ヨーロッパ中世史

2021年10月14日 (木)

フランスとドイツは、積み重ねの歴史の国?それとも 繰り返しの歴史の国?

知人より、掲題の質問 を 受け、次のような回答 を しました。
少し面白いテーマなので、
ご参考までに書き写してご参考に供させていただきます。


          **********


結論から申し上げると

フランスは、

積み重ねの歴史 の 担い手 が、半分
繰り返しの歴史 の 担い手 が、 半分 の国で

これが、
イングランドとの植民地争奪戦(第2次百年戦争)で
フランスが、イングランド に 後れを取った原因 だろう
と、思っています。


ドイツは、

本来的に 繰り返しの歴史の国でした。

フランス革命後
ナポレオンに敗れたプロイセンが、奮起して
プロイセンを 積み重ねの歴史の国に転換させ

ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して
ドイツを統一し、ヨーロッパで覇を唱えるまでの
積み重ねの歴史の国に転換させたのですが

1990年 冷戦終了後、
繰り返しの歴史の産物であるマルクス主義を信奉する
東ドイツを合併したことにより

繰り返しの歴史の国に先祖返りして
繰り返しの歴史の国に戻ってしまった
と、感じられるのが、現在のドイツだと思います。

ドイツに対して、このような感じを持ったのは、
50年以上前に 大学に入学した年の秋に
3週間 南ドイツやオーストリアを中心にバス旅行した経験と

数年前に
ドイツ旅行した経験を比較して 感じたことなのです。

50年前には、
西ヨーロッパの国を訪れたな
との感じを持ちましたが、

数年前は、
ドイツの資本主義の心臓部であるフランクフルトにおいてさえ
冷戦時代の東方の国と思えるほどの 陰鬱さ、沈滞 を 感じて
驚愕したことが忘れられません。


以下、
フランス史とドイツ史の概略をご説明させていただきます。




1.最初に、

  フランスとドイツの国の成り立ちを理解するための前提として
  ヨーロッパと日本の「封建関係」について、
  一言述べさせていただきます。


日本の封建関係 は、
家臣は、主君に忠誠を尽くして、二君に仕えない
のに反して

ヨーロッパでは、
主君と家臣は、契約関係であり、
すく数の主君を持つ者 も ざらにあることが

異なる点である、
とよく言われますが、

私は、
これに疑問を持っていて、
これが、
ヨーロッパ理解を過つ原因になるのでは?
と、感じています。

ヨーロッパにおける封建関係が、
契約関係だとの認識には、同意しますが
日本の封建関係については、
疑問を持っています。


日本の封建関係は、
二層構造になっているのでは?
と、感じられます。

即ち
主君と家臣との関係 と
対等な 主君同士の 主従関係(契約関係)
(例えば、織田信長と徳川家康、豊臣秀吉と徳川家康)

最初の 主君と家臣との関係は、
一般に言われている通りの
複数の主君に仕えない との封建関係です。

二つ目の
対等な主君同士の主従関係(契約関係)とは、
ヨーロッパの封建関係と同質の
利害に基づく関係だろう と、感じられます。

例えば、徳川家康は、
織田信長や豊臣秀吉が存命中は、
信長や秀吉に従順に従っていましたが、

秀吉没後
豊臣家を打倒できる状況になると、

従来の主従関係を無視して、
豊臣家 に 牙をむいて 滅亡させて、
徳川幕府 を 創始しました。

これは、
ヨーロッパの封建関係と、
全く同質のもののように感じられます。


ヨーロッパで
日本のような主君と家臣の関係が一般化しなかったのは、
地域における権力構造が異なっているからのよう に
思われます。

この点への理解が、
ヨーロッパの歴史理解の前提となるような気がしています。

日本においては、
一つの国(尾張の国とか、美濃の国)の主君は、
原則そして 一人でした。

ところが、
ヨーロッパでは、一つの土地に、複数の主君が存在していました。

例えば、中世の北フランスは、
フランドル伯の領地でしたが、

同時に、
同じ土地に対して
フランス王も 国王としての宗主権 を 有していたのです。

更に、
神聖ローマ皇帝(ドイツ王)も、
フランドル伯の君主としての権利を主張していましたし、

フランドルとの緊密な経済関係を有するイングランドも
領土を奪取しようとして 派兵する動きも見せていました。


このように、
一つの領土 に 対して、権利 を 主張する 複数の君主 が 存在したことが

日本におけるような
主君 と 家臣 との 封建関係 が 成熟せず(一般化せず)に

日本における 君主間の契約関係しか
ヨーロッパにおいて成立しなかった原因では?
と、感じられます。


(注)ヨーロッパにおいても、
   主君と家臣の関係は、一般化はしなかったものの
   当事者間では、存在していたことを否定するものではありません。

   尼子家再興 に 奮闘した 山中鹿之助 のような 家臣 も 存在しましたし、
   武士道 と 同質と思われる の騎士道 も ヨーロッパに 存在していました。

   歴史というものは、
   All or Nothing と、明確に区分できるものではなく
   常にグレーゾーンが存在することを、 ご理解ください。



2.フランス史 の 概略

フランスは、

500年ころ ベルギー の トゥルネー から パリ に 進出してきた
クローヴィス が、建国した国です。

西フランク滅亡後(消滅後)
カペー朝が、 フランス王に選出され、

フランス革命まで
カペー朝の血統(本家の血統が途絶えた後は、分家の血統)が
支配しました。


フランス王に即位したカペー朝は、
フランス王として フランス全土に対する統治権を
理論上は持っていましたが、

実際に統治できていたのは
イール・ド・フランス(パリ周辺)
せいぜい パリからオルレアンまでの地域でした。

即ち、
パリ周辺の 弱小領主が、弱小ゆえに
フランス王に即位したのでした。

ドイツでも、
ハプスブルグ家 が 皇帝 に 選出されたように

フランスでも
強大な諸侯 は、フランス王 への 即位 を 阻まれたのです。


カペー朝がフランス王に即位した当時 の
フランス の 領土範囲は

東は、
シャンパーニュまでで
ロレーヌも アルザスも 神聖ローマ帝国(ドイツ)の領土でした。

また、
ソーヌ川、ローヌ川の東側も、
神聖ローマ帝国の領土で、フランスの統治権の範囲外でした。

パリの西側 は、
北のノルマンディーからピレネーまで
フランス王の宗主権の範囲内でしたが、

実際には、
ノルマンディー公、アンジュー伯、アキテーヌ公などが
統治、支配していて
フランス王の宗主権は、名目だけの存在でした

更に、
ブルターニュ公国、トゥールーズ伯は、
フランス王より独立していて、
フランス王の宗主権も及びませんでした。

(注)トゥールーズよりプロヴァンスにかけては、
   南のアラゴンとの統合の方 に 動いていたのでは?
   と、感じられます。

   アラゴン と トゥールーズ および プロヴァンス
   の 統合 を 阻止するため が、

   13世紀前半 に
   フランス王家とイングランド王家が
   プロヴァンス伯家の4姉妹 と 政略結婚した理由では?
   と、想像しています。

また、
北フランス は、フランドル伯の領土 でした。

先ほど述べたように
フランドル伯は、ほぼ独立していて、

その上位に、
フランス王、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、イングランド王が
宗主権を主張して けん制しあう 複雑な政治模様 を 呈していました。

(注)第4回十字軍 が、ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
   フランドル伯が、十字軍 が 建国したラテン帝国の初代皇帝 に
   即位しています。

   また、
   フランドル伯家 が、短期間で血統 が 断絶した後
   フランドル伯の娘と結婚した カペー朝の分家が
   その後の皇帝に即位しています。

   フランス王ルイ9世 が、 聖遺物を購入して
   パリの シテ島で、サント・シャペルを建立したのは、
   このような関係があったからでしょう。


フランスの歴史を一言で申し上げると、

パリ周辺の弱小領主が、
フィリップ2世以降 フランス王の宗主権を活用して
周辺の大諸侯 を
駆逐するか or 服従させるか、または 併合して、
統治権 を 拡大、確立し、

更には、
神聖ローマ帝国 や、
独立諸侯だった
フランドル伯の一部、ブルターニュ公、トゥールーズ伯より
領土を併合していって

フランスという国 を 統合、統一していった歴史
と、いえるでしょう



積み重ねの歴史の担い手は、
北フランスからフランドルにかけての地域の人々ですので、

フランス の 大部分の地域 では、
繰り返しの歴史の人々 が 居住しているのです。

従って、
フランスにおいては、積み重ねの歴史の担い手は、
少数派というべきでしょう。

しかし、
積み重ねの歴史の担い手が、
カペー朝が、フランス各地を併合する際に
主導的役割を果たしたのでは と、想像しています。

言い換えると、
フランスという国 を
リードし、形成した人 との側面から 観察すると

少数派の積み重ねの歴史の地域の人々が リードしたのでは
との 少し 別の見方 になるような気がしています。

例えば、
16世紀後半 フランスは、
宗教戦争の嵐 が 吹き荒れました。

この時期、宗教戦争をリードしたのは、
北フランス出身の人々だ
と、 渡辺一夫先生は、記述されておられます。

カルバン派
カトリック、
それに
ユマニスト の3派 が 現れましたがが、

その3派 の リーダー は、
全員 北フランス出身者だった というのです。

渡辺先生は、
繰り返しの歴史の地域である
ロワール川下流地方出身のラブレー研究における 世界的権威
で あられましたが、

その先生が、
16世紀後半 の フランス を 分析して、
フランス を リードしたのは、北フランス出身者だ
と、考えておられるのです。

ですから、
フランス史において、
北フランス出身者の影響力 は、無視できないのでは?
と、想像しています。



3.ドイツ史 の 概略

フランクの支配が終了して、ドイツ史と歩み始めたとき
ザクセン朝が、ドイツ王に即位しました、

ドイツは、フランク解体過程で
中フランク(ロタールの国)が、ドイツに編入されたため

ドイツ王が、
神聖ローマ皇帝 を 名乗る とともに

ローマ帝国の本拠だった、イタリア の支配に注力して
ドイツ国内の統治がおろそかになりました。

ザクセン朝の男系血統が断絶して、
ザクセン朝の娘 と 結婚した シュタウフェン朝 が、
ドイツ王 を 引き継いだ後 も、状況 は 変わりませんでした。

というよりは、
更にイタリアの統治 に 注力し、

中世最大の皇帝 と いわれる フリードリヒ2世 においては、
イタリア生まれのパレルモ育ちだったこともあって、

ドイツにはほとんど赴かずに、
イタリアの王様として 生涯 を 過ごしています。

神聖ローマ帝国(ドイツ王)に
北と南から攻められる状況に陥った
教皇権 と ロンバルディアなどのイタリア都市国家が、

シュタウフェン朝に 対抗するために、

フランス を
イタリア に 引き入れて
ヨーロッパ史 を 大きく動かすことになるのですが、

今回とは別の話なので、割愛させていただきます。


皇帝不在(国王不在)のドイツは、
不在の間 に、大諸侯 が 割拠する 領国体制 を 確立しました。

この領国体制が、
19世紀初頭 ナポレオン に ドイツ が 敗北するまでの
500年以上 継続しています。

その間の歴史は、
繰り返しの歴史であり、

積み重ねの歴史を重ねて、実力を蓄えた
イングランドやフランスの後塵を拝したのです。

後塵を拝した表れとして、
フランス王より一つ格上の皇帝だったドイツ王(神聖ローマ皇帝)が
イングランド王やフランス王の家臣として、
先頭に従軍した例をご紹介させていただきます。

フリードリヒ2世に対立した ヴェルフェン家 のオットー4世は、
イングランド王 ジョン王の家臣として、

1214年 ブーヴィーヌの戦いに出陣し、
フィリップ2世に敗北し ドイツに逃げ帰っています。

オットー4世の父は、シュタウフェン朝の皇帝を対立して 敗北し、
ドイツから追放された際に
妻の実家のプランタジネット朝(アンジュー家)を頼って亡命しました、

オットー4世も、父に従って フランスに赴き
ポワトゥー伯として、プランタジネット朝の家臣として働いたのです。

ですから、
ジョン王が、フィリップ2世と戦った際に、
ドイツよりはるばるフランスに出陣し、
ジョン王の家臣として フィリップ2世 と 戦ったのです。


カール4世も、
1346年クレシーの戦いで、
主君である フランス王 に 従って、出陣しています。

カール4世のルクセンブルク家は、事実上フラン王の家臣でした。
カール4世自身も、フランスの宮廷で育っています。


カール4世 は、自分の名前 を
崇拝する フランク王 シャルルマーニュに因んだカールとしました。

シャルルマーニュ
即ち、
シャルル大帝のシャルルは、ドイツ語ではカールなのです。

(フランス語のシャルルマーニュを、
 日本で カール大帝 と 呼ばれるのは そのためです。)

カール4世は、
ドイツ王に即位して間もなく、
父ボヘミア王(チェコ王)ヨハネスに従って、
フランス王の許に はせ参じたのです。

尚、カール4世 は、父 クレシーの戦いで戦死した後
ボヘミア(チェコ)王として、国民から敬愛された国王でした。

カール4世の娘さんが、
イングランド王と結婚したことにより、

カール4世 を 敬愛していた チェコ人 が、
イングランド に 多数 留学して、
ウィクリフの教え を チェコ に 持ち帰り、

チェコで
フス派 が 勃興して、
フス戦争(宗教戦争)を もたらしました。


少し横道にそれましたので、話を戻しますと、

ドイツは、
繰り返しの歴史である 領国体制が、
19世紀初め に ナポレオンに敗北するまで継続しました。

このため、
激烈なイングランドとの積み重ねの歴史を競ってきたフランスに対抗できず、
簡単に敗北してしまいました。


ナポレオンに敗北後、
プロイセンが、奮起して、プロイセンを積み重ねの歴史に転換させ
ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して、

19世紀後半に フランスを破り
中世末に フランスに奪われた ロレーヌとアルザスを
ドイツに取り戻したのです。

現在 ストラスブール大学に、
フランス唯一の プロテスタント の 神学部 が 存在するのは

もともと アルザスが、
ドイツだった との経緯 に よるものだろう と、思います。

(注)アルザスは、
   中世において、ドイツ の 政治における心臓部 でした。

   シュタウフェン朝の宮廷は、
   ストラスブールの北のアグノー(Haguenau、ハーゲナウ)に
   所在していて、

   リチャード獅子心王の母 アリエノールが、
   ローヌ川の南の ポワトゥーから 船で ライン川 を 河口から遡って
   身代金を運んだ先が 

   現在においては
   フランス国内の町だったのです。

20世紀に入り、ドイツは
ヨーロッパ
更には 世界制覇 を 目指して
第一次大戦、第二次大戦 と 戦いましたが、
アメリカに 敗北して 挫折しました。

冷戦終了後
西ドイツが、東ドイツを併合して
戦前のドイツに戻りましたが

文化的というか、歴史的というか
ドイツとしての国の立ち位置が

積み重ねの歴史の国から
繰り返しの歴史の国に 先祖がえりをしたような気がしています。

今後、このままでは、
激烈な国際競争の中で、

ドイツが、
経済面で後れを取ることになろうかと思いますので、

ドイツが、いつ目覚めて 積み重ねの歴史の国に復帰するのか
それとも
イタリアみたいな繰り返しの歴史の国のまま推移するのか
注目していく必要があるのでは、と感じています。

というのは、
ドイツの動向が、今後のEUの動向を左右する
大きなファクターとなるのでは?と感じられるからです。

また、
アメリカと中共の間で、戦争が勃発したら、
繰り返しの歴史の国であるドイツの動向も 注目されるのでは?
と、思われるからです。



 

 

| | コメント (0)

2017年1月 4日 (水)

ミシュレのルネサンス論への疑問・・・ヨーロッパ人の歴史認識を歪める要因の一つ について・・・

2017年1月4日



ワインバーグ著「科学の発見」についてのブログ を
お読み下さった友人から、メールをいただいたので、
次のような返信をしました。

ご参考までに、ご紹介させていただきます。

   スティーヴン・ワインバーグ著「科学の発見」
   http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-b005.html



1.メールの表題とされておられる
  「アルキメデスは、どこに居る?」は、
  ヨーロッパの本質の一つを端的に射抜いておられる名言だ
  と、感心しました。
 

  Tさんが
ご指摘の通り、
  工学や外科などの技術的な分野は、

  インテリのするものではなく、職人が担当する分野である、
  というのが、
ヨーロッパにおける評価だったですよね。

  例えば、

  工
学部は、
  大学ではなく技術学校でしたし、

  外科は、
  床屋さんの副業でした。

  これは、

  はるか昔の中世のことを言っているのではなく、
  例えば、戦前の日本でも、

  工学部は、
  帝国大学の工学部を除いては、
  旧制大学よりワンランク下の高等工業学校で、

  第一高等学
校などと同格の学校でした。

  (例えば、東工大は、
   昭和の初めに旧制大学に昇格するまで、
   東京(蔵前)高等工業学校でしたし、

   父の出身地である 広島の 現在の広島大学工学部は、
   戦前、広島高等工業学校でした。

   なお、広島には、
   東京文理大学(現在
の筑波大学)と並んで
   広島文理大学(現在の広島大)がありました。)

  これは、
  ドイツの学校制度を、日本が導入したしたためですが、

  日本が導入を検討した当時の19世紀後半のドイツでも、
  Tさんがおっしゃるような感覚で、
  世の中が動いていた証拠だと思います。

  (ビスマルクの伝記 を 読むと
   当時のプロイセンは、
   江戸時代の藩と同じような感覚だったのだな
   という感じをもしました。

   ビスマルク が 要職 を 得たのも、
   薩長の藩士が、政府の要人 に 引き立てられたように、

   だれだれの息子だから ということが、
   相当あったのだろう と、思います。)


  医学については、

  近世初期において医者の資格とは、
  病気を治せるかどうかが要件ではなく、
  「ギリシア語の医学書」を 読めることでした。

  ですから、
  16世紀 フランスのラブレー は、

  数か月で 医学部 を 卒業し、
  すぐに 医学博士の資格 を 取り、

  大学で 講義したり、
  当時のフランスの首脳の一人 に 侍医兼高等秘書として、
  仕えています。



2.「古代ギリシャ自然科学(起源)→
  ルネサンス以降 の 西欧自然科学(発展)」
  という図式は、捏造に近い 科学史の通説 ではないか?
  について


  Tさんは、捏造だ と、
  感じられておられますが、

  私は、
  ストレートな捏造ではなく、

  ヨーロッパ人が、自分たちは、
  現在の世界 を 作った エリート であるとの「プライド」、

  というより、
  「我欲から、絶対認めたくないこと」に、
  由来しているのだろう と、考えています。


  ヨーロッパ人が、認めたくないこと とは、

  「アルプスの北の世界」と、「地中海世界」は、
  「別の世界である」という認識です。

  言い換えると、自分たちは、
  「ローマ世界に侵入した 蛮族の末裔 とは 言いたくない」
  と、いうことだろうと思います。

  (そういえば、左翼の偏向教育のおかげなのでしょう、
   「蛮族の侵入」も、
   いつの間にか「民族の大移動」に代わってしまいましたね。)


  例えば、

  フェーヴルの「ミシュレとルネサンス」という本を読んでいると、
  フランス歴史学の祖というべきミシュレは、

  「フランス・ルネサンス」が生じたのは、

  1494年イタリア戦争を始めた シャルル8世が、
  ナポリまで攻め込んだこと が 発端だ

  と、主張しておられるそうです。

  シャルル8世は、

  意気揚々と ナポリまで 遠征しましたが、
  ナポリで、後ろの扉が閉じられたことに 気がついて、
  慌てて、フランスに帰国したのです。

  要するに、
  シャルル8世のナポリ遠征は、

  フランスからナポリまで
  「行ってきただけ」なのです。

  これを、ミシュレは、
  フランス・ルネサンスが生じた原因だ と、
  おっしゃっておられるのです。

  ミシュレ が、

  2つの世界の接触 が、フランス・ルネサンスの契機である
  との仮説を、提示しているとのことですが、
  意味するところは、今ご説明したとおりなのです。


  (参考) フェーブルの記述 の 抜き書き

     人は、こう言うでしょう。

     「若い国王と軍隊が、

      何も知らないままにイタリアを駆け抜けて、
      海峡に着くや否や 踵を返し、
      来たときと同じように 一気に帰っただけで、

      ヨーロッパ革命だ、全体革命だ、とか言うのか?

