イタリア

2022年7月18日 (月)

歴史の違いは 料理 にも 差異をもたらすのでは?

何年か前、ドイツに旅行した際に、
ベルリンを訪問したことがありました。

夕食を食べようと、ガイドブックを開いてみると、
「ソニー広場のレストランが評判である」
との記述がありましたので、訪れてみることにしまた。

クリーム系のシチューを注文したのですが、
一口食べて、家内と顔を見合わせてしまいました。

出された料理は、
無理やり飲み込んだ はるか昔の小学校の給食レベルの味で、

現在においては レストランの料理として提供されるレベルに
およそ遠く及ばない まずい料理 だったのです。


あまりのひどさに
家内とホテルに帰ろうと話しあって、食事を中断してホテルに帰りました。

ホテルに戻るってから、口直しに ベルリンの名物料理といわれていた、
ソーセージにカレーをかけた料理を注文しました。

出された料理を一応食べましたが、
これが、ドイツの首都であるベルリンを代表する料理か
と、びっくりしてしまいました。

日本では、
お祭りの屋台で売られているような
ソーセージにどこにでもあるうま味もこくもないないカレーをかけただけの料理
だったのです。

それをベルリンを代表する料理だ と、
一流ホテル(ウエスティンホテル)で 堂々と提供されているのです。

当時は、
ドイツの料理は、評判通りまずいな と、思っただけで、
一つの思い出となったのですが、

最近、「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」を考えるとき、
歴史の違いを表している象徴的な現象が、この思い出では?
と、考えますので 少しお話しさせていただきたいと思います。


家庭料理で煮込み料理を作る際には、
多量の野菜や肉を煮込んで作るのではないでしょうか。

長時間これらを煮込むことによって
肉や野菜からうまみ成分が出てきて、おいしく仕上がります。

レストラン料理では、見た目も大切ですから、
野菜 や 肉は、
必要最小限に抑えて、色添えみたいな役割となりますので

料理をおいしくすために
ブイヨン(出汁)やバター(油脂分)を 隠し味として使用して
仕上げるのではないでしょうか。

ところが、
ベルリン で 経験したことは、
スープ を作る際に ブイヨンやバターを使用しないで、
客 に 提供しているのです。

ですから、
我々の世代 が 経験した 小学校の給食 の まずい料理 と 同じようなもの が
提供されたのだろう と、思います。

60年近く前に
大学1年の時 に 南ドイツ から オーストリーに3週間ぐらい
バス旅行をしたことがありました。

その時に、
毎日 食事のたびに 炭酸系のリンゴジュースを支給されて飲んだのですが、
うまれてから初めて飲むリンゴジュース は、
最初 は 口に合いませんでしたが、

毎日飲むうちに、おいしさが分かってきて、
今では大好物の一つとなっています。

このように、
最初は 口に合わなくとも、
飲んだり食べたりしているうちに 味が分かってきて、
評価 が 変わることがあります。

ドイツ人 は、
ブイヨンの使わない料理 を 毎日食べているうちに、

それなりに おいしさを感じて
料理とは、こういうものだ と 思い込んで過ごしているのでしょう。

ですが、これは、
「繰り返しの歴史の国」であるドイツで生じたことであり、

「積み重ねの歴史の国」においては、
料理 を もっとおいしくする方法なないだろうか と、工夫 を 重ねる人 が 出てきて、

試行錯誤しているうちに、
ブイヨン を 加えると、もっと料理がおいしくなる
と、気が付くのではないでしょうか。

数年前に、
ドナウ川クルーズを レーゲンスブルクからブタペストまで楽しんだことがります。

利用したクルーズ船は、
日本企業の 「ニッコウトラベル」(JALさんの子会社ではありません)さんの所有船で、
料理を担当してくだっさったシェフは、ルーマニア人とのことでした。

実は、家内が ドナウ川クルーズは一度経験したいけど、
ローヌ川クルーズと比べて 料理 が まずいのでは?
と、逡巡していたのです。

ところが、
実際には、毎日提供される食事は、素晴らしいもので、
日本人の団体だからと言って提供された日本料理は、
日本人が作ったのではと思えるほどの出来栄えでした。

