キリスト教

2023年7月22日 (土)

入院中に考えたこと 4.ヨーロッパ文明崩壊の危機  アメリカの政治情勢などをめぐって

「入院中に 考えたこと」シリーズの最後に、

歴史の歩み に 棹さす
ヨーロッパ文明崩壊 を 目指す勢力 が
アメリカを中心 に 勢力 を 拡大していて、

2024年のアメリカ大統領選挙は、
歴史の今後を左右する 一っ大決戦 となるのでは、
と、心配されること について
お話しさせていただきます。

今回は、
ヨーロッパ文明の危機の状況について
お話し察せていただきます。



    ************



1.ヨーロッパ文明は、

絶対君主に対して、
一つ一つ国民(人民)の権利を認めさせて
その積み重ねによることにより
個人の権利を築いてきました。

そして、
国民により選出された代表の集まりである
議会が、
決定したルールを、法律とすること が
長い時間をかけて 確立してきたのです。

基本的人権をはじめとする 個人の権利 は、
このようにして確立してきたのです。

イギリスの下院議長 は、
スピーカーと呼ばれるそうです。

これは、
イングランド王 に 対して、
国民の権利 を 擁護するために
国民を代表して抗議したことから

下院議長が、

国王 に 抗議する人
(国民(議会)を代表して
 国王と話(交渉)をする人)
との 意味 から、
スピーカーといわれるようになった
とのことです。

このように、
王権は、
神から授けられたものであり、

国王は、
神以外の何物にも制限されない

(国民に対して何でもできる、妻と離婚するためには、
 臣下の大法官すら 処刑すらできる)
との

「王権神授説」を 標榜する 国王に対して、
議会が、国民(個人)の権利を擁護し、
時間をかけて確立してきたのです。

逆に言うと、
国民の権利に対して、

自由に行使してきた国王 を
機会があるごとに、
一つ一つ制限して
国王よりもぎ取ってきたのです。

国王を説得するために
用いた(使用した)武器が、
常識(コモン・センス)でした。

アメリカやイギリス で、

法律のことを「コモンロー」と呼ばれるのは、
法律とは、
誰でもが納得する常識に基づいて
形成されたルール(法律)なのだ、


即ち、
法律とは、
コモンセンス に 基づくものだ
と、いうことから、

「コモンロー」と、
呼ばれているのです。


2.アメリカにおいて、


トランプ大統領が出現して以来、
数世紀をかけて 積み重ねにより 確立してした
上記のヨーロッパ文明が、
崩壊の危機 に 面しているように 感じられます。

時あたかも
20世紀末に 500年継続した 国民国家の歴史 が 終了して
新たな歴史を歩み始めた、その時期に
「積み重ねの歴史」に対立する「繰り返しの歴史」サイドから
今まで 圧迫さされ、無視されてきた恨み を
晴らすかのような動き

言い換えると、
今まで積み重ねて確立してきたルールを根底からひっくり返して
支配権 を 奪って、自分たちの思うような支配を確立して、征服しよう
と、しているのでは?

と、感じられる動き が 生じているのです。

上記の動きは、2方面に存在します。
即ち、
「積み重ねの歴史」の国の内部における癌みたいな存在 と
「繰り返しの歴史」の国による、「積み重ねの国」に対する復讐戦です。

厄介なのは、
「積み重ねの歴史」の内部で増殖する癌みたいな存在ですので、
最初に後者について、簡単にご説明させていただきます。



2-1 「積み重ねの歴史」の国の外部で、

復讐に燃えている「繰り返しの歴史」の国の
チャンピオンは、

中共(中国共産党)です。

(注)一般に中国と呼ばれている存在を中共と呼ぶのは、
   現実を直視すると、現在 国共内戦 が 終了しておらず、

   チベットやウィグルなど 外国を侵略していますが、
   ホームグラウンドの支那(China)の盟主として
   支那全体 を 今現在 統治していないからです。

   これは、
   中共の習総書記が、台湾侵攻を主張しておられる
   ことから 明白だと思います。

中共 は、
ものづくりの基本 を 理解していないような 気がします。

例えば、
安かろう、悪かろうと
各地に 新幹線や地下鉄を輸出していますが、

トラブル続きで、現地の顰蹙 を 買っております。

要するに、
「繰り返しの歴史」の 国特有 の、工夫 を 積み重ねることができずに、
外国のものを パクッて(盗んで、真似して)
外見上 それらしいもの を 作れるにすぎません。

習総書記が、台湾侵攻を企てたら、

パレードの時は、壮観に見えた 軍隊 や 装備 も、

いざ 実戦 となると
中共軍 の 武器 の 故障 が 多発し、
パクリ故 の 使い物にならないことが
明らかになるでしょう。

(これは、
 中共 が 近年輸出した 新幹線や地下鉄の実績から
 ほぼ確実に予想できるでしょう。)

ですから、
第2次大戦後 80年近く戦い続けているアメリカ軍や
井上大将の戦略論を保有する日本の自衛隊とは、
まともに戦いにならないだろうと予想しています。

従い、
近く習総書記が台湾に侵攻しても、
侵攻開始直後 に、上記のことが判明し、

「繰り返しの歴史」の国は、
「積み重ねの歴史」の国とは 勝負にならないこと が、
改めて 明らかになると思います。

もし、この予測が外れたとしても、

無駄な 鉄道 や 住宅 を 作りまくって、
経済が疲弊している 中共 が、

4年間死闘を繰り広げた日米の連合軍相手に
歯を食いしばって、まとも に 戦えるはずがない

と、考えるのが
常識的ではないでしょうか?


2-2 「積み重ねの歴史」の国の内部での危機的状況

「積み重ねの歴史」の国の内部で、
今まで積み重ねてきた文明に危機をもたらしている
DSや極左勢力が、利用している

「積み重ねの歴史」の国に内在する根本的欠陥
について、

即ち
「積み重ねの歴史」の国を
現在まで 作り上げた 原動力 である
「法学」に 内在する欠陥 について
最初に お話しさせていただきます。


ヨーロッパにおいて ローマ法が始まって以来
現在まで、約3000年にわたって、
継続的に 発展してきました。

その結果、
現在の民法典に至っているわけですが、

法律を、
人類の行動の先回りして 制定しておくことが
不可能のため、

どうしても、
裁判官に委ねざる部分が生じるのは
やむを得ないことでした。

日本の法律でも、
憲法、民訴法、刑訴訟において

裁判官は、法律と良心に従って、裁判をする
と、規定されています。

言い換えると
法律が、制定されていない事柄については、
裁判官が、自分の良心に従って 判決 を 決定しなさい
と、規定されているのです。

法律とは、
人間社会の紛争を、だれが見ても これしか解決策がないなと
納得するような解決策を見つけ出すための人類の知恵の結晶なのです。

ですから、
良心に 従って判決を下す際には、

裁判官 が、
好き勝手 に 判決していい というわけではなく、

裁判官 が、
その経歴により育んできたリーガルマインド
(英米法ではコモンセンス)に従って
判決を下すことが、ルールとなっているのです。

これは、
法曹といわれる人にとり常識なのですが、
このことを奇貨として、

① 自分の考えは、絶対的に正しいので
  自分の考えにより 判断すればよい
② 自分の考えを実行するために
  障害となる法律や人物を
  
  無視し、
  必要とあらば、反対する(邪魔する)人物 を
  殺害しても 構わない
と、現在のアメリカにおいて、
DSや極左の人々が 主張し、行動するように
なっていることが、
「ヨーロッパ文明の危機」を
内部からもたらしているのです。

中世における 王権神授説の王様が、
現代において復活したような感じがしています。

これに加えて、
犯罪は、
当局に訴追されなければ、犯罪ではないとの現実があります。

言い換えると
犯罪事実 が あっても、
起訴されなければ、犯罪にならないのです。

日本においても
鳩山元首相が、多額の脱税をしていて、
一般人なら懲役刑で 刑務所に 収監されて刑務所生活を余儀なくされるのに

検察が訴追しないために、
前科者とならずに 自由に活動されておられることにより 
このことが、
ありうることを ご理解いただけると、思います。


これを利用して、
政治権力(政権)を掌握した陣営が、

対抗する政治勢力、
具体的にはトランプ陣営には、
極端な理屈をつけて訴追すると同時に、

自らの陣営、
即ち、民主党陣営やDS、極左勢力については、
犯罪事実があっても、これを無視して、訴追しないことにより
今まで積み重ねてきたヨーロッパ文明に危機をもたらしているのです。

例えば、
大統領で機密の解除権限のあるトランプさんが、
機密書類を持ち出したと刑事訴追され、裁判にかけられていますが、

大統領就任する前は、機密解除権限を持っていなかったバイデン大統領が、
上院議員時代以来、機密書類を持ち出して、自宅に放置していていても、
検察当局により おとがめなし
との不公平な取り扱いがされていると報道されています。


毎日の情報を拝見していると、
今回ご紹介した以上の出来事が情報として入ってきます。
今回は、
ものの考え方をご理解いただくための
必要最小限の事柄をご説明させていただきました。


3.最後に

今回の文明の危機は、
2016年 トランプさんが、大統領に就任された際に
「ワシントンの沼の水を抜く」と発言し、
ヨーロッパ文明 とりわけ アメリカ の 癌 を 摘出しようとしたことから 始まりました

実は、DSや極左を背後から操っている勢力が ちらちらと見え隠れしていますが、
明確に 正体 を 現していません。

今後、
この背後に隠れている正体が暴かれて、
アメリカ ひいては 「繰り返しの歴史」が築いてきた文明が
停滞している歩みを、元気に正しく軌道修正されることを 願っています。


追記

DSや 極左 の皆さん のみならず、バイデン政権やブッシュ政権時代のネオコンの
「歴史の終わり」のイデオローグ(哲学)の バックボーン となっている
ヘーゲルやマルクスの哲学が、
「繰り返しの歴史」に属する キリスト教から由来するのでは?
との仮説を
ご説明したブログ を ご紹介させていただきます。

是非とも ご覧いただいて、
1.キリスト教が いかにヨーロッパ文明の深いところまで 影響を及ぼしているか
  について お考えいただくと共に、
2.今回の問題を 考える際に あわせて考えていただくこと を、
願っています。

ヘーゲル「歴史哲学」における進歩史観やマルクスの史観は、キリスト教終末論のパクリでは?

| | コメント (0)

2022年10月30日 (日)

歴史における現在 再々論

20年近く前に、ホームページに、
ブッシュのイラク戦争(「歴史における現在」)との拙文を掲載しました。

ブッシュのイラク戦争(「歴史における現在」再論)

そこでは、
1.1990年頃
  約500年間にわたる「国民国家の歴史」が終了し、
  歴史 が、
  「地域共同体」を経て「世界連邦」に 新たな歩みを始めたのが現在である。

2.今後の歴史の障害要因は、
  「民族問題」と「強盗国家」であろう

3.ブッシュ(ジュニア)大統領が、イラク戦争を始めたので、
  「民族問題」と「強盗国家」に加えて

  「覇権国家(アメリカ)」が、
  歴史の阻害要因として浮かび上がってきたので追加する

  と、記述させていただきました。


その後、時間の経過とともに、
「覇権国家」の歴史への阻害要因の具体的な内容についての認識
が、深まってきましたので、

今回は、
この点についてお話しさせていただきます。



          **********



ブッシュ大統領(ジュニア)在任中 に
ネオコン が、一躍有名になりました。


ネオコンのイデオローグ  フクヤマ氏の
「歴史の終わり」(上、下 三笠書房)を、
一言で要約すると、

「リベラルな民主主義の実現により、歴史が終わる」
「歴史を終わらせるのが、我られの責務である」
と、いうものです。

フクヤマ氏の歴史に対する見方は、
当時 冷戦終了後のアメリカの覇権実現した宣言と
感じられましたが、

すぐに、少し首を傾げ始めました。

というのは、
歴史というものは、 人類の活動の集積に対して
歴史を研究する 歴史家は、
それぞれの立場から分析し、
その見解(仮説)を 表明するのが 歴史学なのです。

原水爆戦争により 人類が滅亡しない限り、
人間の活動が続くことから 
歴史の終わり というものは ないのです。

歴史が終了するとの考え方ですぐ思いつくのは
ヘーゲルの歴史哲学です。
ですから、欧米の歴史家は、ヘーゲルに影響されて、
歴史が 何かを達成したらそこで終了する
との考え方を 持たれる方が、おられます。

例えば、
20世紀最高の歴史家 と 私 が、評価する
エ・H・カーさん も その一人です。

また、逆に
ヘーゲルに反対する ランケ みたいな歴史家 も おられます。

ヘーゲルは、
「自由の実現により 歴史が終了する」と 主張しました。
この考え方を受け継いで 人類に大きな影響を及ぼしたのが、
マルクスです。

ヘーゲルの哲学の承継者が、
左派では、ヘーゲル、
右派では、ネオコン(フクヤマ氏「歴史の終わり」)
と、言われている
と、どこかで読んだ覚えがあります。

(注)ネットでは、
   ネオコン(フクヤマ氏)は。トロキストの系譜を受け継ぐ人物
   と、解説する見方を述べている方もおられました。

ブッシュ大統領(ジュニア)の任期終了後、時間の経過とともに、
アメリカを支配しているのは、ディープステートである
との 見解が 主流を占めてきて、

現時点、アメリカでは、
トランプさん以外の 政財界、官界、司法、軍など
すべての支配層全域で、ディープステートが、 リード、支配している
との見方が、大勢を占めているような気がします。

率直に言い換えると、
ディープステート が、アメリカ を 乗っ取った状況である
と、いっても 過言ではない状況 では?
との感じを 持っています。

しかも、
ネオコンとディープステートが、同一のものである
との言われるようになったような気がします。

現在のバイデン政権は、左派がリードしていて、
ブッシュ大統領(ジュニア)などの共和党とは、
異なるとの見方もあると思いますが、

共和党(ブッシュ大統領(ジュニア)を含めて ライノといわれる人々)は、
民主党と共に 愛国者である トランプさんに 対峙していますが、


彼らは、
ディープステートの一員であると考えるべきでは?
と、一般に考えられています。


ヘーゲルの歴史哲学は、
どこから由来しているのでしょうか?

私は、
キリスト教の黙示録から由来しているのではと考えています。
詳しくは、下記のブログをご覧ください。

ヘーゲル「歴史哲学」における進歩史観やマルクスの史観は、キリスト教終末論のパクリでは?


キリスト教は、
「繰り返しの歴史」に属する宗教ですので、

「積み重ねの歴史」が 500年かけて 終了させた 国民国家の歴史とは
全く異なる歴史に基づいているものなのです。

私は、「積み重ねの歴史」が、
1571年 レパントの海戦以降 「繰り返しの歴史」を 実力で勝利して
二つの歴史の勝敗は、当の昔に決着していると考えていました。

「繰り返しの歴史」が、
「積み重ねの歴史」に対抗できないのは、

「積み重ねの歴史」は、
工夫を重ねて 技術 を 独自に 進化させることが できる のに 反して

「繰り返しの歴史」では、
工夫を重ねて 技術を 独自 に 進化すること が できず、
精々 「積み重ねの歴史」の成果物を 模倣して
それらしいものを製作するしかできないからです・

例えば、
中共が、
軍事予算を年々増加して 軍事大国になってきて脅威である
と、一般に流布されていますが、

最近、タイと中共が 空軍同士の演習をしたところ
タイに敗北認定を受けたと報道されていました。

タイも、「繰り返しの歴史」の国であり、
戦闘機をヨーロッパより購入したとのことですが、

タイが、
ヨーロッパより購入した 中共の戦闘機より旧世代の機体にもかかわらず、

中共が、
最新鋭と称する戦闘機 に 勝利判定を獲得したのです。

中共は、
ロシアから技術導入し、
アメリカよりハッキングなどで 技術を盗用して
最新鋭と称する それらしい戦闘機 を 製造したのでしょうが、

自らが、開発した技術に拠らず、他人の戦闘機を 見よう見まねで制作した機体は、
やはり 何らかの欠陥 または、本物には及ばない何か が あったのでしょう。

このように
「繰り返しの歴史史」は、
「積み重ねの歴史」に競争して対抗することは不可能であると考えていたのですが、

ここにきて、
「繰り返しの歴史」に属するディープステートが力をつけてきて、
アメリカを支配するようになった現実を勘案すると、

一言で申し上げると、
「積み重ねの歴史」に対して
200年来「積み重ねの歴史」に同居してきた
「繰り返しの歴史」に属する人々が、

「積み重ねの歴史」に対して 復讐 を開始したのだな、
(「積み重ねの歴史」を 乗っ取って 自らの天下を入手しようと
 し始めたのでは?)
と、感じられます

ですから、
今後 数十年間 は、「積み重ねの歴史」は、
「繰り返しの歴史」からの復讐である ディープステートの克服 に
精力 を 費やされるのだろう

と、考えるようになりました。

従って、
現時点における「歴史の現在」について ご説明させていただくとすると、

1.人類の歴史は、
  国民国家の歴史から 地域共同体を経て、世界連邦への歩みを
  着実に進めるであろうけど

  国民国家の歴史が、
  成立まで 1200年から1400年代後半までかかり、

  その後、500年間継続したことを考えると、
  この歩みは、数百年単位の経過を必要とするであろう。

2.当面 歴史の表面に現れるのは、
  国民国家の愛国者が、
  来るべき地域共同体において 自分の国が しかるべき地位を
  確保しようとして

  一見歴史を逆行するような
  自分の国を強化し、国際社会において 優越的な地位を確保しようとする
  愛国政治家が現れるであろう。

  この意味で、
  トランプさんのMAGA運動や、
  フランスのルペンさんのような政治家が、
  上記に属するような政治家、人物であり、

  今後も、このような人々が、 何人も 現れる と、思われます。

3.2.と共に 表面化するのは、

  「積み重ねの歴史」の中に存在する「繰り返しの歴史」に属する人々の
  「積み重ねの歴史」に対する復讐 だろうと考えます。

  「積み重ねの歴史」の中に存在する「繰り返しの歴史」の人々とは、
  ローマ以来 欧米人と一緒に暮らしてきた 「繰り返しの歴史」に属する人々です。

  具体的なこうほとしては、
  東欧の人々、ユダヤ人 が 思いつきます。

  フランスやイングランドにも、
  「繰り返しの歴史」に属する人々が 存在すると思いますが、

  500年にわたる「国民国家」の歴史の中で、
  「積み重ねの歴史」のるつぼの中で 同化されたと想像しています。

  私が、東欧の人々とユダヤ人だろうと思ったのは、
  ヨーロッパは、人種差別の激しい地域だからです。

  これまでの歴史で、屈辱的な経験をしてきた人々が、
  今までのうっ憤を晴らそうと 行動し始めることは
  理解できます。
  
  ヨーロッパが 差別社会である 例としては、

  1.ジョコビッチが、
    ご自身のの健康上の理由から コロナワクチンを接種していなかったので

    全豪オープンに招待されたのにもかかわらず、入国 を 拒否されました。

    これは、
    私には、ヨーロッパ人の人種差別の表れの一端 が、
    垣間見られたような気がします。

  2.また、F1のセナが、
    人種差別 で いい加減 我慢がならなかったところに
    ホンダが、才能を認めて 差別なく一緒に仕事をして
    チャンピオンになりました

このように、
ヨーロッパやアメリカでは、
1級国民と2級国民の間に 格別とした扱いの差があるのです。

突然 このようなことをお読みになって
びっくりされている方もおられるかと思いますが、

例えば、
WASP(白人、アングロ・サクソン、プロテスタント) が
アメリカの最上級国民だということを思い起こしていただければ
ご理解いただけるのでは、という気がしています。

ディープステートを 裏で動かしている人々
言い換えると
「積み重ねの歴史」に対する「繰り返しの歴史」の復讐 を
裏で指令している人々 について、
現在明確に特定されていませんが、

「積み重ねの歴史」の歴史と共に歩んできた
ヨーロッパの「繰り返しの歴史」に属する人々という観点から
推定すると、

先ほど述べたように、
長い間差別されてきた 東欧の人々とユダヤ人が 浮かんできます。

私は、
ユダヤ人の可能性が高いのでは?という気がしています。

理由は、
1.「積み重ねの歴史」に貢献して 名を遺した人々が 多数存在すること
2.ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラー など
  豊富な資金を有する人々が 存在すること
3.キッシンジャーさんなど、
  現在アメリカで影響力を保持するユダヤ人が何人もおられること

ユダヤ人は、
個人として「積み重ねの歴史」において多大な貢献をしてきましたが、
あくまで個人の才能によるものであり、

民族としてのユダヤ人が、
「積み重ねの歴史」に貢献することはありませんでした。

ユダヤ人 は、
従来から、政治の裏側で、影響力を行使していたのだろうと思いますが、

2020年のアメリカ大統領選挙で、2016年のヒラリー候補に続いて
バイデン候補も トランプ大統領に敗北しそうな状況に直面して
従来裏方だった人々が  表面に登場するようになりました。