      アルプスを越えるくらい、
      それ以前にも、百回もあったではないか」


     ミシュレは、答えます。

     「百回どころか、千回もあった。

      だが、行ったのは誰なのか?
      商人か、巡礼者か?軍隊か?放浪者か?

      だが、今や、
      全フランス が、
      完璧な小フランスが
      (あらゆる地方 と、あらゆる階層 が)

      イタリアに運ばれ、イタリアを見たのだ。
      イタリアを、感じ取り、吸収したのだ。」

    (出所)フェーヴル「ミシュレとルネサンス」240㌻(藤原書店)


  2つの世界とは、

  ① ゴシック様式の中世世界 である フランス

  ② フランスより 200年先に 進んでいて、
    近代化され 生まれ変わろう としていた イタリア

  とのことです。

    (出所)フェーヴル「ミシュレとルネサンス」244㌻(藤原書店)



  要するに、

  フランスとイタリアは、
  「同質の世界」であるが、

  発展段階 に「時間差」があったため、
  世界が 異なっていた とのことです。


  アルプスの北のゲルマン社会 と 地中海社会 は

  私は、
  「別の世界だ」と、考えてるのに対して、

  ミシュレは、
  「同じ世界だけど、発展段階が異なっていた」と、
  考えておられるのです。


  これには、大いなる疑問 が 生じます。

  「同質ゆえに、接触しさえすれば、
   それに触発され、
   発展段階の差を乗り越えて ルネサンスが生じる」
  との ミシュレの仮説 は、本当なのでしょうか。


  フランス は、

  歴史上、何度も、
  フランスより進んだ
  ギリ シア・ローマ文明の本家本元の担い手である
  ビザンツ帝国 と、接触しています。


  ミシュレは、

  シャルル8世以前に、
  アルプス を 越えたのは、

  即ち、
  ローマ文明、地中海文明 に 接触したのは、

  個人レベルの話で、
  国家レベルの話 ではない と、

  おっしゃっておられますが、
  本当でしょうか?


  例えば、

  ① フランスの初代国王 である クローヴィス は、
     東ローマ帝国より
     執政官の資格 を 授与されていました。

     このことは、
     ビザンツ帝国と接触していたこと を、
     意味しているのです。

  ② シャルルマーニュ は、
     ビザンツ帝国 と 神学論争 を していますし、
     ヴェネツィアを巡って 戦争、講和 も しています。

     更には、実現しませんでしたが
     ビザンツ帝国の女帝との 結婚話までありました。

    (シャルルマーニュ は、
     フランス王であり、

     ドイツは、
     シャルルマーニュに侵略併合された国です。

     言い換えると、
     ドイツにとって「シャルルマーニュ<カール大帝>」は、
     フランツにとっての「カエサル」に相当する人物なのです)

  ③ 十字軍で、フランス人は、
     ビザンツ帝国やパレスティナに遠征しています。

    (注) 十字軍 は、
        フランスが、主体となった運動だったのです。

        フランス王も、遠征していますし、
        エルサレム王に即位したアンジュー伯もおられます。

    とりわけ、
    第4回十字軍 は、

    ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
    ラテン帝国  を 建国し、

    ビザンツ帝国の各地に、
    諸侯が、自分の領土 を 保持して、支配しました。


    ラテン帝国 は、
    最初、フランドル伯 が、皇帝に即位しましたが、

 

    短期間で、血統が途絶えて、
    その後、
    フランス王家の親族が皇帝に即位しています。

    フランス人は、コンスタンティノープルから、
    金銀財宝 を フランス に 持ち込みましたが、

    唯一持ち込まなかったのが、
    ギリシア・ローマ文明です。

    中学生が、
    大学の学問 を 理解できないように、

    当時のフランス人には、
    ギリシア・ローマ文明は、「豚に真珠」だったのでしょう。


  ④ このような政治的な接触だけでなく、

   貿易面で、フランスは、
   ヴェネツィアなどのイタリアの都市を
   介してかもしれませんが、
   ビザンツ帝国などの東方世界と接触していたのです。


   私は、
   ミシュレの言うとおり だったら、

   第4回十字軍で、
   フランスが、ビザンツ帝国を支配したときに


   何故、
   ルネサンスが起きなかったのですか?
   と、お聞きしたいと思っています。


   同じようなことが、
   実は、イタリアでもあります。

   イタリアは、
   1453年 ビザンツ帝国が滅亡した後、
   学者たちが大挙してイタリアに移住してきたため、

   ギリシア・ローマの学問が
   急速に発展したと言われていますし、

   12世紀には、スペインと並んで
   シチリア島で、ギリシア・ローマ文明を継受した
   と、言われています。
   (12世紀ルネサンス)


  でも、
イタリアは、

  中世の初期より、
  というより  ローマ時代から ずっと 続けて、

  レパント貿易 により、
  ビザンツ帝国 や、パレスティナ と、深い関係にありました。

  何故その時に、
  ルネサンスみたいな現象 が、生じなかったのでしょうか。


  サザーン によりますと、

  7世紀(600年代)、
イスラムが勃興して、
  ビザンツ帝国 が、パレスティナ等 を 喪失したことにより、

  15世紀と同様に、
  イタリア に、パレスティナやシリアから、
  大挙して 学 識者 が 亡命してきて、

  この頃の ローマ教皇の大半 は、

  イタリア人ではなく、
  東方の亡命者だった とのことです。

  彼らは、
  当時のイタリアより 高度な文明 を 持っていましたので、

  ミシュレの言うのが本当なら、
  この時に、
  15世紀のようなイタリア・ルネサンスが
  生じているはずですが、

  現実は違っていて、
  当時イタリアは、
  暗黒の中世の始まり に  いたのです。


  (参 考)

  654年~752年
  ローマ教皇 17名中、 

    ギリシア系 11名 (65%)、
    イタリア系 6名(35%)

    内 ギリシア出身 3名
       シリア 出身 5名
       シチリア出身 3名

    (シチリアは、
     当時、ギリシア(ビザンチン帝国)支配下でした)


  654年以前の 100年間
  教皇 15名中、

    ローマ or イタリア出身 13名



  シャルルマーニュの頃

  バクダッドでは、
  異端だとして シリアから追放された
  ネストリウス派などの キリスト教徒 が、

  ギリシア文明を、アラビア語に翻訳して、
  一大文明 を 勃興させました。

  この時 翻訳された本 が、

  12世紀(1100年代)に、 
  スペインやシチリア島で、ラテン語に翻訳しなおされて
  ヨーロッパに輸入されているのです。


  7世紀(600年代)、
  文明を持った学識者が 大挙して イタリア に 亡命してきて、
  ローマ教皇など 重要な職位 についているのに、
  何故、ルネサンスが生じなかった のでしょうか。


  7世紀(600年代)に生じなかった ルネサンス が、
  時代が下った 15世紀(1400年代)に、花が咲いたのは、
  何故なのでしょう。


  クローヴィス や、シャルルマーニュ が、
  ギリシア・ローマ文明の総本山 の コンスタンティノポリス と

  接触したり、 
  神学論争 や 戦争 を 繰り広げ、

  さらには、
  結婚話まで しているのに、

  何故、
  ギリシア・ローマ文明 が、輸入されずに、
  アルクインなどの イングランド北部の修道院の文化 が、
  フランク に 輸入されたのでしょうか


  第4回の十字軍 で、
  ビザンツ帝国を支配して、財産 を 取り放題だったし、
  略奪して 大量に 持ち出したのに、

  何故、
  学問は、フランス に 輸入されず、
  ルネサンス が、生じなかったのでしょうか。


  逆に、
  シャルルマーニュの頃に、

  バクダッドでは、
  何故、ルネサンス現象が生じたのでしょうか。


  シリア や、パレスチナの人々 が、移住したのに、
  7世紀(600年代)のイタリアでは、
  花が咲かなかった ギリシア・ローマ文明 が、

  9世紀(800年代)のバグダッドでは、
  アラビアン・ナイトの世界 として
  爛熟した文明 が、展開されたのは 何故なのでしょうか。


  更には、
  このような歴史を熟知しているのに

  何故
  このような疑問 に対する 回答 を、
  ヨーロッパ人 は、考えないのでしょうか。


  ミシュレ は、

  ルネサンスだけではなく、
  カエサル以来、19世紀までの 膨大なフランス史 を、
  記述していますので

  今まで述べたようなことは、
  「よく素人が、知ったかぶりするね」と、おっしゃるくらい
  よくご存じのはずなのに、
  何故かしら、無視されておられます。

  (日本では、
   サマリー <と言っても、6冊の叢書ですがが>が、
   翻訳されていますが、

   残念ながら、私は未読で、本箱に鎮座しています。)


  日本人である私は、

  日本人は、
  卑弥呼以来 中国の文明 を 輸入して、

  自分のできる範囲で、
  言い換えると、
  身の丈にあわせて、咀嚼して、

  歴史 を 刻んできました、
  と、考えていますが、


  ヨーロッパ も、
  日本と同じような性質の歴史 を 歩んできた
  と、考えるのが、
  常識的では ないでしょうか。


  即ち、
  日本人が、中国から学んだように、

  アルプスの北のゲルマン人が、
  その時、その時、

  自分の理解のできる範囲で、
  ギリシア・ローマ文明を吸収していったのです。


  ですから、
  文明のレベル が 低かった時には、
  理解できなかったもの が、

  時代が進んで レベルが上がるにつれて、
  理解ができるようになり、吸収していったのです。


  中世初期には、ゲルマン人にとって
  ギリシア・ローマ文明は、
  「豚に真珠」、「坂の上の雲」だったのでしょう。

  それが、時代が進むにすれ、
  徐々に理解できるようになっていって、
  自分のものとなり、

  ルネサンスで、花が咲いたのではないでしょうか。


  シャルルマーニュ の 時代に、

  バグダッドで、
  ギリシア・ローマの文明 が アラビア語に翻訳されて、

  その後、
  アラビアン・ナイトの時代が現出したのは

  バグダッドの人々が、
  ギリシア・ローマ文明 を、理解できるだけのレベルに
  達していたから であり、

  シャルルマーニュ の フランク は、
  達していなかったから ではないでしょうか。



  このように考えると、
  以前に申し上げたかもしれませんが、

  ヨーロッパ、北アフリカ、中近東の地域は、
  「3つの世界 と 1つの宗教」と、
  理解るとわかりやすいのでは と、思っています。


  (従来、
   「3つの世界と3つの宗教」 と、考えていましたが、

   最近、
   「3つの宗教」を、「1つの宗教」としたほうが良いのでは
   と、考えるようになりました。)


  3つの世界とは、

  ① アルプスの北のゲルマン世界
  ② 地中海沿岸地方
  ③ バグダッドなどの チグリス・ユーフラテス地域


  1つの宗教とは、

  ユダヤ教と、
  ユダヤ教から派生したキリスト教、
  イスラム教です。

  三つの宗教を、一つの宗教というのは、
  同じ神を信じていることと、

  例えば、
  キリスト教も、

  ① アリウス派とアタナシウス派、
  ② ローマカトリックとギリシア正教、
  ③ 旧教とプロテスタント、
  ④ プロテスタント内部での多数の宗派
  と、いくつも、分かれていますので、

  同じ神 を 信じる キリスト教 と イスラム教 も、

  ユダヤ教も含めて、
  「同じ宗教だ」と、括ったほうが、

  正確な理解ができるのでは?
  と、考えるからです。


  「3つの世界 と 1つの宗教」に 関しては、

  まだ、考えを深めねばならないことも ありますし、
  このメールの主題では ありませんので、
  今回は、ご紹介だけにさせて頂きます。



  最後に、

  ヨーロッパ人が、

  異なる世界 を 自分の世界、
  他人様のご先祖 を、自分のご先祖 と、

  言い張るようになったのは、
  ローマの支配 が、あったからだろう と、思います。


  ローマ は、
  ライン川左岸より 西のヨーロッパ大陸 と、
  イングランド、ウェールズを征服しました。

  先住していたケルト人(ガリア人や、ブリトン人)は、
  ローマ文明の恩恵に浴しているのです。


  でも、
  彼ら先住民(ケルト人)が、
  更には、
  ケルト人を吸収し、支配するようになった、ゲルマン人が、

  ローマ文明 を、ローマ滅亡後 も、
  そのまま 維持できるだけのレベル に あったかというと、

  そうではなかった と、
  いわざるを得ないと思います。


  ですから、
  ローマ時代のものは、ローマが終了したら、 
  維持、管理できなくなって、「遺跡」となっているのです。

  もし、
  ガリア人やブリトン人 が、
  更には
  ゲルマン人が、

  ローマ文明 を、自家薬籠中のもの としていたなら、
  ローマ文明 は、
  遺跡とならずに、現在まで続いているはずです。


  例えば、

  ローマの後半に、
  ローマ文明に編入されたキリスト教は、

  かろうじて、
  ケルト人やゲルマン人にも 担われました。

  そのため、
  6世紀に 建立された ラヴェンナのサン・ヴィターレ寺院は、
  遺跡とならずに、現存しているのです。

  でも、
  ローマ文明本体は、

  イタリアでも、
  イタリアに住んでいた人(ローマ人ではありません)が、
  維持管理できなかったので、遺跡 と なりました。


  同様に、
  フランスでも、

  自分たちが育んだ ロマネスク教会 や、ゴシック教会 は、
  遺跡とならずに、現存しています。

  自分のものは、維持管理できますが、

  他人様のハイレベルな文明は、「豚に真珠」であり、
  維持管理したくとも、できなかったのです。


  これは、
  建物だけでなく、ローマ法も同様です。

  ローマ法 は、
  ローマが終焉した後、イタリアから消え去ってしまいました。


  それが、
  中世も だいぶ進んで、イタリア人のレベルが上がってきて、
  ローマ法を理解できる段階になってから

  ようやく、
  イタリア人が、勉強し始めたのです。

  ヨーロッパ人は、
  これを「ローマ法の復活」と言っていますが、

  ローマ人と中世のイタリア人は、全く別の人々ですから、

  ここでも、
  他人様のご先祖を、自分のご先祖様 と、
  詐称しているのです。




  以上が、今回お話ししたかったことですが、

  ここまでお読みいただいたら、

  イタリア人は、
  ローマ以来 イタリアに住んでいたのであり、

  ローマ人は、
  イタリア人にとって、他人様のご先祖ではないのでは?

  と、疑問 を 持たれるだろう と、思いますので、

  長いメールが、さらに長くなりますが、
  もう少し、お話を続けさせていただきます。



  まず、

  西ローマ帝国の滅亡時点 で、
  イタリアでは ローマは 蒸発していたのです。

  ローマ皇帝 を、オドアケル が、廃位して滅ぼした
  と、学校時代 学びましたが、

  オドアケル も、
  滅ぼされた西ローマ皇帝も、

  ともに、
  アッチラの家臣の末裔 だったのです。


  その後、
  東ゴートが、イタリアを支配し、

  その東ゴート を、
  ビザンツ帝国 が ゴート戦争 で 滅ぼしたら、

  ランゴバルド が 入ってきて、
  イタリア を、支配するようになりました。

  そのランゴバルド も、
  シャルルマーニュ によって 滅ぼされ、

  1250年まで、
  基本的にイタリアは、
  ドイツ人の支配下に 入りました。


  東ゴートまでのイタリア は、
  確かに、ローマ文明のかけらは、残っていました。

  即ち、
  テオドリック に 殺された ボエティウス や、
  ヴィヴァリウム修道院 を 建立した カッシオドルスなどの人々 が、
  おられましたが、

  その後のゴート戦争の最中に、
  彼らのような ローマの元老院階級 は、胡散霧消 してしまい、

  ローマ文明の担い手は、
  イタリアから いなくなってしまった のです。


  東ゴート や、ランゴバルドといった ゲルマン人 には、
  ローマ文明 を 担うことは、到底 できませんでした。


  ガリア(フランス) でも、

  ローマ時代の司教座 は、
  ある時期消滅して、

  50年~100年後に、
  更には、その後に、

  イングランドからの布教により、
  ローマ時代の司教座と同じ場所に 司教座 が、建設された

  と、ピレンヌ は、記述しています。

  (再建時期が同じころにそろっているのは、
   シャルルマーニュの布令で 司教座 が 建設されたからだ
   と、思います)


  ヨーロッパ人は、
  キリスト教 が、フランスで連続している と、言い張りますが、

  ピレンヌによると、
  ローマ時代の司教座は、一度なくなって、

  イングランドより、大陸に布教されて、
  ローマ時代の司教座座があった場所に
  改めて 新たに 作られた とのことです。

  (カロリング・ルネサンス を 担ったのは、
   イングランドから来た アルクイン が、中心でした)


  ローマの教会の消滅 を 記述した ピレンヌ が、

  このことが、歴史上 どんな意義があるのか について
  何故、言及していないのだろうか と、訝しく感じています。


  (参 考)

  ピレンヌが記述している 司教の空位期間は次の通りです。

 
  都 市      空位開始年 司教復帰年 不在期間

  エクス       596     794     198
  ディエ       614     788     174
  ジュネーブ    650     833     183
  アンティベ     660     788     128
  ボルドー      673     814     141
  シャロン       675     779     104
  ユゼ        675      788     113
  エンブリュン   677      828     151
  オランジュ    679      879     200
  カルパントラ   679      879     200
  マルセイユ    679      879      200
  トゥーロン     679      879      200
  ニーム       680     788      108
  アグド       683     788     105
  マグロンヌ    683     788     105
  カルカソンヌ   683     788     105
  エルヌ       683     788     105
  アルル      683     794     111
  ロデーヴ     683     817     134
  ベヂエ      693     788      95
  レクトゥル    696     762      66
  コマンジュのサン・ベルトラン 
            696     762       66
  サン・リジエ   696     762      66
  エール      696     762      66
  オータン     696     762      66
 
出所;ピレンヌ「ヨーロッパ世界の誕生」276ページ
 
 上記の表は、私のホームページの
 「ガリアは、ローマ文明を 灯し続けたのか?」に記載したものです。
 
 
  文明というものは、
  築き上げるには、大変な労力と時間がかかりますが、
  断絶するには、一世代あったら十分なのです。
 
  最近の例では、
  韓国 が、
  1970年以来、漢字廃止政策を行った結果、
 
  半世紀近くたった現在では、
  国民の大部分が、ハングル文字しか読めなくなって、
 
  これではまずい と、漢字を復活させようとしても、
  教える先生がいなく 復活できない との話 を、
  聞いたことがあります。
 
  韓国の反日捏造政策が、
  根強く国民に、信じられ 支持されているのは、
 
  戦前の文章のような 漢字交じりの文章 は、
  ごくごく一部の専門家を除いて誰も読めないので、
  自分で調べる能力のない国民は、
  政府の宣伝が正しいと信じているとのことです。
 
  ハングル文字は、
  朝鮮人が無視していたものを、
  日本が復活させたものですが、
  戦前は、
  漢字交じりのハングルだったのが、
  現在では、
  ハングルだけになったのです。
 
 
  余談ですが、
  漢字は、
  文字ごとに概念がありますが、
  「ひらがな」みたいなハングルには、概念がありません。
 
  韓国人が、
  理性的な思考ができない理由
  あけすけに言うと、
  思考能力のレベルが低く、幼稚なことの原因の一つに、

  この問題があるようです。
 
  (ちなみに、
   英語は、単語が一塊として、
   漢字と同じように それぞれ 概念 を 持っているので、
   論理的な思考が可能だ ということのようですが、
   本当でしょうか、

   もしよろしければ、ご教示下さい。)
 
 
  文化の断絶について、他の例としては、
 
  四半世紀以上も前に 製鉄所の製銑部にいたころ、

  日本鉄鋼業は、
  コークス炉を作り直せないかもしれない
  との話 を 聞きました。
 
  現存するコークス炉ができてから、一世代経ってしまうと、

  定年退職した社員の技術を、
  次の世代の社員が伝承ができずに、
  コークス炉の製造技術が、日本から消滅してしまうのでは?
 
