なのだろう
と、思います。


即ち、

リーガルマインド以外の要因による判決であっても、
異なる裁判官が改めて判断すれば、
自ずから是正できるだろう。


異なる裁判官が、
三回、同じ結論に到達したならば、

その裁判は、
リーガルマインドによる判断と言っても、
ほぼ間違いがないだろう

と、考えたのでしょう。



例えば、
政治的な訴訟は、
東京地裁より大阪地裁に提訴した方が、主張が通りやすい
との話が、弁護士業界の中ではあるようです。

また、
この判決を最後に退官する裁判長は、

今までの判例の傾向と異なる判決をする率が高い
とも言われています。

これは、

職業的な修練により身につけたリーガルマインド を
横に置いて、

自分の本心や、政治的立場により判
決を下していることがあり得ることを
示しているのでは?と、思います。




次に、

法律家の究極の本音は、
自分のリーガルマインドによる判断が、
実定法の規定より優先すると考えている、

極論すると、

実定法はお飾りであり、
自分のリーガルマインドこそが法律の本質である
と、考えている

と、断定しても、間違いではないだろう
と、思われます。


キリスト教神学においても、
アウグスティヌスにしろ、カルヴァンにしろ、

「自分の言っていること、求めていることは、
 神の言っていること、求めていることである」
と、公言して、

何人もの人を、殺害したのでした。


先程来申し上げているように、

キリスト教神学における「神」と、
法学における「リーガルマインド」は、

それぞれの学問に於いて同じ位置づけにありますので、


キリスト教神学で生じたのと同じこと、

即ち、
「私のリーガルマインドの判断こそが、
 唯一の正しい法的な判断である、

 実定法が、私の判断と異なるなら、
 実定法が間違っている」との主張が

法学でも生じるのです。



大変過激なことを申し上げましたが、

先ほど申し上げた通り、

リーガルマインドは、

法律の不備や欠陥が生じた際に露わになり、
第三者的にも見ることができるようになるものです。


最初にご紹介した家内の主張も、
法律の不備、欠陥があるときの
法律家の反応、対応の典型的な例ですが、


ここでは、
法律の不備、欠陥が明かな、
憲法9条の論議における、法律家の主張
を、ご紹介して、


法律家が、

いかに 自分のリーガルマインドが、
実定法より優先すると考えているか、
(上に位置づけているか)
について、見てみたいと思います。




最初に、

憲法9条が、不備、欠陥の法律である理由 を
ご説明します。


憲法9条は、
アメリカが、日本を永久に戦争できない国にするために
押しつけた規定なのです。

ですから、
法律一般の常識、

即ち、
リーガルマインドに反する規定であることを承知で、

アメリカが、無理矢理立法させたのでした。


法律一般の常識に反する規定だというのは、
日本国の生存 を 維持する方策 を
剥奪しているからです。

国家も、生物の一つですから、
その国固有の権利として生存権が承認されているのです。

アメリカが、日本に

他国が侵略してきても、
対抗して戦争することを放棄させたことは、

アメリカが、
日本国に、自力で生存権保持することを認めない と
押しつけたことを意味しています。

これは、
法律の常識に逆らった、現実に反する絵空事で

実際に生存権が脅かされる事態になれば
一瞬にして、法的規範力を喪失するものであり、

日本が、
いくら敗戦国で、無条件降伏したからといって、

生存を維持することを、自ら禁止させることを徹底するのは、
それこそ、神様でもあり得ないことなのでした。


ですから、
現実に、日本の生存権が他国から脅かされる事態になったら、

具体的には、
中国が、最近、日本を、

とりわけ、
尖閣諸島や沖縄を、侵略しよう
と 牙をむきだす状況が生じたら、

憲法9条は、
実質的に 憲法規範としての機能を
果たさなくなってきているのです。



更に、憲法9条には、
次のような本質的な規定の欠落、不備があります。


即ち、
憲法9条は、

第三国を信頼して武装放棄しているのですが、

第三国が、
信頼できない国であったときにどうするのか、
についての規定が欠落しているのです。

また、
武装放棄して戦争のない世界をどのように創っていくのか、
についての道筋を、指し示す規定も、欠落しているのです。


要するに、
「僕ちゃん、
 戦争は、忌むべきもの、否定すべきもので、したくないから、
 戦争も、戦争するための武力を放棄するよ」

と、幼児が口だけでほざいているの同じような規定なのです。


従って、
日本国、及び 日本国民の安全に責任を有していて
現実的な対処、対策をせざるを得ない自民党政府は、

警察予備隊から始まって、
自衛隊の創設、
防衛庁を防衛省に格上げするなど、

憲法を無視して、
「解釈改憲」との支離滅裂な表現で非難されながら、
必要な措置をとってきました。

これは、
戦前、国民を屠殺しまくった政府 に対する国民の不信感により
憲法9条を改正することを認めない「国民的なコンセンサス」の中での

論理的には、全く感心できない出鱈目な論理による苦肉の策
と、いうべきものでした。

(注)「解釈改憲」が、支離滅裂な表現だと申し上げるのは、

   「改憲」は、
   憲法改正の手続きでしか行えないものであるにかかわらず、

   行政府の解釈で、改憲できる と、
   恥ずかしげも無く、ぬけぬけと主張しているからです。

   また、
   「国民を屠殺しまくった」との超過激な表現を使用した理由については

   「集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html
    Ⅲ 憲法に対する 日本人の対応
       3.日本国民

   の項目を、参照して下さい。



以上の、憲法9条の欠陥、不備を踏まえて、
法律に欠陥、不備があるときに、法律家がどのような判断をするのか
に、焦点を絞ってお話しさせて頂きます。


憲法9条は、解釈に争いがありますので、
相対する陣営の主張を比較するために、

ここでは、現在、自民党が憲法9条の根拠としている、
砂川判決の核心である田中裁判長の補足意見のポイントと、

「個別的自衛権は合憲だけど、集団的自衛権は違憲だ」との
護憲派の野党の主張について、簡単に見てみようと思います。


< 田中先生の補足意見 >

田中先生は、
当時、最高裁長官で、砂川判決の裁判長を務められておられる、
高名な商法学者であられましたので、

以下、田中先生と呼ばせて頂きます。


田中先生は、

最初に、

本件は、
立ち入り禁止されている施設内に、
正当の理由なく立ち入ったとの極めて単純且つ明瞭な事件であり、

それを判断をすれば、終了する事案であるとのべられた後、

東京地裁の判決で、
本来、事件の解決の前提としても
問題として判断すべき性質のものでない
米軍駐留を違憲と判断したので、

最高裁が、
やむを得ず判断せざるを得なくなったと、述べられて、

憲法9条についての解釈を記述されておられます。


田中先生の論理は、

自衛権について、
正統的な国際法上の常識に基づいて、

国家がその存立のために自衛権を持っていることは、
一般に承認されているところでり、

ただ、
どれだけの防衛力を持つか、
充実の程度やいかなる方策を選ぶべきかの判断は、
政府の裁量にかかる純然たる政治的性質の問題である。


更に、
正当原因による戦争、

生命権を脅かされる場合の
正当防衛の性質を有する戦争の合法性は、

古来一般的に(国際法で)承認されている、
と、記述された上で、

憲法9条の解釈について、次の様の述べられました。

少し長くなりますが、
その部分について、以下に抜き書してご紹介させて頂きます。



 我々は、
 その解釈について 争いが存する 憲法9条2項をふくめて、
 同条全体 を、

 一方、
 前文に宣明されたところの
 恒久平和 と 国際協調 の 理念からして、

 他方、
 国際社会の現状 ならびに 将来の動向を
 洞察して 解釈しなければならない。


 字句に拘泥しないところの、
 すなわち、
 立法者が 当初持つていた 心理的意思でなく、

 その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、
 あらゆる法の解釈に 共通な原理として
 一般的に認められているところ である。

 そして、このことは、
 とくに憲法の解釈に関して 強調されなければならない。



 憲法9条の平和主義の精神は、
 憲法前文の理念と相まつて不動である。

 それは、
 侵略戦争と国際紛争解決 のための 武力行使 を
 永久に放棄する。

 しかし、
 これによつて わが国が、

 平和と安全のため の国際協同体に対する義務 を
 当然 免除されたもの と、誤解してはならない。

 我々として、
 憲法前文に 反省的に述べられているところの、
 自国本位の立場を去つて、

 普遍的な政治道徳に従う立場 を とらないかぎり、

 すなわち、
 国際的次元に立脚して 考えないかぎり、

 憲法9条を、
 矛盾なく 正しく解釈することは できないのである。



 
かような観点に立てば、

 国家の保有する 自衛に必要な力 は、
 その形式的な 法的ステータス は 格別として、

 実質的には、
 自国の防衛 と ともに、

 諸国家を包容する 国際協同体内 の
 平和と安全の維持の手段たる性格 を
 獲得するにいたる。

 現在の過渡期 に おいて、

 なお、侵略の脅威が全然解消したと認めず、

 国際協同体内 の 平和と安全の維持 について
 協同体自体の 力のみに 依存できない
 と、認める見解があるにしても、

 これを、全然否定することはできない。

 そうとすれば、
 従来の「力の均衡」を 全面的に清算することは、
 現状の下では できない。

 しかし、将来において、
 もし、平和の確実性 が 増大するならば、

 それに従つて、
 力の均衡の必要は漸減し、
 軍備縮少が漸進的に実現されて行くであろう。

 しかるときに、
 現在の過渡期において

 平和を愛好する各国が、
 自衛のために 保有し また 利用する力 は、
 国際的性格のものに 徐々に変質してくるのである。

 かような性格 を もつている力 は、
 憲法9条2項の禁止しているところの戦力 と
 その性質を、同じうするものではない。



 
要するに、
 我々は、
 憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、

 それを超える立場
 すなわち、
 世界法的次元に立つて、

 民主的な平和愛好諸国 の 法的確信 に 合致するように
 解釈しなければならない。

 自国の防衛 を 全然考慮しない態度 は もちろん、
 これだけを 考えて、
 他の国々の防衛に 熱意と関心とを もたない態度 も、

 憲法前文に、いわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であつて、
 真の平和主義に忠実なものとはいえない。



 
我々は、
 「国際平和を誠実に希求」するが、

 その平和は、
 「正義と秩序 を 基調」とするもの でなければならぬ こと

 憲法9条が 冒頭に 宣明するごとくである。

 平和 は、
 正義と秩序の実現

 すなわち、
 「法の支配」と不可分である。

 真の自衛のための努力 は、
 正義の要請 である と ともに、
 国際平和に対する 義務 として 各国民に 課せられている のである。



 
以上の理由 からして、
 私は、本判決理由 が、

 アメリカ合衆国軍隊の駐留を
 憲法9条2項前段に違反し許すべからざるもの
 と、判断した原判決を、

 条項および憲法前文の解釈を誤つたものと認めたことは
 正当であると考える。



この拙文は、

リーガルマインドによる判断が、
法律の判断より優先すると法律家が考えていること
を、説明する為のものですので、

田中先生の憲法解釈についてではなく、

先生のリーガルマインドが、
憲法9条を優先していると主張するロジックに注目して、
お話しさせて頂きます。



先生のリーガルマインド及び国際法の常識に基づく判断と、
憲法9条の差異については、

価値観の違いによるものであり、
論理的に説得し、解決できるものでないため、

田中先生は、
次の文章により非常の手段を執られたなと、感じられます。


即ち、
「字句に拘泥しないところの、
 すなわち、
 立法者が 当初持つていた 心理的意思でなく、

 その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、
 あらゆる法の解釈に 共通な原理として
 一般的に認められているところ である。」


少なくとも、私が学んだ目的論的解釈方法とは、

その記述(法律や契約文面)が
目指しているところのものに基づいて解釈することでした。

先生のように、
憲法の文章や立法者の目指しているものを 無視又は否定して、

ご自身の考えが目指すところのものに従って、
それに都合の良いような解釈をすることは、

厳しく禁じられているのではないでしょうか。


立法者の目指すものが不適当であるなら、
解釈ではなく、
改憲という立法により解決すべきものであり、

その意味から、田中先生の主張は
「解釈論の場において立法論を持ち込んでおられる」
との批判が、なされるのではないでしょうか。


この部分に於いて、

田中先生が、
実定法より、ご自分のリーガルマインドが、優先する
と、お考えなっていることが、

衣の下の鎧の如く、垣間見られたような気がします。


俗な感想を言わせて頂くと、
田中先生は、正宗の名刀であり、
憲法9条は、村正の妖刀なのです。

いくら名刀を振り回しても、

妖刀とは世界が違うので、
刃を切り結ぶことができないのです。


妖刀に対しては妖刀で対抗すべきでしょう。

憲法9条の推移を見ていると、
時間が進むにつれて、
最初に申し上げたような不備が露わになって、

妖刀と言うべき慣習法の憲法が、
憲法9条の不備を補うために形成されてきていて、

その慣習法の憲法の原点ともいうべきものが、
田中先生の砂川判決の補足意見だろうと感じられますし、

その意味で、
私みたいな素人にあきれられるような論理を、あえて展開して

強引な判決を下すことにより、
判例法の憲法の礎石を置かれたことに、大いに敬服しています。


この辺については

「憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?」
 http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

「集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・」
 http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html


を、お読み頂ければ幸いです。




< 護憲派野党の主張 における、リーガルマインドの優先>


弁護士出身の福島さんや枝野さんも、やはり法律家なのだなと感じたのは、

「自衛隊や個別的自衛権は合憲だけど、
 集団的自衛権は違憲である」と、主張されたときでした。


憲法9条は、
何度も申し上げている通り、日本の自衛権を剥奪しようとして
アメリカが日本に押しつけた規定です。

ですから、
日本が防衛行動すること、
即ち、
自衛権を保持することを禁止しているのです。


従って、
護憲を名乗るのであれば、

自衛隊も個別的自衛権も違憲である
と、主張すべきではないでしょうか。

確か、自衛隊創設当時、野党の皆さんは、
「自衛隊は違憲であり、解散すべきだ」と、
主張されておられたような気がしています。


それが、
いつの間にか、合憲となったのは、
どのような経緯や理屈があるのでしょうか。


一つは、
政治的な立場からでしょう。

国民の大半が、
自衛隊や個別的自衛権を承認しているのに、
それに反する主張をすると、相手にされなくなる
と、お考えになったからではないでしょうか。


もう一つは、
最初に申し上げたように、
福島さんも枝野さんも、政治家である前に法律家であり、

個別的自衛権までもを 否定することは、

お二人 の リーガルマインド
即ち
法律家としての常識 が、
許さないから では ないでしょうか。


でも、
自衛隊や個別的自衛権を合憲とした上で、
護憲を主張されることは、

論理矛盾であり、

敢えて、
その様な主張をなされておられるのであれば、

お二人のリーガルマインドが、
実定法である憲法9条より優先する
と、お考えになっているからだ
と、言わざるを得ません。




この拙文を書いている最中に、次のような判例が、
アメリカで出されたとのニュースが、ヤフーで掲載されました。

まさに、
リーガルマインドが、法律より優先する と、裁判官が公言した
そのものズバリの判例ですので、最後にご紹介させて頂きます。


 ニューヨークの米連邦地方裁判所は、29日(2016年2月29日)、
 麻薬事件で、
 捜査当局が押収した iPhone(アイフォーン)のロック解除
 について、

 米司法省が、
 製造元のアップル社に強制することはできないとする判断を示した。

 端末のロック解除を巡って、同社と司法当局は対立しているが、
 米メディアによると、
 この問題で裁判所の判断が明らかになったのは初めてという。

 司法省は、
 捜査当局に広い権限を認めた18世紀の法律を根拠に
 端末ロック解除を求めていたが、

 地裁判事は、
 「合憲性に疑いがある」として主張を退けた。

 また、
 現代のプライバシーとテクノロジーにかかわる重大な問題は
 「過去の法律の再解釈ではなく今の立法府によって判断されるべきだ」
 との判断も示した。

 同省は、
 控訴する意向で、最終的には連邦最高裁の判断に委ねられる公算が大きい



このニュース記事からだけで判断しますと、

私には、この連邦地裁の裁判官は、
この裁判官のリーガルマインドが、法律より優先してると考えて、

自分の判断が正しい
と、主張しているように感じられます。


司法権は、
違憲審査権を保持していますので、

対象となった法律が違憲であれば、
違憲判断をすれば良いのです。

ところが、この判事は、
「合憲性に疑いがある」と述べて、違憲判断を回避し、

それでいて、
問題となった法律は、
古いから新たな法律により判断されるべきだと、

法の適用を否定して、
立法権に介入しているのです。


法律の有効性、妥当性の判断は、
立法府の権限であり、
裁判官に与えられていないのです。

法律が古いからではなく、

立法府が、
その法律では不適当であると判断したら、
立法府が、改正すれば良いのです。

裁判官は、
その法律が、違憲かどうかを 判断すれば良いのですし
違憲かどうかの判断しか 権限を有していないのです。

ですから、
裁判官が、違憲判断まで至らないなら
現在ある法律 を おとなしく適用して
判決を書くべきなのです。


その法律が 憲法に反して 問題だ と、判断するなら、
違憲であると、はっきり主張すべきなのに、

この判事は、
卑怯にも、違憲判断 を 回避した上で、
自分の勝手な持論に基づいて、
法律の有効性、妥当性を 否定しています。


これは、
「自らのリーガルマインドによる判断が、法律より優先する、
 自分の考えが、法律である」
と、言っているようなものであると、感じられます。



以上、
法学におけるリーガルマインドの重要性をご説明してきましたが、
「法学というものは、適当なものなのだな」 と、感じられたとするなら
「ちょっと趣旨が違いますよ」と慌てて申し上げさせて頂きます。