しかも、
登場の仕方が、非常に暴力的で、アウトローの行状であり、
バイデン政権が 登場してからのこの2年間は、
アメリカを貶め、破壊しようとしているような政策が表面化して、
今まで 存在すら不確かだったディープステートの存在が
露になってきたのです。

動画では、
グローバリストは、
自分の利益のためには、何でもすると非難する方がおられますが、

私には、
バイデン大統領をはじめとする ディープステート や
EUの政策を見ていると

彼らは、

19世紀の帝国主義者の後継者であり、
「積み重ねの歴史」の経過するにつれて 実現するであろう
地域共同体を担う人々とは、本質を異にする人々

即ち
「繰り返しの歴史」に属する人々であろう
という気が、しています。

広義 と 狭義 の 2つのグローバル化 について


いずれにせよ、バイデン政権の登場により、
今まで後ろに隠れていて、存在が不確かだったディープステートが
白日の下にさらされつことになったのです。

現時点では、依然として
ディープステートを支配している人の正体が不詳ですが、

ディープステートの存在とその行動が 露になった点で
バイデン政権の貢献が大きかったというべきでしょう。

バイデン大統領は、不思議な性格を持つ人物です。
普通 犯罪行為を行った人間は、 それを隠すものですが、
バイデン大統領は、それを自慢されるのです。

例えば、
2020年の大統領選挙の際に
今までにない犯罪組織を作り上げた と発言されておられると
ネットで報道されました。

また、
副大統領時代、ウクライナに赴いて、
アメリカの援助が欲しければ、検事総長を首にしろと脅して
実現させたと自慢する動画がありました。

民主党が、トランプさんを
ウクライナに内政干渉したと攻撃しているのに

自らが 内政干渉したと自慢するのは、
私の理解 を 越えています。

更には、
最近 バルト海のロシアからドイツへの海底パイプライン が
破壊されましたが、

ロシアがウクライナに侵攻する前に、
もしロシアが戦争を始めたら、海底パイプラインが機能しなくなる
と、爆破の予告ともとれる発言をした と、報道されています。

このように、
日本で一般に報道されているのとは異なる発言をされておられることを踏まえて、
歴史の推移を見るべきだと考えています。


以上、
ブッシュ大統領(ジュニア)時代に感じた 覇権国 アメリカの 危険性について
時間の経過とともに 私なりに理解したことをお話しさせていただきました。

歴史認識について 少しでも参考になれば 幸いです。


ご参考までに、「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」について
過去にアップロードしたいくつかの文章を リンクさせていただきます・

私の歴史の見方に対して ご興味がおありの方は、ご覧いただければ幸いです。

 

「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」

「積み重ねの歴史」で 積み重ねられるもの

「歴史哲学講義 上、下」





  

  

 




 

 

 





 

 

| | コメント (0)

2017年8月13日 (日)

ウソ;ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪  ・・・第2回 キリスト教における「ウソ」            2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機 

前回より、

ヨーロッパ史の本を読んでいる内に、
ヨーロッパ文明の根幹であるキリスト教と法学において、

「ウソ」は、その本質から避け得ないし、
「ウソ」が存在することを是認していることについて

お話しさせて頂いております。


今回はその第2回目として

「 キリスト教の歴史認識から見た「ウソ」の誕生の契機」と題して
お話しさせていただきます。




   ウソ ; ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪


  第1回 キリスト教における「ウソ」
       1.キリスト教徒の言行不一致
         *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post.html


  第2回 キリスト教における「ウソ」
       2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-c914.html


  第3回 法学における「ウソ」
       1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて
       2.法学が避け得ない根本的な問題
         ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-d25f.html


  第4回 法学における「ウソ」
       3.リーガルマインド とは、
         事案の解決 を、法に拠るか、ウソに拠るか を
         適正に判別し、決定する センス、能力 である
         ・・・末弘厳太郎著「嘘の効用」抜き書き・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7325.html


  第5回 法学における「ウソ」
       ・・・法とは 何か?
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f196.html



  第6回 法学が 他の学問と異なる本質 を 有するものであることについて
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4b7d.html




     **********




第2回 キリスト教における「ウソ」

2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機



キリスト教やキリスト教会の歴史の本を読んでいる内に、

キリスト教の歴史上の出来事は、
2つのキーワードで説明できるのでは、

従って、
2つのキーワードが、
キリスト教の本質を表しているのでは との仮説に到達しました。


この仮説については

    キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・

    1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)
    2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)
    3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html

で、お話しさせていただきましたし

今回のお話は、
上記のブログの繰り返しでもありますので
ここでは 簡単に ポイントだけ ご説明させていただきます。


キリスト教の本質を説明できる2つのキーワードとは

① 「神を定義しない」
② 「神に囚われているとの教え」です。



① の 「神を定義しない」について

  キリスト教が神を定義しない理由は、

  A.有限の存在である人間が、
    無限の存在である神を定義することは不可能である ことと、

  B.神を定義するためには、言葉を使用するが、
    言葉は、ある限られた範囲しか説明できない有限の存在であり

    その有限な存在である言葉によって、
    無限の存在である神を説明することは不可能である
  ということだと、推察しています。



② の 「神に囚われている」について

  神への信仰を深めていけば行くほど
  神の教えの意味がよく分かるようになり、

  あるとき、
  自分は、神の教えに服従している=神に囚われているとの境地に
  達するのでしょう。

  そうなると、
  神に囚われている自分の考えや行動は、
  神の啓示に従って 考えたり、行動していることになるので、

  自分の考えや行動は、
  神の考えや行動と同一である、と確信を持つようになるのだろうと思います。

  即ち、
  自分の考えること、行動することは、
  全て神と同一であり、絶対的に義(ただ)しい
  と、確信を持つようになるのです。、

  例えば、
  トマス・アクィナスの先生である アルベルトゥス・マグナスは、

  限界ある理性に基づく「哲学」は、誤りを犯す可能性があるが、
  理性では把握出来ない 啓示された真理を前提にする「神学」は、
  一層確実であると述べておられます。

  即ち、
  人間の論理に従っている「哲学」は間違えることがあるが、
  神の啓示に基づく「神学」は、間違えることはあり得ない、
  と、おっしゃっておられるのです。



ところで、

考えや行動が、神と同一であるとの確信は、
あるキリスト教徒の頭の中で生じていることです。


他人から見たら、

あるキリスト教徒の主観が生み出した真実が、
証明もなしに、その人にとって客観的な真実となるのです。


また、
神について定義がありませんので、

あるキリスト教徒が理解した神が、客観的な神となるのです。


極端な場合、

あるキリスト教徒が、殺人鬼を神と認識したら、
殺人が、神に承認された義しい行為となるのです。


カルヴァンは、

自分の言うことは、神が言っていることだと、
ジュネーヴのキリスト教徒に宣言して、
何人もの人を殺しています。


ここに、「ウソ」の契機があるのです。

神と自分は同一だ と、考えるあるキリスト教徒が、
神が言っていることだ と言った場合、

信仰心から出た言葉なのか、
それとも、
他の動機、例えば、その人の立場や邪念から言ったことなのか、

第三者が、証明できないのです。


即ち、
その人が「ウソ」をついたかどうか、
他人には分からないのです。


佐々木毅先生は、「近代政治思想の誕生」で、

同じキリスト教の指導者であるカルヴァンとジョン・ノックスが、
全く正反対の主張を述べている と、記述されておられます。


カルヴァンは、

支配者は、神に由来し、神の代理人だから、
臣民は、支配者に服従せねばならない。

悪しき支配者が与えられたら、

それは、
臣民に対する神の裁きであると主張しています。

  出所;佐々木毅「近代政治思想の誕生」122㌻~125㌻(岩波新書)


これに対して、
ジョン・ノックスは、

貴族も又、王と同様に、
その地位を神によって与えられた神の代理人であり、

王が、「真の宗教」の敵となるならば、

神の名誉と栄光とを妨げる(王の)所行を強制、抑圧することは、
他の「神の代理人」たる貴族の義務である。

  出所;佐々木毅「近代政治思想の誕生」135㌻(岩波新書)


要するに、

ジュネーヴの王様だったカルヴァンは、
王様に従うことを 神が命令している と、主張し、

スコットランドの宗教改革家のジョン・ノックスは、

貴族の抵抗権を主張して、
王に刃向かうべきだ と、主張しているのです。


カルヴァンも、ジョン・ノックスも、
自分の考えや行動は、神と同一であるとの境地に達した人でしょう。

そのお二人が、正反対の主張をされるのは、

信仰ではなく、
それぞれの政治的立場からではないでしょうか。

神が、おっしゃっている、要求されておられる との言葉は、
自分の立場からの「ウソ」だと、私には思われます。


このように、
「神が、望み給う」と、キリスト教の聖職者がおっしゃるとき、

本当の信仰からではなく、
別の動機から 「ウソ」をついていることが、あり得るのは
確かではないでしょうか。


また、
キリスト教は、

聖職者が、このような「ウソ」をつくことを、
当たり前のことと、認めてきた 歴史的事実 が、
いくらでも存在していますので、

キリスト教の本質に 「ウソ」の契機が存在し、

キリスト教 も、
「ウソ」を是認していると言わざるを得ないと考えています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ウソ;ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪   ・・・第1回 キリスト教における「ウソ」          1.キリスト教徒の言行不一致              ***キリスト教徒の皆さんへの質問状***

ヨーロッパ史の本を読んでいる内に、
ヨーロッパ文明の根幹である キリスト教 と 法学 において、

「ウソ」は、その本質から避け得ないし、
「ウソ」が存在することを是認しているのでは、

と、考えるようになりました。


ヨーロッパ文明を理解する上で、避けて通れない
「ウソ」についての認識を深めるために、

6回に分けて、キリスト教 と 法学 について
お話しさせていただきます。




   ウソ ; ヨーロッパ文明の本質に内在、是認された悪

  第1回 キリスト教における「ウソ」
       1.キリスト教徒の言行不一致
         *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post.html


  第2回 キリスト教における「ウソ」
       2.キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-c914.html


  第3回 法学における「ウソ」
       1.法学の本質は、「リーガルマインド」であることについて
       2.法学が避け得ない根本的な問題
         ・・・法曹(法律専門家)のウソ と 本心について・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-d25f.html


  第4回 法学における「ウソ」
       3.リーガルマインド とは、
         事案の解決 を、法に拠るか、ウソに拠るか を
         適正に判別し、決定する センス、能力 である
         ・・・末弘厳太郎著「嘘の効用」抜き書き・・・
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7325.html


  第5回 法学における「ウソ」
       ・・・法とは 何か?
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-f196.html



  第6回 法学が 他の学問と異なる本質 を 有するものであることについて
         http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4b7d.html



     **********




第1回 キリスト教における「ウソ」

1.キリスト教徒の言行不一致
  *** キリスト教の皆さんへの質問状 ***




キリスト教やキリスト教会の歴史についての本を読んでいる内に
キリスト教の本質について、一つの結論(仮説)に至り、

その結果、キリスト教で「ウソ」が生じる契機はこういうことなのだな
と、考えが整理できました。


この点については、
次回(第2回) キリスト教の歴史認識からみた「ウソ」の誕生の契機
で、お話しさせていただきますが、


私の上記の結論(仮説)は、

所詮、
キリスト教の外側からの分析ですので、
キリスト教を信じておられる方には

「又か」、「相変わらずの神なき者によるキリスト教批判だな」
と、即座に否定され、歯牙にもかけてくださらないだろう と、思いますので、


今回(第1回)は、

キリスト教の信仰の根幹だと、
キリスト教を信ずる皆さんが おっしゃっている点 についての 私の疑問、

あけすけに言うと、

キリスト教を信じている方は、
「ウソ」を承知の上で、その「ウソ」に安住されておられるのでは、
と、考えている事について、率直に お話しさせていただき


キリスト教徒の皆さんから、
「私の疑問が、間違っている理由」について、分かり易い、納得あるご教示を
いただけることを、切に願っています。



私は、
キリスト教に関していくつも疑問を持っていますが、

焦点を絞るために、
今回は、次の「3つの疑問」について ご質問させていただきます。

  ① 原罪 について

  ② イエスの十字架上での贖い について

  ③ 悪の権化というべき「神」を、 
    善なる存在として信じる理由についての質問
    *** 神は、詐欺師、殺人鬼、卑劣漢では



① 原罪 について


キリスト教は、

アダム と イヴ が、神の言いつけに逆らって、木の実を食べたことから、
人間は原罪を負ったので、「悔い改めよ」と教えておられます。


キリスト教を信じない者からは、

何で、

アダムとイヴという他人が行った罪によって、
全く関係ない全ての人類が、

即ち
生まれてすぐ亡くなった赤ん坊や
キリスト教を信じていない人間までが
原罪を負ったことになるのか、


更には、

公園管理規則違反とも言うべき微罪で、

人類全体が、罪を負ったこと断定されて、
未来永劫その罪について償わなければならないのか?

との疑問が提起されますが、


ここでは、上記の疑問を棚上げして、

「人類は、原罪を負っており、悔い改めなければならない」との
キリスト教の教えに従うものとして、 お話を進めさせていただきます。



「原罪を負っているのだから、悔い改めなければならない」
と考えると、

キリスト教の皆さんは、
次の疑問にどの様に回答いただけるのでしょうか。


聖書では、

蛇が 女(イヴ)に
「それ(木の実)を食べると、目が開け、神のような善悪を知るようになることを、
 神がご存じなのだ。」

女(イヴ)が見ると、
その木は、いかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。
・・・(以下略)

と、記述されておられます。

 出所;聖書スタディ版 新共同訳(日本聖書協会) (旧)4 創世記 3.4-6



イヴが食べた木の実は、
子供の頃 教えられた「リンゴの実」ではなく、「知恵の実」だったのです。


従って、神様は、

「木の実を食べれば、人間が知恵を持ち、賢くなる。
 しかし、人間は、知恵を持ってはいけないし、賢くなってもいけない」,
と、考えられて

木の実を食することを禁止されたのだと考えるのが常識でしょう。


その神の教えに逆らったから、
人類は、原罪をおったのではないでしょうか。



そう考えると、

キリスト教の信者は、
知恵を持ってはいけない。

即ち、

「無学文盲」で、
「ひたすら神を信じるだけの存在」でなければならない、
ということを

神様は、
信者に命令しているのではないでしょうか。


ところが、

歴史上、知恵に対して嫌悪感を示した聖人は、
アッシジのフランチェスコだけのような気がしています。

中世の教皇は、
イノセント3世を筆頭に、優秀な法学者(教会法)が即位されておられます。

イノセント3世がら、フランチェスコ会の指導を命じられた
教皇 グレゴリウス9世(枢機卿 ウゴリーノ)は、

アッシジのフランチェスコの教えをを無視して、
ボローニャ大学などで学んだ法学者(教会法)を
フランチェスコ会の指導者に任命していますし、

後に、カトリック教会は、
アッシジのフランチェスコの衣鉢を継ごうとする聖霊派を、
異端として弾圧して火刑に処しました。


神の教えに従うなら、
聖書を読むことすら禁止されて当然ではないでしょうか。

ところが、
キリスト教は、聖書を読めと信者に勧めておられますよね。


ましてや、キリスト教徒が、
学校で、学問を学ぶのは、異端であり、信者としては気狂い沙汰
と 言うべき所行 ではないでしょうか。


肉体にメスを入れることは、神に禁止されている
と、主張して、

手術しなければ命を失うのに、手術を拒否する
キリスト教の一派がある と、聞いています。

信仰は、命よりも優先するとするのが、
キリスト教ではないでしょうか。


楽園追放の物語は、
聖書の最初に記述されていますので、
キリスト教徒なら、当然聖書をお読みになっておられるでしょう。

だとしたら、
神様が、人間に知恵を持つことを禁じたことはご承知のはずです。

また、
人類は、原罪を有しているから、悔い改めねばならないと、
キリスト教の内部で確認し合うと共に、

キリスト教の布教の際にも、
聖書を読むように勧めると共に、
「悔い改めよ」と周知されておられるのではないでしょうか。


神が禁止した知恵を持ちながら
(原罪を持ちながら)、

更には、

知恵を、更に追加して持とうとしながら、
(原罪を、故意に繰りかえそうとしながら)

「神に従え、悔い改めよ」 と、おっしゃるのは、

言行不一致であり、
「ウソ」をついていることにならないでしょうか。


キリスト教信者の方から、
「ウソ」ではない、との理由をご説明いただければ、幸いです。

また、
知恵を放棄しないことを正当化する、信仰上の論理を
ご教示いただければと願っております。


なお、
「原罪を負ってしまった事実を素直に認めて、
 悔い改めねばならないのだ」というのは、

回答にならないことを、あらかじめ申し上げておきます。

この言い方は、
「毒を食らわば、皿までも」であり、
本心から「悔い改めよう」としていないことを表白しているからです。

即ち、
知恵を放棄していませんから、

口先では、
「原罪を負っているから、悔い改めよ」と、言いながら、

行動 は、
神が命令した禁止条項を無視し、
禁止された行為を、止めようととしておられないので

「神を信じていない」と、おおっぴらに表白していることを
意味しているのです。


また、
「人間は弱い者だから」というのも、
同様に、回答にすらなりません。


更には、

「知恵を持たなければ、生きていけない」との居直った言い方は、

「私は、本当のところはキリスト教を信じていません、偽のキリスト教徒だ」
と、おっしゃっていることになります。


何故なら、

キリスト教における、最初の 最も本質的な神の命令 に 従えないのなら

「私は、キリスト教信者ではない」 と宣言していることを
意味するのではではないでしょうか。

もし、
それでもキリスト教徒であると、おっしゃるのであれば、

「ウソ」ついていることを承知し、自覚した上で、
キリスト教徒を名のっていますよ と、おっしゃっておられることになる
と 思いますので、

「詐欺師とも言うべき 不誠実で、最も悪質な人間だ」
と、軽蔑されることになると思います。





2017年12月9日 追記

キリスト教徒の友人より、

神が知恵を持つことを禁止しているとの考えは、
聖書の読み間違えである

と、強く指摘されましたので、

ちょっと理屈っぽい聖書の解釈論になり 恐縮ですが、
友人に反論した内容をご説明させていただきます。


A.友人の主張

  神は、
  「園の木の実は、何を食べても良いが、
   中央に生えている木の実だけは食べると死んでしまうので、 
   食べてはいけない」 

  と、イヴに、理由を説明して食べるのを禁止した。

  これに対して、
  イヴは、蛇の誘惑に負けて
  神の命令に背いて 木の実を食べことにより 原罪を負ったのであって、

  神が、「人間が知恵を持ったはいけない」と、禁止したたわけではない。

  即ち、
  神は、「人間が知恵を持ってはいけない」と明言していないので、
  神は、人間が知恵を持つことは認めておられる。


  また、
  人間は、自分の判断で、知恵の実を食べて、原罪を犯した。

  これは、

  神が、「自由意志」を人間に与えたため
  人間が、自由意志を使って、原罪を犯したのである。

  従って、
  神は、事前に、警告を与えた以上、それを無視したのは人間に責任があり
  神は、人間の犯した原罪について 全く関係していないし、責任も有しない。



B.私の反論

  イヴが、神の命令違反したことは否定していません。(認めています)

  友人と私の考えの異なるのは、
  「人間が、知恵を持ってはいけない」と、神が禁止しているか、否かです。

  聖書によると、神は、地上のあらゆる者を創造されました。

  エデンの園の植物も、動物も、
  全て神が、永遠の生命を持ったものとして創造されたのでしょう。

  ただ、知恵の木だけは、その実を食べると、永遠の命を失い、
  死すべき者に貶めることにしたのです。

  それ故に、
  イヴに、「知恵の木の実は食べるな」と、命令したのだろうと思います。


  キリスト教徒の方は、

  神は「全知全能」であるとおっしゃりながら、
  都合が悪くなると神の「全知全能」を知らんぷりして、無視されます。
  
  今回もその典型では?という気がしています。


  いろいろな木がある中で、知恵の木だけを、
  「その実を食べたら永遠の命を持たなくする」と、決めたのは、神様でしょう。

  普通の木の実を食べていれば、永遠の命を保てるのに、
  知恵の木の実だけ、そうしなかったのは、

  神以外は、知恵を持ってはならない、

  言い換えると、
  人間を含めて全ての創造物に、知恵の保有を禁止する と、
  神様が、考えられていた現れではないでしょうか。

  キリスト教信者の友人が、
  「神が、知恵の木の実を食べたら死すべき者となる と、警告された」
  との 聖書の一部の文章だけを取り出して、

  だから、
  神は、人間が知恵を持つことを認めていた とおっしゃるのは、
  キリスト教特有の詭弁を弄しておられるなと、感じられます。


  神は、天地を始めとして 全ての植物や動物を創造されました。

  知恵の木を作る際に、他の木と同様に、
  その木の実を食べても、死すべき者にせねばならなかった必然はないのです。

  言い換えると、
  神が、知恵の実を食べたものは、永遠の命を喪失することにしようと、
  意図されたのです。

  ということは、
  神に創造された者が、神同様に 知恵を持つことを嫌ったのです。

  更に、
  イヴに、その木を食べるなと命令したのですから、
  人間が、知恵を持つことを禁止したのです。


  しかし、神は、全知全能ですから、

  本当に人間に知恵を持たせたくなかったら、
  最初から、そのように 創造すれば 良かったのです。

  知恵の木の実を食べたら、命令違反の原罪を負うことになる
  との罠を、仕掛ける必要は無かったのです。


  何故、神は、
  人間が、知恵を持たない存在として創造しなかったのでしょうか?