  また、現状では
  日本全体のコークス炉の再建に必要な
  大量のレンガを作る設備能力を、煉瓦メーカーが失っている
  とのことでした。
 
  毎年補修はされているし、
  煉瓦メーカも、毎年 煉瓦を作っていますので、
  本当かな?と、訝しがっていたのです。
 
  また、
  戦後、日本鉄鋼業が いくつもの製鉄所を作ったとき、
  煉瓦メーカーが、設備増強して ついてきたではありませんか、

  との疑問も、ありました。


  近況をご存じでしたら、ご教示いただければら幸いです。
 
 
大変な長文になってしまい、申し訳ございません。
遅くなりましたが、ご返事とさせていただきます。

続きを読む "ミシュレのルネサンス論への疑問・・・ヨーロッパ人の歴史認識を歪める要因の一つ について・・・"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月25日 (金)

ヘーゲル「歴史哲学」における進歩史観やマルクスの史観は、キリスト教終末論のパクリでは?

ヘーゲルやマルクス、
更には、
フクヤマやE・H・カーの進歩史観について、

「なぜ、この様な妄想とも言うべき発想が生まれるのだろうか?」
と、長年 疑問に 思ってきました。


ヘーゲルの進歩史観について、

進歩という無限運動が、何故 目標に達したら、ストップするのか?とか、
自由の実現は、あり得ない とか、
歴史の進歩とは、何ぞや?とか

個別の事項に対する批判は、勿論あるのですが、

それ以前に

常識的に 妄想としか思えないような、
「歴史は、自由の実現という目的に向かって進歩する」という、

ヘーゲルの根本的な構想が、どこから生じたものなのか?、が、
本質的な疑問だったのです。


長年 考えるうちに、

進歩史観というものは、
「積み重ねの歴史」を、「繰り返しの歴史」に 路線を転換させるために、
作り出された理論ではないだろうか、

と、考えるようになりました。


(注)「積み重ねの歴史」「繰り返しの歴史」は、
    私一人だけの絶対的少数説ですので、

    ヘーゲルは、
    この様なお考えを、感覚的に持っておられたのでは?
    と、想像していたのです。


ヘーゲルの進歩史観は、

あるところ(目標達成)まで、歴史は 進歩(前進)するけど、
目標を達成したら、繰り返しの歴史に安住して、

それ以降、
歴史は進歩(前進)しなくなる、

と、説明すると、ぴったり当て嵌まります。


ヘーゲルが、
何故、この考え方に至ったかについて想像すると、

ヘーゲルやマルクスは、
「積み重ねの歴史」の重圧に耐えられないので、

一度走り出した「積み重ねの歴史」を、「繰り返しの歴史」に戻そうとして、
進歩史観という歴史観を創造したのでは?

と、説明すると、一応の回答となります。


多分、この様なことだろう、ほぼ結論が見えたな
と、感じているところで、

最近、
「ミレニアムの歴史」(J・P・クレーベル著、新評論)を、読み出してみたところ、
次の文章を読んで、あっと吃驚してしまいました。

(注) 「ミレニアムの歴史」は、

    キリストが再降臨して、最後の審判がなされると考えられた
    西暦1000年頃のヨーロッパの人々の<紀元1000年の恐怖>について

    記述された本です。


クレーベルは、次のように 記述されておられます。
(番号は、参考のため 私がつけました。)


「ユダヤ・キリスト教的終末論」は、

 1.<始まり>の時の
   無垢さと純粋さ を 再現するためには、

   再創造すべき世界 を 浄化して、<空>に しなければ ならない、
   という 古い信仰の立場 を なおも  とっている

   宇宙 が、
   新しい世界を生み出すためには、

   古いものは、
   全く根こそぎ 消え去らなければ ならないのである。


 2.その終末論 は、
   来たるべき宇宙開闢 を あらかじめ示したものであり、

   「新しい創造は、
    この世界 が 決定的に 廃されない限り起こり得ない。

    この世界を
    完全に再創造するためには、

    もはや 堕落したものを 再生するのではなく、
    古い世界 を 根絶することが 重要なのである。

    <始まり>の 至福状態 に 固執することは、
    存在したが故に 堕落した 全てのものの根絶 を
    要求することになる。

    初めの完全さ に 戻ることだけが、
    唯一の可能性 なのである。」

   (「   」の部分は、
    ジョルジュ・デュヴィ「紀元千年」よりの引用だそうです)


 3.この原初の完全状態というものに、
   ユダヤ・キリスト教的終末論は、新しく重要な概念を付与している。

   即ち、
   崩壊の後に再創造される世界は、

   原初に、
   アダムに提供された黄金時代の、最初の創造の世界 と 同じものとなろう。

   ただし、
   今度 再創造される世界は、永遠である。

   単に、終わりがないということではなく、
   この世界は、変わることがない。

   この世界は、あるがままに続き、
   発展も、進歩もない、完全であるが為に、

   確立された秩序 を 変えようとする 欲望や誘惑 の 何ものをも
   ・・・それが、善いものであり、悪いものであれ・・・
   この世界では 禁じられるのである。

   人間は、
   もはや 空腹、乾き、寒さ、病気、抑圧されたよう欲望 も
   何も感じないだろう。

   これが幸福なのだろうか?
   退屈 や モンテ・カッシーノの修道士達 を 苦しめた 不機嫌 さえも、
   もはや、全く感じない のだろうか?

   (クレベール「ミレニアムの歴史」24㌻)


あっと驚いたのは、

最後の審判の後、
天上のエルサレム が 地上に降りてくることは、知っていましたが、

降りてきた地上のエルサレムが、どのようなものか について、
勉強不足で 知らなかったものですから、

今回の記述 を、読んでいるうちに、
ヘーゲルの進歩史観で  自由が実現した後、進歩が止まった世界が
地上のエルサレム と 重ね合わされて、閃いたからです。


クレベールは、

中世の人は、
神が、6日間で世界を作り、7日目に休まれたのと同様に、

 

千年を、7回繰り返す度に、
神の重要な奇跡を行って、人類を教え導いた と、考えていた。


キリストの降誕 は、
6回目の千年の時代の初めに起こったことで、

キリストの千年後に、
最後の審判を経て、最後の千年が始まると、考えていた

と、記述されておられます。


クレーベルの記述を読んでいると、

キリスト教は、
千年毎の循環論の中に、

イエス・キリストの降誕以後の千年について、
最後の審判に向けて、歴史が歩んでいく との 直線論を導入したところが、

他の宗教と異なっている と、おっしゃっておられるような 気がしました。


そして、これこそが、
ヘーゲル の おっしゃっておられる 歴史哲学そのもの ではないでしょうか。

ヘーゲルの論理に従って考えると、
「自由の実現」した後は、地上のエルサレムが実現するので、
歴史の歩みがストップするのは当然のことなのだろう
と、納得できます。



最後の審判に向けて、歴史が歩んで行く との
キリスト教の考え方 は、

歴史の発展過程において、
資本主義が出現し、革命により社会主義から共産主義社会に至る
との マルクスの史観にも、ぴったり当て嵌まります。

その資本主義において、

資本家が、
労働者を搾取し、公害をまき散らして、疫病を流行らせ、
労働者始め大半の人民の塗炭の苦しみの上に、
支配者として、諸悪の根源として、君臨する様子は、

まさに、
資本家は、「反キリスト(アンチ・キリスト)」である と、言えるでしょう。


この資本家に対して、
労働者が立ち上がって、革命により資本者を打倒して、
新たな社会を作るとのドラマは、

神の審判の後に、地上のエルサレムが出現する話 と、そっくりです。

そして、
完全無欠な地上のエルサレムの代わりに、
完全無欠な労働者の楽園である共産主義社会が実現すれば
歴史の歩みが停止すると考えるのは、自然のことだったのでしょう。

でも、
これは、歴史が証明しているように
妄想によるイリュージョンだったのです。


いずれにしても
マルクスにおいても、

ヘーゲル同様、
社会主義社会を経て 共産主義社会が実現すると、
歴史の歩みは、ストップしますので、

これは、
地上のエルサレムは、完全無欠で、変わりようがない との
キリスト教の考えを、コピーしたものでは?
と、言いたくなるくらい、同じのもの であるような 気がします。


ネオコンのフクヤマの
「リベラルな民主主義」の実現により歴史が終わるとの歴史観も、

ヘーゲルの亜流と共に、
キリスト教の終末論の焼き直しと言うべきでしょう。



今回、考え込されたのは、

1.キリスト教が、
  如何に、
  ヨーロッパ人の心の奥底にまで 染み込んでいるか、

  キリスト教の影響力が、如何に根強いか
  に、ついてでした。


  「宗教(キリスト教)は、アヘン」と言ったマルクスでさえ、

  その歴史観の根本は、
  キリスト教の終末論という妄想に基づいているのですから、

  ヨーロッパ人は、
  お釈迦様の手の外に出られなかった孫悟空と同様に、

  キリスト教の歴史観から離れられないのだな、
  と、ため息をついています。


2.キリスト教 は、
  基本的には 「繰り返しの歴史」の世界 の 宗教 ですから、
  (循環論のベースの中に 一部 直線論(進歩論)を含んだ歴史観)

  ヨーロッパ人 が、
  ヨーロッパの歴史 が
  「繰り返しの歴史」から「積み重ねの歴史」に転換していることを認識せずに、

  相変わらず
  「繰り返しの歴史」の発想で、現在の歴史を刻んでいることに、
  憂慮に絶えません。


  即ち、
  今まで、何回か述べてきたように

  「積み重ねの歴史」は、凶暴な性格 を 持った歴史 ですから

  自分たちの刻んでいる歴史 の 凶暴性 に 気がつかずに、
  世界をリードして、歴史を積み重ねている危険性を、憂慮しているのです。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月10日 (土)

キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの

トロクメ教授の「キリスト教の揺籃期」を読了して、
ひとまずキリスト教初期の本を切り上げ、
イタリア・ルネサンス 特に、マキャヴェッリの本を読もうと思い、

手始めに
佐々木毅教授の「マキアヴェッリと「君主論」」(講談社学術文庫)を読み始めました。

この本は、
マキャヴェッリの伝記と君主論を内容としているので、
塩野さんの本以来ご無沙汰している人間の入門編として
丁度良いのではと思ったのです。


その序文に、
マキアヴェッリは、フランス王政と異なるので、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」(岩波新書)を参照して欲しい、
と、書かれておられたので、気になってこちらを再読してみました。

この本を再読してみたら、以前読んだときと異なり、
当時の人々の前提としたキリスト教について、ちくりちくりと、
大変な痛みを感じました。

何故、こんなに痛みを感じるのだろう と、考えたらと、
ヨーロッパ人の根底にあるキリスト教によってもたらされた
通奏低音とも言うべきヨーロッパ人の態度に原因があるのでは、
という気がしてきました。

今回は、
この辺についてお話しさせていただきたいと思います。


この機会に、
トロクメ教授、加藤教授、田川教授の本をご紹介くださった、
todoさんに心からの感謝を申し上げます。

ご厚意に反するような文章を書き並べたことを、お詫びすると共に、
数々のご教示に対して厚く御礼申し上げます。

ヨーロッパ史の本を読む限り キリスト教と密接な関係が続きますので、
機会ある毎に、
キリスト教を考え、初期キリスト教の時代にも戻ってくることになる
と、思いますので、

これからも、よろしくご指導、ご鞭撻くださるようお願い申し上げます。


    **********


秦先生の旧約聖書のお話から読み始めてから約2年弱の間、
旧約聖書と初期キリスト教関連の本を読んできて、感じることが、2つあります。

一つには、
意外にも、キリスト教の神は、
不確かであり、確たるものではないな、ということです。

もう一つは、
キリスト教は、
一つの価値、自分の価値観しか認めず、
他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
ということです。


1.キリスト教の神が確たるものでない、という点について


キリスト教は、
罪を悔い改めよ、神に従え等、人間に対して、色々要求しています。

しかし、
神は、一体どのような存在なのか、と考えたときに、
具体的な絵姿を思い浮かべることが出来ません。

私は、今までブログで、
旧教の神と新約聖書の神(イエス)という言い方をしてきました。

しかし、
新約聖書の4つの福音書というのは、

初期キリスト教の各派閥が、
自分たちの都合の良いようにイエスの伝記を記述したもの
(これを、護教的記述というそうです)だそうですので、

新約聖書の神も、
少なくとも派閥の数だけ、

更に、
その後宗派分裂していますので、
大変な数の神が、宗派毎に存在することになります。

(注)4つの福音書とは、

  ① ヘレニストが作った マルコ福音書

  ② 主流派が作った マタイ福音書
    → 主流派の特権として、著作順を無視して、福音書の最初に掲載しています

  ③ パウロ派が作った ルカ福音書

  ④ ヨハネ派が作った ヨハネ福音書
    → ヨハネは、12使徒の一人で、ゼベタイの子です

ですから、
「キリスト教は、一神教の仮面をした多神教ですね」
と、言いたくなるのですが、

キリスト教徒の方から「又か」と、お叱りを受けますので、

ここでは、
「キリスト教の神は、幾つもの顔を持っておられる」
と、定義しておきます。


幾つもの顔を持つ神の好都合な点は、
論者の都合の良いように、神を使えることです。

ですから、
キリスト教徒は、同じ神を信じているという建前の下に、
それぞれの(異なる)神を信じているのだろう、

言い換えると、
神について同床異夢なのだろう
と、私には思われます。


以前、
新約聖書の神に基づくカステリヨンと、
旧約聖書の神に基づくカルヴァンの対立をご紹介しましたが、

ここでは、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」で記述されている中から、
神をいかようにも使える例を、ご紹介させていただきます。


① カルヴァンは、
  次のように、臣民は、王に対して服従せねばならない と、主張した。

  世俗権力は、
  何よりも 教会、真の宗教 神の栄光 に その奉仕が向けられなければならない。

  世俗権力は、
  神に由来し、ある意味で神の代理人である。

  支配者(王)は、神がその地位を与えたのであり、
  臣民は、支配者を 神の使者として尊敬せねばならない。

  支配者の義務を怠るのみならず、
  人間としての義務を踏みにじる悪しき支配者に対しても、従わねばならない。

  何故なら、
  (神より)悪しき支配者を与えられたことは、

  臣民に対する神の裁きの表れであり、
  悪しき支配者も又、神の摂理の基づいてその地位に就いたからである。

  従って、
  「正しい支配者に対してでなければ、服従するべきではない」との考えは、
  反逆的思想として断罪される。

  神の樹てた支配者を打倒することが出来るのは、神のみである。

  カルヴァンが、積極的服従を拒否すべしとするケースは、
  神に反することを命ずる命令に対してであるが、

  この場合も、
  積極的な抵抗行為を命ずるものではなく、
  神に祈り、耐えること、精々 逃れること としてしか現れない。

  この例外的ケースにおいても、
  臣民が、神の栄光を押し立てて反抗することを 認めていなかった。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」123㌻)

② スコットランドの宗教改革指導者 ジョン・ノックスは、
  カルヴァンの説に反対して、次の様に主張しています。

  王は、その地位を神に与えられたことは、その通りだが、
  貴族も、王と同様に、その地位を神に与えられた神の代理人である。

  従って、
  もし、王が真の宗教の敵となるならば、

  神の名誉と栄光とを妨げる王の所業を矯正、抑圧することが、
  神の代理人たる貴族の義務である。

  佐々木教授は、

  ノックスは、
  貴族と同じ義務を、他の信者一般にまで広げて、
  偶像崇拝を行う者は、実力を用いて制裁されるべきであり、

  その人間が、いかなる地位にあるかは、
  神の栄光の回復のためには考慮に値しない。

  偶像崇拝に加担する王に反抗するのは、
  神の民としての当然んの義務である。

  自らが、偶像崇拝に加担していないと言うだけでは、十分でない。
  支配者その他の冒涜的行為を黙認することは、神の制裁対象となる。

  従って、
  反抗することは、権利ではなく、義務であると、

  他人の行為を黙過する形での神に対する不服従をも批判し、
  全プロテスタントの一斉蜂起を呼びかけた、

  と、記述されておられます。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」135㌻)


この様な違いが生じるのは、
カルヴァンとノックスの立場の違いから生じた
神にこと寄せ、宗教的装いで化粧を施した
個人的な利害によるものでした。

あけすけに言うと、
個人的なエゴを、宗教的表現で正当化しようとしたものです。

カルヴァンは、
ジュネーヴの王、支配者であり、

人民に反抗されたら困る体制側の人間であり、
人民を抑制する立場の人だったのです。

他方、ノックスは、
カトリックのスコットランド女王メアリーに対抗する
宗教指導者、宗教革命の指導者、

即ち
反乱側の人間でした。


キリスト教の神は、

この様に、
論者の都合や立場によって、いかようにでも利用でき、
自分のエゴを正当化するための錦の御旗にすることが出来る、
有り難くも、便利な存在なのです。

この神様が、
ヨーロッパ人のマインドをコントロールしていたということは、

客観的な神の教えではなく、
その時々の宗教指導者の意図するところに従って、
ヨーロッパ人は、導かれていたのです。


以前、神学は、
不確かな神を出発点にしているので、
事実に基づく他の学問と似て非なるものである、
と、お話ししたことがあります。

そこで申し上げたかったのは、
A氏は、A氏が論じる神をスタートとして、論理を組み立てるので、
別のB氏が、B氏の考える神をスタートとして、組み立てた論理と議論しても、

