フランス

2022年7月18日 (月)

歴史の違いは 料理 にも 差異をもたらすのでは?

何年か前、ドイツに旅行した際に、
ベルリンを訪問したことがありました。

夕食を食べようと、ガイドブックを開いてみると、
「ソニー広場のレストランが評判である」
との記述がありましたので、訪れてみることにしまた。

クリーム系のシチューを注文したのですが、
一口食べて、家内と顔を見合わせてしまいました。

出された料理は、
無理やり飲み込んだ はるか昔の小学校の給食レベルの味で、

現在においては レストランの料理として提供されるレベルに
およそ遠く及ばない まずい料理 だったのです。


あまりのひどさに
家内とホテルに帰ろうと話しあって、食事を中断してホテルに帰りました。

ホテルに戻るってから、口直しに ベルリンの名物料理といわれていた、
ソーセージにカレーをかけた料理を注文しました。

出された料理を一応食べましたが、
これが、ドイツの首都であるベルリンを代表する料理か
と、びっくりしてしまいました。

日本では、
お祭りの屋台で売られているような
ソーセージにどこにでもあるうま味もこくもないないカレーをかけただけの料理
だったのです。

それをベルリンを代表する料理だ と、
一流ホテル(ウエスティンホテル)で 堂々と提供されているのです。

当時は、
ドイツの料理は、評判通りまずいな と、思っただけで、
一つの思い出となったのですが、

最近、「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」を考えるとき、
歴史の違いを表している象徴的な現象が、この思い出では?
と、考えますので 少しお話しさせていただきたいと思います。


家庭料理で煮込み料理を作る際には、
多量の野菜や肉を煮込んで作るのではないでしょうか。

長時間これらを煮込むことによって
肉や野菜からうまみ成分が出てきて、おいしく仕上がります。

レストラン料理では、見た目も大切ですから、
野菜 や 肉は、
必要最小限に抑えて、色添えみたいな役割となりますので

料理をおいしくすために
ブイヨン(出汁)やバター(油脂分)を 隠し味として使用して
仕上げるのではないでしょうか。

ところが、
ベルリン で 経験したことは、
スープ を作る際に ブイヨンやバターを使用しないで、
客 に 提供しているのです。

ですから、
我々の世代 が 経験した 小学校の給食 の まずい料理 と 同じようなもの が
提供されたのだろう と、思います。

60年近く前に
大学1年の時 に 南ドイツ から オーストリーに3週間ぐらい
バス旅行をしたことがありました。

その時に、
毎日 食事のたびに 炭酸系のリンゴジュースを支給されて飲んだのですが、
うまれてから初めて飲むリンゴジュース は、
最初 は 口に合いませんでしたが、

毎日飲むうちに、おいしさが分かってきて、
今では大好物の一つとなっています。

このように、
最初は 口に合わなくとも、
飲んだり食べたりしているうちに 味が分かってきて、
評価 が 変わることがあります。

ドイツ人 は、
ブイヨンの使わない料理 を 毎日食べているうちに、

それなりに おいしさを感じて
料理とは、こういうものだ と 思い込んで過ごしているのでしょう。

ですが、これは、
「繰り返しの歴史の国」であるドイツで生じたことであり、

「積み重ねの歴史の国」においては、
料理 を もっとおいしくする方法なないだろうか と、工夫 を 重ねる人 が 出てきて、

試行錯誤しているうちに、
ブイヨン を 加えると、もっと料理がおいしくなる
と、気が付くのではないでしょうか。

数年前に、
ドナウ川クルーズを レーゲンスブルクからブタペストまで楽しんだことがります。

利用したクルーズ船は、
日本企業の 「ニッコウトラベル」(JALさんの子会社ではありません)さんの所有船で、
料理を担当してくだっさったシェフは、ルーマニア人とのことでした。

実は、家内が ドナウ川クルーズは一度経験したいけど、
ローヌ川クルーズと比べて 料理 が まずいのでは?
と、逡巡していたのです。

ところが、
実際には、毎日提供される食事は、素晴らしいもので、
日本人の団体だからと言って提供された日本料理は、
日本人が作ったのではと思えるほどの出来栄えでした。

「ニッコウトラベル」さんに聞いてみると、
シェフを日本に呼んで、日本料理を含めて徹底的に教育しているとのことでした。

なるほど、それでおいしい料理を提供していただいているのだな、
と、感謝したのですが、

出されるスープには、
ブイヨンは使用していないなと感じられました。

シェフも、プロの料理人ですので、
日本で教育する際に、
初歩の初歩であるブイヨンの作り方までは、
教程に入っていなかったのでしょう。

ですから、
ベルリンとはまるで比較にならないレベルの大変おいしいスープでしたが、

やはりルーマニア人は、
繰り返しの歴史の国の人だなと、感じた次第です。

 

フランスは、
「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」の人々が 半々の国ですが、
指導者層は、「積み重ねの歴史」に属する人でした。

例えば、
渡辺一夫先生は、16世紀後半の宗教戦争の時代
ユグノー(新教)、カトリック、ユグノーと対立した3派の指導者は
「積み重ねの歴史」の地域である北フランス出身者だったと記述されておられます。

フランスは、
クローヴィスがベルギーよりパリに南下して建国した国であり、
支配層は、「積み重ねの歴史の国」の人々でした。

フランス料理は、
16世紀フランス王家に嫁いだメディチ家がもたらした
イタリア料理より発展したもであり
フランス王の宮廷をはじめとるる貴族の城館において 発展した料理なのです。

それが、フランス革命により
宮廷や貴族の城館に雇われていたシェフが失業したため
パリなどの町に出てレストランを開業したため、庶民にもフランス料理が広まり
国民的な料理として発展し現在に至っているのです。


イングランドは、
ノルマンディーからフランドルにかけての人々が、
ルマンディー公ウィリアムに率いられてイングランドに侵入して
現在に至る イングランド史 が 始まりました。

ノルマンディー公ウィリアムが征服した直後の イングランドは、
支配階級のノルマン人と、
アングロ・サクソン人やケルト人、ローマ人の末裔からなる
被支配階級との間に画然たる差がありました。

言葉からして、
支配階級のノルマン人は、フランス語、
被支配階級の人々は英語を使用していたのです。

ですから、
支配階級にとりブリテン島の領地は、征服した植民地みたいなもので、
本拠は、ノルマンディーからフランドルの間の地域だったのです。

その後、
イングランド王家のヘンリー2世が、アキテーヌ女公アリエノールと結婚して
スコットランド国境からピレネーに至るフランスの西半分の膨大な地域を支配する
アンジュー帝国 を 構築したのですが、

ヘンリー2世の息子ジョン王が、
フランス王フィリップ2世に フランスよりイングランドに駆逐されてしまい、

ジョン王の後継者が、
フランス領土奪回のためフランスを百年戦争を戦ったのですが、
最終的にフランスに敗北し、
ブリテン島の王朝としての歴史を歩むことになったのです。


その後、
イングランド王が、革命により断頭台で斬首されたころもありましたが、

フランスのように 共和制になることもなく、イングランド王が存続したために、
宮廷や貴族の城館で雇われていたシェフが 失業して、
庶民相手にレストランで営業するようなことが生じなかったのです。

これが、
イングランド料理は、まずい料理である との評価になった 一番の原因では?
と、考えています。

イングランド料理のまずさを象徴する例えとして
「イングランドでおいしい料理を食べたければ、朝食を2回食べればよい。」
と、云われています。

イングランドの朝食は、おいしいとの定評があるのです。
このことは、
イングランド料理を評価する際のヒントになるのでは?
という気がしています。


イングランドで 本当においしい料理は、
おそらく 宮廷や貴族の城館で食されているのではないでしょうか。

宮廷や貴族の城館で働いていたシェフが、
失業することもなく過ごしてきたため、

町のレストランの料理レベルが、上昇しなかったことが、
イングランド料理は、
まずい との評価 が 定まった原因ではないでしょうか?


例えば、
ティーで提供されるお菓子は、上質なものです。

特に、
クロテットクリームとジャムをスコーンを付けたものは、

トースト に バターとジャムを付けたものよりも
数段上質たと思います。

このクロテットクリームとジャムをつけたスコーンを食していたのは、
城館に住んでおられた貴族ではないでしょうか。


ロンドンで駐在員をしていた友人から、
最もおいしい紅茶は、イングランドより輸出を禁止されていて、
英国人が独占している

と、聞いたことがあります。

また、
ある年の正月休みに訪れたエジンバラの駅前のホテルで食したスモークサーモンは、
生涯最高のスモークサーモンでした。

日本人の大好きなイチゴと生クリームのショートケーキの原型は、
イングランド料理だと聞いたことがあります。

思いつくままに、イングランドの料理について述べさせていただきましたが、
私は、本当のイングランドの最高の料理を知らないのだろう
と、想像しています。

彼らは、
外国人に知らせずに、
自分たちのインナーサークルで 最高の上質な料理を楽しんでいるのだろう
と、想像しています。

私は、そのごくごく一部 を
垣間見ただけのような気がしています。


イタリアは
繰り返しの歴史の国です。

ローマ帝国終焉後、
ゴート人やランゴバルド人に支配された後、
ドイツ人が、神聖ローマ皇帝をしてイタリア政策を実施するのだといって
イタリアを支配していました。

その間に
ロンバルディアでは都市国家が栄て、

フリードリヒ2世没後 ドイツ勢力が衰えると
イタリア人の民族の祭典というべき イタリア・ルネサンスという 民族の祭典 を
繰り広げたのですが、

イタリア中部より南は、
ローマ教皇庁が フランス勢力を導入した後、
アラゴンに支配される経験をしたのち、

最終的に、
ハプスブルグ家 が イタリア全体を支配することになり、

19世紀半ば、トリノの宮廷がイタリアを統一するまで、
外国に支配される歴史を経てきました。

ところが、
繰り返しの歴史の国であるイタリアが、
積み重ねの歴史の国の象徴でもあるフランス料理の母国だ
と、いうのです。

残念ながら、
この疑問に対する回答を現在のところ持ち合わせていません。

確かに、
イタリアは海に囲まれていて、新鮮な食材が豊富な国であり、
おいしい料理がたくさんあることは事実です。

また、
フランス料理のように凝った調理法ではなく、
新鮮な食材を生かした料理が多い感じもしています。

例えていうと、
フランス料理とイタリア料理の差は、

日本で言うと京(京都)料理と加賀(金沢)料理の差に相通じるものがあるのでは?
と いう気が しています。

でも、
ドイツでさえ、

「繰り返しの歴史」をそのまま体現する料理 を 現在まで引き継いでいるのに、

ドイツ以上に「繰り返しの歴史の国」であるイタリアが、
なぜ あのような料理 を 保持しているのか、についての説明 が 思いつきません。


敢えて推測すると、

ローマ帝国時代 に 料理の基本が確立して、
それが、
20000年近く保持されてきているのでは?
と いう妄想しか 思いつきません。

この問題は、
ローマ帝国が「積み重ねの歴史」なのか、「繰り返しの歴史」なのか、
の 問題 と 深くかかわっていますので、

私の人生に 残された時間を考えるとき、
これから取りかかるには 大きな問題すぎるな
と、現在感じていますが、
他方、いつかギボンのローマ帝国衰亡史を読んでみたいなとも願っていますので
ひょっとして 考えるチャンスが訪れることが あったらな と 願っています。


以上、ヨーロッパ諸国の料理にまつわる雑感 を
お話しさせていただきましたが、

私の雑感について
お付き合いくださり ありがとうございました。

 

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2022年4月19日 (火)

トランプ大統領は、「本当は 大統領になってはいけない人間だった のかな?」

ウクライナでの戦争が勃発した頃、
友人から

トランプ大統領 は,
「本当は、大統領に なってはいけない人だったのかな?」
とのメール を いただきました。

長年の友人であり、本音で会話をしてきた友人なので、
「マスコミしか 情報源のない人 の 事実から 遮断されている人 の 言ですね」
と、思わず書いてメールしてしまいました。

今回は、
「何故、このように考えたのか」
「国民国家から地域共同体 を経て 世界連邦 に 歩み始めた歴史 の 現在」
について、
皆様に、お話しするのも 意味あることでは?
と 考えて、

友人へのお詫びかたがた、
現在の歴史段階についての 私の見方、

更には、
最近勃発した ウクライナ戦争の根底に横たわる と 考えられるもの
について、お話しさせていただきます。



    * * * * * * * * * *



1.1990年ころに、
  約500年間続いた国民国家の歴史が終了して、
  地域共同体から世界連邦への歴史が 歩み始めた
  と、考えています。

「積み重ねの歴史」
(北フランスからベネルックス諸国 よりイングランド、更にはアメリカ
 の地域 と 日本)
の 諸国 が、

「繰り返しの歴史」(「積み重ねの歴史の国」以外の国)に 勝利して、
チャンピオン決定戦となり、

決勝トーナメントだった
第一次大戦、第二次大戦 に 勝ち残った アメリカ と ソ連 が、

チャンピオン決定戦である冷戦(第三次大戦)を
約半世紀 戦って、
アメリカが最終的に勝利したのが 1990年ころでした。

熱戦
即ち
米ソの直接対決にならず、

冷戦という
中国の国共内戦 から始まって アフガニスタンに至る
代理戦争による消耗戦になったのは、

米ソともに 原水爆を保有して、
米ソ両国共に 直接対決すると、世界の破滅であることを
流石に理解していたからだろうと思います。

勝利したアメリカも、
単独で世界を支配する力がないことは、勝利後すぐに 明白となり、


歴史は、
新たな歩み、
新たなステージでの 歩みを 始めたのです。

決勝戦に出場した
アメリカ も、ソ連も、

国民国家ではなく、地域共同体、

言い換えると
連邦制 の 国家組織 でした。

これが、
「積み重ねの歴史」の源であった
米ソと比べて 規模の劣る 国民国家だった
ヨーロッパ諸国 や 日本 が、

準決勝で敗退した原因でした。

また、
国民国家の歴史を大転換させ、国民国家の歴史を終焉させた
一番の原因 は、

「技術の進歩」により

経済管理単位 や 政治管理単位 が、
即ち
社会の「管理単位」が、

国家レベルでは 収まらなくなり、
より拡大した地域を管理単位をせざるを得なくなったことが
根本原因です。

例えば、
日本が 「失われた30年間」と言われ、
GDPが伸び悩んで、あとから日本を追いかけていた 中共 に 追い抜かれた
と、よく聞きますが、

これも、
経済の管理単位が拡大した結果、
言い換えると
日本国内に収まりきらなくなった日本経済が、
外国にまで拡大した結果

日本国内だけ見たら、
停滞しているにすぎなかったからです。

何故このようなことが生じたのかというと、
従来、日本国内に立地していた工場が、
競争力を維持するために外国に移転していったからです。

例えば、
トヨタさんの生産台数は、

1990年代頃は数百万台だったのが、
現在では1000万台レベルまでに 飛躍的に増加しています。

このように、
個別企業レベルで見ると、

もし、日本経済が拡大して 需要が増加しても

外国 で 増設した工場の 生産を増やして、
外国から 日本に 製品を持ち込んで、日本の国内需要 を 満たす体制
を 構築しているのです。

ですから、
日本の需要に対して、日本プラス外国の生産(供給)を見たときに、

供給 が、常に 国内需要を 上回っているで、
日本の物価が上がらず、GDPも足踏みをした結果となったのです。


でも、
何故かしら、日本は豊かな国となりました。
経済が停滞しているのに、豊かさを実感するようになったことを、
不思議 と 思われませんか?

世界一の債権国となり、
外国への援助 や 国際協力の規模 も、

私が若い頃
数億円から 精々 数百億円 だったものが、

現在では、
平気で 数兆円規模 に 拡大しています。


われわれの日常生活も、
豊かになったと感じられていませんか。

例えば、

私の若い頃
エアコンは、一家の1台あるのが普通でしたが、

現在では、
各部屋に1台設置されておられる家庭 が
増えておられるのではないでしょうか。

車も、高根の花で、
「いつかはクラウン」とのPRフレーズ (キャッチフレーズ)が
広まりましたが、

豊かになった現在の日本では、
クラウンも一つの選択肢であるとともに、

高根の花だったクラウン自体の生産 が、
終了しようとする時期を迎えています。

これは、
豊かになった日本の需要のレベルが上昇して、
いろいろな選択肢 を ユーザーが持てるようになった結果
はないでしょうか。

以上お話ししたことが、

ネット を 拝見していると、
以上でお話しした視点からの議論や研究が
経済学者の皆さんから、聞こえてこないような気がしています。

90年代に
メガ・コンペティション(大競争の時代)
経済のグローバル化
と 喧伝されたのが、最近 ほとんど聞かれなくなったのは、

一時 の 流行言葉(はやりことば)だったのだろう、
本当に90年代に歴史が大きく動き出したことを 理解していなかったのだな、
と、皮肉を込めて 最近の世の中の動きを見ています。

このように
管理単位が拡大しているのに
いつまでたっても 日本という国民国家 を 単位 で 議論されておられるのが、
不思議でなりません。

30年前に、私が
「歴史が、500年間の国民国家の歴史が終了して、
 地域共同体を経由して世界連邦への歩みを始めた。」
と、申し上げても、理解される方が、私の周りに 一人 も おられませんでした。

このように
歴史への感度が低い方が、経済学者となっておられて、
学校で 学んだ 知識 を 糧 に 毎日を過ごされ、生活されておられる結果

いつまでたっても 日本国内のGDPだけを見て、

失われた30年 と 日本を卑下し、貶める議論ばかり を
「意図的に」に展開されておられのでは?
と、つぶやいています。

「意図的でない」としたら、
「馬鹿丸出し」ということになりますので、

子供の時から大秀才として自他ともに認めて、
周囲から ちやほやされて育った経歴の方が、
学者の大半の方でしょうから、

まさか そういうことは ないだろう
との前提で、お話しさせていただきました。

いずれにせよ、
門外漢の私には、経済学は、需要と供給に関する学問
と、思われますので、

これからの歴史の歩みにおける下での 需要と供給について

言い換えると
管理単位が、従来の国民国家より拡大した世界における
需要と供給の関係について、

および
今後の内外(日本と外国や国際機関)の
経済政策 と 国際関係(外交)の在り方について

ご説明していただける学者の方が
登場されることを 期待しています。




2.トランプ大統領を生み出した 歴史的必然性


先ほどから、

国民国家の歴史より 地域共同体、世界連邦への歴史の歩みが始まった
と、申し上げていますが、

歴史 が、大転換しても、
その時点で
大々的に看板などにより 周知徹底されるわけでは ないのです。

歴史の転換 というものは、
あとから気が付いたら、あの時転換していたな
と、気が付く類 の 性格のもの なのです。

1990年代当時、
先ほど申し上げたように、
メガコンペティション、
経済のグローバル化 など と
喧伝されましたが


詳しく調べたわけではありませんが、
これらの経済現象が、

歴史 が、500年単位の時代が終了して 大転換した結果である
との認識は、一般には 全くと言ってよいほど ありませんでした。

ですから、
経済のみならず 政治の世界においても、
従来通りの 感覚 や 考え方 で、社会 が 運営されてきたのです。

でも、歴史は、
確実に 転換して 国民国家より地域共同体への歩みを始めているのです。

この歴史状況下において、
例外的な政治家として 頭角を現した のが、
トランプ大統領だ と 考えています。

トランプ大統領を、来るべき歴史の担い手である
と、評価しているわけではありません。

逆に、
歴史に逆行するナショナリストの政治家
歴史 に 棹(さお)さした政治家 として、

後世で評される政治家だろう
と、考えています。

というのは、
歴史への感覚 が 鋭い政治家だけが、

無意識にしろ、無自覚にしろ
来るべき地域共同際の世界 を 感じることができるのだろう
と、思います。

その歴史への感覚 の 鋭い政治家 は、
歴史の歩み を 感じるゆえに、または、感じる能力があるが故に

来るべき地域共同体の社会(世界)
において、

自分が属する国、自分がリードする国が、
しかるべき地位、

言い換えると
地域共同体をリードする地位

になるように もっていきたいい
と、考えて、行動 を 開始するのです。

そのためには、
現在政治を担当している国が、
ライバルの諸国の中で 際立った存在 と なっておらねばならない
と考えるのだと思います、

ですから、
表面に現れた 地域共同体 への動き
例えば、EU や TPP に 反対する政治行動 を とるようになるのです。

従って、

その他大勢の、凡庸な 私利私欲を追求するために
政治 を 生活の糧、生業(なりわい)としている 人々

現在の社会潮流 に 漫然 と 流されているような 人々
に とっては、

理解のできない政治行動をとるのです。

これが、

トランプ大統領が、
歴史の動きに敏感で、無自覚にせよ 目覚めているが故に

同僚の政治家 や 大手マスコミ から
集中砲火を浴びる原因だろう

と、思います

即ち、

自分の指導する国 の 利益 が、
仲間の国(友好国)よりも 優越するため の 政策、

トランプ大統領に即して言うと、
MAGA(Meke America Great Agein)が、

まさに その表れ と いうべきだ と 思います。


アメリカ合衆国は、

現在でも、
世界 で 唯一 の 地域共同体からなる国家 ですが、

トランプ大統領 の 政策 は、
いくつも地域共同体 が 存在し、並列するようになっても、

その中において
アメリカ合衆国 が、リーダーシップ を とり続けることのできる国(地域)
であるために、
アメリカ合衆国 を 強化するための政策 だったのだな、

と、後の世で 評価される政策なのだろう
と、思います。

トランプ大統領 が、
TPPより脱退したのも、この現れではないでしょうか。

即ち、
現時点で、アメリカ合衆国が、

日本や環太平洋諸国と、経済面で競争するのは避けた方が、得策である
(あけすけに言うと、
 正面から勝負すると 負ける可能性が大であり、
 アメリカのリーダーシップ、国益 を 損ねることになる)

と、判断されたのでしょう。

このように、無意識、無自覚にせよ
来るべき 将来(社会)において、
自分の国に しかるべき地位 を 確保しておこう
と、考えて

時代の流れに 一見する と 逆行する政治家が、現れ始めたことが、
歴史が地域共同体の世界に向けて 歴史が、
歩み始めたことのあかしであろう
と、考えています。


国民国家の歴史が、
1200年頃 歩みを開始してから
1490年代に 現実の国民国家の歴史として確立するまでに、
約300年 かかりましたし

その後、500年間 国民国家の歴史が継続しました。

このことから推測すると、

地域共同体としての歴史が はっきりとした姿を現すまでには、
数百年単位の時間 が 必要だろう

と、想像していますので、

来るべき時代の担い手となる政治家像を、
明確にお話しすることは、現在の私にはできませんが、

トランプ大統領のような

歴史の歩みに 一見すると 逆行するような政治家 が 現れた ことこそ が、
地域共同体の世界 に 向けて
歴史 が 歩んでいるあかしだ と、考えています。

もし、フランス の ルペン氏 が
今回のマクロン氏との再選挙で勝利して、フランス大統領に就任されておられたら、

トランプ大統領 と 同じような政治路線

即ち、
フランス を 偉大な国 にして 
ヨーロッパ の リーダー国としての地位 を 確立しよう

と、されたのでは ないでしょうか。

また、
英国 の ジョンソン首相 も
本質は、このような系譜に属する政治家だろう
と、考えています。

(現在 バイデン大統領の子分のような政治活動をされておられますが、

 これは、
 英国 の 現在の力、国際政治における立場 を 考えて、
 不本意ながら 政治判断をされておられるのでは?