  神は、「全知全能だ」と 言いながら、
  何故、
  神の意向が実現しないような創造を行ったのでしょうか?


  神が、
  神の意志を実現しないように人間を創造しておきながら

  神の命令に人間が違反したから、全ての人間は原罪を背負っている
  と、主張するのは、メチャクチャではないでしょうか。


  神が、全知全能であるなら
  人間が、神の命令に違反することを分かっておたれたし、

  少なくとも、
  それはそれでも良い と、考えておられた
  と、考えるのが常識的な考えでしょう。

  言い換えると、

  人間に、表向き 禁止はするけど、
  人間が、知恵を持つことは、黙認しよう
  
  と、神が考えておられた
  と、いうことではないでしょうか。


  それなら、
  神が黙認した知恵を持ったことで、

  何故、
  原罪を犯した、神の命令に違反した、
  と、キリスト教は、攻めるのでしょうか?

  何故、キリスト教は、
  原罪を悔い改めよと、言い続けるのでしょうか?


  要するに、
  聖書は、神でなく人間(ユダヤ人)が作ったものであるほころび(矛盾)が
  ここにも現れているのだろうと思います。

  人間が、神と異なって、死すべき者であることを説明するために
  人間が、神の命令に違反して知恵を持ったから、

  神により
  永遠の命を召し上げられて死すべき者となり、エデンの園から追放された
  とのお話を創作

  あけすけに言うと、でっち上げた のです。


  それを素直に読んだ人間が、

  だとしたら、
  神は、人間が 知恵を持つことを禁止しながら
  キリスト教徒は、知恵を持つことを奨励しているのは

  神の教えに反するのでは?と疑問を呈すると、

  慌てて、
  理屈なしに 強引に否定しているのです。


  このように、神が、
  人間に知恵を持つことを禁止してるとの建前を作っていながら、

  人間が知恵を持っている現実があるので、
  ほころび(矛盾)が生じているのです。

  
  このほころび(矛盾)を、素直にほころび(矛盾)と認めず、
  原罪を悔い改めよと、言い続け、

  しかも、神を信仰し、
  神の教えに従って生きていくと宣言しておられるのが
  キリスト教徒の皆さんなのです。


  そのキリスト教徒の皆さんが、
  知恵を持つ ということは、

  神の命令にあえて逆らって、神を冒涜する
  キリスト教徒として、あるまじき行為では?
  と、思いますし、

  原罪を悔い改める気が無いのに、
  「悔い改めよ」とのウソをついていて

  本心は、
  神に従う気が無く、神を信じていないのでは?等の非難を、

  甘んじて受けねばならないのでは?と、思います。


  以上に述べたように理解するのが、
  何故、
  聖書を誤解していることになるのでしょうか。


  聖書スタディ版 新共同訳(日本聖書協会) (旧)5
    3.5 善悪を知る の 注記では、次のように解説されておられます。

  「男(アダム)と女(イヴ)は、
   神が知っていることを知るために、木の実を食べるように誘惑された。

   おそらく
   「この特別な知識を持てば、私たちも、神のようになれるかもしれない」
   と、思ったのであろう。

   ・・・(途中略)・・・

   初めに 神と人との間にあった 完全な関係 は、ここで 壊された。」


  この解説を素直に読むと、
  「神が、人間が神のようになるのを嫌って、木の実を食べるのを禁止した。
   即ち、
   神は、人間が知恵を持つことを禁止した」

  との反対解釈が、成立するのではないでしょうか。、



  友人の主張の後半部分(人間の自由意志論)についても
  神の全知全能を都合良く無視しているなと、首をかしげています。

  神が「全知全能」であるということは、全てをお見通しだということです。

  即ち、
  神は、人間に、「自由意志」を与えれば、

  神を 無視して 勝手な行動をとり、どの様な結果になるかについて
  最初から分かっておられて

  人間に、「自由意志」を与えたのです。


  ですから、

  形式的に、一度警告を与えれば、神が 免責されるし、神は 関係ない
  と、いうのは、

  神の「全知全能」を無視する 大変な神への冒涜 に なるのでは?
  と、感じられます。


  神は、
  「全知全能」でおられるので、全てをお見通しであるから

  人間の行動に対して、全て責任を有する、
  今風に言うと、
  人間に対する「製造物責任」を負っておられる

  と、考えるべきでしょう。


  もし、
  神が、「全知全能」でないとしたら、

  神は、人間の行動に関する責任は全くない
  と、言うことができると思いますが、

  「全知全能の神」と称するからには、
  「全知全能」の責任も有していると言うべきです。


  更に、
  神のイヴに対する警告にも、瑕疵があるのでは?
  と、感じられます。

  というのは、
  神は、イヴに

  「園の中央に生えている木の果実だけは、
   食べてはいけない、触れても生けない、死んではいけないから」
  と、警告しているのですが、

  知恵の無いイヴに対する警告としては、
  不十分では、

  踏み込んで申し上げると
  原罪を犯させるための警告だったのでは?

  とさえ 感じられる警告 では ないでしょうか。


  案の定、イヴは、蛇に

  「決して死ぬことはない、
   それを食べると、眼が開け、神のように善悪を知るものとなることを
   神は、ご存じなのだ」

  と、誘惑され、その誘惑に乗っているのです。


  神がおっしゃった「死んではいけない」とは、
   「永遠の生命を持たなくなる」との意味であり、

  知恵の実を食べたら 即死する との意味ではありませんでした。
  何故、この点を神はイヴに伝えなかったのでしょうか。

  私には、

  「全知全能」の神が、
  イヴ、即ち人間を エデンの園から追放するために
  罠を仕掛けたのでは?という気が、してなりません。


  知恵の無いイヴに対して、不十分な説明をしたから、

  蛇の誘惑に対して、
  イヴが適切な判断ができなかったのではないでしょうか。

  イヴが、適切な判断しないことを、神は、事前に存じで、
  敢えて イヴを そのように仕向けた
  との 神の邪悪な悪意さえ感じられます。


  勿論、
  適切な判断をしたからと言って、誘惑に負けなかったかどうかは
  分かりませんが、

  少なくとも、友人のおっしゃるように、
  神が、警告を与えたから免責されると言えるほどの警告ではない、

  人間の天邪鬼(あまのじゃく)な性格

  即ち
  禁止されればされるほど、禁止されたことをやりたくなる性格
  を 考えると

  かえって、
  神自身が、原罪を犯すように唆しておられる とも言える警告だった
  ような気がします。



  キリスト教は、歴史上、
  自分の都合にとって都合が悪かったり、意向に反する考え方に対して、

  更には、
  自分に弱みがあればあるほど 相手方に対して、

  有無を言わずに否定し、弾圧、虐殺を繰り返してきました。


  今回の友人との議論に於いて、

  キリスト教は、
  2000年来の唯我独尊の偏狭さを 相変わらず維持しているな、
  と、痛感しましたので、

  違例ではありますが、文章の途中で追記させていただきました。





② 十字架上の贖い

矢内原忠雄先生は、「キリスト教入門」において、
イエスが十字架に架けられて死亡した意味について、
次の通り記述されておられます。


  「しかるに、
   神は、人の罪を許す方法として、

   罪なきイエスに、全ての人の罪 を 負わせ、
   人に代わって、彼(イエス)を 十字架の上に 死なせた。


   人の支払うべき罪の価をば、
   彼(イエス)が代わって負担したのである。


   イエスは、
   己が罪のために 死んだのではなく、
   人の罪 を 負うて 死んだ のである。

   それが、
   人を救おうとする 神の意志の定め であった。

   その(神の)意志に対する 完全な従順 をもって、

   イエスは、
   十字架の上に 罪の贖いの死を遂げたが 故に、
   神は、彼(イエス)を復活させて、天に昇らせた。

   かくて、
   人が、イエスの十字架の死の中に、己自身の罪を認め、

   イエスが、死んだのは、

   自分(イエス以外の人)の罪のために、
   自分(イエス以外の人)に代わって死んだのであること
   を 信ずるならば、

   神は、イエスの従順 故に、かく信ずる人の罪 を 許す。

   即ち、
   最早、その人の罪の責任 を 追及しない のである。」

   出所;矢内原忠雄「キリスト教入門」101㌻(中公文庫)




矢内原先生は、

イエスが十字架で処刑されたことにより、

神は、① で述べた人類の「原罪」を、
キリスト教徒に限って赦した と、記述されておられます。

これが、キリスト教の基本的な考え方ではないでしょうか。


だとすると、疑問が生じます。

キリスト教は、イエスの死後も、
「原罪があるので、悔い改めよ」と、布教していたのではないでしょうか。

イエスの十字架上の贖いにより
キリスト教徒は、すでに原罪を赦されていますし、

キリスト教信者以外も、キリスト教信者になれば、
原罪が、自動的に赦されて、解消されるのではないでしょうか。

ですから、
布教する際に「悔い改めよ」と脅迫するのではなく
「信者になれば、自動的に原罪が赦されますよ」と、
勧誘すべきではないでしょうか


イエスの「十字架上の贖い」は、
キリスト教の信仰の根幹 を なすものであり、
キリスト教徒なら、常識の事柄でしょう。

イエスの死により、原罪が赦されているのに、
何故、
依然として「悔い改めよ」と主張されるのでしょうか。

これも、
言行不一致であり、キリスト教の「ウソ」と感じられますが、

キリスト教の信者の皆さんは、
どの様な論理で「ウソ」でないと否定されるのでしょうか、

ご教示をお待ちしています。




③ 悪の権化というべき「神」を、 
  善なる存在として信じる理由についての質問
  *** 神は、詐欺師、殺人鬼、卑劣漢では?


カタリ派の歴史の本を読んでいると、

カタリ派は、

神は善であり、悪の原因であり得ないので、
悪を創造した神以外の創造神が存在すると主張して、
カトリックに弾圧されました。


カトリックの主張は、

ニカイア信条により、
神は、物質的及び精神的現実すべての造り主である。

悪の原因は、
神に逆らった天使が失墜して悪魔になったという神話 と
アダムとイヴが犯した原罪の神話から説明される。

即ち、
悪魔となった天使も、人間の男女も、
自らに与えられた自由 を 濫用したことが原因であり、

神には、全く責任がない、
とのことです。


   出所;ロクベール「異端カタリ派の歴史」54㌻以下(講談社選書 メチエ)


カトリックの論理について、
私は、神の製造物責任について考慮していないことに疑問を感じています。

神は、全知全能ですので、
自由意志を持たせれば、どの様な事態が生じるかご存じのはずです。

その結果を知りながら、
天使や人間を創造したのですから、

やはり創造主としての神の責任は、免れないのではないでしょうか。


また、
そのように考えると、

カトリックのカタリ派への弾圧は、

論理面、宗教面で敗北したから、

組織論理に従って
宗教的な権力を世俗面で振り回して、

論争上、宗教上で 勝利したカタリ派 を 弾圧、抹殺した
と、言えるのではないでしょうか。


それはさておき、

私の神に関する根本的な疑問は、
「神は、善なる存在なのか?」というものです。


私には、

神は、
詐欺師 で 殺人鬼、かつ 卑劣漢だ
と、思われます。



A.詐欺師である点

  神は、ユダヤ人を、
  チグリス・ユーフラテス川下流から上流を経由して、
  カナンの地に導きました。

  ところが、
  カナンでは食料が得られず、
  ユダヤ人は、エジプトに避難しました。

  その後、
  カナンに戻ったのですが、

  状況が同じなので、もう一度エジプトに戻って、
  ファラオの奴隷として数百年間過ごしました。

  神は、
  モーセを使って、
  カナンに移住させると、エジプトより連れ出しましたが、

  彼らを、50年間荒野でさまよわせて、
  モーセを含む全員が、カナンに移住でず、荒野にさまよいながら死亡しました。



  旧約聖書では、いろいろな記述があると思いますが、

  この話を全体で見たら、
  カナンに導くと言っておきながら、到達できなかったのですから、

  豊かな国に導くと言ってユダヤ人を欺罔した「一種の詐欺だ」
   と、言えると思います。



B.殺人鬼である点

  神は、大変な数の人 を 殺しています。
  この点については、次のブログをご覧下さい。

  旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html



  神を信じているユダヤ人はもとより、
  神が創造したエジプト人やカナン人も大量殺戮しているのです。

  更に、
  エジプトよりユダヤ人を連れ出すときに、
  モーセを指導者として登用していますが、

  モーセも又、殺人犯なのです。



C.卑劣漢である点

  シナイ山で、モーセが十戒を授けられた後、麓に戻ったら、

  モーセの留守番していたユダヤ人が、
  異教の神を信じてお祭り騒ぎをしていました。

  そこで、
  神とモーセが激怒して、ユダヤ人を大量殺戮したのですが、

  ユダヤ人を 異教に導いた モーセの兄アロン は、
  殺されるどころか、
  ユダヤ教の初代の大祭司に任命されて、神から厚遇されています。


  アロンが、ユダヤ人を異教を導いた元凶であり、
  処罰するなら、最初に処罰されるべき存在なのに、

  モーセの兄だと言うことで、逆の扱いをされています。

  殺されたユダヤ人にとって、こんな理不尽なことはないでしょう。


  アロンの子孫で、やはり殺人犯がいますが、
  これも又、
  何事がなかったように大祭司に就任しています。


  更には、
  なんやかんや言いながら、ユダヤ人の面倒を見ている神ですが、

  ユダヤ人以外のエジプト人やカナン人については、
  獣を殺戮するがごとくの扱いをしています。

  彼らも、
  神が創造した人間ではないでしょうか。

  神を 信じなくなったのは、
  神が、そのように創ったからであり、

  自分の失敗 を 棚に上げての行状 は、
  「卑劣そのもの」ではないでしょうか。


以上、
詐欺師、殺人鬼、卑劣漢である神を信じる理由を、
キリスト教徒の皆さんより ご説明くださるよう、お願いします。



今回お話しした
キリスト教を信ずる皆さんにとって、
なんたる異端と激怒されることは承知しています。

Youtube を 見ていると、

ザヴィエルが、日本に布教に来た際に、

庶民から、「神は、何故悪を創ったのか」と質問されて答えられず、
ノイローゼになって、中国に逃亡したとの話 を 見たことがあります。

この話が、本当かどうか、疑問に感じていますが、
キリスト教において、「悪」や「ウソ」を教理上どの様に位置づけるか は、
重要な問題だと推察していますので、

今回の私の質問に、冷静で学問的な神学 をご教示いただければ
と、願っております。


信者の皆さんとお話しすると、

最後は、
「神なき者に何を言っても理解されない」
と、罵倒されて終わってしまいます。

今回お話しした疑問は、キリスト者の行動に対する 論理上の問題 ですので、
私の疑問の間違っている点を、論理的ご指摘下さるようお願い申し上げます。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2016年3月25日 (金)

ヘーゲル「歴史哲学」における進歩史観やマルクスの史観は、キリスト教終末論のパクリでは?

ヘーゲルやマルクス、
更には、
フクヤマやE・H・カーの進歩史観について、

「なぜ、この様な妄想とも言うべき発想が生まれるのだろうか?」
と、長年 疑問に 思ってきました。


ヘーゲルの進歩史観について、

進歩という無限運動が、何故 目標に達したら、ストップするのか?とか、
自由の実現は、あり得ない とか、
歴史の進歩とは、何ぞや?とか

個別の事項に対する批判は、勿論あるのですが、

それ以前に

常識的に 妄想としか思えないような、
「歴史は、自由の実現という目的に向かって進歩する」という、

ヘーゲルの根本的な構想が、どこから生じたものなのか?、が、
本質的な疑問だったのです。


長年 考えるうちに、

進歩史観というものは、
「積み重ねの歴史」を、「繰り返しの歴史」に 路線を転換させるために、
作り出された理論ではないだろうか、

と、考えるようになりました。


(注)「積み重ねの歴史」「繰り返しの歴史」は、
    私一人だけの絶対的少数説ですので、

    ヘーゲルは、
    この様なお考えを、感覚的に持っておられたのでは?
    と、想像していたのです。


ヘーゲルの進歩史観は、

あるところ(目標達成)まで、歴史は 進歩(前進)するけど、
目標を達成したら、繰り返しの歴史に安住して、

それ以降、
歴史は進歩(前進)しなくなる、

と、説明すると、ぴったり当て嵌まります。


ヘーゲルが、
何故、この考え方に至ったかについて想像すると、

ヘーゲルやマルクスは、
「積み重ねの歴史」の重圧に耐えられないので、

一度走り出した「積み重ねの歴史」を、「繰り返しの歴史」に戻そうとして、
進歩史観という歴史観を創造したのでは?

と、説明すると、一応の回答となります。


多分、この様なことだろう、ほぼ結論が見えたな
と、感じているところで、

最近、
「ミレニアムの歴史」(J・P・クレーベル著、新評論)を、読み出してみたところ、
次の文章を読んで、あっと吃驚してしまいました。

(注) 「ミレニアムの歴史」は、

    キリストが再降臨して、最後の審判がなされると考えられた
    西暦1000年頃のヨーロッパの人々の<紀元1000年の恐怖>について

    記述された本です。


クレーベルは、次のように 記述されておられます。
(番号は、参考のため 私がつけました。)


「ユダヤ・キリスト教的終末論」は、

 1.<始まり>の時の
   無垢さと純粋さ を 再現するためには、

   再創造すべき世界 を 浄化して、<空>に しなければ ならない、
   という 古い信仰の立場 を なおも  とっている

   宇宙 が、
   新しい世界を生み出すためには、

   古いものは、
   全く根こそぎ 消え去らなければ ならないのである。


 2.その終末論 は、
   来たるべき宇宙開闢 を あらかじめ示したものであり、

   「新しい創造は、
    この世界 が 決定的に 廃されない限り起こり得ない。

    この世界を
    完全に再創造するためには、

    もはや 堕落したものを 再生するのではなく、
    古い世界 を 根絶することが 重要なのである。

    <始まり>の 至福状態 に 固執することは、
    存在したが故に 堕落した 全てのものの根絶 を
    要求することになる。

    初めの完全さ に 戻ることだけが、
    唯一の可能性 なのである。」

   (「   」の部分は、
    ジョルジュ・デュヴィ「紀元千年」よりの引用だそうです)


 3.この原初の完全状態というものに、
   ユダヤ・キリスト教的終末論は、新しく重要な概念を付与している。

   即ち、
   崩壊の後に再創造される世界は、

   原初に、
   アダムに提供された黄金時代の、最初の創造の世界 と 同じものとなろう。

   ただし、
   今度 再創造される世界は、永遠である。

   単に、終わりがないということではなく、
   この世界は、変わることがない。

   この世界は、あるがままに続き、
   発展も、進歩もない、完全であるが為に、

   確立された秩序 を 変えようとする 欲望や誘惑 の 何ものをも
   ・・・それが、善いものであり、悪いものであれ・・・
   この世界では 禁じられるのである。

   人間は、
   もはや 空腹、乾き、寒さ、病気、抑圧されたよう欲望 も
   何も感じないだろう。

   これが幸福なのだろうか?
   退屈 や モンテ・カッシーノの修道士達 を 苦しめた 不機嫌 さえも、
   もはや、全く感じない のだろうか?