「ニッコウトラベル」さんに聞いてみると、
シェフを日本に呼んで、日本料理を含めて徹底的に教育しているとのことでした。

なるほど、それでおいしい料理を提供していただいているのだな、
と、感謝したのですが、

出されるスープには、
ブイヨンは使用していないなと感じられました。

シェフも、プロの料理人ですので、
日本で教育する際に、
初歩の初歩であるブイヨンの作り方までは、
教程に入っていなかったのでしょう。

ですから、
ベルリンとはまるで比較にならないレベルの大変おいしいスープでしたが、

やはりルーマニア人は、
繰り返しの歴史の国の人だなと、感じた次第です。

 

フランスは、
「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」の人々が 半々の国ですが、
指導者層は、「積み重ねの歴史」に属する人でした。

例えば、
渡辺一夫先生は、16世紀後半の宗教戦争の時代
ユグノー(新教)、カトリック、ユグノーと対立した3派の指導者は
「積み重ねの歴史」の地域である北フランス出身者だったと記述されておられます。

フランスは、
クローヴィスがベルギーよりパリに南下して建国した国であり、
支配層は、「積み重ねの歴史の国」の人々でした。

フランス料理は、
16世紀フランス王家に嫁いだメディチ家がもたらした
イタリア料理より発展したもであり
フランス王の宮廷をはじめとるる貴族の城館において 発展した料理なのです。

それが、フランス革命により
宮廷や貴族の城館に雇われていたシェフが失業したため
パリなどの町に出てレストランを開業したため、庶民にもフランス料理が広まり
国民的な料理として発展し現在に至っているのです。


イングランドは、
ノルマンディーからフランドルにかけての人々が、
ルマンディー公ウィリアムに率いられてイングランドに侵入して
現在に至る イングランド史 が 始まりました。

ノルマンディー公ウィリアムが征服した直後の イングランドは、
支配階級のノルマン人と、
アングロ・サクソン人やケルト人、ローマ人の末裔からなる
被支配階級との間に画然たる差がありました。

言葉からして、
支配階級のノルマン人は、フランス語、
被支配階級の人々は英語を使用していたのです。

ですから、
支配階級にとりブリテン島の領地は、征服した植民地みたいなもので、
本拠は、ノルマンディーからフランドルの間の地域だったのです。

その後、
イングランド王家のヘンリー2世が、アキテーヌ女公アリエノールと結婚して
スコットランド国境からピレネーに至るフランスの西半分の膨大な地域を支配する
アンジュー帝国 を 構築したのですが、

ヘンリー2世の息子ジョン王が、
フランス王フィリップ2世に フランスよりイングランドに駆逐されてしまい、

ジョン王の後継者が、
フランス領土奪回のためフランスを百年戦争を戦ったのですが、
最終的にフランスに敗北し、
ブリテン島の王朝としての歴史を歩むことになったのです。


その後、
イングランド王が、革命により断頭台で斬首されたころもありましたが、

フランスのように 共和制になることもなく、イングランド王が存続したために、
宮廷や貴族の城館で雇われていたシェフが 失業して、
庶民相手にレストランで営業するようなことが生じなかったのです。

これが、
イングランド料理は、まずい料理である との評価になった 一番の原因では?
と、考えています。

イングランド料理のまずさを象徴する例えとして
「イングランドでおいしい料理を食べたければ、朝食を2回食べればよい。」
と、云われています。

イングランドの朝食は、おいしいとの定評があるのです。
このことは、
イングランド料理を評価する際のヒントになるのでは?
という気がしています。


イングランドで 本当においしい料理は、
おそらく 宮廷や貴族の城館で食されているのではないでしょうか。

宮廷や貴族の城館で働いていたシェフが、
失業することもなく過ごしてきたため、

町のレストランの料理レベルが、上昇しなかったことが、
イングランド料理は、
まずい との評価 が 定まった原因ではないでしょうか?