 と、推測しています。

 ちょっと、甘すぎの評価とのご批判 を 受けることを、自覚していますし、
 甘んじて受けさせていただきたいと考えてえいます。)


ですからですから、

「積み重ねの歴史」のリードする 英米仏 三国 において、

トランプ大統領 が
2024年の大統領選挙で 復活して、
英国 ジョンソン首相 や フランス ルペン氏 と
タイアップしながら、競い合って 世界がリードする世界

言い換えると
共演しながら、しのぎあう世界 を、
生きているうち に 見ることができればな
と、願っています。 



3.「繰り返しの歴史」による 「積み重ねの歴史の国」への復讐
   ・・・ウクライナ戦争 を 生み出した 根本原因 について(仮説)・・・


1990年代に歴史が大転換して 30年ほどたった現在、
歴史の底流でうごめいていると思われる もう一つの現象 は、
「繰り返しの歴史」からの反撃、復讐です。

「繰り返しの歴史」による反撃は、2つの方面から現れました。

1つは、
アメリカで、トランプ大統領が出現した結果
それまでは、裏からアメリカを支配していた ディープステートが、

トランプ大統領への反動という形で
政治の表舞台 に でてこざる を 得なくなり、
その存在が、だれの目にも明確に認識されるようになりました。

2つ目は、
中共が台頭してきて、アメリカと覇権争いに名乗りを上げていることです。

(注)中共について、
   敢えて中国とは記載せず、中共と記述させていただきます。

   中共は、
   中華人民共和国を支配している政党であり、

   国共内戦は、支那本土で敗北した 蒋介石 が
   台湾 に 逃げ込んだため、現在においても決着がついていないので

   中共が支配する国が、支那を代表する国家 即ち 中国ではない
   と、考えます。

   習近平さんが、
   台湾 を 虎視眈々 と 狙っていること自体が、その表れだ と 思います。

   従って、中共を、
   中国共産党 と 中華人民中華共和国 の 両方 を 表す単語 として
   使用させていただきます。

支那(China)は、典型的な「繰り返しの歴史の国」です。

ですから、
「積み重ねの歴史の国」のように、

三大発明みたいなもの は、あったものの
自らの工夫に基づいて 技術 を 前進させることができませんでしたが、

でも。
広大な国家からなる中華帝国の盟主でしたので、
プライドだけは、非常に高く、

周辺の国 を 見下して、
朝貢をさせては 米つきバッタのように服従させる歴史
を 繰り返してきました。

ですから、
帝国主義時代になり
「積み重ねの歴史の国」により、覇権 を 掌握されて、

戦争に敗北し、屈服せざるを得ない状況 になったときの屈辱感 は、
第三者には、窺い知れないものがったのだろうと思います。

中共 が、
政権奪取し、外国から技術を導入して、

見よう見まねで、それらしい体裁の国家 として整えて、
アメリカ に 対抗できる 大国 に 復活したと 自負し、誇示していますが、

内実は、
相変わらず張子の虎 であり、実質 が 伴わっていない
と、思われます。

経済が発展し、世界の工場と誇っている のも、
安価な労働力と膨大な人口による潜在的な市場の魅力に引き付けられた
積み重ねの国を中心とした 投資によるものですし、

彼らが誇る新幹線についても、
日本をはじめとする外国の技術を持ってきただけのものです。

驚異的なGDPの成長率を 誇っていますが、
成長率を支えているのが、
全国で膨大な数の膨大な数の住宅建設です。

(住宅 を 建設すれば、GDP は 増加しますが、

 全く利用しない住宅は、いつの日か撤去せざるを得なくなるので、
 GDPに実質的な寄与はないと考えます。)

彼らが誇ることができるのは、
ハッキング技術をはじめとしたパクリの技術ではないでしょうか。

中共は、
数千年来の「繰り返しの歴史の国」であり、
新たなものを 生み出して 育てていく能力 は、
一朝一夕には 構築できないこと を 理解すべきだと思います。

いずれにせよ、
いつの日か 生じるであろう 中共による 台湾侵攻 により、
虚勢を張っているだけなのか、どうか、
彼らの真価 が 露になる と 思われます。

注)中共により台湾侵攻 が、
  簡単に 撃退して、侵入を阻止できる
  と、考えているわけではありません。

  中共が、本腰を入れて台湾を攻撃して来たら
  今回のウクライナ戦争を上回る 深刻な事態になることを
  覚悟しておくべき だと 思います。

  ですから、ここで申し上げたいのは、
  中共 と ディープステート を 比較した時、

  アメリカ を 乗っ取った ディープステート が、
  中共 の 何倍も 力を 持っているだろう、

  ディープステートがもたらす影響の深刻さ に おいても、
  中共とは 比べるべくもないだろう

  と、考えていること を
  ご理解いただければ 幸いです。



従って、
当面 今後の歴史で重視すべきは、

 

中共ではなく


「積み重ねの歴史」に鍛えられ、育まれた
ディープステートによる復讐 を

注視すべきでは?と、考えています。

ディープステートは、

現在
アメリカ の 支配権 を 入手し、

ヨーロッパでは、
NATO を 東欧に拡大して、ウクライナまで迫り

ロシアを挑発して ウクライナ戦争を勃発させ、
世界大戦を引き起こそう と、

人類の脅威 としての本性 を 見せ始めています。


ところで、
ディープステートとは、何者なのでしょうか?

私も、確たる事実をつかんでいるわけでないので
確言はできませんが、

以前から、ユダヤ人ではないだろうか
と考えてきました。

主な 理由 は、次の通りです。

① ユダヤ人ぐらいしか、
  「積み重ねの歴史」に 対抗し得る
  「繰り返しの歴史」に 属する民族 を 思い当たらないこと。

  ユダヤ人が優秀な民族であることは、自他ともに認められています。
  また、資金力に優れています。

  イスラエル建国の際、
  アメリカ に 募金活動に派遣された 当時の外相(のちの首相)が、
  一晩の集会で、膨大な額の募金を集めたこと は、語り継がれています。

② ソロスさんなど、
  政治の裏で活動されておられる ユダヤ人の名前 が、
  時々 垣間見られたこと

③ ヨーロッパ社会では、白人の中での序列が厳しく
  ユダヤ人は、東欧人などと同様に
  2級白人 と 位置づけられ、区別されて
  屈辱的な歴史を経てきていること。

  (反ユダヤの歴史 を 読むと、ユダヤ人の立場からは
   何も悪くないのに、突然周囲から攻撃され、乱暴された
   との記述がされていますが、

   全く何もないのに 周囲 が 攻撃するはずがない ので
   ユダヤ人が、周囲に対してどのような行動をとられたのか
   知りたいなと思っているのですが、

   本を書く人にとり、都合の悪いことは記述するわけがないな
   と、独り言をつぶやいています。)


今回 の ウクライナ戦争 で、

ウクライナ大統領 のスポンサー が、
バイデン大統領と関係の深いエネルギー企業のトップで、

お二人ともユダヤ人であることを知り、

やはり ウクライナ と アメリカ の ディープステート は、
つながっているのだな、との考え が、深まりました。

だとすると、
今回のウクライナ戦争は、

ディープステートが、けしかけた戦争の可能性もあるのでは
と、考えています。

というのは、

ウクライナ大統領が、ビデオメッセージされる際に、

資金援助、武器援助 は 依頼されますが、
戦争を終結するためのあっせん行為を依頼することはない
と共に

アメリカをはじめとする西側諸国に、
ウクライナ戦争への参加を 呼びかけているからです。

私には、
いかにも 世界戦争への拡大を意図していて

武器商人でもある ディープステートの指令 に 基づいて、
行動しているように 聞こえるのですが、

事の真相は、
時間 が たつにつれ 明らかになっていくでしょうから

断定せずに 仮説として覚えておいて、
時間の経過 を 待つことが 大切だな と、考えています。

いずれにせよ、
ウクライナ戦争が勃発した際に、

この戦争は、
西側諸国が主張するような 善と悪との戦争ではなく、
悪と悪との戦争ではないかな、

言い換えると
(ディープステートの指令に基づいて)
ウクライナ と アメリカ が、
ロシアを挑発し、追い込んで、

コーナーに追い詰められたプーチンが
ウクライナを攻撃開始したのでは?

と、感じたことが 正しかったのでは、

との仮説も、成立しうるのでは
と 考えて、

時間の経過を待とう と、思っています。


ここまでお話しして、ネットを開いたら、

アメリカ の フォックス が、
ウクライナ大統領 に 単独インタビューした
との話が 流れていました。

フォックスのインタビュアーが、

ウクライナ大統領に
「アゾフ大隊は、ナチスか?」と直截に質問したところ、

ウクライナ大統領 が、
「アゾフ大隊 は、ナチスである。
 アゾフ大隊 は、ウクライナ に 数多く存在する ナチスの大隊 の 一つ です。
 ウクライナ の すべての軍隊 は、ナチスによって 構成されている。」
と、明確に回答されたそうです。

このインタビューは、
ネットで流されたそうですが、

不思議なことに、

ネットでは、
このナチスについての やり取りの部分 は、消されているそうです。

更に、ネットでは、
次のような解説がありました。

ウクライナ大統領 が、大統領選挙の際に、

当時、東ウクライナ で 生じていた
ロシア軍 との 戦闘 を 終結させること を、
公約として掲げて当選したそうです。

大統領就任後、
ウクライナ軍に停戦命令を発したのですが、

現地 の アゾフ大隊 が、命令に従わなかったので、
大統領 自ら 現地に赴いて、
アゾフ大隊 を 説得したそうです。

その際、アゾフ大隊から

「ナチス は、国会議員 にも 多数いるぞ。
 命が惜しければ。われわれ に 従え」
と、脅迫されて、

それ以来 ウクライナ大統領 は、
アゾフ大隊(ナチス)の言いなりになったとのことです。

ネットでは、更に

ドイツのヒットラーのナチスも、
ロシア革命 で ソ連を建国した レーニン も
少数派だったけど、

暴力を使って、多数派を従えた。

同じことが
ウクライナで生じている。

この話を聞いて、

この話 に ついての 証拠 が 提示されていません から、
仮説として 覚えておこうと考えていますが、

万が一にも この話 が 真実なら、

今後、世界中 で この方法を用いて暴れまわる連中 が
生じるかもしれないな、

と、感じました。


また、
アゾフ大隊は、

アメリカのCIAの支配下に服している
との話もありました。

この情報が伝える アゾフ大隊の行動により
ウクライナで生じていることは

ディープステートが、
BLM を 使って、

不法選挙、不正選挙 により
アメリカ合衆国を乗っ取った アウトローのやり方と

共通点 が あるような 気も しています。

これも、
時間の経過とともに、真実が明らかになる
と、思いますが、

事態の推移 を 観察する際の 着目点の一つでは?
という気がしています。


今回 お話ししたいことは、以上ですが、
ご参考までに、蛇足として

日本人は、
80年近く 戦争をしていませんので、
長年歴史の本を読んできた経験から

ニュースを聞かれる際に
気になっている点、
知っておられた方がよいのでは
と、思われる点 と

また、ディープステート が
アメリカ を 乗っ取った経緯 など について
お話しさせていただきます。



蛇足1.
ウクライナ戦争 における残虐行為 の受け取り方について


ヨーロッパ中世史の歴史の本 を 読んでいると、

当時の軍隊は、
傭兵隊だったこともあり、

数か月 包囲して攻略した町 を 占領した際に、

3日3晩 兵士は、略奪、殺人、強姦など
更には
奴隷制のある地域では、住民 を 奴隷にするなど

何をしてもかまわないとのルールだった。

このルールは、
神聖ローマ皇帝カール5世 ですら
黙認せざるを得なかった

との、記述に巡り合います。

また、
軍隊の司令官(勿論 貴族です、フランスなどの王族 もいました)は、
盗賊の親分だった との記述にも お目にかかります。

これは、
国家 が 整備されていなかったため、

軍事予算 が、
国から まともに 支給されないので、

司令官自ら が、

自給自足、

言い換えると
市民から 強奪せざるを得なかったこと

を、意味しています。


海軍も同様で、

オスマン・トルコの海軍司令長官 は、
アルジェの海賊の親分でしたし

キリスト教徒側も、

例えば、
オスマン・トルコ と 戦った
マルタ騎士団の艦隊司令官 は、

イスラム側 からすると
キリスト教徒 の 海賊の親分 でした。

オスマン・トルコ も、
キリスト教徒の艦隊 も、

敵と戦うとき以外の 日常 は、
海賊行為をしていたのです。


戦場とは、
狂気が支配する空間であり、

そこに存在する人間の大半は、
通常の社会生活から隔絶された 狂気を帯びた人間
なのです。

ですから、
通常の社会、通常の生活では ありえない、
許されない行動 が 支配する空間 なのです。

平和な通常生活下 の 日本人 にとり、

戦場 の 生のニュース に 接すると、
理解を越えた 悍ましく 聞くに堪えない残酷さ を
感じるのだろうと思います。

日本人 も、
太平洋戦争 の 戦場 や 空襲下において、
狂気 が 支配する 地獄の経験 を してきました。

しかし、
戦争 が 終了して80年近くたった現在、
地獄の体験をされた方は、少数となり、

その他の人々は、
想像するしかない状況 に なっています。

ですから、
残酷なニュースに接した時、

ナチス は 別にして、

我々と 同じような人間 が、
狂気 に 支配される地獄 に
放り込まれた結果かも しれないな と、

想像力 を たくましくしていただいて
受け止めていただければな
と、願っています。


蛇足2.
ディープステート の アメリカ支配 の 経緯
及び
海外への支配拡大 について



ディープステートが 正体を現したきっかけは、

現在唯一の地域共同体国家である
アメリカ合衆国 で

「繰り返しの歴史」に属するディープステートによる
トランプ大統領への反動
との形 で 現れました。


ネットによると

2016年 の大統領選挙で、
最初 トランプ大統領は、泡沫候補扱い でしたが、

共和党の予備選で、
ブッシュ王朝 が 出馬させた ブッシュ一族の一人 を、

ブッシュ大統領(息子)が、
9.11の際に、飛行機 を ハイジャックにより、
ニューヨーク の ワールドセンタービル などに
突撃させる作戦 の 指揮 を するために アメリカに滞在していた
ビン・ラディン を、

サウジアラビアの要請により、
全米の飛行禁止措置 にも かかわらず、大統領権限を行使して
サウジ が 派遣した 飛行機 に 搭乗させて 逃亡させた

との スキャンダル を 暴露して、
共和党の予備選を勝ち抜き、

民主党のヒラリーと対決したのでした。

なお、 この予備選の経緯により

同じ共和党に属しながら、
トランプ大統領とブッシュ一族とは、犬猿の仲となったそうです。


当時の 民主党サイド は、
よもや ヒラリー が、敗北するはずがない
と、高を括っていたのですが、

選挙結果は、

得票数では、
ヒラリー が 勝利したものの、

大統領選挙人数 では、
トランプさんが勝利して、

トランプさん が、大統領に就任したのです。


当時のアメリカ は、
ディープステートが 陰で支配して、

2016年 の 大統領選挙では
ヒラリーさん を 大統領 に する予定 でした。

この計画 が くるってしまったので、
2020年の大統領選挙では、

ディープステートが
中共 と タイアップするとともに、

本性 を 露にして
総力を挙げた不正選挙により、

無理やり バイデン候補 を 大統領 に 就任させたのですが、

その後 時間がたつにつれて、
ディープステート の アメリカ支配、および その悪行、無法ぶり が 露にり、
国民の支持 を 大幅に 減らして

多くの 民主党 の再選議員のうち 多くが
当選がおぼつかないために 出馬取りやめにする人が続出し、

共和党 も、
トランプさんが 支持する人しか、党内選挙で勝ち抜くことができなくなり、

今年の中間選挙 と 2024年の大統領選挙では、

トランプさんの率いる 共和党 が
(従来のリノ が 支配する共和党 ではありません)
勝利するだろう
と 一般的なコンセンサス と なっているよう に 思われます。

注)リノ Rino ライノ

  Repabulicann in name only
     名ばかりの共和党員 の略語

  現実には、
     トランプ派以外の共和党員 を 意味している と、思われます。

  彼らは、
  ディープスレート が 裏で操る 民主党、共和党の
  アメリカ の 2大政党 の 政治構図 を長年 演じてきたのでは?
  と、推測しています。

バイデン大統領 は、
民主党 の 得票数 を 増加させるために、

毎年 数百万単位 で 不法移民を入国させて、
その人々 を
共和党の地盤の州 に 送り込んで、
劣勢 を 挽回しよう と されておられますが、

そのために、
メキシコとの国境 での 非人道的な状況 や、
犯罪者 が、多量に 米国に入国して、治安 を さらに悪化するなどの、
悪影響 が 生じていて、

心あるアメリカ人 の 顰蹙 を 買っていますが、

バイデン大統領は、それよりも
自分(民主党)が 勝利するのが 大事だ と ばかりに、

国民 を ほったらかしにして、
大統領権限 を 振り回しておられますので、

かえって
トランプ大統領の人気 が 高まっているのではないか
と 想像しています。


長年 アメリカ合衆国 を 陰 で 支配してきた、
ディープステートの支配力 は 見事なものでした。

2020年の大統領選挙 が 終了して、
1月 の 大統領就任式迄 の間、

トランプ大統領 は、
ただ一人 ぽつんと孤立していたのです。

ディープステート が、

ホワイトハウス の ペンス副大統領以下の閣僚
および 各省庁の官僚、

上下両院 の 議員、
民主党が支配する州 のみならず、共和党の支配する州 も、

並びに
最高裁以下の司法部門

の 司法、行政、立法 の 三権
はじめとして、
マスコミや 大企業 と

全米 を 支配下にお さめていることが、
露になったのです。

更には

暴力実行部隊の組織 である BLM
に 加えて、

軍事力 を 握っている 軍隊 も
支配下 に おさめていたのでした。


私は、トランプ大統領 が、
選挙違反 の 取り締まりの 最高責任者 なのに、

民主党 の 選挙違反 を 何故捜査しないのか、
不思議でならなかったのですが、

トランプ大統領 が 命令しても、

実際に捜査する司法省以下の捜査当局 が
ディープステートに 支配されていて、

「笛 吹けど 踊らず」の状況であることを、
トランプ大統領 が 察知されたのでしょう。

また、いざとなれば、
ディープステート は、

支配下にある BLM や 軍隊 を使って、
トランプ陣営 を 武力で制圧すること も 理解されていたのでしょう。

1月6日の状況など から 推察すると、

トランプ大統領 は、
1月20日 の 大統領就任日 の 直前迄、

このことを ご存じなかった のだろう、

もしくは、
ご存じであっても、

武力(力)による解決
ではなく

憲法などのルール に従って 勝利したい
と、考えられたのだろう

と、推察されます。


というのは、

大統領選挙で、
民主党 が 不正により 大統領 を 奪っても、
最高裁 で ひっくり返すことができるように、

最高裁の判事の任命 を 強行して、
共和党系の判事 を 多数派としておいたからです。

また、1月6日
上院議長のペンス副大統領が、
上院での選挙結果を決定する際に、

憲法の規定 に 従って、
不正がある州 の 選挙結果については、

各州の議会 に 選挙結果の検討 を
差し戻すこと で、
民主党による 不正選挙を 阻止できる

と、考えておられた
と、推察できるからです。

でも、
ディープステート は、
トランプ大統領 の 上を 行っていました。

即ち、
最高裁長官 を 抑えていて、

最高裁長官 に、
法学の原則 を ゆがめさせて、
選挙不正 を 正当化したのです。

簡単 に 経緯 を お話しすると、

トランプさんを 勝利させた テキサス州 が、
バイデンさん を 勝利させた 他の州 を 選挙違反 で 訴えたのです。

アメリカ合衆国 は、
50の邦(州、State)からなる 地域共同体の国ですから、

各州が、その州(邦)の 憲法や法律 に 従って
選挙を行っている限りにおいては、

他の州 が、
裁判 で 是正 を 訴えることが できないのです。

分かりやすい例え で 申し上げると、
ヨーロッパのEU で、
大統領選挙 を 行う と 仮定した場合、

フランス が、
フランス の 憲法や法律 に 従って 選挙している限りに おいては、

ドイツ が、EUの裁判所 に
フランスにおける選挙結果の是正 を 訴えることが
できない のと 同様です。


ですから、
連邦裁判所は、

訴えられた裁判 が、
連邦裁判所 の 管轄 に 属するものかどうか を
裁判する前 に判断する のです。

このため、この段階で、
テキサスは、

当事者適格がない

即ち、
当事者として 裁判する資格がない
と、門前払いされたのです。

でも、これは、
遠い日本から見ている私にも、不当なことでした。

テキサス州 が 訴えた州 では、
立法府である議会 が、
憲法や法律 の 改正 を してないのに、

法律の改正資格を持たない
選挙管理当局 が、

勝手に 選挙ルール を 変更して、
バイデンさん に 勝利させていたのです。

(私は、
2020年 の 大統領選挙 に おいて、
無記名投票 であること を 良いことに

民主党 が、
バイデン票を 偽造して
バイデンさん の 得票数 に 含ませたのでは?