   (クレベール「ミレニアムの歴史」24㌻)


あっと驚いたのは、

最後の審判の後、
天上のエルサレム が 地上に降りてくることは、知っていましたが、

降りてきた地上のエルサレムが、どのようなものか について、
勉強不足で 知らなかったものですから、

今回の記述 を、読んでいるうちに、
ヘーゲルの進歩史観で  自由が実現した後、進歩が止まった世界が
地上のエルサレム と 重ね合わされて、閃いたからです。


クレベールは、

中世の人は、
神が、6日間で世界を作り、7日目に休まれたのと同様に、

 

千年を、7回繰り返す度に、
神の重要な奇跡を行って、人類を教え導いた と、考えていた。


キリストの降誕 は、
6回目の千年の時代の初めに起こったことで、

キリストの千年後に、
最後の審判を経て、最後の千年が始まると、考えていた

と、記述されておられます。


クレーベルの記述を読んでいると、

キリスト教は、
千年毎の循環論の中に、

イエス・キリストの降誕以後の千年について、
最後の審判に向けて、歴史が歩んでいく との 直線論を導入したところが、

他の宗教と異なっている と、おっしゃっておられるような 気がしました。


そして、これこそが、
ヘーゲル の おっしゃっておられる 歴史哲学そのもの ではないでしょうか。

ヘーゲルの論理に従って考えると、
「自由の実現」した後は、地上のエルサレムが実現するので、
歴史の歩みがストップするのは当然のことなのだろう
と、納得できます。



最後の審判に向けて、歴史が歩んで行く との
キリスト教の考え方 は、

歴史の発展過程において、
資本主義が出現し、革命により社会主義から共産主義社会に至る
との マルクスの史観にも、ぴったり当て嵌まります。

その資本主義において、

資本家が、
労働者を搾取し、公害をまき散らして、疫病を流行らせ、
労働者始め大半の人民の塗炭の苦しみの上に、
支配者として、諸悪の根源として、君臨する様子は、

まさに、
資本家は、「反キリスト(アンチ・キリスト)」である と、言えるでしょう。


この資本家に対して、
労働者が立ち上がって、革命により資本者を打倒して、
新たな社会を作るとのドラマは、

神の審判の後に、地上のエルサレムが出現する話 と、そっくりです。

そして、
完全無欠な地上のエルサレムの代わりに、
完全無欠な労働者の楽園である共産主義社会が実現すれば
歴史の歩みが停止すると考えるのは、自然のことだったのでしょう。

でも、
これは、歴史が証明しているように
妄想によるイリュージョンだったのです。


いずれにしても
マルクスにおいても、

ヘーゲル同様、
社会主義社会を経て 共産主義社会が実現すると、
歴史の歩みは、ストップしますので、

これは、
地上のエルサレムは、完全無欠で、変わりようがない との
キリスト教の考えを、コピーしたものでは?
と、言いたくなるくらい、同じのもの であるような 気がします。


ネオコンのフクヤマの
「リベラルな民主主義」の実現により歴史が終わるとの歴史観も、

ヘーゲルの亜流と共に、
キリスト教の終末論の焼き直しと言うべきでしょう。



今回、考え込されたのは、

1.キリスト教が、
  如何に、
  ヨーロッパ人の心の奥底にまで 染み込んでいるか、

  キリスト教の影響力が、如何に根強いか
  に、ついてでした。


  「宗教(キリスト教)は、アヘン」と言ったマルクスでさえ、

  その歴史観の根本は、
  キリスト教の終末論という妄想に基づいているのですから、

  ヨーロッパ人は、
  お釈迦様の手の外に出られなかった孫悟空と同様に、

  キリスト教の歴史観から離れられないのだな、
  と、ため息をついています。


2.キリスト教 は、
  基本的には 「繰り返しの歴史」の世界 の 宗教 ですから、
  (循環論のベースの中に 一部 直線論(進歩論)を含んだ歴史観)

  ヨーロッパ人 が、
  ヨーロッパの歴史 が
  「繰り返しの歴史」から「積み重ねの歴史」に転換していることを認識せずに、

  相変わらず
  「繰り返しの歴史」の発想で、現在の歴史を刻んでいることに、
  憂慮に絶えません。


  即ち、
  今まで、何回か述べてきたように

  「積み重ねの歴史」は、凶暴な性格 を 持った歴史 ですから

  自分たちの刻んでいる歴史 の 凶暴性 に 気がつかずに、
  世界をリードして、歴史を積み重ねている危険性を、憂慮しているのです。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月27日 (木)

ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説) ・・・・     キリスト教謎解きの旅 の 終わりにあたって

私は、今まで歴史についての幾つかの謎を解いてきました。

謎解きの最初は、
漠として、どこから取りついて良いのだろうと
茫然としながら謎に取っつき始めるのですが、

あれやこれや考えている内に、だんだん焦点が定まってきて、
その謎を一つか二つのキーワードで説明出来るようになると、
自分なりの謎が解けたと感じて、謎解きが終了する経験を何度もしてきました。


この数年間のキリスト教についての謎解きも、同じような経過を辿って、
前回「キリスト教の本質についての幾つかの謎解き」」でお話ししたように、

1.キリスト教は、神の定義をしない宗教である
2.キリスト教の「神に囚われている」との教え

の2つのキーワードにより、
キリスト教の本質は勿論、歴史におけるキリスト教の行動を
次の説明により 簡単に出来るので、謎解きは終了したと感じています。


即ち、

信仰を深めた敬虔なキリスト教徒は、
神に囚われている故に、神の啓示通り考え行動していると確信するようになり

自分の考え、行動は、神の考え、行動と同一であるので
絶対義(ただ)しい、との確たる信念を、持つようになるが、

(自分の 主観的で 独りよがりの 考え、行動 が、神と同一であるから、
 客観的に絶対的に義(ただ)しい との確信をもつようになるが)


「神の定義」「神とは何か」についての説明がないため、

① 各人各様の神の概念を キリスト教徒がそれぞれ持つようになって、
  キリスト教徒相互で対立し、分裂すると共に、

② 倫理的な歯止めがないため、
  殺人をも神が命じたものであると正当化されることになった。


秦先生が、
キリスト教関係者が、オーム真理教について発言しないことに対して
疑問を投げかけていましたが、

キリスト教とオーム真理教とは、本質的には同じ故に、
本質が同じだということを理解しているキリスト教関係者が発言できないのだろう
と考えると、納得がいきます。



この様に、
キリスト教についての謎解きは前回で終了したのですが、

その後、
画竜点睛を欠いているなと考えるようになりました。


画竜点睛を欠いていると感じたのは、
ヨーロッパ史(含むアメリカ史)に対するキリスト教の影響力が絶大なる故に、

キリスト教の本質が、
ヨーロッパ人、アメリカ人の根底にまで染み渡って、
彼らの行動原理になっている、ということに 言及していないからです。


ヨーロッパ人にとり
宗教で育まれた「自分の考え、行動は絶対的に義(ただ)しいとの確信」は、
信仰だけでなく、全ての思考、行動の根底となっているのです。

私が何度かお話しした
「一つの価値観」しか認めない 彼らの態度も、この様に考えると、納得がいきます。


また、日本人からみると、

なんであんなに上から目線で尊大ぶるのだろう、
何故、別の見方を考慮しないのだろうか
と、感じられるのも、これが原因なのです。



最近話題になった ケネディー大使の「イルカ(海豚)漁」発言も、
彼らの行動原理に従った典型例だと感じられます。


日本人にしたら、

① 牛や豚、羊などを殺して食べているのに、
  なんで「イルカ(海豚)漁」はだめなのだろうか?

② ヨーロッパ人は、中世以来 狩りを 遊びで楽しんでいるのに、
  貧しい日本の漁民が、生活のために「イルカ(海豚)漁」をするのを、
  なんで非難するのだろうと、

ヨーロッパ人、アメリカ人は身勝手では?と、感じられます。


また、
ケネディー大使のお考えに反対の書き込みを、どんどん削除されて、
言論の自由の本家と自負するアメリカを代表される大使がされることなのか?
との批判も、ネットでされていました。


更には、
アメリカという国を代表する大使は、

アメリカ政府の考えを日本に伝えて広める役割なのに、
なんでこんな日本人の反感を買うような個人的な感情を、表明するのだろうか?

大使としておやりになることは他にあるだろうに、
と、私なんか ケネディ大使の発言にちょっと疑問を感じて つぶやいています。


日本人からみると、

いろいろな考え、価値観があるのに、
一つの価値観で一刀両断して、
これしか正義はないと居丈高に主張するのは如何なものかな?
と思われるのですが、

ヨーロッパ人やアメリカ人は、自分への批判に対しては

自分の考えが絶対的に義(ただ)しいのだから、虫けらが何を言うか?
ということになるのだろうと思います。


TPP交渉が、妥結しなかったことも、一つの典型でしょう。

アメリカが、
日本に対しては、全て自由化しろと要求するのに、
自国については、特に自動車の自由化を拒否したことが、
妥結できなかった原因であると報道されています。

これは、
日本マスコミの報道なので、一方的な見方かも知れませんが、

交渉の最初ならともかく、妥結しようとする時期に、
自分は何も譲歩せずに、相手だけ譲歩しろと言ったって、
纏まる話も纏まらないよな、
との感想を日本人は一般的に感じるのではないでしょうか。

なぜ、アメリカがこんな主張をするのか?と、考えるときに、

アメリカ人が、
自分の主張は絶対的に義(ただ)しいと考えている
というのが、彼らの行動の依って来たるものだと考えると理解できます。



以上のお話は、
歴史のちょっとした話をテーマにする本ブログには、
全くそぐわない と、恐縮しておりますが、

キリスト教の謎解きが一段落したので、ちょっと脱線して、

歴史を 知ること、考えること は、
現在を知り、将来を見通すことであることを、
少しお話ししたかったからであることをご理解下さい。


「それにしても」とのお叱りを、頂くかも知れませんが、

遙か昔の 天地創造からアウグスティヌスぐらいまでの
我々には、縁遠いキリスト教の本を読んで得た 謎解きの結果 が、

実は、
現在、日々生じている事象の理解のために適用できて、役立つことを
お認め頂ければ幸いです。



従来に引き続き、本ブログへの皆様のご支援、ご鞭撻をお願いして、
数年にわたるキリスト教(就中、原始キリスト教)の探索に
一区切りをつけたいと思います。


todoさん、有難うございました。
これからもよろしくお願いします。


<追記>

この拙文は、
本文にも書きましたように、次のブログの補足をするものですので、
こちらもお読み頂ければ幸いです。

  キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・
   1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)
   2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)
   3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)

  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年2月17日 (月)

キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・ 1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)                                   2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)                                  3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)

世界中の無数の人々の 多種多様な信仰、要望の対して、
色々な神様がおられる多神教の方が、一神教に比べて
多種類のメニューが用意して沿うことが出来るはずなのに、

どうして、
一神教=単一の神 の キリスト教やイスラム教が、世界中に普及し、
多神教は、ローカルな宗教に留まったのだろうか?

というのが、
幾つもある歴史における私の謎のうちの一つでした。


この数年間、キリスト教関連の本を読んできて、
最近 「こういうことだったのでは?」と、謎が解けたような気がしています。

以下に、私の謎解きについて、お話しさせて頂きます。



1.結論を言うと、

  キリスト教の神様は、
  お一人故に、無限の信者のニーズに応えられるのに、

  多神教の神様は、
  信者のニーズに応えるために、いろいろな神様がおられるのですが、

  それぞれの神様は、担当される個別のニーズにしか応えられない故に、
  多神教は、信者の無限のニーズに応えることが出来ないからだと思います。


  要するに、

  一神教は、
  信者が神様に、どんな信仰や要望をお願いしても、
  全てにお応えになられるのに対して、

  多神教は、
  それぞれ神様が、担当分野を持っておられる故に、

  信者の信仰や要望は、浜の真砂の如く無限にありますから、
  担当分野に漏れが生じて、全てをカバーすることが出来ないのです。



2.キリスト教の神様は、
  どうして 信者の無限の信仰、要望に対応できるのでしょうか?


  私は、
  ① キリスト教が、「神様とは何か」について定義していないことと、
  ② 「神に囚われている」とのキリスト教の教え

  ③ 更に、
    神様の活動を補助する 三位一体論の(無数の)聖霊の存在

  の、3つの要素で、説明できるのでは?との仮説を持っています。


  最初に、
  上記①②③の意味するところをご説明させて頂きます。


  ① キリスト教が、「神について定義しない理由」(仮説)

    キリスト教は、

    「人間は、有限の存在であり、
     有限の存在である人間が、無限の存在である神について
     述べることは不可能である。」

    「言葉は、ある限られた範囲しか説明できない有限の存在であり、
     有限の存在である言葉によって、無限の存在である神を
     説明することは 不可能である」から、

    神について説明できない、定義出来ない、
    と、考えられておられるのだろうと、推察し、
    キリスト教が神を定義しない理由についての仮説としています。

    人間の知恵を遙かに超えて、
    想像を絶する偉大な存在を「神」である と、されておられる以上、
    上記の考えは、一見尤もらしく思える説明ですが、
    私には、屁理屈であり、諸悪の根源のような気がしています。


  ② 「神に囚われている」とのキリスト教の教え

    「神に囚われている」との教えについては、
    詳しくは、次のブログをお読み頂くとして、
    ここでは、簡単に説明させて頂きます

  
    「パウロ・・・第3回 悲惨な歴史の淵源となったパウロの教え」
    1.「神のとらわれている」との信仰について
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-219f.html


    神への信仰を深めていけばいくほど、
    神の教えの意味が良く分かるようになり、

    あるとき、
    自分は、教えに全面的に服従している=神に囚われている、
    との境地に達するのでしょう。

    そうなると、
    神に囚われている自分の考えや行動は、
    神の啓示に従って行動していることになるので、

    自分の考えや行動は、神の考えや行動と同一である、
    と、確信をもつようになるのだろうと思います。

    即ち、
    自分の考えること、行動することは、
    全て神と同一であり、絶対的に義(ただ)しいと
    確信をもつようになるのです。


    例えば、
    トマス・アクィナスの先生である アルベルトゥス・マグナスは、

    限界ある理性に基づく「哲学」は、誤りを犯す可能性があるが、
    理性では把握出来ない 啓示された真理を前提にする「神学」は、
    一層確実であると述べておられます。

    即ち、
    人間の論理に従っている「哲学」は間違えることがあるが、
    神の啓示に基づく「神学」は、間違えることはあり得ない、
    と、おっしゃっておられるのです。


  ③ 「聖霊」  

    聖霊は、イエスが昇天した際に、神様が地上に降臨させたとして
    キリスト教徒の皆さんは、毎年 聖霊降臨祭を祝っています。

    聖霊は、
    イエス昇天後、地上において神に代わって
    キリスト教徒一人一人を助けて下さる大変有り難い存在なのです。

    キリスト教は、
    神とイエスと聖霊は、同一である(三位一体)との教理を確立しています。


    聖霊の働きについて、
    矢内原先生が簡潔に説明されておられますので
    次のブログでご紹介した先生の記述を再掲させて頂きます。


    矢内原忠雄著「キリスト教入門」への疑問と批判
    ・・・キリスト教は「詐欺宗教」か?・・・
    3.「聖霊のはたらき」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-7933.html


    矢内原先生は、
    三位一体の「聖霊」は、3つのはたらきがあると述べられておられます。

    ⅰ)真理について迷ったとき、
      これが真理だということを聖霊が確かに言ってくれます。

    ⅱ)この世の苦しみや悩みに悩んだとき、

      本当に 自分の心の中に入ってきて慰める人、
      本当に 自分のことを分かってくれる人、
      聖霊は、そのような役割をしてくれるのです。

    ⅲ)我々が良心の咎めを感じるとき、
      聖霊は、陰に陽にかばってくれます。

    (要するに、)
    この世における忍耐と希望の生涯を、
    日々現実に手を取り耳でささやいて導いてくれるもの。

    これは慰めである と 言って、ささやいてくれる人。

    お前は、もう罪の支配の下にはないものであると言って、
    私どもをサタンの攻撃からかばってくれる人、

    そういうはたらきを、聖霊がしてくれるのです。

    (矢内原忠雄「キリスト教入門」143㌻~146㌻)(中公文庫)


  (注) 「聖霊」は、キリスト教の幾つもある噓の一つです。
      ここは、その話をする場所ではありませんので、
      何故噓なのかについて、ご興味のおありの方は、
      次のブログをご参照下さい。

    堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・
    の4.の文章中の ②の部分 をご覧下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html

    


  次に、
  上記①②③が、
  キリスト教を世界宗教(普遍宗教)たらしめたロジック(仮説)を
  ご説明させて頂きます。


  先ほど申し上げたように、神への信仰を深めたキリスト教徒の方は、
  神の啓示に従って考え、行動しているとの確信をもつようになるのです。

  その確信は、聖霊に助けられて持つに至ったことにより、
  更に強固たるものになるのです。


  多神教では、神様が定義されていますので、
  神の啓示よると考えたものが、神様の定義に沿っているのか、反しているのか、
  割と客観的に判断することが出来ますが、

  キリスト教の神は、定義されていませんので、

  自分が、神の啓示と考えたものが、どんなものであろうとも、
  言い換えると、
  キリスト教徒が描いた啓示や神が、どんなものであろうとも、

  それは、神ではない、神の啓示ではない
  と、否定されることがないのです。

 

  従って、
  キリスト教徒は、多神教とは異なり、

  一人一人の考え、行動が、
  神と同一であり、絶対的に義(ただ)しいとの確信を
  得ることができるのです。

  そして、
  この様にしてキリスト教においては、
  無限に存在する人間一人一人が、直接神とつながるのです。

  一人一人の全ての願いに応える事が出来る神は、
  担当分野が固定していて、担当分野以外は応えられない神よりは、
  好ましいのはいうまでもありません。

  多神教は、
  どうしても信者の願いに応えられない部分が生じてしまいますので、

  信者全員の全ての願いに応えることが出来る一神教の方が、
  信者を獲得できたのは、理の当然ではないでしょうか。

  これが、
  一神教が、多神教を押しのけて 普遍宗教になった所以だと思います・


  神が、全ての信者の 全ての願いに 応えることが出来る との虚構を
  正当化するために というのが、

  カトリック、ギリシア正教、プロテスタント等の
  正統派と言われるキリスト教の宗派が、
  三位一体論に固執した理由なのでしょう。

  旧約聖書の神とイエスと聖霊は、全く別個の存在です。

  それを、
  無理矢理「三位は一体だ」と言って、
  「それを信じるのが宗教だ」と、押し通しているのです。

  カトリックは、アリウス派の方が論理的に優れていて、
  全く白紙の人間だったらアリウス派の方に軍配を上げるのを承知で、
  カトリックは、三位一体論を押し通したのです。

  だからこそ、
  カトリックが、アリウス派を
  今でも、蛇蝎の如く 嫌い、内心では、恐れているのです。


  個人が、直接神とつながっていて、
  信者が、神から啓示を受けたことは、神のおっしゃったことだと、
  押し通すためには、

  旧約聖書の神(本来の神)とイエスや聖霊の三位が同一であると
  信者に信じ込ますことが、どうしても必要だったのでしょう。

  もし、これが出来なかったならば、
  キリスト教は、現在の形で存続できたかどうか疑問に思われます。

  キリスト教が、キリスト教たるために、
  別の存在である 神 と イエス を 一体化し、

  聖霊が、ウソであることは、
  キリスト教の歴史を見れば一目瞭然なのに、
  信者に
  聖職者の言っていること以外は、悪魔のささやきだとすり込んで、
  噓を真実だと押し通したのだろうと思います。



3.以上のように謎を解いてみると、
  同じロジックで、次の2つの謎も、芋づる式に解けましたので、
  ご紹介させて頂きます。

  ① キリスト教が、常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂していった理由
  ② キリスト教が、歴史上 殺人、殺戮を繰り返した理由
    (殺人宗教ともいうべき宗教となった理由)


  ① キリスト教が、常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂していった理由
  

    キリスト教が、
    常に異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂を繰り返したのは 何故だろう と、
    長年疑問に思っていましたし、

    長い間、
    キリスト教は、神様はお一人と説明されているけど、
    旧約聖書の神と新約聖書の神(イエス)のお二人おられるのでは?
    との疑問も持っていました。

    また、この数年間
    秦先生の本から始まって、幾つものキリスト教の本を読んでいる内に、

    新約聖書に4つの福音書があるのは、
    原始キリスト教の派閥が、それぞれ福音書を記述したことが分かって、

    それなら、
    新約聖書の神様は、4人おられることになるのでは?
    と、考えるようになりました。

    この思考を更に広げますと、
    もっともっと神様がおられるのではということになります。

    というのは、
    イエスが没してからすぐに、
    ヘレニストを異端として、排除したことを始めとして、

    例えば、
    アリウス派、ネストリウス派、ドナティスト、ペラギウス派
    中世においてもカタリ派、ワルドー派、更にはフランチェスコ会聖霊派など

    キリスト教は、
    主流派(宗教的権力を握った派閥)と異なる信仰、神学を持つ派閥を、
    次から次へと異端として排除してきました。

    異端として排除できないほどの派閥が生じると、
    キリスト教は、分離、分裂しました。

    カトリック と ギリシア正教 との 分裂 や、
    カトリック と ルター派、カルヴァン派 との 分離 が、その典型でした。

    更に、近世になると
    いろいろな分派がキリスト教に現れてきます。

    私みたいなキリスト教徒でない者にとって、
    それぞれの区別などは、どうでも良いので

    キリスト教史の本(例えば、ゴンザレス)は、
    中世まで読み進めた後、近世に入ると
    途端に読む気を失せてしまって、中断してしまいます。

    今お話しした 異端や分派は、それぞれ自らの神を持っているわけで、
    キリスト教の神は、信者それぞれにとってはお一人なのでしょうが、
    私みたいな部外者からみると、無数の神がおられるのです。


    何故、この様なことになったのか、について疑問に思っていたのですが、

    ⅰ)キリスト教は、神を定義しない宗教であることと、
    ⅱ)「神に囚われている」との教えにより、
      一人一人が神と直接結びついていることにより、

    キリスト教においては、
    信者一人一人に、それぞれの神が存在しているので、
    無数の正統性ある神が存在する
    と、仮説を立てれば、無理なく説明が出来るなと得心しています。

    (注)「信者一人一人に、それぞれの神が存在する」とは、
       信者のAさんに対する神の啓示と、
       信者のBさんのそれとは、異なるのです。

       ですから、
       神様が無数に存在することになるのです。


    誰もが、それぞれの正統性ある神に従う ということは、
    誰もが、「自分は絶対的に義(ただ)しい」との主張をすることになり、

    その異なる主張、対立する主張に、最終的な白黒の決着をつけるのは、
    多数決ではなく、物理的な力(暴力)によることになります。


    主流派と異なる派閥が、弱小の場合は、異端として排除し、
    個人だったら、異端審問で異端審問や火刑によって、抹殺すれば良かったし、

    異端として排除できない派閥の場合は、分裂を繰り返すことになったのです。

    近世、
    特に、フランスの宗教戦争、ドイツの三十年戦争の後には、
    さすがに暴力(殺し合い)で解決することに反省が出て来て、

    特に、新教内部においては、
    幾つもの派閥(宗派)の並存を認めるようになったのです。


  ② キリスト教が、歴史上 殺人、殺戮を繰り返した理由
    (殺人宗教ともいうべき宗教となった理由)
    


    神の啓示に従っているので、自分は絶対的に義(ただ)しいので
    自分と異なる考えや行動をするこいつは、殺さねばならない。

    神が殺せと啓示されているので、
    あるいは、
    こいつは、地獄に落ちると神が予定しているので、殺せ と、言って、

    キリスト教は、
    他宗教の信徒のみならず、キリスト教徒も、
    機会がある毎に殺しまくってきたのです。


    キリスト教は、
    何故、歴史上幾多の殺戮、殺人を積極的に犯してきたのでしょうか?

