自衛権

2018年1月19日 (金)

憲法9条が混迷した原因・・・本来、立法論で議論すべき問題なのに 議論を封印したから

大学時代の仲間が、全員古稀を迎えた区切りなので、
先月(2017年11月)一泊旅行してきました。

その際に、大学で経済法を教えている友人が、
何かしゃべれとおっしゃったので、

この機会に、
この30年近くヨーロッパについて考えてきたことをまとめて、
メモを皆さんにお配りしましたところ、

後日、メモの中の憲法9条論について、
友人よりメールを頂き、次のような返事を出しました。

数年来、
憲法9条について ブログにいろいろ書いてきたことを、
割と要領よく、簡潔にまとまった文章に仕上がったと思いますので、
ご参考までにご紹介させて頂きます。





     **********




1. 第1点は、

  憲法は、前文で、
  平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、
  国際紛争への武力行使や、戦力、交戦権を禁止していますが、

  ① 諸国民が、平和を愛さない、泥棒国家だったらどうするのか
    の規定が、,欠落しています。

  また
  ② 戦争が絶えることない現実世界に対して、
    どの様な方法で、
    憲法が希求する平和を愛する諸国民ばかりの世界を
    実現すべきか、についてのロードマップ(工程表)も
    提示していません。

  自衛隊の存在は、朝鮮戦争以来、
  慣習法が、
  憲法の欠缺を補って成長させてきたものであり、

  日本では希有な「慣習法の制定法改廃力」が行使されて
  「慣習法の自然治癒機能」が発揮された例だと思うのですが、

  この点について指摘される方が誰もいないのが、
  訝しく感じています。

   注)「慣習法の制定法改廃力」
      来栖三郎「法とフィクション 24㌻ 東大出版会

  法学部の大部分の講義は、
  実定法(制定法)についてですし、

  ヨーロッパ史歴史一般については、
  講義がありません。

  しかも、
  我々が高校生、大学生だった頃は、
  ヨーロッパ中世史の中で、一番重要なフランス史が、
  日本の西洋史学会で欠落していましたため

  フランス中世史が、
  我々が学んだ高校の世界史からも欠落していましたことにより

  ヨーロッパの歴史認識に対する不十分さ、
  そこから拠ってきたる慣習法への認識不足が、
  否めないことが、

  憲法9条の論議で、
  上記の議論が為されない一番の原因だろう
  と、思います。


2. 第2点

  「個人の正当防衛に相当する「国の自衛権」を否定した憲法が、
   制定された点についての議論が 欠落していることについて」

  来栖先生の「法とフィクション」によると、
  法の解釈について
  「立法者意思説」と「法律意思説」があるそうです。
  (学生時代、学んだのでしょうが、失念していました。)

  (来栖三郎「法とフィクション」25㌻ 東大出版会)

  田中耕太郎先生は、
  裁判長をされた砂川判決の補足意見で、

  「法律意思説」に従って、
  個人の正当防衛に相当する自衛権は、
  国際法でも認められた 独立国家が当然保持しているものであり、

  憲法の規定 や 立法者の意思 が どうであれ、
  我が国が自衛権を保持するのは、当然のことである、
  と、私には ちょっと乱暴と感じられる議論を 展開されています。

  私も、
  独立国家は、自衛権を、個別も、集団も 保持するのは、
  当然の権利である と、考えますが、

  アメリカが、
  このこと(自衛権は、独立国家固有の権利であること)を
  認識した上で、

  その自衛権を、
  我が国から剥奪するために、憲法9条を押しつけてきたこと
  について、

  独立を回復した日本として、どうあるべきか、について

  冷静な議論がない、
  もしは
  されてこなかったことが問題だ と、考えます。


  注)田中先生の「立法者の意思を無視して解釈すべき」
    との主張は、

    立法者が、
    わざわざ 自衛権 を 否定していたことについて、

    いくら法律意思説だといっても、
    否定しきれるものではないのでは?

    ちょっと、強引すぎるのではないだろうか?
    と、感じられます。

    これは、
    現在に至るまで引きずっている重大な問題であり、

    この点をちゃんと整理しないから、
    おかしな議論がまかり通っているのだろうと思います。



    小学生が読んでも、

    憲法は、日本に軍隊の保持や戦争を禁止していることは
    理解されるだろうと思います。


    しかし、
    憲法学者の大半が、自衛隊違憲論だとの話を聞くと、

    学者先生は、
    小学生並みの精神年齢しか持っていないのだなと、
    開いた口がふさがりません。

    憲法学者先生は、

    上記の第1点と第2点について、
    見解を表明する義務 が あるのでは ないでしょうか。


    即ち、

    ① 何故、
       誰が見ても 憲法9条が禁止する軍隊である 自衛隊 が、
      50年以上 厳然と存続してきたのか、

       単に、
      自民党政府が、強引だったらというのであれば、

       野党が、
       近年 自衛隊合憲説に変節した理由についての
       法的な議論 or 説明が 求められます


    ② 法の原則である正当防衛に相当する「自衛権」を、
       憲法9条が否定している点について、
      立法論的に どの様に考えるのか、 について、

      最低限、
      学者としての意見を表明すべきでしょう。


    ③ 更には、
       「慣習法の制定法改廃力」
      「慣習法の自然治癒能力」
       についての議論もあるのですが、

       これは、
      八百屋で、魚を求めるようなもの でしょうから、
       最初から回答して頂くのをあきらめています。

       しかし、
      まともな学者がおられたら、
      ご見解を拝聴したいものです。



  野党の 枝野さんや 福島さん は、

  ① 近年、自衛隊合憲論を唱えていますが
    何故、
    違憲論から 合憲論 に 変更されたのか、


  また、
  ② 個別的自衛権は認めて、
    集団的自衛権を認めない理由は何か、 について

    弁護士だったら、
    やくざな議論でない、ちゃんとした法的論理を
    展開すべきでは、と 考えるのは、

    私だけでは無い と、思います。



戦後、ドイツは、
敗戦になれていたせいか

基本法は制定しましたが、
憲法は、独立を回復してから制定すると行って拒否しました。


初めて戦争に負けた日本は、
まともに法律もしらない米軍の言いなりになって、

自衛権(正当防衛)を否定する 法の原則に反する憲法
を、制定して、

それを
70年間引きずって きています。



以上により

憲法9条については、
本来、
解釈論ではなく、立法論 を 議論をすべきなのに


外国の工作員 や、
反日指向 の 野党やマスコミの宣伝 に対して、

太平洋戦争の時に、
日本政府に 屠殺されまくったことに対するトラウマを
引きずった国民 が 支持したことにより、

憲法9条 という 奇妙な条文が、
70年間にわたって 存続してきた原因だろう
と、思います。



50年前は、

条文が変遷していないのに
「憲法の変遷」が議論され、

さすがにそれではまずいと思ったのか、
近年では

「解釈改憲」などという珍妙な言葉が、
恥ずかしげも無く 専門家の間で 跋扈しているのです。


注)田中先生が、
  乱暴な議論を砂川判決の補足意見で展開されたのは、

  当時、まともな法的議論をしたら、
  「又、戦争をしようとしているのか」との
  野党やマスコミの大合唱に

  国民が、賛同して 袋だたきにあうことが
  明白だったからだろう と、想像しています。

  ですから、
  田中先生が、意図された結果かどうか分かりませんが、

  とりあえず、
  最高裁の判決で、自衛隊の存在を認知させて、

  以後は、
  慣習法の 制定法改廃力、自然治癒能力 に
  委ねたのだろう と、想像しています。




憲法9条の問題は、
この10年以上にわたり ホームページやブログに
書いてきましたので、

私なりの整理と結論を出た問題ですが、


最近は、
ヨーロッパ文明の根幹に存在する「ウソ」について、
考えています。

20年前に、
星野先生の民法の講義で紹介された
末弘先生の「嘘の効用」が、
文庫で出版されたというので、読んでみたのですが、


今から思うと、表面をなぞっただけで、
先生の真髄に触れもしなかったな と、
自分の至らなさ、未熟さを反省しています。

当時、理解できなかったことが
今年の夏、

キリスト教 や 法学の本質を、
自分なりに整理した後 読んでみたら、

末弘先生が、
法学の本質についての 大変な問題意識 を 持たれてながら、
面白おかしく しかも 分かり易く 書いておられるな
と、感心しました。


また、
来栖先生の「法とフィクション」が、数年前に出版されたとき、

何で、法と小説 が 関係あるのだろうと、疑問に感じて
購入しなかったのですが、

熱海で、Mさんと話をしているうちに
来栖先生の「フィクション」とは、擬制(ウソ)のことでは
と、ひらめいて、

ひょっとして
私が知りたいこと(法学のウソ)について

先生の研究結果が書かれておられるのでは
と、期待して

いつもは購入してから数十年間、
本箱に放置する私にとって 超特急とも言うべき
早いタイミングで、読んでみたのです。

(但し、
 来栖先生の思考の経路を知りたかったため
 先生の本文だけを読んで、注釈は、飛ばしました)


こちらの問題も、
重要な問題だと思いますので、

よろしければ、
次のブログをお読み頂ければ幸いです。


   ウソ ; ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪


  第1回 キリスト教における「ウソ」
       1.キリスト教徒の言行不一致
         *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post.html


  第2回 キリスト教における「ウソ」
       2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-c914.html


  第3回 法学における「ウソ」
       1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて
       2.法学が避け得ない根本的な問題
         ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-d25f.html


  第4回 法学における「ウソ」
       3.リーガルマインド とは、
         事案の解決 を、法に拠るか、ウソに拠るか を
         適正に判別し、決定する センス、能力 である
         ・・・末弘厳太郎著「嘘の効用」抜き書き・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7325.html


  第5回 法学における「ウソ」
       ・・・法とは 何か?
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f196.html


  第6回 法学が 他の学問と異なる本質 を 有するものであること
       について
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4b7d.html





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2017年8月22日 (火)

ウソ;ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪       ・・・第3回 法学における「ウソ」             1.法学の本質は、「リーガルマインド」である         2.法学が避け得ない根本的な問題

第1回と第2回で、
キリスト教の「ウソ」についてお話しさせていただきましたが、

今回は、
キリスト教と並ぶ ヨーロッパ文明の根幹 である「法学のウソ」について
私の考えるところをご説明させていただきます。




   ウソ ; ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪


  第1回 キリスト教における「ウソ」
       1.キリスト教徒の言行不一致
         *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post.html


  第2回 キリスト教における「ウソ」
       2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-c914.html


  第3回 法学における「ウソ」
       1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて
       2.法学が避け得ない根本的な問題
         ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-d25f.html


  第4回 法学における「ウソ」
       3.リーガルマインド とは、
         事案の解決 を、法に拠るか、ウソに拠るか を
         適正に判別し、決定する センス、能力 である
         ・・・末弘厳太郎著「嘘の効用」抜き書き・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7325.html


  第5回 法学における「ウソ」
       ・・・法とは 何か?
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f196.html



  第6回 法学が 他の学問と異なる本質 を 有するものであることについて
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4b7d.html




     **********




第3回 法学における「ウソ」

1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて


民法の授業の最初の頃に、

先生が、
「争っているの当事者のどちらを勝たすか検討する場合、
 法律的な論理を積み上げて出た結論を、そのまま採用するのではなく、

 法的検討の結果を踏まえて、どちらを勝たせるか、考えなさい」
と、教えられ、びっくりしました。

では、
どちらを勝たすかについて 考える際の判断基準は何か、
との疑問に対しては、

先生は
「それは、君たちが民法を勉強する内に身につくものである」
と、おっしゃったのです。

要するに、
「法律(民法の解釈学)を勉強すれば、
 自ずから習得するもの、感得するものだ」
と、おっしゃるのです。


学問というものは、
論理を積み重ねて 結論に至るもの だし、

AならB、BならC、よってCならDである、
と、論理展開するものが、学問であり、科学である
と、当時 考えていましたので、

そうではなく、
「論理の積み重ねは、下調べみたいなもので、

 決定するのは、
 判断者の感覚であり、論理的な結果ではない」
と、おっしゃるのですから、ショックを受けました。


法学部と言えば、
「学問の蘊奥を極める」などと、
深遠なる知恵や知識の存在するところのように思わせておいて、

その実は、
チャランポランで、およそ学問や科学とは言えない代物ではないだろうか、

先生は、まじめにそれが正しいと考えておられるのだろうか?

と、大いに疑問に思ったのでした。


実は、
裁判も、同じように定められています。

憲法76条では、

 ① 全ての司法権は、裁判所に属する。
 ② 特別裁判所は、設置できない、
   行政機関は最終審として裁判できない

と 規定した後に

 ③ 全て裁判官は、その良心に従い、独立してその職権を行い、
   この憲法及び法律にのみ拘束される

と、規定しています。


宮沢先生のコンメンタールには、

「その良心に従い」とは、

他から指示に 拘束されることなく、自分の自主的な判断にのみ 従う
の意味であるとのことです。

裁判官は、
良心に従って、その職権を行使すべきだ、

との意味だそうです。


更に、少し詳しくご紹介すると、

 ① 裁判官の行動は、専ら法に従って行われるが、
   裁判官がその法を解釈する場合には、

   自分の自主的な判断に従うべきであり、
   他のいかなる指示にも従ってはならない。

 ② 「良心」とは、
   主観的な 宗教上、倫理上 又は 政治上 の 意見や信念
   を、意味するのではない。
   (以下略)

と、宮沢先生は、解釈されておられます。

  出所;宮沢俊義「日本国憲法」603㌻(日本評論社)


憲法の規定を受けて
民事裁判に於いては、民事訴訟法第247条 で、

 裁判所は、判決をするに当たり、
 口頭弁論の全趣旨及び証拠調べ の 結果を斟酌して、

 「自由な心証」により、
 事実についての主張 を 採用すべきか否か を 判断する。


同様に、
刑事裁判では、刑事訴訟法第318条で、

証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる

と規定されています。


要するに、
裁判官は、憲法及び法律 及び 自分の良心 に従って
事実を判定し、判決しなさいと規定しているのです。


民法での先生の教え と 裁判の規定 の
2つの例をご紹介しましたが、

ともに、
宮沢先生が記述されておられるとおり

法律の(規定の)解釈 及び 事実認定 を、
判定する人 の 判断 に 一任している のです。


要するに、裁判官は、

法律の定めには制約されるけれど、それ以外の制約はなく、
自分の考えに従って判決しなさい と、規定されているのです。

何故、
この様なことになっているのだろうか?。

法律は、
人間の活動全般について、事細かく規定しているのではないか?

だとしたら、
裁判の判決は、法律判断だけに従えばよいのでは?

当てにならない裁判官の判断などは、不要であり、
かえって法的安定性を阻害するのではは?

と、訝しく感じられる方が多いのだろうと思います。



この疑問に対しては、
法学及びヨーロッパの歴史を思い起こして頂くことが必要です。

法学は、
ローマ建国以来、約 3,000年に及ぶ歴史を経てきました。

19世紀初めに、
フランスで ナポレオンが民法典を作成するまでは、
法律とは、基本的に慣習法でした。

現在でも、
イギリスやアメリカでは、

民法典ではなく、慣習法(判例法)により運用している
と、50年前学校で学びました。


ですから、日本では、

実定法が、法律であり、
慣習法は、封建遺物であるかのごとく扱われ、

法学部でも、殆ど講義されませんが、


歴史を振り返ると、

実定法は、たった200年強の歴史か経過していなく、
法の歴史の9割以上の期間、法と言えば、慣習法だったのです。

  注;法学部で、慣習法が殆ど講義されないのは、

    明治時代に、従来の日本の法律からヨーロッパの法律に
    切り替わったことが、原因です。
    (日本におけるヨーロッパ法の継受)

    即ち、
    江戸時代までの法律と、現在日本の法律は、
    断絶しているのです。

    ですから、
    ここで申し上げている慣習法とは、ヨーロッパの慣習法であり、

    西洋法制史 と ローマ法 の授業 を、もっと重要視して拡充すべきでは、
    と、考えています。



しかも、

ヨーロッパやアメリカで、実定法が普及したのは、
フランスやドイツなどの大陸諸国であり、

イギリス及びアメリカは、
先ほど述べたように、民法典は、判例法(慣習法)に拠っているのです。



実定法と慣習法の関係は、
海上に浮かぶ氷山に例えることが できる と、思います。

氷山の海上部分が、実定法であり、
海面下で海上部分の氷山(実定法)を支えているのが、慣習法なのです。


氷山の海上部分である実定法が、

瑕疵があって、
しかも、
立法権により修復されない場合、

海面下の慣習法の自然治癒能力により、
実定法が改正されるまでの間、修復、維持されるのです。


この慣習法の機能は、
法律の性質上、ある意味必然の結果でした。

人間社会おいては、
時代を変遷するに連れて、規範意識は変わってくるものです。

ある時点で適当と考えられた規範が、
時代が進むにつれて、

技術の進歩により、
また、
社会的なコンセンサスの変化により、

不適当で変更せねばならない規範となることが、あり得るのです。

その意味で、
「不磨の大典」は、論理上あり得なず、
法は、時代と共に変遷するのです。

勿論、
現在の日本民法典や刑法典は、
3000年の歴史の風雪により 磨き上げられたエッセンス を
要約したものですから、


明治時代に制定されてから、

いろいろな点では、
時代の変化により、変更が施されていますが、

根幹は、
変更されずに現在にいてっています。


このような法律の性質から、

法を扱う法曹の皆さんに、
  A.実定法の正確な解釈ができる能力 と共に、

  B.慣習法が培ってきた法的思考の根幹、エッセンス を 理解、把握して、
    時代の変化に対応した法律解釈をする能力
が、求められていて、

この能力が、
「リーガルマインド」なのです。


逆説的な極論 を 申し上げますと、
個々のケース(事案) において、

その事案を、
リーガルマインドの観点から見た場合、

対象となっている法律が、
適当かどうか、の検討を踏まえた上で、

その法律を、
解釈せねばならないのです。


民法の先生が、
法的検討した後、どちらを勝たすかもう一度考えろ
と、おっしゃった理由も、

裁判官が、
法律と良心に従って裁判せねばならない
と、規定されていることも、

これが、理由なのです。

  注;但し、解釈の際に、
    法律の文言の定義を超えた解釈(逸脱した解釈)は許されません。

    従って、
    法学においては、解釈論と立法論の2種類が存在します。

    この法律を、解釈すると、こうなるが、(解釈論)
    これでは適当でないので、このような立法が必要だ との議論です。
    (立法論)