そうするために
選挙管理当局が 勝手にルール を 色々変更したのでは?

と、想像しています。) 


ですから、

連邦最高裁長官 が、
テキサス州 を 門前払いする際に、

同僚判事 に、

恫喝 を 用いて
ディープステート の 意思 を 貫徹させたのです。

即ち、
「もし、裁判になれば、
 テキサス州 が 勝利するだろうが、

 テキサス州 が 勝利したら、
 アメリカ合衆国 が 内戦となるだろう

 その時、君たちは(同僚の判事 は)
 その責任 を 取れるのか?」

と、長官 が 恫喝したのです。

その結果 が、

テキサス州 は、当事者ではない
との 門前払い だった のですが、

テキサス州の選挙結果 が、
他の州 の 不法行為 により 阻まれ、

他の州 での 不法行為 が なければ
テキサス州 の 選挙結果 が
大統領選挙 の 結果 と なってたはず だったので、

テキサス州は、当然 当事者であり、

ましてや、
この訴訟 の 原告に

被告の州の不正行為により
統領選挙 で 敗北認定された 大統領候補 だった

当時者である トランプさん が
加わって いましたので

連邦最高裁 による 門前払いの決定 は、
全く 支離滅裂な決定であることは
明白でした。


このようなことが できたのは、
実は 法学 に 欠陥があったからです。

法学は、

人間の社会活動 について
色々と 細々(こまごま)としたルール
を 定めていますが、

人間活動 の すべてをカバーする ルール を
人間 の 活動 に 先んじて 制定しておくことは
不可能であるため、

裁判官 が 判断する際には、
ルール(法律)に 加えて、

ルールー が 定められていない場合 に 備えて

裁判官が、
裁判官の保持するリーガルマインド(良心)により
判断するように と 定めているのです。

リーガルマインド(良心)による 判断 は、
ルール が ない場合の 最後の手段 であるはず ですが、

裁判官 が その気になれば、

ルール を 無視して、
裁判官 の 好きなような決定 を しても よろしい
と いうことになります。

通常の裁判では、上級裁判所があり、
そこで 不合理な判決、身勝手な判決 を
是正することが できますが、

最終審である
連邦裁判所の長官 率いる 最高裁の判事の多数 が、

法(ルール)を 無視して、私利私欲 で 決定したら、
是正の方法 が ありません。

ディープステート は、

「いざ鎌倉」という場合に備えて
法学の盲点 を
隠し玉 に しておいたのです。

1月6日の
「バイデン大統領が 勝利した」との 上院での決定 も、

ディープステート が
事前に ペンスさん を 送り込んでいたので、

ディープステートの意図 を
貫徹させることが できたのでした、

このように、ディープステート は、

2020年の大統領選挙に際して、
完璧に 支配 を 貫徹させるための方策 を
見事なほどに 準備していたのです。

でも、この方法は、

国民が主権を持ち、国民が大統領を選挙で決定する
民主国家においては、

1回限りしか 使えない方法 だったこと が、
ディープステート に とっての不幸 でした。

バイデン大統領 が 就任して1年経過するうちに、

2020年 や 2016年の
大統領選挙 における 旧悪 の一部 が
露(あらわ)に なってきて、

民主党が、
国民の怒りを買う状況になってきました。

例えば、

2016年の選挙の際に、
トランプ大統領 が、
ロシア の プーチン大統領 と共謀して 陰謀を働いたと、

トランプさん の ロシア疑惑 を 民主党 が 主張して、
トランプ大統領 を 窮地に貶めよう との工作
を したのですが、

最近になり、

この陰謀 は、
民主党 や ヒラリーさん が、
捏造した証拠 に よるものだったことが、明らかになって、

民主党 や ヒラリーさん に
罰金 が 科せられています。

また、
ウクライナ に 内政干渉をした との 理由 で
トランプ大統領 が 下院 で 弾劾されましたが、

これは、

バイデン大統領 が オバマ政権時代 副大統領 として、
ウクライナ に 乗り込み、

米国の援助 が 欲しければ、
汚職を追求している 検事総長 を 罷免しろ

と、内政干渉し、
圧力をかけて 屈服させたこと に対して、

トランプ大統領 が、
ウクライナ大統領 に

ちゃんと経緯を調べて対処してほしい
と、お願いしたことが 原因でした。

バイデン大統領 は、
副大統領時代 に 米国の公的資金 を 私的に利用して、
当時のウクライナ大統領 を 恫喝したことを、

自慢している動画を、
私も、ネットで拝見して、

なんで 自分 が 犯罪 を 犯したことを
自白して 自慢するのだろうか?

と、不思議に思ったこと を 覚えています。

バイデン副大統領 が、
ウクライナ政府 を 屈服させた後 の 後日談については、

息子さんのハンターさんがらみの事件として、
今後 事実 が 明らかになっていく と 思います。


バイデン大統領は、
2020年の大統領選挙に際して 選挙前に

「我々は、これまでにない不法組織 を 作り上げた」と、発言し、
日本でもネット に ニュースとして掲載されました。

私 は、これを読んで、
全く理解できず、困惑したこと を 覚えています。

というのは、

犯罪 を 犯した犯人 が、
取り調べ を 受けていないのに、自白すること は あり得ない

と、考えていたからです。

でも、
大統領選挙 が 進むにつれ、

バイデン大統領 が
真実を語っていたこと が 明らかになりました。

ですから、

アメリカ合衆国内で、
なぜこの発言 が 問題視されないのだろう と、

私には、理解できない 大いなる謎 となっています。


以上により、

ディープステートは、

2020年に 政権 を 奪回しましたが、
正当な方法 で 奪回したのではないこと と、

トランプさん以外 の 従来の共和党 や 民主党 の 大半の皆さんは、
来るべき時代を担う グローバリスト ではなく、

19世紀型 の 私利私欲 を 貪りつくせる利益 を 求めた 帝国主義者
と 同じような感性 を 持っている人々 だ

と、感じています。

(帝国主義者も、
 アヘン戦争で見るがごとく、全世界に飛躍して
 私利私欲をむさぼっていた グローバリストでもありました。)


先ほど述べたように、

来るべき地域共同体 が 成立した後に 登場する
本当のグローバリスト は、

まだ 歴史の舞台 に 大きな力を持って 登場していないのでは?
と、感じています。


以上 ディープステートが

トランプ大統領の出現 で 追い込まれて、
選挙不正までして大統領職を奪回した経緯
について お話ししましたが


次に、

彼らが、外国(米国外)での 活動の本質 について、
私の仮説 を お話しさせていただきます。



ディープステートは、
武器商人も兼ねています。

これが、アメリカ合衆国が、
第2次大戦後、戦争を継続してきました一番の理由であろう
と、想像しています。

大量に 武器 を 消耗する戦争 を 勃発させるために、
ディープステートが、アメリカの大統領や議会 に
絶えず 働きかけていたのでしょう。

その結果、例えば、
ブッシュ大統領(息子)時代
イラクに対して 無理やり戦争原因 を 捏造して、戦争 を 仕掛けた
と 考えると 得心がいきます。


また、ネットによると

アフガニスタンで、
パイプラインの交渉が 8月に 決裂した報復として、
9.11の攻撃 を うけたので

その報復として、ブッシュ大統領(息子)が、

その翌月の10月に
フガニスタン戦争を 勃発させたとのことです。


トランプ大統領は、
その任期の4年間で 戦争を開始しなかった
稀有な大統領だった と、聞いたことがあります。

これも、
トランプ大統領 が

ディープステート が 裏で操っている
マスコミ の 餌食 と なっている原因なのでしょう。

そのトランプ大統領でさえ、
シリア に 大量のミサイル を 撃ち込んでいます。

このように ディープステートは、
戦争のきっかっけ を 画策しながら 活動していた
と、想像したら 合点がいきます。

今回のウクライナ戦争において、

ロシアのプーチン大統領が、
NATO が、ウクライナまで 拡大してきていること を 非難していますが、

一理あるのでは?
という気 が しています。

今回のウクライナ戦争のニュースに接していて
違和感を感じるのは、

開戦前 に、バイデン大統領 が
異常なほど、ロシアに対して戦争をけしかけていたことでした。

また、
ウクライナの大統領 も、
何か うさん臭さ を 感じていました。

ネットで、
ウクライナ大統領のスポンサーは、

バイデン大統領の息子さん を 取締役 に雇用した
エネルギー会社のオーナーだ
と、いわれています。

もし、これが真実であるなら、

ウクライナ大統領 と バイデン大統領 が、
つながることになります。

そういえば、
プーチン大統領が、

ウクライナの大統領の支配下 に ナチスが存在している
と、指摘した時、

ネットによると、
アメリカ が、
ウクライナの大統領 は ユダヤ人だから、

ナチス を 支配下に持つはずがない
と、主張している
と、聞こえてきました。

このニュース に 接して、

ナチス と 関係 が あるはずない
と、断定しているにもかかわらず、

その証拠 が 提示されていないことに
違和感 を 感じていました。

ですから、
ウクライナ大統領の周囲 に
ナチス が 存在することもありうるのでは
と、感じ始めていたところに

ウクライナ大統領 が、

イスラエル で 演説をして
イスラエルの議員さん を 怒らせた
との話 が、飛び込んできました。

ウクライナ大統領は、

第2次大戦中 ナチス が ウクライナで行った蛮行 と 同じことを
ロシア が しているので、支援してほしい
と、依頼したそうですが、

このことが、
イスラエルの議員さんたち を 怒らせた原因だ
との 解説 が ありました。

その解説によると、

第2次大戦後、アメリカ は、
ニュルンベルク裁判などで ドイツのナチスに対して
厳しい措置を取ったけれど、

ウクライナのナチス に対しては、何もしなかったので、
現在まで ウクライナでは ナチスが存続している。

この連中を使っている
ウクライナ大統領に対して、

ウクライナも、
ナチスと同じようなことをしているではないか と、

同じユダヤ人で 事情をよく知っている イスラエルの議員さん が
怒ったとのことなのです。

これも、
証拠 の 提示もない 単なるお話 なので、確信 が 持てませんが、

もし、
イスラエルの議員さんが 怒ったことが、事実なら、
この話 は 真実ではないだろうか?
という気がしています。

その後 の 推移をみると、

ウクライナのナチス は、
アゾフ大隊と呼ばれている組織で、

ギリシア での
ウクライナ大統領のメッセージの際、

アゾフ大隊の幹部 が 発言したことに対して、
ギリシアが、
「なんで ナチス を 喋らせるのか」と、

 怒ったとの話 も ネットでありました。

また、
ウクライナ が、
ロシア軍の虐殺 を 発表するたびに、

実は、ウクライナ側の犯行である
との 否定する話が出てきまが、

ウクライナ で
ナチス が 生き残っていた との話が、ある限り

ウクライナの発表は 本当だろうか
との疑念 を 拭うことができません。


申し上げたいことは、

ロシアのプーチン大統領 は、
戦争 を 始めた張本人 であり、
弁解の余地もなく ワル(悪)です。

だからといって、
攻撃されたウクライナ側 が 善だ
と いうことには、ならないだろう
と、考えています。

ウクライナこそが、

ディープステート とつながって
戦争 を 勃発させように 事態を導いた
一方の当事者ではないだろうか、

との疑念 が 拭えず、

今回のウクライナ戦争 は、
悪対悪の争いではないだろうか
という気がしています。

これは、
ウクライナ大統領が、ことあるごとに、

各国に 世界大戦を呼び込もうと 呼びかけて、
武器 や 資金援助 を 求めますが、

戦争終結 に 尽力してほしい との 依頼 は
一切ないことから、

武器商人 の 片棒 を 担いで
武器商人 に 操られて

戦争を拡大しようとして 発言しているのでは?
と疑われても しょうがないのでは

と、感じられるからです。

いずれにせよ、
このまま ずるずると 戦争 が 継続していると、
本当に 世界大戦になるかもしれませんので、

本当 は、
アメリカのバイデン大統領あたりが イニシアチブ を 取って、

戦争終結 の 方向 に 事態 を リードすること が
求められている と、思うのですが、

ディープステートの一員である とともに、
金のにおい を かぐと、
そちらに なびいていく お人柄 で、

開戦前に プーチン大統領 を
戦争するようけしかけていましたので

期待 が 持てないな
と、嘆息しています。



以上、長々とした話を
最後までお読みいただきありがとうございました。





 

 

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2021年10月14日 (木)

フランスとドイツは、積み重ねの歴史の国?それとも 繰り返しの歴史の国?

知人より、掲題の質問 を 受け、次のような回答 を しました。
少し面白いテーマなので、
ご参考までに書き写してご参考に供させていただきます。


          **********


結論から申し上げると

フランスは、

積み重ねの歴史 の 担い手 が、半分
繰り返しの歴史 の 担い手 が、 半分 の国で

これが、
イングランドとの植民地争奪戦(第2次百年戦争)で
フランスが、イングランド に 後れを取った原因 だろう
と、思っています。


ドイツは、

本来的に 繰り返しの歴史の国でした。

フランス革命後
ナポレオンに敗れたプロイセンが、奮起して
プロイセンを 積み重ねの歴史の国に転換させ

ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して
ドイツを統一し、ヨーロッパで覇を唱えるまでの
積み重ねの歴史の国に転換させたのですが

1990年 冷戦終了後、
繰り返しの歴史の産物であるマルクス主義を信奉する
東ドイツを合併したことにより

繰り返しの歴史の国に先祖返りして
繰り返しの歴史の国に戻ってしまった
と、感じられるのが、現在のドイツだと思います。

ドイツに対して、このような感じを持ったのは、
50年以上前に 大学に入学した年の秋に
3週間 南ドイツやオーストリアを中心にバス旅行した経験と

数年前に
ドイツ旅行した経験を比較して 感じたことなのです。

50年前には、
西ヨーロッパの国を訪れたな
との感じを持ちましたが、

数年前は、
ドイツの資本主義の心臓部であるフランクフルトにおいてさえ
冷戦時代の東方の国と思えるほどの 陰鬱さ、沈滞 を 感じて
驚愕したことが忘れられません。


以下、
フランス史とドイツ史の概略をご説明させていただきます。




1.最初に、

  フランスとドイツの国の成り立ちを理解するための前提として
  ヨーロッパと日本の「封建関係」について、
  一言述べさせていただきます。


日本の封建関係 は、
家臣は、主君に忠誠を尽くして、二君に仕えない
のに反して

ヨーロッパでは、
主君と家臣は、契約関係であり、
すく数の主君を持つ者 も ざらにあることが

異なる点である、
とよく言われますが、

私は、
これに疑問を持っていて、
これが、
ヨーロッパ理解を過つ原因になるのでは?
と、感じています。

ヨーロッパにおける封建関係が、
契約関係だとの認識には、同意しますが
日本の封建関係については、
疑問を持っています。


日本の封建関係は、
二層構造になっているのでは?
と、感じられます。

即ち
主君と家臣との関係 と
対等な 主君同士の 主従関係(契約関係)
(例えば、織田信長と徳川家康、豊臣秀吉と徳川家康)

最初の 主君と家臣との関係は、
一般に言われている通りの
複数の主君に仕えない との封建関係です。

二つ目の
対等な主君同士の主従関係(契約関係)とは、
ヨーロッパの封建関係と同質の
利害に基づく関係だろう と、感じられます。

例えば、徳川家康は、
織田信長や豊臣秀吉が存命中は、
信長や秀吉に従順に従っていましたが、

秀吉没後
豊臣家を打倒できる状況になると、

従来の主従関係を無視して、
豊臣家 に 牙をむいて 滅亡させて、
徳川幕府 を 創始しました。

これは、
ヨーロッパの封建関係と、
全く同質のもののように感じられます。


ヨーロッパで
日本のような主君と家臣の関係が一般化しなかったのは、
地域における権力構造が異なっているからのよう に
思われます。

この点への理解が、
ヨーロッパの歴史理解の前提となるような気がしています。

日本においては、
一つの国(尾張の国とか、美濃の国)の主君は、
原則そして 一人でした。

ところが、
ヨーロッパでは、一つの土地に、複数の主君が存在していました。

例えば、中世の北フランスは、
フランドル伯の領地でしたが、

同時に、
同じ土地に対して
フランス王も 国王としての宗主権 を 有していたのです。

更に、
神聖ローマ皇帝(ドイツ王)も、
フランドル伯の君主としての権利を主張していましたし、

フランドルとの緊密な経済関係を有するイングランドも
領土を奪取しようとして 派兵する動きも見せていました。


このように、
一つの領土 に 対して、権利 を 主張する 複数の君主 が 存在したことが

日本におけるような
主君 と 家臣 との 封建関係 が 成熟せず(一般化せず)に

日本における 君主間の契約関係しか
ヨーロッパにおいて成立しなかった原因では?
と、感じられます。


(注)ヨーロッパにおいても、
   主君と家臣の関係は、一般化はしなかったものの
   当事者間では、存在していたことを否定するものではありません。

   尼子家再興 に 奮闘した 山中鹿之助 のような 家臣 も 存在しましたし、
   武士道 と 同質と思われる の騎士道 も ヨーロッパに 存在していました。

   歴史というものは、
   All or Nothing と、明確に区分できるものではなく
   常にグレーゾーンが存在することを、 ご理解ください。



2.フランス史 の 概略

フランスは、

500年ころ ベルギー の トゥルネー から パリ に 進出してきた
クローヴィス が、建国した国です。

西フランク滅亡後(消滅後)
カペー朝が、 フランス王に選出され、

フランス革命まで
カペー朝の血統(本家の血統が途絶えた後は、分家の血統)が
支配しました。


フランス王に即位したカペー朝は、
フランス王として フランス全土に対する統治権を
理論上は持っていましたが、

実際に統治できていたのは
イール・ド・フランス(パリ周辺)
せいぜい パリからオルレアンまでの地域でした。

即ち、
パリ周辺の 弱小領主が、弱小ゆえに
フランス王に即位したのでした。

ドイツでも、
ハプスブルグ家 が 皇帝 に 選出されたように

フランスでも
強大な諸侯 は、フランス王 への 即位 を 阻まれたのです。


カペー朝がフランス王に即位した当時 の
フランス の 領土範囲は

東は、
シャンパーニュまでで
ロレーヌも アルザスも 神聖ローマ帝国(ドイツ)の領土でした。

また、
ソーヌ川、ローヌ川の東側も、
神聖ローマ帝国の領土で、フランスの統治権の範囲外でした。

パリの西側 は、
北のノルマンディーからピレネーまで
フランス王の宗主権の範囲内でしたが、

実際には、
ノルマンディー公、アンジュー伯、アキテーヌ公などが
統治、支配していて
フランス王の宗主権は、名目だけの存在でした

更に、
ブルターニュ公国、トゥールーズ伯は、
フランス王より独立していて、
フランス王の宗主権も及びませんでした。

(注)トゥールーズよりプロヴァンスにかけては、
   南のアラゴンとの統合の方 に 動いていたのでは?
   と、感じられます。

   アラゴン と トゥールーズ および プロヴァンス
   の 統合 を 阻止するため が、

   13世紀前半 に
   フランス王家とイングランド王家が
   プロヴァンス伯家の4姉妹 と 政略結婚した理由では?
   と、想像しています。

また、
北フランス は、フランドル伯の領土 でした。

先ほど述べたように
フランドル伯は、ほぼ独立していて、

その上位に、
フランス王、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、イングランド王が
宗主権を主張して けん制しあう 複雑な政治模様 を 呈していました。

(注)第4回十字軍 が、ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
   フランドル伯が、十字軍 が 建国したラテン帝国の初代皇帝 に
   即位しています。

   また、
   フランドル伯家 が、短期間で血統 が 断絶した後
   フランドル伯の娘と結婚した カペー朝の分家が
   その後の皇帝に即位しています。

   フランス王ルイ9世 が、 聖遺物を購入して
   パリの シテ島で、サント・シャペルを建立したのは、
   このような関係があったからでしょう。


フランスの歴史を一言で申し上げると、

パリ周辺の弱小領主が、
フィリップ2世以降 フランス王の宗主権を活用して
周辺の大諸侯 を
駆逐するか or 服従させるか、または 併合して、
統治権 を 拡大、確立し、