    また、
    何故、殺人が許されるどころか 義務と考えられるようになったのでしょうか?


    というのは、
    いくら神に囚われているから、神の啓示に従っているからといって、

    人を殺すことを神が認めたとか、
    殺すのが義務であるとの結論に達するのは、

    いくら歴史的な事実であったとしても、
    キリスト教は、
    愛の宗教と言われているし、十戒で殺人を禁止されてもいますので、

    本当にキリスト教自体が承認していたのか?
    一部のキリスト教徒の暴走ではないのだろうか?
    との疑問が持たれるからです。


    結論から言うと、

    キリスト教及びキリスト教徒は、①で述べたロジックに従って
    殺人を正当化してきたし、
    現代でも、人を殺すことが法律(刑法)上認められるなら、殺人を犯すのです。

    これは、
    敬虔なキリスト教徒であるブッシュ大統領(息子)が、
    噓をでっち上げて、イラクに侵攻しフセインを殺したことでも、明かです。


    実は、
    キリスト教を形成してきた主要人物には、殺人犯が多数おられますので、
    キリスト教は、
    殺人者が創った宗教だと言っても過言ではないような気がします。

    例えば、次の人々をみれば明白でしょう。

    1.神
    2.モーセ

    3.ペテロ
    4.パウロ

    5.アウグスティヌス

    6.十字軍を主導した教皇達(含む、ベルナール)
    7.中世最大の教皇 イノセント3世(アルビジョワ十字軍の主唱者)

    8.カルヴァン


    神とモーセは、
    次のブログをお読み頂きたいと思います。

    旧約聖書の神は、大量殺人犯 かつ 殺人犯の親玉である
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7da6.html


    ここでは、

    モーセは、
    エジプトで殺人を犯して、シナイ半島に逃亡したことと

    神は、
    その殺人犯モーセを使って、ユダヤ人をエジプトから出国させたのですが、

    エジプト出国についてのファラオとの交渉の時を始め、
    ユダヤ人を約半世紀彷徨させたとき、
    更に、
    カナンの地に攻め入ったとき、
    大量の人々を殺害していることをご紹介させて頂きますので、

    詳しくは、上記のブログをお読み下さるようお願い申し上げます。

    なお、
    神に殺害された人々は、ユダヤに敵対した人だけでなく、
    神の教えに従っていたユダヤ人も含まれているのです。

    しかも、首を傾げるのは、
    ユダヤ人に神を裏切るように先頭に立って指導したモーセの兄アロンを、
 

    神は、
    殺すどころか、ユダヤ教の大祭司に抜擢して
    自分のお気に入りには依怙贔屓をして優遇していることも、
    申し添えさせて頂きます。


    ペテロは、
    財産の半分を、全財産だと偽って
    原始キリスト教団に寄付しようとした夫婦を、殺害しています。
    (殺害後、全財産を強奪したのでしょう。)

    ペテロは、
    イエスが処刑されたとき、イエスの預言通り、3回噓を言って
    イエスを裏切っていますし、

    投獄されて、脱獄した後、
    原始キリスト教団トップの座より 宣教師に格下げされ、
    ローマに行って処刑されています。


    パウロは、
    キリスト教徒に改宗する前に、
    ヘレニストの指導者ステファノを、ユダヤ教が処刑したとき、
    第二処刑人として、ステファノ殺害に加わっています。


    アウグスティヌスは、
    ドナティストを異端だとして、ローマ軍を使って殺害しました。

    アウグスティヌスについては、次のブログを参照下さい。

    堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・
    < 「異端は、部分的主張である」との解説について感じたこと >
      のパートの 3 をご覧下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1a85.html



    十字軍を主導した教皇は、
    皆様がよくご存じの通り、ヨーロッパの人々を扇動して、
    攻撃する理由も権利もないパレスティナを侵略させています。


    教皇イノセント3世は、
    カタリ派の人々に対する十字軍を主導して、残虐な殺戮を行わさせました。

    アルビジョワ十字軍が、どんなに残虐な十字軍だったのかは、
    次のブログをご覧下さい。

    盲者の行進
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html


    カルヴァンは、
    ジュネーヴに立ち寄ったセルヴェを執念で処刑しました。

    カルヴァンは、①でご説明したロジックの権化で、
    自分の言っていることは神が言っていることだと
    ジュネーヴのキリスト教徒に宣言して、何人もの人を殺害しています。


    この様に、
    十戒で殺人を禁止しているのは、宣教のための看板にすぎず、
    神様は、言っていることと やっていることを、違えているのです。

    キリスト教の本質は、
    自分の考えに従わないやつは殺してしまえ、抹殺しろ と、いうことなのです
    と、言わざるを得ないな と、感じられます。


    キリスト教を代表する神を始めとする人々が、
    どうしてこの様な、人間とも思えないことを平気でしたのでしょうか。

    これでは、
    キリスト教は、無法者、アウトローの集まりである
    と、いうことになるのではないでしょうか。


    この様になった理由は、
    「神を定義していない」
    「神に囚われている」との教えがあったからだと、簡単に説明ができます。


    「神に囚われているから、
     神の啓示、命令に従って、考え、行動しているので、
     自分の考えは、神と同一であり、絶対的に義(ただ)しい」
    との心境に達したキリスト教徒は、

    自分が思いついたこと、行動することは、
    全て神と同一の考えであり、行動である と、確信しているのです。


    そのようなキリスト教徒が、「あいつを殺したい」と考えたら、
    当然、神も、「あいつを殺せ」と考えているということになるのです。

    そうなると、
    「あいつを殺す」のが、神の啓示であり、命令であるということになります。

    これが、
    カルヴァンが、ジュネーヴで人を殺しまくったロジックなのです。


    「あいつを殺せ」と考えたとき、神の定義がはっきりしていれば、
    神が、そんなことをするはずがない、そんなことを許すはずがない
    と、定義から導き出されるはずです。

    ところが、
    キリスト教には、神の定義がありませんので、

    「あいつを殺す」ことが、
    絶対的に義(ただ)しい、神が望んでいることだ、神が命令していることだ、
    と、なってしまうのです。

    要するに、
    キリスト教には、倫理的な歯止めがないのです。

    ですから、
    毎日神に仕えている敬虔な聖職者ほど、
    「あいつを殺さねばならない」と思い込んだら、
    それを押しとどめるものがなくなってしまうのです。

    これが、キリスト教が、
    歴史上殺人、殺戮を繰り広げてきた理由であり、原因なのです。


    しかし、このことが、
    キリスト教をして、非常に包容力ある宗教にし、
    世界宗教(普遍宗教)たらしめた原因でもあるのです。

    人殺しも、神の命令であるとなるのですから、
    何と包容力のある宗教なのでしょう と、感嘆せざるを得ません。


    ただ、更に問題なのは、
    キリスト教の倫理的欠陥が、宗教内に留まらず
    社会一般にも悪さを及ぼしていることなのです。

    
    「あいつを殺す」との思いが、
    本当に 神が命じたと思っているときには、
    キリスト教内部の欠陥の問題ですが、

    自分の利害、得失のために殺すときに、
    神に囚われている自分に対して、神が命じたのだと、
    噓をつくことも可能なのです。

    しかも、
    噓をついたのかどうかは、第三者には分からないのです。

    このことは、
    キリスト教の教えを悪用して、
    噓をついて、罪悪度を薄めることが可能となるのです。

    ですから、
    キリスト教は、宗教上だけでなく、
    社会一般に対して、悪さを及ぼしているということになります。


    この様なお話をすると、

    神様は、
    十戒を授けておられて、それが倫理的な歯止めとなっている
    との反論を、キリスト教徒の方は、されるでしょう。

    でも、
    旧約聖書で、神とモーセは、
    大変な人を、殺すほどの理由もないのに殺しまくっているのです。
   

    十戒を授けられ下山したとき、
    神を裏切ってユダヤ人を、神は殺していますが、

    その際に、
    お気に入りのモーセの兄アロンは、
    ユダヤ人に神を裏切らせたリーダーだったのにかかわらず、

    殺さないどころか、
    ユダヤ教の大祭司に抜擢して、平気で依怙贔屓しているのです。


    ロトは、
    ソドムから逃れた後、娘と同衾して、
    それぞれの娘に子供を産ましているのです。


    ですから、神は、
    十戒は、建前の話で、本心の話ではない、本気に守れとは思っていなかった
    ということを、自らの行動で示しているのです。

    しかも、このことは、
    キリスト教の幹部=聖職者は、当然ご存じであり、

    自分は、神の考えや行動と同一であるから、
    何をやっても良いと考えていたのでしょう。
 

  


4.残る謎解き

  キリスト教の本質について、
  今回の謎解きで、大体解明できたのではと感じていますが、

  今回お話しした、
  「神を定義しない」宗教であるが故に、何と悲惨な歴史を繰り広げてきたのか
  とか、
  倫理的な歯止めを作ろうとしなかった理由
  について、

  キリスト教側からのご説明がないことが、大きな謎として残っています。


  都合の悪いことは口を拭って通り過ぎるのは、人間の通弊ですが、

  この数年読んだキリスト教の本の中には、
  キリスト教徒でありながら、キリスト教を厳しく批判する方の本を
  何冊も読みました。

  キリスト教は、包容力の大きな宗教であり、
  良いものは善い、悪いものは悪いと議論できる宗教であることを、
  良く理解しています。

  だからこそ、

  無数の大天才と言うべき神学者を輩出したキリスト教が、
  鈍才の上に耄碌した私でも気がつくような、キリスト教徒だったら誰でもご存じの
  「神を定義しない」ことと、「神に囚われている」との教えをスタートとすれば、

  単純なロジックで、
  キリスト教が悲惨な歴史を繰り広げてきた理由を説明出来るのに
  何故 議論されておられないのかが、不可思議です。


  何故、
  悲惨な歴史を回避するような議論、
  殺人宗教から脱するために「神を定義しよう」とする動きが
  生じなかったのでしょうか。

  上記の議論や動きが生じなかったからこそ、
  カルヴァンみたいな 聖人面した とんでもない殺人鬼 が、
  神を定義していないことを奇貨として、
  殺人を扇動し、実行する事態が生じたのです。

  これは、
  アウグスティヌスにおいても 然り、
  教皇イノセント3世においても 然りなのです。


  一つ謎を解いてステップアップすると、
  その地平において、新たな謎が浮かんでくる謎が、上級な謎だと思っています。

  キリスト教を巡る謎は、
  奥が深く、何層にも重なり合った迷宮なのでしょう。

  これからも、できる限り謎を見つけ出して、
  謎解きを、余生の楽しみ としていきたいと、願っています。


追記

この拙文で書きそびれた点について、次のブログで補足しておりますので、
そちらもご覧頂ければ幸いです。

    ヨーロッパ人、アメリカ人の行動原理(仮説) ・・・・
    キリスト教謎解きの旅 の 終わりにあたって
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-8f11.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月10日 (土)

キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの

トロクメ教授の「キリスト教の揺籃期」を読了して、
ひとまずキリスト教初期の本を切り上げ、
イタリア・ルネサンス 特に、マキャヴェッリの本を読もうと思い、

手始めに
佐々木毅教授の「マキアヴェッリと「君主論」」(講談社学術文庫)を読み始めました。

この本は、
マキャヴェッリの伝記と君主論を内容としているので、
塩野さんの本以来ご無沙汰している人間の入門編として
丁度良いのではと思ったのです。


その序文に、
マキアヴェッリは、フランス王政と異なるので、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」(岩波新書)を参照して欲しい、
と、書かれておられたので、気になってこちらを再読してみました。

この本を再読してみたら、以前読んだときと異なり、
当時の人々の前提としたキリスト教について、ちくりちくりと、
大変な痛みを感じました。

何故、こんなに痛みを感じるのだろう と、考えたらと、
ヨーロッパ人の根底にあるキリスト教によってもたらされた
通奏低音とも言うべきヨーロッパ人の態度に原因があるのでは、
という気がしてきました。

今回は、
この辺についてお話しさせていただきたいと思います。


この機会に、
トロクメ教授、加藤教授、田川教授の本をご紹介くださった、
todoさんに心からの感謝を申し上げます。

ご厚意に反するような文章を書き並べたことを、お詫びすると共に、
数々のご教示に対して厚く御礼申し上げます。

ヨーロッパ史の本を読む限り キリスト教と密接な関係が続きますので、
機会ある毎に、
キリスト教を考え、初期キリスト教の時代にも戻ってくることになる
と、思いますので、

これからも、よろしくご指導、ご鞭撻くださるようお願い申し上げます。


    **********


秦先生の旧約聖書のお話から読み始めてから約2年弱の間、
旧約聖書と初期キリスト教関連の本を読んできて、感じることが、2つあります。

一つには、
意外にも、キリスト教の神は、
不確かであり、確たるものではないな、ということです。

もう一つは、
キリスト教は、
一つの価値、自分の価値観しか認めず、
他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
ということです。


1.キリスト教の神が確たるものでない、という点について


キリスト教は、
罪を悔い改めよ、神に従え等、人間に対して、色々要求しています。

しかし、
神は、一体どのような存在なのか、と考えたときに、
具体的な絵姿を思い浮かべることが出来ません。

私は、今までブログで、
旧教の神と新約聖書の神(イエス)という言い方をしてきました。

しかし、
新約聖書の4つの福音書というのは、

初期キリスト教の各派閥が、
自分たちの都合の良いようにイエスの伝記を記述したもの
(これを、護教的記述というそうです)だそうですので、

新約聖書の神も、
少なくとも派閥の数だけ、

更に、
その後宗派分裂していますので、
大変な数の神が、宗派毎に存在することになります。

(注)4つの福音書とは、

  ① ヘレニストが作った マルコ福音書

  ② 主流派が作った マタイ福音書
    → 主流派の特権として、著作順を無視して、福音書の最初に掲載しています

  ③ パウロ派が作った ルカ福音書

  ④ ヨハネ派が作った ヨハネ福音書
    → ヨハネは、12使徒の一人で、ゼベタイの子です

ですから、
「キリスト教は、一神教の仮面をした多神教ですね」
と、言いたくなるのですが、

キリスト教徒の方から「又か」と、お叱りを受けますので、

ここでは、
「キリスト教の神は、幾つもの顔を持っておられる」
と、定義しておきます。


幾つもの顔を持つ神の好都合な点は、
論者の都合の良いように、神を使えることです。

ですから、
キリスト教徒は、同じ神を信じているという建前の下に、
それぞれの(異なる)神を信じているのだろう、

言い換えると、
神について同床異夢なのだろう
と、私には思われます。


以前、
新約聖書の神に基づくカステリヨンと、
旧約聖書の神に基づくカルヴァンの対立をご紹介しましたが、

ここでは、
佐々木教授の「近代政治思想の誕生」で記述されている中から、
神をいかようにも使える例を、ご紹介させていただきます。


① カルヴァンは、
  次のように、臣民は、王に対して服従せねばならない と、主張した。

  世俗権力は、
  何よりも 教会、真の宗教 神の栄光 に その奉仕が向けられなければならない。

  世俗権力は、
  神に由来し、ある意味で神の代理人である。

  支配者(王)は、神がその地位を与えたのであり、
  臣民は、支配者を 神の使者として尊敬せねばならない。

  支配者の義務を怠るのみならず、
  人間としての義務を踏みにじる悪しき支配者に対しても、従わねばならない。

  何故なら、
  (神より)悪しき支配者を与えられたことは、

  臣民に対する神の裁きの表れであり、
  悪しき支配者も又、神の摂理の基づいてその地位に就いたからである。

  従って、
  「正しい支配者に対してでなければ、服従するべきではない」との考えは、
  反逆的思想として断罪される。

  神の樹てた支配者を打倒することが出来るのは、神のみである。

  カルヴァンが、積極的服従を拒否すべしとするケースは、
  神に反することを命ずる命令に対してであるが、

  この場合も、
  積極的な抵抗行為を命ずるものではなく、
  神に祈り、耐えること、精々 逃れること としてしか現れない。

  この例外的ケースにおいても、
  臣民が、神の栄光を押し立てて反抗することを 認めていなかった。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」123㌻)

② スコットランドの宗教改革指導者 ジョン・ノックスは、
  カルヴァンの説に反対して、次の様に主張しています。

  王は、その地位を神に与えられたことは、その通りだが、
  貴族も、王と同様に、その地位を神に与えられた神の代理人である。

  従って、
  もし、王が真の宗教の敵となるならば、

  神の名誉と栄光とを妨げる王の所業を矯正、抑圧することが、
  神の代理人たる貴族の義務である。

  佐々木教授は、

  ノックスは、
  貴族と同じ義務を、他の信者一般にまで広げて、
  偶像崇拝を行う者は、実力を用いて制裁されるべきであり、

  その人間が、いかなる地位にあるかは、
  神の栄光の回復のためには考慮に値しない。

  偶像崇拝に加担する王に反抗するのは、
  神の民としての当然んの義務である。

  自らが、偶像崇拝に加担していないと言うだけでは、十分でない。
  支配者その他の冒涜的行為を黙認することは、神の制裁対象となる。

  従って、
  反抗することは、権利ではなく、義務であると、

  他人の行為を黙過する形での神に対する不服従をも批判し、
  全プロテスタントの一斉蜂起を呼びかけた、

  と、記述されておられます。

  (佐々木毅「近代政治思想の誕生」135㌻)


この様な違いが生じるのは、
カルヴァンとノックスの立場の違いから生じた
神にこと寄せ、宗教的装いで化粧を施した
個人的な利害によるものでした。

あけすけに言うと、
個人的なエゴを、宗教的表現で正当化しようとしたものです。

カルヴァンは、
ジュネーヴの王、支配者であり、

人民に反抗されたら困る体制側の人間であり、
人民を抑制する立場の人だったのです。

他方、ノックスは、
カトリックのスコットランド女王メアリーに対抗する
宗教指導者、宗教革命の指導者、

即ち
反乱側の人間でした。


キリスト教の神は、

この様に、
論者の都合や立場によって、いかようにでも利用でき、
自分のエゴを正当化するための錦の御旗にすることが出来る、
有り難くも、便利な存在なのです。

この神様が、
ヨーロッパ人のマインドをコントロールしていたということは、

客観的な神の教えではなく、
その時々の宗教指導者の意図するところに従って、
ヨーロッパ人は、導かれていたのです。


以前、神学は、
不確かな神を出発点にしているので、
事実に基づく他の学問と似て非なるものである、
と、お話ししたことがあります。

そこで申し上げたかったのは、
A氏は、A氏が論じる神をスタートとして、論理を組み立てるので、
別のB氏が、B氏の考える神をスタートとして、組み立てた論理と議論しても、