    即ち、
    解釈論では、言葉の定義による制約がありますが、
    立法論では、どの様な法律、条文が適当か、白地で検討できるのです。

    裁判官が、法律により制約される とは、
    裁判官ができるのは、解釈論であり、立法論は、禁じられている
    と、言い換えることができると思います。



リーガルマインドとは、

民法の先生がおっしゃったように、
民法を学ぶに従って身につけ、感得するものであるもであり

定義などできない、法的センス とも言うべきもの なのです


実定法は、大変な分量のものであり、
法律家といえども、全ての法律を読破している訳ではありません。

必要に応じて、実定法を読んで、
正確に解釈する技術を持っている方が、法律専門家なのです。

即ち、法律専門家は、

リーガルマインドを持っているが故に、
法律を正確に解釈できる能力を身につけた方のです。

また、
法学教育に於いて、リーガルマインドを身につけよと、
何度も繰り返して言われるのもこれが理由なのです。

従って、
法学の習得は、楽器の習得と同じく、
個人の才能によって差が出てくるのです。



では、
3000年の法律の歴史の結果のエッセンスであるリーガルマインドとは、
どのようなものなのでしょうか。


法学とは、
社会生活で生じる紛争を、つつがなく解決するための技術です。

言い換えると、
ある事件により生じたマイナスを、ゼロにするための規範 を、
定めたものです。

ですから、
関係者が納得できる解決であれば、目的を達成したことになります。

そのために必要とされるのは、

誰もが、
この解決方法だったら、仕方が無いな、
不満はあるけど、冷静に考えたらこのような方法しかないだろう

との コンセンサス を 得られる解決案 を、導き出す技術なのです。


この為に必要とされるものは、
その社会で共有されている共通の感覚でしょう。


英米法では、

法 は、コモン・ロー と呼ばれ、
日本では「普通法」と訳されてています。
コモン・センス(常識)のコモンです。

社会一般の誰もが持つ共通のセンスが、
コモン・センス(常識)であり、

コモン・センス(常識)により
法的技術を駆使して判例として積み重ねられ、

法規範となった判例法(慣習法)を
コモン・ロー と 呼ぶのだろうと思います。


個人的なことで恐縮ですが、

戦後、日響(現在のN響)のコンサートマスターは、
当時東大法学部の学生だった岩淵龍太郎さんでした。

父は、音楽学校(現在の芸大)出身でしたので、
あるとき、岩淵さんに

「東大の法学部は、何を教えるところですか」
と、質問したところ、

岩淵さんは
「日本で最高の常識を教えるところです」と、答えられた

と、子供のときに聞いたことを覚えています。


今から考えると、
岩淵さんのおっしゃった「常識」が、「リーガルマインド」だったのです。

即ち、
社会生活における どんな問題においても、
適正な結論、判断に導いて、つつがなく過ごすための感覚を、
「常識」と言いますが、

「リーガルマインド」は、
まさに、適正な紛争の解決を導くセンス、感覚なのです。

岩淵さんは、
その後、演奏活動が忙しくなって、東大を中退されたそうですが、

さすがに、きっちり勉強され、
法律とは何かを身につけておられたのだな と、尊敬しています。




2.法学が避け得ない根本的な問題
  ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・


実は、
今回お話ししたいことは、ここから始まります


法が、1.で述べたものであることが、
法が、避けることができない 根本問題を 生じさせるのです。


根本問題とは、2つあります。

① リーガルマインドに従って判断することになっているにかかわらず、
  他の邪念や政治的立場から、結論を導いていても、

  第三者には、分からないことです。

  これは、カルヴァンみたいに
  神と同一の考えを持つに至ったと確信している キリスト教の聖職者 が、
  「神のお考えである」と、言ったときに、

  本当に神のお考えに従った発言なのか、
  それとも、
  邪念や政治的立場からの発言なのか、

  本人以外の第三者には 分からないのと 同様なのです。


  要するに、
  法曹(法律専門家)や裁判官が「ウソ」をついても、

  第三者には、
  それが「ウソ」だと証明できないのです。


② 法曹(法律専門家)の意識の根底では、
  自分のリーガルマインドが、法律に優先すると考えておられることです。

  勿論、
  このようなことを公言する法曹の方は、おられません。

  でも、
  いろいろな局面での法曹の発言や判断から、
  そのような考えが根底にあるから、おっしゃっておられるのだな、
  と、感じられたことが、

  大学を出てから半世紀の間に、何度も経験してきましたので、
  私の確信となっています。


① リーガルマインドの「ウソ」

  リーガルマインドに基づいたかどうか、第三者には証明できませんので、
  私が最近疑念を持っている点について、お話しさせて頂きます。

  A.福井県の高浜原発の稼働再開について、
    何故、福井地裁でなく、大津地裁で争われるのだろうか。

    多分、提訴した弁護士さんは、
    大津地裁の裁判官だったら、要求通りの決定を下すであろう事を
    ご存じか、期待できると考えておられたからでしょう。

    普通の感覚なら、
    原発の所在する福井県の地裁に提訴するはずですし、

    便利を考えたら、
    わざわざ大津にしないで、京都地裁でも良いのでは?
    という気がします。

    大津地裁には、
    リーガルマインドによらず、
    政治的な見地から反政府的な判決をお出しになる裁判官が
    おられるのでは?との疑念を持っています。


  B.衆議院選挙の定数に関する違憲判決

    衆議院選挙や参議院選挙を実施される度に、
    違憲訴訟が提訴されますが、私がこのところで気になっているのは、

    最近の選挙で、
    広島高裁の岡山支部が、違憲判決を出されたことです。

    岡山の選挙区は、
    最高裁の基準では、違憲状態ではない のでは ないでしょうか。

    選挙は、全国全てに関わっているものですから、
    もし、岡山支部の判決が確定すれば、おかしな事になるのでは?
    という気がしています。

    このようなことが生じるのは、
    リーガルマインドに従わないで、政治的な見地から違憲判決を
    厭わない判事が、おられるからではないでしょうか。


  C.大阪地裁

    弁護士さんの仲間内の話として、

    反政府、反行政の性格を持つ事件の場合、
    東京地裁より大阪地裁にを提訴した方が、勝訴判決を採りやすい、
    というのが常識だそうです。

    そういえば、
    最近、大阪地裁で、朝鮮学校の無償化の裁判で、
    原告側勝訴の判決が出ました。


    大阪地裁がこのような傾向を持つのは、

    最高裁が、
    一カ所にそのような人を集めた方が、目が届きやすいので、
    大阪にそのような判事を意図的に配置しているのでは?

    と、辛辣に言う人 も います。


以上ご紹介した例は、全て確証がありません。
単に、私が不思議だなと思っているだけのことです。

でも、
全くあり得ないということもないのでは? という気がしていますので、
皆さんが、お考え頂く際の参考となればと思い、ご紹介させて頂きました。

あくまで「ご参考のため」ということを、ご承知おき下さい。



② 法曹(法律専門家)は、

  ご自身のリーガルマインドが、法(法律)より上位にあり、優先する
  と、確信していることについて。


  この点に関しては、
  憲法9条の論議で、あらわに出ていると思いますので、

  以前書かせて頂いた次のブログと重複しますが、
  簡単にご紹介させて頂きます。


   憲法9条論議の混迷は、法学の本質ーーリーガルマインドーーに
   由来するのでは???
   ・・・法学は、
      キリスト教神学同様 科学でないこと と、
      法律家は、リーガルマインドを 実定法より優先すると考えていること
      について・・・
      http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e8ca.html


  A.砂川判決の補足意見で、
    田中先生(当時の最高裁長官)は、次のように述べておられます。

      我々は、
      その解釈について 争いが存する 憲法9条2項をふくめて、
      同条全体 を、

      一方、
      前文に宣明されたところの、恒久平和 と 国際協調 の 理念からして、

      他方、
      国際社会の現状 ならびに 将来の動向を 洞察して
      解釈しなければならない。


      字句に拘泥しないところの、
      すなわち、
      立法者が 当初持つていた 心理的意思でなく、

      その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、
      あらゆる法の解釈に 共通な原理として
      一般的に認められているところ である。

      そして、
      このことは、とくに憲法の解釈に関して 強調されなければならない。


    先ほど述べたように、法学概論の授業で、 

    法の解釈では、立法論と解釈論があり、

    解釈論は、
    法の条文の定義を超えて(逸脱して)解釈することは できず、
 
    もし、その法(法律)が不適当であるなら、
    立法論 で 議論すべきである と、

    田中先生のおっしゃる目的論的解釈方法の前に、
    講義されるのです。


    ですから、
    立法者の当初持っていた心理的意志を無視して、
    自分の解釈で行うべきだと言うことは、

    法(法律)の解釈としては、邪道であり、

    もし、
    このような議論を法学部の学生が答案で書いたら、
    多分、「不可」即ち「落第」と判定されるでしょう。


    以前書かせていただいたように、

    田中先生は、

    当時の社会情勢、世論を踏まえて
    最高裁長官として、国家の存亡にかかわる事態を防がねば
    と、お考えになって、非常の手段に出られたのであり、

    その後の砂川判決が果たした役割を勘案すると、
    先生の業績は、高く評価されるべきものと、考えています。


  B.野党で護憲派の福島さんや枝野さんも、

    同様に、
    ご自身のリーガルマインドが、憲法9条より優先する
    と、お考えになっておられます。

    ニュースを拝見していると、
    お二人とも、

    A.個別的自衛権は、合憲だが、
      集団的自衛権は、違憲である。

    B.個別的自衛権の行使のための自衛隊は、合憲である

    と、おっしゃっておられるような気がしています。


    憲法9条は、

    交戦権を否定し、陸海空軍その他の戦力を保持しない
    と、明確に規定しています。

    お二人は、
    自衛隊は、陸海空軍その他の戦力ではない
    と、おっしゃるのでしょうか。

    以前、
    警察ご出身の後藤田さんが、日経新聞の「私の履歴書」で、

    自衛隊が創設された頃、
    「自衛隊は、警察か?」と、聞かれたときに
    「自衛隊は、軍隊である」と、明言していた、

    と、書かれておられました。


    誰が見ても、
    自衛隊は、外国の軍隊と戦うための組織であり、
    軍隊である と、思いますが、

    お二人には、
    別の見解をお持ちなのでしょうか。

    それなら、
    その理由を、国会で明確にすべきでは?と、思うのは、
    私だけではないでしょう。


    お二人のお考えを 推測しますと、
    お二人とも弁護士で、法律専門家ですから、

    さすがに、
    国家の正当防衛にあたる自衛権を否定できないのでしょう。

    ですから、
    憲法9条の条文に何が書いてあっても、

    お二人のリーガルマインドにより、
    法の 基本原則、真理 である 正当防衛 が、優先する
    と、お考えになっておられる のでは ないでしょうか。

    だとしたら、
    法律(憲法)の規定より、
    ご自身のリーガルマインドを、優先させておられるのです。


    ただ、
    お二人が、中途半端なのは、

    自衛権には、
    個別と集団 との 2つ が ありますので、

    その一方だけを 合憲だとされるのは、
    論理的におかしいのでは?

    と、いうことです。


    突然 理由もなく
    暴漢に、殺されようになったとき、

    単独で、防戦するのも、
    隣にいる友人と共同で、防戦するのも、

    どちらも正当防衛として認められるのではないでしょうか。


    国家の場合も同様で、
    自衛権(国の正当防衛)が 認められるなら、

    個別の自衛権 も、
    集団の自衛権 も、
    同列に 扱われるもの なのです。


    以上を勘案すると、
    政治的に、自民党の政策に反対するために
    憲法9条の護憲 を 主張されながら、

    法律専門家(弁護士)故に、
    お二人のリーガルマインドが原因で、

    護憲の主張 を、貫徹することができず、
    中途半端で 論理的には破綻した主張 を、されておられる のでは?
    と、推察しています。



③ 憲法9条解釈における 憲法学者のウソ

  憲法9条の論議に於いて、一番問題だと感じているのは、
  憲法学者の怠慢ともいえる態度であり、

  9割を占めると報道されている 護憲派憲法学者は「ウソ」をついている
  と、言っても良いレベルに達しているのでは?
  と、感じています。

  小学生でも、
    軍隊は持ってはいけない、
    交戦権は認めていない

  と、いうことは、
  読めば理解できますので、

  彼らは、小学生の知的レベルでしかないのでは、
  と、感じられるくらいです。

  私も、小学生のとき、憲法を教わった際に、

  自衛隊は、
  明確に憲法に反しているのに(違憲なのに)、
  何故、存在しているのだろうか?

  との疑問を 持ちました。


  戦後 アメリカが、
  日本軍は、兵隊は優秀だったが、将校は無能だった
  と、評価しましたが、

  護憲派憲法学者は、
  まさに、
  アメリカが批判した 日本軍の将校に、相当するのではないでしょうか。


  憲法学者として、議論すべきは、

  憲法9条が、
  アメリカが、日本を 未来永劫 無防備の国家に貶めておこう
  と、意図して、無理矢理 制定させた経緯から、

  法の普遍的原理、法の真理 である、
  国家の正当防衛の権利まで 剥奪している事に対して、どの様に考えるか

  を、議論することではないでしょうか。


  アメリカが、無理矢理押しつけたから、改憲せねばならない
  と、言っているのではありません。

  法学を学んだ者として、
  更には、
  生涯の専門とされておられる学者として、

  憲法9条が、

  政治的ではなく、
  法的に、どの様な評価をされるもの なのか、
  について、正面から 正直に議論すべきでは?

  と、申し上げているのです。


  個人も,国家も
  正当防衛 は、

  何人(なんびと)も、剥奪できないし、
  どんな国でも、認められている権利ではないでしょうか。

  このことは、
  少しでも法律を学んだ者なら、

    自明の理 であり、
    法の真理 である

  と、確信しているはずではないでしょうか。

  自明の理であるものに対して 反対 を 主張する人 は、

   何か含むところ、
   憲法9条の場合は、政治的な意図
  を持って 発言している人であり、

  政治家ならともかく

  法律家としては、
  「ウソ」をついている人だろう と、感じられます。


  まじめに、リーガルマインドに従って考えれば、
  法律の真理に反する護憲の主張は、できなくなるはずです。

  先ほどご紹介した、
  社民党の福島さんや 民進党の枝野さんでさえ、

  政治的な場に於いて、
  個別的自衛権 を、認めざるを得ないのです。

  言い換えると、
  お二人でさえ、正当防衛を否定できないのです。


  外国が、日本を侵略してきたとき、

  憲法は、

  交戦権を 認めていませんし、
  軍隊も 認めていませんので、

  憲法の従えば、
  日本は、簡単に占領されるでしょう。


  日本政府は、

  米国と安全保障条約を締結して、
  アメリカを 用心棒様に(半傭兵様として)雇っていますが、

  アメリカは、

  所詮、他人であるどころか、
  この前、日本と4年間も戦った相手ですので、

  とことん信用できる という訳には いかないでしょう。


  アメリカも、日本と同様に 独立国家ですので、
  アメリカの国益 から見て、

  日本を 防衛するよりも、
  侵略国に 日本を占領させた方がメリットがある

  と、判断すれば、

  わざわざ
  アメリカ人の血を流してまで、日本のために戦うことはないのでは?
  ということも、考えておかねばなりません。

  更に、
  将来、中国系のアメリカ大統領が出現したら、

  中国は、
  アメリカは日本を応援しないと見込んで
  沖縄、更には日本を占領しようと
  戦争を仕掛けて来るかもしれません。

  その際に、
  アメリカが、どの様な態度を取られるのか は、
  容易に推測できるのでは ないでしょうか。



  野党や護憲派の憲法学者の皆さんに、
  厳しい批判をさせて頂きましたが、

  政府や改憲派憲法学者の皆さんに対しても、
  「怠慢だな」 と、感じています。


  というのは、
  憲法の欠陥を自覚されておられながら、

  それを、
  正面から国民に説明しないことです。


  先ほどご紹介した
  田中先生の砂川判決の補足意見の根底には、

  先ほどお話しした
  法で 当然認められた 正当防衛の権利 は、
  何人(なんびと)といえども 奪うことができない
  との原則 を、

  少々乱暴な言い方で おっしゃっておられることが
  あるのです。


  当時は、
  今申し上げた事(田中先生の本音)を、直裁に主張しても、

  「又、戦争を始めるつもりなのだな」と、
  火に油を注いで、袋だたきにあることが、目に見えていたので、

  正面からおっしゃらなかったのだろう と、思います。


  でも、
  戦後70年を過ぎた現在に至って 漸く、

  このことに対して冷静な議論ができる土壌ができてきた
  と、思いますので、

  政府、自民党におかれましては、
  真正面から 国民 に、

  A.無防備国家 で、良いのですか、
  B.外国が侵略してくることに 備えなえないで よろしいのですか、

  C.自衛権とは、
    個人でも認められた 正当防衛 を、国家レベルで言う言葉 であり、

    個人と同様に、国家でも、
    正当防衛、即ち 自衛権 が、認められているのですよ、

  ということを説明して、

  国民のコンセンサスを醸成して、
  憲法9条を改正されることをを切に願っています。


  (注) 元弁護士の家内から、

      憲法制定した議会で、憲法9条第2項に、
      「前項の目的を達成するため」との文言を追加したことにより、

      私の解釈と異なる解釈が成立するので、
      法律専門家は、別の解釈をしている と、強烈な批判を受けました。

      私の意見は、
      家内の主張する解釈(以下「この解釈」と略します)を踏まえて、
      ご紹介しているのですが、

      この解釈について、
      今までにも お話ししたことがありますが、
      ここで、少し詳しく 繰り返して お話しさせて頂きます。


      この解釈は、
      「法律家特有の詭弁、ウソ」である と、考えています。

      ウソとは、
      「事実でないものを、事実だ と言って、人を騙すこと」
      ですが、

      この解釈は、
      まさに ウソの定義通りのもの です。

      即ち、
      言行不一致なのです。


      竹島は、
      韓国に不法占拠されて以来、半世紀以上経過していますし、

      北朝鮮は、
      我が国に侵入して、日本人を拉致誘拐して主権を侵害しています。

      最近では、
      中国がドローンにより領海侵犯を繰り返しています。


      これに対して、
      日本政府は、何をしたというのでしょうか。

      自衛権を保持しているなら、
      主権を侵害されたら、侵害を排除するのが

      独立国として、主権を守ることのはずです。

      何故、
      竹島を、実力行使して 奪回しないのでしょうか。
      (石原元知事によると、
       海上保安庁の船が竹島に近づくと、韓国は、砲撃してくるそうです。)

      何故、
      北朝鮮に拉致誘拐された日本人を、
            実力行使して、取り戻さないのでしょうか。

             何故、
      領海侵入した中国のドローンを打ち落とさないのでしょうか。

      ドローンに対して何もしなければ、

      中国は、
      次には、船舶や飛行機による領海侵犯、
      更には、尖閣上陸の行動に及ぶのではないでしょうか。

      そのときも、
      指をくわえて、眺めているだけなのでしょうか。

      もし、そうなったら反撃する と、おっしゃるなら、

      船舶や飛行機の領海侵犯と、
      ドローンによる領海侵犯との法的な差異は、どこにあるのでしょうか。

      中国の領海に、日本が領海侵犯した場合の中国の対処と
      日本政府が、同じ対処をしなければ、

      日本政府は、
      日本国 を 貶めていることになります。


      日本政府が、自衛権を行使しないのは、

      憲法第9条第1項
      「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
       国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、