建設的で、ロジカルが議論が不可能であり、
議論は、決裂に終わるだろうということです。

スタートが異なると、別の理論体系ができあがる例として、
高校時代にお話として聞いた、幾何学の話を思い浮かべます。

中学、高校で学んだ幾何学は、ユークリッド幾何学でした。

ところが、
ユークリッド幾何学のスタートである「平行線の公理」を否定したら、
非ユークリッド幾何学という別の幾何学の大系が作り上げられた、
とのことでした。

スタートの前提が異なると、
同じ幾何学でも、全く世界が異なる体系が出来ることの不思議さを、
その時感じましたが、

文科系でしたので、非ユークリッド幾何学とはどのようなものかを、
それ以上学ぶことは出来ませんでした。

神学において、
議論を開始する際の神が、人によって異なるということは、

そこから積み上げられる論理と、
その結果である各人の神学の大系が、
質的に異なることです。

その前提の違いと、
そこから積み上げられた論理過程を、
お互いに分析して、明らかにしてから、議論をせずに、

お互いの議論の積み重ねた結果である結論を言い合って、
すれ違いの議論をしても、決裂するしかないことは、

ルター派とカルヴァン派が、
合意できなかったことでも明かです。

神学者には、
人類史上最高の叡智の持ち主が何人もおられるのに、

私みたいな鈍才が気がつくことを、
何故、無視して、2000年という時間を無駄にしてこられたのだろうか、
と、訝しく感じています。

多分、
人間はエゴの塊であることが、その原因だろうと思いますが、

次にお話する、
一つの価値、自分の価値観しか認めない ということも、
大きな要因だろうと感じられます。



2.キリスト教は、
  一つの価値、自分の価値観しか認めず、
  他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
  ということ


世の中には、色々な価値や価値観が並存していますが、

ヨーロッパ人は、
自分が選んだ価値しか、価値を認めず、
他の価値は、抹殺できれば抹殺してもかまわないと考えているな
と、長年感じてきました。

大学時代、
並存する価値を、全て包含する価値 というものは、あり得るのだろうか?
と、考え、彷徨ったことが、懐かしく思い出されます。

日本人は、
八百万の神が当たり前と考える民族であり、

一つの価値しか認めないとの考え方は、
普通の日本人の方には、

頭で字面は理解できても、
身にしみて理解しづらい感覚だろうと思います。

キリスト教は、先ほど申し上げたように、
色々な顔(性格)を持った神を一つの神として、
その神を信じているのですから、

どの顔の神を信じているのかは人によって異なるのに、
自分が信ずる(思い込んだ)顔の神しか、神ではないと強弁して、
自分以外の神を信じる人を、平気で殺害してきているのです。

この様な状況が、
キリスト教の、常に異端を作り出す歴史 を 作りだしたのではないだろうか
と、感じています。


キリスト教は、
主流派と異なる考え方の人が出てくると、
異端とレッテルを貼って、
キリスト教から追い出し、場合によっては殺してしまう歴史でした。

このことは、
イエス処刑後間もなくから始まっています。

最初に、
ヘレニスト(ギリシア語を話すキリスト教徒)が、異端として追放されました。

次に、
パウロが、アンティオキアで異端として追放されています。

2世紀に入ると、
グノーシス派やマルキオンといった人々が、異端として槍玉にあがりました。

トロクメ教授は、

2世紀に入ると キリスト教は、
ローマ社会に溶け込もうとする主流派に、
キリスト教の独自性を守ろうとした反順応派が対抗したとして、
グノーシス派やマルキオンを紹介されておられますが、

その後のキリスト教の歴史をみると、
キリスト教主流派は、グノーシス派などに対して、
悪魔の手先で、人間ではないような非難を浴びせて、
彼らの存在を抹殺しています。

その後、
三位一体論争では、アリウス派が異端とされ、
今に至るまで、カトリックから、語るのも汚らわしい との扱い を されています。

カトリックにとって最大のライバルだったから、
未だに執念深く復讐しているのですね、
と、申し上げたくなるくらいです。

アウグスティヌスは、
カトリックの天下を維持するために、
ローマ帝国の迫害の際に、キリスト教を守り通したドナティストを、
ローマ軍の力を利用して積極的に殺しました。

この様に、キリスト教は、
神の自分の信じた顔だけが、神であると主張して、
それ以外の神の顔を否定し、抹殺してきているのです。

このことが、
自分の価値以外の価値を認めない、とのヨーロッパ人を
作りだしてきたのでしょう。


16世紀後半、フランスでは、
カトリックとユグノー(カルヴァン派)との間で、
悲惨な宗教戦争が繰り広げられました。

その根本原因は、人間のエゴであろうと思いますが、
表面上は、
それぞれが信ずる神の顔が異なっていたからです。

先ほど申し上げた、
議論の前提が異なるのに、その前提の違いをお互いよく話し合って整理せずに、

前提から積み上げられた論理の結論について、
お互い罵倒しあったものだから、命の奪い合いとなったのです。

このとき、
「寛容」が、良く主張されました。

例えば、
渡辺一夫先生は、

1533~1534年頃 突然回心する前のカルヴァンは、
旧教会(カトリック)側からのユマニストや新教徒弾圧に、
「寛容」を説く若いユマニストだった。

コップ事件(1533年11月)後、
急速にカトリックから離れ始めて、激突するようになり、

己の理想の為には、
不寛容と罵られてもこれに甘んじ、
己の理想の信仰を阻害する者は、誰であろうと「異端者」として告発する
冷厳な宗教改革者としての道を、徐々に辿り始めた、

と、書かれておられます。

 (渡辺一夫「渡辺一夫著作集5 ルネサンス雑考 下巻」352㌻)

あのカルヴァンも、
20代前半は、寛容を説くユマニストだったということは、
その後のカルヴァンを知る者にとって驚きですが、

この「寛容」という意味は、どういうことなのでしょうか。

私は、「寛容」ということは、
一つの価値しか認めない権力者やカトリックに対して、

他の価値観を持つ臣下やユグノー、ユマニストが、
お目こぼし下さいと依頼することだと思います。

カトリックは、
カトリックの価値以外は認めないし、
この世から抹殺することも厭わない故に、
ユグノーを弾圧したのですが、

それに対して、
並列する価値は、それぞれ存在する権利がある と、

正々堂々 正面から主張するのではなく、
卑屈にお慈悲を願っているのです。

依頼されたカトリックも、
本来なら赦さないのだが、今回は特別の慈悲を持って見逃してやる、
と、言って、赦したのです。

(注)「寛容」を願った人間が、
   卑屈な人間であった ということではありません。

   依頼される権力者やカトリックが、偏狭にこり固まっている故に、
   争いを避けるためには、お慈悲を願うほか選択肢がなかったのです。


「寛容」は、
根本的な解決ではなく、
情緒的な時間稼ぎでしかなかったので、

いつかその決着をつける時を迎えるざるを得なかったのであり、
それが
1572年8月の聖バルテルミーの大虐殺でした。
(バルトロメオ、バーソロミュー)

複数の価値の並存を認める社会では、

権力者だけでなく、全ての人が、
他の人から「寛容」を求められることは、先ずあり得ないはずです。

何故なら、
お互いに、自分以外の価値の存在を容認しているからです。

「寛容」が求められたということは、
自分の価値以外の価値の存在を、
認めない、赦さない、出来れば そういう人間を殺してしまいたい、
という社会だったからだ、というべきだろうと思います。


16世紀後半のフランスで、
日本にはなかった国を二分する宗教戦争が生じたということは、

キリスト教が、
一つの価値、自分の価値観しか認めない宗教だった故の悲劇だろう
と、思います。

ヨーロッパの歴史を通観すると、
複数の価値の並存が理解されるようになったのは、
この半世紀ぐらいではないだろうか、との感じを持っています。

従って、
それ以前においては、
価値の並存を認め、幾つもの価値を比較衡量した人は、いないのでは、
との感を持っっています。

言い換えると、
どんな碩学と言われる学者も、
一つの価値、自分の価値観だけが 絶対の真理だ として、
それに基づいて論理を構築していたのだろうと、思われます。

ただ、
複数の価値の並存を理解していたのでは?と、気になるのは、
マックス・ウェーバーとマキャヴェッリであり、

今回、
マキャヴェッリを読んでみようと考えたのは、
大学時代に考えた価値の問題を、改めて考えてみたかったからです。


     **********


またまた、キリスト教の方を逆なでするような議論をして、
申し訳ございません。

いつも申し上げていることですが、
ヨーロッパ史におけるキリスト教の重要性から、

信者でもない人間が、
歴史的存在としてのキリスト教について、考えていると、
私の場合、この様な議論になってしまったのです。

もし、中世だったら、
異端審問所に呼び出されて、焚刑に処されているでしょう。

今でも、
「出来ればそうしたい」と、お考えになっておられる方がおられるだろう
と、想像しています。


しかし、だからこそ、
キリスト教徒の方に、信仰の面からではなく、
歴史という視座から、歴史的存在であるキリスト教についても、
考えていただきたいのです。

余計なお世話だとは思いますが、

これは、
キリスト教徒の方が信じておられる神により、
自分がどのようなところに連れて行かれるか、を考えるためにも
必要ではないだろうかと考えています。

ヨーロッパ人に、悲惨(地獄)をもたらしたキリスト教の歴史を考えるとき、
帰依した尊師に、地獄まで道連れにされたオーム真理教の信者の悲劇は、
私には、現在のキリスト教徒の方にとっても他人事ではないのでは、
と、思えるのです。


余計な文章の 余計なお世話を最後に、
この拙文を終わらせていただきます。

最後までお読みいただき、有難うございました。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2013年6月27日 (木)

堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・

堀米先生の「正統と異端」が、中公文庫で再版されましたので、
購入して再読しました。(3~4回目です。)

堀米先生は、
日本のヨーロッパ中世史学の中興の祖ともいうべき先生です。

残念ながら、
道半ばの 63才という若さで、ガンで亡くなられたのが、
返す返すも残念だなと、思われる方は、私だけではないと思います。

(先生は、たばこについての随筆を書かれておられますので、
 大変な愛煙家だったのでしょう。)


本書は、
先生の 何冊もある主著の1つ とも言える 歴史的名著 で、

今回、
中央公論新社が、中公文庫に収録して頂いて、本当に良かったなと喜んでいます。

中世史全体の構図の中から、
カトリックにおける正統と異端を、分かり易く明快に分析された本書は、

ヨーロッパ中世史は勿論、
日本人になじみの薄いキリスト教についての理解を深めるための不可欠の1冊だと、
今回再読して、改めて痛感しました。

なお、
本書は、まえがきに、本書の要約が記述されておられます。

通読後、
まえがきを再読されると、本書の内容を整理できますので、
おすすめさせて頂きます


本書のご紹介は、
6年前(2007年)に ブログに要点を掲載していますので、

今回は、
堀米先生の本を読みながら、私自身が考えていたことについて、
お話しさせて頂きます。


なお、前回のブログにご興味をお持ちの方は、次をクリックして ご覧下さい。

   「正統と異端」
   http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_a856.html


    *******


「歴史は、謎解きである」というのが、私の持論ですが、
今回、堀米先生(以下「先生」と略します)の「正統と異端」についての謎解きに
違和感を感じました。

この違和感は、
私の歴史に対する理解が深まったのか、

それとも、
老化による耄碌によるものか、定かでありませんが、
読みながら考えたことを、以下、ご説明させていたきます。



   < 「正統と異端」第二章 の 抜き書き >


先生は、
第二章で「正統と異端の理論的諸問題」について、記述されておられますので、

最初に、
先生の「正統と異端」に対する考え方を、
第二章を抜き書きして、ご紹介させて頂きます。


先生は、
「支配的な体制、傾向、潮流を、「正統」とし、
 これに反抗する立場、行為を、「異端」とするのが、
 一般であるように思われるが、

 正統と異端の概念としては、あまりにも無内容で、
 問題分析の方法は、どこにも見いだされないであろう。

 そこで、
 正統と異端 の 一般的用法の分析 を 手掛かりとして、
 キリスト教における 正統と異端 の 歴史的概念 に至り、

 本書の主題を解明する観点を、明らかにしてみたい と 思う。」
と、記述されておられます。


そして、
「正統と異端とは、
 決して 実体的な概念 ではないが、
 際限もなく流動的であることは 出来ない。

 実体的概念 ではなくとも、
 それに近い 何物かを 持たなくてはならない のである。

 それを、
 正統 における 客観主義、
 異端 における 主観主義 と、一応規定しておきたい。

 これは、
 一方における 全体的真理の尊重 と、
 他方における 一面的真理の尊重 と、

 ある程度 言い換えることも出来よう。」
と、正統と異端を 定義づけられておられます。


これを、
キリスト教に当て嵌め、次のような論理の展開をされておられます。


1.福音書の中の対立する規定の 二者択一的な決定 は、

  一面的な正しさ は 持ち得ても、
  全面的な正しさ は 期待できない。

  従って、
  福音書の解釈にあたっては、

  相互に矛盾する、
  しかも、
  それぞれに 真実性を持つ規定を、

  総合的に合理化することが、正統の立場を生み、
  その一面的把握は、異端に通ずることになる。


2.キリスト教においては、

  パウロによって、
  イエスの教えの実践的解釈(全面的総合的合理化)が、
  行われることによって、

  信徒の人間的・社会的な日常生活のすべてを包括することが、
  可能となり、

  キリスト教が、
  大衆宗教として、ローマ社会に根付くことが出来た。

  そこに、
  批判の余地を持つ 個々の点が残ること は、
  後年のルターの場合と同じく、やむを得ないことである。

  しかし、
  与えられた現実にあって、
  イエスの教えを、最大限包括的に生かそうとするものである限り、

  この実践的解釈には、
  一面的真理の潔癖さには、求め得ない客観性があるのである。

  これが、
  正統と異端 との関係 であり、

  それを、
  客観主義 と 主観主義 の 対立と、言い換えることができるのである。


3.客観的には、
  現実との妥協・強調を重ねる 正統信仰 ないし 教会 にあっては、

  妥協・強調の一々の段階が、
  すべて原理的検討を経ているとされるため、

  決して それ自体
  現実への妥協とか、敗北の歴史 とは、意識されず、

  かえって、
  啓示に基づく俗世の強化、
  その勝利の歴史      と、されることである。


  更に言えば、

  教会の歴史的発展は、
  啓示の現実的展開として 神聖化されるということにもなる。

  ここに、
  正統信仰における 客観主義・伝統主義の基礎があるのである。


4.スターリン批判あっては、

  正統の象徴を仰がれていた 指導者、スターリン個人 の 誤りに絞られ、

  マルクス・レーニン的原則 と、
  その展開としてのソヴィエト体制は、

  依然として、
  本質上無傷でなければならなかった。


  スターリン と その仕事 は、

  謂わば、
  有機体の自己恢復にも似た
  異物の排除、排泄 として 処理されることになる。


  カトリック教会における 客観主義、
  つまり
  教会 は、

  その機関である 聖職者の徳性 とは 無関係に、
  その神的不可侵性 を 保つ という主張も、

  これと同一の論理に立っているが、

  この点は、
  カトリック教会の秘蹟論との関係で再説する。


5.異端は、

  正統あっての存在であるから、
  それ自体のテーゼはなく、

  正統の批判が、その出発となる。


  批判の基準となるのは、正統と同じ啓示であり、

  これによって
  正統教会による啓示の解釈とその現実との妥協・協調の歴史が、
  その対象となる。


  従って、
  異端のテーゼは、常に 啓示への復帰であるが、

  その啓示は、
  全体的にではなく、

  部分的に、
  つまり
  異端の主観的真実に合致する限りにおいて受け取られ、


  また、
  より文字通りに解釈され、

  その現実への適用可能性は、
  相対的に、軽視 ないし 無視せられる。


  つまり、
  理想(啓示)と現在とが、

  その間にあるべき実現の過程を省略して、
  端的に一体化して捕らえられる。


  従って、その限りでは、

  異端は、
  極めてラディカルな理想主義の形態を取り、

  その理想に耐えられるための強烈な精神の緊張を要する
  という意味だけでも、

  主観主義的とならざるを得ない。


  それは、また、

  現実との妥協を、
  可能なる限り排除するものであるから、

  道徳的には、
  英雄的なリゴリズムを必要とし、

  その信徒は、
  必然的に少数たらざるを得ない。


  それは、また、
  歴史と現実の革新を企てるものであるから、

  ラディカルに、反社会的であるか、
  ないしは、
  社会に対し 全く無関心であるかであるが、


  いずれにせよ、
  主観的理想への意識の緊張を持続する必要から、

  終末感的ラディカリズムに向かう傾向 を、
  示すことが多い。


6.これに対して

  正統は、

  社会=俗世の不完全さ を
  その出発点における前提 とするので、

  人間と社会の欠陥 に、寛容であり、

  それとの妥協 を、
  ただちに 認めるものでは ないが、

  その教化教育を、使命と考える。


  そのために、
  正統は、

  万人に対し、
  エリートのための道徳、道徳的英雄主義を求めず、

  一般人の道徳 と、
  エリートのそれとの、二元主義をとり、


  在家の信徒と、

  その道徳的模範たるべき道徳的英雄主義の組織的追求者
  としての 修道士の存在 を、認める。


  しかも、

  この二元主義が、
  二元的分裂に陥らないため、

  不断の自己更新・理想の自覚(聖体の秘蹟)が要求され、


  また、
  悔悛(秘蹟) と 自己批判 が、

  一般的道徳の倫理規定のなかに入るのである。


  この悔悛 と 自己批判 は、

  しかし、常に、
  一般人の倫理規定 であるばかりではなく、


  理想と現実との距離 を 直視する 正統 にあっては、

  エリート、
  即ち
  道徳的英雄主義の実践者自体 にも、要求され、


  完全に孤立的な理想の追求(隠修士)よりは、
  団体的なそれ(修道院)が選ばれ、

  エリートのエリート を 選んで、
  それへの服従を誓わせることによって、

  重すぎる個人責任を軽減し、
  道徳的フラストレーションを防止する のである。


  このことは、
  異端と目される団体 に あっても、

  それが長期にわたって持続し、
  より広範囲のメンバー を、包括するに至るとき には、

  必ず看取される現象であり、


  例えば、

  ① 12、3世紀の異端 である カタリ派、ワルド派 における

    平信徒=クレデンテス と
    指導者・達識者=ペルフェクテス としての分離は、それである。


  ② 万人司祭説を採る プロテスタンティズムにおいても、

    やがて
    牧師と信徒との区別 が 生じたのも、同じ理由のものであり、

 
 ③ プロテスタンティズムの極限形態 としての 無教会派は、

    原則に、
    最大限忠実であろうとする結果、

    その普及は、最小に限られているが、


    ここでも

    最小限の指導者を欠くことは出来ない。



長い引用となり、恐縮しています。




先生の定義を再読して、次の2点の感想を持ちました。


1.先生は、

  ずいぶんカトリック寄りの論理
  というよりは、

  正統たるカトリックは、正しく、
  異端は、間違っている、

  との
  カトリックの護教的論理を、代弁されておられるのではないだろうか?


  (先生は、仏教系の芝中のご出身ですので、
   キリスト教徒故では無いのでは?と、思いますが・・・)


2.政治と宗教 では、

  正統と異端についての論点が、
  異なるだろう と、思いますが、


  先生は、

  政治における 正統と異端 の 考え方 を、
  そのまま宗教に持ち込んでおられる のではないだろうか?