建設的で、ロジカルが議論が不可能であり、
議論は、決裂に終わるだろうということです。

スタートが異なると、別の理論体系ができあがる例として、
高校時代にお話として聞いた、幾何学の話を思い浮かべます。

中学、高校で学んだ幾何学は、ユークリッド幾何学でした。

ところが、
ユークリッド幾何学のスタートである「平行線の公理」を否定したら、
非ユークリッド幾何学という別の幾何学の大系が作り上げられた、
とのことでした。

スタートの前提が異なると、
同じ幾何学でも、全く世界が異なる体系が出来ることの不思議さを、
その時感じましたが、

文科系でしたので、非ユークリッド幾何学とはどのようなものかを、
それ以上学ぶことは出来ませんでした。

神学において、
議論を開始する際の神が、人によって異なるということは、

そこから積み上げられる論理と、
その結果である各人の神学の大系が、
質的に異なることです。

その前提の違いと、
そこから積み上げられた論理過程を、
お互いに分析して、明らかにしてから、議論をせずに、

お互いの議論の積み重ねた結果である結論を言い合って、
すれ違いの議論をしても、決裂するしかないことは、

ルター派とカルヴァン派が、
合意できなかったことでも明かです。

神学者には、
人類史上最高の叡智の持ち主が何人もおられるのに、

私みたいな鈍才が気がつくことを、
何故、無視して、2000年という時間を無駄にしてこられたのだろうか、
と、訝しく感じています。

多分、
人間はエゴの塊であることが、その原因だろうと思いますが、

次にお話する、
一つの価値、自分の価値観しか認めない ということも、
大きな要因だろうと感じられます。



2.キリスト教は、
  一つの価値、自分の価値観しか認めず、
  他の価値、他の人の価値観の存在を否定し、可能であれば抹殺する
  ということ


世の中には、色々な価値や価値観が並存していますが、

ヨーロッパ人は、
自分が選んだ価値しか、価値を認めず、
他の価値は、抹殺できれば抹殺してもかまわないと考えているな
と、長年感じてきました。

大学時代、
並存する価値を、全て包含する価値 というものは、あり得るのだろうか?
と、考え、彷徨ったことが、懐かしく思い出されます。

日本人は、
八百万の神が当たり前と考える民族であり、

一つの価値しか認めないとの考え方は、
普通の日本人の方には、

頭で字面は理解できても、
身にしみて理解しづらい感覚だろうと思います。

キリスト教は、先ほど申し上げたように、
色々な顔(性格)を持った神を一つの神として、
その神を信じているのですから、

どの顔の神を信じているのかは人によって異なるのに、
自分が信ずる(思い込んだ)顔の神しか、神ではないと強弁して、
自分以外の神を信じる人を、平気で殺害してきているのです。

この様な状況が、
キリスト教の、常に異端を作り出す歴史 を 作りだしたのではないだろうか
と、感じています。


キリスト教は、
主流派と異なる考え方の人が出てくると、
異端とレッテルを貼って、
キリスト教から追い出し、場合によっては殺してしまう歴史でした。

このことは、
イエス処刑後間もなくから始まっています。

最初に、
ヘレニスト(ギリシア語を話すキリスト教徒)が、異端として追放されました。

次に、
パウロが、アンティオキアで異端として追放されています。

2世紀に入ると、
グノーシス派やマルキオンといった人々が、異端として槍玉にあがりました。

トロクメ教授は、

2世紀に入ると キリスト教は、
ローマ社会に溶け込もうとする主流派に、
キリスト教の独自性を守ろうとした反順応派が対抗したとして、
グノーシス派やマルキオンを紹介されておられますが、

その後のキリスト教の歴史をみると、
キリスト教主流派は、グノーシス派などに対して、
悪魔の手先で、人間ではないような非難を浴びせて、
彼らの存在を抹殺しています。

その後、
三位一体論争では、アリウス派が異端とされ、
今に至るまで、カトリックから、語るのも汚らわしい との扱い を されています。

カトリックにとって最大のライバルだったから、
未だに執念深く復讐しているのですね、
と、申し上げたくなるくらいです。

アウグスティヌスは、
カトリックの天下を維持するために、
ローマ帝国の迫害の際に、キリスト教を守り通したドナティストを、
ローマ軍の力を利用して積極的に殺しました。

この様に、キリスト教は、
神の自分の信じた顔だけが、神であると主張して、
それ以外の神の顔を否定し、抹殺してきているのです。

このことが、
自分の価値以外の価値を認めない、とのヨーロッパ人を
作りだしてきたのでしょう。


16世紀後半、フランスでは、
カトリックとユグノー(カルヴァン派)との間で、
悲惨な宗教戦争が繰り広げられました。

その根本原因は、人間のエゴであろうと思いますが、
表面上は、
それぞれが信ずる神の顔が異なっていたからです。

先ほど申し上げた、
議論の前提が異なるのに、その前提の違いをお互いよく話し合って整理せずに、

前提から積み上げられた論理の結論について、
お互い罵倒しあったものだから、命の奪い合いとなったのです。

このとき、
「寛容」が、良く主張されました。

例えば、
渡辺一夫先生は、

1533~1534年頃 突然回心する前のカルヴァンは、
旧教会(カトリック)側からのユマニストや新教徒弾圧に、
「寛容」を説く若いユマニストだった。

コップ事件(1533年11月)後、
急速にカトリックから離れ始めて、激突するようになり、

己の理想の為には、
不寛容と罵られてもこれに甘んじ、
己の理想の信仰を阻害する者は、誰であろうと「異端者」として告発する
冷厳な宗教改革者としての道を、徐々に辿り始めた、

と、書かれておられます。

 (渡辺一夫「渡辺一夫著作集5 ルネサンス雑考 下巻」352㌻)

あのカルヴァンも、
20代前半は、寛容を説くユマニストだったということは、
その後のカルヴァンを知る者にとって驚きですが、

この「寛容」という意味は、どういうことなのでしょうか。

私は、「寛容」ということは、
一つの価値しか認めない権力者やカトリックに対して、

他の価値観を持つ臣下やユグノー、ユマニストが、
お目こぼし下さいと依頼することだと思います。

カトリックは、
カトリックの価値以外は認めないし、
この世から抹殺することも厭わない故に、
ユグノーを弾圧したのですが、

それに対して、
並列する価値は、それぞれ存在する権利がある と、

正々堂々 正面から主張するのではなく、
卑屈にお慈悲を願っているのです。

依頼されたカトリックも、
本来なら赦さないのだが、今回は特別の慈悲を持って見逃してやる、
と、言って、赦したのです。

(注)「寛容」を願った人間が、
   卑屈な人間であった ということではありません。

   依頼される権力者やカトリックが、偏狭にこり固まっている故に、
   争いを避けるためには、お慈悲を願うほか選択肢がなかったのです。


「寛容」は、
根本的な解決ではなく、
情緒的な時間稼ぎでしかなかったので、

いつかその決着をつける時を迎えるざるを得なかったのであり、
それが
1572年8月の聖バルテルミーの大虐殺でした。
(バルトロメオ、バーソロミュー)

複数の価値の並存を認める社会では、

権力者だけでなく、全ての人が、
他の人から「寛容」を求められることは、先ずあり得ないはずです。

何故なら、
お互いに、自分以外の価値の存在を容認しているからです。

「寛容」が求められたということは、
自分の価値以外の価値の存在を、
認めない、赦さない、出来れば そういう人間を殺してしまいたい、
という社会だったからだ、というべきだろうと思います。


16世紀後半のフランスで、
日本にはなかった国を二分する宗教戦争が生じたということは、

キリスト教が、
一つの価値、自分の価値観しか認めない宗教だった故の悲劇だろう
と、思います。

ヨーロッパの歴史を通観すると、
複数の価値の並存が理解されるようになったのは、
この半世紀ぐらいではないだろうか、との感じを持っています。

従って、
それ以前においては、
価値の並存を認め、幾つもの価値を比較衡量した人は、いないのでは、
との感を持っっています。

言い換えると、
どんな碩学と言われる学者も、
一つの価値、自分の価値観だけが 絶対の真理だ として、
それに基づいて論理を構築していたのだろうと、思われます。

ただ、
複数の価値の並存を理解していたのでは?と、気になるのは、
マックス・ウェーバーとマキャヴェッリであり、

今回、
マキャヴェッリを読んでみようと考えたのは、
大学時代に考えた価値の問題を、改めて考えてみたかったからです。


     **********


またまた、キリスト教の方を逆なでするような議論をして、
申し訳ございません。

いつも申し上げていることですが、
ヨーロッパ史におけるキリスト教の重要性から、

信者でもない人間が、
歴史的存在としてのキリスト教について、考えていると、
私の場合、この様な議論になってしまったのです。

もし、中世だったら、
異端審問所に呼び出されて、焚刑に処されているでしょう。

今でも、
「出来ればそうしたい」と、お考えになっておられる方がおられるだろう
と、想像しています。


しかし、だからこそ、
キリスト教徒の方に、信仰の面からではなく、
歴史という視座から、歴史的存在であるキリスト教についても、
考えていただきたいのです。

余計なお世話だとは思いますが、

これは、
キリスト教徒の方が信じておられる神により、
自分がどのようなところに連れて行かれるか、を考えるためにも
必要ではないだろうかと考えています。

ヨーロッパ人に、悲惨(地獄)をもたらしたキリスト教の歴史を考えるとき、
帰依した尊師に、地獄まで道連れにされたオーム真理教の信者の悲劇は、
私には、現在のキリスト教徒の方にとっても他人事ではないのでは、
と、思えるのです。


余計な文章の 余計なお世話を最後に、
この拙文を終わらせていただきます。

最後までお読みいただき、有難うございました。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2013年6月27日 (木)

堀米庸三著「正統と異端」(中公文庫)再読・・・実は、異端が正統では?・・・

堀米先生の「正統と異端」が、中公文庫で再版されましたので、
購入して再読しました。(3~4回目です。)

堀米先生は、
日本のヨーロッパ中世史学の中興の祖ともいうべき先生です。

残念ながら、
道半ばの 63才という若さで、ガンで亡くなられたのが、
返す返すも残念だなと、思われる方は、私だけではないと思います。

(先生は、たばこについての随筆を書かれておられますので、
 大変な愛煙家だったのでしょう。)


本書は、
先生の 何冊もある主著の1つ とも言える 歴史的名著 で、

今回、
中央公論新社が、中公文庫に収録して頂いて、本当に良かったなと喜んでいます。

中世史全体の構図の中から、
カトリックにおける正統と異端を、分かり易く明快に分析された本書は、

ヨーロッパ中世史は勿論、
日本人になじみの薄いキリスト教についての理解を深めるための不可欠の1冊だと、
今回再読して、改めて痛感しました。

なお、
本書は、まえがきに、本書の要約が記述されておられます。

通読後、
まえがきを再読されると、本書の内容を整理できますので、
おすすめさせて頂きます


本書のご紹介は、
6年前(2007年)に ブログに要点を掲載していますので、

今回は、
堀米先生の本を読みながら、私自身が考えていたことについて、
お話しさせて頂きます。


なお、前回のブログにご興味をお持ちの方は、次をクリックして ご覧下さい。

   「正統と異端」
   http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_a856.html


    *******


「歴史は、謎解きである」というのが、私の持論ですが、
今回、堀米先生(以下「先生」と略します)の「正統と異端」についての謎解きに
違和感を感じました。

この違和感は、
私の歴史に対する理解が深まったのか、

それとも、
老化による耄碌によるものか、定かでありませんが、
読みながら考えたことを、以下、ご説明させていたきます。



   < 「正統と異端」第二章 の 抜き書き >


先生は、
第二章で「正統と異端の理論的諸問題」について、記述されておられますので、

最初に、
先生の「正統と異端」に対する考え方を、
第二章を抜き書きして、ご紹介させて頂きます。


先生は、
「支配的な体制、傾向、潮流を、「正統」とし、
 これに反抗する立場、行為を、「異端」とするのが、
 一般であるように思われるが、

 正統と異端の概念としては、あまりにも無内容で、
 問題分析の方法は、どこにも見いだされないであろう。

 そこで、
 正統と異端 の 一般的用法の分析 を 手掛かりとして、
 キリスト教における 正統と異端 の 歴史的概念 に至り、

 本書の主題を解明する観点を、明らかにしてみたい と 思う。」
と、記述されておられます。


そして、
「正統と異端とは、
 決して 実体的な概念 ではないが、
 際限もなく流動的であることは 出来ない。

 実体的概念 ではなくとも、
 それに近い 何物かを 持たなくてはならない のである。

 それを、
 正統 における 客観主義、
 異端 における 主観主義 と、一応規定しておきたい。

 これは、
 一方における 全体的真理の尊重 と、
 他方における 一面的真理の尊重 と、

 ある程度 言い換えることも出来よう。」
と、正統と異端を 定義づけられておられます。


これを、
キリスト教に当て嵌め、次のような論理の展開をされておられます。


1.福音書の中の対立する規定の 二者択一的な決定 は、

  一面的な正しさ は 持ち得ても、
  全面的な正しさ は 期待できない。

  従って、
  福音書の解釈にあたっては、

  相互に矛盾する、
  しかも、
  それぞれに 真実性を持つ規定を、

  総合的に合理化することが、正統の立場を生み、
  その一面的把握は、異端に通ずることになる。


2.キリスト教においては、

  パウロによって、
  イエスの教えの実践的解釈(全面的総合的合理化)が、
  行われることによって、

  信徒の人間的・社会的な日常生活のすべてを包括することが、
  可能となり、

  キリスト教が、
  大衆宗教として、ローマ社会に根付くことが出来た。

  そこに、
  批判の余地を持つ 個々の点が残ること は、
  後年のルターの場合と同じく、やむを得ないことである。

  しかし、
  与えられた現実にあって、
  イエスの教えを、最大限包括的に生かそうとするものである限り、

  この実践的解釈には、
  一面的真理の潔癖さには、求め得ない客観性があるのである。

  これが、
  正統と異端 との関係 であり、

  それを、
  客観主義 と 主観主義 の 対立と、言い換えることができるのである。


3.客観的には、
  現実との妥協・強調を重ねる 正統信仰 ないし 教会 にあっては、

  妥協・強調の一々の段階が、
  すべて原理的検討を経ているとされるため、

  決して それ自体
  現実への妥協とか、敗北の歴史 とは、意識されず、

  かえって、
  啓示に基づく俗世の強化、
  その勝利の歴史      と、されることである。


  更に言えば、

  教会の歴史的発展は、
  啓示の現実的展開として 神聖化されるということにもなる。

  ここに、
  正統信仰における 客観主義・伝統主義の基礎があるのである。


4.スターリン批判あっては、

  正統の象徴を仰がれていた 指導者、スターリン個人 の 誤りに絞られ、

  マルクス・レーニン的原則 と、
  その展開としてのソヴィエト体制は、

  依然として、
  本質上無傷でなければならなかった。


  スターリン と その仕事 は、

  謂わば、
  有機体の自己恢復にも似た
  異物の排除、排泄 として 処理されることになる。


  カトリック教会における 客観主義、
  つまり
  教会 は、

  その機関である 聖職者の徳性 とは 無関係に、
  その神的不可侵性 を 保つ という主張も、

  これと同一の論理に立っているが、

  この点は、
  カトリック教会の秘蹟論との関係で再説する。


5.異端は、

  正統あっての存在であるから、
  それ自体のテーゼはなく、

  正統の批判が、その出発となる。


  批判の基準となるのは、正統と同じ啓示であり、

  これによって
  正統教会による啓示の解釈とその現実との妥協・協調の歴史が、
  その対象となる。


  従って、
  異端のテーゼは、常に 啓示への復帰であるが、

  その啓示は、
  全体的にではなく、

  部分的に、
  つまり
  異端の主観的真実に合致する限りにおいて受け取られ、


  また、
  より文字通りに解釈され、

  その現実への適用可能性は、
  相対的に、軽視 ないし 無視せられる。


  つまり、
  理想(啓示)と現在とが、

  その間にあるべき実現の過程を省略して、
  端的に一体化して捕らえられる。


  従って、その限りでは、

  異端は、
  極めてラディカルな理想主義の形態を取り、

  その理想に耐えられるための強烈な精神の緊張を要する
  という意味だけでも、

  主観主義的とならざるを得ない。


  それは、また、

  現実との妥協を、
  可能なる限り排除するものであるから、

  道徳的には、
  英雄的なリゴリズムを必要とし、

  その信徒は、
  必然的に少数たらざるを得ない。


  それは、また、
  歴史と現実の革新を企てるものであるから、

  ラディカルに、反社会的であるか、
  ないしは、
  社会に対し 全く無関心であるかであるが、


  いずれにせよ、
  主観的理想への意識の緊張を持続する必要から、

  終末感的ラディカリズムに向かう傾向 を、
  示すことが多い。


6.これに対して

  正統は、

  社会=俗世の不完全さ を
  その出発点における前提 とするので、

  人間と社会の欠陥 に、寛容であり、

  それとの妥協 を、
  ただちに 認めるものでは ないが、

  その教化教育を、使命と考える。


  そのために、
  正統は、

  万人に対し、
  エリートのための道徳、道徳的英雄主義を求めず、

  一般人の道徳 と、
  エリートのそれとの、二元主義をとり、


  在家の信徒と、

  その道徳的模範たるべき道徳的英雄主義の組織的追求者
  としての 修道士の存在 を、認める。


  しかも、

  この二元主義が、
  二元的分裂に陥らないため、

  不断の自己更新・理想の自覚(聖体の秘蹟)が要求され、


  また、
  悔悛(秘蹟) と 自己批判 が、

  一般的道徳の倫理規定のなかに入るのである。


  この悔悛 と 自己批判 は、

  しかし、常に、
  一般人の倫理規定 であるばかりではなく、


  理想と現実との距離 を 直視する 正統 にあっては、

  エリート、
  即ち
  道徳的英雄主義の実践者自体 にも、要求され、


  完全に孤立的な理想の追求(隠修士)よりは、
  団体的なそれ(修道院)が選ばれ、

  エリートのエリート を 選んで、
  それへの服従を誓わせることによって、

  重すぎる個人責任を軽減し、
  道徳的フラストレーションを防止する のである。


  このことは、
  異端と目される団体 に あっても、

  それが長期にわたって持続し、
  より広範囲のメンバー を、包括するに至るとき には、

  必ず看取される現象であり、


  例えば、

  ① 12、3世紀の異端 である カタリ派、ワルド派 における

    平信徒=クレデンテス と
    指導者・達識者=ペルフェクテス としての分離は、それである。


  ② 万人司祭説を採る プロテスタンティズムにおいても、

    やがて
    牧師と信徒との区別 が 生じたのも、同じ理由のものであり、

 
 ③ プロテスタンティズムの極限形態 としての 無教会派は、

    原則に、
    最大限忠実であろうとする結果、

    その普及は、最小に限られているが、


    ここでも

    最小限の指導者を欠くことは出来ない。



長い引用となり、恐縮しています。




先生の定義を再読して、次の2点の感想を持ちました。


1.先生は、

  ずいぶんカトリック寄りの論理
  というよりは、

  正統たるカトリックは、正しく、
  異端は、間違っている、

  との
  カトリックの護教的論理を、代弁されておられるのではないだろうか?


  (先生は、仏教系の芝中のご出身ですので、
   キリスト教徒故では無いのでは?と、思いますが・・・)


2.政治と宗教 では、

  正統と異端についての論点が、
  異なるだろう と、思いますが、


  先生は、

  政治における 正統と異端 の 考え方 を、
  そのまま宗教に持ち込んでおられる のではないだろうか?


  政治においては、

  権力(錦の御旗)を握った陣営が、
  正統となり、

  権力奪取できなかった陣営が、
  異端となりますが、


  宗教においては、

  信仰が、
  正統と異端 を 決定する 判断基準 となるのでは ないでしょうか。


  先生が、

  信仰に、力点を置かずして、
  権力に、力点を置かれて、

  権力を握ったカトリック を、
  アプリオリに正統 と、認定される論理付けをされておられることに、

  疑問や違和感 を、感じるのです。


以上の2つの点を踏まえて、

先生の記述をご紹介しながら、
私の考えるところを ご説明させて頂きます。



   < 先生の 秘蹟論の解説 を読んで感じたこと >


1.先生は、

  正統における 客観主義 と
  異端における 主観主義 と、

  規定されておられます。


  カトリック的客観主義 を、

  「洗礼(秘蹟)が、
   効力を持つ根本理由は、聖三位一体であり、

   外部にあて秘蹟を伝える司祭者は、
   道具であるから、

   聖三位一体への呼びかけによって秘蹟は成就する。」


  「緊急の際にあっては、

   異教徒や異端でさえ、
   教会の定める言葉を用い、教会のなすところをなさんとする限り、

   同じく洗礼(秘蹟)を施しうる。」

   (中公文庫65㌻)

  と、紹介されて、


  「成聖恩寵の喪失 と 永劫の断罪 を
   その罰として受ける司祭者(瀆聖聖職者)
   であっても、

   秘蹟の執行要件を 守る場合には、
   効果ある秘蹟を与えうる

   ということであって、


   秘蹟の超越的性格 と
   司祭者の道具的性格 は、

   この上なく明瞭にされている
   ということが、出来るであろう」

   (中公文庫66㌻)

  と、記述され、


  「この カトリック的客観主義 こそ、
   異端 の 最大のカトリック教会への攻撃論点 である」

  と、論を進めておられます。


  要するに、

  聖職者は、
  神の道具であり、

  秘蹟は、
  神が行うものだから、

  形式さえ整っていれば、誰がやっても有効である、

  というのが、
  カトリックが客観主義である所以であるということです。


  客観主義という言葉は、

  カトリックは、

  客観的に正しいことを行っているから正統なのだ
  という印象を、与える言葉のような気がします。


  でも、
  このカトリックの考え方は、
  ちょっとおかしい と、感じられませんでしょうか。


  まず、
  誰に、秘蹟を与えるかを決めるのは、
  人間である聖職者 でしょう。


  ということは、

  人間が、決めた対象者 に対して、
  神が、秘蹟を授ける ということは、

  人間の決定を、神に押しつけている、

  言い換えると、

  人間 を、
  神の上位に位置づけていることにならないでしょうか。


  また、
  秘蹟の執行要件は、
  神が決めたのではなく、カトリック=人間が、定めたものです。

  ということは、
  人間の定めた形式に、神を従わせていることになって、

  これもまた、
  人間を、神の上位に位置づけていることにならないでしょうか。


  上記の具体的な例として、教皇の選出をあげさせて頂きます。

  教皇は、
  人間である枢機卿の選挙により選出されますが、

  それでは、
  教皇の正統性が担保されないと考えたのか、

  枢機卿の選挙は形だけで、
  教皇は、
  聖霊の導きにより選ばれるとされています。

  しかし、
  聖霊の導き=神の決定 である教皇が、3人も並立したこともありますし、

  幾たびも
  対立教皇が、擁立されることが生じています。


  教皇の選出は、
  人間が行っているのに、
  神が、実質決定していると、

  カトリックは、
  平気で詭弁(ウソ)を弄しているのです。


2.異端は、
  瀆聖聖職者の行った秘蹟は無効 と、していますので、

  先生は、
  主観主義だと規定されておられます。

  主観主義という言葉は、

  異端は、
  主観により=自分勝手に 判断している、との印象を
  与えるもののような気がします。

  この様な 価値を印象づける言葉を、定義として使用されること自体が、
  カトリック寄りの立場に 先生が立っておられるような感じがするのです。


  冷静に、第三者的に定義するとしたら、

  カトリックが、
  形式主義、外形主義であり、

  異端は、
  実質主義である

  というような言葉を、使うべきではないでしょうか。



3.次に、先生は、

  カトリックは、

  洗礼・堅振・叙品の三秘蹟は、
  「主の印」又は「消えぬ印」を受領者の心に刻むもので、

  「印」の上に「印」を刻むことは、
  この上ない瀆神の行為にほかならないから、繰り返しが認められていない、
  (中公文庫69㌻)

  と、記述されておられます。


  これも、
  カトリックのおかしな論理であろうと感じられます。

  もし、
  三秘蹟を行った者が、悪魔(サタン)であり、悪魔の印を刻んでいたら、
  どうするのでしょうか。

  また、
  悪魔(サタン)まではなく、異教の印が刻まれていたら、

  その上に、
  キリスト教の印を刻むことは、有効なのでしょうか?