       国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
      との規定に阻まれて、

      指をくわえて、眺めているからではないでしょうか。


      口では、
      自衛権を保持している と、言いながら、

      実際には、
      自衛権を行使していないのです。

      即ち、
      言っていること と、
      やっていること が、異なっているのです


      言い換えると、

      砂川判決以来
      やる気が無いのに、ウソをついて 国民を騙している のです。

      (この選択(ウソ)を、
       以下に述べる事情により 国民が根強く支持して
       喜んでウソに騙されてきたことも、事実です。)





何度も、このブログで書いてきましたことを
この項の最後に、一言 付け加えさせて頂きます。


憲法は、

前文で、周辺諸国が平和を愛好する良い国だと、
勝手に妄想して、軍隊も交戦権も放棄しているのです。

本来なら、

周辺諸国が悪い国、侵略国だったら、どうするのか
を、規定しておかねばならないのに、

それが欠落しているのです。

また、
戦争のない世界を築くのに、

日本がどの様な行動をすべきか、
どの様な努力をすべきか、

についても、規定していません。、


ここで思い起こして頂きたいのは、

最初に述べた、
慣習法が実定法を支えていると言うことです。

ソ連(現ロシア)は、
北方4島(本当は千島列島)を不法占拠し、

韓国は、
竹島を不法占拠しています。

中国も、
尖閣諸島のみならず、沖縄を日本より掠奪しようと、
公然と工作活動を、日本国内でも行っています。

このように、
周辺諸国が、悪い国、侵略国だらけなので、

慣習法が、
実定法の欠陥を埋めて、自然治癒機能を発揮してきたのが、

自衛隊の歴史であり、
今回の安保法制であると、考えます。

ですから、

憲法9条は、

法規範として、
法の真理に反する規定であることに加えて、

その存在が、
日本国の存亡の危機に貶めかねない規定であるため、

改憲すべきであるのに、


この前の戦争で、

日本政府が、日本国民 を 屠殺しまくって、
国民に、トラウマを植え付けたために、改憲できなかったのです。


野党や護憲派憲法学者が、
国民のこのトラウマを利用して、

日本を貶め、
周辺諸国の侵略に資するために、

活動してきているのです。


従って、
憲法9条を 正面から改正すべきだと考えていますが、

その際に

戦争のない平和な世界を希求するのが、
日本の使命であり、目指す道 で ありますので、

単に、
「日本国は、自衛権、軍隊 を保持する」
と、書き直すのではなく、

現行の平和憲法の理念を、

 どの様に 実現するか、
 どの様に 努力するのか

できるだけ 具体的に 記述した上で、

その理念が 実現できるまでの間、
現実的な対処として、

我が国も、
他の国と同様に、自衛権、軍隊を保有する

との趣旨の規定にして頂ければ
と、願っています。


このように規定することが、

  世界で最初に、軍隊と戦争を放棄したことによる歴史的使命を
  忠実に希求する 我が国 の「あるべき姿」だ

と、確信しています。


ちょっと熱が入って、脱線気味になったことをお詫びします。

以上お話ししたことは、

長年ヨーロッパ中世史の本を読んだ結果、生み出された思考であり、
法律専門家の皆さんとは、異なる視点も含まれているのでは?

と、考えましたので、敢えて 書かせて頂きました。




3.法律家、とりわけ裁判官 の「ウソ」への 裁判制度上の対策

裁判に於いて、
法律家が「ウソ」をつき放題で、
何ら対策を打たれていない という訳ではありません。

以前、
ある裁判官が世間を騒がしたときに

「民間会社だったら、何をするか分からない社員がいたら、
 倉庫番とか、全く会社活動に被害を及ぼさない所に
 配置するのだろうけど、

 裁判官は、
 裁判官として任官させたからには、
 どこかで裁判をさせなければならないのが、頭痛の種です。」

と、裁判官出身の弁護士さんの嘆きを、お聞きしたことがあります。


ですから、
公言されている訳ではありませんが、

裁判官が、

リーガルマインドではなく、
邪念や政治信条から判決を書くことがあるべし、
との前提で、

裁判制度 が、作られているのだな と、思います。


裁判官の中には、

共産党の青法協に所属する裁判官や、
外国系の裁判官
(法的には日本人であっても、
 日本のためでなく外国のために裁判しようと考えている裁判官)
もおられますので、

そのような方の存在を前提に、考えられているのだな、
と、感心しています。


私が見るところ、

裁判制度は、
次の2つの対策 が 講じられていると思います。

即ち、

① 三審制

② 刑事裁判 は、

  真実の発見の場ではなく、
  社会が受けた傷に対して妥当な解決を図る場、
  社会が受けた傷を、癒やす場 であること。



① 三審制

  ある裁判官が、

  良心(リーガルマインド)ではなく、
  邪念や政治信条により判決しても、

  上級審で、否定すれば、
  一時的に、悪影響が生じたとしても、
  最終的には、悪影響を避けられることができます。


  従って、地裁の判決を、
  高裁、最高裁と、2回審理して決定することにしたのでしょう。

  三審制の目的は、他にもあると思いますが、

  良心によらない判決がされても、
  確定判決として効力を持つことを避けることも、

  表面的には語られない 目的の一つだろうと、想像しています。


② 刑事裁判は、
  真実の発見の場ではなく、社会が受けた傷を癒やす場であること


  私は、10年くらい前迄まで、

  刑事裁判は、
  真犯人であることを確認した上で、量刑を決定する場である、

  言い換えると、
  真実を発見する場である、と考えていました。


  家内の父が、刑事裁判官でしたので、
  日頃、裁判に於いて事実認定に心血を注いでいたことを知っていましたし、

  義父の刑事裁判官として生涯のプライドは、
  若いときに起案した判決における事実認定が、
  高裁、最高裁においても 覆られなかったことです。

  ですから、
  刑事裁判は、真実を発見する場であると、確信し続けてきました。


  ところが、10年ほど前、

  誰もが有罪判決だろう と思っていた裁判 で、
  無罪判決を出された裁判官に、お話を伺ったら、

  法廷外の週刊誌などの報道を無視して、
  法廷に出された事実だけで検討せねばならない
  とのルールに従ったら、有罪とならなかった

  と、おっしゃったので、びっくりしました。


  私は、
  内心、納得できなかったので、

  「その被告人は、悪い人では?」とお聞きしたら、
  「彼ぐらいの悪い人間(ワル)はいない。」と、回答されましたので

  更に、びっくりしました。

  それ以上は、お聞きしませんでしたが、

  多分、その裁判官も、

  個人的には、犯人では?と、感じられて おられながら、
  ルールに従って 厳密に事実認定したら、
  無罪判決との結論になったのだろうな、

  と、想像しています。


  この経験が、

  裁判 は、真実の発見の場ではない、
  と、考える きっかけ と なったのです。


  法廷に出される事実は、誰が出すのでしょうか。

  当たり前ですが、
  刑事裁判においては、検事と弁護士でしょう。

  現代の裁判は、
  ヨーロッパ中世の異端審問 や 江戸時代の大岡裁き とは
  異なりますので

  裁判官は、
  自分で取り調べすることができず、

  双方から出された証拠だけで 判断せねばならない のです。


  検事や弁護士は、
  どんな証拠を出すかについて、裁量権、決定権があります。

  ですから、
  A.それぞれに都合の悪い事実は、出さないこともあり得る、

  B.言わないことで、裁判官が誤認することがあっても、
    それが、自分に都合が良ければ、黙っていることもあり得る、

  ということを、否定できません。


  これは、
  全ての真実が、法廷に出されないこともあり得る
  と、いうことです。


  更に、
  真実を追究して、確認、確定できなければ、罰しない
  となると、

  殺されたり、傷害を負わされた
  刑事裁判に登場しない被害者 の 人権や立場 は、どうなるでしょうか。


  A.真犯人でなければ、罰してはいけない
    と共に、

  B.被害者の人権を救済するため にも

  刑事裁判があるはずです。


  更には、

  その時代の科学的技術、知見では、
  どうしても解明できない場合、どうするのか

  という問題 が あります。

  例えば、
  現代では、DNA鑑定で、
  ほぼ100%、被告人が犯人かどうか、判定できるようになったと思いますが、

  一昔前には、
  DNA鑑定により、かえって間違えてしまうこともあり得ました。


  私が思い出すのは、刑法の講義を受けた際に、

  弘前大学の事件で、

  法医学の教授の、9割の確率で、犯人であろう、との鑑定に基づいて、
  有罪判決が出されたこと に対して、

  団藤先生が、首をかしげて 躊躇しながら

  「9割の確率があったら、有罪判決もやむを得ないと考える」
  と、講義されたことです。


  それをお聞きして、

  10%も誤判の可能性があるなら、
  「疑わしきは罰せず」の原則があるのだから、

  有罪判決 を 出してはいけないのでは?
  ちょっと先生 は、乱暴すぎるのでは?
  と、内心憤慨しました。

  しかも、
  大学卒業後 大分経って、時効が成立してから、
  真犯人が、名乗り出たこと を ニュースで知って、

  「案の定だな」と、内心つぶやいていました。


  でも、
  今から考えると、当たり前のことですが、

  団藤先生は、
  刑事裁判の性格や、その限界、を熟知された上で、
  判断されたおられたのだな

  と、改めて尊敬しています。


  当時の鑑定技術では、
  100%の鑑定は、不可能だったのでしょう。

  裁判官は、
  不完全な鑑定に基づいて、
  被告人と被害者の両方を勘案しながら、

  判断せねば ならなかった、
  決断 を 迫られていたのだろう

  と、思います。


  ちょっとでも不確かなことがあれば、有罪としない
  と、すれば、

  誤判は、避けられるでしょうが、
  真犯人を放任して、社会に不安を広めることことにもなりかねません。


  このように考えると、
  刑事裁判 は、

  真実を発見する場ではなく、
  社会の傷を修復する場であることを 意味していることだろう

  と、思います。


  更には、
  法廷に出た事実は、厳密の検証できますので、

  良心(リーガルマインド)に従った判決かどうか、
  第三者である上級審でも検証できることになります。

続きを読む "ウソ;ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪       ・・・第3回 法学における「ウソ」             1.法学の本質は、「リーガルマインド」である         2.法学が避け得ない根本的な問題"

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2015年7月21日 (火)

憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?・・・最近の憲法論議は、憲法9条が規定していない事態への対処の議論なのでは?

憲法9条の議論について、
少しずつ認識を深めて、幾つかのブログを書かせて頂きました。

本ブログも、その一里塚ですが、
長文であるために、

異例ではありますが、申し上げたいことを
本文の前に箇条書きさせて頂きます。

(2016年5月10日 追記)


< 本ブログの主旨 >


1.憲法9条 が、規定しているもの

  平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、
  軍隊などの戦力の放棄、交戦権を禁止している。

  従い、
  自衛隊 は、
  違憲の存在である 軍隊 であり、

  交戦権が禁止されている以上、
  個別的自衛権の行使 も、違憲である。


2.憲法9条が、規定していないもの
  ・・・憲法9条 の 空白、瑕疵・・・


  ① 諸国民、とりわけ周辺諸国が、
    公正でなく、信義に悖る国家である場合

    対処の規定 が、欠落していて、
    憲法9条には、規定の空白が存在する。

  ② 憲法9条が規定する理念を実現するための
     方策、方法論
について 規定が 欠落している


3.今回の安保法案の議論の本質

  上記2.の 憲法9条の空白 を 埋めるもの である。

  このことは、
  護憲派野党 でさえ、

  憲法9条が明白に禁止、放棄している
  自衛隊と個別的自衛権 を、合憲 と 解釈していることからも、
  明かである。


4.今回の安保法案が生じた事情

  憲法9条は、

  諸国民が、平和を愛好し、公正且つ信義に足ると
  検証抜きに 勝手に決めつけて、

  高らかに軍隊と戦争を放棄する
  と、宣言したが、


  その後の推移 は、

  諸国民、

  とりわけ
  周辺諸国(中国、韓国、北朝鮮)が、

  憲法が、前提とした
  公正で信義に足る存在でない どころか、

  憲法9条の存在を奇貨として
  わが国領土への侵略の意思を露わにする との

  憲法9条が規定している外の事態 が、生じたために、

  憲法9条の空白を埋める法律の制定の必要が生じた
  と、考えるべきだろう。


  これは、
  改憲による 憲法の空白を埋める方策 を 阻止している
  国民感情、政治状況 に 対処して

  法律(自然法、慣習法)が、
  法律自体に備わっている 空白を埋める 自然治癒力 が 発動して
  (自然法、慣習法 の 自律的状況対処能力)

  半世紀以上にわたって
  慣習法の憲法 が 生成してきている

  と、言うべきものであろう。


5.筆者の願い

  ① 憲法に欠陥、空白があるなら、
     空白について憲法論議を深めて、

     空白を埋めるために どう改憲すべきかを 正面から議論して
     国会としての本来的な機能を果たして頂きたいと願っている。 

  ② 憲法9条の理想は、
     いつの日にか、歴史が必ず実現する 崇高な理念 である。

     日本人が、他国に先駆けて
     20世紀半ばに、永久平和の理念を憲法に明記したことは、

     フランスの人権宣言、
     アメリカの独立宣言 に、匹敵する
     歴史上の金字塔とも言えるもの であると、同時に、

     この理念を、
     実現するべく努力が、未来永劫課されている  と、
     日本人一人一人が、深く認識し、銘記すべきである。


     従って、
     改憲論議の際に、

     周辺国家の目先の侵略だけに目を奪われて
     憲法9条の理念を削除すべきではなく、

     憲法の理念 を 実現するためには、どうすべきか、
     との発想により

     憲法の改正を 検討すべきであろう。 






以下に、
本ブログの本文を記載します。




国会の論戦について聞こえてくること を
おおざっぱに整理すると、

与野党ともに、
「個別的自衛権と自衛隊は合憲」だとして、異論がなく、

「集団的自衛権」について、

与党(自民党・公明党)は、合憲、
野党は、違憲

と、主張が別れているように感じています。


しかし、
憲法9条を、素直に読むと、

自衛権(個別、集団の両方) も、
自衛隊 も、

違憲では?としか
読めないのではという気がしますし、


もし、
個別的自衛権 が 合憲だとすると、

何故、
個別的自衛権を発動して、
竹島や北朝鮮に誘拐された人々を
取り返しに行かないのでしょうか?

何故、
尖閣や小笠原の領海侵犯する中国船を、
実力で排除しないのでしょうか?

更には、
長年にわたって、外国より、

領土が侵犯され、
国民が誘拐されているのに、

何故、
自衛権の発動についての具体的な議論 が、
国会でなされないのでしょうか?


との疑問が湧いて来る と、同時に、

最後の論点は、
国会や内閣 の 怠慢であり、
義務違反、国民への背信行為 では?

との 根源的な怒りさえ 含んだ 疑問 が 生じてきます。



今回は、
この辺の謎を考えてみたいと思います。




憲法は、

憲法前文で

「平和を愛する 諸国民の公正と信義に信頼して、
 われらの安全と生存 を 保持しようと決意した」

と、表明した上で、


憲法第9条 (戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)で、

 1.日本国民は、
   正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、

   国権の発動たる戦争 と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


 2.前項の目的を達するため、

   陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。

と、定めています。




わが国の憲法を、素直に読むと、

「わが国の存立を考えたら、ここまで思い切って良いのかな?」
と、思われるほど、極端なことを書いています。


即ち、

近隣の皆さんを信頼してますから、
紛争が起こって、
近隣の皆さんが、わが国に攻めてきても、

わが国は、
反撃のための戦争は、勿論、

武力を見せつけて、
皆さんを屈服させることもしませんし、

そのための 軍隊及び軍隊類似の武力も、
日頃から保有しません、

と、宣言した上で、

わが国に、
交戦権、

即ち、
外国との戦闘行為 を 禁止する

と、書いてあるとしか、理解できません。


言い換えると、

皆さんが、
わが国を攻めてきても、

わが国は、
反撃や抵抗も しないし、

どうぞ、
好き勝手に占領して下さって結構です。

何故、
このようなことを 言うかというと、

近隣の皆さんは、
そんなことをする人ではないと、
皆さんの信義を信頼し、信じているからです。

と、規定している と 読めます。


だとすると、
憲法の規定が、この様なのに、

与野党とも、
「個別的自衛権」「自衛隊」は、合憲だとしている根拠は、
どこにあるのでしょうか?


「個別的自衛権」とは、

わが国が攻撃されたら、反撃する権利
ということですし、

「自衛隊」は、
外国の攻撃に対して反撃するための組織ですから,

両方とも、
憲法9条と正面から衝突すのではないでしょうか。


従って、
憲法を素直に読むと、

「個別的自衛権」も
「自衛隊」も、

憲法9条で、禁止されている としか
読めないのではないでしょうか。

どう読めば、
合憲だと言えるのでしょうか?


憲法学者の宮沢先生も、
先生の憲法のコンメンタール(憲法の逐条解説)で、

「自衛戦争の名目で 侵略戦争が、
 行われてきたことがあるので、

 日本国憲法は、自衛戦争をも禁止している」

と、記述されおられます。


宮沢先生の学説は、
通説ではなかったのではないでしょうか?

いつから、
宮沢先生の説が否定されるようになったのでしょうか?

また、
その理由は、何なのでしょうか?


実は、
小学校で憲法の話を聞いて以来、

「自衛隊」が、
 どうして、憲法上、認められるのかな?
 軍隊ではないとしても、その他の戦力では?