  政治においては、

  権力(錦の御旗)を握った陣営が、
  正統となり、

  権力奪取できなかった陣営が、
  異端となりますが、


  宗教においては、

  信仰が、
  正統と異端 を 決定する 判断基準 となるのでは ないでしょうか。


  先生が、

  信仰に、力点を置かずして、
  権力に、力点を置かれて、

  権力を握ったカトリック を、
  アプリオリに正統 と、認定される論理付けをされておられることに、

  疑問や違和感 を、感じるのです。


以上の2つの点を踏まえて、

先生の記述をご紹介しながら、
私の考えるところを ご説明させて頂きます。



   < 先生の 秘蹟論の解説 を読んで感じたこと >


1.先生は、

  正統における 客観主義 と
  異端における 主観主義 と、

  規定されておられます。


  カトリック的客観主義 を、

  「洗礼(秘蹟)が、
   効力を持つ根本理由は、聖三位一体であり、

   外部にあて秘蹟を伝える司祭者は、
   道具であるから、

   聖三位一体への呼びかけによって秘蹟は成就する。」


  「緊急の際にあっては、

   異教徒や異端でさえ、
   教会の定める言葉を用い、教会のなすところをなさんとする限り、

   同じく洗礼(秘蹟)を施しうる。」

   (中公文庫65㌻)

  と、紹介されて、


  「成聖恩寵の喪失 と 永劫の断罪 を
   その罰として受ける司祭者(瀆聖聖職者)
   であっても、

   秘蹟の執行要件を 守る場合には、
   効果ある秘蹟を与えうる

   ということであって、


   秘蹟の超越的性格 と
   司祭者の道具的性格 は、

   この上なく明瞭にされている
   ということが、出来るであろう」

   (中公文庫66㌻)

  と、記述され、


  「この カトリック的客観主義 こそ、
   異端 の 最大のカトリック教会への攻撃論点 である」

  と、論を進めておられます。


  要するに、

  聖職者は、
  神の道具であり、

  秘蹟は、
  神が行うものだから、

  形式さえ整っていれば、誰がやっても有効である、

  というのが、
  カトリックが客観主義である所以であるということです。


  客観主義という言葉は、

  カトリックは、

  客観的に正しいことを行っているから正統なのだ
  という印象を、与える言葉のような気がします。


  でも、
  このカトリックの考え方は、
  ちょっとおかしい と、感じられませんでしょうか。


  まず、
  誰に、秘蹟を与えるかを決めるのは、
  人間である聖職者 でしょう。


  ということは、

  人間が、決めた対象者 に対して、
  神が、秘蹟を授ける ということは、

  人間の決定を、神に押しつけている、

  言い換えると、

  人間 を、
  神の上位に位置づけていることにならないでしょうか。


  また、
  秘蹟の執行要件は、
  神が決めたのではなく、カトリック=人間が、定めたものです。

  ということは、
  人間の定めた形式に、神を従わせていることになって、

  これもまた、
  人間を、神の上位に位置づけていることにならないでしょうか。


  上記の具体的な例として、教皇の選出をあげさせて頂きます。

  教皇は、
  人間である枢機卿の選挙により選出されますが、

  それでは、
  教皇の正統性が担保されないと考えたのか、

  枢機卿の選挙は形だけで、
  教皇は、
  聖霊の導きにより選ばれるとされています。

  しかし、
  聖霊の導き=神の決定 である教皇が、3人も並立したこともありますし、

  幾たびも
  対立教皇が、擁立されることが生じています。


  教皇の選出は、
  人間が行っているのに、
  神が、実質決定していると、

  カトリックは、
  平気で詭弁(ウソ)を弄しているのです。


2.異端は、
  瀆聖聖職者の行った秘蹟は無効 と、していますので、

  先生は、
  主観主義だと規定されておられます。

  主観主義という言葉は、

  異端は、
  主観により=自分勝手に 判断している、との印象を
  与えるもののような気がします。

  この様な 価値を印象づける言葉を、定義として使用されること自体が、
  カトリック寄りの立場に 先生が立っておられるような感じがするのです。


  冷静に、第三者的に定義するとしたら、

  カトリックが、
  形式主義、外形主義であり、

  異端は、
  実質主義である

  というような言葉を、使うべきではないでしょうか。



3.次に、先生は、

  カトリックは、

  洗礼・堅振・叙品の三秘蹟は、
  「主の印」又は「消えぬ印」を受領者の心に刻むもので、

  「印」の上に「印」を刻むことは、
  この上ない瀆神の行為にほかならないから、繰り返しが認められていない、
  (中公文庫69㌻)

  と、記述されておられます。


  これも、
  カトリックのおかしな論理であろうと感じられます。

  もし、
  三秘蹟を行った者が、悪魔(サタン)であり、悪魔の印を刻んでいたら、
  どうするのでしょうか。

  また、
  悪魔(サタン)まではなく、異教の印が刻まれていたら、

  その上に、
  キリスト教の印を刻むことは、有効なのでしょうか?

  アウグスティヌスは、
  マニ教やプラトン主義を経験した後に、
  キリスト教の洗礼を受けています。

  過去のマニ教やプラトン主義が刻んだ印は、水に流せるが、
  瀆聖聖職者の刻んだ印は、水に流せない
  という論理が、私には理解できません。

  (カトリックは、
   マニ教やプラトン主義では、
   洗礼に類する儀式を受けていないと主張するのでしょうが、

   詭弁、屁理屈の類いだと思います。)


  民法(法学)では、
  無効な行為は、最初から行為自体がなかったものとされます。

  この論理を使って、異端が主張するように、

  瀆聖聖職者の行った秘蹟は、
  無効な秘蹟であり、印を刻んだものではなかった

  と、する方が、納得できる考え方のような気がしています。



4.先生は、更に、

  カトリックは、

  「主の印」を帯びること と、
  秘蹟の効果にあずかることと は、
  直ちに同一ではない

  とのアウグスティヌスの秘蹟論を、受け継いでいる
  (中公文庫81㌻)

  と、記述されておられます。


  即ち、
  「ドナティストの教会で受けた秘蹟も、秘蹟であり、
   「主の印」を帯びるが、

   それは、
   まだ、秘蹟の効果を欠いているという点で、不完全である。

   秘蹟の効果は、

   異端者が、
   唯一の真実の教会である、カトリック教会に帰一して
   初めて生ずるもので、

   教会の外にある限り、
   秘蹟の効果にあずかることは出来ない。

   秘蹟から秘蹟の効果を生み出せるのが、
   カトリック教会だけであるのは、

   「教会の洗礼は、教会外にも存在しうるが、

    祝福された生命の贈り物は、
    まさにペトロ(磐)の上に建てられ、縛り、かつ 釈(と)く鍵を受け取った
    教会の中においてしか見いだされない」からである。


   しかし、

   この教会とは、
   目に見える教会と同じものではなく、
   アウグスティヌス独自の聖者共同体理論が入ってくる。

   「神は、恩寵による秘蹟を、悪人を介してさえ与えるが、
    恩寵そのものは、
    神自らによるか、ないしは、その聖者を通してしか与えない。」

   アウグスティヌスは、

   この聖者を、
   聖霊に満たされ、聖霊を伝えるものと規定しているが、

   この聖者の作る共同体なるものは、

   全体としてのカトリック教会の中に、
   外面的な法規によって可視的に存在するものとはせず、

   全く無形のままに機能するものとした。」

  と、紹介された後に、

  「この様な純精神的な規定によって、

   アウグスティヌスは、
   単なる職制的理論を超えた深みを、その教会理論に与えると共に、

   道徳的完全さへの要求が、
   宗派(セクト)・異端の形をとって、教会の統一を破ることを
   抑えることが出来た。

   トレルチ流に言えば、
   聖者共同体論は、
   カトリック教会の道徳的二元主義、

   言い換えれば、

   修道士と一般教会聖職者 並びに 平信徒のもつ、二種の道徳の併存と、
   そこから生ずる
   道徳的緊張の論理に基礎を与えるものと言えるであろう。」

  と、記述されておられます。


  アウグスティヌスの聖者共同体論は、
  随分と自分勝手な論理だと感じられませんでしょうか?

  ① カトリック教会が、
    ペトロ(磐)の上に建てられたとのマタイ福音書16・18~19は、

    マルコ福音書やルカ福音書には記述されていません、
    というか、
    そっくり脱落しているのです。

    マタイ福音書が、
    原始キリスト教会の意図に従った福音書であり、

    それ故に、
    マタイより早い時期に記述されたヘレニストのマルコ福音書より前に
    聖書に位置づけられたことを考えると、

    この話は、
    イエスが話をしたと考えるよりは、
    マタイ福音書の記者が、挿入したものと考えたほうが、
    蓋然性が高いのではないでしょうか。

    もし、イエスが、この様なことを言ったとしても、

    ペトロは、
    イエスが逮捕された晩に、3回もイエスを裏切っていますし、
    自分の逃亡を優先して、イエスの処刑にも立ち会っていません。
    (イエスの周囲の女性達は、イエスの処刑に立ち会っています。)

    この様な人間が、
    イエスの後継者だとするカトリックの厚顔さに、
    唖然として、絶句してしまうのは、私だけなのでしょうか?


  ② 聖霊に満たされた聖者について

    これも、唖然として絶句してしまう話です。

    聖霊に満たされているとは、

    イエスが復活した後に昇天した後に、聖霊が降臨して、
    ペトロ以下の使徒達が、
    聖霊に満たされたことから、始まっています。

    その後、
    聖霊に満たされた者が、頭に手をかざす按手をすれば、
    按手された者も、
    聖霊に満たされるとの建前が、受け継がれているのです。

    聖霊に満たされるということは、
    神と直接つながることを意味するそうです。

    この様な聖霊に満たされた者により、
    教会が、構成されているというのが、

    カトリックの正当の理由づけなのでしょうが、
    全く話にならない理由付けのように感じられます。

    以前にお話ししたことで恐縮ですが、
    聖霊に満たされた者という擬制はウソなのです。

    例えば、
    ペトロとパウロは、
    共に誰が見ても聖霊に満たされた者ですが、

    アンティオキアで、
    キリスト教徒になるには割礼が必要かどうかで対立して、

    パウロは、
    原始教会から追放されてしまいました。

    聖霊に満たされた者=神と直接繋がった者であるなら、
    意見が異なることはあり得ないのに、

    パウロが追放されたのですから、

    聖霊に満たされた者との擬制はウソであることが、
    明白であろうと思われます。

    同じようなことが、

    アンティオキアで、
    ペトロとパウロの対立があったかなかったについて、

    アウグスティヌスとヒエロニムス(ウガルタ聖書の作者)とで、論争しています。

     出所;ウィルス「アウグスティヌス 117㌻」(岩波書店)

    これも、
    聖霊に満たされている者との擬制がウソであることを現しているものですが、

    そのような経験をしたアウグスティヌスが、
    聖者共同体論を唱えているということに、

    私は、
    カトリックの平気でウソをつく人間性に、首を傾げているのです。


  以上、①、② を 考えると
  「秘蹟から秘蹟の効果を生み出せるのが、カトリック教会だけである」との
  アウグスティヌスの主張は、説得力を持たないのでは、
  と、いう気がしています。

  聖者共同体論や、使徒的伝承の理論は、砂上の楼閣の理屈であり、
  キリスト教が、
  信者をマインドコントロールするための詐術、虚言とでも言うべきものでしょう。



  < 「異端は、部分的主張である」との解説について 感じたこと >


1.この点の記述に対する違和感 は、
  「異端が 部分的であることは、当然ではないでしょうか」というものです。

  異端は、
  異教と異なり、同じキリスト教なのです。

  権力を握っているカトリックに対して 異議を主張する論点以外は、
  カトリックに反対していないのですから、カトリックと同じなのです。

  従って、
  異端の主張は、部分的と先生は記述されておられますが、
  ある意味当たり前のことではないでしょうか。


2.もう一つの違和感は、
  異端が、カトリックから独立することはないのだろうか?
  と、いうことです。

  カトリックの主張に反対を徹底すれば、
   ① 自らカトリックから袂を分かつか、
   ② カトリックが異端宣告して追放することになるでしょう。

  その時、
  異端がのたれ死にするように消えて無くなるなら、
  先生のおっしゃるように 部分的なものと言えるだろうと思いますが、

  事実はどうだったのかな?・・・との考えが浮かんできます。


  カトリックに対する最大の異端は、

  ルター派であり、
  カルヴァン派ではないでしょうか。

  即ち、
  16世紀に始まった プロテスタントであろうと思います。

  彼らは、
  16世紀にカトリックから独立して、
  カトリックとは別の歴史の歩みを刻んでいます。


3.正統のアウグスティヌスに敗北したと先生が記述されてる ドナティスト は、
  どうでしょうか?

  実は、
  アウグスティヌスの伝記を何冊か読んでみると、
  先生の語られる歴史とは違うのでは、という感じがしています。


  ブラウンは、
  「アウグスティヌス伝上 235㌻」(教文館)で、

  393年以降、
  アウグスティヌスと同僚達は、ドナティスト教会に対して敵対的態度を取った。

  ドナティストは、
  アフリカにおけるローマの法と秩序に脅威を与える大衆の反抗運動である
  との見解は、

  393年~405年
  アウグスティヌスと彼の同僚達が作り出した状況に対しては、
  正当なものとは言えない、

  と、記述されておられます。


  ブラウンの同書の記述を、もう少しご紹介させて頂きます。

   ① ヒッポにおいては、
     カトリックは、少数派 であり、

     (ヒッポがあった)ヌミディアでは、
     ドナティストが、主流教会 だった。

   ② (当時)ドナティストにとって、
     あたかも、教会の平和がやって来たように、見えていた。

     あと、もう少し妥協すれば、
     浄化された教会(ドナティスト)が、

     見下され、弱体化した 引き渡した者たちの教会(カトリック)を、
     すべて吸収するところまで来ていた。

     少数派のカトリックは、
     優勢な兄弟達(ドナティスト)に、
     次第に浸食されるがままになっていたように見えたので、

     アウグスティヌスは、
     ヒッポで、ドナティストへの寛容策を採用できなかった。

   ③ アウグスティヌスと彼の同僚が 393年~405年に作り出した状況

     この時期、
     運動は、いつもトップからのみ 引き起こされた。

     運動とは、

     A.カトリック教会 の 突然の自己主張 と
     B.アフリカにおけるすべての非カトリックに対する帝国の権威が、
       厳しさを増してきたことである、

     こうして私たちは、
     上からの独断的な迫害 と、
     これに対抗した 下からの暴力の盛り上がり という
     始末に負えない繰り返しの軌道をしっかり辿ることになる。

     ドナティストは、
     アフリカにおけるローマの法と秩序に 脅威を与える大衆の反抗運動
     と、言われたことがあったが、

     この見解は、
     アウグスティヌスと同僚が作り出した状況に対しては、
     正当なものとは言えない。

     ドナティウスとの支配領域に、説教者を送り込んだり、
     後には、
     ドナティスト教会に対して、武力でその体制を転覆しようとする
     アウグスティヌスと同僚達の試みは、

     ドナティスト教会の過激派
     キルクムケリーネス(キルクムケリオネス)の集団によって妨害された。

     出所;ブラウン「アウグスティヌス伝上 234~236㌻」(教文館)



  ブラウンは、
  1935年生まれの古代末期についての代表的な歴史学者で、
  ご紹介した「アウグスティヌス伝」(教文館)は、
  当代屈指の伝記との高い評価を得ているそうです。

  ブラウンによると、
  アフリカ(現在のチュニジア、アルジェリア)で主流だったのはドナティストであり、
  アウグスティヌスが 司教をしていたヒッポはもとより、色々な町で、
  ドナティストの司教とカトリックの司教が並立していたそうです。

  しかも、
  ドナティストが、カトリックより優勢で、

  アウグスティヌスは、
  このままではドナティストに敗れてしまうと、
  武力による実力行使を始めたのでした。

  アウグスティヌスが、
  ローマの権力、武力を使用して、ドナティストを鎮圧したのです。

  411年
  カルタゴの比較協議会で、
  アウグスティヌスは、
  ドナティストに論争に勝利したことになっていますが、

  裁判長は、
  ローマが派遣した官僚のマルケリヌスであり、

  神学論争というものは、
  先に「錦の御旗」を確保した者が勝利するような仕組みになっていますので、

  ドナティストが、
  異端と断罪されるのは既定路線だったのだろうと想像しています。



  アウグスティヌスは、
  キリスト教神学を確立した最大の神学者ということになっていますが、
  人格的にも(特に、司教としての行状)感心できないと感じています。

  例えば、
  420年 ティムガドのドナティスト司教 ガウデンティウスは、
  ローマ帝国の執行官ドゥルキティウスが、近づいてくると、

  大聖堂に引き籠もって
  自分の会衆と共に焼身自殺を遂げると脅迫しました。

  これに対して、
  アウグスティヌスは、

  「神が、
   ある者たちを究極の罰へと予め定められている(予定している)以上、

   ごく少数の者たちが、自分の火で焼かれることがあるにしても、
   圧倒的大多数のドナティストが、カトリックに吸収される方が、

   ドナティスト全員が、ドナティストとして留まり、
   地獄の炎で焼かれるより、ずっと良いことであることは明かだ」

  と、予定説を ドゥルキティウスに教示して、
  焼身自殺に立ち向かうよう武装させた、とのことです。

   出所;ブラウン「アウグスティヌス伝下」61㌻(教文館)


  要するに、

  アウグスティヌスは、
  カトリックが、ドナティストを制圧するために、

  ローマの司令官に、
  ドナティストを焼き殺せ と、指示しているのです。


  また、
  418年
  アウグスティヌスは、ペラギウスを異端だと断罪していますが、
  この経緯も感心できません。

  アウグスティヌスは、
  415年に、
  ペラギウスへの攻撃を開始していますが、

  それを受けて、
  415年
  パレスティナのディオスポリス(リッダ)での公会議ので審理の結果、

  エルサレム司教が、
  ペラギウスの正統性を承認しました。


  更に
  417年
  ローマ教皇 ゾシムスが、ペラギウスを審問して、

  「この様な真正の信仰を持った者たちが、誹謗されるなどということを
   考えるだけで、涙を禁じ得ない」とまで、述べて、

  教皇が、ペラギウスを正統と 認めたのです。

  そこで、
  アウグスティヌスは、

  子供時代からの親友のタガステ司教アリピウスを、
  西ローマ皇帝の許に派遣して、

  サラブレッドの種馬を使っての賄賂工作により、
  西ローマ皇帝よりローマ教皇へ圧力をかけさせて、
  ローマ教皇を屈服させ、

  教皇 ゾシムス に
  ペラギウスが異端であると、言わせたのです。

    出所;アマン「アウグスティヌス時代の日常生活下 300㌻」(リトン)


  この様に、
  アウグスティヌスは、
  論争ではなく、
  武力や裏工作で、自らの主張を貫徹させたのです。

  カトリックでは、
  上長の命令は、絶対的な権威があり、
  従わねばならないとなっているはずなのに、

  アウグスティヌスは、
  上長である エルサレム司教、ローマ司教(教皇)を無視して、
  自分の我を通しているのです。

  でも、
  歴史は、勝てば官軍なのです。

  カトリックは、
  というより キリスト教は、

  この様な人格的に首を傾げるような人間でも、
  自分にとって都合が良ければ、偉人だ、聖人だと、崇め奉るのです。

  モーセも、
  アウグスティヌスも、
  ベルナールも、

  更には、
  カルヴァンも、然りなのです。



   < 宗教での正統か異端の判断基準は、信仰では? >


先生は、

「正統は、社会=俗世の不完全さをその出発点における前提とするので、
 人間と社会の欠陥に寛容であり・・・」

「万人に対して、エリートのための道徳、道徳的英雄主義を求めず、
 一般人の道徳とエリートの道徳の二元主義をとっている。」
と、記述されておられますが、

ちょっと論点をそらせておられるのでは、との違和感を持ちました。

先生が、
この様なカトリックの態様で、宗教的な正統が獲得し、維持できると
お考えになっておられるのでしょうか?