  アウグスティヌスは、
  マニ教やプラトン主義を経験した後に、
  キリスト教の洗礼を受けています。

  過去のマニ教やプラトン主義が刻んだ印は、水に流せるが、
  瀆聖聖職者の刻んだ印は、水に流せない
  という論理が、私には理解できません。

  (カトリックは、
   マニ教やプラトン主義では、
   洗礼に類する儀式を受けていないと主張するのでしょうが、

   詭弁、屁理屈の類いだと思います。)


  民法(法学)では、
  無効な行為は、最初から行為自体がなかったものとされます。

  この論理を使って、異端が主張するように、

  瀆聖聖職者の行った秘蹟は、
  無効な秘蹟であり、印を刻んだものではなかった

  と、する方が、納得できる考え方のような気がしています。



4.先生は、更に、

  カトリックは、

  「主の印」を帯びること と、
  秘蹟の効果にあずかることと は、
  直ちに同一ではない

  とのアウグスティヌスの秘蹟論を、受け継いでいる
  (中公文庫81㌻)

  と、記述されておられます。


  即ち、
  「ドナティストの教会で受けた秘蹟も、秘蹟であり、
   「主の印」を帯びるが、

   それは、
   まだ、秘蹟の効果を欠いているという点で、不完全である。

   秘蹟の効果は、

   異端者が、
   唯一の真実の教会である、カトリック教会に帰一して
   初めて生ずるもので、

   教会の外にある限り、
   秘蹟の効果にあずかることは出来ない。

   秘蹟から秘蹟の効果を生み出せるのが、
   カトリック教会だけであるのは、

   「教会の洗礼は、教会外にも存在しうるが、

    祝福された生命の贈り物は、
    まさにペトロ(磐)の上に建てられ、縛り、かつ 釈(と)く鍵を受け取った
    教会の中においてしか見いだされない」からである。


   しかし、

   この教会とは、
   目に見える教会と同じものではなく、
   アウグスティヌス独自の聖者共同体理論が入ってくる。

   「神は、恩寵による秘蹟を、悪人を介してさえ与えるが、
    恩寵そのものは、
    神自らによるか、ないしは、その聖者を通してしか与えない。」

   アウグスティヌスは、

   この聖者を、
   聖霊に満たされ、聖霊を伝えるものと規定しているが、

   この聖者の作る共同体なるものは、

   全体としてのカトリック教会の中に、
   外面的な法規によって可視的に存在するものとはせず、

   全く無形のままに機能するものとした。」

  と、紹介された後に、

  「この様な純精神的な規定によって、

   アウグスティヌスは、
   単なる職制的理論を超えた深みを、その教会理論に与えると共に、

   道徳的完全さへの要求が、
   宗派(セクト)・異端の形をとって、教会の統一を破ることを
   抑えることが出来た。

   トレルチ流に言えば、
   聖者共同体論は、
   カトリック教会の道徳的二元主義、

   言い換えれば、

   修道士と一般教会聖職者 並びに 平信徒のもつ、二種の道徳の併存と、
   そこから生ずる
   道徳的緊張の論理に基礎を与えるものと言えるであろう。」

  と、記述されておられます。


  アウグスティヌスの聖者共同体論は、
  随分と自分勝手な論理だと感じられませんでしょうか?

  ① カトリック教会が、
    ペトロ(磐)の上に建てられたとのマタイ福音書16・18~19は、

    マルコ福音書やルカ福音書には記述されていません、
    というか、
    そっくり脱落しているのです。

    マタイ福音書が、
    原始キリスト教会の意図に従った福音書であり、

    それ故に、
    マタイより早い時期に記述されたヘレニストのマルコ福音書より前に
    聖書に位置づけられたことを考えると、

    この話は、
    イエスが話をしたと考えるよりは、
    マタイ福音書の記者が、挿入したものと考えたほうが、
    蓋然性が高いのではないでしょうか。

    もし、イエスが、この様なことを言ったとしても、

    ペトロは、
    イエスが逮捕された晩に、3回もイエスを裏切っていますし、
    自分の逃亡を優先して、イエスの処刑にも立ち会っていません。
    (イエスの周囲の女性達は、イエスの処刑に立ち会っています。)

    この様な人間が、
    イエスの後継者だとするカトリックの厚顔さに、
    唖然として、絶句してしまうのは、私だけなのでしょうか?


  ② 聖霊に満たされた聖者について

    これも、唖然として絶句してしまう話です。

    聖霊に満たされているとは、

    イエスが復活した後に昇天した後に、聖霊が降臨して、
    ペトロ以下の使徒達が、
    聖霊に満たされたことから、始まっています。

    その後、
    聖霊に満たされた者が、頭に手をかざす按手をすれば、
    按手された者も、
    聖霊に満たされるとの建前が、受け継がれているのです。

    聖霊に満たされるということは、
    神と直接つながることを意味するそうです。

    この様な聖霊に満たされた者により、
    教会が、構成されているというのが、

    カトリックの正当の理由づけなのでしょうが、
    全く話にならない理由付けのように感じられます。

    以前にお話ししたことで恐縮ですが、
    聖霊に満たされた者という擬制はウソなのです。

    例えば、
    ペトロとパウロは、
    共に誰が見ても聖霊に満たされた者ですが、

    アンティオキアで、
    キリスト教徒になるには割礼が必要かどうかで対立して、

    パウロは、
    原始教会から追放されてしまいました。

    聖霊に満たされた者=神と直接繋がった者であるなら、
    意見が異なることはあり得ないのに、

    パウロが追放されたのですから、

    聖霊に満たされた者との擬制はウソであることが、
    明白であろうと思われます。

    同じようなことが、

    アンティオキアで、
    ペトロとパウロの対立があったかなかったについて、

    アウグスティヌスとヒエロニムス(ウガルタ聖書の作者)とで、論争しています。

     出所;ウィルス「アウグスティヌス 117㌻」(岩波書店)

    これも、
    聖霊に満たされている者との擬制がウソであることを現しているものですが、

    そのような経験をしたアウグスティヌスが、
    聖者共同体論を唱えているということに、

    私は、
    カトリックの平気でウソをつく人間性に、首を傾げているのです。


  以上、①、② を 考えると
  「秘蹟から秘蹟の効果を生み出せるのが、カトリック教会だけである」との
  アウグスティヌスの主張は、説得力を持たないのでは、
  と、いう気がしています。

  聖者共同体論や、使徒的伝承の理論は、砂上の楼閣の理屈であり、
  キリスト教が、
  信者をマインドコントロールするための詐術、虚言とでも言うべきものでしょう。



  < 「異端は、部分的主張である」との解説について 感じたこと >


1.この点の記述に対する違和感 は、
  「異端が 部分的であることは、当然ではないでしょうか」というものです。

  異端は、
  異教と異なり、同じキリスト教なのです。

  権力を握っているカトリックに対して 異議を主張する論点以外は、
  カトリックに反対していないのですから、カトリックと同じなのです。

  従って、
  異端の主張は、部分的と先生は記述されておられますが、
  ある意味当たり前のことではないでしょうか。


2.もう一つの違和感は、
  異端が、カトリックから独立することはないのだろうか?
  と、いうことです。

  カトリックの主張に反対を徹底すれば、
   ① 自らカトリックから袂を分かつか、
   ② カトリックが異端宣告して追放することになるでしょう。

  その時、
  異端がのたれ死にするように消えて無くなるなら、
  先生のおっしゃるように 部分的なものと言えるだろうと思いますが、

  事実はどうだったのかな?・・・との考えが浮かんできます。


  カトリックに対する最大の異端は、

  ルター派であり、
  カルヴァン派ではないでしょうか。

  即ち、
  16世紀に始まった プロテスタントであろうと思います。

  彼らは、
  16世紀にカトリックから独立して、
  カトリックとは別の歴史の歩みを刻んでいます。


3.正統のアウグスティヌスに敗北したと先生が記述されてる ドナティスト は、
  どうでしょうか?

  実は、
  アウグスティヌスの伝記を何冊か読んでみると、
  先生の語られる歴史とは違うのでは、という感じがしています。


  ブラウンは、
  「アウグスティヌス伝上 235㌻」(教文館)で、

  393年以降、
  アウグスティヌスと同僚達は、ドナティスト教会に対して敵対的態度を取った。

  ドナティストは、
  アフリカにおけるローマの法と秩序に脅威を与える大衆の反抗運動である
  との見解は、

  393年~405年
  アウグスティヌスと彼の同僚達が作り出した状況に対しては、
  正当なものとは言えない、

  と、記述されておられます。


  ブラウンの同書の記述を、もう少しご紹介させて頂きます。

   ① ヒッポにおいては、
     カトリックは、少数派 であり、

     (ヒッポがあった)ヌミディアでは、
     ドナティストが、主流教会 だった。

   ② (当時)ドナティストにとって、
     あたかも、教会の平和がやって来たように、見えていた。

     あと、もう少し妥協すれば、
     浄化された教会(ドナティスト)が、

     見下され、弱体化した 引き渡した者たちの教会(カトリック)を、
     すべて吸収するところまで来ていた。

     少数派のカトリックは、
     優勢な兄弟達(ドナティスト)に、
     次第に浸食されるがままになっていたように見えたので、

     アウグスティヌスは、
     ヒッポで、ドナティストへの寛容策を採用できなかった。

   ③ アウグスティヌスと彼の同僚が 393年~405年に作り出した状況

     この時期、
     運動は、いつもトップからのみ 引き起こされた。

     運動とは、

     A.カトリック教会 の 突然の自己主張 と
     B.アフリカにおけるすべての非カトリックに対する帝国の権威が、
       厳しさを増してきたことである、

     こうして私たちは、
     上からの独断的な迫害 と、
     これに対抗した 下からの暴力の盛り上がり という
     始末に負えない繰り返しの軌道をしっかり辿ることになる。

     ドナティストは、
     アフリカにおけるローマの法と秩序に 脅威を与える大衆の反抗運動
     と、言われたことがあったが、

     この見解は、
     アウグスティヌスと同僚が作り出した状況に対しては、
     正当なものとは言えない。

     ドナティウスとの支配領域に、説教者を送り込んだり、
     後には、
     ドナティスト教会に対して、武力でその体制を転覆しようとする
     アウグスティヌスと同僚達の試みは、

     ドナティスト教会の過激派
     キルクムケリーネス(キルクムケリオネス)の集団によって妨害された。

     出所;ブラウン「アウグスティヌス伝上 234~236㌻」(教文館)



  ブラウンは、
  1935年生まれの古代末期についての代表的な歴史学者で、
  ご紹介した「アウグスティヌス伝」(教文館)は、
  当代屈指の伝記との高い評価を得ているそうです。

  ブラウンによると、
  アフリカ(現在のチュニジア、アルジェリア)で主流だったのはドナティストであり、
  アウグスティヌスが 司教をしていたヒッポはもとより、色々な町で、
  ドナティストの司教とカトリックの司教が並立していたそうです。

  しかも、
  ドナティストが、カトリックより優勢で、

  アウグスティヌスは、
  このままではドナティストに敗れてしまうと、
  武力による実力行使を始めたのでした。

  アウグスティヌスが、
  ローマの権力、武力を使用して、ドナティストを鎮圧したのです。

  411年
  カルタゴの比較協議会で、
  アウグスティヌスは、
  ドナティストに論争に勝利したことになっていますが、

  裁判長は、
  ローマが派遣した官僚のマルケリヌスであり、

  神学論争というものは、
  先に「錦の御旗」を確保した者が勝利するような仕組みになっていますので、

  ドナティストが、
  異端と断罪されるのは既定路線だったのだろうと想像しています。



  アウグスティヌスは、
  キリスト教神学を確立した最大の神学者ということになっていますが、
  人格的にも(特に、司教としての行状)感心できないと感じています。

  例えば、
  420年 ティムガドのドナティスト司教 ガウデンティウスは、
  ローマ帝国の執行官ドゥルキティウスが、近づいてくると、

  大聖堂に引き籠もって
  自分の会衆と共に焼身自殺を遂げると脅迫しました。

  これに対して、
  アウグスティヌスは、

  「神が、
   ある者たちを究極の罰へと予め定められている(予定している)以上、

   ごく少数の者たちが、自分の火で焼かれることがあるにしても、
   圧倒的大多数のドナティストが、カトリックに吸収される方が、

   ドナティスト全員が、ドナティストとして留まり、
   地獄の炎で焼かれるより、ずっと良いことであることは明かだ」

  と、予定説を ドゥルキティウスに教示して、
  焼身自殺に立ち向かうよう武装させた、とのことです。

   出所;ブラウン「アウグスティヌス伝下」61㌻(教文館)


  要するに、

  アウグスティヌスは、
  カトリックが、ドナティストを制圧するために、

  ローマの司令官に、
  ドナティストを焼き殺せ と、指示しているのです。


  また、
  418年
  アウグスティヌスは、ペラギウスを異端だと断罪していますが、
  この経緯も感心できません。

  アウグスティヌスは、
  415年に、
  ペラギウスへの攻撃を開始していますが、

  それを受けて、
  415年
  パレスティナのディオスポリス(リッダ)での公会議ので審理の結果、

  エルサレム司教が、
  ペラギウスの正統性を承認しました。


  更に
  417年
  ローマ教皇 ゾシムスが、ペラギウスを審問して、

  「この様な真正の信仰を持った者たちが、誹謗されるなどということを
   考えるだけで、涙を禁じ得ない」とまで、述べて、

  教皇が、ペラギウスを正統と 認めたのです。

  そこで、
  アウグスティヌスは、

  子供時代からの親友のタガステ司教アリピウスを、
  西ローマ皇帝の許に派遣して、

  サラブレッドの種馬を使っての賄賂工作により、
  西ローマ皇帝よりローマ教皇へ圧力をかけさせて、
  ローマ教皇を屈服させ、

  教皇 ゾシムス に
  ペラギウスが異端であると、言わせたのです。

    出所;アマン「アウグスティヌス時代の日常生活下 300㌻」(リトン)


  この様に、
  アウグスティヌスは、
  論争ではなく、
  武力や裏工作で、自らの主張を貫徹させたのです。

  カトリックでは、
  上長の命令は、絶対的な権威があり、
  従わねばならないとなっているはずなのに、

  アウグスティヌスは、
  上長である エルサレム司教、ローマ司教(教皇)を無視して、
  自分の我を通しているのです。

  でも、
  歴史は、勝てば官軍なのです。

  カトリックは、
  というより キリスト教は、

  この様な人格的に首を傾げるような人間でも、
  自分にとって都合が良ければ、偉人だ、聖人だと、崇め奉るのです。

  モーセも、
  アウグスティヌスも、
  ベルナールも、

  更には、
  カルヴァンも、然りなのです。



   < 宗教での正統か異端の判断基準は、信仰では? >


先生は、

「正統は、社会=俗世の不完全さをその出発点における前提とするので、
 人間と社会の欠陥に寛容であり・・・」

「万人に対して、エリートのための道徳、道徳的英雄主義を求めず、
 一般人の道徳とエリートの道徳の二元主義をとっている。」
と、記述されておられますが、

ちょっと論点をそらせておられるのでは、との違和感を持ちました。

先生が、
この様なカトリックの態様で、宗教的な正統が獲得し、維持できると
お考えになっておられるのでしょうか?


ドナティストが、
問題にし、非難したのは、エリートたる聖職者なのです。

カトリックが、
聖職売買や腐敗を非難され、改革を求められたのも、
一般の信者ではなく、エリートたる聖職者なのです。


先生は、
クリュニーがすぐ堕落し、
シトー会もクリュニー同様 すぐに堕落し、

(更に、
 フランシスコ会、ドミニコ会と、)

次から次へと、
最初の志をすぐに忘れ、捨て去ってしまって堕落している
と、書かれておられるのに、

二元主義を採っているから、正統は正しい と、おっしゃるのでしょうか。


そもそも、
アウグスティヌスとドナティストとの比較して、
アウグスティヌスが、正しく正統であり、、
ドナティストが、間違っていて、異端である と、感じられますでしょうか?

ディオクレティアヌス帝のキリスト教弾圧の際に、

ドナティストは、
キリスト教を棄教せずに、必死に頑張り通した人たちなのです。

それに対して、
弾圧の際には、キリスト教を裏切って、
弾圧が終わったら、何にも無かったように、

以前の地位に戻ろうとした聖職者に対して、
おかしいではないかと、異議を申し立てるのは、
当たり前ではないでしょうか。

弾圧の際に、殉教を覚悟で頑張った人間が、
異端として否定され、

弾圧の際の裏切り者が、
正統とされて、カトリックでの権力を 握っていることが、
信仰の面から是認されるのでしょうか。


また、
裏切り者で、資格のない聖職者が行った秘蹟は、無効だ
と、感じるのは、十分理解できるのではないでしょうか。

カトリックは、
そんなことをしたら、組織が持たない、

だから、
秘蹟は、
実質、神がするのであり、聖職者は道具にすぎないから、

形式さえ整っていれば、秘蹟は有効だ
との詭弁を考え出して、
権力を使って強引に押し通したのです。


政治の世界では、それでよいかも知れませんが、
宗教では、この様なことが許されるのでしょうか。

信仰のない聖職者が、
キリスト教を代表して秘蹟を行うことがあって良いのでしょうか。

先生は、
「人間と社会の欠陥に寛容であるから」と、正当化されておられますが、
そのような論理が宗教的に認められるのだろうかと疑問に感じられます。


聖職者の資格を疑われる者を、聖職者にしてはいけないのです。

宗教は、
人間の中で、最も倫理的な厳格さを要求される分野ですから、
腐敗した聖職者は、即座に排除せねばならないのです。

宗教は、
組織の維持よりも、信仰を大切にすべきなのです。

というよりも、
神や信仰を論理の出発点としなければならないのです。

カトリックは、
「旧約の神やモーセからして、犯罪者(殺人犯)であり、
 ペトロやパウロも同様に人殺しであって、

 カトリックは、
 信仰を看板にして、権力を握り、
 信者から金を巻き上げることを、最優先にしてきた組織であることは、
 バチカンを見れば一目瞭然である。

 だから、
 真摯に信仰を考える 建て前と本音が分からない 素っ頓狂な人間が現れると、
 異端として排除してきたのだ。」
と、言われても、反論は出来ないのではないでしょうか。

従って、
カトリックが、危機に陥ったときには、
さすがに、本来の宗教団体として要求される信仰が
甦ってくるのだろうと思います。

グレゴリウス改革が、その典型でしょう。


グレゴリウス改革を見ると、

カトリックが、異端として排除したものが、

本質的には、
言い換えると、
宗教的・信仰的には、正統なのだ

という風に考えるべきだろうと思われます。


それ故に、
危機が過ぎ去れば、
以前の世俗権力を追求する組織に戻っていくのであり、

それをうまくやろうとしたのが、
中世最大の教皇と言われた イノセント3世なのだろう
と、思います。


先生は、
中世の西ヨーロッパは、
皇帝権と教皇権の2つの中心を持つ楕円的統一体だ
との説明をされておられます。

世俗の皇帝権 と、
聖界の教皇権 という
質の異なっている中心(焦点)の感じを、従来持ってきましたが、

今まで述べたことをまとめると、
皇帝権と教皇権の両方共が、同質の世俗の権力であり、

両者が、
世俗の権力の覇を争ったと考えるべきだと考えるようになりました。

そういえば、
ビザンツ帝国では、ギリシア正教は、皇帝に服従していまので、

政治権力と宗教が並存する場合は、
政治権力を持っていない宗教は、
本来的に 政治権力に服従せざるを得ないのです。

西ヨーロッパでは、
ローマ皇帝が、早い時期に消滅しましたから、

教皇権が、世俗的にも力を得て、
皇帝権に対抗するまでの政治権力になったのだろう
と、思います。

近世になって、国民国家が形成されますと、

教皇の世俗的権力が消滅し、
その宗教的な支配領域も、
主にハプスブルク家の支配領域に限定されて、

フランスとイングランド、オランダ、
更には、
北部ドイツは、教皇より袂を分ちました。

 (注) ハプスブルク家の支配地域とは、
     スペイン、ベルギー、イタリア、南ドイツ、オーストリア等です。


注目されるのは、フランスです。

フランスは、
カトリックの世俗権力は、排除しましたが、
信仰は、カトリックを維持しています。


フランスの例を考えると、

カトリックが、最初から
政治権力を持たない信仰に専心した敬虔な宗教団体であったならば、

プロテスタントやイングランド国教会のような
カトリックから分離するような勢力が出現しなかったのでは、
という気がしないでもありません。


歴史を振り返って
カトリック教会に対する批判の根強さの 依って来たるもの を考えると、

カトリック教会が、
「正統であり、宗教的に正しい」とは、アプリオリには言えず、

カトリックの正統の論理は、

世俗的な権力を掌握するための論理であり、
宗教的には、異端とも言うべきものであるのでは?