ということが、
常に、私の頭の片隅に存在する 疑問、謎の一つでした。



与党(自民党、公明党)は、

個別的自衛権のみならず、集団的自衛権も

即ち、
自衛権全部 を、合憲だと主張し、
法案を提出されておられます。

そして、
最高裁の砂川判決 を 根拠として あげておられます。



砂川判決は、

「かくのごとく、同条(憲法第9条)は、

 同条に、

 いわゆる戦争を放棄し、
 いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、

 しかし、もちろん
 これによりわが国が、主権国として持つ固有の自衛権は、
 何ら否定されたものではなく、

 わが憲法の平和主義は、
 決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。


 憲法前文にも明らかのように、

 われら日本国民は、
 平和と維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、

 地上から永遠に除去しようとつとめている
 国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、

 全世界の国民と共に、

 ひとしく恐怖と欠乏から免れ、
 平和のうちに生存する権利を有することを

 確認するのである。


 しからば、

 わが国が、
 自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために
 必要な自衛のための措置をとりうることは、

 国家固有の権能の行使として、
 当然のことといわなければならない。

 (以下略)」

と、判示されておられます。


この判決を読んで、

特に、
「主権国として持つ固有の自衛権は、
 何ら否定されたものではなく、

 わが憲法の平和主義は、
 決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」
との文章は、

最高裁が、
憲法を無視して、自分で判断しますよ

と、おっしゃっておられるのでは、
と、感じられ、吃驚してしまいました。


当時の最高裁長官で、砂川判決の裁判長をされた
田中先生の補足意見を読んで、

先生のお考え、

ひいては、
砂川判決の本当の狙いが、

理解できたような気がしています。


田中先生は、
「我々は、
 その解釈について争いが存する憲法九条二項をふくめて、
 同条全体を、

 一方、
 前文に宣明されたところの
 恒久平和と国際協調の理念からして、

 他方、
 国際社会の現状並びに将来の動向を洞察して、
 解釈しなければならない。

 字句に拘泥しないところの、

 すなわち、

 立法者が、当初持っていた心理的意思ではなく、
 その合理的意思にもとづくところの 目的論的解釈方法 は、

 あらゆる法の解釈に共通な原理として、
 一般的に認められているところである。

 そして、このことは、
 特に、憲法の解釈に関して、強調されなければならない。」

と、補足意見を述べておられます。

この補足意見については、前回お話ししていますので、
詳細はそちらをご覧下さい。

  砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html



田中先生がご指摘のように、

憲法九条を、
憲法前文の趣旨も踏まえて、解釈すべきだということは、
その通りですが、

目的論的解釈方法は、
条文に書いてあることの解釈、
即ち
説明ですから、

白を 黒と 言うことは、できないはず です。


憲法九条は、

明確に、
わが国の交戦権を禁止してますので、

外国が日本に攻め込んできても、
わが国が、
反撃して戦争することはできないのです。

別の言い方をすると、
「自衛権」を 禁止しているのです。


砂川判決は、
法律家の常識に従って、

主権国家が、
自衛権を持つのは当たり前である との前提に立って、

「主権国として持つ固有の自衛権は、
 何ら否定されたものではなく、

 わが憲法の平和主義は、
 決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」

と、おっしゃっておられるのですが、


わが国憲法は、
「主権」を 奪われた状況下において、

連合軍、
具体的には、米国から、
押しつけられた憲法であり、

わが国に、
未来永劫「自衛権を認めない」との前提 に 立っていて、

砂川判決とは、
議論の根本たる前提 が、異なっているのです。、



憲法制定当時、米国は、日本を、

永久に
無防備国家、軍事的抵抗力を持たない国家に 貶めおこう
として、憲法9条を押しつけてきたのです。


法律家の常識では、

自分の身を守ること、

即ち、
自衛権は、

常識であり、
当然の権利として認められているのです。


ところが、米国は、

終戦後の日本に対して、この自衛権を認めず、、

しかも、
米国ではなく、

わが国自らが、
自衛権の放棄を宣言する形の憲法 を 押しつけて、

永久に、
わが国を無防備国家に貶めておこうとしたのです。


そして、
わが国を、無防備国家のままに貶める憲法9条は、

わが国が主権を回復しても、改正されずに、
現在まで、厳然と存続し続けているのです。


ですから、法律論としては、

主権を奪われていたときに制定した憲法が、
主権回復後の憲法として不適当であるならば、


砂川判決のように、

憲法を無視して、
主権国家は自衛権を持つのは当然、常識である
というような 法律家の奥の手である マジック

即ち、
詭弁 を 使うべきでなく、、

正面から正々堂々と、
改憲により対処すべきなのです。

要するに、本件は、、

「解釈論」で、対処するのではなく、
「立法論」で、対処すべき本質の事柄なのです。


最高裁が、

砂川判決で、あのように判示せざるを得なかった事情

即ち、
主権国家の裁判所が、

自国の存立に危機をもたらし、
外国の侵略 を 容認するような判決 は
出せないし、

さりとて、
憲法改正は、事実上不可能だった事情 は、
十分理解していますが、

それでも、
田中先生が、補足意見で述べられているような、

目的論的解釈と称して、
憲法9条の条文や単語の意味を、全く無視して、

憲法の前文だけにより、
自分に都合の良いような解釈をすることに、

重大な疑問を呈せざるを得ないのでは?

法律家として、
許されることではないのでは?

という疑問を、拭い去ることができません。



憲法9条が、

主権を奪われた占領下に制定されたものであり、

しかも、米国が、
わが国を永久に無防備国家のままに貶め置こうとして
押しつけたものであることは、

田中先生を初め、
砂川判決に参与された最高裁の判事の方々にとり、
勿論、釈迦に説法だったと、思います。


田中先生からは、

「まともに 法律の勉強もしてないくせに、
 子供じみた生意気言うな」
とのお叱りが、聞こえてくるような気がしています。


砂川判決の当時、

憲法9条の改正は、
国民の総意として不可能でした。

国民は、
法律家の常識、人類共通の常識よりも、

太平洋戦争中、
政府により、虫けらのように屠殺された経験を

二度としたくない、
戦争なんて考えたくもない

と、考えて、改憲に反対だったのです。


最高裁が、砂川判決で、
邪道とも言える解釈 を されたのは、

国民の安全、生存に対する責任を有する
三権(立法、行政、司法)の一翼を担う 司法権 としての

ぎりぎりの決断、
唯一の選択肢であり、

究極の非常手段だったのだろう
と、私には思われます。

(注) 虫けら、屠殺 との過激な言葉を
    敢えて使用したことについて
    次のブログを 参照頂ければ幸いです。

  集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



ですから、
田中先生が、補足意見で、

「立法者が、当初持っていた心理的意思ではなく」と、
立法の経緯を無視して判断する
と、宣言されたのでしょう。


私には、この文章は、
憲法9条を無視するとの宣言と共に、

法律家として邪道な解釈をすることに対する
弁解、釈明 を されておられるような気がしてなりません。

この文章から、

わが国がこの様に貶められる状況に至ったことに対する
田中先生の無念さ、悲しみ,痛み を しみじみと感じていますが、

先ほど述べたように、
法律家として、許されることなのかな?

もっと丁寧な理由の説明、

あけすけに言うと、
本音の理由 を 説明されれば 良いのに

と、ブツブツつぶやいています。



孫悟空が、
お釈迦様の手の外に出ることができなかったように、

この砂川判決は、
憲法が厳然と存在する以上、

前回お話しした通り、

竹島にしろ、
拉致問題、

更には、
尖閣、小笠原諸島において、

日本政府をして、
自衛権を行使させる迄には至りませんでした。

また、
砂川判決に従って自衛権を、

即ち
主権を行使しないことに対して、

誰からも、
「おかしいじゃないか」との指摘がありませんでした。


即ち、
砂川判決に従って、

(首相などの)誰かが、
自衛権を行使しようとしても

憲法9条が阻んでいるのです。


ですから、

野党やマスコミの皆さんは、
憲法により「日本が守られている」と、主張されますが、

日本国憲法により守られているのは、
不法行為 を 好き勝手に やり放題 行った
「韓国、北朝鮮、中国」だった、

即ち、
強盗や誘拐犯というべき国 が、

憲法9条によって守られていることが、
明確になってきたのです。


逆から申し上げると、

わが国は、
憲法9条 が あるが故に、

領土や領海が、侵略され、
国民が、誘拐されても

取り戻すことができないのです。




尖閣諸島にたいする中国の侵略や、
韓国大統領による 竹島上陸、天皇への冒涜発言、

更には、
中国の小笠原諸島における珊瑚強奪など

中国や韓国の傍若無人の振る舞いに対して、

日本国政府は、
憲法9条に縛られて、傍観するだけでしたが、

これらの事件により、
わが国の国民一人一人が、

「わが国の領土は、我々自らが守らねばならない」
と、考えるようになりました。


このことは、
憲法9条から離れた国民的合意 が、
地滑り的に形成された という、

大変な地殻変動が国民の間に生じたことを
意味しています。


憲法9条が、わが国ではなく、
周辺の強盗国家を守っている と申し上げても、

従来のような
違和感や反発 を、感じられなくなったのは、
この様な国民意識の変化によるものでしょう。


また、
この様な国民意識の変化が、

前々回の衆院総選挙で、自民党が、民主党を打倒し、
圧倒的多数の勝利を得たのは所以の一つでした。

更には、
護憲を標榜する野党やマスコミまでもが、

個別的自衛権や自衛隊は合憲だと
認めざるを得なくなったのです。


この国民意識の変化は、

砂川判決で最高裁の判事の方々が
直面された問題の本質を、

国民一人一人が、共有するようになった
と、言っても良いのだろうと思います。


でも、
政府自民党は、

この様な状況の変化があっても、
国民は、改憲に慎重であること を
心すべきでしょう。

太平洋戦争で、
国民が、政府により虐げられたトラウマは、

戦後70年を経ても、解消していないのです。





次に、
野党、マスコミの
「個別的自衛権」「自衛隊」合憲論について、
考えてみたいともいます。



野党の皆さんは、
護憲を旗印に政治活動を行っておられます。

今回も、
安倍首相は、憲法9条に違反して、戦争をしようとしている と、
マスコミを使って大キャンペーンを張り、

安倍内閣に逆風を吹かせることに成功しています。


一方で、

野党の皆さんが、
「個別的自衛権」「自衛隊」が合憲される理由について、
説明されておられる内容は、聞こえてきません。


今までお話ししたように、
元々 憲法9条は、

集団的自衛権どころか、
個別的自衛権も禁止していますし、

ましてや、
自衛隊みたいな戦力は持たない
と、宣言しているのです。


私には、
野党の皆さんが、

どのようなロジックで合憲とされるのか、
想像することができません。


野党の皆さんは、

自衛隊が創設されたとき、
違憲と主張されておられました。

それが、
どのような経緯で、
どのようなロジックで、

合憲に転換されたのでしょうか。


野党の皆さんは、
政府・自民党に対して、

解釈改憲してきている と、非難していますが、

ご自身の解釈を変更した理由については、
説明しないで良いとお考えなのでしょう。

政府自民党は、
主権国家になったからには改憲すべき、
を、旗印に、結党以来活動していますので、

その是非はともかく、
その行動について、
論理的には理解できます。

しかし、
野党の皆さんは、

護憲を旗印に、憲法9条を守れ、と主張して、
活動しているのです。

だとしたら、
野党の皆さんの主張は、

憲法9条に従ったもの、

即ち、
自衛権を否定し、
外国が侵略していたら、
何ら抵抗なく、彼らの好き勝手にさせる

と、いうことではないでしょうか。



ここで、
本筋からちょっと離れた冗談を 述べさせて頂きます。


  野党の皆さんが、

  何故、
  中国や朝鮮(韓国・北朝鮮)の主張と同じ対応を、
  何かにつけて主張されるのかが、やっと分かりました。

  護憲は、
  わが国国民を欺くための旗印であって、

  野党の皆さんは、

  中国や朝鮮の先兵となって、
  日本への工作活動に従事している人々だったのですね。

  そう考えると、
  野党の皆さんの護憲の旗印が、クリアに理解できます。


冗談はさておき、真面目な話、
野党の皆さんのおっしゃる護憲とは、何なのでしょうか。

素直に考えると、
憲法9条を守る ということのように 思えますが、

野党の皆さんは、
憲法9条とは 真逆の主張に 基づいて
活動されておられるのではないでしょうか。

不可解と、
言わざるを得ない気がします。


また、
自衛権には、
「個別」と「集団」の 2つが あります。

砂川判決でも、
国連憲章は、全ての国に「両方を認めている」
と、判示されておられます。


なのに、
個別的自衛権 と 集団的自衛権 を 区分して、

一方は「合憲」、
他方は「違憲」と、主張されるロジックが、

チンプンカンプンで、理解できません。


野党の皆さんは、
大衆を扇動するためには、
論理などどうでも良く、

「個別的自衛権」「自衛隊」は、合憲だ と、
主張しなければ、国民世論の支持を得られない、

反政府のキャンペーンを張っても、共感を得られない、
と、お考えになられたから、

合憲論に転じたのではないだろうか、
と、邪推したくなるのは、私だけでしょうか。


今国会の論戦が、
不毛である と、揶揄されていますが、

政府与党を攻める立場の
野党の皆さんやマスコミの論理構成の根本 が、

即ち、
集団的自衛権 が 違憲である との主張の根本 が、

この様に
支離滅裂であることが、議論がかみ合わず、

お互いの主張 を 言い放しにしている原因
ではないでしょうか。


また、
最初のお話ししたように、

個別的自衛権が、合憲なら、
個別的自衛権を行使して

何故、
竹島や、北朝鮮に誘拐された人々を
取り返そうとしないのでしょうか、

野党の皆さんが、賛成すれば、その気になれば、
明日にでも、竹島はわが国に帰ってくるのです。

(自衛隊による奪還、救出作戦は、
 短期間で終了するでしょう、との意味です。)


また、
尖閣や小笠原で中国が侵入して、
わが国の財産を強奪したときに、

何故、
武力で排除しようと、主張されなかったのでしょうか。

とりわけ、尖閣の時は、
現在の野党が、政権を担当していましたよね。

何故、あの当時
個別的自衛権を行使するどころか、

宗主国様に対するような
腰が引けた対応を されたのでしょうか?

中国船の行状のビデオを、
ひた隠しに隠そうとしたことは、

中国様の意図の実現するための
中国の指令に従った工作活動の一環だった
のでしょうか。

あの当時、
横浜での日中首脳会談における
首相の卑屈でおどおどした振る舞いには、

吃驚する以前に、
唖然として声も出ませんでしたが、

わが国の宰相が、
あれほどわが国を貶めたことは、
なかったのだろうと思います。

この様に、
野党の皆さんが行っておられることは、

言行不一致、
疑惑の塊

と、言わざるを得ないのではないでしょうか。


こう考えると、
個別的自衛権は、合憲というのは、

実は、
国民を欺くメッキであって、

メッキの下の本心は別ですよ、
と、行動で示しておられるのでしょうか?



野党の皆さんも、

国政に対する一端の責任を
有しておられますので、

あえて、
厳しい苦言を述べさせて頂きましたことを、
ご了解ください。
 
 
 
 
 