法学の奥の院、
明治時代の言い方をすると「学問の蘊奥」について、
今回、お話しさせて頂いたもので、

リーガルマインドは、
普段は、背景に鎮座していて、表に出てこないものなのです。

即ち、
法律解釈の議論により、大半の紛争は解決しているのです。

戦いに於いて、
落城寸前、本丸も陥落するかというときに、

最後の砦、或いは 伝家の宝刀として リーガルマインドがあることを、
ご理解頂ければ幸いです と、願っています。



追記 2019年6月10日 記述

今回、この拙文を読み直してみて、
今時点の感想を、追記させていただきます。

明治時代に、ヨーロッパ法を日本に継受する際に、

実定法のみを継受して、
実定法を支えている慣習法を継受しなかった欠陥が、
憲法9条議論に露わになったなと痛感しています。

私は、学生時代、実定法と慣習法は、
横並びの存在のような感じを持っていました。

即ち、
仏独の実定法と英米の慣習法(コモンロー)が、
併存していると 考えていました。

中年以降、ヨーロッパ史の本を少しずつ読んでいる内に
慣習法が、実定法を支えている。
喩えると、海上に浮かぶ氷山のように
海面上の実定法を、海面下の慣習法が支えているのだな
と、感じるようになりました。

法律とは生き物ですから、実定法に規定漏れや、瑕疵があれば
慣習法が実定法を補って、自然治癒機能を発揮するのです。

憲法9条の論議で、

違憲の自衛隊が、何故存在しているのか、

野党でさえ、
政治的には、自衛隊は合憲だとおっしゃるようになったのは何故か
について、

憲法学者の皆さんが、正面から説明できないのは、

日本の法学が、
明治時代に、実定法のみを継受して、慣習法を無視したからでは

言い換えると
実定法のみが、法であり、慣習法は、法ではない と考えたから

と、感じられます。

このことは、
来栖三郎先生の著書「法とフィクション」において

「従来、法の一般理論を論じているときには、

 「法の欠缺」だとか、
 「慣習法の制定法改廃力」だとか
 「悪法は法にあらず」だとかいう
 威勢のいい議論も為されることがあるのに、

 現実の解釈問題となると、
 法の欠缺さえなかなか認めようとせず、

 況んや、
 慣習法の制定法改廃力だとか、
 悪法は法にあらずとか いうことになると

 制定法がある以上・・・などと、
 非常に臆病になるのが普通である。」

と、記述されておられます。

  出所 来栖三郎「法とフィクション」24㌻


来栖先生の記述されるようなことから、

「陸海空軍その他の戦力」であり
外国との戦争を本来の目的として
「交戦権を禁止する」憲法に
正面から衝突する存在である

自衛隊についての憲法議論が、
一歩も進まない原因になっているのだろう
と、思います。

私は、政治的な立場から離れて
憲法9条を素直に読んで

憲法9条の制定の目的 及び 憲法前文の記述から
憲法の規定の欠落している点を、

および
憲法に反する自衛隊が、
何故、半世紀以上に亘って存在してきたかを
虚心に議論すれば

自ずから、方向性が見えてくるのでは と考えています。

国会での議論は、政治が絡みますので、
せめて、憲法学者の間では、政治色を除いて
議論されることを願っています。




< 補足 >

法学、神学が、他の学問との差異を生じる理由



法学、神学以外の学問は、
それぞれの学問のフィールドにおいて、

学者が、
謎を見つけ出して、その解答を仮説として提示するものなのです。


謎を解く際には、
その学者の価値観から出発して、
論理を積み上げ、結論(仮説)に到達します。


ですから、

価値観が異なれば、
その積み上げる論理過程も異なり、結論も異なりますます。


しかし、

その学者の仮説のベースとなってい価値観に基づいて、
論理を積み上げれば、

他の人が検証したとしても、
同じ結論に達することになります。

私が、
「科学は、検証可能な学問でなければならない」というのは、
この意味においてです。


価値観が異なれば、その後の論理展開も異なり、
異なる仮説に到達するのは当然なことだ
と、認められています。


従って、

学問上の論争は、

 1.ある価値観に基づく論理展開に
   瑕疵がないかということ共に、

 2.その仮説が拠って来たるところの
   価値観の是非について

議論が展開されることになります。


価値観についての論争は、
「神々の争い」とも言われるものですので、

最終的には物別れとなりますが、

その論争を見ている人々が、どう判断するかによって、
その仮説の価値が判定されるのです。


この意味から、
法学、神学以外の学問は、

学者個々人 の 書斎や研究室 における
それぞれの世界における仮説の構築

と、言うことができるでしょう。


これに反して、
法学や神学は、社会的な存在であり、
その共同体、社会全体に影響を及ぼすものなのです。


即ち、

神は、
全ての人に対する神であり、

法律は、
いろいろな価値観を持つ人々に
共通して法的規範力を及ぼすものなのです。


自分は反対だからと言っても、
法律に反すれば、罰せられるのです。

他の学問では、
「私は、そう思わない」
と、主張することは可能ですが、

法廷で、
「私は、そう思わない」と言っても、
法廷の決定に従わねばならないのです。


言い替えると、

世の中には、
いろいろな価値が並存しているのに、

法規範を構築している 一つの価値観 を、
広く 人々に適用し、強制せねばならないのです。


それ故に、

法学は、
ローマ法以来3000年近くにわたって、

  いろいろな価値観を有する人々に、
  共通して適用するために、どうすれば良いのだろうか?

  いろいろな価値観を持つ人が
  納得できるような解決をもたらすと同時に、

  いろいろな局面において、
  同一基準で解決する方策を設定するには
  どうしたらよいのだろうか、

ということを、
試行錯誤しながら積み重ねてきているのです。


その結果が、

現在の民法典を初めとする法体系 と、
その学問的裏付けとしての法学なのです。


でも、

いろいろな価値観が存在して、
幅広く活動する人間社会の

全ての事象に適用するような法律を
作り上げることは、不可能ですので、

本文に述べたように、

法学教育において、
リーガルマインドを有する人材を養成して、
その人達に法律の適用を委ねているのです。


さらに、
裁判を、三審制にして、

リーガルマインドによる
その事件における判断の是非について、

また、
リーガルマインドの名のもとの
恣意的な判決で ないかどうか、

即ち、
法律の適用を委ねた裁判官が、
堕落していないかどうかについて、

二回も検証して、
判決の妥当性を高めようとしているのだろう

と、私は想像しています。

 

 

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2015年7月21日 (火)

憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?・・・最近の憲法論議は、憲法9条が規定していない事態への対処の議論なのでは?

憲法9条の議論について、
少しずつ認識を深めて、幾つかのブログを書かせて頂きました。

本ブログも、その一里塚ですが、
長文であるために、

異例ではありますが、申し上げたいことを
本文の前に箇条書きさせて頂きます。

(2016年5月10日 追記)


< 本ブログの主旨 >


1.憲法9条 が、規定しているもの

  平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、
  軍隊などの戦力の放棄、交戦権を禁止している。

  従い、
  自衛隊 は、
  違憲の存在である 軍隊 であり、

  交戦権が禁止されている以上、
  個別的自衛権の行使 も、違憲である。


2.憲法9条が、規定していないもの
  ・・・憲法9条 の 空白、瑕疵・・・


  ① 諸国民、とりわけ周辺諸国が、
    公正でなく、信義に悖る国家である場合

    対処の規定 が、欠落していて、
    憲法9条には、規定の空白が存在する。

  ② 憲法9条が規定する理念を実現するための
     方策、方法論
について 規定が 欠落している


3.今回の安保法案の議論の本質

  上記2.の 憲法9条の空白 を 埋めるもの である。

  このことは、
  護憲派野党 でさえ、

  憲法9条が明白に禁止、放棄している
  自衛隊と個別的自衛権 を、合憲 と 解釈していることからも、
  明かである。


4.今回の安保法案が生じた事情

  憲法9条は、

  諸国民が、平和を愛好し、公正且つ信義に足ると
  検証抜きに 勝手に決めつけて、

  高らかに軍隊と戦争を放棄する
  と、宣言したが、


  その後の推移 は、

  諸国民、

  とりわけ
  周辺諸国(中国、韓国、北朝鮮)が、

  憲法が、前提とした
  公正で信義に足る存在でない どころか、

  憲法9条の存在を奇貨として
  わが国領土への侵略の意思を露わにする との

  憲法9条が規定している外の事態 が、生じたために、

  憲法9条の空白を埋める法律の制定の必要が生じた
  と、考えるべきだろう。


  これは、
  改憲による 憲法の空白を埋める方策 を 阻止している
  国民感情、政治状況 に 対処して

  法律(自然法、慣習法)が、
  法律自体に備わっている 空白を埋める 自然治癒力 が 発動して
  (自然法、慣習法 の 自律的状況対処能力)

  半世紀以上にわたって
  慣習法の憲法 が 生成してきている

  と、言うべきものであろう。


5.筆者の願い

  ① 憲法に欠陥、空白があるなら、
     空白について憲法論議を深めて、

     空白を埋めるために どう改憲すべきかを 正面から議論して
     国会としての本来的な機能を果たして頂きたいと願っている。 

  ② 憲法9条の理想は、
     いつの日にか、歴史が必ず実現する 崇高な理念 である。

     日本人が、他国に先駆けて
     20世紀半ばに、永久平和の理念を憲法に明記したことは、

     フランスの人権宣言、
     アメリカの独立宣言 に、匹敵する
     歴史上の金字塔とも言えるもの であると、同時に、

     この理念を、
     実現するべく努力が、未来永劫課されている  と、
     日本人一人一人が、深く認識し、銘記すべきである。


     従って、
     改憲論議の際に、

     周辺国家の目先の侵略だけに目を奪われて
     憲法9条の理念を削除すべきではなく、

     憲法の理念 を 実現するためには、どうすべきか、
     との発想により

     憲法の改正を 検討すべきであろう。 






以下に、
本ブログの本文を記載します。




国会の論戦について聞こえてくること を
おおざっぱに整理すると、

与野党ともに、
「個別的自衛権と自衛隊は合憲」だとして、異論がなく、

「集団的自衛権」について、

与党(自民党・公明党)は、合憲、
野党は、違憲

と、主張が別れているように感じています。


しかし、
憲法9条を、素直に読むと、

自衛権(個別、集団の両方) も、
自衛隊 も、

違憲では?としか
読めないのではという気がしますし、


もし、
個別的自衛権 が 合憲だとすると、

何故、
個別的自衛権を発動して、
竹島や北朝鮮に誘拐された人々を
取り返しに行かないのでしょうか?

何故、
尖閣や小笠原の領海侵犯する中国船を、
実力で排除しないのでしょうか?

更には、
長年にわたって、外国より、

領土が侵犯され、
国民が誘拐されているのに、

何故、
自衛権の発動についての具体的な議論 が、
国会でなされないのでしょうか?


との疑問が湧いて来る と、同時に、

最後の論点は、
国会や内閣 の 怠慢であり、
義務違反、国民への背信行為 では?

との 根源的な怒りさえ 含んだ 疑問 が 生じてきます。



今回は、
この辺の謎を考えてみたいと思います。




憲法は、

憲法前文で

「平和を愛する 諸国民の公正と信義に信頼して、
 われらの安全と生存 を 保持しようと決意した」

と、表明した上で、


憲法第9条 (戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)で、

 1.日本国民は、
   正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、

   国権の発動たる戦争 と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


 2.前項の目的を達するため、

   陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。

と、定めています。




わが国の憲法を、素直に読むと、

「わが国の存立を考えたら、ここまで思い切って良いのかな?」
と、思われるほど、極端なことを書いています。


即ち、

近隣の皆さんを信頼してますから、
紛争が起こって、
近隣の皆さんが、わが国に攻めてきても、

わが国は、
反撃のための戦争は、勿論、

武力を見せつけて、
皆さんを屈服させることもしませんし、

そのための 軍隊及び軍隊類似の武力も、
日頃から保有しません、

と、宣言した上で、

わが国に、
交戦権、

即ち、
外国との戦闘行為 を 禁止する

と、書いてあるとしか、理解できません。


言い換えると、

皆さんが、
わが国を攻めてきても、

わが国は、
反撃や抵抗も しないし、

どうぞ、
好き勝手に占領して下さって結構です。

何故、
このようなことを 言うかというと、

近隣の皆さんは、
そんなことをする人ではないと、
皆さんの信義を信頼し、信じているからです。

と、規定している と 読めます。


だとすると、
憲法の規定が、この様なのに、

与野党とも、
「個別的自衛権」「自衛隊」は、合憲だとしている根拠は、
どこにあるのでしょうか?


「個別的自衛権」とは、

わが国が攻撃されたら、反撃する権利
ということですし、

「自衛隊」は、
外国の攻撃に対して反撃するための組織ですから,

両方とも、
憲法9条と正面から衝突すのではないでしょうか。


従って、
憲法を素直に読むと、

「個別的自衛権」も
「自衛隊」も、

憲法9条で、禁止されている としか
読めないのではないでしょうか。

どう読めば、
合憲だと言えるのでしょうか?


憲法学者の宮沢先生も、
先生の憲法のコンメンタール(憲法の逐条解説)で、

「自衛戦争の名目で 侵略戦争が、
 行われてきたことがあるので、

 日本国憲法は、自衛戦争をも禁止している」

と、記述されおられます。


宮沢先生の学説は、
通説ではなかったのではないでしょうか?

いつから、
宮沢先生の説が否定されるようになったのでしょうか?

また、
その理由は、何なのでしょうか?


実は、
小学校で憲法の話を聞いて以来、

「自衛隊」が、
 どうして、憲法上、認められるのかな?
 軍隊ではないとしても、その他の戦力では?