ドナティストが、
問題にし、非難したのは、エリートたる聖職者なのです。

カトリックが、
聖職売買や腐敗を非難され、改革を求められたのも、
一般の信者ではなく、エリートたる聖職者なのです。


先生は、
クリュニーがすぐ堕落し、
シトー会もクリュニー同様 すぐに堕落し、

(更に、
 フランシスコ会、ドミニコ会と、)

次から次へと、
最初の志をすぐに忘れ、捨て去ってしまって堕落している
と、書かれておられるのに、

二元主義を採っているから、正統は正しい と、おっしゃるのでしょうか。


そもそも、
アウグスティヌスとドナティストとの比較して、
アウグスティヌスが、正しく正統であり、、
ドナティストが、間違っていて、異端である と、感じられますでしょうか?

ディオクレティアヌス帝のキリスト教弾圧の際に、

ドナティストは、
キリスト教を棄教せずに、必死に頑張り通した人たちなのです。

それに対して、
弾圧の際には、キリスト教を裏切って、
弾圧が終わったら、何にも無かったように、

以前の地位に戻ろうとした聖職者に対して、
おかしいではないかと、異議を申し立てるのは、
当たり前ではないでしょうか。

弾圧の際に、殉教を覚悟で頑張った人間が、
異端として否定され、

弾圧の際の裏切り者が、
正統とされて、カトリックでの権力を 握っていることが、
信仰の面から是認されるのでしょうか。


また、
裏切り者で、資格のない聖職者が行った秘蹟は、無効だ
と、感じるのは、十分理解できるのではないでしょうか。

カトリックは、
そんなことをしたら、組織が持たない、

だから、
秘蹟は、
実質、神がするのであり、聖職者は道具にすぎないから、

形式さえ整っていれば、秘蹟は有効だ
との詭弁を考え出して、
権力を使って強引に押し通したのです。


政治の世界では、それでよいかも知れませんが、
宗教では、この様なことが許されるのでしょうか。

信仰のない聖職者が、
キリスト教を代表して秘蹟を行うことがあって良いのでしょうか。

先生は、
「人間と社会の欠陥に寛容であるから」と、正当化されておられますが、
そのような論理が宗教的に認められるのだろうかと疑問に感じられます。


聖職者の資格を疑われる者を、聖職者にしてはいけないのです。

宗教は、
人間の中で、最も倫理的な厳格さを要求される分野ですから、
腐敗した聖職者は、即座に排除せねばならないのです。

宗教は、
組織の維持よりも、信仰を大切にすべきなのです。

というよりも、
神や信仰を論理の出発点としなければならないのです。

カトリックは、
「旧約の神やモーセからして、犯罪者(殺人犯)であり、
 ペトロやパウロも同様に人殺しであって、

 カトリックは、
 信仰を看板にして、権力を握り、
 信者から金を巻き上げることを、最優先にしてきた組織であることは、
 バチカンを見れば一目瞭然である。

 だから、
 真摯に信仰を考える 建て前と本音が分からない 素っ頓狂な人間が現れると、
 異端として排除してきたのだ。」
と、言われても、反論は出来ないのではないでしょうか。

従って、
カトリックが、危機に陥ったときには、
さすがに、本来の宗教団体として要求される信仰が
甦ってくるのだろうと思います。

グレゴリウス改革が、その典型でしょう。


グレゴリウス改革を見ると、

カトリックが、異端として排除したものが、

本質的には、
言い換えると、
宗教的・信仰的には、正統なのだ

という風に考えるべきだろうと思われます。


それ故に、
危機が過ぎ去れば、
以前の世俗権力を追求する組織に戻っていくのであり、

それをうまくやろうとしたのが、
中世最大の教皇と言われた イノセント3世なのだろう
と、思います。


先生は、
中世の西ヨーロッパは、
皇帝権と教皇権の2つの中心を持つ楕円的統一体だ
との説明をされておられます。

世俗の皇帝権 と、
聖界の教皇権 という
質の異なっている中心(焦点)の感じを、従来持ってきましたが、

今まで述べたことをまとめると、
皇帝権と教皇権の両方共が、同質の世俗の権力であり、

両者が、
世俗の権力の覇を争ったと考えるべきだと考えるようになりました。

そういえば、
ビザンツ帝国では、ギリシア正教は、皇帝に服従していまので、

政治権力と宗教が並存する場合は、
政治権力を持っていない宗教は、
本来的に 政治権力に服従せざるを得ないのです。

西ヨーロッパでは、
ローマ皇帝が、早い時期に消滅しましたから、

教皇権が、世俗的にも力を得て、
皇帝権に対抗するまでの政治権力になったのだろう
と、思います。

近世になって、国民国家が形成されますと、

教皇の世俗的権力が消滅し、
その宗教的な支配領域も、
主にハプスブルク家の支配領域に限定されて、

フランスとイングランド、オランダ、
更には、
北部ドイツは、教皇より袂を分ちました。

 (注) ハプスブルク家の支配地域とは、
     スペイン、ベルギー、イタリア、南ドイツ、オーストリア等です。


注目されるのは、フランスです。

フランスは、
カトリックの世俗権力は、排除しましたが、
信仰は、カトリックを維持しています。


フランスの例を考えると、

カトリックが、最初から
政治権力を持たない信仰に専心した敬虔な宗教団体であったならば、

プロテスタントやイングランド国教会のような
カトリックから分離するような勢力が出現しなかったのでは、
という気がしないでもありません。


歴史を振り返って
カトリック教会に対する批判の根強さの 依って来たるもの を考えると、

カトリック教会が、
「正統であり、宗教的に正しい」とは、アプリオリには言えず、

カトリックの正統の論理は、

世俗的な権力を掌握するための論理であり、
宗教的には、異端とも言うべきものであるのでは?

と、結論づけられるのでは?
という気がしています。




   < キリスト教の本質についての私見 >


この1年半、キリスト教関係の本を読んできましたが、
以上の考察を経て、
キリスト教に対する整理が出来たような気がして、
改めて、堀米先生に感謝しております。

また、
キリスト教に関して、親切にご教示くださり、導いて頂いた todoさんに、
心より御礼申し上げます。


神への信仰は、
個人が神を感じるものであり、全く個人的なものでしょう。

私は宗教を信じていませんので、想像するだけですが、
絶対的な孤独、暗黒の虚無(例えば 死)に耐えられない故に、
神を求めるのではないでしょうか。

ですから、
宗教は、本来的に組織は必要が無いはず です。

一人一人が、神を感じ、帰依すればそれで良いのであり、
その意味から、
先生が、
普及が限られたているとおっしゃっている無教会派のあり方が、
宗教的な本来のあり方を現しているのだろうと思います。


ところが、

信じる神を弘めたい、との願望が、
神への帰依が強い人ほど出てくるのは理解できます。

そして、
そのような人々が、集団(教会)を形成して、
組織(教会)を維持していくようになると、

途端に、
神よりも、組織の論理と、組織及びその成員の利益が
優先されるようになって、宗教として堕落していくのです。


人間は、エゴの塊であり、

人間が集まれば、
先ず自分の利益が最優先するのが、人間の哀しい性(サガ)なのです。

先生は、
十分にそれを承知されていて、
組織とはそういうものだと、達観されておられたのでしょう。

宗教というものは、
そうなるとすぐ堕落して、批判されるようになることを、

先ほど述べた各修道会の経緯を見ても、先生は、ご承知のはずなのに、
堕落した組織であるカトリックを、正統とされたことが、少々残念です。


以上まとめると、

 ① 信仰 は、
   一人一人の人間が、神を感じて、神と対話するものであり、

   宗教とは、
   本質的に個人的な性格のものである

 ② 教会(教会という組織)は、
   世俗の存在であり、聖的な性格を有するものではない。

   また、
   宗教的には堕落する性格を持ったものである。

   何故ならば、
   人間は、エゴの塊であり、
   聖職者も、その人間の本性を免れることがない故に、

   信者から巻き上げた富を 教会や修道会に蓄積することにより、
   聖職者の贅沢な生活をもたらそうとするものであるからである。

   そして、
   組織や成員の利益を追求し、維持するためには、

   神を利用して、信仰を掲げて
   詭弁やウソを弄してでも、押し通そうとする存在である。

 ③ ごく稀に、
   アッシジのフランチェスコのような
   清らかで、神の申し子とも言うべき聖人が、出現するが、

   これらの人は、

   キリスト教の看板として、
   キリスト教の本質を隠蔽すために
   大いに活用すべき道具にすぎない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月11日 (土)

ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?

昔、塩野七生さんの「海の都の物語」の最初に、

アッチラがイタリアに侵入してきたとき、
アクィレア陥落後、ヴェネツィアに人々が逃げ込んだ、
との話が ありましたので、

ヴェネツィアの西側の本土の人々が、
ヴェネツィアに逃げ込んだのだろう と、思い込んでいました。

というのは、
ヴェネツィアは、東のアドリア海に面した潟(ラグーザ)の島だったからです。

ところが、歴史書を繙くと、

810年
リド島のマラモッコからリアルトに移住したとの記述がありますので、

何で、
西側の本土からではなく、
アドリア海に面したリド島に人々がいたのだろうか、

何故、
リド島の人が リアルトに移住して、
ヴェネツィアの統治権を握ったのだろうか、
との疑問を、長年抱いてきました。

今回(2010年4月)
クセジュ(白水社)「ヴェネツィア史」(クリスチャン・ベック著)を読んで、
この疑問が解消できましたので、
ヴェネツィアの最初の頃の歴史を、簡単に要約してご紹介させて頂きます。


人々が、ヴェネツィアに逃げ込んだ事件は、大きいもので3回あります。

第1回 401年 西ゴート族 アラリック の侵入
第2回 452年 フン族    アッチラ  の侵入
第3回 569年 ランゴバルド族      の侵入

アラリックは、
コンスタンティノープルから、遠路はるばるイタリアに侵入し、

アッチラとランゴバルド族は、
ハンガリーより侵入したのですが、

イタリアへの出口は、
3回とも、スロベニアよりイタリア東北部への道でした。

イタリアは、
北はアルプスがありますので、
イタリアへの東側の入り口は、
峠の道以外は、スロベニアからの道なのです。

第一次大戦の際も、
オーストリア軍がイタリアへ攻め入ったのは、

オーストリアが支配していたトリエント地方からと、
アラリックなどと一緒の スロベニアよりの道で、

スロベニア国境からヴェネツィアにかけての地方が、
主な戦場となりました。


伝説によると、
ヴェネツィアの建国は、421年3月25日だそうです。

クセジュ「ヴェネツィア史」の著者 ベックは、

452年  アッチラにより アクィレイア が 焼かれ、コンコルディアが破壊された
466年頃 リアルト(リヴォアルト)に 初歩的な政治体制 が 発足したと思われる
と、記述しています。

  コンコルディア  ヴェネツィア の東北 50km、アクイレイア の西 40km
  リアルト(リヴォアルト) サンマルコ広場~リアルト橋辺り一帯の島々

また、
538年 東ゴート カッシオドルスの書簡に、
ヴェネツィアのラグーナ(潟)の住民について言及されていて、

この書簡が、
ラグーナの住民に関する最古の史料だとのことです。

この様に、
400年代の2度の侵入により、
潟(ラグーザ)に浮かぶ島に人が住むようになったのだろう
と、思われますが、

2回の侵入共に一過性だったため、
戦乱により一時的に避難してきた人が多く、
侵入終了後、
元の住処に戻った人が多かったとのことです。

ですから、
このヴェネツィアに、人々が本格的に定住するようになったのは、
568年 ランゴバルドの侵入以降とのことです。

ランゴバルドは、
ご存じの通り、イタリアに侵入してきてイタリアを支配した民族です。
従って、
ヴェネツィアに避難した人が、
本土に帰ろうと思っても、帰るに帰られなかったのでしょう。

ベック「ヴェネツィア史」クセジュで、
避難の様子を次のように記述しています。

アクレイアの総大司教は、      グラード に 居を移した。
トレヴィーゾから逃げてきた人々は、リアルトの島々 や トルチェッロに 逃亡した。

パドヴァからは、   マラモッコ に、
フリウリ地方からは、グラード や カオルレに集落を作った。

キオッジャ や イエゾロにも、人々が 避難した。

  アクレイア   ヴェネツィア の東北東 85km
  グラード    ヴェネツィア の東    85km、アクレイアの南 10km

  トレヴィーゾ  ヴェネツィアの北    25km
  トルチェッロ  潟(ラグーナ)の中の島

  パドヴァ    ヴェネツィアの西    35km
  マラモッコ   潟とアドリア海を分けるリド島の町

  フリウリ地方 ヴェネツィアとアクレイアの間のアルプスの南山麓の地方
  カオルレ   ヴェネツィアの東北東 45km

  キオッジャ  ヴェネツィアの南    25km、アドリア海沿岸の町
  イエゾロ   ヴェネツィアの東北東 25km、潟(ラグーナ)の東端南側の町


色々な人々が、ヴェネツィアに避難してきたのですが、

その人々の中心となった
ヴェネツィアの統治権が、リアルトに移るまでのの変遷を、
編年風にご紹介させて頂きます。

569年 ランゴバルド、イタリアに侵入
639年 オデルツォが陥落し、チッタノーヴァ(エラクレア)に権力の中心が移動

697年 チッタノーヴァで、最初のドージェ 選出
742年 チッタノーヴァより リド島 マラモッコ に 権力の中心が移動
751年 ラヴェンナが陥落して、チッタノーヴァのビザンツ支配が終焉した

810年 ピピンの攻撃を撃退した後、
     マラモッコよりリヴォアルト(リアルト)に権力の中心が移動


569年
ランゴバルド侵入後も、
ヴェネツィアの地方は、ビザンツ帝国が支配していて、
行政のの中心地は、オデルツォでした。

  オデルツォ  ヴェネツィア の北 40km、 トレビーゾの東北東 25km

このオデルツォが、
639年に陥落して、行政の中心がチッタノーヴァに移りました。

  チッタノーヴァ Cittanova (現在 エラクレイア Eraclea)
  ヴェネツィア の東北東 30km、 オデルツォの南南東 25km
  ピアーヴェ河畔、ピアーヴェ川河口より 6km

    チッタノーヴァは、
    Civitas Nova Heracliana(ヘラクレイオス帝の新しい町)が 略されたもので、
    現在の都市名 エラクレイアは、ヘラクレイオス帝より 由来しています。

    ヘラクレイオス帝 は
    7世紀初めの東ローマ皇帝で、実質的なビザンツ帝国の創始者です
    東ローマ皇帝 在位 610~641 31年間          

    余計なことですが、
    イタリア語も、Hは フランス語同様 発音しないのでしょうか?

    また、発音しないHは、スペルからも消えてしまうのが、
    イタリア流で フランス語と異なるところなのですね。


697年に、
チッタノーヴァで、ヴェネツィア 最初のドージェ(元首)が、選出されています。
多分、
ビザンツ帝国より チッタノーヴァの自治権が認められたということだと思います。

ヴェネツィアの最初のドージェは、
ビザンツ帝国の人であってヴェネツィア人ではなかったことをご記憶下さい。


最初のヴェネツィア人のドージェは、

726年(29年後)
チッタノーヴァで選出された 第3代ドージェ オルソ・イバートです。
  ドージェ在位 726~737 11年間

チッタノーヴァのヴェネツィア人は、
ビザンツ帝国の臣民にもかかわらず、

聖画像論争でローマ教皇を支持して、
ビザンツ人でない オルソ・イバート を ドージュに選出したのです。

737年(11年後)
オルロ・イバートは、殺害され、
(多分、ビザンツ帝国に都合が悪かったので殺されたのでしょう。)

その後5年間、
チッタノーヴァは、ドージェが選出されずに
ビザンツ帝国の軍政がしかれました。

742年(5年後)
オルソ・イバートの息子 デオタード・イバートが、第4代ドージェに選出され、
即位した742年に、
首都を、チッタノーヴァより リド島マラモッコ に 移しています。

ピアーヴェ川より 船でマラモッコに移動したのだろう
と、想像しています。

マラモッコへの移住は、
ビザンツ帝国の介入を軽減するためだったのでしょうが、

ビザンツ帝国の北イタリアの拠点が、      
ヴェネツィア人が支配するチッタノーヴァでしたので、

ビザンツ帝国の拠点も、
この時に
チッタノーヴァより マラモッコ に 移動したのでした。

751年(9年後)には、
ランゴバルド王 アストルフォ(アイスツルフ)が、ラヴェンナを陥落させ、
イタリアでのビザンツ支配に終止符を打ちました。

この時、
ビザンツ帝国は、チッタノーヴァも、失っています。

800年頃(異説 810年)(49年後 又は 59年後)
ヴェネツィアは、シャルルマーニュの息子ピピンに攻撃されました。

これを撃退した後、
810年に、
アドリア海に面したマラモッコより、
潟(ラグーナ)の中央部のリアルトに、ドージェが率先し定住したのです。

これにより、
現在まで続くヴェネツィアの歴史が始まりました。

今回 ベックの「ヴェネツィア史」を読んで、つくづく感じたことは、
歴史というものは、
頭で知っただけではダメで、
身に浸みて理解しなければ理解できないな、ということです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国の領土だったということは、
どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
無理だということが、身に浸みて理解できました。

恥ずかしながら、
名著と言われるマクニールの「ヴェネツィア」を、何回も読み始めては、
理解する能力がないと、途中で諦めてきました。

今回、曲がりなりにも最後まで読み通すことができたのですが、
それは、
ヴェネツィアがヴィザンツ帝国の領土だったということを
身に浸みて理解していたからだろうと思います。

今までは、どうしても、
ヴェネツィアは、イタリアの一部であり、
西ヨーロッパの側からの視点で歴史を見ていたのです。

これが、
ヴェネツィアの歴史の理解する上での妨げとなっていたのでした。


今回は、
地名の説明をちょっと詳しく記載させて頂きました。

これも、
歴史を理解する上で、
歴史的な事件が起きた場所を、地図で確認することが必要だということを、
身に浸みて感じているからです。

歴史を理解するには、地理学の知識も必須であり、
時間がかかっても、本を読みながら、場所を一つ一つ確認していかなければ、
歴史の理解は不充分となると痛感しています。

逆に、
知らない歴史をよむときに、場所を確認しながら、

また、
今まで作成してきた年表を見ながら読んでいくと、
何とか ぼやっとしたものでも、理解ができるものだと経験しています。

歴史を一歩踏み込んで理解されたい方がおられましたら、
このことを ご参考とされたらよいのでは、と思い、
余計なことを書かせて頂きました。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月15日 (月)