最後に、

今まで述べてきたように、
憲法9条は、
何故この様な粗末な扱いをされるのでしょうか。

護憲を自称される人々でさえ、
憲法9条が禁止している 個別自衛権 や 自衛隊 を
合憲だと認めておられるのです。



ここで、
砂川判決を、もう一度思い出して頂きたいと思います。


田中先生は補足意見で、

1.憲法前文に宣明されている
  恒久平和と国際協調の理念 と、

2.国際社会の現状並びに将来の動向 を
  洞察して 解釈すべきだ

と、主張されておられます。


では、
憲法9条関連について

憲法前文は、
どのような内容を規定しているのでしょうか。

箇条書きに、
列挙してみたいと思います。


1.日本国民は、

  政府の行為によって、
  戦争の惨禍が起こらないよう決意する


2.日本国民は、

  恒久の平和を念願し、
  人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、

  平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
  われらの安全と生存を保持しようと決意した


3.われらは、

  平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を
  地上から永遠に除去しようと努めてゐる

  国際社会において、
  名誉ある地位 を 占めたいと思ふ。


4.われらは、

  全世界の国民が、

  ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
  平和のうちに生存する権利を有すること

  を確認する。


5.われらは、
  いづれの国家も、

  自国のことのみに専念して
  他国を無視してはならないのであつて、

  政治道徳の法則は、普遍的なものであり、

  この法則に従ふことは、
  自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする

  各国の責務である と、信ずる。


6.日本国民は、

  国家の名誉にかけ、全力をあげて
  この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


以上お読み頂いてご理解頂けるように、

憲法は、
その前文において 憲法9条 の条件を
記述しているのですが、、

直接的には、次の3項目でしょう、

① 平和を愛する諸国民 の 公正と信義 に 信頼して、
   われらの安全と生存 を 保持しようと決意した。


② 全世界の国民が、
   平和のうちに生存する権利 を 有する。


③ 普遍的な政治法則に従ふことは、各国の責務である。


即ち、
憲法9条で、

わが国は、
無防備国家を宣言していますが、

世界中の国々が、

とりわけ、
わが国の周辺の国 が、

 1.公正と信義に信頼できること

 2.全世界の国民の 平和に生存する権利 を 認めていること

 3.普遍的な政治法則に従うこと

を、前提条件 としているのです。



憲法前文の最後で、

憲法前文が掲げる崇高な理想と目的を達成することを
わが国の名誉にかけて誓う

と、宣言していますが、


具体的に、どのように達成するのか、

更には、

世界中の諸国、

とりわけ
周辺の諸国が、

憲法前文に記述するような国家でなかったときに、
どうするのか、

については、記述していません。


その辺のことは、
実際に憲法を運営する 日本政府 や 立法府

即ち、
憲法の下部に位置する 法律 に、
委任している

と、いうことなのでしょう。


ここに、憲法9条が、
無視され、継子扱いにされる原因があったのです。


世界中の諸国、

とりわけ、
わが国周辺の諸国が、

憲法前文に記述されているような国であったなら、

憲法9条も、
条文通りの扱いをされたのでしょう。


でも、
実際の世界は、

憲法前文が記述するような世界では
ありませんでした。

憲法9条の理想と現実には、
大幅な乖離があって、

即ち、
憲法9条の前提条件を満たすような諸国で
なかったため、

憲法9条を、
実現することができなかったのです。


田中先生が、

憲法の理念と共に
国際社会の現状並びに将来の動向 を洞察して
憲法9条を、解釈すべきだ

と、おっしゃる所以なのです。


北朝鮮は、
昔から強盗国家、誘拐国家、

即ち、
ならず者国家 でしたが、

それに加えて、最近になって、

中国の膨張 が 甚だしくなると共に、
韓国の反日活動 が 活発化し、

わが国も、
これらの動きに対処せざるを得ない事態が
生じてきました。


戦後一貫して憲法9条を支持してきた国民でさえ、

さすがに、中国や韓国が、
武力行使に出て来たときの備えをしておかねば
ならないのでは、という認識を、

共有するようになったのです。



政府自民党は、
さすがに政権政党として、主権が回復した以降

野党やマスコミの皆さんの妨害を受けながらも、
わが国の安全保障についての責任を果たしてきました。


しかし、
国民が、憲法9条の改正を望まなかったので、

憲法改正をできずに、
憲法の下部の法律の整備で、
責務を果たしてきたのです。


この状況を 客観的に見ると、

日本では珍しく、例外的に
慣習法、しかも、慣習法の憲法 が、生成してきた
と、いえると思います。

成文法に、瑕疵や空白があれば、
慣習法が、生成してきて補い、修復する

との法律の歴史的真実は、
日本においても当て嵌まっているのです。

憲法9条は、

現実と大幅に乖離していて、
憲法として 規定の空白 があります。

一義的には,
改憲で対処すべきなのですが、

国民が改憲を拒否して、
空白が埋められなかったため、

法律のもつ自然治癒力が機能して、
慣習法の憲法が生成してきたのです。



最高裁の砂川判決も、
この流れの中で理解すべきだろうと思います。


最高裁が、
憲法9条の解釈論としては、落第点と言うべき判決を、
あえてされたのは、

憲法の空白

即ち、
憲法前文の
「平和を愛する諸国民 の 公正と信義 に 信頼して」とは
真逆の国際環境下に
日本がおかれている反面、

国民感情が、
憲法改正を許さないことに対処して、

わが国の平和と安全を維持するために、
「判例法による慣習法の憲法の生成」というべき
「立法行為」を されたのです。


先ほど、
憲法9条の問題は、
解釈論ではなく 立法論で対処すべき
と、書きましたが、

最高裁は、
そのことは、百もご承知で、

黙って、
解釈のふりをして、
立法行為 を 断行されたのだろう と 思います。



自衛隊も、
この流れの中で 理解すべきだ と、思います。

後藤田氏が、
日経新聞の「私の履歴書」で、

「自衛隊創設当時、聞かれたら、
 自衛隊は、警察ではなく軍隊だ と、言っていた」

と、書かれておられました。


日本国政府は、文理解釈上、
自衛隊が、憲法9条違反なことは、
百も承知だったのだろうと思います。


自衛隊は、
憲法違反と見える組織だが、

憲法が規定していない事態、

即ち、
憲法の規定の空白に対処するために

創設するのだから、


憲法9条の規定の対象外、
憲法9条とは別の規範に従う組織である、

と、考えておられたのだろう
と、理解しています。

この「別の規範」が、
「慣習法の憲法」なのです。



従って、
個別自衛権や自衛隊が、
与野党共に、合憲とされておられるのは、

現行憲法が規定していない部分

即ち、
「憲法の規定の空白」を補完して生成してきた
「慣習法の憲法」に基づいている

と、解釈すべきだと思います。



この慣習法の憲法は、
まだ、生成過程にあると言うべきで、

その内容を、
現時点で確定的なことを申し上げるのは、
適当でないと思いますが、


先程来ご紹介してきた「砂川判決」を核として
生成してきていることは、確実ですので、


そのおおよその内容は、

田中先生の補足意見にあるように、
憲法前文に基づいて、憲法9条を否定するものになるのでは

と、想像しています。


即ち、

主権国家固有の自衛権(個別も、集団も、含みます)
を、認め

そのための軍隊を、保持すること
を 認め

国際紛争の解決手段としての自衛戦争、

即ち
交戦権 も、認めることに

なるのでは ないでしょうか。



以上の様に、理解すると、

砂川判決 及び 田中先生の補足意見について、
先程来、失礼も顧みずに、疑問を呈してきましたが、


田中先生が リードされた「砂川判決」は、

実は、
違憲立法審査権にもとづく「判例法の形成」、

即ち、
憲法が認めた
司法権による「慣習法の憲法」の立法行為 に他ならない、

通常の判決とは異なった、例外的な判決であり、

砂川判決を、
通常の解釈論に基づいて 判例評釈すると、

私が陥ったように、
その価値を、正確に評価できないどころか、

誤った評価に陥って、
価値を貶める結果になってしまう

と、理解をすべきだろうと思います。



その意味で、田中先生は、

日本で、最初に判例法の憲法 を 残された
と、称賛される業績を残され、

日本国民の平和と安全を維持するための、
貴重な財産 を 残された

歴史上の偉大な法律家のお一人であろう
と、尊敬しております。



慣習法の憲法の生成については、
先にご紹介した 次のブログ を 参照頂ければ幸いです。


  集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html





以上、

憲法9条について、

とりわけ、
自衛権や自衛隊に関する論点について、
ご説明してました。

終わりにあたって、
2点 感想を述べさせて頂きます。


1.憲法9条は、今まで述べたように、
  「現実」から乖離した「理想」を宣言している規定
  というべきであり、

  それ故に、
  憲法9条を補う形で「慣習法の憲法」が生成されてきたことを、

  政府、国会を初め、
  国民全員が、認識すべきでだと思います。


  ヨーロッパ人にとって、法律は、
  ローマ法以来 3000年近く育んできたものであり、

  それ故に、
  成文法は、近年 (といっても、200年前ですが、)
  慣習法の上に 植林した森 であり、

  成文法に、
  瑕疵 や 空白 が あれば、

  生物が、
  自然に 傷を治癒するのと 同様に、

  慣習法 が 生成してきて、
  成文法 を 補い、修復すること を、
  身にしみて理解されておられる と、思います。


  日本人は、
  明治時代 に、ヨーロッパの法律 を 契受(輸入)してから、
  100年以上経過をしたといえども、

  歴史的観点から見た場合、非常に短期間の経験 であり、

  慣習法 が、
  成文法の瑕疵や空白 を 補い、修復するものだ
  と、いうことが、殆ど自覚されてないということ を、
  認識すべきだろう と 思います。



  国民の大半が反対する 改憲 が、

  判例法により、
  国民の知らないところで立法されるのは
  許されるものではない、

  と、反論される方がおられると思います。


  法律は、
  成文法だけだ と、思い込んでおられる方にとって、

  慣習法などという 訳の分からないものの存在は、
  お認めにならないだろう ということは、

  わが国の法学教育の実態から、理解できます。


  しかし、
  歴史を振り返ると、

  「法律」というものは、
  自律的な生き物である「慣習法」だったのです。


  成文法は、先ほど申し上げた様に、
  19世紀初頭フランスで作られたものなのですが、

  その地下水脈 には、

  成文法 を 補完する慣習法 が、
  脈々と 生き続けているのです。


  生身の人間が、傷つけば、
  「この傷は、そのまま回復させないのだ」と頭で思っても、
  肉体が、自然に治癒してしまいますよね。


  憲法9条の改憲反対論は、
  「この傷を そのまま回復させない」と言っていることと
  同じなのです。


  憲法9条は、

  「諸国民の公正と信義に信頼できる」ことを前提にして、
  規定されているのですが、

  その前提条件と異なる現実が生じたら、
  冷静に対処して、改憲をすべきなのです。


  ところが、

  我が国民は、
  戦前、政府に屠殺されまくったトラウマから
  回復していないし、

  野党が、
  戦前の政府の屠殺行為を、国民に思い出さすような宣伝をして、
  誘導するものですから、

  改憲できずに、今日に至っているのです。


  先ほど例示したように、

  我が国民は、
  「傷があるのに、回復させないで放置しておく」
  と、判断したのです。

  (ひょっとして、国民は、
   傷があること自体 気がついていないのかも知れません。)


  ところが、法律というものは、
  社会の生命維持機能 を 担っていますので、

  ご主人様である国民が、
  いくら「No」と言ったとしても、

  必要な治癒行為は、自然に行われるものなのです。


  言い換えると、

  我が国民が、
  行うべきこと を、行わなかったら、

  日本という生命体の生命維持装置が、
  自律的に補完しているのです。

  これが、
  「慣習法の憲法」の生成と、私が言う現象なのです。



  国民が、

  やるべきことを、冷静に判断せず、
  戦前のトラウマを忘れ去れず、感情的に反対しているから、

  日本という生命体の維持装置である法(慣習法)が、
  治癒行為を行ったのです。



  今のご説明で、
  納得できない方は、次の 極端な例を お考えください。


  もし、
  尖閣に、中国が攻め込んできたら、
  どのように対処されますか?


  民主党政権下での尖閣の事件の際の
  我が国民の反応 から類推すると、

  中国の工作員と思われる方を除く 普通の国民の方 は、
  中国の武力に対抗して、防衛すべきだ
  と、判断されるでしょう。


  現在は、平時ですから、

  野党の口車に乗せられて、
  安倍政権への支持率を落としていますが、

  実際に、
  その様な事態が起これば、別だと思うのは、
  私だけでではないだろうと思います。


  現実に、
  戦時が勃発してからでは、間に合わないこと、

  平時から、
  日頃 備えておかねばならないこと が、

  あることを、ご理解ください。


 
  今回の憲法9条論議は、

  このことを理解する格好の教材であり、

  戦後70年 生成してきた「慣習法の憲法」を、
  どのように扱うのかの 議論を、

  正面に据えた国会論戦を して頂ければな
  と、願っています。



  少なくとも、
  政府与党におかれては、

  憲法9条を改正せずに70年が経過したために、
  「慣習法の憲法」が生成してきた事実 を、

  正面から説明すべきでしょう。

  そうすることが、

  即ち、
  自然発生的な「慣習法の憲法」の存在を、
  国民的認識とすることが、

  憲法9条の改憲論議の促進に
  寄与することになるのではないでしょうか。



  安保法制についての国会での議論 は、
  憲法9条についての議論 とは別の

  憲法9条の空白を補って生成してきた
  「慣習法の憲法」に関する議論なのです。


  現在国会で行われている議論は、
  このことを、自覚せずに行われている
  と、言うべきであり、

  この自覚がないから、

  「個別的自衛権」や「自衛隊」は、合憲だが、
  「集団的自衛権」は、違憲等という

  法律論としては、珍妙な議論が、
  恥ずかしげもなく繰り広げられているのです。


  今回の安保法案は、

  憲法9条に基づくものではなく、
  (憲法9条によれば、違憲であることは明白です。)

  憲法9条が規定していない事態

  即ち
  憲法の規定の空白に対処するために生成してきた
  「慣習法の憲法」に基づいているものだ

  と、いうことの 国民的理解 を 深めるような審議 を
  願っています。



  野党やマスコミの皆さんにおかれましても、

  「個別的自衛権」「自衛隊」が、
  合憲だと主張されておられるのは、

  実は、
  憲法9条とは別のものである
  「慣習法の憲法」下における憲法論議なのだ
  と、いうことを、

  冷静に、深くお考えになって、自覚して頂き、

  更には、
  法的議論に耐えうる論理 を、構築して頂きたいな

  と、願っています。



2.前々回のブログや、
  前回のブログの最後にもお話ししたように、

  平和を希求し、
  その最終形態として自衛権も放棄したい
  との憲法の哲学は、貴重であり、

  今後の人類が実現すべき理想を示している
  と、考えられます。

 
  従って、
  現行憲法の理想は、
  そのまま大事に掲げ、維持すべきであり、

  ① その理想を、どのように実現するのか、

  ② 理想を実現するまで存在している
     「理想と現実のギャップ」を、どのように埋めていくのか、

  について、
  議論を深めて行くべきだと思います。


  憲法改正論議においても、
  憲法9条の理想を、抹消するのではなく、

  憲法9条の理想はあくまでも掲げながら、
  現実に、どう対処していくのか

  理想を、どのようにして実現していくのか
  との観点から、

  条文を追加する方策を考えるべきだ と、思います。



  人間は、
  数百年単位の長いスパンでの将来に対する認識は、
  持ちにくいものですが、

  歴史を振り返って、将来を見通すと、
  自ずから見えてくるものもあります。


  憲法が掲げる理想も、その様な種類のものであり、
  必ずや、いつの日か、確実に実現する理想を、
  憲法は、掲げていますので、

  憲法前文の最後に掲げてあるように、

  日本国民は、
  その実現に全力をつくさなければならないだろう、

  否、
  その実現は、日本国民の義務である と、思います。



   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。


    < 次回 の ブログ >

    憲法9条論議 の 混迷 は、
    法学の本質ーーリーガルマインドーーに、由来するのでは???

    ・・・ 法学は、キリスト教神学同様 科学でないこと と、
      法律家は、リーガルマインドを 実定法より優先すると考えていること
      について・・・

    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e8ca.html



    < 今回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 前回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 前々回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 前々前回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html

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2015年7月 6日 (月)

砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成

最近の憲法論議の中で、砂川判決が話題になっていますので、
1959年12月16日の砂川事件の最高裁判決
(以下「本判決」といいます)を読んでみました。



本判決を一言で言うと、次のように要約できる と、思います。

1.わが国は、固有の自衛権を保有し、
  憲法は、無防備、無抵抗を定めたものではない。

2.(わが国を含む)全ての国が、国際連合憲章で、
  個別的自衛権と集団的自衛権の固有の権利を有すること
  を、承認されている

3.日米安全保障条約に基づいて日本に駐留する米軍は、
  わが国の戦力ではない。

4.条約は、高度の政治性を有するものであり、
  「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、
  裁判所の司法審査権の範囲外」である。



本判決は、
その後、各方面から無視され、現在に至っています。


本判決に反対の立場をとる野党、マスコミ、護憲勢力が、
無視するのは当然ですが、

本判決に利益を得たはずの政府、自民党からも無視されて、
折角認められた自衛権も発動されずにいるのです。


何故、
政府、自民党が無視し、従わなかったのでしょうか。

それは、
本判決は、致命的な欠陥
即ち、
本判決に従って行動したら、即座に憲法の規定と正面衝突する判決
だったからです。


例えば、

本判決が言い渡された時点で、
竹島は韓国に不法占拠されていました。

竹島は、日本の領土であって、

韓国の不法占拠は、
自宅に土足に盗賊が押し入ってきたのと同じ性格のものであり、

韓国は、
竹島に押し入ったときに、日本人を殺害までしているのですから、

日本政府が、
国内問題として、自衛権を持ち出すまでもなく、
警察権を行使して、排除するのが当然ですし、

ましてや、
最高裁が、自衛権の発動は合憲であるとの
お墨付きを出しているのですから、

日本政府が、
堂々と自衛隊を派遣して、韓国を竹島から排除するはずでした。


でも、

日本政府は、
その様な行動を、今現在に至るまでしていませんし、

世論も、
日本政府の不作為を非難していません。



政府が、自衛権を発動しなかったのは、

自衛隊が、竹島に近づいたら、
忽ち憲法9条が規定に反する事態が生じてしまうからです。


憲法9条の骨子は、

第1項で、

国権の発動たる戦争は、
国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する

と、宣言した上で、


第2項で、

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力の不保持 と、
わが国の交戦権を 禁止しているのです。



憲法9条により、
交戦権が禁止されているが故に、

日本政府は、
本判決が、自衛権を承認しているにもかかわらず、
日本国内である竹島の治安維持という自衛権の発動を見送って、
今日に至っているのです。


このことは、
尖閣や小笠原諸島を巡る中国との紛争でも、
同様の事態が生じています。

日本政府は、

憲法9条違反に直結することを 危惧して、
わが国の領海に侵入した中国船を、武力で排除せずに、
警告するだけで、指をくわえて傍観しているのです。


本判決が、
憲法9条と正面から衝突することを、

当時の最高裁長官で、本判決の裁判長を務められた田中先生は、
承知されておられたような気がしています。


田中先生は、
補足意見で 次のように述べておられます。

「我々は、
 その解釈について争いが存する憲法九条二項を含めて、

 同条全体を、

 一方、
 前文に宣明されたところの、恒久平和と国際協調の理念からして、

 他方、
 国際社会の現状並びに将来の動向を洞察して、

 解釈しなければならない。


 字句に拘泥しないところの、
 即ち、
 立法者が当時持っていた心理的意思でなく、

 その合理的意思に基づくところの目的論的解釈方法は、
 あらゆる法の解釈に共通な原理として
 一般的に認められているところである。


 そして、このことは、
 特に 憲法の解釈に関して 強調されなければならない。」



田中先生が述べておられることは、
法学概論で教えられ、
民法の講義の最初に、契約書の読み方として叩き込まれるもので、

法曹にとって常識とも言うべき事柄です。


でも、
田中先生は、
この時に教えられる もう二つのこと を、おっしゃっておられません。


一つは、
書いてある記述、字句に従って、素直に解釈することが原則であり、
その原則を達成するために、合目的解釈が要請されるし、
合目的解釈といっても、自ずから限界がある
と、いうこと。

二つ目は、
合目的解釈と恣意的解釈は、似て非なるものであり、
恣意的解釈はしてはならない、

言い換えると、
目的に沿った解釈をすべきで、

自分勝手な、
自分の都合を実現するための解釈、
牽強付会な解釈 は、

行ってはならないということです。


田中先生は、
「立法者が、当時持っていた心理的意思でなく」
と、おっしゃっておられますので、

先生の解釈が、

立法者と異なっていること、
または、
書かれてある文章と異なった解釈をされておられること

を、自覚されておられて、

目的論的解釈からして、
ご自分の解釈が正しい、と考えられておられるのです。


即ち、

立法者は、
わが国に自衛権を認めていないけれども、

(主権が回復した本判決の時点においては、)
わが国が、
主権国家として、自衛権を保有するのは、常識であり、

自衛権を保持しなければ、
わが国は存続していくことが出来ないので、

立法者の意思を無視して、解釈すべきである、
と、考えられたのだろう と、想像しています。



ですから、
本判決に従って行動すると、
すぐさま憲法とバッティングして、違憲の行動となってしまうのです。


この様に説明させて頂くと、
最高レベルの法学者の集まりである最高裁の判事の方が、
全員一致で本判決を下したのは何故であろう、
と、感じられるのではないでしょうか。


私は、
二つの可能性、

即ち、
本判決が、
憲法に反することを承知の上で、敢えて判決を下したか、
それに、気がつかなかったか、

の どちらかではないだろうかと、考えています。

大秀才の集まりである最高裁の判事の方々が、
全員一致で下した判決ですから、
前者の方だろうとは思っていますが、・・・・



いずれにせよ、

本判決は、
わが国の法解釈学の問題点を提起していると、私には感じられます。


問題とは、

1.法解釈する際に、3次元(縦、横、高さ)の範囲で解釈して、

  4次元、
  即ち、
  縦、横、高さ に 加えて、時間を要素にした解釈をしてない。

2.法源 を、
  国会で成立した成文法のみを対象として、

  慣習法や判例法が、日本でもあり得るということを、
  念頭に置いていない。



< 1.について >

法律は、
ある必要に基づいて、制定されます。

制定されて、時間が経つにつれて、
その法律が規制対象に対して、過不足があるかどうか、
自ずから判定されるようになり、

不足、不備がある場合は、
必要に応じて、法律が改正されるのです。

これは、
最高法規である憲法においても、免れないことなのです。


憲法9条は、
敗戦後、米国が、

日本を、
無防備国家、
抵抗能力が皆無の国家に、

永久に貶めておこうと考えて、
日本に押しつけたものです。

ですから、
田中先生が暗におっしゃっておられるように、
憲法9条は、自衛権を否定していました。


主権国家における自衛権の否定は、

法学の常識を持ち出すまでもなく、
一般常識からしても非常識な概念ですから、

憲法制定議会(国会)で、何とか修正しようと努力はされましたが、
主権のない悲しさで、
米国に拒否され、押しつけられて制定されたのでした。


主権国家が存立し続けるためには、
自衛権の保有は不可欠であり、

自衛権を否定する憲法9条は、

当然改正されるべきもの、
少なくとも、
わが国が、これからも、自衛権を保持しないでいくのか、どうか
について、検討すべき条文でした。

自民党が、
綱領に改憲を掲げたのは、政権政党として当然のことだったのです。



ところが、
以前におはなしした経緯で、

改正されるべき憲法9条が、そのまま現在まで存続してきました。


 注) 存続した経緯と理由については、次のブログを参照ください。

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



本判決は、
この様な経緯を勘案して、理解すべき判決だと思います。

「主権がないときに制定された憲法は、
 主権回復後は、然るべき解釈を変更すべきである」
と、本判決の裁判官の皆さんは、お考えになったのでしょう。


この推定が正しいとするならば、

本判決は、一般的には
法解釈の範囲や方法を逸脱したものであるといわざるを得ず、

主権国家として自衛権を保有すべきとお考えになるなら、
憲法を改正すべきと主張するべきだと考えます。


多分、
法解釈する立場の最高裁が、
立法論を唱えるのは、立場を逸脱しているとお考えになって、

説明を飛ばして、
アプリオリに主権国家が自衛権を持つのは常識である
と、判示されたのでないでしょうか。

私は、せめて、
主権を奪われていた時に制定された憲法9条の解釈は、
主権回復後は、こう解釈すべきである と、

憲法9条に関する新たなコンメンタール(逐条解釈)を
最高裁として提示すべきだったのでは?という気がしています。


(このように申し上げると、
 判決は事件の解決するための最小限の法解釈をするものだ
 との、お叱りが聞こえてきます。

 私が、この様なお叱りを承知の上で、
 憲法9条は、主権を奪われていたときに、
 自衛権を、米国から強要されて剥奪された経緯があるので、

 主権が回復したら、どのように解釈するかについて、
 改憲までの間の暫定的な解釈を提示するのが、
 違憲立法審査権を保有する最高裁の義務だったのではないでしょうか?