ということが、
常に、私の頭の片隅に存在する 疑問、謎の一つでした。



与党(自民党、公明党)は、

個別的自衛権のみならず、集団的自衛権も

即ち、
自衛権全部 を、合憲だと主張し、
法案を提出されておられます。

そして、
最高裁の砂川判決 を 根拠として あげておられます。



砂川判決は、

「かくのごとく、同条(憲法第9条)は、

 同条に、

 いわゆる戦争を放棄し、
 いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、

 しかし、もちろん
 これによりわが国が、主権国として持つ固有の自衛権は、
 何ら否定されたものではなく、

 わが憲法の平和主義は、
 決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。


 憲法前文にも明らかのように、

 われら日本国民は、
 平和と維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、

 地上から永遠に除去しようとつとめている
 国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、

 全世界の国民と共に、

 ひとしく恐怖と欠乏から免れ、
 平和のうちに生存する権利を有することを

 確認するのである。


 しからば、

 わが国が、
 自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために
 必要な自衛のための措置をとりうることは、

 国家固有の権能の行使として、
 当然のことといわなければならない。

 (以下略)」

と、判示されておられます。


この判決を読んで、

特に、
「主権国として持つ固有の自衛権は、
 何ら否定されたものではなく、

 わが憲法の平和主義は、
 決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」
との文章は、

最高裁が、
憲法を無視して、自分で判断しますよ

と、おっしゃっておられるのでは、
と、感じられ、吃驚してしまいました。


当時の最高裁長官で、砂川判決の裁判長をされた
田中先生の補足意見を読んで、

先生のお考え、

ひいては、
砂川判決の本当の狙いが、

理解できたような気がしています。


田中先生は、
「我々は、
 その解釈について争いが存する憲法九条二項をふくめて、
 同条全体を、

 一方、
 前文に宣明されたところの
 恒久平和と国際協調の理念からして、

 他方、
 国際社会の現状並びに将来の動向を洞察して、
 解釈しなければならない。

 字句に拘泥しないところの、

 すなわち、

 立法者が、当初持っていた心理的意思ではなく、
 その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、

 あらゆる法の解釈に共通な原理として、
 一般的に認められているところである。

 そして、このことは、
 特に、憲法の解釈に関して、強調されなければならない。」

と、補足意見を述べておられます。

この補足意見については、前回お話ししていますので、
詳細はそちらをご覧下さい。

  砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html



田中先生がご指摘のように、

憲法九条を、
憲法前文の趣旨も踏まえて、解釈すべきだということは、
その通りですが、

目的論的解釈方法は、
条文に書いてあることの解釈、
即ち
説明ですから、

白を 黒と 言うことは、できないはず です。


憲法九条は、

明確に、
わが国の交戦権を禁止してますので、

外国が日本に攻め込んできても、
わが国が、
反撃して戦争することはできないのです。

別の言い方をすると、
「自衛権」を 禁止しているのです。


砂川判決は、
法律家の常識に従って、

主権国家が、
自衛権を持つのは当たり前である との前提に立って、

「主権国として持つ固有の自衛権は、
 何ら否定されたものではなく、

 わが憲法の平和主義は、
 決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」

と、おっしゃっておられるのですが、


わが国憲法は、
「主権」を 奪われた状況下において、

連合軍、
具体的には、米国から、
押しつけられた憲法であり、

わが国に、
未来永劫「自衛権を認めない」との前提 に 立っていて、

砂川判決とは、
議論の根本たる前提 が、異なっているのです。、



憲法制定当時、米国は、日本を、

永久に
無防備国家、軍事的抵抗力を持たない国家に 貶めおこう
として、憲法9条を押しつけてきたのです。


法律家の常識では、

自分の身を守ること、

即ち、
自衛権は、

常識であり、
当然の権利として認められているのです。


ところが、米国は、

終戦後の日本に対して、この自衛権を認めず、、

しかも、
米国ではなく、

わが国自らが、
自衛権の放棄を宣言する形の憲法 を 押しつけて、

永久に、
わが国を無防備国家に貶めておこうとしたのです。


そして、
わが国を、無防備国家のままに貶める憲法9条は、

わが国が主権を回復しても、改正されずに、
現在まで、厳然と存続し続けているのです。


ですから、法律論としては、

主権を奪われていたときに制定した憲法が、
主権回復後の憲法として不適当であるならば、


砂川判決のように、

憲法を無視して、
主権国家は自衛権を持つのは当然、常識である
というような 法律家の奥の手である マジック

即ち、
詭弁 を 使うべきでなく、、

正面から正々堂々と、
改憲により対処すべきなのです。

要するに、本件は、、

「解釈論」で、対処するのではなく、
「立法論」で、対処すべき本質の事柄なのです。


最高裁が、

砂川判決で、あのように判示せざるを得なかった事情

即ち、
主権国家の裁判所が、

自国の存立に危機をもたらし、
外国の侵略 を 容認するような判決 は
出せないし、

さりとて、
憲法改正は、事実上不可能だった事情 は、
十分理解していますが、

それでも、
田中先生が、補足意見で述べられているような、

目的論的解釈と称して、
憲法9条の条文や単語の意味を、全く無視して、

憲法の前文だけにより、
自分に都合の良いような解釈をすることに、

重大な疑問を呈せざるを得ないのでは?

法律家として、
許されることではないのでは?

という疑問を、拭い去ることができません。



憲法9条が、

主権を奪われた占領下に制定されたものであり、

しかも、米国が、
わが国を永久に無防備国家のままに貶め置こうとして
押しつけたものであることは、

田中先生を初め、
砂川判決に参与された最高裁の判事の方々にとり、
勿論、釈迦に説法だったと、思います。


田中先生からは、

「まともに 法律の勉強もしてないくせに、
 子供じみた生意気言うな」
とのお叱りが、聞こえてくるような気がしています。


砂川判決の当時、

憲法9条の改正は、
国民の総意として不可能でした。

国民は、
法律家の常識、人類共通の常識よりも、

太平洋戦争中、
政府により、虫けらのように屠殺された経験を

二度としたくない、
戦争なんて考えたくもない

と、考えて、改憲に反対だったのです。


最高裁が、砂川判決で、
邪道とも言える解釈 を されたのは、

国民の安全、生存に対する責任を有する
三権(立法、行政、司法)の一翼を担う 司法権 としての

ぎりぎりの決断、
唯一の選択肢であり、

究極の非常手段だったのだろう
と、私には思われます。

(注) 虫けら、屠殺 との過激な言葉を
    敢えて使用したことについて
    次のブログを 参照頂ければ幸いです。

  集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



ですから、
田中先生が、補足意見で、

「立法者が、当初持っていた心理的意思ではなく」と、
立法の経緯を無視して判断する
と、宣言されたのでしょう。


私には、この文章は、
憲法9条を無視するとの宣言と共に、

法律家として邪道な解釈をすることに対する
弁解、釈明 を されておられるような気がしてなりません。

この文章から、

わが国がこの様に貶められる状況に至ったことに対する
田中先生の無念さ、悲しみ,痛み を しみじみと感じていますが、

先ほど述べたように、
法律家として、許されることなのかな?

もっと丁寧な理由の説明、

あけすけに言うと、
本音の理由 を 説明されれば 良いのに

と、ブツブツつぶやいています。



孫悟空が、
お釈迦様の手の外に出ることができなかったように、

この砂川判決は、
憲法が厳然と存在する以上、

前回お話しした通り、

竹島にしろ、
拉致問題、

更には、
尖閣、小笠原諸島において、

日本政府をして、
自衛権を行使させる迄には至りませんでした。

また、
砂川判決に従って自衛権を、

即ち
主権を行使しないことに対して、

誰からも、
「おかしいじゃないか」との指摘がありませんでした。


即ち、
砂川判決に従って、

(首相などの)誰かが、
自衛権を行使しようとしても

憲法9条が阻んでいるのです。


ですから、

野党やマスコミの皆さんは、
憲法により「日本が守られている」と、主張されますが、

日本国憲法により守られているのは、
不法行為 を 好き勝手に やり放題 行った
「韓国、北朝鮮、中国」だった、

即ち、
強盗や誘拐犯というべき国 が、

憲法9条によって守られていることが、
明確になってきたのです。


逆から申し上げると、

わが国は、
憲法9条 が あるが故に、

領土や領海が、侵略され、
国民が、誘拐されても

取り戻すことができないのです。




尖閣諸島にたいする中国の侵略や、
韓国大統領による 竹島上陸、天皇への冒涜発言、

更には、
中国の小笠原諸島における珊瑚強奪など

中国や韓国の傍若無人の振る舞いに対して、

日本国政府は、
憲法9条に縛られて、傍観するだけでしたが、

これらの事件により、
わが国の国民一人一人が、

「わが国の領土は、我々自らが守らねばならない」
と、考えるようになりました。


このことは、
憲法9条から離れた国民的合意 が、
地滑り的に形成された という、

大変な地殻変動が国民の間に生じたことを
意味しています。


憲法9条が、わが国ではなく、
周辺の強盗国家を守っている と申し上げても、

従来のような
違和感や反発 を、感じられなくなったのは、
この様な国民意識の変化によるものでしょう。


また、
この様な国民意識の変化が、

前々回の衆院総選挙で、自民党が、民主党を打倒し、
圧倒的多数の勝利を得たのは所以の一つでした。

更には、
護憲を標榜する野党やマスコミまでもが、

個別的自衛権や自衛隊は合憲だと
認めざるを得なくなったのです。


この国民意識の変化は、

砂川判決で最高裁の判事の方々が
直面された問題の本質を、

国民一人一人が、共有するようになった
と、言っても良いのだろうと思います。


でも、
政府自民党は、

この様な状況の変化があっても、
国民は、改憲に慎重であること を
心すべきでしょう。

太平洋戦争で、
国民が、政府により虐げられたトラウマは、

戦後70年を経ても、解消していないのです。





次に、
野党、マスコミの
「個別的自衛権」「自衛隊」合憲論について、
考えてみたいともいます。



野党の皆さんは、
護憲を旗印に政治活動を行っておられます。

今回も、
安倍首相は、憲法9条に違反して、戦争をしようとしている と、
マスコミを使って大キャンペーンを張り、

安倍内閣に逆風を吹かせることに成功しています。


一方で、

野党の皆さんが、
「個別的自衛権」「自衛隊」が合憲される理由について、
説明されておられる内容は、聞こえてきません。


今までお話ししたように、
元々 憲法9条は、

集団的自衛権どころか、
個別的自衛権も禁止していますし、

ましてや、
自衛隊みたいな戦力は持たない
と、宣言しているのです。


私には、
野党の皆さんが、

どのようなロジックで合憲とされるのか、
想像することができません。


野党の皆さんは、

自衛隊が創設されたとき、
違憲と主張されておられました。

それが、
どのような経緯で、
どのようなロジックで、

合憲に転換されたのでしょうか。


野党の皆さんは、
政府・自民党に対して、

解釈改憲してきている と、非難していますが、

ご自身の解釈を変更した理由については、
説明しないで良いとお考えなのでしょう。

政府自民党は、
主権国家になったからには改憲すべき、
を、旗印に、結党以来活動していますので、

その是非はともかく、
その行動について、
論理的には理解できます。

しかし、
野党の皆さんは、

護憲を旗印に、憲法9条を守れ、と主張して、
活動しているのです。

だとしたら、
野党の皆さんの主張は、

憲法9条に従ったもの、

即ち、
自衛権を否定し、
外国が侵略していたら、
何ら抵抗なく、彼らの好き勝手にさせる

と、いうことではないでしょうか。



ここで、
本筋からちょっと離れた冗談を 述べさせて頂きます。


  野党の皆さんが、

  何故、
  中国や朝鮮(韓国・北朝鮮)の主張と同じ対応を、
  何かにつけて主張されるのかが、やっと分かりました。

  護憲は、
  わが国国民を欺くための旗印であって、

  野党の皆さんは、

  中国や朝鮮の先兵となって、
  日本への工作活動に従事している人々だったのですね。

  そう考えると、
  野党の皆さんの護憲の旗印が、クリアに理解できます。


冗談はさておき、真面目な話、
野党の皆さんのおっしゃる護憲とは、何なのでしょうか。

素直に考えると、
憲法9条を守る ということのように 思えますが、

野党の皆さんは、
憲法9条とは 真逆の主張に 基づいて
活動されておられるのではないでしょうか。

不可解と、
言わざるを得ない気がします。


また、
自衛権には、
「個別」と「集団」の 2つが あります。

砂川判決でも、
国連憲章は、全ての国に「両方を認めている」
と、判示されておられます。


なのに、
個別的自衛権 と 集団的自衛権 を 区分して、

一方は「合憲」、
他方は「違憲」と、主張されるロジックが、

チンプンカンプンで、理解できません。


野党の皆さんは、
大衆を扇動するためには、
論理などどうでも良く、

「個別的自衛権」「自衛隊」は、合憲だ と、
主張しなければ、国民世論の支持を得られない、

反政府のキャンペーンを張っても、共感を得られない、
と、お考えになられたから、

合憲論に転じたのではないだろうか、
と、邪推したくなるのは、私だけでしょうか。


今国会の論戦が、
不毛である と、揶揄されていますが、

政府与党を攻める立場の
野党の皆さんやマスコミの論理構成の根本 が、

即ち、
集団的自衛権 が 違憲である との主張の根本 が、

この様に
支離滅裂であることが、議論がかみ合わず、

お互いの主張 を 言い放しにしている原因
ではないでしょうか。


また、
最初のお話ししたように、

個別的自衛権が、合憲なら、
個別的自衛権を行使して

何故、
竹島や、北朝鮮に誘拐された人々を
取り返そうとしないのでしょうか、

野党の皆さんが、賛成すれば、その気になれば、
明日にでも、竹島はわが国に帰ってくるのです。

(自衛隊による奪還、救出作戦は、
 短期間で終了するでしょう、との意味です。)


また、
尖閣や小笠原で中国が侵入して、
わが国の財産を強奪したときに、

何故、
武力で排除しようと、主張されなかったのでしょうか。

とりわけ、尖閣の時は、
現在の野党が、政権を担当していましたよね。

何故、あの当時
個別的自衛権を行使するどころか、

宗主国様に対するような
腰が引けた対応を されたのでしょうか?

中国船の行状のビデオを、
ひた隠しに隠そうとしたことは、

中国様の意図の実現するための
中国の指令に従った工作活動の一環だった
のでしょうか。

あの当時、
横浜での日中首脳会談における
首相の卑屈でおどおどした振る舞いには、

吃驚する以前に、
唖然として声も出ませんでしたが、

わが国の宰相が、
あれほどわが国を貶めたことは、
なかったのだろうと思います。

この様に、
野党の皆さんが行っておられることは、

言行不一致、
疑惑の塊

と、言わざるを得ないのではないでしょうか。


こう考えると、
個別的自衛権は、合憲というのは、

実は、
国民を欺くメッキであって、

メッキの下の本心は別ですよ、
と、行動で示しておられるのでしょうか?