例えば、
ティーで提供されるお菓子は、上質なものです。

特に、
クロテットクリームとジャムをスコーンを付けたものは、

トースト に バターとジャムを付けたものよりも
数段上質たと思います。

このクロテットクリームとジャムをつけたスコーンを食していたのは、
城館に住んでおられた貴族ではないでしょうか。


ロンドンで駐在員をしていた友人から、
最もおいしい紅茶は、イングランドより輸出を禁止されていて、
英国人が独占している

と、聞いたことがあります。

また、
ある年の正月休みに訪れたエジンバラの駅前のホテルで食したスモークサーモンは、
生涯最高のスモークサーモンでした。

日本人の大好きなイチゴと生クリームのショートケーキの原型は、
イングランド料理だと聞いたことがあります。

思いつくままに、イングランドの料理について述べさせていただきましたが、
私は、本当のイングランドの最高の料理を知らないのだろう
と、想像しています。

彼らは、
外国人に知らせずに、
自分たちのインナーサークルで 最高の上質な料理を楽しんでいるのだろう
と、想像しています。

私は、そのごくごく一部 を
垣間見ただけのような気がしています。


イタリアは
繰り返しの歴史の国です。

ローマ帝国終焉後、
ゴート人やランゴバルド人に支配された後、
ドイツ人が、神聖ローマ皇帝をしてイタリア政策を実施するのだといって
イタリアを支配していました。

その間に
ロンバルディアでは都市国家が栄て、

フリードリヒ2世没後 ドイツ勢力が衰えると
イタリア人の民族の祭典というべき イタリア・ルネサンスという 民族の祭典 を
繰り広げたのですが、

イタリア中部より南は、
ローマ教皇庁が フランス勢力を導入した後、
アラゴンに支配される経験をしたのち、

最終的に、
ハプスブルグ家 が イタリア全体を支配することになり、

19世紀半ば、トリノの宮廷がイタリアを統一するまで、
外国に支配される歴史を経てきました。

ところが、
繰り返しの歴史の国であるイタリアが、
積み重ねの歴史の国の象徴でもあるフランス料理の母国だ
と、いうのです。

残念ながら、
この疑問に対する回答を現在のところ持ち合わせていません。

確かに、
イタリアは海に囲まれていて、新鮮な食材が豊富な国であり、
おいしい料理がたくさんあることは事実です。

また、
フランス料理のように凝った調理法ではなく、
新鮮な食材を生かした料理が多い感じもしています。

例えていうと、
フランス料理とイタリア料理の差は、

日本で言うと京(京都)料理と加賀(金沢)料理の差に相通じるものがあるのでは?
と いう気が しています。

でも、
ドイツでさえ、

「繰り返しの歴史」をそのまま体現する料理 を 現在まで引き継いでいるのに、

ドイツ以上に「繰り返しの歴史の国」であるイタリアが、
なぜ あのような料理 を 保持しているのか、についての説明 が 思いつきません。


敢えて推測すると、

ローマ帝国時代 に 料理の基本が確立して、
それが、
20000年近く保持されてきているのでは?
と いう妄想しか 思いつきません。

この問題は、
ローマ帝国が「積み重ねの歴史」なのか、「繰り返しの歴史」なのか、
の 問題 と 深くかかわっていますので、

私の人生に 残された時間を考えるとき、
これから取りかかるには 大きな問題すぎるな
と、現在感じていますが、
他方、いつかギボンのローマ帝国衰亡史を読んでみたいなとも願っていますので
ひょっとして 考えるチャンスが訪れることが あったらな と 願っています。


以上、ヨーロッパ諸国の料理にまつわる雑感 を
お話しさせていただきましたが、

私の雑感について
お付き合いくださり ありがとうございました。

 

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2021年1月10日 (日)

2020年 米国大統領選挙で 改めて認識したこと・・・ 第5回 トランプ敗北 の 原因 と 今後のちょっとした推測(仮説)