「ネイションという神話」第3回 スラヴ人の生い立ち

歴史の本を読んでいると、

エルベ川を越えると スラヴ人がいた
との記述 が あるかと思うと、

ギリシア は、
スラヴ人 が 進出してきて、その支配下になった
との記述 が 出てきます。

スラヴ人は、
ヨーロッパの西北のエルベ川より、
南のギリシア、東のロシアまでの広大な地域に、
散在して居住していたのです。

ゲルマン民族は、
ゴート人、ヴァンダル人、
フランク人、アレマン人、ランゴバルド人など、
それぞれについての記述がなされていますが、

スラヴ人についての記述は、それほどなく、
スラヴ人は、
茫洋としていて、よく分からないな と、思いながらも、

特に それ以上調べようともせずに、
時間が、過ぎてきました。

私にとって、スラヴ人は、
気にはなるけど、放置してきた歴史事象の一つでした。

今回
ギアリ「ネイションという神話」の
スラヴ民族の生い立ちの記述を読んで、

なるほどそういうことだったのか、と、理解できたと共に、

歴史を学ぶに際に 注意せねばならない点 を、
改めて考えさせられましたので、ご紹介させて頂きます、

最初に、
ギアリのスラヴ民族の生い立ちについての記述
を、抜粋してご紹介させて頂きます。

なお、
(注)の記述は、私の補足説明です。

   パトリック・J・ギアリ著「ネイションという神話」(185㌻~193㌻、白水社)


5世紀~7世紀(400年代~600年代)

ゲルマニア とされた地域の東側 を
バルカン半島や黒海地方のローマ帝国属州を含め バルト海~地中海まで
スラヴ人 が 支配した。

スラヴ人の起源は、
ローマ側の史料が
スキタイ人、サルマタイ人と呼ぶ者 と

ゲルマン人軍団が
ローマ帝国に向かった際に残した エルベ川東部地域のゲルマン系集団
の 混合体 として形成された。

最近の研究では、

数世紀前(200年代前半)に
西方のライン川沿岸で フランク人とアレマン人が 誕生した
のと 同様に、

ビザンツ帝国 の 軍事的、経済的圧力のもとにあった
ビザンツ辺境地域 で スラヴ人 が 誕生した
と、もっともらしく 説明している。

  (注)ギアリは、最近の研究の結果に、賛同してないようです。

スラヴ人支配への変化は
強力な王の物語もなく、あまり目立たずに起こった。

スラヴ人自身の資料が 残っておらず、
ビザンツ帝国、ラテン世界 の 観察者による 理解や記録 も 乏しかったが、
スラヴ化の影響 は、きわめて深かった。

ローマ と 同盟を結んだ 西方の蛮族(ゲルマン諸部族)は、
ローマ の 政治体制、宗教、入植地 を 引継ぎ、
最終的には 完全なローマ人となったが、

スラヴ人の移住は、
ローマ の課税制度、農業、社会構造、政治組織
を 取り入れたり、
それを 基礎とすること が なかった。

スラヴ人の組織は、
ローマを模範とするものではなく、

その指導者も、
通常は、
ローマの富で 成功を買うようなまね を しなかった。

それ故に、
彼らの影響力は、
ゴート人、フランク人、サクソン人が及ぼした影響 を、
遙かに上回っていた。

  (注)ローマ帝国は、
     侵入してきたゲルマン民族に、
     金を渡して引き取らせることがよくありましたが、

     スラヴ民族は、
     原則として ローマの買収に応じなかった、ということです。

7世紀(600年代)を通じて
スラヴ人は、ドナウ川を越えてバルカン半島に少しずつ入っていた。

スラヴ人 は、
ゲルマン民族のような 税を取り立てる軍団としてではなく、
農耕民 として現れた。

従って、征服後、
先住民を スラヴ人の 言語構造 や 社会組織 に 組み込んだ。

こうした拡大は、
まとまりを欠き、急速に分散化した。

戦士 と同時に 農耕民でもある スラヴ人の征服 は、
2世紀前の 単に税収の移転だけだった ゲルマン人の征服 とは 異なっていた。

スラヴ人 は、
捕らえた兵士を 殺害したり、身代金を取って 売却した。

その地 に とどまった者は、
逃亡するか、スラヴ社会の農民層 に 組み込まれるか の決断を迫られた。

  (注)ゴート族やヴァンダル族などのゲルマン民族は、
     兵士の集団でしたので、

     多数のローマ人を支配するために、地域的に まとまらざるを得ず、
     その収入を、ローマの行政組織(徴税組織)に依存したのでした。

     これに対して、
     スラヴ人は、農民でしたので、

     先住者の農民を、駆逐するか、農奴にして、
     自らが、征服地に分散して耕作に従事したのです。

     ゲルマン民族に支配されたローマ人は、
     原則として税金さえ納めれば、従来の生活を維持できましたが、

     スラヴ人に支配されたローマ人は、

     移住するか、
     スラヴ人の下で農奴として下働きをするか

     の 選択を、迫られたのでした。

中世盛期に至るまで、
スラヴ人 の 言語 や 物質的文化 は、
東ヨーロッパ全体で、驚くほど均質であった。

これと対置されるのが、
内部の集権的権力 の 著しい欠如 だった。

スラヴ人の成功の鍵は、この権力の分散化 だった。

スラヴ人には、
王や有力な首長 が いなかったので、

ビザンツ帝国は、
スラヴ人を 滅ぼしたり、
帝国体制に 組み込んだりしよう とは 考えなかった。

スラヴ社会を、
大規模かつ階層的 に 組織化する場合、

必然的に、
外部から持ち込まれた指導体制 に従って 行われることになった。

スラヴ人の組織化のきっかけは、アヴァール人だった。

スラヴ人の軍は、
アヴァール人の指揮下に入り、

その他のスラヴ人は、
アヴァール人の支配を受け、
アヴァール王国が続く限り、その構成要素となった。

アヴァール人が現れる前から、
エルベ川~ドナウ川下流にかけて、
スラヴ化が 進行していた。

スラヴ人は、
新興の草原帝国 アヴァールに 押しやられる形で、
ビザンツ帝国との境界地域 を 窺うようになった。

6世紀後半(500年代後半)
スラヴ人が、ギリシア半島に初めて侵入した原因
は、これによって説明がつく。


< アヴァール族の進出についての ギアリの記述 >

558年 or 559年 ローマ帝国 ユスティニアヌス帝 に使節 を 送り
            毎年の報酬支払い と 引き換えに帝国の敵と戦うと申し出た

567年 カルパチア に 姿を現し、ゲピート族を打倒して アヴァール王国建国

 アヴァールのハン(支配者)  バヤーン(バヤン)
   在 位  562~602 40年間

   バルカン地方 の 支配権 を 確立し、
   ウティグール人、アント人、ゲピート人、スラヴ人を 戦い、
   20数年間で 巨大な多民族連合 を 作り上げた。

   ランゴバルド人が、
   パンノニアよりイタリアに移住後
   パンノニア(ハンガリー)に、確固たる支配を樹立した。

626年
アヴァールのコンスタンティノープルでの大敗北の後、
アヴァール人の周辺にいた 多くの集団 が 反乱を起こし、

西においては、
フランク人 と アヴァール・ハン国の間に、サモの王国、

東では、
ビザンツ帝国 と アヴァール・ハン国の間に、
複数の自立的な政体が、作り上げられた。

サモ の 王国は、

フランク人サモが、
現在のチェコ地域 で、アヴァールに反抗して、

生まれも様々な スラヴ人の一団 を、
戦闘的な集団へとまとめ上げ、35年以上にわたって統治した。

626年
アヴァールのコンスタンティノープルでの大敗北の後、
サモに率いられたスラヴ人が、
アヴァール王国の同盟軍から離れたが、

これは
敗北後の いくつもの反抗運動 の 一例に過ぎない。

10世紀(900年代)に、
クロアチア人、セルビア人として知られる集団 も、

626年の敗北後、
アヴァール・ハン国が、内部危機を迎えた この時期に、生まれた。

ブルガール人についても、
同様の起源 を みることができる。 

  (注)626年夏 アヴァール族のコンスタンティノープル攻囲

     622年~628年(6年間)
     ビザンツ皇帝 ヘラクレイオスが、ペルシア遠征しました。

     遠征中の626年夏に
     ペルシアが、アヴァール族と同盟して反撃の為に
     皇帝の留守を狙って、コンスタンティノープルを攻撃しました。

     ペルシア軍は、
     対岸のカルケドンに陣を取り、
     実際にコンスタンティノープルを攻撃したのは、アヴァール族でした。

     アヴァール族は、
     スラヴ族やゲピート族、ブルガール族を引き連れて、

     7月27日に
     海陸からコンスタンティノープルの攻囲を開始して、

     8月10日
     総攻撃をかけましたが、壊滅的な打撃を受けて敗退しました。

       <出 所> オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」140㌻


     ギアリは、
     敗北後アヴァール人の中核部分は、
     勢力 を かなり衰えさせたものの、滅亡せずに なんとか持ちこたえた
     と、記述しています。 

     また、
     アヴァールの最後について、

     シャルルマーニュが、
     ハンガリー の アヴァール王国中心部まで攻め込んだ。

     これにより、
     アヴァール王国は、多民族的な連合軍 を 維持できなくなり、

     その後、
     大きな戦いもないまま 1世代のうちに
     アヴァールは、歴史から消えてしまった
     と、記述しています。

     シャルルマーニュ の アヴァール戦役

     791年 レーゲンスブルクで交渉決裂後、ハンガリー遠征

     795~796 第2次ザクセン戦役終了後 再開し
             息子のイタリア王ピピンが、パンノニア に 遠征して
             アヴァール王国 を 滅亡 させ、フランク王国 に 併合し
             →  アヴァール 辺境領 (オスト マルク)を 設置した

      <出 所> 五十嵐修 「地上の夢 キリスト教帝国」 150㌻


以上が、ギアリの記述の抜き書きですが、

この本を読んで、

スラヴ人に対する基本認識ができたことを喜んでいると共に、
歴史書を読む際に、

西ヨーロッパやビザンツ帝国の視点から、
スラヴ人やアヴァール人を見ていたから分からなかったのだな、
と、痛感しました。

我々は、
西ヨーロッパの学者の本や
西ヨーロッパに学んだ日本人の本を読んで勉強しています。

彼らの視点は、
当然のごとく西ヨーロッパにありますので、

例えば、
アヴァール人の侵入から崩壊までを、
アヴァール側からの視点で記述するのではなく、

西ヨーロッパやビザンツの歴史を記述する中で、
関係する場合にのみ、その時々の事象を記述しています。

ですから、
スラヴ人のような 西ヨーロッパ人から見ると二流の歴史の担い手は、
必要がない限り記述されないことになるのだろうと思います。

だからこそ、
西ヨーロッパ人の書いた書物を読む際に、
読者側が意図的にスラヴ人について
自分なりの整理をする必要があるのでは、
と、思います。

また
私は、最近歴史の本を読むことは、
ジグソーパズルをするようなものだな、
と、つくづく感じています。

歴史の一つ一つの事象が、
ジグソーパズルのピースのようなもので、

勿論、
一つ一つのピースを丹念に蓄積することが、
最初の作業として必要ですが、

それ以上に、
ジグソーパズルのピースを、歴史書を読む際に、
我々読者側が、主体的に意味づけをして、

それぞれのピースを組み合わせる努力が、
必要なのではないでだろうか と、感じています。

また、その際に、
ピース一つ一つの意味を、理解するためにも、

ピースを組み合わせて できあがるであろう歴史の全体像 を、
概略でも良いから描こうとする努力も必要だと思われます。

これは、
今回のご紹介で割愛しましたが、

オストロゴルスキーの「ビザンツ帝国史」を以前に読んで、
オストロゴルスキーのブルガール人の記述を、
一つ一つのピースとしてしか理解できなかったものが、

今回ギアリの文章を読んで、
いくつものピースが、あっという間に結合して、

初期のブルガール人の歴史が理解できるようになったことで、
痛感した次第です。

更に、
歴史、特に世界史は 暗記科目だ、と嫌われています。

これは、
ピースを、一つ一つ暗記せねばならない
と、思われるからだろうと思います。

でも、
ジグソーパズルのピースの山を集めることは、
ジグソーパズルを始めるための最初の行為であり、

ピースの山を積み上げても、
ジグソーパズルを解いたことにならない
と、同様に、

歴史の事象を暗記することは、
歴史を学ぶ前提作業のようなものであり、
歴史を理解したことになりません。

ただ、
暗記しておけば、

暗記の際に、
自分の頭の中で いろいろな思考 が 自ずから生じてきて、
歴史を考える際に、より深く考えられる利点はありますので、

特に 暗記がそんなに苦にならない方には、
できるだけの暗記を 推奨いたしますが、

歴史を考える際において、
暗記することよりも もっと大切なことは、

どのような視点で、ピース一つ一つを認識して、
歴史の全体像を構築していくかだろう と、思います。

ホイジンガ-は、

 「物理と対比して、結論的に言うならば、
  歴史的知識や理解の物理的完全性などは、
  どんな点からも考えられない。

  誰も、世界史や大帝国の歴史 の
  ありとあらゆる細部までは知ってはいない
  という意味ばかりでなく、

  もっと深い意味、

  つまり、
  一つしかない対象についての歴史的知識は、

  A氏の頭とB氏の頭とでは 違って考えられてしまうし、
  たとえ、
  あらゆる書物 を 共に読み通していても、同じことが起こる」
  と、記述しています。

   <出 所>ホイジンガ「文化史の課題」(7㌻、東海大学出版会)

私は、
歴史のピースピース一つ一つの解釈が、人により異なり、

従って、
できあがった歴史像も 全く異なるからこそ、
歴史はおもしろいと感じています。

今回 ギアリ-の本を読んで、
ギアリーという秀でた歴史家 の すばらしい視点から、
いくつものピースを組み合た 見事な歴史絵画を 十分に堪能させて頂いき、

久しぶりに
読後の余韻に浸れる本 を読んだなと、感謝しています。


    次回 「オドアケル」              
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-4c22.html



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月20日 (木)

「ネイションという神話」第1回 ユダヤ人が、民族として存続した理由

ギアリの「ネイションという神話」を読んで考えさせられた事柄について、
今後何回かにわたって述べさせていただきます。

最初に、
「ユダヤ民族が、民族として存続した理由」について
お話しさせていただきます。

ユダヤ人は、
1000年以上にわたって、いろいろな国で、
区別や差別、更には迫害を受けながらも、
民族としてのアイデンティティを持ち続け、

第2次大戦後、
イスラエルを建国して自分たちの国を持った、希有な民族なのです。

民族移動期に登場した
ゴート人、ヴァンダル人、フランク人、

更には遅れてきた
ノルマン人などのゲルマン人は、

支配者としていくつもの国を建国しましたが、
いつの間にか歴史の中に埋没して、消え去ってしまいましたのに、

国を持たなかったユダヤ人が、
「20世紀まで、民族として存続してきたのは、何故だろう」
と、長年疑問に思ってきました。

今回
ギアリの「ネイションという神話」で、

スペインにおいて

① ゲルマン人である西ゴート人が、
  ローマ人と融合して、民族としてのアイデンティティを喪失していく過程 と、

② ユダヤ人が民族としてのアイデンティティが形成されていく過程

を、読んでいて、

「なるほど、そういうことか」と一つの仮説が思いつきましたので、
ご参考までにご紹介させていただきます。

    パトリック・J・ギアリ著 「ネイションという神話」169㌻~176㌻(白水社)


まず最初に、

スペインでの西ゴート人とローマ人との融合 と
ユダヤ人の民族としての形成過程についての
ギアリの記述を、ご紹介します。


1.スペインでの 西ゴート人とローマ人の融合

507年 ヴウィエ(ヴィエ)の戦い で、
西ゴート王 アラリック2世 が、
フランク王 クローヴィスに敗れて 戦死した後に、

西ゴートは、
トゥールーズ(トロサ)より スペインのトレドに移動しています。

    ヴィウィエ(ヴィエ)  ポワティエ の南 15km

スペインでの西ゴートは、
徐々にスペイン在住のローマ人と融合していって、

約100年後には、
西ゴート人とローマ人の2つの民族が、
一つの民族 即ち スペイン人 となったのです。


ギアリ は、
この融合過程を、4段階に分けて記述しています。

< 第1段階 > 500年代前半の数十年間

西ゴートは、
ローマ人と区別する 次の政策 を とりました。

  1.ゴート人 と ローマ人 との間の結婚 を 禁止
  2.アリウス派信仰の固執(ローマ人は カトリック信仰)
  3.ローマ人と異なる ゴート風の衣装 を 身に付けた

ギアリーは、
この最初数十年間で、

ゴート人とローマ人をそれぞれ単純化する役割を果たした
と、記述しています。

西ゴートは、
移動を始めてから1世紀以上かけて、スペインに定着したのでしたが、

移動の過程で、
スエビ人、ヴァンダル人、アラン人など
いろいろな民族(集団)を、取り込んできました。

これらの多民族集団が、
スペインに落ち着いた後の数十年間で、
「一つのゴート人」としてのまとまり を 持ったというのです。

他方、
ローマ人の方も、

スペイン在住 の ローマ市民 や
ギリシア正教 の ギリシア人、
シリア人、北アフリカからの人々などの
多種多様な集団が、

同じように、
「一つのローマ人」 として まとまった と、記述しています。


< 第2段階 > 500年代半ば

「ゴート人とローマ人 の 区別を撤廃しよう」
との動き が 生じてきました。

ゴート人とローマ人の結婚 は、禁止されていましたが、
実際にはある程度生じていました。

また、
西ゴート王国の経済を支配していたローマ人 が、
政治権力の外側に置かれていた状況 を 改善しようとするのは、
当然のことでした。

しかも、
ゴート法では
「ゴート人とは」との定義が定められていなかったため、

西ゴート王 が、
「ゴート人」と認めれば、
「ローマ人」でも 「ゴート人」として取り扱われたのです。

(注) ゴート人 が 移動の過程で、いろいろな民族 を 取り込んできて、
   スペイン定着後、それらの人々が「一つのゴート人」という民族となった、
   ということを、思い起こしてください。

さらに、
西ゴート王は、

暗殺や党派対立
各地の分離傾向 に 苦しんでいました。

ゴート人が、
小規模かつ孤立した軍事エリートである間は、

スペイン全土を支配できる可能性が、きわめて限定的である故に、
ローマ人を取り込むことが、統治の重要な懸案だったのです。

ですから、
西ゴート王に対して反乱した者が、

多数派のローマ人の支持を得るために、
カトリックに改宗することも生じていましたし、

強力な後ろ盾を求めて、
東ローマの軍隊 を スペインに呼び込むことさえ行われたのでした。

554年
東ローマ皇帝 ユスティニアヌス大帝は、

西ゴート王 アギラに反乱した アタナギルドの要請を受けて、
スペインに ヴィベリウス を 派遣しています。

アタナギルドは、
セヴィラ(セヴィリア)の戦いで、アギラに勝利して、
西ゴート王に即位していますが、

東ローマ を、
スペインに呼び込んだことは、
西ゴートの存亡 を 危うくする事態でした。

ユスティニアヌス大帝 は、
ベルサリウスを 北アフリカ カルタゴ の ヴァンダル に 派遣して、

534年
ヴァンダル王ゲリメールを捕らえて、ヴァンダルを滅亡させ、

その後
約20年間のゴート戦役を行って 

553年
イタリアの東ゴートを滅亡させ、イタリアの支配を回復させています。

アタナギルドが、
東ローマ軍をスペインに呼び込んだのは、
東ゴート を 滅亡させた 翌年であり、

「次は西ゴート」と、
ユスティニアヌス大帝が、考えてもおかしくないタイミングでした。

なお、
ちょっと横道にそれますが、

アタナギルドの娘が、
フランク王(アウストラシア王)ジギベルトと結婚し、
6世紀後半のフランク史の主役だった ブルンヒルド です。


< 第3段階 > 570年代~580年代

西ゴート王 レオヴィギルドによる ゴート人とローマ人の区別の打破
    西ゴート王 レオヴィギルド 在位 568~586 18年間

西ゴート王 レオヴィギルドは、

バスクを制圧し、
スペイン西北部 ガルシア地方のスエビ王国を併合して、
西ゴートの王権 を、 スペイン全土 に 拡大させた王様です。

また、
在位中に、
東ローマの拠点であった コルドヴァ を 奪還しています。

(注)オストロゴルスキーによると、
   西ゴートが、最終的に スペイン南部の東ローマを駆逐したのは
   624年頃です。

   (オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」105㌻)