更には、
神聖ローマ帝国 や、
独立諸侯だった
フランドル伯の一部、ブルターニュ公、トゥールーズ伯より
領土を併合していって

フランスという国 を 統合、統一していった歴史
と、いえるでしょう



積み重ねの歴史の担い手は、
北フランスからフランドルにかけての地域の人々ですので、

フランス の 大部分の地域 では、
繰り返しの歴史の人々 が 居住しているのです。

従って、
フランスにおいては、積み重ねの歴史の担い手は、
少数派というべきでしょう。

しかし、
積み重ねの歴史の担い手が、
カペー朝が、フランス各地を併合する際に
主導的役割を果たしたのでは と、想像しています。

言い換えると、
フランスという国 を
リードし、形成した人 との側面から 観察すると

少数派の積み重ねの歴史の地域の人々が リードしたのでは
との 少し 別の見方 になるような気がしています。

例えば、
16世紀後半 フランスは、
宗教戦争の嵐 が 吹き荒れました。

この時期、宗教戦争をリードしたのは、
北フランス出身の人々だ
と、 渡辺一夫先生は、記述されておられます。

カルバン派
カトリック、
それに
ユマニスト の3派 が 現れましたがが、

その3派 の リーダー は、
全員 北フランス出身者だった というのです。

渡辺先生は、
繰り返しの歴史の地域である
ロワール川下流地方出身のラブレー研究における 世界的権威
で あられましたが、

その先生が、
16世紀後半 の フランス を 分析して、
フランス を リードしたのは、北フランス出身者だ
と、考えておられるのです。

ですから、
フランス史において、
北フランス出身者の影響力 は、無視できないのでは?
と、想像しています。



3.ドイツ史 の 概略

フランクの支配が終了して、ドイツ史と歩み始めたとき
ザクセン朝が、ドイツ王に即位しました、

ドイツは、フランク解体過程で
中フランク(ロタールの国)が、ドイツに編入されたため

ドイツ王が、
神聖ローマ皇帝 を 名乗る とともに

ローマ帝国の本拠だった、イタリア の支配に注力して
ドイツ国内の統治がおろそかになりました。

ザクセン朝の男系血統が断絶して、
ザクセン朝の娘 と 結婚した シュタウフェン朝 が、
ドイツ王 を 引き継いだ後 も、状況 は 変わりませんでした。

というよりは、
更にイタリアの統治 に 注力し、

中世最大の皇帝 と いわれる フリードリヒ2世 においては、
イタリア生まれのパレルモ育ちだったこともあって、

ドイツにはほとんど赴かずに、
イタリアの王様として 生涯 を 過ごしています。

神聖ローマ帝国(ドイツ王)に
北と南から攻められる状況に陥った
教皇権 と ロンバルディアなどのイタリア都市国家が、

シュタウフェン朝に 対抗するために、

フランス を
イタリア に 引き入れて
ヨーロッパ史 を 大きく動かすことになるのですが、

今回とは別の話なので、割愛させていただきます。


皇帝不在(国王不在)のドイツは、
不在の間 に、大諸侯 が 割拠する 領国体制 を 確立しました。

この領国体制が、
19世紀初頭 ナポレオン に ドイツ が 敗北するまでの
500年以上 継続しています。

その間の歴史は、
繰り返しの歴史であり、

積み重ねの歴史を重ねて、実力を蓄えた
イングランドやフランスの後塵を拝したのです。

後塵を拝した表れとして、
フランス王より一つ格上の皇帝だったドイツ王(神聖ローマ皇帝)が
イングランド王やフランス王の家臣として、
先頭に従軍した例をご紹介させていただきます。

フリードリヒ2世に対立した ヴェルフェン家 のオットー4世は、
イングランド王 ジョン王の家臣として、

1214年 ブーヴィーヌの戦いに出陣し、
フィリップ2世に敗北し ドイツに逃げ帰っています。

オットー4世の父は、シュタウフェン朝の皇帝を対立して 敗北し、
ドイツから追放された際に
妻の実家のプランタジネット朝(アンジュー家)を頼って亡命しました、

オットー4世も、父に従って フランスに赴き
ポワトゥー伯として、プランタジネット朝の家臣として働いたのです。

ですから、
ジョン王が、フィリップ2世と戦った際に、
ドイツよりはるばるフランスに出陣し、
ジョン王の家臣として フィリップ2世 と 戦ったのです。


カール4世も、
1346年クレシーの戦いで、
主君である フランス王 に 従って、出陣しています。

カール4世のルクセンブルク家は、事実上フラン王の家臣でした。
カール4世自身も、フランスの宮廷で育っています。


カール4世 は、自分の名前 を
崇拝する フランク王 シャルルマーニュに因んだカールとしました。

シャルルマーニュ
即ち、
シャルル大帝のシャルルは、ドイツ語ではカールなのです。

(フランス語のシャルルマーニュを、
 日本で カール大帝 と 呼ばれるのは そのためです。)

カール4世は、
ドイツ王に即位して間もなく、
父ボヘミア王(チェコ王)ヨハネスに従って、
フランス王の許に はせ参じたのです。

尚、カール4世 は、父 クレシーの戦いで戦死した後
ボヘミア(チェコ)王として、国民から敬愛された国王でした。

カール4世の娘さんが、
イングランド王と結婚したことにより、

カール4世 を 敬愛していた チェコ人 が、
イングランド に 多数 留学して、
ウィクリフの教え を チェコ に 持ち帰り、

チェコで
フス派 が 勃興して、
フス戦争(宗教戦争)を もたらしました。


少し横道にそれましたので、話を戻しますと、

ドイツは、
繰り返しの歴史である 領国体制が、
19世紀初め に ナポレオンに敗北するまで継続しました。

このため、
激烈なイングランドとの積み重ねの歴史を競ってきたフランスに対抗できず、
簡単に敗北してしまいました。


ナポレオンに敗北後、
プロイセンが、奮起して、プロイセンを積み重ねの歴史に転換させ
ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して、

19世紀後半に フランスを破り
中世末に フランスに奪われた ロレーヌとアルザスを
ドイツに取り戻したのです。

現在 ストラスブール大学に、
フランス唯一の プロテスタント の 神学部 が 存在するのは

もともと アルザスが、
ドイツだった との経緯 に よるものだろう と、思います。

(注)アルザスは、
   中世において、ドイツ の 政治における心臓部 でした。

   シュタウフェン朝の宮廷は、
   ストラスブールの北のアグノー(Haguenau、ハーゲナウ)に
   所在していて、

   リチャード獅子心王の母 アリエノールが、
   ローヌ川の南の ポワトゥーから 船で ライン川 を 河口から遡って
   身代金を運んだ先が 

   現在においては
   フランス国内の町だったのです。

20世紀に入り、ドイツは
ヨーロッパ
更には 世界制覇 を 目指して
第一次大戦、第二次大戦 と 戦いましたが、
アメリカに 敗北して 挫折しました。

冷戦終了後
西ドイツが、東ドイツを併合して
戦前のドイツに戻りましたが

文化的というか、歴史的というか
ドイツとしての国の立ち位置が

積み重ねの歴史の国から
繰り返しの歴史の国に 先祖がえりをしたような気がしています。

今後、このままでは、
激烈な国際競争の中で、

ドイツが、
経済面で後れを取ることになろうかと思いますので、

ドイツが、いつ目覚めて 積み重ねの歴史の国に復帰するのか
それとも
イタリアみたいな繰り返しの歴史の国のまま推移するのか
注目していく必要があるのでは、と感じています。

というのは、
ドイツの動向が、今後のEUの動向を左右する
大きなファクターとなるのでは?と感じられるからです。

また、
アメリカと中共の間で、戦争が勃発したら、
繰り返しの歴史の国であるドイツの動向も 注目されるのでは?
と、思われるからです。



 

 

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2014年12月12日 (金)

2014年7月 の フランスの地域圏の再編

JALさんの広報誌「AGORA」11月号に、

浅野素女さんが「地方のアイデンティティー」と題する
フランス地域圏の再編のニュースを紹介されておられました。


ティエス著「国民アイデンティティの創造」をご紹介した前回のブログで、
フランスの略史を述べましたが、

関連する 大変興味深いニュースですので、
簡単にご紹介させていただきます。



< 浅野素女さんの「地方のアイデンティティー」 抜き書き >

  出所 AGORA 2014年11月号 13㌻


1.この(2014年)7月、
  フランスの22の地方を、13に減らす法案 が、議会を通過した。

  フランスは、
  最小単位のコミューンが、33,500以上あり、

  その上に、96の県、
  更に、   22の地域圏に 区分される。

  今回は、
  地方行政の簡約化の為に、
  22の地域圏 を、13の地域圏 に、再編することになった。


2.22の地域圏 は、
  それぞれが歴史上、地形上の強力なアイデンティティーを持っているので、

  それを、
  政府主導で半分にすることは、そう簡単なことではなく、
  なんとか13に漕ぎ着けたのだが、不満はまだあちこちにくすぶっている。


3.浅野さんは、

  特に、
  アルザス、ロレーヌ、シャンパーニュ=アルデンヌ が、
  一つの地域圏になることに、注目されておられます。


  アルザスとロレーヌは、

  ドイツ(神聖ローマ帝国)に属していたとの歴史的な共通項があるので、
  頷けるが、

  それに、
  シャンパーニュ=アルデンヌ が一緒になるとは、・・・・

  と、記述されておられます。


  注;(神聖ローマ帝国)は、かんりにん が、補足しました。


4.次に、
  地域圏の首府が、どの都市になるかについて、注目されておられます。


  ① アルザス、ロレーヌ、シャンパーニュ=アルデンヌ

    アルザスのストラスブールは、
    欧州議会があって、ヨーロッパの首都と標榜しているけど、

    東端に位置する為に、
    西(ロレーヌ)のメッスに首府が奪われるかも知れない。


  ② 南フランスでは、トゥールーズとモンペリエが、
  ③ ノルマンディーでは、カーン、ルーアン、ル・アーヴルが、

    熾烈な争いが繰り広げられそうだ、と、記述されておられます。


5.更に、
  地域圏の名称がどうするのかも大問題である と、指摘されておられます。


6.最後に、
  地域圏の下部に位置する「県」が、
  現在所属している地域圏に所属するのが不満なら、

  来年(2015年)の地方選挙後に、別の地域圏に移籍も可能だそうで、


  ① ナント市が所属する ロワール=アトランティック県は、
    この機会に、ブルターニュに属したい意向であり、

  ② イール=ド=フランスの東北に位置する エーヌ県 は、

    ノールと合併されるはずの ピカルディから抜け出して、
    東隣の シャンパーニュ=アルデンヌ に 移りたい と、
    意向表明していて、

    あちこちで住民投票が準備されている と、記述されておられます。


以上、
浅野素女さんの貴重なニュースをご紹介しましたが、

私が印象に残ったのは、
1.アルザス、ロレーヌとシャンパーニュ=アルデンヌの合体
2.ナントのブルターニュへの復帰
3.ノルマンディーの首都争い   です。



1.アルザス、ロレーヌ と、シャンパーニュ=アルデンヌの合体


  アルザスは、

  中世において、神聖ローマ皇帝だったシュタウフェン朝の首府があった
  中世ドイツの心臓部とも言うべき地方なのです。

  フランスは、
  中世末期からちょっかいを出し始め、
  17世紀、30年戦争後に 軍事占領しました。

  それを、
  ビスマルクが、ドイツに取り返し、

  第一次大戦後、
  又、フランスが、取り戻したのです。

  ストラスブールに、
  プチフランスと称する地区がありますが、

  これは、
  ストラスブール、即ち、アルザスが、
  元々フランスではなかったから(こそ)、名付けられたのだろう
  と、思います。


  ロレーヌは、

  カロリング朝の故地であり、
  中世の始めから、フランスとドイツが、1,000年間争った地方ですが、

  中世では、
  神聖ローマ帝国が、領土権、支配権を維持してきました。


  フランスは、
  中世末期より介入を開始し、

  その後、
  本籍 神聖ローマ帝国、現住所 フランス という感じが続きましたが、

  正式に、フランスの領土となったのは、フランス革命の少し前です。


  この様に、
  アルザスとロレーヌは、

  神聖ローマ帝国の領土であったものを、
  フランスが占領した地方であり、

  シャンパーニュ=アルデンヌは、
  パリのあるイール=ド=フランスの東隣に位置する
  フランスにとって譜代とも言うべき地方なのです。


  ですから、
  この合体は、まさにフランスとドイツの合体であり、

  浅野さんが、
  本当に上手くゆくのかしら と、感じられのに、全く同感します。



  フランス と ドイツ(神聖ローマ帝国) との合体の観点からは、

  ソーヌ川両岸の ブルゴーニュ と フランシュ・コンテ
  リヨンと旧サヴォア領

  の合体も、興味があり、
  今後の推移を見ていきたいと思っています。

  また、
  リヨンは、フランス中央部のオーヴェルニュとも一緒になりますが、
  これも、今後の私の注目点の一つです。  



2.ナントのブルターニュへの復帰


  ナントは、
  中世の始めからブルターニュの首都でした。

  ブルターニュが、
  16世紀に、フランスに併合、植民地化され、

  ナントは、
  現在では、ブルターニュから切り離されていますが、

  ナントやブルターニュの皆さんのアイデンティティーは、

  500年間変わらず維持されてきたのだな、
  ここに至って、表面化したのだな、

  と、感慨深いものを感じます。


  数年前、
  ブルターニュを旅行したときに、

  ブルターニュの鉄道網は、
  パリ→レンヌ→ブルターニュ各地 と、張り巡らされていて、

  レンヌ と ナント、
  ブルターニュ南部の主要都市 ヴァンヌ と ナントの間は、

  支線扱いで、非常に使用の便が悪いと実感しました。


  ナントから、ヴァンヌやカンペールへの鉄道が、
  また、ナントとレンヌを結ぶ鉄道が、
  幹線となるのが自然だろう と、思います。

  この様に、
  本来、幹線になるべきものが、支線扱いにされているのは、

  フランス政府が、
  ナントを、ブルターニュから切り離すためにしたことなのでしょう。


  フランス革命の時に、
  ブルターニュが反乱した と、歴史書に記述されていますが、

  普通の日本人だったら、
  ブルターニュの外のナントでの反乱が、何故ブルターニュの反乱なのか?
  何故、ナントのロワール川に、反乱者の死体が浮かんだのか?
  と、訝しく感じられると思います。

  この様な疑問が生じるのも、
  フランス政府 の ナントとブルターニュを切り離そうとした政策 が、
  もたらしたものなのです。


3.ノルマンディーの首都争い

  浅野さんが、
  カーンも、ノルマンディの首府を競っている と、書かれておられますが、

  「カーンは、初耳だ」 と、感じられる方も、多いのではないでしょうか。


  私が、カーンを知ったのは、

  子供の時、
  第2次大戦の時の連合軍のノルマンディ上陸作戦を描いた
  「史上最大の作戦」という映画を見たときに、カーンが出て来て、

  「そんな町があるのだな」と、印象に残ったからです。


  カーンは、
  1066年イングランドを征服した
  ノルマンディー公ウィリアム征服公の本拠地であり、
  ノルマンディーの古都なのです。


  そのカーンが、
  ルーアンとノルマンディーの首都を競うということは、

  単なるノルマンディーというコップの中のヘゲモニー争いかも知れませんが、

  私には、
  中世の始めから連綿とつながった
  ノルマンディーの人々のアイデンティティーが、

  ここに来て表面化したのでは? と、感じられます。



以上、
浅野さんのニュースで感じたことをお話しさせていただきましたが、

このニュースからも、

国民国家は、人工物で、
「たが」が外れると、ばらばらになってしまう可能性を秘めたものだな
ということを、改めて、確認させられたな と、感じられます。

また、
日本でも同様ですが、

歴史により育まれた地域のアイデンティティは、
普段は、奥深く沈潜していて 表面に現れず、気がつきにくいものだけれども、

何かの拍子に必要が生じると 表に出て来て、
政治や経済をも動かす 強力な力を秘めているな とも、痛感しています。


前にも書きましたが、
今後のEUの推移を見るときに、

加盟各国とEUとの関係に付け加えて、
各国の中の地域が、どのようにEUと結びつきを持とうとしているのか
についても、

歴史を動かす原動力の一つのファクターとして、
注目していかねばならないと思います。

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2014年12月 6日 (土)

アンヌ=マリ・ティエス著「国民アイデンティティの創造」

国民国家は、人工的な構造物であり、
国家が国民と定義した人が、その国の国民となる
と、考えてきましたので、

その国民国家が、
どのように形成されたのかを論じた著作だと思い
読んでみました。

本書は、
大西洋からロシアまでの全ヨーロッパを対象に、
国民国家のイデオロギーの形成史、

あけすけに言うと、
どのように歴史が 改ざんされ、ねつ造されたかについて、
分かり易く記述されております。

ヨーロッパとは?  とか、
歴史とは?   について,
興味をお持ちの方には、最適な著作だとお勧めします。


ここでは、
本書の簡単なご紹介と、若干の感想 を、
お話しさせて頂きます。



1.本書の概略のご紹介

  国民国家のアイデンティティを
  作りだそうという動き は、

  18世紀から活動が始まり、
  19世紀に最盛期を迎えた と、

  著者は、記述されておられます。

  即ち、
  国民国家、及び
  国民国家に求心力をもたらした
  国民国家のアイデンティティ は、

  歴史的に自然発生したものではなく、
  人工的に創り出されたものだ

  と、記述されておられます。


  要するに、

  人工物故に、
  放置すれば、分解してばらばらになる
  国民国家の「たが」をはめる為に

  国民国家のアイデンティティが作り出された
  ということであろうと思います。


  国民国家のアイデンティティは、

  最初、

  その国の建国神話みたいな話を
  探すことから始まりました。

  探してもない場合は、
  お話しを作りだし、ねつ造したそうです。


  不思議なことに、
  その後の歴史は語られずに、
  近代に飛んできて、

  アイデンティティを作り出すために、

  言語を始めとして、
  その国らしさを象徴するものを
  見つけ出したり、ねつ造したりして、

  国民に、周知徹底して
  求心力を作りだしたそうです。


  古い古い昔から、
  中世を飛び越して近世に飛んでくるのは、

  ギリシア・ローマから
  中世を飛び越して、近世を語るヨーロッパ人にとって、

  違和感なく受け入れられる説明なのでしょうが、

  ヨーロッパを遠くから眺めている人間にとっては、

  また、
  おかしなことを言っているなと感じられます。


  最初にお話ししたように、

  著者は、
  全ヨーロッパの地域において、

  それぞれどのようにアイデンティティが
  形成されてきたかを、

  地域毎に詳しく記述されておられますので、

  是非とも一度お読み頂ければ
  と、願っています。



  本書の最後に、

  国民国家は、
  アイデンティティを形成して、

  国民の国家への求心力を
  確固たるものにしているが、


  最近形成されたEUは、
  アイデンティティが形成されていないので、

  どのようなアイデンティティを作り上げていくか
  が、課題であろう との趣旨 を 記述されて、

  本書を 終えられておられます。




2.本書に対する若干の感想

  ① 国民国家のアイデンティティは、
    精々18世紀から ねつ造をされはじめたものだ
    と、おっしゃりながら、

    何故,著者が、
    そのねつ造を支持されておられるのか
    が、私には理解できませんが、

    フランス人である著者が、
    本書のような本 を 書かれた動機 を 推測しつつ、

    フランスの歴史を概観したら、
    私の疑問が自ずから解けたな
    と、感じています。


    フランスは、

    クローヴィス以来の歴史が、
    連綿と 現在まで続いている という点で、
 
    ヨーロッパ諸国の中で、
    一番古い歴史を誇っている国です。

    注 例えば、現在までの続く歴史が始まるのは、

       イングランドは、
       1066年以来であり、

       ドイツは、
       シャルルマーニュが征服して以来 です。
 


    そのフランスが、

    国民国家のアイデンティティを
    意識せざるを得ない のは、

    パリのフランス王朝が、
    現在のフランス各地方 を 侵略併合して
    支配してきた歴史 が あるからです。


    最初は、

    アンジュー家(プランタジネット朝)と争って、
    イングランドに追い出して、
    フランスの西半分を確保しようとしました。

    この争いは、
    百年戦争が終了するまで、数世紀継続しました。 


    次に、

    トゥールーズなどの南フランスを併合し、

    同時に、
    ルイ9世の弟シャルル・ダンジューが、
    プロヴァンス を 入手して フランスにもたらしました。


    その後、
    ローヌ川の東側の地域を
    神聖ローマ帝国から奪取し、

    中世末期には、
    ブルターニュを入手しています。


    また、
    フランドル伯の領土の南部分 を
    手に入れると共に、

    中世ではシュタウフェン朝の所在地だった
    アルザスを、
    30年戦争の後に軍事占領し、

    シャンパーニュの東側のロレーヌ地方を、
    18世紀後半に、最終的に入手しています。


    その他、
    スペイン国境のルションとか
    地中海のコルシカ島なども、

    自分の領土として入手しているのです。


    この様に、
    他人の領土を、どんどん占領して、
    支配 を 拡大するにつれ、

    占領された人々を、フランスに統合し、
    フランスに対する忠誠心を醸成する為に、

    アイデンティティの「たが」をはめることに、
    歴代フランス政府は、
    腐心したのだろうと思います。


    フランスにとって、

    占領した地域の
    フランスに対するアイデンティティ を、

    確固たるものにすることは、
    国の統合の為に 不可欠なことであり、

    それ故に,

    フランス以外のヨーロッパ諸国が、
    どのようにアイデンティティを 形成してきたかを、
    調べることは、

    フランス人にとって
    有意義な研究対象だったのでしょう。


    ですから、

    フランスへのアイデンティティ を
    フランス国民に形成させる為に働く との意識が、
    フランスの歴史家の念頭から 離れず、

    彼らの国家的使命の一つに
    なっているのだろう と、感じられます。


    本書のティエスさんも、
    その様な潜在意識からから、
    本書を 執筆しようとされたのではな いだろうか?