2020年 大統領選挙について、
連邦議会で バイデンさんの当選が確認されましたので、

大統領選挙手続き上、トランプ大統領の落選が確定しました。

昨年暮れに、
大胆にも トランプ大統領が、逆転するだろう との 仮説 を お話ししましたが、

大外れの結果となり、
この数日、何故だろう と ネットを見ながら、いろいろ考えてきました。

今回 は、
トランプ大統領 が 逆転できなかった原因 と 思われる点 と、

今回の大統領選挙に関して、
いまだに 疑問に感じていることから 推測される
今後の起こりうかもしれない展開(仮説)について、

少し、お話しさせていただきます。

今回の大統領選挙は、歴史的な大統領選挙でもあり、
また、
いろいろな推理が浮かんでくる 知的な刺激 を あたえてくれたイベントでした。

結果が出た後でも、
今までの経緯で、疑問が残っている点をつなぎ合わせると、
一つのシナリオ(推測、仮説)が浮かんできますので、

今回の大統領選挙の最後の楽しみとして、
この点について 少しご披露させていただきます。

なお、このブログ は、
2021年1月10日深夜(日本時間)に記述しています。



          *************




1.トランプ大統領 の 敗因

ネットで、今回の大統領選挙の推移 を 眺めていて感じたことは、

トランプ大統領はじめとするトランプ派の政治家の多くの皆さんが、
例外の方を除いて、
一つの大事なポイントを見落としているような気がします。

即ち、
トランプ大統領は、大統領候補者であるとともに、

選挙 を 管理する 最高責任者 であることを
見落とされておられたような 気がします。

トランプ大統領 は、バイデンさんと同じ候補者の立場から、
バイデン派の選挙違反 を 追及されておられるように 感じられました。

しかし、トランプさんは、現職の大統領として、
選挙違反を摘発し、悪質な違反者を逮捕して、処罰することにより、

大統領選挙 の 信頼 を 維持する義務 が あったのではないでしょうか。

もし、この点を意識されておられたら、対応、行動が 異なっていて
選挙違反の被疑者が、逮捕、取り調べられて、
裁判の結果 が 報道されることに なったのではないでしょうか。

確かに、
マスコミは、公平中立ではなく、一方の陣営に与していましたので、
公平な報道 が 期待できなかったのだろう と 思いますが、

トランプ陣営からの 情報発信 が 皆無ではなかったこと を 考えると
果たして、トランプ大統領が、
ご自身 が 候補者 であることにのみ 意識されて、

組織の長としての義務 を 果たしておられたのかな?との疑問が拭えません。

勿論、遠い日本から眺めていますので、
大事な事実を見逃して 事実認識が間違っているかもしれませんし、

また、
行政組織 が、反トランプ陣営で固められていて、
トランプ大統領 が 指示しても、指示通りには 機能しなかったのかも しれませんのが、

1月6日 ペンス副大統領 が、
上院議長として「憲法に忠実に従った」と、おっしゃっておられますので、

それなら、
「公聴会他で いろいろ現れた、選挙違反の疑惑 に対してする 捜査 を 尽くされて、
 選挙の公平性 を 保つ義務 を 大統領と共に ちゃんと果たしたのですか?」
との 疑問 が 生じたため、

トランプ大統領の敗因 として 挙げさせていただきました。


2.残った疑問 から浮かび上がる 一つのシナリオ(推測)

今回、トランプ大統領は、
バイデンさん と 同じ候補者のレベルで、リングで打ち合った
と、いえると思います。

その間に、
ネット で いろいろな事実 が 話題になっていました。

これらは、
大統領 選挙手続き が 終了した 現在でも、

いまだに疑問として残り、
後日 真実 が 明らかになるのでは?と、思われるものが あります。

思いつくままに、気になった話題をご紹介させていただきます。

ⅰ)オバマ大統領、クリントン夫妻の動静 が、
  最近 報じられていませんが、 どうなっているのでしょうか。

  特に、オバマ大統領は、
  ネットで逮捕される映像が、一瞬流れましたので、気になります。

  即ち、
  本当に逮捕されたのか、

  それとも、
  動画に移った人物は、別のそれらしい人物 で
  人をだますための動画 だったのでしょうか?

  更には、
  ソロスさん や ビル・ゲーツさんが、
  話題になったことがありましたが、最近 話題 に されなくなりました。

  彼らは、今どうされておられるのでしょうか?

ⅱ)同様に、
  バイデンさんの選挙事務局長 が、逮捕された と、話題になりましたが、
  その後どうなっているのでしょうか?

ⅲ)フランクフルトで押収された、ドミニオンのサーバーは、
  どのような中身を示しているのでしょうか?

  また、
  サーバー が 押収された際に逮捕されたといわれている
  CIA長官は、どうなっているのでしょうか?