 と、問題提起をしているのです。)



< 2.について >

日本は、明治時代に、
ヨーロッパの法制を成文法の体系として契受しました。

従って、
法学教育においても、
成文法の解釈学が、法解釈の全てであるかのような教育をなされ、

英米法のような判例法や慣習法の法体系もあり得るということは、
言及されるだけで、法学の修練では無視されてきたのです。


ですから、
最高裁が違憲立法審査権を付与されても、

違憲立法審査権というものは、判例法を構築していくものだ
という認識も、覚悟もお持ちでなかったのでは? と、感じられます。


本判決が、
違憲立法審査権について

「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、
 裁判所の司法審査権の範囲外」である

と、表明されておられるのは、
この様な歴史の結果なのだろうと思います。


本判決の判断は、

腰が引けてて、
あけすけに申し上げると、義務を放棄した卑怯な表明である

と、感じられます。


それでいながら、

それまでわが国は、憲法9条により、自衛権を認めらてなかったのが、

本判決により自衛権を保持するように変更される、との
判例法による大変大胆な立法行為をおやりになっておられますので、


果たして、

やっておられることの自覚や覚悟を持っておられるのかな?
と、訝しく感じるのは、私だけなのでしょうか。


また、

本判決以前も、以後も、
違憲立法審査権に関する議論が深まっていませんが、

法曹は、何をされておられるのかな?
と、疑問に感じるのも、私だけなのでしょうか。





本判決で、

「日米安全保障条約に基づいて日本に駐留する米軍は、
 わが国の戦力ではない。」と、判示されておられますが、

本ブログのテーマから少し外れますので、
コメントは略させて頂きます。




以上、
本判決についての感想を述べさせて頂きましたが、

憲法9条の歴史を振り返るときに、
本判決は、やはりエポックメイキングの判決だったな、
日本では本当に稀な 裁判所による判例法(慣習法)の立法だったな
という気がします。




憲法9条は、
先程来申し上げているように、

米国が、
わが国が自衛権を剥奪して、永久に、無防備な国に貶めておこう
との意図に基づいてり制定された条文です。


ですから、
時間が進むに従って、

特に、
わが国が、主権を回復してみると、

憲法9条は、
非常に偏った規定で、
主権国家の憲法として不備である点が、はっきりしてきました。


以前にご紹介したように、

わが国は、
平和を愛好する諸国民の公正と信義を信頼して、
自衛権を放棄したのですが、

現実の周囲の国は

憲法が期待したような国民ではなく、
隙あらば、他国の領土をくすねとってやろうと

虎視眈々と狙っている国家であることが
明白になってきました。


憲法9条は、
この様な強盗国家が存在したら、どうするのか、について、
何も規定をしていないのです。

また、
世界中が、平和を愛好する諸国民の集まりであるように
実現するための方策も、指し示していないのです。


ですから、
主権回復後のわが国は、

現実に対処するために、
日米安保条約を締結し、
自衛隊の創設を初めとして、いろいろな法整備をすると共に、

野党やマスコミ、護憲派が解釈改憲と非難する憲法解釈の変更も
少しずつ行ってきているのです。


現在、政治の世界では、
個別的自衛権は認めるが、集団的自衛権は認めない
と、野党、マスコミ、護憲派は主張していますので、

本判決は、
政治の世界の先を行った判決である と、言うべきでしょう。

エポックメイキングな判決と申し上げた所以です。


それと同時に、

憲法9条が、いろいろな事情により改正できないため、
憲法9条が改正されたら、
それに基づいて制定されるであろう法律が整備されてきています。

本判決は、
これらの法整備の根拠となって後押しする 日本では希有な判例法であり、
その意味でも、エポックメイキングなのです。

本判決は、、
憲法9条を否定して、真正面から衝突する判例だからこそ、
憲法9条の不備を補う 慣習法の憲法 の骨格になったのであり、

本判決(判例法)の下に、
改憲後の憲法において整備されるであろう法律の生成が始まった
と、言っても過言ではないような気がしています。



今回、本判決を読んでみた結論として、

ちょっと乱暴と言わざるを得ない田中先生の
「合理的意思に基づく目的論的解釈」の必要性と正統性を、
改めて認識し、敬服しています。


ちょっと乱暴だというのは、本文でお話ししたように、

説明なしで、
「主権国家は自衛権を持つ」との結論だけを述べておられるからです。

(「説明している、判決をよく読め」と、先生からのお叱りが
 聞こえるようですが、私には、不充分な説明に感じるのです。)




最後に、
前回のブログで書いたように、

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html


憲法9条は、欠陥を持った条文ですが、

平和を希求し、
その最終形態として、自衛権も放棄したいとの哲学は、貴重であり、

今後、人類が、
その理想を実現するように、努力すべき到達点を示していると思います。


その意味から、

憲法改正にあたっては、
現在の憲法9条の規定を抹消するのではなく、

完全平和主義を理想として掲げて、

その理想を、
わが国はこの様にして実現しようと思う、

また、
実現できるまでは、この様に対処していく

との規定に改正すべきだ と、考え、
是非とも、その様になることを願っています。


   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。

    < 次回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 今回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 前回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 前々回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html


続きを読む "砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成"

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2015年6月 1日 (月)

憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点

「集団的自衛権論議 で 欠けてる視点・・・慣習法の憲法 の 生成・・・」
 http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html
を、読み直していて、

私にとって当然の前提である故に、
説明が不十分だった点に、気がつきましたので、
補足をかねて お話しさせて頂きます。



「集団的自衛権論議 で 欠けてる視点」 は、

憲法9条は、理想を高く掲げているけど、

① その理想が実現するための方策  と、

② 理想実現するまでの間の 理想と現実のギャップ を
  どのように埋めて
  どのように日本を防衛していくのか、

について規定していなかったので、
その空白を埋める「慣習法の憲法」が生成されてきている。

従って、
この2点(①と②)についての議論を深めて、
生成してきた「慣習法の憲法」を成文化すべきである、

というのが、論旨でした。


当然の前提として、説明不十分だなと、反省したことは、

憲法の掲げる理想を、維持すべきか、どうか、

即ち、
憲法の理想が、あまりにも現実と乖離しているので、

憲法の理想は、将来のこととして 一時棚上げし、
現実に対処することを第一優先にして、
憲法の規定としては、削除すべき か、どうか、

との議論に対する説明が欠如しているな、という点です。


憲法は、
あまりに理想に偏していて、現実と乖離しているために

現実の国際情勢の中では、我が国の足枷となって、
マイナスの効果を及ぼしていることが、最近明らかになってきた

と、お考えなる方が、多いのではないでしょうか。


例えば、
竹島は、韓国に不法占領されていますが、

英国は、
フォークランド島を不法占領したアルゼンチンに対して、
すぐに 軍隊を派遣して、断固として取り戻ています。

日本が、英国のように
竹島を断固として取り戻すことが出来ないのは、

憲法9条があるからだ、
という議論は、説得力があります。


また、
北朝鮮に拉致された日本人を、

長い間取り戻すことが出来ないどころか、
取り戻す目処さえ立っていませんが、

私の記憶違いでなければ、同じ敗戦国だった西ドイツは、
ハイジャックされたドイツ人を取り戻すために、
アフリカにまで特殊部隊を送り込んで、銃撃戦まで行いました。

これに較べて

我が国は、憲法があるから、
北朝鮮に特殊部隊を送り込んで、実力で取り返すことが出来ないし、

そもそも、
憲法があるから、北朝鮮が、我が国をなめきって、
土足で我が国に入り込んで拉致したではないか、

従って、
我が国が、必要なときに、他国と同じような行動が出来るように
憲法を改正すべきだ、

との主張も、一理あると思います。


また、
日本の船が、竹島に向かうと、韓国軍は発砲してきますが、

尖閣諸島の領海に中国軍が侵入してても、
発砲や武力行使できないのは、国益を損なうことだ、

ましてや、
小笠原諸島で、珊瑚を乱獲されても、
挙手傍観せざるを得ないような憲法は、もってのほかだ、
と、考えられる方もおられるでしょう。


もともと、憲法9条は、
アメリカが、我が国を、未来永劫、二度とアメリカに刃向かうことの出来ない
弱小国家のままでおらせる目的で押しつけたものであり、

このことは、
現在に至るまで、根底に連綿として継続していて、

現在でも、
国連の敵国条項は健在だし、

同盟国と言いながら
今回(2015年)安倍首相が、戦後初めて演説するまで、70年間も
アメリカ上下両院合同会議で、日本の首相に演説させなかったのが、

その証左である、との、主張も、
否定できないものがあると思います。



以上のような主張 を、理解した上で、

私は、
それでも、憲法の理想は維持すべきだし、

その実現に向かって、
我が国が、本気になって取り組むべきだと考えています。


憲法制定以来 現在まで、
憲法の理想を本気で実現しようとする人は、我が国にいませんでしたが、

これを、抜本的に変えて、
本気で憲法の理想の実現を目指すときに来ているし、

憲法の理想を実現する過程に生じる問題に対処し、解決するために、
憲法の空白を埋めるために、
この70年間に生成してきた「慣習法の憲法」を成文化すべき

というのが、
前回 お話ししたかったことのなのです。



というのは、

憲法の理想は、
いつの日か必ず実現されるものであるからです。


憲法9条が、

アメリカから押しつけられたものであるにせよ、
日本国憲法として一旦掲げて、70年間も我が国が維持してきた以上、

その理想を、ここで取り下げたら、
我が国を、後世の世界中の人々から、
蔑まれ、軽蔑される国家に貶めることになるからです。


憲法の理想を実現するまで、
歯を食いしばってでも、その実現に我が国が邁進して、
世界中の人々に働きかけをすれば、

逆に、
フランスの人権宣言やアメリカの独立宣言と同じレベルの称賛と敬意を
受けることになるだろう と、確信しています。


「憲法の理想は、いつの日か必ず実現されるものである」
と、申しましたが、

いつ実現するのだ とか
本当に実現する保証があるのか、

と、疑問に思われる方がおられると思います。


その様な方には、

憲法の理想は、
10年や20年という短期間で実現するものではなく、
100年、いや 数百年単位の歴史を経て実現するものである

ということをご理解くださるようお願い申し上げます。


例えば、

現在、愛知県知事が、隣の岐阜県を侵略しようとしている、
というニュースがながれたとしても、
誰も本気に思う人はいないでしょう。

でも、500年前には、
現在の愛知県知事に相当する織田信長が、美濃国を征服しているのです。


歴史は、
技術の進歩に従って、その管理単位、行政単位が拡大していきます。

500年前には、現在の県単位で、それぞれ独立国として分立していました。
それが、技術の進歩により
現在では、日本という国単位に 統一されているのです。


500年前から現在までの動きを、将来に引き延ばすと、
技術の進歩により、
将来においては、管理単位として国家では手狭となり、
地域共同体が、管理単位となる日が確実にやってくるだろうと推測できます。

その様な日が訪れれば、
地域共同体の内部での国家間の争いはあり得ないものとなります。


歴史の大きな流れを見ると、

1990年頃、冷戦の終了に伴い、
500年間続いた国民国家の歴史が終了して、
地域共同体から世界連邦への数百年単位の歴史の歩み
が、始まっているのです。

1990年代、この様なことを申し上げたら、
誰もまともに相手にして頂けず、寂しい思いをしましたが、

それから四半世紀経った現在では、
何人かの方には、ご理解して頂けるようになったのでは、
と、期待しています。

 

EUが、成立し、統一通貨のユーロが流通しているのは、
その歴史の流れの表れですし、

TPP交渉も、
アジアでの地域共同体への歴史の流れの萌芽だと考えられます。

注) TPP交渉に、諸手を挙げて無条件に賛成しろ と、
   申しているわけではありません。

   地域共同体が成立するまでは、
   利害やイニシアティヴを巡って、国家間の激烈なせめぎ合い
   が、ありますので、

   どうすれば国益を最大限実現することができるのか、について、
   従来以上に良く検討して、交渉に臨むべきだと思います。


以上が、
憲法の理想は実現するので、

現在 現実と理想が、いくら乖離していようと、
一度掲げた旗は降ろすべきではないと考える所以であり、

憲法論議の際に、忘れてはならない大事な論点である
と、考えています。



最後に、
1990年代に、国民国家の時代が終了して、

歴史が、地域共同体から世界連邦への歩みを始めた
と、語っても、
誰からも理解されなかった との思い出 を お話ししましたが、


最近読んだ本で、

19世紀、ヴィクトル・ユゴーが、
この歴史の流れを見抜いていたことを知り、

吃驚すると共に、
歴史の見方についての同志を見つけたと喜びました。


憲法の理想が実現する日が確実に来ることの一つの論拠として

ユゴーの記述を、
少し長くなって恐縮ですが、ご紹介させて頂きます。


出所 リュシアン・フェーブル著
    「”ヨーロッパ”とは何か?」299㌻~300㌻ (刀水書房)


フェーヴルは、
ヴィクトール・ユーゴの記述を、次のように引用しています。


  諸君

  戦争が、コミューンとコミューンの間、
       都市と都市の間
       地方と地方の間 に 存在していた

  4世紀も前の時代に、

  誰かが、

  ロレーヌ地方、ピカルディー地方、ノルマンディー地方、
  ブルターニュ地方、オーヴェルニュ地方、プロヴァンス地方、
  ドーフィネ地方、ブルゴーニュ地方

  に向かって、こう言ったとしよう。


  「あなた達が、最早、戦争をしなくなる日が訪れるだろう。
   軍隊を動員し、対峙させるようなことをしなくなる日が。

   そのとき、
   何を持って、軍隊の代わりをさせるか 知っておられるか。
   何をもって、歩兵、騎兵、大砲、小型軽砲、槍、剣の代わりをさせるか。

   投票箱 と、皆さんが呼ぶだろう、モミの木製の小箱だ。
   この箱から、何が出るかって

   議会だ。
   あなた達が生きていることを実感できる議会。
   魂のような議会。

   決定し、裁き、すべてを法に従って解決し、
   そして 各人に向かってこう言う、至上権を持つ人民の議会だ。

   お前の権利は、ここまで。
   ここから、義務が始まる。

   武器 を 置け 
   平和 に 暮らせと。

   そして、その日には、
   あなた達は、想念と利害と運命を一つにするだろう。

   抱き合い、お互いが対等で、
   同一の人種に属している と、認められるだろう・・・・・・。

   あなた達の名は、
   最早 戦争ではなく、文明となるだろう」。



  もし、
  当時、誰かがこの様に言ったとしたら、

  当時の実利的精神の持ち主、
  真面目な人々、
  政治家たちは、

  こぞって、こう叫んだことだろう。

  「夢想家め
   空ろな夢
   こいつは、人間のなんたるかを ちっとも知らない」。



  さて、今日に 話を移すなら、

  フランス、イギリス、プロイセン、オーストリア、
  スペイン、イタリア、ロシアに向かって、

  諸君は、こう言われる。
  私も、諸君と共に、こう言う人々の一人である。


  「あなた達の手から、武器が落ちる日が訪れるだろう。

   今日、
   ルーアン と アミアン    の間、
   ボストン と フィラデルフィアの間 で、

   戦争が起こることなど考えられない。

   それと同じように、

   パリ       と ロンドン の間、
   ペテルブルク と ベルリン の間、
   ウィーン    と トリノ   の間 で、

   戦争が起こることなど、あり得ず、 馬鹿馬鹿しく思われ、


   フランス、ロシア、イタリア、イギリス、ドイツ、
   大陸のすべての国民が、

   自らの特性 と 輝かしい個性 を 失わずに 融け合い、
   上位の一つに まとまりとなる日 が。


   ノルマンディー地方、ブルターニュ地方、
   ブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、アルザス地方など、

   我々のすべての地方 が、
   フランスの中で融け合ったのと 全く同じように・・・・・・。


   この様な物が、良く作られたものだと驚きながら、

   拷問用具を陳列するように、
   大砲を陳列する日が。


   アメリカ合衆国 と ヨーロッパ合衆国 という
   ニ大グループ が 向かい合い、海を越えて 手を差し伸べ合う。

   物産、商業、工業、技芸、才能を交換する。

   地球 を 開墾する。
   砂漠 に 植民する。

   創造主の見守る中で、被造物を改良する。

   人間の友愛 と 神の力 という、
   あの二つの無限の力 を 組み合わせ、

   そこから、
   万人の幸福 を 引き出す。

   この様な日 が、訪れるだろう」。


   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。

    < 次々回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 次回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 今回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 前回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



< 捕捉 > ユーゴ の 次の文章 についての 補足説明
       2020年2月21日記述

補足説明させて頂く「ユーゴの文章」は、次の通りです。

今日、
ルーアン と アミアン    の間、
ボストン と フィラデルフィアの間 で、

戦争が起こることなど考えられない。

それと同じように、

パリ       と ロンドン の間、
ペテルブルク と ベルリン の間、
ウィーン    と トリノ   の間 で、

戦争が起こることなど、あり得ず、 馬鹿馬鹿しく思われ、


フランス、ロシア、イタリア、イギリス、ドイツ、
大陸のすべての国民が、

自らの特性 と 輝かしい個性 を 失わずに 融け合い、
上位の一つに まとまりとなる日 が。


ノルマンディー地方、ブルターニュ地方、
ブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、アルザス地方など、

我々のすべての地方 が、
フランスの中で融け合ったのと 全く同じように・・・・・・。


リュシアン・フェーブル著
「”ヨーロッパ”とは何か?」299㌻~300㌻ (刀水書房)




ユーゴ は、

イタリアのハプスブルグからの独立戦争、
アメリカ南北戦争
の後に、記述したもの と 思われます。

「今日、
 ルーアン と アミアン    の間、
 ボストン と フィラデルフィアの間 で、

 戦争が起こることなど考えられない。」
について、


「ルーアンとアミアン」の間の戦争 とは、
百年戦争のことだろうと思われます。

百年戦争 とは、フランス国内の 覇権争いでした。

即ち、
イングランドは、
1066年 ノルマンディ公が征服した後、男系 が 断絶して、
アンジュー家と結婚した娘の系統である プランタジネット朝 が
統治しましたが、