野党の皆さんも、

国政に対する一端の責任を
有しておられますので、

あえて、
厳しい苦言を述べさせて頂きましたことを、
ご了解ください。
 
 
 
 
 
最後に、

今まで述べてきたように、
憲法9条は、
何故この様な粗末な扱いをされるのでしょうか。

護憲を自称される人々でさえ、
憲法9条が禁止している 個別自衛権 や 自衛隊 を
合憲だと認めておられるのです。



ここで、
砂川判決を、もう一度思い出して頂きたいと思います。


田中先生は補足意見で、

1.憲法前文に宣明されている
  恒久平和と国際協調の理念 と、

2.国際社会の現状並びに将来の動向 を
  洞察して 解釈すべきだ

と、主張されておられます。


では、
憲法9条関連について

憲法前文は、
どのような内容を規定しているのでしょうか。

箇条書きに、
列挙してみたいと思います。


1.日本国民は、

  政府の行為によって、
  戦争の惨禍が起こらないよう決意する


2.日本国民は、

  恒久の平和を念願し、
  人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、

  平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
  われらの安全と生存を保持しようと決意した


3.われらは、

  平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を
  地上から永遠に除去しようと努めてゐる

  国際社会において、
  名誉ある地位 を 占めたいと思ふ。


4.われらは、

  全世界の国民が、

  ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
  平和のうちに生存する権利を有すること

  を確認する。


5.われらは、
  いづれの国家も、

  自国のことのみに専念して
  他国を無視してはならないのであつて、

  政治道徳の法則は、普遍的なものであり、

  この法則に従ふことは、
  自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする

  各国の責務である と、信ずる。


6.日本国民は、

  国家の名誉にかけ、全力をあげて
  この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


以上お読み頂いてご理解頂けるように、

憲法は、
その前文において 憲法9条 の条件を
記述しているのですが、、

直接的には、次の3項目でしょう、

① 平和を愛する諸国民 の 公正と信義 に 信頼して、
   われらの安全と生存 を 保持しようと決意した。


② 全世界の国民が、
   平和のうちに生存する権利 を 有する。


③ 普遍的な政治法則に従ふことは、各国の責務である。


即ち、
憲法9条で、

わが国は、
無防備国家を宣言していますが、

世界中の国々が、

とりわけ、
わが国の周辺の国 が、

 1.公正と信義に信頼できること

 2.全世界の国民の 平和に生存する権利 を 認めていること

 3.普遍的な政治法則に従うこと

を、前提条件 としているのです。



憲法前文の最後で、

憲法前文が掲げる崇高な理想と目的を達成することを
わが国の名誉にかけて誓う

と、宣言していますが、


具体的に、どのように達成するのか、

更には、

世界中の諸国、

とりわけ
周辺の諸国が、

憲法前文に記述するような国家でなかったときに、
どうするのか、

については、記述していません。


その辺のことは、
実際に憲法を運営する 日本政府 や 立法府

即ち、
憲法の下部に位置する 法律 に、
委任している

と、いうことなのでしょう。


ここに、憲法9条が、
無視され、継子扱いにされる原因があったのです。


世界中の諸国、

とりわけ、
わが国周辺の諸国が、

憲法前文に記述されているような国であったなら、

憲法9条も、
条文通りの扱いをされたのでしょう。


でも、
実際の世界は、

憲法前文が記述するような世界では
ありませんでした。

憲法9条の理想と現実には、
大幅な乖離があって、

即ち、
憲法9条の前提条件を満たすような諸国で
なかったため、

憲法9条を、
実現することができなかったのです。


田中先生が、

憲法の理念と共に
国際社会の現状並びに将来の動向 を洞察して
憲法9条を、解釈すべきだ

と、おっしゃる所以なのです。


北朝鮮は、
昔から強盗国家、誘拐国家、

即ち、
ならず者国家 でしたが、

それに加えて、最近になって、

中国の膨張 が 甚だしくなると共に、
韓国の反日活動 が 活発化し、

わが国も、
これらの動きに対処せざるを得ない事態が
生じてきました。


戦後一貫して憲法9条を支持してきた国民でさえ、

さすがに、中国や韓国が、
武力行使に出て来たときの備えをしておかねば
ならないのでは、という認識を、

共有するようになったのです。



政府自民党は、
さすがに政権政党として、主権が回復した以降

野党やマスコミの皆さんの妨害を受けながらも、
わが国の安全保障についての責任を果たしてきました。


しかし、
国民が、憲法9条の改正を望まなかったので、

憲法改正をできずに、
憲法の下部の法律の整備で、
責務を果たしてきたのです。


この状況を 客観的に見ると、

日本では珍しく、例外的に
慣習法、しかも、慣習法の憲法 が、生成してきた
と、いえると思います。

成文法に、瑕疵や空白があれば、
慣習法が、生成してきて補い、修復する

との法律の歴史的真実は、
日本においても当て嵌まっているのです。

憲法9条は、

現実と大幅に乖離していて、
憲法として 規定の空白 があります。

一義的には,
改憲で対処すべきなのですが、

国民が改憲を拒否して、
空白が埋められなかったため、

法律のもつ自然治癒力が機能して、
慣習法の憲法が生成してきたのです。



最高裁の砂川判決も、
この流れの中で理解すべきだろうと思います。


最高裁が、
憲法9条の解釈論としては、落第点と言うべき判決を、
あえてされたのは、

憲法の空白

即ち、
憲法前文の
「平和を愛する諸国民 の 公正と信義 に 信頼して」とは
真逆の国際環境下に
日本がおかれている反面、

国民感情が、
憲法改正を許さないことに対処して、

わが国の平和と安全を維持するために、
「判例法による慣習法の憲法の生成」というべき
「立法行為」を されたのです。


先ほど、
憲法9条の問題は、
解釈論ではなく 立法論で対処すべき
と、書きましたが、

最高裁は、
そのことは、百もご承知で、

黙って、
解釈のふりをして、
立法行為 を 断行されたのだろう と 思います。



自衛隊も、
この流れの中で 理解すべきだ と、思います。

後藤田氏が、
日経新聞の「私の履歴書」で、

「自衛隊創設当時、聞かれたら、
 自衛隊は、警察ではなく軍隊だ と、言っていた」

と、書かれておられました。


日本国政府は、文理解釈上、
自衛隊が、憲法9条違反なことは、
百も承知だったのだろうと思います。


自衛隊は、
憲法違反と見える組織だが、

憲法が規定していない事態、

即ち、
憲法の規定の空白に対処するために

創設するのだから、


憲法9条の規定の対象外、
憲法9条とは別の規範に従う組織である、

と、考えておられたのだろう
と、理解しています。

この「別の規範」が、
「慣習法の憲法」なのです。



従って、
個別自衛権や自衛隊が、
与野党共に、合憲とされておられるのは、

現行憲法が規定していない部分

即ち、
「憲法の規定の空白」を補完して生成してきた
「慣習法の憲法」に基づいている

と、解釈すべきだと思います。



この慣習法の憲法は、
まだ、生成過程にあると言うべきで、

その内容を、
現時点で確定的なことを申し上げるのは、
適当でないと思いますが、


先程来ご紹介してきた「砂川判決」を核として
生成してきていることは、確実ですので、


そのおおよその内容は、

田中先生の補足意見にあるように、
憲法前文に基づいて、憲法9条を否定するものになるのでは

と、想像しています。


即ち、

主権国家固有の自衛権(個別も、集団も、含みます)
を、認め

そのための軍隊を、保持すること
を 認め

国際紛争の解決手段としての自衛戦争、

即ち
交戦権 も、認めることに

なるのでは ないでしょうか。



以上の様に、理解すると、

砂川判決 及び 田中先生の補足意見について、
先程来、失礼も顧みずに、疑問を呈してきましたが、


田中先生が リードされた「砂川判決」は、

実は、
違憲立法審査権にもとづく「判例法の形成」、

即ち、
憲法が認めた
司法権による「慣習法の憲法」の立法行為 に他ならない、

通常の判決とは異なった、例外的な判決であり、

砂川判決を、
通常の解釈論に基づいて 判例評釈すると、

私が陥ったように、
その価値を、正確に評価できないどころか、

誤った評価に陥って、
価値を貶める結果になってしまう

と、理解をすべきだろうと思います。



その意味で、田中先生は、

日本で、最初に判例法の憲法 を 残された
と、称賛される業績を残され、

日本国民の平和と安全を維持するための、
貴重な財産 を 残された

歴史上の偉大な法律家のお一人であろう
と、尊敬しております。



慣習法の憲法の生成については、
先にご紹介した 次のブログ を 参照頂ければ幸いです。


  集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html





以上、

憲法9条について、

とりわけ、
自衛権や自衛隊に関する論点について、
ご説明してました。

終わりにあたって、
2点 感想を述べさせて頂きます。


1.憲法9条は、今まで述べたように、
  「現実」から乖離した「理想」を宣言している規定
  というべきであり、

  それ故に、
  憲法9条を補う形で「慣習法の憲法」が生成されてきたことを、

  政府、国会を初め、
  国民全員が、認識すべきでだと思います。


  ヨーロッパ人にとって、法律は、
  ローマ法以来 3000年近く育んできたものであり、

  それ故に、
  成文法は、近年 (といっても、200年前ですが、)
  慣習法の上に 植林した森 であり、

  成文法に、
  瑕疵 や 空白 が あれば、

  生物が、
  自然に 傷を治癒するのと 同様に、

  慣習法 が 生成してきて、
  成文法 を 補い、修復すること を、
  身にしみて理解されておられる と、思います。


  日本人は、
  明治時代 に、ヨーロッパの法律 を 契受(輸入)してから、
  100年以上経過をしたといえども、

  歴史的観点から見た場合、非常に短期間の経験 であり、

  慣習法 が、
  成文法の瑕疵や空白 を 補い、修復するものだ
  と、いうことが、殆ど自覚されてないということ を、
  認識すべきだろう と 思います。



  国民の大半が反対する 改憲 が、

  判例法により、
  国民の知らないところで立法されるのは
  許されるものではない、

  と、反論される方がおられると思います。


  法律は、
  成文法だけだ と、思い込んでおられる方にとって、

  慣習法などという 訳の分からないものの存在は、
  お認めにならないだろう ということは、

  わが国の法学教育の実態から、理解できます。


  しかし、
  歴史を振り返ると、

  「法律」というものは、
  自律的な生き物である「慣習法」だったのです。


  成文法は、先ほど申し上げた様に、
  19世紀初頭フランスで作られたものなのですが、

  その地下水脈 には、

  成文法 を 補完する慣習法 が、
  脈々と 生き続けているのです。


  生身の人間が、傷つけば、
  「この傷は、そのまま回復させないのだ」と頭で思っても、
  肉体が、自然に治癒してしまいますよね。


  憲法9条の改憲反対論は、
  「この傷を そのまま回復させない」と言っていることと
  同じなのです。


  憲法9条は、

  「諸国民の公正と信義に信頼できる」ことを前提にして、
  規定されているのですが、

  その前提条件と異なる現実が生じたら、
  冷静に対処して、改憲をすべきなのです。


  ところが、

  我が国民は、
  戦前、政府に屠殺されまくったトラウマから
  回復していないし、

  野党が、
  戦前の政府の屠殺行為を、国民に思い出さすような宣伝をして、
  誘導するものですから、

  改憲できずに、今日に至っているのです。


  先ほど例示したように、

  我が国民は、
  「傷があるのに、回復させないで放置しておく」
  と、判断したのです。

  (ひょっとして、国民は、
   傷があること自体 気がついていないのかも知れません。)


  ところが、法律というものは、
  社会の生命維持機能 を 担っていますので、

  ご主人様である国民が、
  いくら「No」と言ったとしても、

  必要な治癒行為は、自然に行われるものなのです。


  言い換えると、

  我が国民が、
  行うべきこと を、行わなかったら、

  日本という生命体の生命維持装置が、
  自律的に補完しているのです。

  これが、
  「慣習法の憲法」の生成と、私が言う現象なのです。



  国民が、

  やるべきことを、冷静に判断せず、
  戦前のトラウマを忘れ去れず、感情的に反対しているから、

  日本という生命体の維持装置である法(慣習法)が、
  治癒行為を行ったのです。



  今のご説明で、
  納得できない方は、次の 極端な例を お考えください。


  もし、
  尖閣に、中国が攻め込んできたら、
  どのように対処されますか?


  民主党政権下での尖閣の事件の際の
  我が国民の反応 から類推すると、

  中国の工作員と思われる方を除く 普通の国民の方 は、
  中国の武力に対抗して、防衛すべきだ
  と、判断されるでしょう。


  現在は、平時ですから、

  野党の口車に乗せられて、
  安倍政権への支持率を落としていますが、

  実際に、
  その様な事態が起これば、別だと思うのは、
  私だけでではないだろうと思います。


  現実に、
  戦時が勃発してからでは、間に合わないこと、

  平時から、
  日頃 備えておかねばならないこと が、

  あることを、ご理解ください。


 
  今回の憲法9条論議は、

  このことを理解する格好の教材であり、

  戦後70年 生成してきた「慣習法の憲法」を、
  どのように扱うのかの 議論を、

  正面に据えた国会論戦を して頂ければな
  と、願っています。



  少なくとも、
  政府与党におかれては、

  憲法9条を改正せずに70年が経過したために、
  「慣習法の憲法」が生成してきた事実 を、

  正面から説明すべきでしょう。

  そうすることが、

  即ち、
  自然発生的な「慣習法の憲法」の存在を、
  国民的認識とすることが、

  憲法9条の改憲論議の促進に
  寄与することになるのではないでしょうか。



  安保法制についての国会での議論 は、
  憲法9条についての議論 とは別の

  憲法9条の空白を補って生成してきた
  「慣習法の憲法」に関する議論なのです。


  現在国会で行われている議論は、
  このことを、自覚せずに行われている
  と、言うべきであり、

  この自覚がないから、

  「個別的自衛権」や「自衛隊」は、合憲だが、
  「集団的自衛権」は、違憲等という

  法律論としては、珍妙な議論が、
  恥ずかしげもなく繰り広げられているのです。


  今回の安保法案は、

  憲法9条に基づくものではなく、
  (憲法9条によれば、違憲であることは明白です。)

  憲法9条が規定していない事態

  即ち
  憲法の規定の空白に対処するために生成してきた
  「慣習法の憲法」に基づいているものだ

  と、いうことの 国民的理解 を 深めるような審議 を
  願っています。



  野党やマスコミの皆さんにおかれましても、

  「個別的自衛権」「自衛隊」が、
  合憲だと主張されておられるのは、

  実は、
  憲法9条とは別のものである
  「慣習法の憲法」下における憲法論議なのだ
  と、いうことを、

  冷静に、深くお考えになって、自覚して頂き、

  更には、
  法的議論に耐えうる論理 を、構築して頂きたいな

  と、願っています。



2.前々回のブログや、
  前回のブログの最後にもお話ししたように、

  平和を希求し、
  その最終形態として自衛権も放棄したい
  との憲法の哲学は、貴重であり、

  今後の人類が実現すべき理想を示している
  と、考えられます。

 
  従って、
  現行憲法の理想は、
  そのまま大事に掲げ、維持すべきであり、

  ① その理想を、どのように実現するのか、

  ② 理想を実現するまで存在している
     「理想と現実のギャップ」を、どのように埋めていくのか、

  について、
  議論を深めて行くべきだと思います。


  憲法改正論議においても、
  憲法9条の理想を、抹消するのではなく、

  憲法9条の理想はあくまでも掲げながら、
  現実に、どう対処していくのか

  理想を、どのようにして実現していくのか
  との観点から、

  条文を追加する方策を考えるべきだ と、思います。



  人間は、
  数百年単位の長いスパンでの将来に対する認識は、
  持ちにくいものですが、

  歴史を振り返って、将来を見通すと、
  自ずから見えてくるものもあります。


  憲法が掲げる理想も、その様な種類のものであり、
  必ずや、いつの日か、確実に実現する理想を、
  憲法は、掲げていますので、

  憲法前文の最後に掲げてあるように、

  日本国民は、
  その実現に全力をつくさなければならないだろう、

  否、
  その実現は、日本国民の義務である と、思います。



   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。


    < 次回 の ブログ >

    憲法9条論議 の 混迷 は、
    法学の本質ーーリーガルマインドーーに、由来するのでは???