    と、推測しています。


    本書を読んで、

    今まで読んだ
    ガクソット、ペルヌー、ブローデルのような
    フランス人歴史家が、

    ことフランスに関することとなると、

    全く公平性を欠いた、
    フランスにとって都合の良い主張をして、

    イングランドやドイツに対して、
    不当と 思われる非難 を されるのを、

    訝しく感じてきましたが、


    フランス人歴史家の最大の使命は、

    フランスを正当化することであり、
    フランス人に
    祖国へのアイデンティティ を 確固たるものにすること
    である と、考えると、

    納得できたような 気がしています。



  ② ティエスさんが、

    国民国家が確立しているアイデンティティが、
    EUにはない

    と、主張されておられることに、
    疑問を感じています。


    先ず、

    国民国家のアイデンティティは、
    ねつ造したものであり、ウソなのです。

    だとしたら、

    ウソがばれたら、
    アイデンティティは存続できず、
    瓦解するのではないでしょうか。


    私は、

    EUが深化していくにつれて、
    各地域が、直接EUにつながろうと動いて

    国民国家の「たが」が、
    徐々に外れて行くであろうと考え、

    ホームページに、その旨を記述してきました。

     「ブッシュ の イラク戦争( 「歴史における現在」 再論 )」
     http://chuuseishi.la.coocan.jp/030830.htm

 

    ベルギーが連邦化したとか、
    スコットランドが独立投票をする

    とのニュースに接すると、

    早くも、
    私の予想通りに歴史が動いき始めているな
    と、感じられます。


    国民国家は、

    歴史に基づかない 人工物である故に、

    国民国家の「たが」が、外れれば、
    胡散霧消する可能性 を 秘めているのです。


    ベルギーやスコットランド以外でも、

    例えば、

    チェコとスロヴァキア が、
    早々に分離したり、

    ユーゴスラビアが四散分裂したことが、
    その現れだと思います。


    フランスも、

    フランス革命の時に
    ブルターニュ が 反乱をしています。

    この様に、

    国民国家の本質は、
    「もろいもの」「壊れやすいもの」であることを
    認識すべきだと思います。


    これに反して、EUは、どうでしょうか。

    私には、
    EUそれ自体に
    アイデンティティ が、備わっている存在のように
    感じられます。

    以前、ホームページに書きましたように、

    ヨーロッパ史は、
    EUを舞台に、繰り広げた、地域の歴史なのです。

     「ヨーロッパ史の基礎視座」
     http://chuuseishi.la.coocan.jp/030516.htm


    従って、

    ヨーロッパ=EUは、ヨーロッパ人にとって、
    共通の「ふるさと」「故郷」ともいうべきもの であり、

    ヨーロッパ人は、本来的に
    自分たちの歴史を育んできた
    ヨーロッパ=EUへの帰属意識 を 持っていて、

    現在は、

    人工的な国民国家の「たが」がありますから、
    表面上現れていないだけでは
    と、感じられます。


    ですから、

    歴史が歩みが進んで、
    EUが、深化していくにつれて、

    ヨーロッパのに人々の意識が、
    国民国家から離れて、
    直接 EUに つながるようになって、

    現在水面下にあって隠れている
    EUに対するアイデンティティが、

    自ずから
    表面に現れてくるのだろう と 想像しています。


    即ち、

    EUへのアイデンティティは、
    歴史上育まれてきたものであり、

    国民国家のアイデンティティみたいに、

    ウソで塗り固められ、
    ねつ造されたものではありませんので、

    一旦確立すれば、
    強固なものになるだろう と、思われます。



  ③ 私は、
    歴史におけるウソは、

    歴史が進むうちに暴かれて、
    真実が自ずから歴史に現れてくる

    と、確信していました。


    本書を読んで、

    従来からの私の考えは、間違っていて、

    ウソが、
    そのまま 歴史の真実 になってしまうことが
    あり得るので、

    ウソが、ウソと 分かっている間に、
    そのウソを、暴いて 修正しておかなければ、

    将来に 大変な禍根 を 残すことになるな
    と、痛感しました。


    現在、日本は、

    中国から、南京大虐殺、
    韓国から、慰安婦問題 で、

    世界中にウソをばらまかれて、貶められ、
 
    日本が、
    世界から非難を浴びている状況ですが、

    中国や韓国のウソを、
    早いうちに 世界中に ウソだと認識させることが、

    日本にとって、
    何よりも大切なことだと思います。


    日本を貶める為に、
    中国や朝鮮とタイアップして活動してきた、
    左翼政党や朝日新聞などのマスコミは、

    まさに、
    中国や韓国 の 工作員であり、
    売国奴 というべき存在で、

    社会的に抹殺するぐらいの
    非難を浴びせる必要がある
    と、思いますが、

    それと同時に、

    現在の状況になるまで放置してきた
    外務省や自民党政府も、

    厳しく咎められるべきだろう
    と、思います。


    本書を読んで、
    ウソが、歴史になる と 痛感したのは、

    例えば、

    スコットランドのキルト は、
    (男性用のスカート)

    スコットランドの伝統だ
    と、なっていますが、

    実際は、

    18世紀に ランカシャの製鉄経営者が、

    ハイランドの森の木炭の製造する為に
    集めた労働者の普段着が、
    作業に適していなかった為に、

    軍の仕立屋に依頼して、
    作業に適した服 を 手軽に調えたのが

    キルト誕生の経緯だ とのことです。


    当時の スコットランドの人々 は、

    ズボンやもんぺのような、
    裁ち縫いした服 を 買うことが出来ず、

    長肩掛けを
    ベルトで止めただけのもの を
    着ていたそうです。

    キルトは、
    布を 体にマクだけで 出来ますので、

    安価で、手軽に支給できるから
    作られたのでしょう。

    出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」202㌻)


    また、

    タータンは、
    昔から 様々な意匠 があり、
    氏族の記章 と なってきた

    ということに、なっていますが、


    とある大手タータン製造業者が、

    氏族による違い という発想
    に、関心を持って、

    市場を 振興する為に うってつけ
    と、見て

    ハイランド協会 と 協定を結んで
    「基本図柄集」 を 刊行したのが 経緯 だ

    と、いうことです。

    出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」203㌻


    この様に、

    歴史上になかったものを、

    ねつ造により、
    歴史上に あったことにすること

    即ち、

    ウソが、
    歴史的事実になること が
    あり得るのです。


    先ほど述べたように、

    外務省や自民党政府の当局者は、
    猛省して、

    早急に、リカバリーの対応をされること を
    願っています。




3.「諸国民のヨーロッパ」の抜き書き


  本書は、最初に、

  「諸国民のヨーロッパ」と題して、
  本書の結論 を 要約して 論じています。


  ご参考までに、

  本書の総論部分である
  「諸国民のヨーロッパ」のパートを抜き書きして、

  著者のティエスさんの結論を ご紹介させて頂きます。



  < 「諸国民のヨーロッパ」 の抜き書き >


  近代の国民は、

  公式の歴史が語っているのとは異なるやり方で
  建設された。

  ナショナル・ヒストリー が、
  冒頭の何章かに描きだす、

  あの おぼろに霞んだ 英雄時代にまで
  国民の起源 が 遡り、

  そこで、
  太古の闇に包まれる と いうわけではない のである。


  本当の意味で
  国民 が、誕生するのは、

  ほんの一握りの人間が、
  「国民は存在する」 と、宣言し、

  それを証明しよう と、
  行動 を 起こした瞬間 なのである。


  その最初の例は、
  18世紀より前 ではない。

  近代的な、
  即ち、
  政治的な意味での国民は、

  それ以前には 存在しなかった。


  実際、

  この観念は、
  ある種のイデオロギー革命 に 根ざしている。


  国民とは、

  幾つもの絆で結ばれる、
  大きな共同体として
  構想されたもの であり、

  ・・・・ (以下略) 

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 2㌻



  アイデンティティが、形成されるプロセス とは、


  要するに、

  それぞれの国民の遺産 とは 何か
  を、決定し、

  その遺産の崇拝 を、
  広めることだった。

  ・・・・

  諸国民からなる
  新世界 を 出現させよう
  というのであれば、

  諸国民の遺産の目録 を
  作成するだけでは 足りない。


  むしろ、

  遺産 を 発明すること が、
  求められていたのである。


  しかし、
  一体どうやって?

  輝かしい過去 の 生きた証言 であり、
  国民の一体性 の 優れた表象
  と、成り得るようなもの と、いわれても、

  一体 何を、見つけ出せば良いのだろう?


  それは、

  並外れた 大きな課題 であり、

  長い時間をかけて、
  共同作業により 成し遂げられた
  のである。


  18世紀 の ヨーロッパ で、
  広大な実験的作業場 が 誕生し、

  ・・・・

  作業場の生産性 が、最も高まったのは、
  次なる 19世紀 である。

  国民の壁 を 越える活動であること が、
  その特徴だった。

  ・・・・  (以下略)

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 5㌻



  一つの祈願 と、
  一つの創意工夫 から、

  国民 は、誕生する。


  しかし、

  この虚構の物語 に
  集団 が、ついてこなければ、

  国民は、
  生き続けることは出来ない。


  挫折した試みは、数えきれぬほどある。


  成功は、

  改宗の勧誘 を、
  たゆまず やること で もたらされた。


  先ず、
  人々に、

  彼らが何物であるか
  を、教え、

  これに即して
  生きなければならない
  と、説得し、

  更には、

  集団の知恵 を
  彼ら自身 が 広めるように
  仕向けるのである。


  国民感情 が、
  自然に湧いてくる為には、

  それが、
  完全に 自分のものに
  なっていなければ ならない。

  それは、
  予め 教え込まれるべきもの なのだ。

  ・・・・  (以下略)

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 6㌻



  国民 が 形成されるプロセス は、
  経済的・社会的な近代性 と
  結びついている。


  国民は、

  生産様式の変革、
  市場の拡大、
  商業取引の活性化

  に伴って 形成されてゆく。


  新たな社会集団 が 登場するのと
  時を 同じくして、

  国民 は、形成されるのだ。

  ・・・・  (以下略)

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 7㌻~8㌻



  それは それとして、

  国民という 概念自体 は、

  一見したところ、
  あらゆる近代性への配慮 に
  ア・プリオリ に 逆行するようにも 思われる。


  何故なら、

  国民の原則 は、

  非時間的な共同体 を
  優位に 置くこと で 成り立っており、


  この共同体は、

  先祖の遺産を守る
  という一点から

  全ての正統性 を 引き出しているからだ。


  しかし、一方では、
  国民という概念 が、

  まさに、

  偶発性を免れた 絶対的な「保守主義」に
  根ざしているからこそ、

  経済・社会的な関係 の
  大変動にも耐えられる 傑出した政治的カテゴリー だ
  ということにも なるのである。


  全ては 変わりうる、

  但し、
  国民だけは、別なのだ。

  国民 を 持ち出せば、
  安心して 保証すること が 出来るだろう、

  世の中が、如何に激しく変化しようとも、
  途切れることなく 続くものがある
  ということを。


  西欧社会では、

  伝統の崇拝や、
  先祖の文化遺産 を
  顕揚する行為が、

  適切なバランス効果をもたらし、

  お陰で
  根底からの社会的転換 を 遂げながら、

  無秩序への転落 を
  避けること が 出来た。


  国民は、

  非宗教的な 同胞愛 を
  打ち建てるのであり、

  その結果、

  同一にして 不可分 の 遺贈品 を
  相続する者たちの間に、

  原理原則としての連帯感
  が、成立し、

  そこに、

  集団的な利害というものが
  存在すること が、明示される。


  国民とは、

  一つの理想にして、
  保護的な性格を持つ 審級であり、

  性別、収容、社会的地位など、
  他のアイデンティティ に 由来する連帯感 に
  優越する と、見なされる。


  国民への帰属
  という点のみから、

  個人 を 定義する
  原理主義的なナショナリズムの場合、

  他の根拠の基づく
  グループ、党派、組合などは、

  非正統的だ
  と、宣告することがある。


  こうした集団 は、

  非国民だ
  と、攻撃し、

  その責任者達 を
  告発して、

  彼らは、

  国民共同体 の 外部の人間 だ、

  それこそ、
  共同体 を 危険にさらしかねない

  と、批判するのである。


  しかし、

  こうした排他的なナショナリズム
  は、別として、

  一般的に言えば、
  政治や イデオロギーに基づく人間集団は、

  国民アイデンティティ と
  他のアイデンティティ決定要因 との間に、

  寧ろ
  複雑な相関関係 を 紡ぎ出すものである。


  共通の遺産が存在する
  という話 は、

  必要不可欠な神話
  のようなものであり、

  これに
  疑問 が、突きつけられることは
  滅多にない。


  政治的な選択や、
  時代によって変わるのは、

  寧ろ
  遺産の構成が、いかなるものか
  という問題だ。

  ・・・・  (以下略)

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 8㌻~9㌻



  今日の国民国家は、

  政治的に 成熟した と、見なされており、

  一定の基準に照らして
  市民権への権利 を 定義している が、

  ・・・・・

  フランスのように 移民の多い国 では、

  長きにわたり、
  国民的な遺産 を
  しっかり認識しているかどうかを、

  前提条件とせずに、
  帰化 を 認めてきた。


  つまり、

  新しい国籍 を 取得した者たち、

  少なくとも、
  彼らの 子供達 は、

  「自然に」
  そうした認識 を 得るもの
  と、見なされてきた。


  今日の議論においては、

  「統合」という概念が、
  クローズアップされているのだが、

  そこでは、

  ある本質的な疑問 が
  否応なく 浮上する。


  ある国の国土で 生活する外国人 は、

  正確なところ、
  一体 何に向けて
  自分 を 統合しなければならないか、

  そして、

  統合 を 目指す 意思と能力 が
  あるということ を 示そうとする者 は、

  どんな具体的証拠 が
  求められるのか?


  おわかりのように、
  問われているのは、

  移民達 が、
  国の基本法 に 従う というだけのこと
  ではない。

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 11㌻



  今日、ヨーロッパ では、

  国民アイデンティティ と その保全
  を めぐる問い が、
  噴出しているが、


  おそらく
  その原因は、

  外国から入ってきた
  労働力の存在 では なくて、

  一つの現実認識
  にある。


  新しい形の経済活動 には、

  国民国家より広い集合体 を
  構築することが 必要なのだ。


  国民 を 越える枠組みである
  欧州連合 は、


  確かに、

  法律、経済、財政、警察、貨幣に係わる
  公共圏となってゆくのだが、


  これは、

  アイデンティティに係わる
  公共圏ではない。


  EUに 欠けているのは、
  象徴的な遺産 であり、

  これがあってこそ、

  国民は、
  集団的な利害や友愛や保護を、

  個人に 提供することが できたのである。


  ある種の逃避場所 として、

  国民的アイデンティティ に
  引き籠もろうとする気持ち は、


  要するに、
  分からないではない。

  ユーロから
  理想が生まれるはずはない のだから。


  それにしても、

  ヨーロッパの父 と呼ばれる者たちが、
  制度は創ったものの、

  真のヨーロッパを建設することは、
  忘れてしまったのだとしたら?

  出所 ティエス「国民アイデンティティの創造」 11㌻

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2013年8月10日 (土)

キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの

トロクメ教授の「キリスト教の揺籃期」を読了して、
ひとまずキリスト教初期の本を切り上げ、
イタリア・ルネサンス 特に、マキャヴェッリの本を読もうと思い、

手始めに
佐々木毅教授の「マキアヴェッリと「君主論」」(講談社学術文庫)を読み始めました。

この本は、
マキャヴェッリの伝記と君主論を内容としているので、
塩野さんの本以来ご無沙汰している人間の入門編として
丁度良いのではと思ったのです。


その序文に、
マキアヴェッリは、フランス王政と異なるので、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」(岩波新書)を参照して欲しい、
と、書かれておられたので、気になってこちらを再読してみました。

この本を再読してみたら、以前読んだときと異なり、
当時の人々の前提としたキリスト教について、ちくりちくりと、
大変な痛みを感じました。

何故、こんなに痛みを感じるのだろう と、考えたらと、
ヨーロッパ人の根底にあるキリスト教によってもたらされた
通奏低音とも言うべきヨーロッパ人の態度に原因があるのでは、
という気がしてきました。

今回は、
この辺についてお話しさせていただきたいと思います。


この機会に、
トロクメ教授、加藤教授、田川教授の本をご紹介くださった、
todoさんに心からの感謝を申し上げます。

ご厚意に反するような文章を書き並べたことを、お詫びすると共に、
数々のご教示に対して厚く御礼申し上げます。

ヨーロッパ史の本を読む限り キリスト教と密接な関係が続きますので、
機会ある毎に、
キリスト教を考え、初期キリスト教の時代にも戻ってくることになる
と、思いますので、

これからも、よろしくご指導、ご鞭撻くださるようお願い申し上げます。


    **********


秦先生の旧約聖書のお話から読み始めてから約2年弱の間、
旧約聖書と初期キリスト教関連の本を読んできて、感じることが、2つあります。

一つには、
意外にも、キリスト教の神は、
不確かであり、確たるものではないな、ということです。

もう一つは、
キリスト教は、
一つの価値、自分の価値観しか認めず、
他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
ということです。


1.キリスト教の神が確たるものでない、という点について


キリスト教は、
罪を悔い改めよ、神に従え等、人間に対して、色々要求しています。

しかし、
神は、一体どのような存在なのか、と考えたときに、
具体的な絵姿を思い浮かべることが出来ません。

私は、今までブログで、
旧教の神と新約聖書の神(イエス)という言い方をしてきました。

しかし、
新約聖書の4つの福音書というのは、

初期キリスト教の各派閥が、
自分たちの都合の良いようにイエスの伝記を記述したもの
(これを、護教的記述というそうです)だそうですので、

新約聖書の神も、
少なくとも派閥の数だけ、

更に、
その後宗派分裂していますので、
大変な数の神が、宗派毎に存在することになります。

(注)4つの福音書とは、

  ① ヘレニストが作った マルコ福音書

  ② 主流派が作った マタイ福音書
    → 主流派の特権として、著作順を無視して、福音書の最初に掲載しています

  ③ パウロ派が作った ルカ福音書

  ④ ヨハネ派が作った ヨハネ福音書
    → ヨハネは、12使徒の一人で、ゼベタイの子です

ですから、
「キリスト教は、一神教の仮面をした多神教ですね」
と、言いたくなるのですが、

キリスト教徒の方から「又か」と、お叱りを受けますので、

ここでは、
「キリスト教の神は、幾つもの顔を持っておられる」
と、定義しておきます。


幾つもの顔を持つ神の好都合な点は、
論者の都合の良いように、神を使えることです。

ですから、
キリスト教徒は、同じ神を信じているという建前の下に、
それぞれの(異なる)神を信じているのだろう、

言い換えると、
神について同床異夢なのだろう
と、私には思われます。


以前、
新約聖書の神に基づくカステリヨンと、
旧約聖書の神に基づくカルヴァンの対立をご紹介しましたが、

ここでは、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」で記述されている中から、
神をいかようにも使える例を、ご紹介させていただきます。


① カルヴァンは、
  次のように、臣民は、王に対して服従せねばならない と、主張した。

  世俗権力は、
  何よりも 教会、真の宗教 神の栄光 に その奉仕が向けられなければならない。

  世俗権力は、
  神に由来し、ある意味で神の代理人である。

  支配者(王)は、神がその地位を与えたのであり、
  臣民は、支配者を 神の使者として尊敬せねばならない。

  支配者の義務を怠るのみならず、
  人間としての義務を踏みにじる悪しき支配者に対しても、従わねばならない。

  何故なら、
  (神より)悪しき支配者を与えられたことは、

  臣民に対する神の裁きの表れであり、
  悪しき支配者も又、神の摂理の基づいてその地位に就いたからである。

  従って、
  「正しい支配者に対してでなければ、服従するべきではない」との考えは、
  反逆的思想として断罪される。

  神の樹てた支配者を打倒することが出来るのは、神のみである。

  カルヴァンが、積極的服従を拒否すべしとするケースは、
  神に反することを命ずる命令に対してであるが、

  この場合も、
  積極的な抵抗行為を命ずるものではなく、
  神に祈り、耐えること、精々 逃れること としてしか現れない。

  この例外的ケースにおいても、
  臣民が、神の栄光を押し立てて反抗することを 認めていなかった。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」123㌻)

② スコットランドの宗教改革指導者 ジョン・ノックスは、
  カルヴァンの説に反対して、次の様に主張しています。

  王は、その地位を神に与えられたことは、その通りだが、
  貴族も、王と同様に、その地位を神に与えられた神の代理人である。

  従って、
  もし、王が真の宗教の敵となるならば、

  神の名誉と栄光とを妨げる王の所業を矯正、抑圧することが、
  神の代理人たる貴族の義務である。

  佐々木教授は、

  ノックスは、
  貴族と同じ義務を、他の信者一般にまで広げて、
  偶像崇拝を行う者は、実力を用いて制裁されるべきであり、

  その人間が、いかなる地位にあるかは、
  神の栄光の回復のためには考慮に値しない。

  偶像崇拝に加担する王に反抗するのは、
  神の民としての当然んの義務である。

  自らが、偶像崇拝に加担していないと言うだけでは、十分でない。
  支配者その他の冒涜的行為を黙認することは、神の制裁対象となる。

  従って、
  反抗することは、権利ではなく、義務であると、

  他人の行為を黙過する形での神に対する不服従をも批判し、
  全プロテスタントの一斉蜂起を呼びかけた、

  と、記述されておられます。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」135㌻)


この様な違いが生じるのは、
カルヴァンとノックスの立場の違いから生じた
神にこと寄せ、宗教的装いで化粧を施した
個人的な利害によるものでした。

あけすけに言うと、
個人的なエゴを、宗教的表現で正当化しようとしたものです。

カルヴァンは、
ジュネーヴの王、支配者であり、

人民に反抗されたら困る体制側の人間であり、
人民を抑制する立場の人だったのです。

他方、ノックスは、
カトリックのスコットランド女王メアリーに対抗する
宗教指導者、宗教革命の指導者、

即ち
反乱側の人間でした。


キリスト教の神は、

この様に、
論者の都合や立場によって、いかようにでも利用でき、
自分のエゴを正当化するための錦の御旗にすることが出来る、
有り難くも、便利な存在なのです。

この神様が、
ヨーロッパ人のマインドをコントロールしていたということは、

客観的な神の教えではなく、
その時々の宗教指導者の意図するところに従って、
ヨーロッパ人は、導かれていたのです。


以前、神学は、
不確かな神を出発点にしているので、
事実に基づく他の学問と似て非なるものである、
と、お話ししたことがあります。

そこで申し上げたかったのは、
A氏は、A氏が論じる神をスタートとして、論理を組み立てるので、
別のB氏が、B氏の考える神をスタートとして、組み立てた論理と議論しても、