13世紀初頭 フランス王フィリップ2世 が
ジョン王 の 失政をついて、

フランスの西半分から プランタジネット朝 を イングランド に
たたき出したことによる

イングランド王 の
フランス封建諸侯 としての フランス領土 の 奪回のための戦い
でした。

「ボストンとフィラデルフィア」は、
アメリカの南北戦争 を 指している のでしょう。

ですから、ユーゴ は、

19世紀後半において、

フランス と イングランド との 百年戦争 や、
アメリカの内乱 は、再び 起きないだろう

と、主張しているのです。


「それと同じように、

 パリ       と ロンドン の間、
 ペテルブルク と ベルリン の間、
 ウィーン    と トリノ   の間 で、

 戦争が起こることなど、あり得ず、 馬鹿馬鹿しく思われ、


 フランス、ロシア、イタリア、イギリス、ドイツ、
 大陸のすべての国民が、

 自らの特性 と 輝かしい個性 を 失わずに 融け合い、
 上位の一つに まとまりとなる日 が。


 ノルマンディー地方、ブルターニュ地方、
 ブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、アルザス地方など、

 我々のすべての地方 が、
 フランスの中で融け合ったのと 全く同じように・・・・・・。」

については、
ユーゴ が、間違っている と 感じる方 が おられるでしょう。


「パリとロンドン、ベルリンとペテスブルグ」

即ち
フランスとイギリス、ドイツとロシア は、
20世紀 に 総力戦 を 戦っています。

「ウィーンとトリノ」とは、
サヴォイア公が、ハプスブルグ家に戦いを挑んで、
イタリア を 統一したことを 指している と、思われますが、

オーストリとイタリア も、
第一次大戦 で、戦っています。


ここで、
ユーゴ が、おっしゃりたかったことは、

「数百年単位 では、国家間の戦争 が なくなるだろう」
と、いうことだろう と 思います。

第2次大戦後、EUが誕生して、
今日現在では、ユーゴが主張するように

ヨーロッパ各国間 で 戦争 が 勃発する可能性が、
非常に低くなっていることは、ご納得頂けるでしょう。

でも、ヨーロッパ各国 が、
フランス政府 と フランス国内 の 各地方の関係みたいな
EU の 一地方 としての存在 に なっていないことも、
ご納得頂けると 思います。

ですから、

21世紀初頭
即ち
現在 の ヨーロッパ は、

ユーゴ が 主張する 数百年単位の
ヨーロッパ への 移行過程の段階 にあることを
ご認識 頂ければ 幸いです。


ご紹介したユーゴの文章 は、
リュシアン・フェーブル著「”ヨーロッパ”とは何か?」(刀水書房)
の 最後に 掲載されていたものです。

リュシアン・フェーブル は、
現在のフランス歴史学界の主流である アナール学派 を、
マルク・ブロックと共に創設した フランス中世史学界の第一人者で、

第2次大戦中に フランス・アカデミー で、
1年間に亘り ヨーロッパの歴史 について 講義した その最後に、
結びに代えてユーゴの文章を紹介されたような感じをしていますが、

フェーブル自身 は、目下の戦争に目を奪われて、
ユーゴの文章 に 反対だったようです。

この点において、フェーブルは、
第二次大戦中、戦後 EUが誕生することを見通した
E・H・カーより 歴史家として相当劣ると感じる所以ですが、

1990年代初頭 冷戦終了後、
500年間 の 国民国家の歴史 が 終了して
数百年単位 の 地域共同体、世界連邦への歴史 が
歩み出した と、話したとき、

誰一人として 理解して頂けなかったことは、当然のことだろう
と、フェーブルの本 を 読んで納得した 思い出 が あります。


本文で申し上げた「憲法9条の理念の実現」に、
数百年単位の時間が必要だということは、

このユーゴの文章からも ご理解頂くこと を 願っています。






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2014年9月 1日 (月)

集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・

ヨーロッパ史の本を、毎日読んで過ごしながら、
最近の集団的自衛権論議を見ていると、

人類の歴史においては、
長い間、慣習法こそが法律であって、

最近になって
(といっても、19世紀初頭、約200年前ですが、)

慣習法の土壌の上に、成文法が植林され、大きな森となったことにより
成文法だけが法律だと思われるようになったのだな、

でも、
成文法が、カバーしない部分、足りない部分については、
いつの間にか慣習法が生成されてきて、
成文法を補完するようになるものだから、

慣習法は、依然として、法律として生きていて、機能を果たしているのだな
と、感慨深く 感じるようになりました。



日本は、
明治時代にヨーロッパの法律を輸入、翻訳して
法律全般が 成文法の国となった 経緯 から、


慣習法は、

存在しないもの、
存在しても、成文法を補完するもので、
殆ど法的規範力がないもの

と、認識してきましたが、


その日本においてさえも、

成文法が規定していない部分
言い換えると
成文法の空白の部分については、

慣習法が、
成文法を補完して、自然に生成されてくるものだ との、

法律 の 本来の原則、
法律 の 本来的な生命力から依って来たる法則
を、強く感じる様になりました。


この様に申し上げると、
「法律を知らない素人論議だ」と、
法曹の皆さんから軽蔑され、一笑に付されるのだろうと思います。


法学部の授業は、
成文法の解釈技術者養成が授業の大半ですし、

日本において、成文法でない法規範は、
皆無に近いと言って良い状況ですので、

法曹の皆さんにとって
慣習法 は、無縁の世界だろうと思います。


しかし、

憲法9条を巡っては、
憲法の規定の空白が、確かにあり、

この70年間、
その空白を埋めるための慣習法が、
確実に生成されてきているのです。


慣習法の憲法が生成され、
法規範としての効力を持つようになって
憲法の空白が埋められてきたことは、

自衛隊の違憲論が影を潜めて、
自衛隊が、国民の間で承認されるようになり

今回の集団的自衛権論議で 野党が、
個別的自衛権でまかなえるので、集団的自衛権は要らないと

裏を返すと、
個別的自衛権までもが合憲である と、
認めるようになってきたことでも、明かなのです。


この様な事態は、
自衛戦争をも否定していた 憲法制定当初には
想定されていませんでした。


成文法は、
慣習法の土壌の上に植林された 人工物なのです。

成文法が、人工物であるが故に
成文法に、抜け や 瑕疵があって その修復が必要となったら、
慣習法の土壌から、必要とされる木が 自然に生えてきて、

ある時期、
その木が、成文法の法律として 国会で制定され、
母なる慣習法は、元の土壌に戻るのです。


憲法9条は、
日本では例外的に、この過程にある法律であることを、

専門家の皆様が、
改めてご認識されて、議論されることを願っています。

また、
法律家以外の 政治家や官僚、マスコミなどの関係者におかれても、

イデオロギー、党利党略に基づく議論ではなく、

法律とは何ぞや?
成文法とは何ぞや?との

法学の根底 を 出発点とする 憲法9条論議 が
なされるようになることを祈念しています。



憲法論議への一石となることを願って、
成文法と慣習法の観点から、

憲法9条における慣習法の憲法の生成について
私の考えるところを 以下において お話しさせて頂きたいと思います。



Ⅰ 憲法前文と憲法9条 の規定


お話に先立って、
憲法9条の理念を記述した憲法前文 と 憲法9条をお読みください。

なお、
私が気になるところを、太字で強調させて頂いておりますことをご了承ください。


憲法前文

日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、

われら と われらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と
わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、

政府の行為によって
再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、

ここに 主権が国民に存することを宣言し、
この憲法を確定する。


そもそも国政は、
国民の厳正な信託によるものであって、

その権威は 国民に由来し、
その権力は 国民の代表者がこれを行使し、
その福利は 国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、
この憲法は、
かかる原理に基づくものである。

われらは、
これに反する一切の憲法、法令及び勅令を排除する。


日本国民は、

恒久の平和 を 念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想 を 深く自覚するのであって、

平和を愛する 諸国民の公正と信義信頼して、
われらの安全と生存 を 保持しようと決意した。


われらは、

平和を維持し、
専制と隷従、圧迫と偏狭 を
地上から永遠に除去しようと努めている 国際社会 に おいて

名誉ある地位 を 占めたいと思う。


われらは、
全世界の国民 が、

ひとしく 恐怖と欠乏から免れ、
平和のうちに生存する権利 を 有すること を 確認する。


われらは、

いづれの国家も、
自国のことのみ に 専念して
他国 を 無視してはならない のであって、

政治道徳の法則は、普遍的なものであり、

この法則に従うことは
自国の主権 を 維持し、
他国 と 対等関係に立とうとする 各国の責務 である と 信ずる。


日本国民は、

国家の名誉にかけ、
全力をあげて この崇高な理想と目的 を 達成することを誓う




憲法第9条 (戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)


1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
  国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
  国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない




Ⅱ 憲法前文 と 憲法9条 が、規定しているものと、規定してないもの


1.規定しているもの

  ① 憲法は、
    前文において、絶対的平和の実現という理想を高々と掲げて、

    その実現のために、
    他国に先駆けて軍隊及び軍隊同等の戦力を放棄すると規定しています。


    即ち、
    今後日本国が進むべき方向、理想を規定する
    と、同時に、

    日本国は、世界が絶対的平和の実現するように、努力する
    と、宣言しているのです。


    更に、日本国民に対して
    日本が今後目指す理想 と、理想の実現に向かっての努力義務
    を、命じているのです。


  ② 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
    軍隊を放棄した日本の安全を図っていくと、宣言しています。

    また、
    全ての国に共通する普遍的な政治道徳についても言及して、

    各国が、普遍的な政治道徳の責務を誠実に果たすであろうと
    日本が、信じることも 軍隊を放棄する根拠に挙げています。


    要するに、

    日本との関係を持つ諸国、
    とりわけ
    日本を攻撃する可能性がある 周辺諸国 が、

    普遍的な政治道徳に従った公正で信義に厚い国である
    ということを前提にして
    日本の武力放棄を宣言しているのです。


  ③ 「国権の発動たる戦争」と規定し、
    戦争のみならず、
    武力 即ち 軍隊を背景にした 軍事的な威嚇や行使をしない
    と、規定しています。



2.規定してないもの


  ① 憲法は、目指す理想を掲げるだけで、
    どのように実現するか、についての 具体的な方法論、方策は、
    規定していません。

    これは、法律以下に任せているのでしょう。

    言い換えると、
    実際に政治を運営する政府、国会に任せているのです。


  ② 軍隊及び軍隊類似の存在の放棄を規定していますが、
    警察権、警察活動については、規定していません。

    また、
    日本の安全は、平和を愛する諸国民を信頼するとだけ規定して、
    刑法が規定する正当防衛、緊急避難について、全く言及していません。

    警察活動、正当防衛、緊急避難などは、
    当然憲法は認めていると考えるのが、常識的な判断だろうと思いますが、
 

    自衛戦争をも否定している憲法が、
    
    自衛戦争と正当防衛、緊急避難とをどのように区別しているのか、
    についての定義が、なされていません。


Ⅲ 憲法に対する 日本人の対応


憲法は、理想を高く掲げて、
その実現を、日本国民に委ねたのですが、

戦後の推移を概観すると、
日本国民は、真面目に理想の実現に取り組まなかった
と、いうべきだろうと感じられます。


1.自民党

  戦後の一時期と最近の3年間を除いて、
  自民党(もしくはその前身の政党)が、戦後、継続して政権を担ってきました。

  現在の憲法は、
  アメリカに押しつけられた憲法であり、

  アメリカの占領が終了して、独立を回復すれば、
  占領下の憲法を改正するが通常であり、常識ですので、

  自民党もその常識に従って、
  憲法改正を党是として、発足しました。

  米ソの冷戦下において、憲法の理想の実現は不可能だし、
  それよりも、政権政党としては、
  目先の日本や国民の安全の確保が優先すると判断されて、
  日米安保体制を構築して日本の安全を維持してきたのです。


  自民党が担った日本政府は、アメリカの同盟国として行動し、
  永久平和な世界の実現のために、日本がイニシアティブをとることは
  ありませんでした。

  ですから、
  憲法の理想の実現を全く無視してきた とまでは、言えないまでも、
  結果として、憲法の理想を実現するための具体的な行動はとらなかった、
  と、言えると思います。


2.野党、護憲勢力

  野党や護憲勢力の皆さんは、
  マルクス主義を信奉 もしくは 親近感を持っておられる方々
  を、中心とした 政治勢力でした。

  マルクス主義者は、
  モスクワの指令に基づいて 日本に革命を起こして、モスクワに日本を奉呈し、

  自分たちは、
  モスクワの代理人として、モスクワの指令に従って日本を支配すること
  を、目的としていました。

  戦後すぐに、ゼネストを計画して、革命を目指しましたが、
  占領軍に阻まれて実現できませんでしたが、

  いつの日か実現しよう、もしくは実現したい との願望を持って、
  政治に参画していたのです。


  彼らにとって、
  憲法9条は、日本の軍事力を弱体化させるものであり、
  自分たちの革命にとって大変都合の良いものでした。

  ですから、
  政治的スローガンとして、憲法擁護、憲法9条改正反対を唱えて
  日本の弱体化の固定を図ってきたのです。

  同時に、
  革命の実現に有利になるよう、
  例えば、アメリカの原爆は悪い原爆だが、ソ連の原爆は良い原爆であるなどの
  非常識な主張を平気ですると共に、

  日本やアメリカへの悪口雑言に反して、
  ソ連、中国などの共産圏諸国についての都合の悪い事実は
  口を拭って一言もしないとの態度だったのです。

  彼らは、
  日本を貶めることが目的でしたから、
  憲法が目指している永久平和の実現などは、どうでも良く、

  護憲、憲法改正反対は唱えても、口先だけで、
  憲法が求めていた永久平和な世界の実現のための具体的な活動などは、
  全く眼中にありませんでした。


3.日本国民

  憲法9条が、戦後70年間維持されてきたのは、
  日本国民が、憲法9条を支持してきたからです。

  占領が終って、独立が回復したら、
  占領軍に押しつけられた憲法は、改正されるのが普通であり、常識であるのに、
  なぜ改正されなかったのでしょうか。

  それは、
  太平洋戦争で、政府が、日本国民を「屠殺」しまくったため、
  もうその様なことは「御免だ」と、
  日本国民が、心底から考えるようになったからです。

  ここで、
  敢えて、政府が日本国民を「屠殺」しまくった、と過激な表現を使いました。

  それは、
  例えば、敗戦直前、
  45万挺の鉄砲しか9月末までに配給できないのに、150万人を徴兵して、
  武器も持たせずに米軍の攻撃の前に曝そうとしたからです。

  (注) 高木少将語録 第4回「陸軍の本土決戦論」
      http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3f2d.html


  また、子供の時に父から聞いた話ですが、
  父の学んだ 広島文理大(現在の広島大学)附属中学の理科系の生徒さん達は、
  米軍が、新型爆弾を使うから、後学のためにどのようなものか見に行け
  と、わざわざ疎開先から広島に戻らされて、被爆したそうです。

  これは、
  アメリカが原爆を使用することを、事前に国内で広く知られていたことを
  意味していて、

  それでいながら、
  政府が、敗戦を認めず、漫然と時を過ごしていたこと、

  言い換えると、
  国民を屠殺してもかまわないと考えていたことの現れの一つであり、
  一事が万事だと 思います。


  「屠殺は、二度と御免だ」と考えた日本国民も、
  他国に先駆けて武力放棄して、他国の侵略を挙手傍観してまでも
  憲法の理想の実現に努力しようとは考えませんでした。

  ですから、
  自民党のアメリカとの同盟政策を支持して、自民党に政権を託してきたのです。

  でも、
  託しすぎて、自民党が憲法を改正し、
  またいつの日か、国民が政府により屠殺される事態が生じたら困りますので、
  改憲に必要な議席までは、自民党に与えませんでした。



以上、
政権を担当した自民党も、
自民党に反対する野党も、

更には、
日本国民も、

要するに、日本中で
憲法を、都合よく利用する人はいても、

本気で憲法の理想を実現しようとする担い手は誰もいない状態で、
今日まで至っているのです。



Ⅳ 憲法が想定していない事態の発生

もともと、憲法の理想と現実は、大きな乖離があったのですが、

憲法は、
その乖離をどのように埋めるか、具体的な道筋を示さず、

その実現を委ねられた 与野党 も、
それぞれの立場から、本気で理想を実現しようとはしませんでしたから、

大きな乖離があるがままに憲法制定してから70年近くが経てる間に、
憲法が前提としなかった次の2つの事態が生じました。


1.軍隊が、従来 警察活動だった分野も担当する時代になったこと

2.周辺諸国が、
  普遍的な政治道徳を持っておらず、
  公正と信義を信頼できないことが、明白となったこと。



1.軍隊が、従来 警察活動だった分野も担当する時代になったこと


  犯罪者、犯罪組織の実力が大幅にパワーアップしたことにより、
  その犯罪行為の取り締まる側が、従来の警察活動では対処しきれず、
  軍隊の力が必要となってきました。

  これが、初めてはっきりと認識されたのは、
  フセインのイラクが、クェートに侵入したときです。

  フセインのイラクのクェート侵入は、
  従来型の国権の発動たる武力の行使ではなく、
  完全な犯罪行為とも言うべきものでした。

  ですから、
  国連軍は組織されませんでしたが、
  アメリカを中心とする多国籍軍が、イラクをクェートより排除したのです。

  国家の犯罪行為に対しては、
  従来の警察活動では、取り締りが不可能であり、
  軍隊による警察活動が、これからは必要だと認識され、

  軍隊も、
  従来型の国権の発動たる戦争ではない活動もするようになったのだな、
  と、理解されるようになったのです。


  次に、
  9.11のときに、ブッシュ大統領が、「テロとの戦い」を宣言したことです。

  私は、この宣言を聞いたとき、
  ハイジャック犯の取り締まりなら、軍隊を使わないでも、
  従来型の警察活動で十分ではないかと、最初違和感を感じました。

  その後、
  アルカイダが、軍隊に匹敵するゲリラ戦を行う組織であり、
  アメリカ軍でさえ、なかなか対応に苦労する力を持ち主であることが
  明らかになり、ブッシュ大統領の宣言に対しても、違和感がなくなりました。