    ・・・ 法学は、キリスト教神学同様 科学でないこと と、
      法律家は、リーガルマインドを 実定法より優先すると考えていること
      について・・・

    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e8ca.html



    < 今回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 前回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 前々回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 前々前回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html

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2015年7月 6日 (月)

砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成

最近の憲法論議の中で、砂川判決が話題になっていますので、
1959年12月16日の砂川事件の最高裁判決
(以下「本判決」といいます)を読んでみました。



本判決を一言で言うと、次のように要約できる と、思います。

1.わが国は、固有の自衛権を保有し、
  憲法は、無防備、無抵抗を定めたものではない。

2.(わが国を含む)全ての国が、国際連合憲章で、
  個別的自衛権と集団的自衛権の固有の権利を有すること
  を、承認されている

3.日米安全保障条約に基づいて日本に駐留する米軍は、
  わが国の戦力ではない。

4.条約は、高度の政治性を有するものであり、
  「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、
  裁判所の司法審査権の範囲外」である。



本判決は、
その後、各方面から無視され、現在に至っています。


本判決に反対の立場をとる野党、マスコミ、護憲勢力が、
無視するのは当然ですが、

本判決に利益を得たはずの政府、自民党からも無視されて、
折角認められた自衛権も発動されずにいるのです。


何故、
政府、自民党が無視し、従わなかったのでしょうか。

それは、
本判決は、致命的な欠陥
即ち、
本判決に従って行動したら、即座に憲法の規定と正面衝突する判決
だったからです。


例えば、

本判決が言い渡された時点で、
竹島は韓国に不法占拠されていました。

竹島は、日本の領土であって、

韓国の不法占拠は、
自宅に土足に盗賊が押し入ってきたのと同じ性格のものであり、

韓国は、
竹島に押し入ったときに、日本人を殺害までしているのですから、

日本政府が、
国内問題として、自衛権を持ち出すまでもなく、
警察権を行使して、排除するのが当然ですし、

ましてや、
最高裁が、自衛権の発動は合憲であるとの
お墨付きを出しているのですから、

日本政府が、
堂々と自衛隊を派遣して、韓国を竹島から排除するはずでした。


でも、

日本政府は、
その様な行動を、今現在に至るまでしていませんし、

世論も、
日本政府の不作為を非難していません。



政府が、自衛権を発動しなかったのは、

自衛隊が、竹島に近づいたら、
忽ち憲法9条が規定に反する事態が生じてしまうからです。


憲法9条の骨子は、

第1項で、

国権の発動たる戦争は、
国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する

と、宣言した上で、


第2項で、

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力の不保持 と、
わが国の交戦権を 禁止しているのです。



憲法9条により、
交戦権が禁止されているが故に、

日本政府は、
本判決が、自衛権を承認しているにもかかわらず、
日本国内である竹島の治安維持という自衛権の発動を見送って、
今日に至っているのです。


このことは、
尖閣や小笠原諸島を巡る中国との紛争でも、
同様の事態が生じています。

日本政府は、

憲法9条違反に直結することを 危惧して、
わが国の領海に侵入した中国船を、武力で排除せずに、
警告するだけで、指をくわえて傍観しているのです。


本判決が、
憲法9条と正面から衝突することを、

当時の最高裁長官で、本判決の裁判長を務められた田中先生は、
承知されておられたような気がしています。


田中先生は、
補足意見で 次のように述べておられます。

「我々は、
 その解釈について争いが存する憲法九条二項を含めて、

 同条全体を、

 一方、
 前文に宣明されたところの、恒久平和と国際協調の理念からして、

 他方、
 国際社会の現状並びに将来の動向を洞察して、

 解釈しなければならない。


 字句に拘泥しないところの、
 即ち、
 立法者が当時持っていた心理的意思でなく、

 その合理的意思に基づくところの目的論的解釈方法は、
 あらゆる法の解釈に共通な原理として
 一般的に認められているところである。


 そして、このことは、
 特に 憲法の解釈に関して 強調されなければならない。」



田中先生が述べておられることは、
法学概論で教えられ、
民法の講義の最初に、契約書の読み方として叩き込まれるもので、

法曹にとって常識とも言うべき事柄です。


でも、
田中先生は、
この時に教えられる もう二つのこと を、おっしゃっておられません。


一つは、
書いてある記述、字句に従って、素直に解釈することが原則であり、
その原則を達成するために、合目的解釈が要請されるし、
合目的解釈といっても、自ずから限界がある
と、いうこと。

二つ目は、
合目的解釈と恣意的解釈は、似て非なるものであり、
恣意的解釈はしてはならない、

言い換えると、
目的に沿った解釈をすべきで、

自分勝手な、
自分の都合を実現するための解釈、
牽強付会な解釈 は、

行ってはならないということです。


田中先生は、
「立法者が、当時持っていた心理的意思でなく」
と、おっしゃっておられますので、

先生の解釈が、

立法者と異なっていること、
または、
書かれてある文章と異なった解釈をされておられること

を、自覚されておられて、

目的論的解釈からして、
ご自分の解釈が正しい、と考えられておられるのです。


即ち、

立法者は、
わが国に自衛権を認めていないけれども、

(主権が回復した本判決の時点においては、)
わが国が、
主権国家として、自衛権を保有するのは、常識であり、

自衛権を保持しなければ、
わが国は存続していくことが出来ないので、

立法者の意思を無視して、解釈すべきである、
と、考えられたのだろう と、想像しています。



ですから、
本判決に従って行動すると、
すぐさま憲法とバッティングして、違憲の行動となってしまうのです。


この様に説明させて頂くと、
最高レベルの法学者の集まりである最高裁の判事の方が、
全員一致で本判決を下したのは何故であろう、
と、感じられるのではないでしょうか。


私は、
二つの可能性、

即ち、
本判決が、
憲法に反することを承知の上で、敢えて判決を下したか、
それに、気がつかなかったか、

の どちらかではないだろうかと、考えています。

大秀才の集まりである最高裁の判事の方々が、
全員一致で下した判決ですから、
前者の方だろうとは思っていますが、・・・・



いずれにせよ、

本判決は、
わが国の法解釈学の問題点を提起していると、私には感じられます。


問題とは、

1.法解釈する際に、3次元(縦、横、高さ)の範囲で解釈して、

  4次元、
  即ち、
  縦、横、高さ に 加えて、時間を要素にした解釈をしてない。

2.法源 を、
  国会で成立した成文法のみを対象として、

  慣習法や判例法が、日本でもあり得るということを、
  念頭に置いていない。



< 1.について >

法律は、
ある必要に基づいて、制定されます。

制定されて、時間が経つにつれて、
その法律が規制対象に対して、過不足があるかどうか、
自ずから判定されるようになり、

不足、不備がある場合は、
必要に応じて、法律が改正されるのです。

これは、
最高法規である憲法においても、免れないことなのです。


憲法9条は、
敗戦後、米国が、

日本を、
無防備国家、
抵抗能力が皆無の国家に、

永久に貶めておこうと考えて、
日本に押しつけたものです。

ですから、
田中先生が暗におっしゃっておられるように、
憲法9条は、自衛権を否定していました。


主権国家における自衛権の否定は、

法学の常識を持ち出すまでもなく、
一般常識からしても非常識な概念ですから、

憲法制定議会(国会)で、何とか修正しようと努力はされましたが、
主権のない悲しさで、
米国に拒否され、押しつけられて制定されたのでした。


主権国家が存立し続けるためには、
自衛権の保有は不可欠であり、

自衛権を否定する憲法9条は、

当然改正されるべきもの、
少なくとも、
わが国が、これからも、自衛権を保持しないでいくのか、どうか
について、検討すべき条文でした。

自民党が、
綱領に改憲を掲げたのは、政権政党として当然のことだったのです。



ところが、
以前におはなしした経緯で、

改正されるべき憲法9条が、そのまま現在まで存続してきました。


 注) 存続した経緯と理由については、次のブログを参照ください。

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



本判決は、
この様な経緯を勘案して、理解すべき判決だと思います。

「主権がないときに制定された憲法は、
 主権回復後は、然るべき解釈を変更すべきである」
と、本判決の裁判官の皆さんは、お考えになったのでしょう。


この推定が正しいとするならば、

本判決は、一般的には
法解釈の範囲や方法を逸脱したものであるといわざるを得ず、

主権国家として自衛権を保有すべきとお考えになるなら、
憲法を改正すべきと主張するべきだと考えます。


多分、
法解釈する立場の最高裁が、
立法論を唱えるのは、立場を逸脱しているとお考えになって、

説明を飛ばして、
アプリオリに主権国家が自衛権を持つのは常識である
と、判示されたのでないでしょうか。

私は、せめて、
主権を奪われていた時に制定された憲法9条の解釈は、
主権回復後は、こう解釈すべきである と、

憲法9条に関する新たなコンメンタール(逐条解釈)を
最高裁として提示すべきだったのでは?という気がしています。


(このように申し上げると、
 判決は事件の解決するための最小限の法解釈をするものだ
 との、お叱りが聞こえてきます。

 私が、この様なお叱りを承知の上で、
 憲法9条は、主権を奪われていたときに、
 自衛権を、米国から強要されて剥奪された経緯があるので、

 主権が回復したら、どのように解釈するかについて、
 改憲までの間の暫定的な解釈を提示するのが、
 違憲立法審査権を保有する最高裁の義務だったのではないでしょうか?

 と、問題提起をしているのです。)



< 2.について >

日本は、明治時代に、
ヨーロッパの法制を成文法の体系として契受しました。

従って、
法学教育においても、
成文法の解釈学が、法解釈の全てであるかのような教育をなされ、

英米法のような判例法や慣習法の法体系もあり得るということは、
言及されるだけで、法学の修練では無視されてきたのです。


ですから、
最高裁が違憲立法審査権を付与されても、

違憲立法審査権というものは、判例法を構築していくものだ
という認識も、覚悟もお持ちでなかったのでは? と、感じられます。


本判決が、
違憲立法審査権について

「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、
 裁判所の司法審査権の範囲外」である

と、表明されておられるのは、
この様な歴史の結果なのだろうと思います。


本判決の判断は、

腰が引けてて、
あけすけに申し上げると、義務を放棄した卑怯な表明である

と、感じられます。


それでいながら、

それまでわが国は、憲法9条により、自衛権を認めらてなかったのが、

本判決により自衛権を保持するように変更される、との
判例法による大変大胆な立法行為をおやりになっておられますので、


果たして、

やっておられることの自覚や覚悟を持っておられるのかな?
と、訝しく感じるのは、私だけなのでしょうか。


また、

本判決以前も、以後も、
違憲立法審査権に関する議論が深まっていませんが、

法曹は、何をされておられるのかな?
と、疑問に感じるのも、私だけなのでしょうか。





本判決で、

「日米安全保障条約に基づいて日本に駐留する米軍は、
 わが国の戦力ではない。」と、判示されておられますが、

本ブログのテーマから少し外れますので、
コメントは略させて頂きます。




以上、
本判決についての感想を述べさせて頂きましたが、

憲法9条の歴史を振り返るときに、
本判決は、やはりエポックメイキングの判決だったな、
日本では本当に稀な 裁判所による判例法(慣習法)の立法だったな
という気がします。




憲法9条は、
先程来申し上げているように、

米国が、
わが国が自衛権を剥奪して、永久に、無防備な国に貶めておこう
との意図に基づいてり制定された条文です。


ですから、
時間が進むに従って、

特に、
わが国が、主権を回復してみると、

憲法9条は、
非常に偏った規定で、
主権国家の憲法として不備である点が、はっきりしてきました。


以前にご紹介したように、

わが国は、
平和を愛好する諸国民の公正と信義を信頼して、
自衛権を放棄したのですが、

現実の周囲の国は

憲法が期待したような国民ではなく、
隙あらば、他国の領土をくすねとってやろうと

虎視眈々と狙っている国家であることが
明白になってきました。


憲法9条は、
この様な強盗国家が存在したら、どうするのか、について、
何も規定をしていないのです。

また、
世界中が、平和を愛好する諸国民の集まりであるように
実現するための方策も、指し示していないのです。


ですから、
主権回復後のわが国は、

現実に対処するために、
日米安保条約を締結し、
自衛隊の創設を初めとして、いろいろな法整備をすると共に、

野党やマスコミ、護憲派が解釈改憲と非難する憲法解釈の変更も
少しずつ行ってきているのです。


現在、政治の世界では、
個別的自衛権は認めるが、集団的自衛権は認めない
と、野党、マスコミ、護憲派は主張していますので、

本判決は、
政治の世界の先を行った判決である と、言うべきでしょう。

エポックメイキングな判決と申し上げた所以です。


それと同時に、

憲法9条が、いろいろな事情により改正できないため、
憲法9条が改正されたら、
それに基づいて制定されるであろう法律が整備されてきています。

本判決は、
これらの法整備の根拠となって後押しする 日本では希有な判例法であり、
その意味でも、エポックメイキングなのです。

本判決は、、
憲法9条を否定して、真正面から衝突する判例だからこそ、
憲法9条の不備を補う 慣習法の憲法 の骨格になったのであり、

本判決(判例法)の下に、
改憲後の憲法において整備されるであろう法律の生成が始まった
と、言っても過言ではないような気がしています。



今回、本判決を読んでみた結論として、

ちょっと乱暴と言わざるを得ない田中先生の
「合理的意思に基づく目的論的解釈」の必要性と正統性を、
改めて認識し、敬服しています。


ちょっと乱暴だというのは、本文でお話ししたように、

説明なしで、
「主権国家は自衛権を持つ」との結論だけを述べておられるからです。

(「説明している、判決をよく読め」と、先生からのお叱りが
 聞こえるようですが、私には、不充分な説明に感じるのです。)




最後に、
前回のブログで書いたように、

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html


憲法9条は、欠陥を持った条文ですが、

平和を希求し、
その最終形態として、自衛権も放棄したいとの哲学は、貴重であり、

今後、人類が、
その理想を実現するように、努力すべき到達点を示していると思います。


その意味から、

憲法改正にあたっては、
現在の憲法9条の規定を抹消するのではなく、

完全平和主義を理想として掲げて、

その理想を、
わが国はこの様にして実現しようと思う、

また、
実現できるまでは、この様に対処していく

との規定に改正すべきだ と、考え、
是非とも、その様になることを願っています。


   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。

    < 次回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 今回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 前回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 前々回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html


続きを読む "砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成"

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2015年6月 1日 (月)

憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点

「集団的自衛権論議 で 欠けてる視点・・・慣習法の憲法 の 生成・・・」
 http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html
を、読み直していて、

私にとって当然の前提である故に、
説明が不十分だった点に、気がつきましたので、
補足をかねて お話しさせて頂きます。



「集団的自衛権論議 で 欠けてる視点」 は、

憲法9条は、理想を高く掲げているけど、

① その理想が実現するための方策  と、

② 理想実現するまでの間の 理想と現実のギャップ を
  どのように埋めて
  どのように日本を防衛していくのか、

について規定していなかったので、
その空白を埋める「慣習法の憲法」が生成されてきている。

従って、
この2点(①と②)についての議論を深めて、
生成してきた「慣習法の憲法」を成文化すべきである、

というのが、論旨でした。


当然の前提として、説明不十分だなと、反省したことは、

憲法の掲げる理想を、維持すべきか、どうか、

即ち、
憲法の理想が、あまりにも現実と乖離しているので、

憲法の理想は、将来のこととして 一時棚上げし、
現実に対処することを第一優先にして、
憲法の規定としては、削除すべき か、どうか、

との議論に対する説明が欠如しているな、という点です。


憲法は、
あまりに理想に偏していて、現実と乖離しているために

現実の国際情勢の中では、我が国の足枷となって、
マイナスの効果を及ぼしていることが、最近明らかになってきた

と、お考えなる方が、多いのではないでしょうか。


例えば、
竹島は、韓国に不法占領されていますが、

英国は、
フォークランド島を不法占領したアルゼンチンに対して、
すぐに 軍隊を派遣して、断固として取り戻ています。

日本が、英国のように
竹島を断固として取り戻すことが出来ないのは、

憲法9条があるからだ、
という議論は、説得力があります。


また、
北朝鮮に拉致された日本人を、

長い間取り戻すことが出来ないどころか、
取り戻す目処さえ立っていませんが、

私の記憶違いでなければ、同じ敗戦国だった西ドイツは、
ハイジャックされたドイツ人を取り戻すために、
アフリカにまで特殊部隊を送り込んで、銃撃戦まで行いました。

これに較べて

我が国は、憲法があるから、
北朝鮮に特殊部隊を送り込んで、実力で取り返すことが出来ないし、

そもそも、
憲法があるから、北朝鮮が、我が国をなめきって、
土足で我が国に入り込んで拉致したではないか、

従って、
我が国が、必要なときに、他国と同じような行動が出来るように
憲法を改正すべきだ、

との主張も、一理あると思います。


また、
日本の船が、竹島に向かうと、韓国軍は発砲してきますが、

尖閣諸島の領海に中国軍が侵入してても、
発砲や武力行使できないのは、国益を損なうことだ、

ましてや、
小笠原諸島で、珊瑚を乱獲されても、
挙手傍観せざるを得ないような憲法は、もってのほかだ、
と、考えられる方もおられるでしょう。


もともと、憲法9条は、
アメリカが、我が国を、未来永劫、二度とアメリカに刃向かうことの出来ない
弱小国家のままでおらせる目的で押しつけたものであり、

このことは、
現在に至るまで、根底に連綿として継続していて、

現在でも、
国連の敵国条項は健在だし、

同盟国と言いながら
今回(2015年)安倍首相が、戦後初めて演説するまで、70年間も
アメリカ上下両院合同会議で、日本の首相に演説させなかったのが、

その証左である、との、主張も、
否定できないものがあると思います。



以上のような主張 を、理解した上で、

私は、
それでも、憲法の理想は維持すべきだし、

その実現に向かって、
我が国が、本気になって取り組むべきだと考えています。


憲法制定以来 現在まで、
憲法の理想を本気で実現しようとする人は、我が国にいませんでしたが、

これを、抜本的に変えて、
本気で憲法の理想の実現を目指すときに来ているし、

憲法の理想を実現する過程に生じる問題に対処し、解決するために、
憲法の空白を埋めるために、
この70年間に生成してきた「慣習法の憲法」を成文化すべき

というのが、
前回 お話ししたかったことのなのです。



というのは、

憲法の理想は、
いつの日か必ず実現されるものであるからです。


憲法9条が、

アメリカから押しつけられたものであるにせよ、
日本国憲法として一旦掲げて、70年間も我が国が維持してきた以上、

その理想を、ここで取り下げたら、
我が国を、後世の世界中の人々から、
蔑まれ、軽蔑される国家に貶めることになるからです。


憲法の理想を実現するまで、
歯を食いしばってでも、その実現に我が国が邁進して、
世界中の人々に働きかけをすれば、

逆に、
フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言と同じレベルの称賛と敬意を
受けることになるだろう と、確信しています。