建設的で、ロジカルが議論が不可能であり、
議論は、決裂に終わるだろうということです。

スタートが異なると、別の理論体系ができあがる例として、
高校時代にお話として聞いた、幾何学の話を思い浮かべます。

中学、高校で学んだ幾何学は、ユークリッド幾何学でした。

ところが、
ユークリッド幾何学のスタートである「平行線の公理」を否定したら、
非ユークリッド幾何学という別の幾何学の大系が作り上げられた、
とのことでした。

スタートの前提が異なると、
同じ幾何学でも、全く世界が異なる体系が出来ることの不思議さを、
その時感じましたが、

文科系でしたので、非ユークリッド幾何学とはどのようなものかを、
それ以上学ぶことは出来ませんでした。

神学において、
議論を開始する際の神が、人によって異なるということは、

そこから積み上げられる論理と、
その結果である各人の神学の大系が、
質的に異なることです。

その前提の違いと、
そこから積み上げられた論理過程を、
お互いに分析して、明らかにしてから、議論をせずに、

お互いの議論の積み重ねた結果である結論を言い合って、
すれ違いの議論をしても、決裂するしかないことは、

ルター派とカルヴァン派が、
合意できなかったことでも明かです。

神学者には、
人類史上最高の叡智の持ち主が何人もおられるのに、

私みたいな鈍才が気がつくことを、
何故、無視して、2000年という時間を無駄にしてこられたのだろうか、
と、訝しく感じています。

多分、
人間はエゴの塊であることが、その原因だろうと思いますが、

次にお話する、
一つの価値、自分の価値観しか認めない ということも、
大きな要因だろうと感じられます。



2.キリスト教は、
  一つの価値、自分の価値観しか認めず、
  他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
  ということ


世の中には、色々な価値や価値観が並存していますが、

ヨーロッパ人は、
自分が選んだ価値しか、価値を認めず、
他の価値は、抹殺できれば抹殺してもかまわないと考えているな
と、長年感じてきました。

大学時代、
並存する価値を、全て包含する価値 というものは、あり得るのだろうか?
と、考え、彷徨ったことが、懐かしく思い出されます。

日本人は、
八百万の神が当たり前と考える民族であり、

一つの価値しか認めないとの考え方は、
普通の日本人の方には、

頭で字面は理解できても、
身にしみて理解しづらい感覚だろうと思います。

キリスト教は、先ほど申し上げたように、
色々な顔(性格)を持った神を一つの神として、
その神を信じているのですから、

どの顔の神を信じているのかは人によって異なるのに、
自分が信ずる(思い込んだ)顔の神しか、神ではないと強弁して、
自分以外の神を信じる人を、平気で殺害してきているのです。

この様な状況が、
キリスト教の、常に異端を作り出す歴史 を 作りだしたのではないだろうか
と、感じています。


キリスト教は、
主流派と異なる考え方の人が出てくると、
異端とレッテルを貼って、
キリスト教から追い出し、場合によっては殺してしまう歴史でした。

このことは、
イエス処刑後間もなくから始まっています。

最初に、
ヘレニスト(ギリシア語を話すキリスト教徒)が、異端として追放されました。

次に、
パウロが、アンティオキアで異端として追放されています。

2世紀に入ると、
グノーシス派やマルキオンといった人々が、異端として槍玉にあがりました。

トロクメ教授は、

2世紀に入ると キリスト教は、
ローマ社会に溶け込もうとする主流派に、
キリスト教の独自性を守ろうとした反順応派が対抗したとして、
グノーシス派やマルキオンを紹介されておられますが、

その後のキリスト教の歴史をみると、
キリスト教主流派は、グノーシス派などに対して、
悪魔の手先で、人間ではないような非難を浴びせて、
彼らの存在を抹殺しています。

その後、
三位一体論争では、アリウス派が異端とされ、
今に至るまで、カトリックから、語るのも汚らわしい との扱い を されています。

カトリックにとって最大のライバルだったから、
未だに執念深く復讐しているのですね、
と、申し上げたくなるくらいです。

アウグスティヌスは、
カトリックの天下を維持するために、
ローマ帝国の迫害の際に、キリスト教を守り通したドナティストを、
ローマ軍の力を利用して積極的に殺しました。

この様に、キリスト教は、
神の自分の信じた顔だけが、神であると主張して、
それ以外の神の顔を否定し、抹殺してきているのです。

このことが、
自分の価値以外の価値を認めない、とのヨーロッパ人を
作りだしてきたのでしょう。


16世紀後半、フランスでは、
カトリックとユグノー(カルヴァン派)との間で、
悲惨な宗教戦争が繰り広げられました。

その根本原因は、人間のエゴであろうと思いますが、
表面上は、
それぞれが信ずる神の顔が異なっていたからです。

先ほど申し上げた、
議論の前提が異なるのに、その前提の違いをお互いよく話し合って整理せずに、

前提から積み上げられた論理の結論について、
お互い罵倒しあったものだから、命の奪い合いとなったのです。

このとき、
「寛容」が、良く主張されました。

例えば、
渡辺一夫先生は、

1533~1534年頃 突然回心する前のカルヴァンは、
旧教会(カトリック)側からのユマニストや新教徒弾圧に、
「寛容」を説く若いユマニストだった。

コップ事件(1533年11月)後、
急速にカトリックから離れ始めて、激突するようになり、

己の理想の為には、
不寛容と罵られてもこれに甘んじ、
己の理想の信仰を阻害する者は、誰であろうと「異端者」として告発する
冷厳な宗教改革者としての道を、徐々に辿り始めた、

と、書かれておられます。

 (渡辺一夫「渡辺一夫著作集5 ルネサンス雑考 下巻」352㌻)

あのカルヴァンも、
20代前半は、寛容を説くユマニストだったということは、
その後のカルヴァンを知る者にとって驚きですが、

この「寛容」という意味は、どういうことなのでしょうか。

私は、「寛容」ということは、
一つの価値しか認めない権力者やカトリックに対して、

他の価値観を持つ臣下やユグノー、ユマニストが、
お目こぼし下さいと依頼することだと思います。

カトリックは、
カトリックの価値以外は認めないし、
この世から抹殺することも厭わない故に、
ユグノーを弾圧したのですが、

それに対して、
並列する価値は、それぞれ存在する権利がある と、

正々堂々 正面から主張するのではなく、
卑屈にお慈悲を願っているのです。

依頼されたカトリックも、
本来なら赦さないのだが、今回は特別の慈悲を持って見逃してやる、
と、言って、赦したのです。

(注)「寛容」を願った人間が、
   卑屈な人間であった ということではありません。

   依頼される権力者やカトリックが、偏狭にこり固まっている故に、
   争いを避けるためには、お慈悲を願うほか選択肢がなかったのです。


「寛容」は、
根本的な解決ではなく、
情緒的な時間稼ぎでしかなかったので、

いつかその決着をつける時を迎えるざるを得なかったのであり、
それが
1572年8月の聖バルテルミーの大虐殺でした。
(バルトロメオ、バーソロミュー)

複数の価値の並存を認める社会では、

権力者だけでなく、全ての人が、
他の人から「寛容」を求められることは、先ずあり得ないはずです。

何故なら、
お互いに、自分以外の価値の存在を容認しているからです。

「寛容」が求められたということは、
自分の価値以外の価値の存在を、
認めない、赦さない、出来れば そういう人間を殺してしまいたい、
という社会だったからだ、というべきだろうと思います。


16世紀後半のフランスで、
日本にはなかった国を二分する宗教戦争が生じたということは、

キリスト教が、
一つの価値、自分の価値観しか認めない宗教だった故の悲劇だろう
と、思います。

ヨーロッパの歴史を通観すると、
複数の価値の並存が理解されるようになったのは、
この半世紀ぐらいではないだろうか、との感じを持っています。

従って、
それ以前においては、
価値の並存を認め、幾つもの価値を比較衡量した人は、いないのでは、
との感を持っっています。

言い換えると、
どんな碩学と言われる学者も、
一つの価値、自分の価値観だけが 絶対の真理だ として、
それに基づいて論理を構築していたのだろうと、思われます。

ただ、
複数の価値の並存を理解していたのでは?と、気になるのは、
マックス・ウェーバーとマキャヴェッリであり、

今回、
マキャヴェッリを読んでみようと考えたのは、
大学時代に考えた価値の問題を、改めて考えてみたかったからです。


     **********


またまた、キリスト教の方を逆なでするような議論をして、
申し訳ございません。

いつも申し上げていることですが、
ヨーロッパ史におけるキリスト教の重要性から、

信者でもない人間が、
歴史的存在としてのキリスト教について、考えていると、
私の場合、この様な議論になってしまったのです。

もし、中世だったら、
異端審問所に呼び出されて、焚刑に処されているでしょう。

今でも、
「出来ればそうしたい」と、お考えになっておられる方がおられるだろう
と、想像しています。


しかし、だからこそ、
キリスト教徒の方に、信仰の面からではなく、
歴史という視座から、歴史的存在であるキリスト教についても、
考えていただきたいのです。

余計なお世話だとは思いますが、

これは、
キリスト教徒の方が信じておられる神により、
自分がどのようなところに連れて行かれるか、を考えるためにも
必要ではないだろうかと考えています。

ヨーロッパ人に、悲惨(地獄)をもたらしたキリスト教の歴史を考えるとき、
帰依した尊師に、地獄まで道連れにされたオーム真理教の信者の悲劇は、
私には、現在のキリスト教徒の方にとっても他人事ではないのでは、
と、思えるのです。


余計な文章の 余計なお世話を最後に、
この拙文を終わらせていただきます。

最後までお読みいただき、有難うございました。

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2012年4月 8日 (日)

パリのスリ

フランスの日本大使館のメールマガジンを登録して、読まして頂いているのですが、
昨日(2012年4月7日付)のメールマガジンで、次の記事がありました。

「2012年 3月の邦人犯罪被害事例について」
(在フランス日本国大使館領事部)

 3月中に
 大使館領事部に届けられた 邦人の犯罪被害の件数は、75件で、

 今年(2012年)に入ってからの合計は、
 3月31日現在 181件となっています。

 3月も、先月同様20歳代の方の犯罪被害が目立ちます。
 季節柄、学生の旅行者が多いことが原因と考えられます。

 相変わらず、メトロ(地下鉄)内での被害が目立つ他、
 今月は、ルーブル美術館内での被害も目立ちました。

 混雑した場所では、
 荷物をしっかり持ち,周囲の状況に注意してください。 



去年の9月に、パリに行った際、
私も、メトロ(地下鉄)の車内で、財布をすられるところでしたので、
ご参考までに その経験を ご紹介させて頂きます。

それは、
家内と 都心から東駅の前のホテルに戻る途中、
レピュブリック駅で5番の地下鉄に乗り換えたときでした。

ホームを歩いていると、後ろから通り過ぎた女性が、
「私の数㍍前歩いている男性が、私のショルダーバックを掏ろうとしているよ」
と、注意してくれているよと、家内が言うのです。

「パリにも親切の人がいるものだね」と、
話しながら、到着した地下鉄に乗車すると、

先ほどとは別の 若い女の子2人が、
私と家内の間に割り込んできて、私の前に行かせないのです。

家内は、
足が悪いので、私が杖代わりで歩いていますので、
何とか家内の横に行って 家内を支えようとしたのですが、

彼女らが体ごと妨害するので、
しかたなしに、一度後ろに下がりました。

彼女ら2人と離れたとき、あっと気がつくと、
胴巻きのバックの中に入れていた財布が、半分外に出ているのです。

彼女ら2人は、家内と私の間に割り込んで、
胴巻きのバックの上にコートをかけて、みえなくしていておいて、
押しくら饅頭をしている一瞬の間に、私の財布を盗もうとしたのです。

日本でしたら、
彼女らを捕まえて、次の駅で駅員か警官を呼ぶのですが、

言葉ができませんし、
捕まえる際に、「暴力を揮われた」と言われてもやっかいですので、
放置したのですが、

彼女らは、次の駅で下車して 慌てて逃げていきました。

多分、
レピュブリック駅で「私のショルダーバックを注意しろ」と言った女性も、
2人ずれのスリの仲間で、

ホームでの注意は、
胴巻きのバックへの注意をおろそかにさせるための事前工作だったのでしょう。


ホテルに戻って、
知人の峰子さんとお会いした際に、この話をしたところ、

パリに長年住んでいて、
スリについての知識も十分お持ちの峰子さんご夫妻が、

お二人ともに 「何度も スリに遭って、被害を受けている」
と、お聞きして、びっくりしました。


スリと言っても、
技巧的にバックやポケットから財布を掏るだけではなく、

例えば、
都心のリヴォリ通りの歩道を歩いていた峰子さんを、
後ろからオートバイの2人乗りで襲って、
ショルダーバックを引きちぎるように奪って行かれたこともあったそうです。

そのとき、峰子さんは、
「これ以上バッグを渡そうとしなければ、オートバイで引きずり倒すぞ」
と、合図されたので、命の危険を感じて バッグを手放したそうです。


30年以上前に、
家内の従姉妹の 外交官だったご主人 が、
パリの地下鉄で、パスポートを盗まれたこともありました。

パリに長年住んでおられる 峰子さんご夫妻 や、
家内の従姉妹のご主人 のような 外交官 という、
パリ滞在に関するプロと言うべき方々が、スリに遭ったことを考えると、

どうやら、「注意を怠りなくしておけば、パリで被害に遭うことを防げる」
というような あまいものではないような気がしています。


勿論、
こちら側の注意が散漫であれば、被害に遭う確率が高まるでしょうから、
注意を怠ってはいけないな と、思いますが、

パリの地下鉄や観光地に行けば、
ある確率で被害に遭うことを、覚悟しておくべきだろうと思います。


ですから、
パリに行く前に、スリに遭遇したときに、どうするのかについて、
事前に頭の体操をして対処方法を考えておくべきだろうと思います。

その意味で、
パリ旅行をご計画されておられる方は、

今回の在フランス日本大使館がご紹介されたスリ被害の具体例 を、
一度ご覧頂くことをおすすめさせて頂きます。

なお、外務省におかれましては、
メールマガジンを転載することをご了承くださるようお願い申し上げます。

(注) 直近の被害状況(2015年6月)については、
    追記をご覧下さい


< 2012年 3月 パリでのスリ被害 の 具体例 >
  出所;在フランス日本大使館 メールマガジン104号

  ① 3月1日
    オルセー美術館のチケット売り場に並んでいた際に、
    いつの間にかバッグに入れていた財布を盗難に遭った。
    (スリ:女性旅行者)

  ② 3月3日
    地下鉄4号線にて シテ駅からサンミッシェル駅へ移動中
    友人3人でポールにつかまり向かい合って立っていたところ、
    子供を含む家族が無理やり割り込み、その際に財布をすられた。
    (集団スリ:女性旅行者)

    これは、私が経験したのと同じような例だと思います。

  ③ 3月5日
    ルーブル美術館を見学中
    いつの間にかショルダーバッグのチャックを開けられ
    旅券を含む所持品の盗難被害に遭った。
    (スリ:男性旅行者)

    今月は、
    ルーブル美術館内での同様の被害報告が「7件」あり。

  ④ 3月9日
    宿泊先ホテルの50メートル程手前で,
    背後から首を絞められカバンを強奪された
    (首絞め強盗:男性旅行者)

  ⑤ 3月13日
    地下鉄パレ・ロワイヤル・ミュゼ・ド・ルーブル駅改札手前で、
    男性2人組が 友人との間に割り込んできたが、

    いつの間にかリュックサックのチャックを開けられ
    貴重品入れを盗まれた。
    (スリ:男女の旅行者)

    これも、私の経験と同じ種類の被害です。

  ⑥ 3月16日
    エッフェル塔の展望台で、3人組の男女に写真を撮ってくれと頼まれ
    カメラに集中していた際、

    自分の鞄への注意がおろそかになり
    その際に鞄の中から貴重品入れを盗まれた
    (話しかけスリ:男性旅行者)

  ⑦ 3月19日
    北駅のタクシー乗り場で、
    タクシーまで荷物を運んでくれた男にチップを請求され
    対応している間に、別の男にバッグの中から財布を盗まれた。
    (話しかけスリ:女性出張者)

  ⑧ 3月22日
    オペラ座近くのカフェで食事中
    椅子の背もたれに掛けていたバッグを置き引きされた。
    (置き引き:男性旅行者)

  ⑨ 3月25日
    混雑した地下鉄車内で
    いつの間にかバッグのチャックを開けられ
    貴重品入れの盗難被害に遭った。
    (スリ:男性旅行者)

  ⑩ 3月29日
    CDG空港からRERのB線に乗車しパリ市内に向かっていたところ
    途中の駅で停車中の電車に乗り込んできた男に
    ハンドバッグを強奪された。

    男は、
    ドアが閉まる直前に電車外に逃走した。
    (強盗:男性旅行者)


なお、
昨日久しぶりに銀座に行きましたが、
日本語以外の会話が多数聞こえてきてびっくりしました。

以前、
「成田空港では、もう 日本を離れて 外国にいるつもりで 荷物に注意するように」
とのアドヴァイスを聞いたことがありましたが、

日本の盛り場 でも、
パリみたいな外国にいるのと同じような注意が必要な時代になったのかな、
との感じがしています。 



追記(2012年7月24日)

今回のドイツ旅行中、ケルン駅でスリの被害にあるところでした。
ご関心のある方は、次のブログをご参照下さい。

    2012年7月ドイツ旅行・・・第1回 ドイツ鉄道とケルン駅の女スリ
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/1-cd7f.html 



追記(2015年7月25日)

パリの日本大使館より、
6月中のパリでの旅行者の被害についてのメールマガジンが
送られてきました。

夏休みにもなり、
パリ旅行を楽しみにされておられる方も多数おられると思いますので、

直近のパリでの被害状況を、ご参考までに転載さて頂きます。

外務省にはおかれましては、
転載のご承認をよろしくお願い申し上げます。



< 2015年6月の邦人犯罪被害事例について >
  (在フランス日本国大使館領事部)

  出所 ; 在フランス日本国大使館メールマガジン143号
       (2015年7月23日付 7月号)


6月中に、

大使館領事部に届けられた邦人の犯罪被害件数は、38件で、

今年に入ってからの合計 は、
6月30日現在,243件(月平均 約40件) となりました。


5月中に

大使館領事部に届けられた邦人の犯罪被害件数は、27件で,

今年に入ってからの合計は,
5月31日現在,205件(月平均 41件)となりました。


今月のコメント!