と、結論づけられるのでは?
という気がしています。




   < キリスト教の本質についての私見 >


この1年半、キリスト教関係の本を読んできましたが、
以上の考察を経て、
キリスト教に対する整理が出来たような気がして、
改めて、堀米先生に感謝しております。

また、
キリスト教に関して、親切にご教示くださり、導いて頂いた todoさんに、
心より御礼申し上げます。


神への信仰は、
個人が神を感じるものであり、全く個人的なものでしょう。

私は宗教を信じていませんので、想像するだけですが、
絶対的な孤独、暗黒の虚無(例えば 死)に耐えられない故に、
神を求めるのではないでしょうか。

ですから、
宗教は、本来的に組織は必要が無いはず です。

一人一人が、神を感じ、帰依すればそれで良いのであり、
その意味から、
先生が、
普及が限られたているとおっしゃっている無教会派のあり方が、
宗教的な本来のあり方を現しているのだろうと思います。


ところが、

信じる神を弘めたい、との願望が、
神への帰依が強い人ほど出てくるのは理解できます。

そして、
そのような人々が、集団(教会)を形成して、
組織(教会)を維持していくようになると、

途端に、
神よりも、組織の論理と、組織及びその成員の利益が
優先されるようになって、宗教として堕落していくのです。


人間は、エゴの塊であり、

人間が集まれば、
先ず自分の利益が最優先するのが、人間の哀しい性(サガ)なのです。

先生は、
十分にそれを承知されていて、
組織とはそういうものだと、達観されておられたのでしょう。

宗教というものは、
そうなるとすぐ堕落して、批判されるようになることを、

先ほど述べた各修道会の経緯を見ても、先生は、ご承知のはずなのに、
堕落した組織であるカトリックを、正統とされたことが、少々残念です。


以上まとめると、

 ① 信仰 は、
   一人一人の人間が、神を感じて、神と対話するものであり、

   宗教とは、
   本質的に個人的な性格のものである

 ② 教会(教会という組織)は、
   世俗の存在であり、聖的な性格を有するものではない。

   また、
   宗教的には堕落する性格を持ったものである。

   何故ならば、
   人間は、エゴの塊であり、
   聖職者も、その人間の本性を免れることがない故に、

   信者から巻き上げた富を 教会や修道会に蓄積することにより、
   聖職者の贅沢な生活をもたらそうとするものであるからである。

   そして、
   組織や成員の利益を追求し、維持するためには、

   神を利用して、信仰を掲げて
   詭弁やウソを弄してでも、押し通そうとする存在である。

 ③ ごく稀に、
   アッシジのフランチェスコのような
   清らかで、神の申し子とも言うべき聖人が、出現するが、

   これらの人は、

   キリスト教の看板として、
   キリスト教の本質を隠蔽すために
   大いに活用すべき道具にすぎない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 3日 (月)

E.トロクメ著「ナザレのイエス」その生涯の諸証言から と、神学が、似而非(エセ)学問であることについて

加藤教授と田川教授の本を読ませて頂きましたので、
お二人の先生であるトロクメ教授の
イエスと原始キリスト教の本を読んでみようと考え、

その一冊目として、
「ナザレのイエス」を読んでみました。


本書は、
福音書にあるイエスの発言を、

① 主の言葉、
② アポフテグマ
③ 物語伝承
④ 譬え
⑤ 奇跡物語 に分けて、
それぞれを説明された後、

イエスのガリラヤでの伝道は、
 ① ごく狭い、一地域の人々への限られたものであり、
 ② イエスが、
   地方の一預言者であり、
   国民大多数に対して影響を及ぼしていなかったのは明かである、
と、記述されて、

ガリラヤの名も無い説教師が、
国家的に一躍有名となり、公共の人になったのは、
エルサレム神殿での商人追放であり、

社会秩序維持の責任者であるユダヤ教の権力者とローマの総督が、
イエスに対して驚きと不安となり、
イエスが処刑されることになった、
と、結論づけられておられます。


ガリラヤでのイエスの発言 の 解説のなかで、

① イエスの譬え話は、
  中産階級の家に招かれて会食した際に、
  イエスが、教示した譬え話が、福音書に記述された。

  譬えは、
  本質的に、一般庶民を教える手段であるという考えは、
  福音書記者マルコが、護教上の目的のために考え出したものであって、

  その目的は、
  この文学類型を、教会伝承のなかに統合しようとする
  最初の試みを、打破することであった。 

② イエスの奇跡物語は、
  ガリラヤの東北部とか、
  ティベリヤ湖周辺の村落で行った、治癒行為などを、

  村人が、イエス処刑後も覚えていて、
  その話を、
  マルコが取材して、マルコ福音書に記述したものである、
との記述は、
非常に参考になり、印象深く読ませて頂きました。


本書で最も印象深かったのは、

イエスが処刑された理由を説明した
「第八章 公共の人としてのイエス」でした。


トロクメ教授の要旨を、
私流にまとめると、次のようになります。

神殿でのイエスの商人追放は、
瞬間的な一撃であり、
後に何も残らない性質のものであったが、

例えて言うと、
銀座の四丁目の交差点で、
人の耳目を引き付けるような行為であったため、

瞬く間に、
エルサレムはもとより、ユダヤ全土に、イエスの行動が広まり、

イエスが、
大変有名となり、名声をかちえましたが、

反面、
ユダヤ 及び ローマの指導者階級の人々に、
嫉妬心や敵対心をあおり立てることになって、

イエスが、
民衆を扇動して、
聖職者による少数独裁体制を構成している人々(神殿の聖職者)や、
彼らを支持している外国の人々(ローマ総督)に対して
暴動を起こすのではないか、と、心配された。

特に、
エルサレムのサンヘドリンや
ローマ代官の統治が行われている地域では、

イエスの存在が、
やがて危険なものになると、警戒されるに至った。


この出来事は、
イエスが、逮捕・処刑される、数週間、あるいは 数ヶ月前の出来事であろう
と、トロクメ教授は、推定されておられます。

共観福音書(マルコ、マタイ、ルカの福音書の総称)は、
文学的・神学的動機として、
福音書の終わりに、エルサレムで起こったすべての事件を記すことにした
恣意的操作であるとされて、

伝道の初期に起こった事件であると記述しているヨハネ福音書に
近い考え方をされておられるのだろうと、感じました。

(多分、
 ヨハネ福音書とマルコ福音書の間に生じた事件だ
 と、考えておられるのだろう と、推測しています。)


イエスを、
夜中に逮捕し、すぐに裁判をして、即刻処刑したのは、

イエスが、
① 過越際にやって来た巡礼者の群れを、蜂起させるのを妨げる
  と同時に、
② 群衆が、
  この人気ある囚人のために騒ぎを起こすのを避けようと望んでいたこと

を、考えるなら、良く理解できる。

この様な二つの危険が存在していたのは、
イエスが、
国民の大部分から、メシヤだと考えられていたからに他ならない、
と、記述されておられます。


トロクメ教授の記述により、
① イエスが、「ユダヤ人の王」として処刑されたことも、
② イエス逮捕の際に、
  ペトロ以下の弟子達が、全員逃亡して隠れてしまった理由が、理解できました。


本書の最初の「日本の読者へ」で、
トロクメ教授は、次のように書かれておられます。

本書の立場を、簡潔に記した名文だと思いますので、
ちょっと長くなりますが、ほぼ全文をご紹介させて頂きます。


「ナザレのイエスの祖国 パレスチナは、
 日本から遙かに遠いとは言え、

 彼(イエス)は、アジアの人であります。

 一人のヨーロッパ人が、
 アジアの人々に、
 一人のアジア人のことを、今更 敢えて説明する必要があるでしょうか。
 うぬぼれていると、思われるかも知れません。

 著者と致しましては、
 そうでないようにと願っております。

 私は、
 本書を、
 フランスの人々と、
 ヨーロッパの同胞のために書きました。

 この論述が、
 日本の読者にも関心を呼ぶだろうと考えて下さる日本の人々がおります。

 そうであって欲しいと祈るものですが、
 お読み下さる一人一人からは、
 本書が、
 随分ヨーロッパ的であると言われることを、覚悟しています。

 更に、
 本書の主張は、
 一方において、
 ヨーロッパの古くからの伝統を、はねのけることにあります。

 この伝統とは、
 イエス解釈は、
 この人物を、ヨーロッパ文化に結びつけることにある、
 といういき方です。

 古典的キリスト論的教理や、
 最近の二世紀のイエス伝は、

 それぞれのやり方で、
 ヨーロッパ的哲学思想や歴史観に、イエスを結びつけようとの
 この試みを、更に遠くまで押し進めました。

 本書では、
 イエスのヨーロッパ的解釈を陳述するのではなく、

 証人達ーー殆ど全部アジア人ーーに、
 ナザレの預言者の生涯について語らせたいと思います。

 この試みは、
 些か無鉄砲であり、
 当然議論が予想されます。

 しかし、
 これによって、
 日本の読者に、更にイエスに近づいてもらえるなら、

 それは、
 本書にとって、大変貴重な証し となります。」


この文章は、
本書の意図を簡潔に述べられておられると思います。

トロクメ教授は、
敬虔なキリスト教徒でありながら、
その信仰の赦す範囲で、
出来るだけ客観的に、公平なイエス像を記述しようとされておられて、

しかも、
成功されておられると、思われ、

本書は、
イエス伝のなかでも、名著に位置づけられる本であるのでは、
という感じがしています。


これから、トロクメ教授の「キリスト教の揺籃期」その誕生と成立 を、
更に読み進めてみようと考えています。



ところで、
本書を読みながら、

1.神学が、他の学問と異なる点
  端的に言うと、
  神学は、学問とは似て非なる似而非(エセ)学問である という点  と、

 
2.私がイエス伝を読む必要性があるのか 

を、考えていましたので、簡単にご紹介させて頂きます。


1.神学が他の学問と異なる点
  (神学が、似而非(エセ)学問 と述べる理由)

  マックス・ウェーバーは、「職業としての学問」で、

  ① 学問的な研究をして生じる結果は、
    「知る価値がある」という意味で重要であるという前提である。

    この前提そのものを、
    学問の手段を持ってして証明する訳にはゆかない。

    この前提は、
    その究極の意味にかかわらせて解釈されるものであるが、

    その究極の意味というのは、
    そのあとで、
    めいめいが、自分たちのぎりぎりの生活態度に照らしてみて、

    拒否するなり、
    承認するなり、しなくてはならないものである。

  ② 物理学や化学や天文学などの自然科学が、
    自明な前提としているのは、究極の諸法則を知る価値がある、
    ということである。

    その法則を知っていると、
    技術的に有効な成果が得られるからして、知る価値がある、
    というだけではなく、

    更に、
    学問が「職業」であるならば、

    学問は、
    「それ自身のために」も知る価値があるからだ、
    というのである。

    この前提は、
    それ自体、証明しようとしてもできるものでは絶対にない。

    自然科学が描くこの世に、
    1) 存在するだけの価値があるかどうか、
    2) この世には「意味」があるかどうか、

    また、
    3) この世に生きて意味があるのかどうか、
    ということは、

    尚更証明できる事柄ではない。 

  ③ 医学についても、
    医学の研究の一般的な「前提」は、
    1) 生命を維持するという課題と、
    2) 苦痛を出来るだけ和らげることとが、

    ひたすらにそれ自体として、肯定される、
    ということである。

    医者は、
    危篤の病人が、死にたいと嘆願する場合にも、
    色々と手段をつくして病院を助ける。

    医者は、
    医学の前提と刑法典とのために、

    その(死にたいという患者や患者の身内の)望みを
    叶えるわけにはゆかないのだ。 

  ④ 美学においても、
    芸術品が存在するということは、
    美学にとって与えられた事実である。

    この事実が生ずるときの条件を、
    美学は、根拠づけようとする(学問である)。

    芸術品が存在すべきかどうか、
    ということは、
    美学の問うところではない、 

  ⑤ 法学についても、
    1) 法が、存在すべきかどうか、
    2) 他ならぬ かくかくの規則を立てるべきかどうか、
    については、
    法学は答えはしない。

    法学が示すことが出来ることは、
    もし、
    我々が 法的施行の規範に従って、ある効果を望むならば、
    かくかくの法規が、その効果を上げるために一番適当な手段である、
    ということである。 

  ⑥ 歴史的文化科学は、
    1) 昔には、
      これらの文化諸現象が存在する価値があったのか、
      又、
      今もあるのかどうか、
    という問題には、自らは答えないし、

    また、
    2) 文化諸現象を知ることが、苦労のしがいのあることかどうか、
    という問題にも、答えはしない。

    歴史的文化科学は、
    文化諸現象を知れば、

    それによって、
    「文化人」の社会に参加するという利益がある、
    ということを、前提としている。

    だが、
    こういう前提が、実際にあるのかどうかは、
    「学問的」に、誰にも証明できることではない。

    また、
    文化科学が、上のことを前提するからと行って、

    その前提が、
    自明であるということが証明されるものでは決してない。


要するに、
ウェーバーは、
学問が存在する価値があるとの前提に基づいて、学問が存在するのであり、

その学問が存在する価値あるとの前提については、
即ち、
研究すること、及び 研究した結果が、意味、価値があることは、
証明できないと、縷々説明されているのです。

従って、
学問とは、
学問それ自体を目的として組み立てられる技術(アート)である、
ということだろうと思いますし、

この点については、
神学も、
他の学問同様、当てはまるのだろうと思います。


神学と他の学問が、決定的に異なるのは、
研究の出発点が、
事実に基づかない ことです。

ウェーバーが例示した諸学問は、
ある事実をスタートラインとして、研究を積み上げていくことが、
価値があるものであるとの前提にしている、ということです。

ところが、
神学のスタートラインには、

人間が創り出した神、
即ち
架空の存在 が、鎮座しているのです。

神は、架空の存在ですから、
何とでも作り出し、言うことができますし、

これが神だと言えば、
だれも「そうではない」と反論や証明することができないものです。

これに、
人間は、エゴイストである との性格が加味されると、

神学者やキリスト教団の都合、妄想、により、
何とでも理屈をつけることが可能になるのです。

要するに、
スタートラインが事実に基づけば、
その後、
どの学者が論理が積み重ねても、同じ結論に到達するのです。

ところが、
スタートラインが架空の存在であれば、
いくら論理を積み重ねても、

砂上の楼閣であり、かつ、幻にすぎず、
人によって結論が異なるのです。

従って、
神学は、他の学問とは「似て非なるもの」と言えるだろうと思います。

神にとらえられているルターと、
自分の言葉は神の言葉だとするカルヴァンが、
神学上の合意できなかったのが、

神学が、
他の学問と似て非なるものであることが表面化し、、
幻にすぎないことが、露わになった 象徴的な事例だ と、思います。


もともと、
福音書は、

福音書記者が、護教的な目的から恣意的操作をしていると、
トロクメ教授は記述されておられます。

要するに、
あること無いことを福音書記者が記述していて、

今となっては、
どれが事実なのか分からない、ということです。


その文書を、神学者が、
それぞれの立場から、自分の都合の良いように構築し、記述して、

事実に基づいて組み立てた理論とは、大幅に乖離した化け物
というべきものを、作り出してきたのでは、
と、感じられます。

矛盾だらけの旧約聖書も同様です。


キリスト教は、
2000年にわたって、非常に優秀な方々が、
他の学問とは似て非なる作業を繰り返されておられるのです。

 ① 神は、勿論のこと、
 ② 人間に原罪があること、

 ③ キリストが十字架で、人々の罪を贖ったにもかかわらず、
   悔い改めなければ、最後の審判で地獄送りになるぞと脅かすこと、

 ④ 旧約の神と新約の神、及び聖霊が三位一体である、
   等々、

事実に基づかない荒唐無稽な理論を構築して、

弱い立場の人間を追い詰め、
マインドコントロールし、
金銭を巻き上げるための手段となり、

更には、
殺人や、拷問などの残虐な犯罪行為や、
聖職者の邪悪な欲望 や、嘘・出鱈目・詐欺

を、強弁し、正当化してたのが、「神学」なのです。


要するに、
出発点が架空のものですから、

論者に都合の良い理論や結論を いかようにも導き出せます。

「神学」は、このことを悪用して、
強盗犯や脅迫犯を正当化する 用心棒的な理論 というべきものを
作りだして、提供して

世俗組織の一つであるキリスト教会の犯罪行為を覆い隠し、
聖職者の 犯罪行為 や 地位・金・性欲を含むあらゆる欲望 を 満たす為に、
多大の貢献をしてきているのです。


今後、本を読むときには、

キリスト教の愛だとか、博愛だとの
表面上のプロパガンダの裏にある本質、

とりわけ、
人間が創りだした 事実に基づかない 神 を、
スタートラインとする神学 が、

どのような詭弁や法螺を作り出して、人を惑わそうとしているのか
どのように 犯罪行為に誘導しているのか、
について、
特に、注意せねばならないな、と、考えています。


 (注)上記のキリスト教神学に対する考察は、

    キリスト教に対する次の2つの考察に基づいていますので、
    こちらも ご参照頂ければ幸いです。


    キリスト教の本質についての幾つかの謎解き ・・・・・
    1.一神教のキリスト教が、世界宗教(普遍宗教)になったわけ(仮説)
    2.キリスト教が、異端を生み出し、幾つもの宗派に分裂したわけ(仮説)
    3.キリスト教が、殺人宗教となったわけ(仮説)
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-4431.html


    キリスト教が、ヨーロッパに 通奏低音としてもたらしたもの
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-6c54.html




2.私がイエス伝を読む必要があるのか?

神学が、他の学問とは似て非なるものであるから、読む必要が無い、
と、考えているのではありません。

神学が、他の学問とは 似て非なるものであるなら、
尚更、詳しく分析せねばならないはずです。


私が、
イエス伝を読む必要があるのかな?
と、疑問に考え出したのは、

私のキリスト教に対する視座が、歴史にあるからです。

即ち、
キリスト教の存在が、歴史にどのような影響を及ぼしたのだろうか、
との視点で、キリスト教を見ています。

田川教授やトロクメ教授のイエス伝は、
キリストの真実を掴もうとされている努力であるだろうと、感じられます。

これは、
非常に貴重な作業であり、
そういう面までも視野に入れた方が良いのでは、
とは、思いますが、

現時点でイエスの真実が明らかになったとしても、
歴史において語られたイエスとは、異なるものなのです。

歴史において語られたイエスを含めたキリスト教の活動が、
歴史に及ぼした影響を考えるとすれば、

昔に語られていたイエス伝、
ウソも含んだ聖書に記述されているイエス伝の方が、
歴史を考える際の資料として適当なのでは、

こちらの方が、
当時の人々の考え方に迫れるのでは、という気がするのです。

貧弱な能力と限られた時間のなかで、
幅広く歴史を考えたいと思っている人間にとって、

イエスの真実に迫ろうとする近代や現代の神学的な営為は、
とりあえず置いておいても良いのかな、
という気がしています。


またまた、
キリスト教関係者のお気持ちを逆なでする議論を 展開してしまいました。

キリスト教を、
中傷非難する趣旨ではなく、

歴史におけるキリスト教をどう考えたら良いのか
との思索の一環であることを、

ご理解頂いて、お許し下さることを、願っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