「憲法の理想は、いつの日か必ず実現されるものである」
と、申しましたが、

いつ実現するのだ とか
本当に実現する保証があるのか、

と、疑問に思われる方がおられると思います。


その様な方には、

憲法の理想は、
10年や20年という短期間で実現するものではなく、
100年、いや 数百年単位の歴史を経て実現するものである

ということをご理解くださるようお願い申し上げます。


例えば、

現在、愛知県知事が、隣の岐阜県を侵略しようとしている、
というニュースがながれたとしても、
誰も本気に思う人はいないでしょう。

でも、500年前には、
現在の愛知県知事に相当する織田信長が、美濃国を征服しているのです。


歴史は、
技術の進歩に従って、その管理単位、行政単位が拡大していきます。

500年前には、現在の県単位で、それぞれ独立国として分立していました。
それが、技術の進歩により
現在では、日本という国単位に 統一されているのです。


500年前から現在までの動きを、将来に引き延ばすと、
技術の進歩により、
将来においては、管理単位として国家では手狭となり、
地域共同体が、管理単位となる日が確実にやってくるだろうと推測できます。

その様な日が訪れれば、
地域共同体の内部での国家間の争いはあり得ないものとなります。


歴史の大きな流れを見ると、

1990年頃、冷戦の終了に伴い、
500年間続いた国民国家の歴史が終了して、
地域共同体から世界連邦への数百年単位の歴史の歩み
が、始まっているのです。

1990年代、この様なことを申し上げたら、
誰もまともに相手にして頂けず、寂しい思いをしましたが、

それから四半世紀経った現在では、
何人かの方には、ご理解して頂けるようになったのでは、
と、期待しています。

 

EUが、成立し、統一通貨のユーロが流通しているのは、
その歴史の流れの表れですし、

TPP交渉も、
アジアでの地域共同体への歴史の流れの萌芽だと考えられます。

注) TPP交渉に、諸手を挙げて無条件に賛成しろ と、
   申しているわけではありません。

   地域共同体が成立するまでは、
   利害やイニシアティヴを巡って、国家間の激烈なせめぎ合い
   が、ありますので、

   どうすれば国益を最大限実現することができるのか、について、
   従来以上に良く検討して、交渉に臨むべきだと思います。


以上が、
憲法の理想は実現するので、

現在 現実と理想が、いくら乖離していようと、
一度掲げた旗は降ろすべきではないと考える所以であり、

憲法論議の際に、忘れてはならない大事な論点である
と、考えています。



最後に、
1990年代に、国民国家の時代が終了して、

歴史が、地域共同体から世界連邦への歩みを始めた
と、語っても、
誰からも理解されなかった との思い出 を お話ししましたが、


最近読んだ本で、

19世紀、ヴィクトル・ユゴーが、
この歴史の流れを見抜いていたことを知り、

吃驚すると共に、
歴史の見方についての同志を見つけたと喜びました。


憲法の理想が実現する日が確実に来ることの一つの論拠として

ユゴーの記述を、
少し長くなって恐縮ですが、ご紹介させて頂きます。


出所 リュシアン・フェーブル著
    「”ヨーロッパ”とは何か?」299㌻~300㌻ (刀水書房)


フェーヴルは、
ヴィクトール・ユーゴの記述を、次のように引用しています。


  諸君

  戦争が、コミューンとコミューンの間、
       都市と都市の間
       地方と地方の間 に 存在していた

  4世紀も前の時代に、

  誰かが、

  ロレーヌ地方、ピカルディー地方、ノルマンディー地方、
  ブルターニュ地方、オーヴェルニュ地方、プロヴァンス地方、
  ドーフィネ地方、ブルゴーニュ地方

  に向かって、こう言ったとしよう。


  「あなた達が、最早、戦争をしなくなる日が訪れるだろう。
   軍隊を動員し、対峙させるようなことをしなくなる日が。

   そのとき、
   何を持って、軍隊の代わりをさせるか 知っておられるか。
   何をもって、歩兵、騎兵、大砲、小型軽砲、槍、剣の代わりをさせるか。

   投票箱 と、皆さんが呼ぶだろう、モミの木製の小箱だ。
   この箱から、何が出るかって

   議会だ。
   あなた達が生きていることを実感できる議会。
   魂のような議会。

   決定し、裁き、すべてを法に従って解決し、
   そして 各人に向かってこう言う、至上権を持つ人民の議会だ。

   お前の権利は、ここまで。
   ここから、義務が始まる。

   武器 を 置け 
   平和 に 暮らせと。

   そして、その日には、
   あなた達は、想念と利害と運命を一つにするだろう。

   抱き合い、お互いが対等で、
   同一の人種に属している と、認められるだろう・・・・・・。

   あなた達の名は、
   最早 戦争ではなく、文明となるだろう」。



  もし、
  当時、誰かがこの様に言ったとしたら、

  当時の実利的精神の持ち主、
  真面目な人々、
  政治家たちは、

  こぞって、こう叫んだことだろう。

  「夢想家め
   空ろな夢
   こいつは、人間のなんたるかを ちっとも知らない」。



  さて、今日に 話を移すなら、

  フランス、イギリス、プロイセン、オーストリア、
  スペイン、イタリア、ロシアに向かって、

  諸君は、こう言われる。
  私も、諸君と共に、こう言う人々の一人である。


  「あなた達の手から、武器が落ちる日が訪れるだろう。

   今日、
   ルーアン と アミアン    の間、
   ボストン と フィラデルフィアの間 で、

   戦争が起こることなど考えられない。

   それと同じように、

   パリ       と ロンドン の間、
   ペテルブルク と ベルリン の間、
   ウィーン    と トリノ   の間 で、

   戦争が起こることなど、あり得ず、 馬鹿馬鹿しく思われ、


   フランス、ロシア、イタリア、イギリス、ドイツ、
   大陸のすべての国民が、

   自らの特性 と 輝かしい個性 を 失わずに 融け合い、
   上位の一つに まとまりとなる日 が。


   ノルマンディー地方、ブルターニュ地方、
   ブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、アルザス地方など、

   我々のすべての地方 が、
   フランスの中で融け合ったのと 全く同じように・・・・・・。


   この様な物が、良く作られたものだと驚きながら、

   拷問用具を陳列するように、
   大砲を陳列する日が。


   アメリカ合衆国 と ヨーロッパ合衆国 という
   ニ大グループ が 向かい合い、海を越えて 手を差し伸べ合う。

   物産、商業、工業、技芸、才能を交換する。

   地球 を 開墾する。
   砂漠 に 植民する。

   創造主の見守る中で、被造物を改良する。

   人間の友愛 と 神の力 という、
   あの二つの無限の力 を 組み合わせ、

   そこから、
   万人の幸福 を 引き出す。

   この様な日 が、訪れるだろう」。


   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。

    < 次々回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 次回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 今回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 前回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



< 捕捉 > ユーゴ の 次の文章 についての 補足説明
       2020年2月21日記述

補足説明させて頂く「ユーゴの文章」は、次の通りです。

今日、
ルーアン と アミアン    の間、
ボストン と フィラデルフィアの間 で、

戦争が起こることなど考えられない。

それと同じように、

パリ       と ロンドン の間、
ペテルブルク と ベルリン の間、
ウィーン    と トリノ   の間 で、

戦争が起こることなど、あり得ず、 馬鹿馬鹿しく思われ、


フランス、ロシア、イタリア、イギリス、ドイツ、
大陸のすべての国民が、

自らの特性 と 輝かしい個性 を 失わずに 融け合い、
上位の一つに まとまりとなる日 が。


ノルマンディー地方、ブルターニュ地方、
ブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、アルザス地方など、

我々のすべての地方 が、
フランスの中で融け合ったのと 全く同じように・・・・・・。


リュシアン・フェーブル著
「”ヨーロッパ”とは何か?」299㌻~300㌻ (刀水書房)




ユーゴ は、

イタリアのハプスブルグからの独立戦争、
アメリカ南北戦争
の後に、記述したもの と 思われます。

「今日、
 ルーアン と アミアン    の間、
 ボストン と フィラデルフィアの間 で、

 戦争が起こることなど考えられない。」
について、


「ルーアンとアミアン」の間の戦争 とは、
百年戦争のことだろうと思われます。

百年戦争 とは、フランス国内の 覇権争いでした。

即ち、
イングランドは、
1066年 ノルマンディ公が征服した後、男系 が 断絶して、
アンジュー家と結婚した娘の系統である プランタジネット朝 が
統治しましたが、

13世紀初頭 フランス王フィリップ2世 が
ジョン王 の 失政をついて、

フランスの西半分から プランタジネット朝 を イングランド に
たたき出したことによる

イングランド王 の
フランス封建諸侯 としての フランス領土 の 奪回のための戦い
でした。

「ボストンとフィラデルフィア」は、
アメリカの南北戦争 を 指している のでしょう。

ですから、ユーゴ は、

19世紀後半において、

フランス と イングランド との 百年戦争 や、
アメリカの内乱 は、再び 起きないだろう

と、主張しているのです。


「それと同じように、

 パリ       と ロンドン の間、
 ペテルブルク と ベルリン の間、
 ウィーン    と トリノ   の間 で、

 戦争が起こることなど、あり得ず、 馬鹿馬鹿しく思われ、


 フランス、ロシア、イタリア、イギリス、ドイツ、
 大陸のすべての国民が、

 自らの特性 と 輝かしい個性 を 失わずに 融け合い、
 上位の一つに まとまりとなる日 が。


 ノルマンディー地方、ブルターニュ地方、
 ブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、アルザス地方など、

 我々のすべての地方 が、
 フランスの中で融け合ったのと 全く同じように・・・・・・。」

については、
ユーゴ が、間違っている と 感じる方 が おられるでしょう。


「パリとロンドン、ベルリンとペテスブルグ」

即ち
フランスとイギリス、ドイツとロシア は、
20世紀 に 総力戦 を 戦っています。

「ウィーンとトリノ」とは、
サヴォイア公が、ハプスブルグ家に戦いを挑んで、
イタリア を 統一したことを 指している と、思われますが、

オーストリとイタリア も、
第一次大戦 で、戦っています。


ここで、
ユーゴ が、おっしゃりたかったことは、

「数百年単位 では、国家間の戦争 が なくなるだろう」
と、いうことだろう と 思います。

第2次大戦後、EUが誕生して、
今日現在では、ユーゴが主張するように

ヨーロッパ各国間 で 戦争 が 勃発する可能性が、
非常に低くなっていることは、ご納得頂けるでしょう。

でも、ヨーロッパ各国 が、
フランス政府 と フランス国内 の 各地方の関係みたいな
EU の 一地方 としての存在 に なっていないことも、
ご納得頂けると 思います。

ですから、

21世紀初頭
即ち
現在 の ヨーロッパ は、

ユーゴ が 主張する 数百年単位の
ヨーロッパ への 移行過程の段階 にあることを
ご認識 頂ければ 幸いです。


ご紹介したユーゴの文章 は、
リュシアン・フェーブル著「”ヨーロッパ”とは何か?」(刀水書房)
の 最後に 掲載されていたものです。

リュシアン・フェーブル は、
現在のフランス歴史学界の主流である アナール学派 を、
マルク・ブロックと共に創設した フランス中世史学界の第一人者で、

第2次大戦中に フランス・アカデミー で、
1年間に亘り ヨーロッパの歴史 について 講義した その最後に、
結びに代えてユーゴの文章を紹介されたような感じをしていますが、

フェーブル自身 は、目下の戦争に目を奪われて、
ユーゴの文章 に 反対だったようです。

この点において、フェーブルは、
第二次大戦中、戦後 EUが誕生することを見通した
E・H・カーより 歴史家として相当劣ると感じる所以ですが、

1990年代初頭 冷戦終了後、
500年間 の 国民国家の歴史 が 終了して
数百年単位 の 地域共同体、世界連邦への歴史 が
歩み出した と、話したとき、

誰一人として 理解して頂けなかったことは、当然のことだろう
と、フェーブルの本 を 読んで納得した 思い出 が あります。


本文で申し上げた「憲法9条の理念の実現」に、
数百年単位の時間が必要だということは、

このユーゴの文章からも ご理解頂くこと を 願っています。






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2014年9月 1日 (月)

集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・

ヨーロッパ史の本を、毎日読んで過ごしながら、
最近の集団的自衛権論議を見ていると、

人類の歴史においては、
長い間、慣習法こそが法律であって、

最近になって
(といっても、19世紀初頭、約200年前ですが、)