1.暑い日が続き、ついつい注意散漫になりがちですが、
  犯人は、そんなあなたを見逃しませんので、

  隙を見せないよう 注意してください。

2.今月 は、
  2011年8月に、本統計を取り始めて以来初めて,
  被害手口がスリと置き引きだけでした。

  スリと置き引きに注意することで,
  かなりの犯罪被害を防げるということになりますので、ご留意ください。


【2015年 6月 の 被害例】

  (注) 最後の6項目目の クレジット詐欺 に、特に ご注目ください。


1.モンマルトル に 所在するレストラン で、

  友人と食事中、
  椅子の下に置いた鞄を、いつの間にか置き引きされた。

  近くに、人が来た気配が全くなかったのに、
  盗まれていたとのこと

  (男性旅行者)


2.地下鉄  6番線 ビラケム駅 から エッフェル塔に向かう 路上 で、

  アンケート用紙を持って近寄ってきた
  少女の集団5~6名に囲まれた際、

  たすき掛けにしていたバッグのチャックを開けられ、
  財布 を 盗まれた。

  (男性旅行者)


3.地下鉄 13号線
  車内で居眠りをしている間に、

  足下に置いたバッグを置き引きされた。

  (男性旅行者)


4.パレ・ロワイヤルそばの洋服屋 で

  服のサイズを見るために一瞬鞄を置いた隙に,
  鞄を置き引きされた。

  (女性旅行者)


5.地下鉄 1番線 エトワール駅 から
  ポルト・マイヨ駅 に 向かう 混雑した地下鉄車内で、

  鞄の中から
  貴重品を入れたポシェットを盗まれた。

  (女性旅行者)


6.しばらく下火になっていましたが,

  最近、
  北駅などの国際電車が発着する大きな駅で、

  言葉巧みに言い寄られ、
  クレジットカードを不正利用される被害事例が、散見されますので、

  手口 を、下記に 案内します。


  (1) 英語を流暢に話す男性から
     (スポーツ選手を名乗ることもある)

    何からの理由により、
    自分が所持するクレジットカードが使用不能だが、

    切符券売機は、
    クレジットカードしか受け付けないので、

    切符を購入できずに大変困っている と、
    いかにも困った様子で 話しかけてきます。


  (2) そして、

    自分が、所持する現金 を 渡すので、

    代わりに、
    あなたのクレジットカードで切符を購入して欲しい

    と、持ちかけてきます。


  (3 )犯人に同情し,

    犯人の言うとおりに券売機を使用して
    切符を購入しようとすると、

    犯人は、
    被害者が、理解しないフランス語で 券売機を操作し、

    わざと、
    切符が出てこないような操作をします。


  (4)すると犯人は、
    これは、困った と、大げさに驚いた上で、

    自分の携帯電話や財布を、
    被害者に預け信用させた上で、

    そのクレジットカードが、なぜ使えないのか
    駅の担当者に聞いてくる と、言って、

    その場を素早く立ち去ります。


  (5)犯人は、

    券売機を 操作する際に 盗み見ていた暗証番号を用い、
    近くのATMで、多額の現金を引き出した上で、
    被害者のところに戻り、

    「やっぱり駄目だった。ありがとう」と、言って、
    素早く立ち去っていきます。


  (注) 私も、地下鉄の回数券を購入するために、
     クレジットカードを、何回も使用したことがあります。

     日本語案内がないので、英文案内で操作するのですが、
     いつも、切符を購入するまで、操作が分からず、苦労しています。

     ですから、
     クレジットカードが正常でも、操作方法が間違えて、
     購入できないことがありますので、

     この様な依頼をする外国人に出会ったら、
     言葉が分からないふりをして、お断りするのが
     正解だろうと思います。


     私は、
     英語も分かりませんから、大丈夫だと思いますが、

     意外に、手振りや雰囲気で、困っているとの意思は
     理解できるでしょうから、

     今回のご注意を心しておこうと思います。

     いずれにせよ、
     クレジットカード は、自分で操作すべきなのでしょう。



追記(2013年11月8日)

パリの日本大使館より、
10月中のパリでの旅行者の被害についてのメールマガジンが送られてきました。

パリでの被害状況は、
皆様が行かれる8月の状況を、定点観測として転載させて頂いていますが、

私が旅行者として用心せねばならないな と、
常々感じている典型的な被害パターンが、今月記載されていましたので、
定例外ではありますが、ご参考までに、ご紹介させて頂きます。

外務省にはおかれましては、
転載のご承認をよろしくお願い申し上げます。



< 在仏日本国大使館メールマガジン123号 >

○ 2013年10月の邦人犯罪被害事例について
  (在フランス日本国大使館領事部)


2013年 10月中に、
大使館領事部に届けられた 邦人の犯罪被害件数 は 64 件で,

今年に入ってからの 合計 は,
10月31日現在 606件 となりました。



< 今月のコメント >


1.「置き引き」及び「強盗」の割合が、比較的多い月でした。

  「置き引き」は、
  ホテル や レストラン,

  「強盗」は、
  空港からパリ市内へ向かう高速道路上で多く発生しています。

  「ホテル」や「レストラン」では、
  荷物を置いたまま席を離れたりしない。

  空港から 「タクシー」等に乗車する際は、
  荷物を目立つ場所に置かず、
  トランクに入れるなどの防犯対策が必要です。


2.スリ 及び 置き引きによる被害 が、
  被害件数全体 の 86% を 占めました。

  ちょっとした注意で防げる犯罪ですので、
  特に、混雑した場所では、注意を怠らないでください。



【2013年10月 の 被害例】


1.空港からパリ市内へ向かう高速道路上で、
  渋滞に巻き込まれたクシーが停車したところ、

  後ろから走ってきた 若い男3名 に、
  窓ガラスを割られ,座席の上に置いていたバッグを強奪された。
  (女性旅行者)

2.ルーブル美術館で、絵画を鑑賞中、
  人混みにまぎれ,ショルダーバッグの中から旅券を抜き取られた
  (男性出張者)

3.モンマルトル の カフェ,レ・ドゥ・ムーランで 食事中、
  足下に置いていたバッグを、いつの間にか置き引きされた
  (男性旅行者)

4.高速郊外鉄道線B線に乗車中、
  男が、コインを大量に落とし、
  自分の方にも転がってきたので拾うのを手伝ったが、

  その際に、
  自分の横に置いたバッグを他の男に持って行かれた。
  (男性旅行者)

5.ホテル・ウェストミンスター・オペラ の 朝食会場で、
  座席に 荷物を置いたまま 食事を取りに行き、
  戻ると、バッグが置き引きされていた。
  (女性旅行者)

6.宿泊先ホテル を 出たところの路上で,
  バイクに乗った2人組の男性の内 1人が、
  近づいて来てかばんをひったくり,バイクに乗って逃走した。
  (男性旅行者)

7.ホテル・ルレ・スパ・パリ・ロワシーのロビーで、
  いつの間にか かばんを置き引きされた。
  (女性旅行者)

8.地下鉄オペラ駅から ギャラリーラファイエット へ 向かう路上で、
  少女の3人組に、署名を求められまわりを囲まれた際に、
  リュックサックのチャックを開けられ、
  中に入れていたパスポートケースをすられた。
  (男性旅行者)

9.チュイルリー公園のベンチに座って休息していたところ、
  帽子が風で飛ばされたので、
  バッグをベンチに置いたまま 帽子を取りに行き、戻ると,
  その一瞬の隙に,かばんを置き引きされた。
  (男性旅行者)

10.モンパルナス駅周辺 を 歩いていたところ、
  同行者の背中に、
  マヨネーズのようなものをかけられたので対応していたところ、
  その隙に、かばんを 置き引きされた。
  (男性旅行者)




追記(2012年9月11日)

パリの日本大使館より、
8月中のパリでの旅行者の被害についてのメールマガジンが送られてきました。

以前ご紹介した被害より、大分悪質になっているなと感じられますので、
皆様の無事なご旅行を願って、ご参考までにご紹介させて頂きます。

外務省にはおかれましては、
転載のご承認をよろしくお願い申し上げます。


< 在仏日本国大使館メールマガジン109号 >
  (2012年9月10日)

○ 2012年8月の邦人犯罪被害事例について
  (在フランス日本国大使館領事部)

  8月中に、
  大使館領事部に届けられた邦人の犯罪被害の件数は 100件で、

  今年に入ってからの合計は、
  8月31日現在,528件となっており、

  被害事例は下記の通りです。


  8月は、オペラ地区での被害が急増しました。

  特に,
  少女などの集団に署名を求められたり、
  地図を広げて話しかけられた際に、バッグから貴重品を盗まれる

  という手口が横行しています。


  見ず知らずの人に話しかけられた場合は、

  相手が、子供や女性であっても油断せず、
  自分の荷物に注意を払いながら、速やかにその場を離れてください。


  【8月の被害例】

1.8月3日
  ホテルの客室で 就寝中、
  いつの間にか 人が室内に侵入し、バッグなどを持ち去られた
  (侵入盗:女性旅行者)

2.8月4日
  パリ市内 某最高級ホテル内レストランで食事中、
  椅子の背もたれに掛けていた鞄 を 置き引きされた
  (置き引き:男性旅行者)

3.8月4日
  パリ環状道路近くの ホテル前路上 で、
  後ろから来た男に バッグをひったくられた
  (ひったくり:男性旅行者)

4.8月12日
  凱旋門発 CDG空港行きの エアーフランスのリムジンバス に 乗車し
  空港までの道中 睡眠したところ,

  後ろに座っていた女に、隣の席に置いていたバッグの中から財布を盗まれた
  (置き引き:男性旅行者)

5.8月13日
  パレ・ロヤイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル駅で電車に乗車した際、

  数名の女性に同行者が話しかけられたので
  そちらに注意を向けていたところ、

  いつの間にか 自分のバッグの中から 財布を抜き取られた。
  (話しかけスリ:男性旅行者)

6.8月13日
  オペラ地区で ロワシーバスを 降りて歩いていたところ、

  子供数人に取り囲まれ、地図を見せられ なにやら話しかけられたが、
  振り払おうとすると腕を掴まれ、

  スーツケースを持っていたので 身動きが取れずに ジタバタしていると、
  首に掛けていたカバンを開けられ,財布を盗まれた。

  子供達は、全員 サッといなくなってしまった。
  (話しかけ・集団スリ:女性旅行者)

7.8月15日
  サンドニ大聖堂を見学後、地下鉄の駅まで戻る路上で、
  後ろから来た男に 鞄をひったくられた。
  (ひったくり:女性旅行者)

8.8月23日
  空港から市内へ向かう 高速郊外鉄道のB線 に 乗車中、
  途中駅で乗り込んできた男が 目の前で小銭をばらまき、

  注意をそらされている内に、別の男に鞄を持って行かれた。
  (コイン落としスリ:男性出張者)

9.8月27日
  地下鉄6号線の ダンフェール・ロシュロー駅 で
  高速郊外鉄道に乗り換えようと 移動していたところ、

  階段で、2人組の女性に 強引に荷物を持つのを手伝われた際に、
  リュックサックの中から 貴重品入れ を 盗まれた。
  (話しかけスリ:女性旅行者)

10.8月30日
  オペラ地区のカフェで飲食中、
  足下に置いた荷物が、いつの間にか持ち去られていた。
  (置き引き:女性旅行者)





追記(2013年9月9日)

パリの日本大使館より、
8月中のパリでの旅行者の被害についてのメールマガジンが送られてきました。

昨年と比べて、今年8月のパリがどうなっていたのか、
皆様の無事なご旅行を願って、ご参考までにご紹介させて頂きます。

外務省にはおかれましては、
転載のご承認をよろしくお願い申し上げます。


< 在仏日本国大使館メールマガジン121号 >
  (2013年9月7日)


○ 2013年8月の邦人犯罪被害事例について
  (在フランス日本国大使館領事部)


  8月中に、
  大使館領事部に届けられた 邦人の犯罪被害件数 は 62件で、

  今年に入ってからの合計は,
  8月31日現在 486件 と なりました。


  <今月のコメント!>

  昨年の8月に比べ
  大幅に被害件数が減少しました。
  (昨年8月 は、        100件
   1月~8月末 の 累計 は、 528件)

  これは、
  パリ警視庁 の 旅行者の安全対策への取り組み が 強化されたことが、
  功を奏したのかもしれません。

  とはいえ、依然として、
  日本人が被害者となる 犯罪被害 が、多く発生していますので、
  下記を参照し,安全対策に努めてください。

  パリ警視庁作成の安全ガイド
  (http://www.fr.emb-japan.go.jp/jp/anzen/pdf/guide_paris_2013_JAPONAIS.pdf

  フランスの安全対策基礎データ(日本国外務省作成)
 (http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=170

  フランス安全情報(在フランス日本大使館作成)
 (http://www.fr.emb-japan.go.jp/jp/anzen/index.html



  【8月の被害例】

1.パリの北駅 で、
  自動券売機を操作中の 数分の間 に、

  自分から 30センチほど離れたところに置いた
  キャリーバッグ を 置き引きされた。

  慣れない券売機の操作に、夢中だったとのこと。
  (男性出張者)

2.パリの北駅 で、
  公衆電話を使用していたところ、

  横に置いた荷物を、いつの間にか置き引きされた。
  (男性旅行者)

3.パリの地下鉄 6号線 モンパルナス駅 で、
  電車に乗り込む際、

  大勢の人が 乗車したため、
  後ろから押されるようなかたちで 車内に入った。

  乗車後に 確認すると、
  ショルダーバッグのチャックが開いており、

  旅券等の貴重品を盗まれていた。
  (女性旅行者)

4.ルーブル美術館で、
  絵画を鑑賞中、

  後ろから押されたような感じがしたので、
  場所を移ってから バッグを確認すると、

  バッグの中の 内ポケット に 入れていた財布等の貴重品を、
  盗まれていた。
  (男性旅行者)

5.ディズニーランドパリ を 観光中、

  バッグの中から、
  いつの間にか財布を盗まれていた。
  (男性旅行者)

6.パリの地下鉄 7号線 ショセダンタン・ラファイエット駅 で、
  電車に 乗り込もうとした際、

  大勢の女性が、
  勢いよく乗り込んできて混雑を発生させ、
  自分の鞄の上に 荷物を置いてきた。

  後ろに
  人がいる気配がしたが、身動きが取れず、

  後で確認すると、
  鞄の中から 財布を盗まれていた。
  (女性旅行者)

7.ボルドー市内 の トラム乗り場 で、
  乗車券の購入方法 を 確認していたところ、

  後ろから
  ズボンのポケットに入れていた財布 を 盗まれた。
  (男性旅行者)

8.パリ の クリニャンクール蚤の市 の カフェのテラス で 飲食中、

  目の前でバイクが停車し、
  後ろに乗っていた 黒人男性 が、素早く近寄ってきて、

  膝の上に置いていたバッグ を 強奪し、
  バイクで 走り去っていった。
  (女性旅行者)

9.パリ の オペラ座前 で、写真を撮っていると、

  3人組の女性に、署名を求められ,
  後ろから
  押されたり、体を触られたり、押されたりしたが、

  後で確認すると、
  バッグの中から 旅券等を入れた貴重品入れ が、盗まれていた。

10.深夜、
  パリのムーラン・ルージュから ホテルまで
  歩いて向かっていたところ、

  後ろから近寄ってきた男性2人組に、
  鞄をひったくられた。
  (女性旅行者)

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2012年3月 6日 (火)

フランス旅行の際に、日本より 鉄道(SNCF)、ホテルをネット予約して分かったこと

去年 パリに行った際に、ブルターニュへ4泊5日の小旅行をしてきました。
滞在先は、カンペールに2泊、ヴァンヌ1泊、ナント1泊です。


フランス史の中で、
私にとって、一番気になる人物及び地方が
アンヌ・ド・ブルターニュのブルターニュ地方のため、
いつかは訪れてみたいと願っていたのが、今回実現しました。

ただ、家内が、
リューマチで膝を痛めているのと、腰のヘルニアによる腰痛により、
100㍍歩く毎に、休まねばならない体の上、

旅行先で私自身が、体調を崩してしまったためで、
あちこち歩き回ることが出来ず、

単に行って来ましたとの旅行でしたので、
改めてご報告するようなことはありませんが、

事前準備の際に、鉄道やホテルの手配で経験したことを
ご参考までにお話しさせて頂きます。


          **********


フランスに詳しい友人に、
「鉄道の切符は、地球の歩き方で購入している」と、ある時話したら、

「SNCFのホームページで切符を買え」と、
私の書斎のパソコンの前に座り込んで、パソコンを操作しながら、
購入方法はこうするのだ、と 熱心に奨められたため、

フランス語が全く分からない私でも、何とかなるかなと、
ホームページで切符の購入をトライすることにしました。

実は、SNCFのホームページは、
この数年旅行の度に、汽車の時刻を確認するために、
何度も見ているおなじみのページなのです。

ただ、切符の購入は、
申込は出来ても、
切符の受け取りが、東京まで郵送してもらうわけにもいかないだろうし、

出来たとしても、
郵送は不安なので、結局は、パリの駅に行かなければならないのだろう。

そうしたら、
また長い行列を並ばないといけないな、と、思って、
スケジュール作成のツールとだけ使用してきたのです、

友人によると、
「購入した切符は、我が家のプリンターでプリントアウトして、
 それを持って乗り込めばよいし、

 このプリントアウトは、駅で出発前のパンチをしないでよい、

 更に、
 申込の際に、前向きの席を指定できるクリックがあるよ」

と、いわれましたので、
それならやってみようと思ったのです。

また、
ホームページの下の方の右側に、各国の国旗がありますので、
英国の国旗をクリックすると、ホームページが英語バージョンになること
を、知っていたことも、やってみようかな、と思った理由です。


切符の購入にトライして分かったことは、
「長距離のTGVの切符」は、
我が家でプリントアウト出来ますが、

「ローカル線の切符」は、
プリントアウト出来ず、郵送か、駅で引き取るしかないということでした。

そこで、
行きの パリからカンペールまでと、
帰りのレンヌからパリまでの切符を、購入して、

ブルターニュ内の旅程は、
パリでいつもお世話になっている友人にお願いすることにしました。

その後、
ホテルの予約もしておこうと、
エクスペディアのサイトでヴァンヌのホテルを予約しようとしたのですが、
クレジットカードが、何故かしら使えなくなってしまっているのです。

何度やってもらちがあかないので、
booking.com のサイトから、申し込んだら、
今度はクレジットカードもパスしたのでやれやれと一安心しました。

ところが、
翌日ヴァンヌのホテルから、
「クレジットカードが使えない」と連絡があったのです。

旅行を目前にして、厄介なトラブルが発生したなと思いながら、
クレジットカードの会社に電話で問い合わせたところ、

「日本の在住者が、
 日本から外国でクレジットカードを使用する際には、
 セキュリティーレベルを厳しくしている。、

 今回、短時間の中で、3回もカードを使用したために、
 3回目に、そのセキュリティーが作動して、使えなくなったためです。」
とのご説明があり、

「セキュリティーレベルを下げて、ご迷惑かけないようにする」
との回答を得ました。

カード会社の電話の後、
ヴァンヌのホテルに「もう一度クレジットカードの決済をして欲しい」と
メールでお願いして、何とか切り抜けることが出来ました。

皆様も、海外旅行の事前準備で、
日本から 外国で短時間の内に 何回もクレジットカードを使用されるときには、

使用される前に、
クレジットカードの会社にその旨連絡しておかれることをお勧めします。


今回 もう一つ、気がついたことは、

エクスペディアやbooking.comのサイトからホテルを予約すると、
3つ星クラスのホテルでも、
シャワーだけで、バスのない部屋になることがある
と、いうことです。

これは、
一昨年(2010年)ジュネーヴに行った際に経験したことなので、
今度は注意しながら予約をしました。

パリでは、シャワーだけの生活ですので、
少なくとも、最初に2泊するカンペールでは、お風呂に入りたいなということで、

エクスペディア等の 予約サイト からではなく、
直接ホテルに申し込んで、少し高めの風呂付きの部屋を予約しました。


以上の経験で分かったことは、

1.鉄道の切符をネットで購入すると、大変安く購入できます。

  帰国してから、
  SNCFより安売りチケットのメールが配信されるようになりましたが、
  驚くべき値段を提示してきています。

  「フランスに住んでいたら、有効に使えるだろうな」
  と、ちょっと残念がっています。

  < 参 考 >

  本日(2012年3月7日)配信されたメールによると

  夏休み期間(6月13日~9月14日)
  パリーニース、パリ-アヴィニョン、パリーボルドーのTGV2等車の切符が
  最低価格 19ユーロから で 発売しているとのことです。

2.デメリットは、座席が 原則後ろ向きなことです。

  ご存じの通り、フランスの列車は、座席が日本のように向きを変えませんから、
  半分の座席は、進行方向の後ろ向きになっているのです。

  ネットで割引率の大きな座席は、前向きの座席は、殆どありませんでした。
  あったとしても、向かい合わせの座席でした。

  以前、
  「フランス人は、後ろ向きの座席を好む」と、聞いたことがあって、
  それを信じていたのですが、

  どうやら、
  彼らも、前向きの座席を好むのかなと思うようになりました。


今後 今回の経験を生かして、

フランスで、鉄道旅行するときには、 
長距離の列車は、SNCFのホームページで、切符を購入し、
地方での近距離列車は、現地の駅でその場で購入しようかと考えています。



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2011年7月25日 (月)

2011年フランス旅行 4.私の好きな パリの散歩道 (サント・シャペル と パンテオン)

前回、今回の旅行の散歩についてお話しましたので、
今回は、今までパリで散歩した中で、特に気に入った散歩道について、
2コースご紹介させて頂きます。


1.サント・シャペル → ノートル・ダム寺院 → サン・ルイ島 サン・ルイ・アン・リル教会

このコースは、フランス王 ルイ9世 ゆかりのコース です。


ルイ9世は、
13世紀のフランス王で、フランス王で唯一聖人に列せられた人物です。

  ルイ9世 生没年 1214~1270 享年 56才
        在 位 1226~1270 44年間


フランス王で最も有名な王様は ルイ14世だと思いますが、
ルイ14世は、ヴェルサイユの王様ですので、
パリの王様としては、多分ルイ9世であろうと想像しています。


ルイ9世の事跡全体については、ル・ゴフの「聖王ルイ」をお読み頂くとして、
ここでは、サント・シャペルについて、ル・ゴフ等の記述をご紹介させて頂きます。


1237年 ルイ9世は、ラテン皇帝 ボードワン2世の依頼により、
コンスタンティノープルの聖遺物の中で最も貴重な「茨の冠」を
購入することを決意しました。

「茨の冠」とは、
キリストが処刑されたときに被らされた「茨の冠」だとの称されているものです。

  ボードワン2世 ラテン皇帝在位 1228~1261 33年間

ボードワン2世の祖父は、
ルイ9世の曾祖父 ルイ7世の弟の ピエール・ド・クールトネ- であり、
ボードワン2世は、カペー朝の一族の人物でした。

資金の欠乏により コンスタンティノープルの諸侯が、
ヴェネツィアに「茨の冠」の売却を決定したため、

ボードワン2世が、「茨の冠」の外国への流出をしないために、
ルイ9世に購入するよう依頼したのす。

ルイ9世は、
ドミニコ会士 ジャック と アンドレを コンスタンティノープルに購入するために 派遣し、
「茨の冠」のヴェネツィアへの流出を阻止しました。

翌年(1538年)
「茨の冠」は、フランスに運ばれたのですが、

8月9日 ルイ9世は、
ヴィルヌーヴ・ラルシュベークよりサンスまで、約20kmの道のりを
下着姿の裸足で、贖罪の宗教行列を行いました。

8月20日頃 「茨の冠」は、パリに到着して、
王室の礼拝堂である サン・ニコラ礼拝堂 に 安置されました。

   サンス Sens                          パリの東南 100km
   ヴィルヌーヴ・ラルシュベーク Villeneuve L'archeveque サンスの東 20km

サント・シャペルは、
この「茨の冠」を奉納するために、約10年後に建設されました。

建設期間は、1245~1248年(3年間)で、
ピエール・ド・モントルイユが 建設したそうです。

ルイ9世は、
1248年 4月26日に サント・シャペル の奉献式 を執り行い、
1ヶ月半後の 6月12日に 十字軍出征のため パリを出発しています。

サント・シャペルの2階のステンド・グラスの美しさは、
ちょっと他では見られないものだろうと思います。

晴れた日に、ゆっくりベンチに座られて、ご覧いただくことをお勧めします。


ノートル・ダム寺院は、
私がとやかくご紹介するようなものではありませんが、

ここでは、
宝物室に、ルイ9世の頭像が安置されていますよと、
一言だけご紹介させていただきます。

また、
ノートル・ダム寺院の裏(シテ島の東端)で、ゆっくり周りの景色を眺めるのも、
私の楽しみの一つです。

シテ島からサン・ルイ島に渡って、
サン・ルイ島の中央通り(サン・ルイ・アン・リル通り)を歩いていくと、
3/4位行った右側に サン・ルイ・アン・リル教会があります。