  この様な 軍隊の役割に警察活動が加わったことは、
  時代の推移により生じた憲法が想定していなかった事態です。


  実は、
  軍隊が、今まで警察活動を全く行っていなかったわけではありません。

  例えば、
  戦前、米騒動が生じたときに、軍隊が出動したとのことですし、
  戒厳令が発令されたら、治安維持は、警察ではなく軍隊の役割なのです。


  また、
  国道に不発弾が見つかったら、
  警察ではなく、自衛隊の処理班が出動します。

  これも、
  国権の発動たる戦争行為、武力の行使ではなく、
  警察活動に対する補完行為なのです。


  自衛隊は、
  戦後長い期間、地道に日本近海の機雷除去の作業を行ってきました。

  これにより、
  日本の掃海能力は、世界的に見て大変高いレベルにあると
  評価されるようになったのです。

  この作業を、
  戦争行為、武力の行使と言う人は 誰もいないでしょう。

  道路の不発弾処理と、海上の戦時中に敷設された機雷除去は、
  同じ性格のものなのです。


  今回、
  ホルムズ海峡に機雷が敷設された場合に、
  自衛隊を掃海作業に派遣することに対して、
  野党から憲法が禁止する武力の行使だとの主張がなされました。

  ホルムズ海峡は、
  世界貿易にとり、安全を確保しておかなければならない国際海峡なのです。

  そこに、機雷を敷設することは、
  国道に地雷を敷設するのと同じ行為であり、
  その除去は、警察行為であると、考えるべきでしょう。


  何処かの大学の先生が、
  日本の経済権益が侵害されるからといって自衛隊を派遣するのは、
  戦前中国に侵略したときの軍隊と同じ論理である、
  と、おっしゃっておられるのを読んで、あきれ果ててしまいました。

  某国に攻め込む事前準備のための掃海活動は、武力行使だと思います。

  しかし、今回議論となっているのは、
  日本が、
  日本向けだけでなく、
  全ての国に向けて航行するタンカーの安全を図ることです。

  国道に敷設された地雷を除去するのと同じ性格の行為が、
  どうして武力の行使となるのでしょうか。

  この様な議論が生じるのは、
  軍事行為、軍隊の活動に対して、
  帝国主義時代の認識しか持っていないことを表白していますね
  と,言わざるを得ません。

  戦前、海軍の年次計画に対して、
  「明治の頭」で考えていると、酷評した海軍首脳がいましたが、

  上記の議論は、
  21世紀において,19世紀の頭で軍隊を議論していると言われても
  仕方が無いのではないでしょうか。


  憲法前文には、
  全世界の国民が、
  平和のうちに生存する権利を有することを確認する、

  我々は、
  平和を維持しようと務めている国際社会において、
  名誉ある地位を占めたいと思う、と宣言しています。

  自らの生命の危険を顧みず、
  国際航路の安全を確保するために機雷を除去する作業をすることは、

  平和を維持することであり、
  日本が、国際社会に名誉ある地位を得るための具体的な努力
  ではないでしょうか。

  野党や護憲勢力の皆さんに、この様な視点が欠落しているのは、
  日本を貶めて、他国に日本を奉呈しようとして、護憲を主張してますよ
  と、表白しているのではないでしょうか。

  少なくとも、
  憲法の理想の実現など、眼中になく、どうでも良いこととおっしゃっておられる
  と、私には感じられます。



2.周辺諸国が、
  普遍的な政治道徳を持っておらず、
  公正と信義を信頼できないことが明白となったこと。


  最近の中国や韓国、北朝鮮の動向について、一々申し上げる必要は無いだろう
  と、思います。

  中国は、

  尖閣諸島について、資源があると分かったら領土を主張し初め、
  最近では、沖縄まで侵略しようとしています。


  韓国は、

  竹島を不法占拠している上に、
  日韓条約で解決済みの慰安婦問題を持ち出し、
  大統領を先頭に、歴史をねつ造して噓を全世界にばらまき、
  日本を貶めて、金をむしり取ろうとしています。

  日本は、
  日韓条約で、韓国に、当時の韓国の国家予算の2倍以上の資金を
  支払ったことを初めとして、

  その後も、ことある毎に、
  いろいろな分野で、多額の支援や技術援助をしてきました。

  韓国は、
  これらの日本の好意を、感謝するどころか、
  反日教育をして国民を扇動して、日本を貶めようとしている国であり、

  普通なら、
  国交断絶してもおかしくない行為
  19世紀なら、戦争になったであろう行為 をしている国なのです。


  北朝鮮は、

  朝鮮戦争で不法に南に侵略をしたり、
  その後も、
  日本の主権を踏みにじって、日本人を拉致してきた国なのです。


  以上概観したように、日本の隣国であるこれらの3カ国が、
  一般人なら犯罪者として扱われてもおかしくない国であることが明白となり、

  日本としても、
  憲法の理想は理想として、
  彼らの不法な攻撃への対応を考えねば、独立を維持していくことが難しいことが
  はっきりしてきました。

  更には、
  彼らが、日本国内での工作活動を活発に行っていることが、
  あぶり出されてきました。

  朝日新聞が、
  慰安婦のねつ造報道を自白したことにより明らかになったのように、

  日本のマスコミに、中国や朝鮮人 が 入り込んで、
  日本人が、日本を貶める内容の記事を書いている風を装って、
  工作活動をしてきたのです。

  (注) 朝鮮人とは、

      在日を含む 韓国人、北朝鮮人、
      並びに 日本に帰化した 朝鮮系日本人 を 指しています。

      また、
      朝鮮とは、韓国、北朝鮮 を 指しています。

      以下の記述も、同様です。

      なお、
      日本に帰化した朝鮮系日本人を朝鮮人と呼ぶのは、

      アメリカにおいて 米国に帰化した朝鮮人が
      アメリカのためでなく朝鮮のために活動しているので、

      彼らは、帰化した後も 依然として朝鮮に忠誠を誓っている
      と、判断したからです。


  政界においても、野党のみならず、
  政権与党である自民党にも、中国や朝鮮の工作員と思われる政治家の存在が、
  メッキがはがれるように、明らかになってきました。

  例えば、
  自民党の有力者だった小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏は、
  民主党政権下において、中国や朝鮮の工作員ではないか、
  と、疑われるような行為をされておられることが、
  ネットが一般化したことにより、明らかになりましたし、

  最近では、
  自民党の重鎮で、派閥の長や主要大臣、党三役を経験された方が、
  共産党の機関誌である「赤旗」に寄稿されて、世間を唖然とさせる事態が
  生じています。

  また、自民党や政府関係者において、
  中国や朝鮮のための工作を行っているのではと、疑心暗鬼にさせられる方も、
  ちらほら見受けられます。

  この様に、
  中国や朝鮮が、日本のマスコミや政権中枢の奥深く入り込んで、
  日本を根っこから 腐らせて転覆させようとしていることに対して、
  対処が必要となってきたのです。

  このことは、
  日本国憲法が想定していなかった事態です。

  もしくは、
  その様な外国からの工作に対しては、
  日本の政治を担う与野党が一致結束して、
  憲法の理想を現実化するように努力すべし
  と、憲法が命じていたのです。

  ところが、先ほど申し上げたように、
  与野党だけでなく日本国民も含めて、憲法の理想の実現を、
  自分の使命だと思って、本気になって実現する体制からほど遠い状況が、
  戦後70年間続いてきたのです。



Ⅴ 慣習法の憲法の生成


以上述べた状況の中で、
自衛隊や日本の防衛を巡って、慣習法の憲法が生成されてきました。


慣習法の憲法が生成されてきた背景を、
もう一度列挙して整理させて頂きます。

1.憲法は、
  理想を宣言して、言い放すだけで、
  理想の実現するための具体的方策を指示してなかった。

2.憲法は、
  軍隊の保持のみならず、自衛戦争までも禁止しておきながら、

  侵略戦争と自衛戦争の区別
  軍事行動と警察行動の区別、
  自衛戦争と正当防衛、緊急避難との区別について、定義しなかった。

3.日本人は、
  憲法の理想を実現しようとする能動的な行動をとらなかったが、

  戦時中に国民が政府により屠殺されたトラウマが大きく、
  国民が、憲法改正も実施させずに
  理想と現実に大きな乖離があるままに約70年間放置されてきた。

4.時代の進展により、
  軍隊が、従来警察活動の分野とされていた業務も担当するようになった。

5.日本の周辺諸国が、
  憲法が前提とした、普遍的な政治道徳を持たず、
  公正と信義を信用できない国であることが、明らかになった。


今回の集団的自衛権についての議論において、
反対論者が、

解釈改憲に反対しながら、
自衛隊はもとより、個別的自衛権までもが合憲とおっしゃっておられるので
反対論者も、解釈改憲をされているではないか と、びっくりしました。

私は、
憲法解釈としては、自衛隊は違憲な存在だとせざるを得ないと考えています。

以前、日経新聞だったと思いますが、
後藤田氏が、警察予備隊を創設するときに、
「警察予備隊は、軍隊だ」とおっしゃっておられたと書いておられるので、

当時の政府は、
違憲の軍隊であることを承知で、自衛隊を創設されたのだなと、理解していました。


では、
違憲な自衛隊が、
何故、創設され、現在まで立派に運営されてきたのでしょうか。


それは、
先ほどから述べているように、

憲法は、理想を宣言しただけで、
外国が攻撃、侵略してきたときに、具体的にどのように対処するのかについて、
規定してなかったからです。

この憲法上の空白を埋めたのが、
自衛隊の創設であり、
慣習法の憲法が生成されてきたとお話しする所以なのです。

ですから、
慣習法の憲法という法的根拠を持った自衛隊を、廃止出来なかったのです。


集団的自衛権の反対される方が、政府の解釈改憲に反対と主張されるのは、
憲法の空白を認めず、空白を埋める慣習法の憲法を
ご理解されておられないためだ と、思われます。


自衛隊や集団的自衛権の議論は、解釈改憲ではなく、
憲法の規定がないところに、新たな慣習法の憲法を作ることなのです。

日本は、成文法の国ですから、
本来であれば憲法改正により9条を変更することが好ましいのですが、

戦時中 政府に屠殺されまくった日本国民が、
政府に改憲を許さなかったための、苦肉の策だったのです。


即ち、
日本国の安全に責任を持っていた政府、自民党が、
憲法の空白部分について、法律により対処して、
結果として、慣習法の憲法が生成されたのです。


これに反対する野党も、
政府自民党の現実への合理的な対応に対して、
反対を貫徹することが出来ませんでした。

従って、
いつの間にか、自衛隊が、その存在が承認されて合憲となり、
個別的自衛権までもを、与野党一致して認めざるを得なくなったのです。


以上が、
憲法、自衛隊、集団的自衛権についての戦後の歴史認識からのご説明ですが、

日本が成文法の国である以上、
やはりこの様な状況は好ましくないだろうと思います。


野党や護憲勢力までもが、
個別的自衛権まで認めるようになったのですから、

改憲論議は、改憲論議として別にするとして、

現行憲法においても、立法論としては、
憲法の理想は理想として、

① 理想をどのように実現するのかということと、
② その理想を実現するまでの間、日本をどのように防衛していくのか、
について、

憲法9条を補強する規定を、憲法に追加するのが望ましいのでは、
と、考えています。



追記  2014年9月4日付

早速このブログを読んで頂いた友人から、
次のようなコメントを頂き、返事しました。

友人のコメントは、
ブログを書いているときに、もう少しご説明しておいた方が良いのかな
と,考えた点のご指摘でしたので、

友人との対話をご紹介して、皆様の参考に供させて頂きます。


<友人のコメント>

もし、貴兄の言われたように、

平和憲法に係る慣習が数十年で生まれているのなら、
何か、慣習を慣習法へと具体的に変えて行くようなプロセスがいるように思います。
(立法か?、司法か?行政の出番ではないと思うのですが???)


<友人への回答>


「慣習法の憲法が、生成過程にある」というのが、
正確な言い方だろうと思います。

確かに、
中核部分は生成されてきたけれど、
最終的に、慣習法として固まったとは言えず、

これからも、慣習法の憲法は、
基本は変わらないけれど、もっと明確になっていくだろうと思っています。


慣習法は、
事実たる慣習が、徐々に法的効力を持つようになって、
最後には、成文法となるのです。


今回の対象は、憲法ですので、

日本人が、対象たる慣習を承認するようになると共に、

それと平行して、
慣習法としての法的効力を持つように生成される過程において、
当然、憲法の下位の法律 が、制定されてきてます。

今回で言うと、
自衛隊法とかその周辺の法律、
今回の集団的自衛権関連でこれから制定される法律などです。

憲法は、制定(規定)されていないけれど、
憲法が、制定(規定)されたとしたら、憲法の下位に制定されるべき法律が、
着々と整備されてきて、

これなら、
成文の憲法が制定されていないだけではないか
と、思われるようになってきたので、
慣習法の憲法が、生成されてきた と、申し上げたのです。


野党が、
政府自民党に対して、「解釈改憲」反対を主張していますが、

解釈改憲される度に、
憲法の空白を埋める法律が整備され、

法律の上位に存在する慣習法の憲法が徐々に姿を現してきている
と、私には感じられるのです。


慣習法の憲法が、
これからも変化するであろう 生成過程である というのは、

現状においては、
自衛権の発動について、理想を宣言する憲法に制約されて、
どこの国も保持している 全面的な自衛戦争 が、
現状では 依然認められていないからです。


政治の世界で、
「普通の国になる」とか、

反対派が、
「戦争の出来る国にしようとしている」と言われていますが、

これは、
まだ全面的な自衛権が認められていないことの現れだと思います。


本来 国が持っている自衛権を、制約なしに行使できるようになって初めて、
慣習法の憲法も完成するのだろうと思いますので、

現在は、
その進行過程にあるだろう申し上げたのです。


このことを、
ブログで はっきり書くと、

集団的自衛権に反対されておられる方から「けしからん」とお叱りを受けて、
ブログが炎上する事態になると困りますので、少しぼやかしました。


私が、
今回慣習法の憲法が生成されているな と、申し上げたのは、

憲法が理想を宣言しているだけで、現実にどのように対処するのか、

具体的には、
周辺諸国の侵略にどう対処するのかについての規定が空白だったのが、

戦後70年が経過するうちに、
自衛隊が創設され、国民の間に定着し、

国民が、
自衛のための戦争は受けて立たざるを得ないとの意識に変わってきて、


例えば、
尖閣に、中国が攻めてきたら防戦するのもやむなしとの意識になってきたので、

大変な意識の変革があったなのだな と、感じたからです。


憲法制定当時、
憲法学者の宮沢先生は、先生の憲法のコンメンタール(憲法の逐条解説)で、

「自衛戦争の名目で侵略戦争が行われてきたことがあるので、
 日本国憲法は、自衛戦争をも禁止している」
と、記述され、これが通説とされてきました。

この記述と、
先ほど述べた現在の日本人の意識、感覚の大変な違いを
お感じ願えれば と、思っています。


この違いは、
この70年間の推移により生じ、

創設当初、誰もが違憲だと内心感じていた自衛隊も、
今日では野党でさえ合憲というようになったのです。

(野党が、
 自衛隊を合憲と認めている と、言うと お怒りになるのであれば、

 少なくとも、
 自衛隊創設当初主張された 自衛隊は違憲だとの主張は 引っ込められた
 と、言えると思います。)


しかも、
尖閣への侵略の恐れがあり、

更には、
沖縄で街宣活動して、沖縄征服の野心を露わにしている中国に対して、

集団自衛権をも認めて、そのための法整備をしようというのは、

憲法の理想は理想として、
現実に日本が侵略されたら、自衛のための戦争もやむを得ない
との意識が 国民に定着して、

それに対処した法整備を政府が行い、
国民が、その政府自民党を支持していることであり、

これは、
現実に対して どう対処するかの慣習法の憲法が
生成されてきている事を意味していると、言えるのでは

と、感じたので、今回のブログを書いたのです。


識者の中には、
国際法は、自衛権として、個別も、集団も認めているのに、
個別の自衛権しか認めていないのは、憲法の欠陥であり、

国際法と異なる規定をしている憲法はおかしい
と、おっしゃる方がおられますが、

これは、
二つの意味で間違っていると思っています、


一つは、憲法解釈の問題で、

(アメリカの押しつけだけど、国民が圧倒的に支持してきた)
憲法の理想に基づいて

憲法は、交戦権を禁止していますので、
日本に 自衛戦争を含む 一切の戦争 を 認めていないのです。

言い換えると、

憲法は、
日本が攻められても、国を守るための自衛戦争を一切禁止している
というのが、現行憲法の正確な文理解釈なのです。

従って、
個別的自衛権も、当然 禁止されているのです。

時代が変わっても、憲法の規定は変わっていませんので、
憲法は変遷すると言って、
「書いてもいないことを 書いてある」と、解釈するのは、
日本が、法治国家ではなくなることになります。


個別的自衛権を、
憲法が認めていると解釈する 一つの方策 が、
このブログでご説明してきた論理なのです。

即ち、
憲法は、理想を宣言したものの、

① 理想を実現する方法論に関する規定 と
② 理想を実現するまで、日本が攻撃されたときの規定
についての空白があるため、

憲法の空白という欠陥に対処して
日本人が生成してきた 慣習法の憲法 が

「憲法の理想が、国際社会で実現する前に 日本が攻撃されたら、
 日本を防衛するのが当然だと、認めているから、
 日本が自衛戦争しても、憲法解釈上 違憲ではない」
と、しなければならないのです。

言い換えると、
現状では、憲法の空白という欠陥 を、
慣習法の憲法に従って、下位の法律で補っている
と、主張し、

最終的には、憲法裁判所である最高裁で、
この論理を認めてもらわなければ ならないのです。


日本では、
日本の法律の母国であるヨーロッパでは、
慣習法の上に成文法が存在しているのですが、

成文法の解釈学が法律の学習だとお考えになって、
慣習法への認識はおろか、
法制史もまともに学んでおられない大多数の法曹のお歴々に、

「このことを、理解して頂けるものなのでしょうか?」と、問われると、
「どうですかね・・・」と、言わざるを得ないのが、残念です。

ただ、
最高裁の判事の皆さんは、知恵者揃いですので、

この論理を認めないでも、他の方策を考えられて
違憲判決はお出しにならないだろう と、信頼し、確信をしています。

(注)他の大学は知りませんが、私の学んだ大学(法学部)で、
   西洋法制史の授業を受けていた人は、600人中、数えるほどでした。


二つ目は、
国際法は、現実にどう対処するかを定めた規定ですが、
日本国憲法は、理想を宣言したものである ということです。

即ち
国際法と憲法では、拠って立つ立場が、異なっているのです、


人類の歩みの 何歩も先の理想を 憲法に規定するのは、
それは、それでありうる と、思われます。

ですから、ブログでも書いたように、

議論すべきは、

憲法は、
理想を宣言するだけでなく、

1.理想に向かって、どのように現実を変革していくのかという、
  理想実現の為の方法論と、

2.理想が実現するまでの間の現実に、どう対処するのか

についても、規定すべきであったし、

自民党が主張する抜本的な憲法改正とは別に、

現行憲法の規定の追加の議論を、
今からでも おこなうべきでは と、申し上げたいのです。

                                以 上


   (参考) 憲法9条に関する ブログは、次の通りです。

    < 次々次回 の ブログ > 

    憲法を素直に読むと、個別的自衛権も、自衛隊も、違憲では?
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0b64.html

    < 次々回 の ブログ > 

    砂川判決(砂川事件最高裁判決)における 慣習法憲法の生成
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-f6aa.html

    < 次回 の ブログ >

    憲法9条論議で、忘れてはならない大事な論点
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-4176.html

    < 今回 の ブログ >

    集団的自衛権論議で欠けてる視点・・・慣習法の憲法の生成・・・
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-b14a.html



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