西ゴート王 レオヴィギルドは、
異なる民族間の結婚禁止 を 取り消して、

カトリック が 禁止していた アリウス派との結婚 を、
カトリック教徒 に 促そうとしました。

このために、
アリウス派の教義 を 一部修正させて、

カトリック教徒 が、
アリウス派に改宗し易くする措置をとっています。

ローマ人とゴート人の障壁を取り除いて、
アリウス派ゴート人主導による ローマ人とゴート人の「融合」、

即ち
「社会的文化的な統合」の試み は、

カトリック教徒に、
教会法を無視することを求めるものでしたので、

正統派カトリックの司教達の強い抵抗により
失敗に終わりました。


< 第4段階 > 589年 トレド教会会議

西ゴート王 レカレド による
西ゴート王国 の アリウス派より カトリックへの改宗
    西ゴート王 レカレド 在位 586~601 15年間

西ゴート王 レカレド は、
前任の西ゴート王 レオヴィギルドの次男です。

レカレドは、
即位した翌年の587年に
カトリックに改宗し、

その2年後の589年
トレドの公会議で、
西ゴート を、アリウス派より カトリックに 改宗させました。

レカルドの目指すところは、
「新しい統一的な社会」の創設のとどまらず、

ゴート人か ローマ人か という 伝統的な二分法を超越した
「キリストにならう者達の共同体」だった
と、ギアリ は、記述しています。

ゴート人の王が、
アリウス主義を捨てて、カトリックに改宗したとき、

西ゴートの ゴート人 と ローマ人 の 「2つの民族」が、
キリストにならう者達の「1つの民族」となったのです。

ゴート人 と ローマ人 の 社会的文化的な統合の分野 では、
ゴート人が、ローマ人に吸収されましたが、
ゴート人のアイデンティティは、なくなりませんでした。

西ゴートにおいて重要なのは、

富や権力や祖先ではなく、
「西ゴート王国とのつながり」だったのです。

王国とのつながりさえあれば、
民族的には ゴート人でないものでも、ゴート人となったのです。

また、
ギアリは書いていませんが、

彼らが、
西ゴート王国滅亡後、レコンキスタの担い手となったスペイン人であり、

「カトリックへの改宗により、スペイン人 が 誕生した」
と、言って良いのだろうと思います。


ドプシュは、

カトリック信仰が受け入れてから、
公会議の影響力が際だって発揮され、

公会議に 俗人の有力者までが登場して、
公会議 が、正式の王国会議に発展した
と、記述していますが、

ギアリのいう、
カトリックの司教達が指導する「キリスト教徒の共同体」が、
いかに強力なものだったのかが理解できます。          

    (ドプシュ「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」520㌻)


(注) タナーは、
    589年のトレドの公会議で、

    ローマ教会 と ギリシア正教 が 分裂する名目となった「フィリオクエ」が、
    ニカイア信条 に 付け加えられたと記述しています。

    (タナー「教会会議の歴史」43㌻)


2.ユダヤ人 の 民族としての形成過程

ギアリは、

「キリスト教徒の共同体」の成立が、
「ユダヤ民族を誕生させた」
と、記述しています。

キリスト教徒の共同体が成立するまで、
ユダヤ人は、
ローマ人に属していました。

そのローマ人が、
キリスト教信仰 と ローマ人であることとが、
今まで以上に強く結びつけられた

「ゴート人と融合した キリスト教徒の共同体」
に 属することになったことにより、

ユダヤ人は、
ローマ人アイデンティティ を 失って、
「ローマ人 とは 見なされなくなり」、

「自らのエスニック」を 形成した、

即ち
「ユダヤ民族」が 形成された、
と、記述しています。

さらに、
ユダヤ人は、

近隣のカトリック教徒から嫌われ、
ユダヤ人に対する「区別」が、「差別」となり、
ユダヤ人の排除と迫害にと、進んだのでした。

ドプシュによると、

ユダヤ人への迫害は、
西ゴートのカトリックへの改宗からまもない
西ゴート王 シシブト の時代に 始まったとのことです。

    西ゴート王 シシブト 在位 612~621

    (ドプシュ「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」903㌻)

しかも、
ギアリは、

この動きは、
ビザンツ帝国でも同様の展開が見られたが、

西ゴート の 排除と迫害の方が遙かに激しかった、
と、記述しています。

ユダヤ人は、
すさまじい圧力がかけられて、

キリスト教への洗礼 か、
残酷な刑罰 か、
の 決断を 迫られたのでした。

また、
西ゴート王の定めた法 は、

キリスト教 に 改宗したユダヤ人 でさえも、
キリスト教の敵 であること が 含意されていた、
と、記述しています。

そして
1世紀後には、

最終的に、
すべてのユダヤ人を「奴隷化する」との
反ユダヤ立法 が 制定されました。

(注) ギアリは、
   ユダヤ人奴隷化の立法は、
   西ゴート王 エルウィグ が行ったと記述していますが、

   この法律は、
   694年に 制定されているはずなので、
   エルウィグの次の西ゴート王 エギカが制定したのだろうと思います。


以上が、ギアリの記述のご紹介ですが、

ユダヤ人が、
キリスト教社会で 区別され、差別され、
時には迫害を受けたことが、

ユダヤ人が民族として
1,000年以上存続させた所以だろうと思います。

ユダヤ教を信ずる ユダヤ人一人一人 が、
ずっと継続して、

「おまえはユダヤ人だ」 と 周囲のキリスト教徒から指さされ、
社会から排除されてきたのです。

いわば
「時効の中断」が、常に繰り返しされてきたのです。

多分、
キリスト教徒となったユダヤ人は、キリスト教社会に溶け込んしまい、

ゲルマン人 が
いつの間にかゲルマン人でなくなったのと同様に、

時間がたつにつれて、
ユダヤ人でなくなったのでしょう。

ユダヤ教を信ずるユダヤ人が、
個々人レベルで差別されたことにより、

皮肉なことに、
ユダヤ民族として存続したのだろうと思います。


ご説明は以上ですが、

「ユダヤ人が、ローマ人だった」、とか、
「6世紀末から7世紀にユダヤ人が民族として成立した」、
との文章をお読みになって、

「ちょっと違うのでは」
と、お考えになる方がおられると思いますので、

次回は、、
何故 ギアリがそのように記述したのか、
私が理解するところを ご説明させていただきます。

    次回 「ディアスポラ(離散の民)について」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6652.html




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 2日 (日)

「ネイションという神話」

パトリック・J・ギアリ著
「ネイションという神話」(白水社)

          **********


ヨーロッパは、
アジア大陸の西の端の半島で、

いろいろな民族がやって来ては、定着することを繰り返して、
歴史を積み重ねてきていますので、

ヨーロッパ史を考える時、その基礎視座として、
「多様性」と「多重性」が、大切なポイントだろう と、常々考えてきました。

ギアリーは、

この多様性と多重性を生み出した
ローマ末期から民族移動期のゴート、フランク、ランゴバルド等々の各民族が、
どのようにして先住のローマ人と融合したのか、

逆に、
ローマ人がいかにしていなくなったのか、
を 見事な論理で語ってくれているのです。

本著を読んで、

いままで事実の断片として知っていたことが、
歴史の大きな流れの中で、このように位置づけられるのだな、
と、教えられたことが、多々ありました。

その意味で、

本著は、
「ヨーロッパの骨格がどのようにして作られてきたのか」や、
「フランク、ゴート、ランゴバルド等々の歴史の構造」
を、知りたい方にとっての必読の書であろうと思います。

また、
序章で、
ナショナリズム、自民族中心主義、人種差別主義が、
いかに歴史を歪曲するのかを、記述した上で、

第1章で、
19世紀のドイツ文献学が、
いかに、ナショナリズムに利用され、

13世紀のドイツ騎士団の東方拡大 や、
20世紀のナチスの東部への拡張が、

「征服」ではなく、単なる「帰還」である
と、正当化する論理がいかにして作られてきたか、
を、述べて、

学問が、
政略によって いかに利用されるようになるのか、
という 学問のあり方 についての 大きな問題提起 を している点も、
本著の特筆すべき点だと思います。


ちょっと難しいことをいいましたが、
わかりやすい文章の翻訳で、

この時期の歴史の概略を 知りたい方 にとっても、
スイスイと読める本だと思いますので、
入門書としても最適の本の一つだと思います。

「ネイションという神話」を読んで、感じたことを、
何回かに分けて記述しています。
あわせてお読み頂ければ、幸いです。

1. ユダヤ人が、民族として存続した理由
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-b1b5.html

2. ディアスポラ(離散の民)について
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6652.html

3. スラヴ人の生い立ち
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-76f9.html

4. オドアケル              
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-4c22.html




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 7日 (日)

「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」

アルフォンス・ドプシュ著
「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」(創文社 名著翻訳叢書)
を、やっと読み終えました。

アルフォンス・ドプシュ Alfons Dopsch

1868年6月14日(明治元年)
    ベーメン(チェコ)北部 ローボジッツ(ロボシッツェ)で 誕生
    ウィーン大学 で学び ウィーン大学教授
    20世紀前半のドイツを代表する 中世史の歴史家
1953年9月1日(昭和28年)
    ウィーン郊外 ジーフェリング で 没 (享年 85才)


「ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎」は、

第1巻 1918年、 
第2巻 1920年 に出版され

決定版である第2版が、
1923年、1924年 に 出版されています。

本書は、
1000ページの大作で、

民族移動からカロリング朝の時代について、
フランクは勿論、
東ゴートやランゴバルド、西ゴート、アングロサクソン、ザクセンなどの
ドイツのゲルマン民族について詳細に論じて、

「蛮族が、ローマ文明を滅ぼした」との通説である「文化破壊説」に
真っ向から反駁した本です。

ゲルマン民族は、
軍隊、行政官庁、家宅、農園で、
奉公人やコローヌスとしてローマ社会に入っていったのであり、

決して、
ローマ文明を知らない非文化的な蛮族ではなく、
ローマの遺産を継承発展させた、
との「文化連続説」は、非常に説得力があります。

また、
メロヴィング朝よりカロリング朝、
東ゴートからランゴバルトにおけるイタリア、

更には、
西ゴート支配のスペインについての、
社会構造の歴史的発展の分析は、

この時代に興味のある人にとって、
必読の文献であるといってよいと思います。

特に、
カール・マルテルが、
トゥール・ポワティエでイスラム軍と戦う為に、

急遽
教会より召し上げた土地を部下に与えて、重装騎馬兵を創設し、
これが、
レーン制(封建制)の始まりであるとの 通説を論破した部分は、
この本のハイライトといってよいでしょう。


ところで、
ドプシュの「文化連続説」は、成功したのでしょうか。

私は、
残念ながら、失敗したのでは、と感じています。

ドプシュは、
歴史史料や関係論文をくまなく読破するとともに、
考古学、地名学、言語学などの歴史補助学の諸成果も
可能な限り利用して、

民族移動期からカロリング朝にかけての
西ヨーロッパのゲルマン人の活動全てを、
百科全書的に記述しています。

逆に、
本書が、

ドプシュだけではなく
当時のヨーロッパの歴史学者 が 取り上げていた
トピックス、テーマ、問題意識 の 全てを、
記述しているからこそ、

ドプシュの「記述していないこと」から、
ゲルマン人は、
「彼らが受容できる範囲で、ローマ文明を継承したのであって、
 ローマの全てを継承したのではない」
と、いうことを、

ドプシュが、
裏返して証明しているように思われます。


ドプシュが「記述していないこと」とは、

例えば、
ローマ法、哲学等をはじめとする、
所謂「上部構造」に関することです。

特に、

ゲルマン人と同じようにローマを継承した
ギリシア人のビザンツ帝国や、

カルケドン公会議で追放され、7世紀にイスラム圏に併合された
シリア人が、

その100年後の8世紀 シャルルマーニュの頃に
ギリシア・ローマの書物を、アラビア語に翻訳した事と比較すると、
その落差が明瞭になると思います。

ドプシュは、
部族法典に関して論じていますが、
ローマ法の記述は印象に残っていません。

ローマ法は、
民族移動期に忘れ去られて、中世に復活したことは、
有名な歴史的事実ですが、

これは、

ゲルマン人が、
ローマ法を理解し、維持運用していく力がなかった 現れ、

即ち、
ローマ文明の一番上質な部分を、
受容し継承していく力がなかった現れ ではないでしょうか。

同じことが、
プラトンやアリストテレスの哲学についてもいえます。

ゲルマン人は、

先ほど述べたシリアのネストリウス派の人々が、
シャルルマーニュの頃に
バグダットでアラビア語に翻訳された書物を、

12世紀に、
スペインやシチリアで、
ラテン語に再度翻訳しなおして、自分のものにしたのです。

また、
ルネサンス期に、
コンスタンティノープルから本格的に輸入されたのでした。

東ゴートのテオドリックの治世に、
プラトンやアリストテレスを、ラテン語に翻訳したいとの野心 を 持った
ボエティウスが、いたのですから、

もともと
西ヨーロッパに
ギリシア哲学がなかったわけではないのです。

ただ、
ゲルマン人が、理解できず、忘れ去られたのでした。

東ゴート王 テオドリック
   東ゴート王在位 474~526 52年間
   イタリア王在位 493~526 33年間

これは、
建築についてもいえます。

ゲルマン人の建築の集大成は、ゴシック建築だろうと思いますが、

ゴシック建築は、
1144年
シュジェが建設した サン・ドニ大聖堂に始まります。

これに対して、
コンスタンティノープルで代表する教会は、聖ソフィア寺院です。

聖ソフィア寺院は、

532年
ニカの乱の際に焼失したのを、
ユスティニアヌス大帝が、
5年後の537年に、再建したのでした。

サン・ドニ大聖堂建設の 600年も前のことです。

この頃
ゲルマンで代表する王様は、
511年に没したクローヴィスです。

クローヴィスも、
500年を少し過ぎた頃に
自分の墓所として 聖使徒教会を建立しています。

この聖使徒教会は、
パリの守護聖人(聖女) サント・ジュヌヴィエーヴも埋葬されて、

520年に
サント・ジュヌヴィエーヴ教会と改名しています。

クローヴィスの墓であり、
パリを救った サント・ジュヌヴィエーヴの教会ですから、

技術さえあれば
サン・ドニやノートルダムに匹敵する教会を建設したはずです。

それが、
そうならなかったというのは、

教会建築術を、
ローマより受け継いでおらなかった、保持していなかったからでしょう。

また、
聖ソフィア寺院が建設されたのと同じ頃の

542年に、
パリ王 キルデベルト1世が、
西ゴートより帰国後 聖遺物を納めるために
パリ に サン・ヴァンサン教会 を 建立しています。

このサン・ヴァンサン教会は、
現在のサン・ジェルマン教会の場所に作られたとのことです。

クローヴィスやキルデベルト1世の建設した教会が、
現在残っていないということは、
木造だったのでしょう。

サン・ドニ寺院、
ノートルダム寺院等々
パリには石造の教会がありますので、

当時技術がなかったから
石造の教会が建設されなかった と、考えるべきだろうと思います。

同じローマを引き継いだ
ギリシア人が、
聖ソフィア寺院を建設した事と比較すると、

ゲルマン人の建築技術のレベルの低さは、
ドプシュの主張する文化連続説を、否定するものだろうと思います。

クローヴィスは、
東ローマ皇帝よりコンスルの称号を授与されてることから、

クローヴィス時代のフランクでも、
ローマを受け継いだ東ローマと、全くの没交渉ではなかったのであり、

その気になれば、
東ローマの文化を受容することも可能だったのだろうと思われます。

教会を 建築する際に、
コンスタンティノープルに、建築技術者の派遣を 要請することも、
可能だったのではないでしょうか。

勿論、
依頼された東ローマが、派遣したかどうか、不確かですし、

そもそも
当時のフランクに、

東ローマの建築家の指示を 忠実に実行できる作業員 が、いたのだろうか、
疑問ではあります。

このようなことも含めて、

結果として、
フランク人に、その気がなく、受容がなかったということは、

フランク人の文化レベルが、
受容する力を持つまでには至っていなかった と、いうことだと思います。

なお、
話はそれますが、
ユスティニアヌス大帝も、感心しない点もあります。

BC387年に
プラトンが創設して

966年間
連綿として続いてきたアカデメイア(アテネの学園)を

529年に
閉鎖させています。

閉鎖の理由は、
全ての異教徒に、キリスト教の洗礼を 命じた一環だったのですが、

ギリシア哲学の価値が、
蛮族出身ゆえか、理解できなかったのでしょう。

イタリア や、
スペイン、
南フランス には、

ローマの遺跡が、いくつも残っています。

遺跡の中で、
ローマの劇場がありますが、

遺跡として
放置されたまま ということは、

ローマやギリシアの劇も、
ゲルマン人は引き継いでいないのでしょう。

これも、
ゲルマン人の文化レベルの低さの現れだったと思われます。


昔、本の名前は忘れましたが、

ピレンヌが、
「ドーソンは、分っているが、ドプシュは、分っていない」
との趣旨の評をした、
との記述を、読んだ記憶があります。

ピレンヌが、
ドプシュの どういう点を 不満と思ったのか、分りませんが、

私が感じるドプシュに対する違和感は、

以上ご説明した 知的レベルに関することが、
ドプシュの分析から脱落していながら、
「文化は連続した」と主張していることです。

もともと、
ローマ人とゲルマン人は、別の世界の人々でした。

勿論、
ドプシュが記述するように、

ゲルマン人が、
ローマ社会に浸透して行ったこともあって、

ローマ人(イタリア人)が、
歴史を担う力を喪失して、ローマが滅亡し、

その後に、
紆余曲折を経て、

西ヨーロッパ     では、      ゲルマン人、
ギリシアや小アジア では、      ビザンツ帝国、
シリアからエジプト、アフリカ北岸は、イスラム教徒が
支配するようになりました。

ゲルマン人が、
「ローマの遺産を継承し、発展させた」との 背伸びした言い方ではなく、

ゲルマン人が、
「その時その時の 自分らの文化レベルで受容できる範囲で、
 ギリシア・ローマの文化を受容し、歴史を積み重ねていった」
と考える方が、自然ではと思われます。

以上、
ドプシュに厳しい感想を述べましたが、

本書の記述自体は、
この時代の歴史を学ぶものにとって、かけがえのない宝であると思います。

1000ページの大作で、
読み通すことは困難だと思いますが、

本書を読破しようとチャレンジされ、
ご感想を送付くださる方がおられることを、願っています。


 < 追記 >
   このブログにご興味を持たれた方が、
   ホームページに掲載した 次の拙文 も お読みいただければ幸いです。

   「ガリアは、ローマ文明を 灯し続けたのか?」
    http://chuuseishi.la.coocan.jp/080215.htm

   「ピレンヌテーゼへの疑問」
    http://chuuseishi.la.coocan.jp/010923.htm


| | コメント (0) | トラックバック (0)