なんということのない、普通の教会、というより
ちょっとみすぼらしい教会ですが、

ルイ9世の全身像がありますので、
近くに寄ったらルイ9世に御挨拶するために 必ず訪れる教会です。

このルイ9世の像は、
ルイ9世のお人柄が表れている、私の好きな像の一つです。


なお、これでは歩き足りないという方は、

サン・ジェルマン・ロクセロワ教会から ボン・ヌフを渡ってシテ島に入り、
アンリ4世の像やその西側(アンリ4世像の裏側)の公園を散策されてから

サント・シャペルに行かれたらよろしいかと思います。


1572年 バルソルミューの大虐殺は、
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘を合図に始まった、
と、歴史の本に記述されています。

何故、サン・ジェルマン・ロクセロワ教会の鐘が合図になったのか、
本を読んだだけでは分からなかったのですが、
現地に行ってみて「なるほど」と、合点しました。

サン・ジェルマン・ロクセロワ教会は、
ルーヴル宮(ルーブル砦の部分)の裏側にあるのです。

当時、フランス王家の人々は、ルーヴル宮に居住していましたので、
合図の鐘は、
サン・ジェルマン・ロクセロワ教会というのが当たり前のことだったのでしょう。

サン・ジェルマン・ロクセロワ教会より橋を渡ったところに、
アンリ4世の像があるのも、

少しばかり歴史の本を読んだ歴史好きの者にとって、
なるほどな、と感心させられるものがありました。



2.中世博物館 → パンテオン → サン・デチエンヌ・デュ・モン教会
  → リュクサンブール宮殿 → サン・シュルピス通り
  → サン・ジェルマン・デ・プレ教会


このコースは、

セーヌ川の南側の 昔 サント・ジュヌヴィエーヴ山と呼ばれていた丘を
登って、下ってくるコースです。


スタートの 中世博物館は、
元々は クリュニー修道院長の館だったとのことです。

クリュニー修道院は、ブルゴーニュ地方にあった修道院で、

修道院長は、最初はクリュニーにいたのですが、
尊者ピエールの次の修道院長から、パリに住むようになったとのことです。

  尊者ピエール 修道院長在任期間 1122~1156 34年間

尊者ピエールは、

シトー会のベルナール、
最初のゴシック建築であるサン・ドニ大聖堂を建立した シュジェ(フランス王の宰相)
と共に

12世紀のフランスを代表する聖職者です。

十字軍を主導したベルナールと異なり、
スペインでのイスラムの書物をラテン語への翻訳活動を奨励した人物で、

また、

1140年 サンス公会議で ベルナールに異端宣告された 傷心のアベラールを、
クリュニー修道院に迎え入れて、
シャロン・シュル・ソーヌ の サン・マルセル修道院 で 余生を過ごさせ、

1142年 アベラール没後、
亡骸をパラクレ修道院のエロイーズ(アベラールの奥さん)に届けた人です。

  シャロン・シュル・ソーヌ Chalon-sur-Saône
  ディジョン の南 60km、クリュニー の北北東 50km

中世博物館のお勧めは、
「貴婦人と一角獣」のタペストリーの連作です。

また、写本の本物も印象に残っています。


その後、

ソルボンヌ大学の横の道を通って、サント・ジュヌヴィエーヴ山を登り、
パンテオンに行きます。


パンテオンは、
フランス革命以来 国家に貢献した人物の墓所となっていますが、

元々は、
初代フランス王であるクローヴィスが、
クローヴィスと妻のクロチルドを埋葬するために建立した
聖使徒教会が始まりでした。

その教会に、サント・ジュヌヴィエーヴも埋葬されたのです。

  クローヴィス  生没年  465?~511 享年 46才
           在 位  481 ~511 30年間
           508年 首都 を ソワソンよりパリに移転


サント・ジュヌヴィエーヴ(女性)は、
初代パリ市長ともいうべき人です。

  サント・ジュヌヴィエーヴ 生没年 422頃 ~ 502/512 享年 80/90才

サント・ジュヌヴィエーヴ の 生涯の概略は 次の通りです。

422年頃      パリの西 ナンテール で 誕生しました
   → ナンテールは、新凱旋門の西隣の地区で パリ市の西端となっていますが、
     当時は、パリとは別個の町でした

429年頃( 7才) オーセル司教 ゲルマヌス(サン・ジェルマン)に
            祝福されたのが、きっかけとなって

437年 (15才) に 修道女となりました。

451年頃(29才) アッティラが 襲来した際に、パリ市民を鼓舞しました

460年頃(38才) サン・ドニの墓の上に、礼拝堂を建立しました
         → その門前町が、現在のサン・ドニです。

464年頃(42才) フランク王 キルデリクス1世 が、パリを包囲した際に、
            自ら セーヌ川を遡って トロワに向かい 食糧を調達して
            11隻の舟でパリに運び、飢餓を救いました

486年頃(64才) クローヴィスが、ジュヌヴィエーヴと交渉して
            パリの服従を ジュヌヴィエーヴに委ねました
             → 初代パリ市長

512年 (90才) 没
  →  没年異説  シャルマソン は 502年 と 記述しています
             (クセジュ「フランス中世史年表」9㌻)

520年       埋葬された 聖使徒教会が 聖別されて
           サント・ジュヌヴィエーヴ教会となりました。


パンテオンは、

18世紀後半 サント・ジュヌヴィエーヴ修道院(教会)を建て直すために
ルイ15世の命により 建立されました。

ところが、工事が長引き 、
完成したのが フランス革命が勃発した1789年であり、

その2年後に、
革命政府が、革命に偉大な貢献をした人物の墓所として転用すると決定して、
現在に至っています。

パンテオンを訪れる方の大半は、
地下の墓所を目的とされるのだろうと思います。

地下墓所には、
ヴォルテール、ルソー、ゾラ、キュリー夫人など
錚々たる方が埋葬されています。

しかし、
私は、地下と共に 1階の絵画もゆっくりご覧いただければ、と思っています。

なお、明治神宮外苑の絵画館は、
パンテオンの1階の絵画をヒントにして(模倣して?)作られたものでは?
という気がしています。


パンテオンは、
正十字の形をしていますが、

その東西の軸には、
サント・ジュヌヴィエーヴの生涯が、4つ描かれています。

私の記憶に間違いがなければ、

1.オセール司教 ゲルマヌスとの出会い
2.トロワに行ってパリの飢餓を救ったエピソード

3.クローヴィスと交渉してパリ市長に就任
4.サント・ジュヌヴィエーヴの臨終 です。


また、南北の軸には、

南側に クローヴィス(トルヴィアックの戦い)と シャルルマーニュ、
北側に ルイ9世 と ジャンヌ・ダルク が 描かれています。

高校の歴史の教科書などに載っているジャンヌ・ダルクの絵は、
ここに飾られていたのでした。

この南北軸に描かれている4人が、
フランス人が、「フランス史の礎石」となった人と
考えておられるのだろうと思います。


クローヴィスは、
最初のフランス王ですので、それなりに納得されると思いますが、

シャルルマーニュが、
何故フランス王として重要なのか、ちょっと疑問に思われ、
首をかしげる方が多いのではと思います。


もともと、フランク王国は、
現在のフランスを中心とする地域を支配する国でした。

シャルルマーニュは、
日本では「カール大帝」とドイツ語読みで言われていますので、
ドイツの王様だと思われるかも知れませんが、

シャルルマーニュの生涯を見てみると、
領土の本拠は、どちらかというとフランスで、
長い時間をかけてドイツに遠征し、征服した王様です。

  注 クローヴィスのメロヴィング朝は、パリを中心としていましたが

    カロリング朝は、所謂ロレーヌ(ロートリンゲン)と言われる
    メッスからルクセンブルクを越えてベルギーのリエージュあたりの地域を
    本拠としていました。

    ドイツとフランスが、
    つい半世紀前までの1000年にわたって争ってきた地域です。


シャルルマーニュが、
現在のEUの中心的な国を支配したことから、

ドイツでも、
我らの王様とされるようになったのだろうと思いますが、

私には、
征服した人間を 誇らしげに「自分たちの王様だ」と言う
ドイツ人の心情が理解できません。

私には、フランス人が、
もし、カエサルを 我らの王様、フランス王だと言った場合に
感じるであろう奇妙さ と、 同じ感じ を 持ちます。


なお、

日本で「カール大帝」と言われているのは、

日本において ヨーロッパ史が、

中世史は、英国史とドイツ史だけが西洋史(ヨーロッパ史)だと見なされて、
フランス史を無視されてきた

昭和40年代頃までの日本の西洋史学界の偏向(偏り)
によるものだと思います。

この学界の偏向の流れを変えたのが、
堀米庸三先生であることを、余計なことですが一言述べさせて頂きます。

  注 この偏向(偏り)を確認されたい方は、
    当時の教科書である今野國雄先生の「西洋中世世界の発展」(岩波全書)を
    ご覧下さい。

    今野先生のこの本は、
    当時の日本のヨーロッパ中世史研究の到達点ともいえる書であり、
    ドイツ中世史の本として一読をお薦めする本ですが、

    到達点だというべき本だからこそ、
    当時の偏向(偏り)を良く著している本でもあると思います。



ルイ9世も、また、
日本人にはなじみのない王様ですし、
理解に苦しまれるのではないでしょうか。

フランスの王家は、
カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝の3つの王朝が
中世以来近世まで続きましたが、

これらの王朝を元に辿っていくと、ルイ9世に集約されます。

ルイ9世より フランスの王朝が流れ出た
と、言っても良いフランス王なのです。

フランスは、実質的には、
ルイ9世の祖父のフィリップ2世より、国民国家へ向けての道
を、歩み始めました。

(国民国家として形成された現れが、
 1494年 シャルル8世のイタリア戦争開始だと考えています。)

その意味で、フィリップ2世が、
現在に繋がるフランスの実質的な創業者といって過言ではないと思います。

ルイ9世は、
祖父が始めた事業を、取りあえず完成させたフランス王なのです。

ルイ9世の統治が終了した時点で、
現在のフランスのだいたいの骨格が形成されたのでした。

このため、
ルイ9世の人柄とあいまって、
ルイ9世が、フランス史の礎石の人物の一人と
認識されているのだろう と、思います。


ジャンヌ・ダルクは、
中世末期フランスが分裂の危機を救った救国の少女でした。

もし、ジャンヌ・ダルクが出現しなければ、
フランスは分裂したままの歴史を辿ったかも知れません。


尤も、
侵略主義者、膨張主義者のフランス人のことですから、
「ジャンヌ・ダルクは、余計なことをした」との意見もあるようです。

即ち、
もし、あの時 イングランドがフランスを併合していたら、
フランスは、フランスとイギリスを領土としたであろうに、
と、歎く人もいるようです。


パンテオンの4人を見ていると、
ルイ14世とかアンリ4世が描かれていないことが
興味深く感じられます。

フランスの土台を作ったという観点からは、
ルイ14世やアンリ4世は、

この4人より位置づけが下がると、
フランス人が考えておられるのだろう と、納得がいきます。

また、
サント・ジュヌヴィエーヴ贔屓の私としては、ちょっと寂しい気がしますが、

サント・ジュヌヴィエーヴ や、
クローヴィス、シャルルマーニュ、ルイ9世、ジャンヌ・ダルクという
フランス史の礎石とも言える人物を描いた建物の地下に、

祖国に対して偉大な貢献をした人物を埋葬しようと考えた、
フランス革命政府のセンス も、大したものだと思います。 


パンテオンを出て、北側の広場を東に行くと、
(パンテオンの裏手に回ると)
アンリ4世校 の向かいに サン・デチエンヌ・デュ・モン教会 が あります。

この教会の正面から入って、右側の回廊をまっすぐ行くと、
サント・ジュヌヴィエーヴの聖遺物箱があります。

サント・ジュヌヴィエーヴのお墓は、
フランス革命の際に壊されたとのことで、

この箱には、
サント・ジュヌヴィエーヴの指が納められているそうです。

私が訪れたときには、
教皇 ヨハネ・パウロ2世が、聖遺物箱の前に跪いて祈っておられる写真が
飾られていたのが、印象に残っています。

このお寺のもう一つのお勧めは、
内陣の右側に、更に奥に行く廊下がありますが、

その廊下の突き当たりを左に折れると
大変きれいなステンドグラスが壁面に飾られている部屋があります。

製作されたのは、
中世ではなくもっと新しい感じがしましたが、
ステンドグラスは、通常は遠く、上の方の窓にありますので、

この様に目の高さの所で、間近に見ることが出来るのは、
貴重であろうと思います。

  注 ロンリープラネットの「パリ」第2版 112㌻ によると、
    このステンドグラスは 16~17世紀 に作られたとのことです。


その後、
パンテオンの正面に戻って、坂を下り、リュクサンブール宮殿に向かいます。


リュクサンブール宮殿には、フランスの上院があるそうで、

建物は、
警官(兵隊?)が警備していますが、

庭園は、
自由に歩き回れますので、ゆっくり散歩されるとよろしいかと思います。


宮殿の西北方向の出口から北(セーヌ川の方向)に すこし行くと、
ダ・ヴィンチ・コードで有名となった サン・シュルピス教会があります。

私が訪れたのは、土曜の午後でしたが、
合唱団が、翌日(日曜)のリハーサルをしていましたので、
しばらく聞かせていただきました。

教会は反響が大きく、
合唱団の豊かな響きが、日常を忘れさせてくれた一時で、
思わぬご褒美を得たなと喜んだ記憶があります。


サン・シュルピス教会を 更に ちょっと北に行くと
サン・ジェルマン・デ・プレ教会に出ますので、

サルトルが執筆した広場のカフェで
ゆっくり休まれるとよろしいかと思います。



< 追 記 >

  サン・シュルピス教会に入って、すぐの右側にドラクロワの名画があると
  案内書に書かれています。

  何回か拝見したのですが、
  光線の具合に加えて、絵画の色調が暗いため、

  何が何だか分からず、
  「猫に小判、豚に真珠」だなと、見る度に感じていました、


  最近、
  秦剛平先生の「美術で読み解く 旧約聖書の真実」(ちくま学芸文庫)
  を読んでいると、

  このドラクロアの名画は、「天使と闘うヤコブ」という
  旧約聖書を題材とした絵だと 知りました。


  ヤコブが、
  家族を連れてハランから故郷に帰国する途中、

  ヤボクの浅瀬で、
  何者か(実は神様)に襲われて、一晩中闘った結果、

  相手から、
  「おまえは神と争って打ち勝ったものだから、
   これからは、イスラエルが、おまえの名だ」と、

  名前を変えられた故事を、
  ドラクロワが、絵画の題材としたとのことです。


  もう一度、サン・シュルピス教会に行くことがあれば、
  今度こそ じっくりと よく見てみたいなと、思っています。

  出所 秦剛平「美術で読み取る 旧約聖書の真実」(160㌻、ちくま学芸文庫)



       

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2011年7月11日 (月)

2011年フランス旅行 3.今回のパリでの散歩

パリで、できるだけブラブラと町を散歩することにしています。
ここでは、
今回パリ滞在中に散歩した散歩ルートをご紹介させて頂きます。

パリでの散歩で
毎回「しまった」と、ひやっとすることがありますので、
最初に、その点についてお話しさせて頂きます。

パリの皆さんは、
赤信号でも車がいなければ平気で道路を横断していますので、
私もすぐに この風習になじんでしまいます。

ところが、
日本人は道路を横断するときに、
無意識に右を見る習慣を身に付けていますが、

パリでは、車は左から来ますので、
道路を横断するときには、右ではなく 左を見なければならないのに
そのことを失念してしまうのです。

ですから、
パリに訪れて、歩き出すときに、
毎回必ず 左を見ずに車道に一歩踏み出して、
「しまった」と ひやっとする経験 を しています。

今まで事故にならずに無事に過ごせてきたのが、
ある意味 奇蹟では という気もしないではありません。

皆様も、
パリで 道を横断するときは、くれぐれも 左にご注意下さるよう、
余計なことですが 願っています。


1.サン・マルタン運河 と ビュット・ショーモン公園 

パリに着いたら、
まず最初にサン・マルタン運河を散歩することにしていて、
今回も、到着の翌日散歩しました。

ポントシュー通りの滞在先から
Filles」 du Calvaire の「冬のサーカス」の横を通って、
バスティーユ広場からサン・マルタン運河までの暗渠の上の公園の通りに出ます。

そこから、
北に向かってしばらく行くと 暗渠が無くなり
サン・マルタン運河が始まります。

運河沿いに、
運河にかかる太鼓橋を一つずつ渡りながら、地下鉄 Jaures駅 まで
ブラブラと散歩しますと、パリに着いたなと、いつも実感します。

私にとってパリでの最もお気に入りの風景が サン・マルタン運河 です。

今回、
有名な「北ホテル」では、
1階のレストランを借り切って 写真撮影 を していました。

また、
数年前にテントを張っていたホームレスの人々は、
いつの間にかいなくなっていました。

同じような景色でも、
行くたびに少しずつ違っているのが楽しみの一つです。

サン・マルタン運河は、
観光だけでなく、今でも現役の運河のようで、
地下鉄 Jaures駅 の手前には、港があるのです。

ここの部分は、
景色的にはちょっとという感じのところですが、
運河がまだ現役なのだな、と実感されるところです。

通常は、
地下鉄 Jaures駅で折り返すのですが、
時間があると、更に北に延びる運河を
ラ・ヴィレット公園(Parc de La Villette)まで散歩します。

今回は、
地下鉄 Jaures駅 から 高架になっている地下鉄に沿って、
地下鉄 Colonel Fabien駅 迄一駅歩き、

そこで左に曲がって、坂を上り
ビュット・ショーモン公園(Parc des Buttes-Chaumonnt)に行きました。

ビュット・ショーモン公園一帯は、
ちょっとした山となっていて、崖と池の組み合わせた公園で、

しかも、
崖からちょっと離れて 池に囲まれた断崖の小山の上に、
ギリシア神話に出てくるような小さな神殿があって、
最初訪れたときはアッと驚いて声を出してしまいました。

それ以来、
サン・マルタン運河とビュット・ショーモン公園を組み合わせて散歩するを
楽しみにするようになりました。

神殿からは、
モンマルトルの丘が見渡せますし、

神殿の山から下って芝生で、神殿を眺めていると時間を忘れてしまいます。

なお、
お時間がある方は、ビュット・ショーモン公園から南にちょっと下って
ベルヴィル公園(Parc de Belleville)に廻り、

その後、
ベルヴィルの中華街を散策されるのも よろしいかと思います。

ベルヴィル公園は、
崖を公園にしたビュット・ショーモン公園とは別の趣のある公園で、
エッフェル塔を含む パリの南側の市街の景色が、一望の下に見ることが出来ます。


2.廃線あとの遊歩道

数年前に、
バスティーユのオペラ劇場で リゴレットの切符を買った後、
リヨン駅の方に散歩を始めたら、
建物が途切れたところに、電車の高架みたいな建造物がありました。

階段があったので、登ってみると、
どうやら昔電車の高架だったものを公園に改造したようなので、

ちょっと歩いてみるかと、30分ほど散歩したのですが、
終点まで到達せずに引き返したことがありました。

今回は、
最後まで歩くことを目標に散歩しました。

最初は、
市街地の高架を公園にしたのですが、

その内
マンションや公園の間を通る遊歩道になります。

更に進むと、トンネルがあり、

その先は、
およそここがパリの街の中かと思うような
谷間の森との風情の景色となります。

谷を越えると、また高架となり、
最後は廃線の線路のところで行き止まりとなっていました。

日本人だったら、凡そ考えないようなことをするな、
パリの人は、面白い と、感心しています。

現在東横線が、
渋谷駅から代官山の間を地下鉄化の工事をしていますが、
東横線の高架は、工事終了後、取り壊す計画のようです。

渋谷から代官山まで、
パリみたいに高架を遊歩道にしたら、面白いのではと思いますが、
そういう発想は、日本人には思いつかないのですね。

今回は、
遊歩道を走破した後、その先をブラブラ歩いていると、大通りに出ました。

後で地図を見ると、
パリ市街の一番外側の環状道路でした。

その大通りを北にちょっと歩いて地下鉄でも乗ろうかなと思って周りを見ると、
何とヴァンセンヌの森の入り口 に、立っているではありませんか。

ヴァンセンヌの森やヴァンセンヌ城は、
一度行ってみたいと思っていたところですので、

ヴァンセンヌの森を散策して、
ヴァンセンヌ城まで行ってみることにしました。

公園を歩いていると、池が見えてきました。

池の横を通って、池が途絶えるあたりから、
ヴァンセンヌ城に向かって歩き始めたのですが、道に迷ってしまい、

気がついてみたら
お城の正反対のヴァンセンヌの森の南の端に出てしまいました。

歩いている途中に案内板がなかったために思わぬところに出たのでしたが、
そこで案内板を見つけて、ヴァンセンヌ城に向かいました。

森の南の端から北の端まで歩くことになり、
流石にくたくたとなってしまいました。

ヴァンセンヌ城は、
いかにも中世のおとぎ話に出てくるようなお城で、
一度は訪れたら如何かと思います。

今回は、たまたまですが、
ヴァンセンヌの森からお城を眺めながら歩きましたので、
その点はラッキーでした。

ヴァンセンヌ城へ行かれるときは、
地下鉄の1号線の終点 Chateau de Vincennes駅で降りられたら、
ヴァンセンヌ城の北門に出ますので、

北門を入って右の建物で、
入場券を購入されて見学されると良いと思います。

その際に、
南門から出て、ちょっとヴァンセンヌの森を散策して、
森からお城を眺めると、
ちょっと趣が変わって面白いのではと思います。

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