慣習法の土壌の上に、成文法が植林され、大きな森となったことにより
成文法だけが法律だと思われるようになったのだな、

でも、
成文法が、カバーしない部分、足りない部分については、
いつの間にか慣習法が生成されてきて、
成文法を補完するようになるものだから、

慣習法は、依然として、法律として生きていて、機能を果たしているのだな
と、感慨深く 感じるようになりました。



日本は、
明治時代にヨーロッパの法律を輸入、翻訳して
法律全般が 成文法の国となった 経緯 から、


慣習法は、

存在しないもの、
存在しても、成文法を補完するもので、
殆ど法的規範力がないもの

と、認識してきましたが、


その日本においてさえも、

成文法が規定していない部分
言い換えると
成文法の空白の部分については、

慣習法が、
成文法を補完して、自然に生成されてくるものだ との、

法律 の 本来の原則、
法律 の 本来的な生命力から依って来たる法則
を、強く感じる様になりました。


この様に申し上げると、
「法律を知らない素人論議だ」と、
法曹の皆さんから軽蔑され、一笑に付されるのだろうと思います。


法学部の授業は、
成文法の解釈技術者養成が授業の大半ですし、

日本において、成文法でない法規範は、
皆無に近いと言って良い状況ですので、

法曹の皆さんにとって
慣習法 は、無縁の世界だろうと思います。


しかし、

憲法9条を巡っては、
憲法の規定の空白が、確かにあり、

この70年間、
その空白を埋めるための慣習法が、
確実に生成されてきているのです。


慣習法の憲法が生成され、
法規範としての効力を持つようになって
憲法の空白が埋められてきたことは、

自衛隊の違憲論が影を潜めて、
自衛隊が、国民の間で承認されるようになり

今回の集団的自衛権論議で 野党が、
個別的自衛権でまかなえるので、集団的自衛権は要らないと

裏を返すと、
個別的自衛権までもが合憲である と、
認めるようになってきたことでも、明かなのです。


この様な事態は、
自衛戦争をも否定していた 憲法制定当初には
想定されていませんでした。


成文法は、
慣習法の土壌の上に植林された 人工物なのです。

成文法が、人工物であるが故に
成文法に、抜け や 瑕疵があって その修復が必要となったら、
慣習法の土壌から、必要とされる木が 自然に生えてきて、

ある時期、
その木が、成文法の法律として 国会で制定され、
母なる慣習法は、元の土壌に戻るのです。


憲法9条は、
日本では例外的に、この過程にある法律であることを、

専門家の皆様が、
改めてご認識されて、議論されることを願っています。

また、
法律家以外の 政治家や官僚、マスコミなどの関係者におかれても、

イデオロギー、党利党略に基づく議論ではなく、

法律とは何ぞや?
成文法とは何ぞや?との

法学の根底 を 出発点とする 憲法9条論議 が
なされるようになることを祈念しています。



憲法論議への一石となることを願って、
成文法と慣習法の観点から、

憲法9条における慣習法の憲法の生成について
私の考えるところを 以下において お話しさせて頂きたいと思います。



Ⅰ 憲法前文と憲法9条 の規定


お話に先立って、
憲法9条の理念を記述した憲法前文 と 憲法9条をお読みください。

なお、
私が気になるところを、太字で強調させて頂いておりますことをご了承ください。


憲法前文

日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

われら と われらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と
わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、

政府の行為によって
再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、

ここに 主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。


そもそも国政は、
国民の厳正な信託によるものであって、

その権威は 国民に由来し、
その権力は 国民の代表者がこれを行使し、
その福利は 国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、
この憲法は、
かかる原理に基づくものである。

われらは、
これに反する一切の憲法、法令及び勅令を排除する。


日本国民は、

恒久の平和 を 念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想 を 深く自覚するのであって、

平和を愛する 諸国民の公正と信義信頼して、
われらの安全と生存 を 保持しようと決意した。


われらは、

平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭 を
地上から永遠に除去しようと努めている 国際社会 に おいて

名誉ある地位 を 占めたいと思う。


われらは、
全世界の国民 が、

ひとしく 恐怖と欠乏から免れ、
平和のうちに生存する権利 を 有すること を 確認する。


われらは、

いづれの国家も、
自国のことのみ に 専念して
他国 を 無視してはならない のであって、

政治道徳の法則は、普遍的なものであり、

この法則に従うことは
自国の主権 を 維持し、
他国 と 対等関係に立とうとする 各国の責務 である と 信ずる。


日本国民は、

国家の名誉にかけ、
全力をあげて この崇高な理想と目的 を 達成することを誓う




憲法第9条 (戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)


1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
  国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
  国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない




Ⅱ 憲法前文 と 憲法9条 が、規定しているものと、規定してないもの


1.規定しているもの

  ① 憲法は、
    前文において、絶対的平和の実現という理想を高々と掲げて、

    その実現のために、
    他国に先駆けて軍隊及び軍隊同等の戦力を放棄すると規定しています。


    即ち、
    今後日本国が進むべき方向、理想を規定する
    と、同時に、

    日本国は、世界が絶対的平和の実現するように、努力する
    と、宣言しているのです。


    更に、日本国民に対して
    日本が今後目指す理想 と、理想の実現に向かっての努力義務
    を、命じているのです。


  ② 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
    軍隊を放棄した日本の安全を図っていくと、宣言しています。

    また、
    全ての国に共通する普遍的な政治道徳についても言及して、

    各国が、普遍的な政治道徳の責務を誠実に果たすであろうと
    日本が、信じることも 軍隊を放棄する根拠に挙げています。


    要するに、

    日本との関係を持つ諸国、
    とりわけ
    日本を攻撃する可能性がある 周辺諸国 が、

    普遍的な政治道徳に従った公正で信義に厚い国である
    ということを前提にして
    日本の武力放棄を宣言しているのです。


  ③ 「国権の発動たる戦争」と規定し、
    戦争のみならず、
    武力 即ち 軍隊を背景にした 軍事的な威嚇や行使をしない
    と、規定しています。



2.規定してないもの


  ① 憲法は、目指す理想を掲げるだけで、
    どのように実現するか、についての 具体的な方法論、方策は、
    規定していません。

    これは、法律以下に任せているのでしょう。

    言い換えると、
    実際に政治を運営する政府、国会に任せているのです。


  ② 軍隊及び軍隊類似の存在の放棄を規定していますが、
    警察権、警察活動については、規定していません。

    また、
    日本の安全は、平和を愛する諸国民を信頼するとだけ規定して、
    刑法が規定する正当防衛、緊急避難について、全く言及していません。

    警察活動、正当防衛、緊急避難などは、
    当然憲法は認めていると考えるのが、常識的な判断だろうと思いますが、
 

    自衛戦争をも否定している憲法が、
    
    自衛戦争と正当防衛、緊急避難とをどのように区別しているのか、
    についての定義が、なされていません。


Ⅲ 憲法に対する 日本人の対応


憲法は、理想を高く掲げて、
その実現を、日本国民に委ねたのですが、

戦後の推移を概観すると、
日本国民は、真面目に理想の実現に取り組まなかった
と、いうべきだろうと感じられます。


1.自民党

  戦後の一時期と最近の3年間を除いて、
  自民党(もしくはその前身の政党)が、戦後、継続して政権を担ってきました。

  現在の憲法は、
  アメリカに押しつけられた憲法であり、

  アメリカの占領が終了して、独立を回復すれば、
  占領下の憲法を改正するが通常であり、常識ですので、

  自民党もその常識に従って、
  憲法改正を党是として、発足しました。

  米ソの冷戦下において、憲法の理想の実現は不可能だし、
  それよりも、政権政党としては、
  目先の日本や国民の安全の確保が優先すると判断されて、
  日米安保体制を構築して日本の安全を維持してきたのです。


  自民党が担った日本政府は、アメリカの同盟国として行動し、
  永久平和な世界の実現のために、日本がイニシアティブをとることは
  ありませんでした。

  ですから、
  憲法の理想の実現を全く無視してきた とまでは、言えないまでも、
  結果として、憲法の理想を実現するための具体的な行動はとらなかった、
  と、言えると思います。


2.野党、護憲勢力

  野党や護憲勢力の皆さんは、
  マルクス主義を信奉 もしくは 親近感を持っておられる方々
  を、中心とした 政治勢力でした。

  マルクス主義者は、
  モスクワの指令に基づいて 日本に革命を起こして、モスクワに日本を奉呈し、

  自分たちは、
  モスクワの代理人として、モスクワの指令に従って日本を支配すること
  を、目的としていました。

  戦後すぐに、ゼネストを計画して、革命を目指しましたが、
  占領軍に阻まれて実現できませんでしたが、

  いつの日か実現しよう、もしくは実現したい との願望を持って、
  政治に参画していたのです。


  彼らにとって、
  憲法9条は、日本の軍事力を弱体化させるものであり、
  自分たちの革命にとって大変都合の良いものでした。

  ですから、
  政治的スローガンとして、憲法擁護、憲法9条改正反対を唱えて
  日本の弱体化の固定を図ってきたのです。

  同時に、
  革命の実現に有利になるよう、
  例えば、アメリカの原爆は悪い原爆だが、ソ連の原爆は良い原爆であるなどの
  非常識な主張を平気ですると共に、

  日本やアメリカへの悪口雑言に反して、
  ソ連、中国などの共産圏諸国についての都合の悪い事実は
  口を拭って一言もしないとの態度だったのです。

  彼らは、
  日本を貶めることが目的でしたから、
  憲法が目指している永久平和の実現などは、どうでも良く、

  護憲、憲法改正反対は唱えても、口先だけで、
  憲法が求めていた永久平和な世界の実現のための具体的な活動などは、
  全く眼中にありませんでした。


3.日本国民

  憲法9条が、戦後70年間維持されてきたのは、
  日本国民が、憲法9条を支持してきたからです。

  占領が終って、独立が回復したら、
  占領軍に押しつけられた憲法は、改正されるのが普通であり、常識であるのに、
  なぜ改正されなかったのでしょうか。

  それは、
  太平洋戦争で、政府が、日本国民を「屠殺」しまくったため、
  もうその様なことは「御免だ」と、
  日本国民が、心底から考えるようになったからです。

  ここで、
  敢えて、政府が日本国民を「屠殺」しまくった、と過激な表現を使いました。

  それは、
  例えば、敗戦直前、
  45万挺の鉄砲しか9月末までに配給できないのに、150万人を徴兵して、
  武器も持たせずに米軍の攻撃の前に曝そうとしたからです。

  (注) 高木少将語録 第4回「陸軍の本土決戦論」
      http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3f2d.html


  また、子供の時に父から聞いた話ですが、
  父の学んだ 広島文理大(現在の広島大学)附属中学の理科系の生徒さん達は、
  米軍が、新型爆弾を使うから、後学のためにどのようなものか見に行け
  と、わざわざ疎開先から広島に戻らされて、被爆したそうです。

  これは、
  アメリカが原爆を使用することを、事前に国内で広く知られていたことを
  意味していて、

  それでいながら、
  政府が、敗戦を認めず、漫然と時を過ごしていたこと、

  言い換えると、
  国民を屠殺してもかまわないと考えていたことの現れの一つであり、
  一事が万事だと 思います。


  「屠殺は、二度と御免だ」と考えた日本国民も、
  他国に先駆けて武力放棄して、他国の侵略を挙手傍観してまでも
  憲法の理想の実現に努力しようとは考えませんでした。

  ですから、
  自民党のアメリカとの同盟政策を支持して、自民党に政権を託してきたのです。

  でも、
  託しすぎて、自民党が憲法を改正し、
  またいつの日か、国民が政府により屠殺される事態が生じたら困りますので、
  改憲に必要な議席までは、自民党に与えませんでした。



以上、
政権を担当した自民党も、
自民党に反対する野党も、

更には、
日本国民も、

要するに、日本中で
憲法を、都合よく利用する人はいても、

本気で憲法の理想を実現しようとする担い手は誰もいない状態で、
今日まで至っているのです。



Ⅳ 憲法が想定していない事態の発生

もともと、憲法の理想と現実は、大きな乖離があったのですが、

憲法は、
その乖離をどのように埋めるか、具体的な道筋を示さず、

その実現を委ねられた 与野党 も、
それぞれの立場から、本気で理想を実現しようとはしませんでしたから、

大きな乖離があるがままに憲法制定してから70年近くが経てる間に、
憲法が前提としなかった次の2つの事態が生じました。


1.軍隊が、従来 警察活動だった分野も担当する時代になったこと

2.周辺諸国が、
  普遍的な政治道徳を持っておらず、
  公正と信義を信頼できないことが、明白となったこと。



1.軍隊が、従来 警察活動だった分野も担当する時代になったこと


  犯罪者、犯罪組織の実力が大幅にパワーアップしたことにより、
  その犯罪行為の取り締まる側が、従来の警察活動では対処しきれず、
  軍隊の力が必要となってきました。

  これが、初めてはっきりと認識されたのは、
  フセインのイラクが、クェートに侵入したときです。

  フセインのイラクのクェート侵入は、
  従来型の国権の発動たる武力の行使ではなく、
  完全な犯罪行為とも言うべきものでした。

  ですから、
  国連軍は組織されませんでしたが、
  アメリカを中心とする多国籍軍が、イラクをクェートより排除したのです。

  国家の犯罪行為に対しては、
  従来の警察活動では、取り締りが不可能であり、
  軍隊による警察活動が、これからは必要だと認識され、

  軍隊も、
  従来型の国権の発動たる戦争ではない活動もするようになったのだな、
  と、理解されるようになったのです。


  次に、
  9.11のときに、ブッシュ大統領が、「テロとの戦い」を宣言したことです。

  私は、この宣言を聞いたとき、
  ハイジャック犯の取り締まりなら、軍隊を使わないでも、
  従来型の警察活動で十分ではないかと、最初違和感を感じました。

  その後、
  アルカイダが、軍隊に匹敵するゲリラ戦を行う組織であり、
  アメリカ軍でさえ、なかなか対応に苦労する力を持ち主であることが
  明らかになり、ブッシュ大統領の宣言に対しても、違和感がなくなりました。

  この様な 軍隊の役割に警察活動が加わったことは、
  時代の推移により生じた憲法が想定していなかった事態です。


  実は、
  軍隊が、今まで警察活動を全く行っていなかったわけではありません。

  例えば、
  戦前、米騒動が生じたときに、軍隊が出動したとのことですし、
  戒厳令が発令されたら、治安維持は、警察ではなく軍隊の役割なのです。


  また、
  国道に不発弾が見つかったら、
  警察ではなく、自衛隊の処理班が出動します。

  これも、
  国権の発動たる戦争行為、武力の行使ではなく、
  警察活動に対する補完行為なのです。


  自衛隊は、
  戦後長い期間、地道に日本近海の機雷除去の作業を行ってきました。

  これにより、
  日本の掃海能力は、世界的に見て大変高いレベルにあると
  評価されるようになったのです。

  この作業を、
  戦争行為、武力の行使と言う人は 誰もいないでしょう。

  道路の不発弾処理と、海上の戦時中に敷設された機雷除去は、
  同じ性格のものなのです。


  今回、
  ホルムズ海峡に機雷が敷設された場合に、
  自衛隊を掃海作業に派遣することに対して、
  野党から憲法が禁止する武力の行使だとの主張がなされました。

  ホルムズ海峡は、
  世界貿易にとり、安全を確保しておかなければならない国際海峡なのです。

  そこに、機雷を敷設することは、
  国道に地雷を敷設するのと同じ行為であり、
  その除去は、警察行為であると、考えるべきでしょう。


  何処かの大学の先生が、
  日本の経済権益が侵害されるからといって自衛隊を派遣するのは、
  戦前中国に侵略したときの軍隊と同じ論理である、
  と、おっしゃっておられるのを読んで、あきれ果ててしまいました。

  某国に攻め込む事前準備のための掃海活動は、武力行使だと思います。

  しかし、今回議論となっているのは、
  日本が、
  日本向けだけでなく、
  全ての国に向けて航行するタンカーの安全を図ることです。

  国道に敷設された地雷を除去するのと同じ性格の行為が、
  どうして武力の行使となるのでしょうか。

  この様な議論が生じるのは、
  軍事行為、軍隊の活動に対して、
  帝国主義時代の認識しか持っていないことを表白していますね
  と,言わざるを得ません。

  戦前、海軍の年次計画に対して、
  「明治の頭」で考えていると、酷評した海軍首脳がいましたが、

  上記の議論は、
  21世紀において,19世紀の頭で軍隊を議論していると言われても
  仕方が無いのではないでしょうか。


  憲法前文には、
  全世界の国民が、
  平和のうちに生存する権利を有することを確認する、

  我々は、
  平和を維持しようと務めている国際社会において、
  名誉ある地位を占めたいと思う、と宣言しています。

  自らの生命の危険を顧みず、
  国際航路の安全を確保するために機雷を除去する作業をすることは、

  平和を維持することであり、
  日本が、国際社会に名誉ある地位を得るための具体的な努力
  ではないでしょうか。

  野党や護憲勢力の皆さんに、この様な視点が欠落しているのは、
  日本を貶めて、他国に日本を奉呈しようとして、護憲を主張してますよ
  と、表白しているのではないでしょうか。

  少なくとも、
  憲法の理想の実現など、眼中になく、どうでも良いこととおっしゃっておられる
  と、私には感じられます。



2.周辺諸国が、
  普遍的な政治道徳を持っておらず、
  公正と信義を信頼できないことが明白となったこと。


  最近の中国や韓国、北朝鮮の動向について、一々申し上げる必要は無いだろう
  と、思います。

  中国は、

  尖閣諸島について、資源があると分かったら領土を主張し初め、
  最近では、沖縄まで侵略しようとしています。


  韓国は、

  竹島を不法占拠している上に、
  日韓条約で解決済みの慰安婦問題を持ち出し、
  大統領を先頭に、歴史をねつ造して噓を全世界にばらまき、
  日本を貶めて、金をむしり取ろうとしています。

  日本は、
  日韓条約で、韓国に、当時の韓国の国家予算の2倍以上の資金を
  支払ったことを初めとして、

  その後も、ことある毎に、
  いろいろな分野で、多額の支援や技術援助をしてきました。

  韓国は、
  これらの日本の好意を、感謝するどころか、
  反日教育をして国民を扇動して、日本を貶めようとしている国であり、

  普通なら、
  国交断絶してもおかしくない行為
  19世紀なら、戦争になったであろう行為 をしている国なのです。


  北朝鮮は、

  朝鮮戦争で不法に南に侵略をしたり、
  その後も、
  日本の主権を踏みにじって、日本人を拉致してきた国なのです。


  以上概観したように、日本の隣国であるこれらの3カ国が、
  一般人なら犯罪者として扱われてもおかしくない国であることが明白となり、

  日本としても、
  憲法の理想は理想として、
  彼らの不法な攻撃への対応を考えねば、独立を維持していくことが難しいことが
  はっきりしてきました。

  更には、
  彼らが、日本国内での工作活動を活発に行っていることが、
  あぶり出されてきました。

  朝日新聞が、
  慰安婦のねつ造報道を自白したことにより明らかになったのように、

  日本のマスコミに、中国や朝鮮人 が 入り込んで、
  日本人が、日本を貶める内容の記事を書いている風を装って、
  工作活動をしてきたのです。

  (注) 朝鮮人とは、

      在日を含む 韓国人、北朝鮮人、
      並びに 日本に帰化した 朝鮮系日本人 を 指しています。

      また、
      朝鮮とは、韓国、北朝鮮 を 指しています。

      以下の記述も、同様です。

      なお、
      日本に帰化した朝鮮系日本人を朝鮮人と呼ぶのは、

      アメリカにおいて 米国に帰化した朝鮮人が
      アメリカのためでなく朝鮮のために活動しているので、

      彼らは、帰化した後も 依然として朝鮮に忠誠を誓っている
      と、判断したからです。


  政界においても、野党のみならず、
  政権与党である自民党にも、中国や朝鮮の工作員と思われる政治家の存在が、
  メッキがはがれるように、明らかになってきました。

  例えば、
  自民党の有力者だった小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏は、
  民主党政権下において、中国や朝鮮の工作員ではないか、
  と、疑われるような行為をされておられることが、
  ネットが一般化したことにより、明らかになりましたし、

  最近では、
  自民党の重鎮で、派閥の長や主要大臣、党三役を経験された方が、
  共産党の機関誌である「赤旗」に寄稿されて、世間を唖然とさせる事態が
  生じています。

  また、自民党や政府関係者において、
  中国や朝鮮のための工作を行っているのではと、疑心暗鬼にさせられる方も、
  ちらほら見受けられます。

  この様に、
  中国や朝鮮が、日本のマスコミや政権中枢の奥深く入り込んで、
  日本を根っこから 腐らせて転覆させようとしていることに対して、
  対処が必要となってきたのです。

  このことは、
  日本国憲法が想定していなかった事態です。

  もしくは、
  その様な外国からの工作に対しては、
  日本の政治を担う与野党が一致結束して、
  憲法の理想を現実化するように努力すべし
  と、憲法が命じていたのです。

  ところが、先ほど申し上げたように、
  与野党だけでなく日本国民も含めて、憲法の理想の実現を、
  自分の使命だと思って、本気になって実現する体制からほど遠い状況が、
  戦後70年間続いてきたのです。



Ⅴ 慣習法の憲法の生成


以上述べた状況の中で、
自衛隊や日本の防衛を巡って、慣習法の憲法が生成されてきました。


慣習法の憲法が生成されてきた背景を、
もう一度列挙して整理させて頂きます。

1.憲法は、
  理想を宣言して、言い放すだけで、
  理想の実現するための具体的方策を指示してなかった。

2.憲法は、
  軍隊の保持のみならず、自衛戦争までも禁止しておきながら、

  侵略戦争と自衛戦争の区別
  軍事行動と警察行動の区別、
  自衛戦争と正当防衛、緊急避難との区別について、定義しなかった。

3.日本人は、
  憲法の理想を実現しようとする能動的な行動をとらなかったが、

  戦時中に国民が政府により屠殺されたトラウマが大きく、
  国民が、憲法改正も実施させずに
  理想と現実に大きな乖離があるままに約70年間放置されてきた。

4.時代の進展により、
  軍隊が、従来警察活動の分野とされていた業務も担当するようになった。

5.日本の周辺諸国が、
  憲法が前提とした、普遍的な政治道徳を持たず、
  公正と信義を信用できない国であることが、明らかになった。


今回の集団的自衛権についての議論において、
反対論者が、

解釈改憲に反対しながら、
自衛隊はもとより、個別的自衛権までもが合憲とおっしゃっておられるので
反対論者も、解釈改憲をされているではないか と、びっくりしました。

私は、
憲法解釈としては、自衛隊は違憲な存在だとせざるを得ないと考えています。

以前、日経新聞だったと思いますが、
後藤田氏が、警察予備隊を創設するときに、
「警察予備隊は、軍隊だ」とおっしゃっておられたと書いておられるので、

当時の政府は、
違憲の軍隊であることを承知で、自衛隊を創設されたのだなと、理解していました。


では、
違憲な自衛隊が、
何故、創設され、現在まで立派に運営されてきたのでしょうか。


それは、
先ほどから述べているように、

憲法は、理想を宣言しただけで、
外国が攻撃、侵略してきたときに、具体的にどのように対処するのかについて、
規定してなかったからです。

この憲法上の空白を埋めたのが、
自衛隊の創設であり、
慣習法の憲法が生成されてきたとお話しする所以なのです。

ですから、
慣習法の憲法という法的根拠を持った自衛隊を、廃止出来なかったのです。


集団的自衛権の反対される方が、政府の解釈改憲に反対と主張されるのは、
憲法の空白を認めず、空白を埋める慣習法の憲法を
ご理解されておられないためだ と、思われます。


自衛隊や集団的自衛権の議論は、解釈改憲ではなく、
憲法の規定がないところに、新たな慣習法の憲法を作ることなのです。

日本は、成文法の国ですから、
本来であれば憲法改正により9条を変更することが好ましいのですが、

戦時中 政府に屠殺されまくった日本国民が、
政府に改憲を許さなかったための、苦肉の策だったのです。


即ち、
日本国の安全に責任を持っていた政府、自民党が、
憲法の空白部分について、法律により対処して、
結果として、慣習法の憲法が生成されたのです。


これに反対する野党も、
政府自民党の現実への合理的な対応に対して、
反対を貫徹することが出来ませんでした。

従って、
いつの間にか、自衛隊が、その存在が承認されて合憲となり、
個別的自衛権までもを、与野党一致して認めざるを得なくなったのです。


以上が、
憲法、自衛隊、集団的自衛権についての戦後の歴史認識からのご説明ですが、

日本が成文法の国である以上、
やはりこの様な状況は好ましくないだろうと思います。


野党や護憲勢力までもが、
個別的自衛権まで認めるようになったのですから、

改憲論議は、改憲論議として別にするとして、

現行憲法においても、立法論としては、
憲法の理想は理想として、

① 理想をどのように実現するのかということと、
② その理想を実現するまでの間、日本をどのように防衛していくのか、
について、

憲法9条を補強する規定を、憲法に追加するのが望ましいのでは、
と、考えています。



追記  2014年9月4日付

早速このブログを読んで頂いた友人から、
次のようなコメントを頂き、返事しました。

友人のコメントは、
ブログを書いているときに、もう少しご説明しておいた方が良いのかな
と,考えた点のご指摘でしたので、

友人との対話をご紹介して、皆様の参考に供させて頂きます。


<友人のコメント>

もし、貴兄の言われたように、

平和憲法に係る慣習が数十年で生まれているのなら、
何か、慣習を慣習法へと具体的に変えて行くようなプロセスがいるように思います。
(立法か?、司法か?行政の出番ではないと思うのですが???)


<友人への回答>


「慣習法の憲法が、生成過程にある」というのが、
正確な言い方だろうと思います。

確かに、
中核部分は生成されてきたけれど、
最終的に、慣習法として固まったとは言えず、

これからも、慣習法の憲法は、
基本は変わらないけれど、もっと明確になっていくだろうと思っています。


慣習法は、
事実たる慣習が、徐々に法的効力を持つようになって、
最後には、成文法となるのです。


今回の対象は、憲法ですので、

日本人が、対象たる慣習を承認するようになると共に、

それと平行して、
慣習法としての法的効力を持つように生成される過程において、
当然、憲法の下位の法律 が、制定されてきてます。

今回で言うと、
自衛隊法とかその周辺の法律、
今回の集団的自衛権関連でこれから制定される法律などです。

憲法は、制定(規定)されていないけれど、
憲法が、制定(規定)されたとしたら、憲法の下位に制定されるべき法律が、
着々と整備されてきて、

これなら、
成文の憲法が制定されていないだけではないか
と、思われるようになってきたので、
慣習法の憲法が、生成されてきた と、申し上げたのです。


野党が、
政府自民党に対して、「解釈改憲」反対を主張していますが、

解釈改憲される度に、
憲法の空白を埋める法律が整備され、

法律の上位に存在する慣習法の憲法が徐々に姿を現してきている
と、私には感じられるのです。


慣習法の憲法が、
これからも変化するであろう 生成過程である というのは、

現状においては、
自衛権の発動について、理想を宣言する憲法に制約されて、
どこの国も保持している 全面的な自衛戦争 が、
現状では 依然認められていないからです。


政治の世界で、
「普通の国になる」とか、

反対派が、
「戦争の出来る国にしようとしている」と言われていますが、

これは、
まだ全面的な自衛権が認められていないことの現れだと思います。


本来 国が持っている自衛権を、制約なしに行使できるようになって初めて、
慣習法の憲法も完成するのだろうと思いますので、

現在は、
その進行過程にあるだろう申し上げたのです。


このことを、
ブログで はっきり書くと、

集団的自衛権に反対されておられる方から「けしからん」とお叱りを受けて、
ブログが炎上する事態になると困りますので、少しぼやかしました。


私が、
今回慣習法の憲法が生成されているな と、申し上げたのは、

憲法が理想を宣言しているだけで、現実にどのように対処するのか、

具体的には、
周辺諸国の侵略にどう対処するのかについての規定が空白だったのが、

戦後70年が経過するうちに、
自衛隊が創設され、国民の間に定着し、

国民が、
自衛のための戦争は受けて立たざるを得ないとの意識に変わってきて、


例えば、
尖閣に、中国が攻めてきたら防戦するのもやむなしとの意識になってきたので、

大変な意識の変革があったなのだな と、感じたからです。


憲法制定当時、
憲法学者の宮沢先生は、先生の憲法のコンメンタール(憲法の逐条解説)で、

「自衛戦争の名目で侵略戦争が行われてきたことがあるので、
 日本国憲法は、自衛戦争をも禁止している」
と、記述され、これが通説とされてきました。

この記述と、
先ほど述べた現在の日本人の意識、感覚の大変な違いを
お感じ願えれば と、思っています。


この違いは、
この70年間の推移により生じ、

創設当初、誰もが違憲だと内心感じていた自衛隊も、
今日では野党でさえ合憲というようになったのです。

(野党が、
 自衛隊を合憲と認めている と、言うと お怒りになるのであれば、

 少なくとも、
 自衛隊創設当初主張された 自衛隊は違憲だとの主張は 引っ込められた
 と、言えると思います。)


しかも、
尖閣への侵略の恐れがあり、

更には、
沖縄で街宣活動して、沖縄征服の野心を露わにしている中国に対して、

集団自衛権をも認めて、そのための法整備をしようというのは、

憲法の理想は理想として、
現実に日本が侵略されたら、自衛のための戦争もやむを得ない
との意識が 国民に定着して、

それに対処した法整備を政府が行い、
国民が、その政府自民党を支持していることであり、

これは、
現実に対して どう対処するかの慣習法の憲法が
生成されてきている事を意味していると、言えるのでは

と、感じたので、今回のブログを書いたのです。


識者の中には、
国際法は、自衛権として、個別も、集団も認めているのに、
個別の自衛権しか認めていないのは、憲法の欠陥であり、

国際法と異なる規定をしている憲法はおかしい
と、おっしゃる方がおられますが、

これは、
二つの意味で間違っていると思っています、


一つは、憲法解釈の問題で、

(アメリカの押しつけだけど、国民が圧倒的に支持してきた)
憲法の理想に基づいて

憲法は、交戦権を禁止していますので、
日本に 自衛戦争を含む 一切の戦争 を 認めていないのです。

言い換えると、

憲法は、
日本が攻められても、国を守るための自衛戦争を一切禁止している
というのが、現行憲法の正確な文理解釈なのです。

従って、
個別的自衛権も、当然 禁止されているのです。

時代が変わっても、憲法の規定は変わっていませんので、
憲法は変遷すると言って、
「書いてもいないことを 書いてある」と、解釈するのは、
日本が、法治国家ではなくなることになります。


個別的自衛権を、
憲法が認めていると解釈する 一つの方策 が、
このブログでご説明してきた論理なのです。

即ち、
憲法は、理想を宣言したものの、

① 理想を実現する方法論に関する規定 と
② 理想を実現するまで、日本が攻撃されたときの規定
についての空白があるため、

憲法の空白という欠陥に対処して
日本人が生成してきた 慣習法の憲法 が

「憲法の理想が、国際社会で実現する前に 日本が攻撃されたら、
 日本を防衛するのが当然だと、認めているから、
 日本が自衛戦争しても、憲法解釈上 違憲ではない」
と、しなければならないのです。

言い換えると、
現状では、憲法の空白という欠陥 を、
慣習法の憲法に従って、下位の法律で補っている
と、主張し、

最終的には、憲法裁判所である最高裁で、
この論理を認めてもらわなければ ならないのです。


日本では、
日本の法律の母国であるヨーロッパでは、
慣習法の上に成文法が存在しているのですが、

成文法の解釈学が法律の学習だとお考えになって、
慣習法への認識はおろか、
法制史もまともに学んでおられない大多数の法曹のお歴々に、

「このことを、理解して頂けるものなのでしょうか?」と、問われると、
「どうですかね・・・」と、言わざるを得ないのが、残念です。

ただ、
最高裁の判事の皆さんは、知恵者揃いですので、

この論理を認めないでも、他の方策を考えられて
違憲判決はお出しにならないだろう と、信頼し、確信をしています。

(注)他の大学は知りませんが、私の学んだ大学(法学部)で、
   西洋法制史の授業を受けていた人は、600人中、数えるほどでした。


二つ目は、
国際法は、現実にどう対処するかを定めた規定ですが、
日本国憲法は、理想を宣言したものである ということです。

即ち
国際法と憲法では、拠って立つ立場が、異なっているのです、


人類の歩みの 何歩も先の理想を 憲法に規定するのは、
それは、それでありうる と、思われます。

ですから、ブログでも書いたように、

議論すべきは、

憲法は、
理想を宣言するだけでなく、

1.理想に向かって、どのように現実を変革していくのかという、
  理想実現の為の方法論と、

2.理想が実現するまでの間の現実に、どう対処するのか

についても、規定すべきであったし、

自民党が主張する抜本的な憲法改正とは別に、

現行憲法の規定の追加の議論を、
今からでも おこなうべきでは と、申し上げたいのです。

                                以 上


   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。

    < 次々次回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 次々回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 次回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 今回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



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