ⅳ)以前、アメリカ上空 で 飛行する 軍用機 が、通常の倍程度 に 増加していて、
  その多くが ある場所 に 向かっている と 話題になっていましたが

  本当でしょうか?
  また、
  その結果、どのようなことが生じていたのでしょうか。

ⅴ)イタリアの軍事衛星を、アメリカ軍が撃墜した と 話題になっていますが、
  本当なのでしょうか?

  もし、事実なら、
  何故 そのようなこと が 生じたのでしょうか?

  また、イタリア国内で、
  イタリア が、2020年 の 米国大統領選挙 に 関与した
  との報道 が、されている と 話題になっていますが

  本当でしょうか?

ⅵ)現在、トランプ大統領 は、どこに おられるのでしょうか?

  「米軍機 で、テキサス に 赴いた」
  と、 リン・ウッドさんが、つぶやいて おられるようですが、

  本当でしょうか?

ⅶ)1月6日 連邦議会への侵入は、
  誰が 企んだ陰謀 なのでしょうか?

  当初、
  Antifa が、紛れ込んで乱入したと いわれましたが、

  ペロシー議長のパソコン が、何台 も 持ち去られ、
  その後 何かを恐れているらしい ペロニー議長の態度を見ていると

  重要な情報 が 入っている パソコン を 奪うために
  トランプ派(含む 米軍)が たくらんだのでは?
  という可能性もあるのでは?

  との考えも 浮かんできます。

ⅷ)1月6日の事件後、
  ペロシー議長は、何に 恐れておられるのだろうか?
  と、話題になっていますが、何故でしょうか?

以上、要するに、
今回の大統領選挙で、何があったのか?解明されないまま、
バイデン大統領の就任式を迎えようとしていますが、

これで、何事も なかったように なるのでしょうか?

大統領選挙中 バイデンさん が、
「これまでにない 詐欺組織 を 作り上げた」と、
選挙不正の自白 としか考えられない発言 を されておられますし、

ペロシー議長 が
「11月3日 に 何が起ころうと、
 1月20日 に 大統領 に 就任するのは バイデンさんだ」と、
選挙不正 を 予告したような 発言 を されておられます。

また、
「今回の大統領選挙で、
 トランプさん が 勝とうと、バイデンさん が 勝とうと、
 その後、内戦 が 始まる」

と、不吉な予想 が 流布していました。

特に、気になるのが、
ペロシー議長 が パソコン を 持ち去られた以降、
「何かに 恐れておられるようだ」と、
話題になっていることです。

バイデンさんが、
意図した通り 大統領 に 就任されることになったのに、
何を 恐れることがあるのでしょうか?

また、
中国等 の 外国の関与が、話題になりましたが、
この問題も、整理がつかずに うやむやのまま 放置されることになるのでしょうか?

更には、
ツイッター や フェーズブック の 言論弾圧し放題の現状 を、
そのまま国として放置したままにしておいて、国民が黙っているのでしょうか?

過去の米国は、ある時期 一方 に おおきくふれても、
その後、大きく揺れ戻すことが 何度か ありました。

禁酒法 や マッカーシ旋風 などでは、
結果的には、妥当な解決 を 見ていますので、
今回 も そうなるだろう と、期待できる と 思います。

ただ、今回 の 大統領選挙 は、
国家乗っ取り の 陰謀事件 とも 見える 歴史的な大事件
と いえると思いますので、
このまま すんなり とは 決着しない可能性 も 否定できない と 思います。

そこで、もし起こるとしたらと、考えるとき、

米軍 or 捜査当局 が、
今回の大統領選挙の事実 を 解明して、

関係者 を 逮捕し、軍事法廷 で 裁くことが
これから生じる可能性 を
否定できないのではないでしょうか。

(米軍 が 表に出ないで、捜査当局 が 動いたら、
 昨年末の私の予想が当たったことになります。)

今回の大統領選挙 に 不正があったというからには、

トランプさん と バイデンさん の 正確な得票数
および、
疑われている バイデン陣営 が 不正を行った票数 を
確定する必要 が あるのでは ないでしょうか。

今回 大統領選挙において不正があったとすると、
イタリアの軍事衛星 を 利用して、
地球的規模 で 情報をやり取りして、行われたよう に 想像されます。

そのため、
米軍といえども さすがに 簡単には 解明できないで、
時間 が かかっているのではないでしょうか。

ペロシー議長 が 恐れている原因 は、

持ち去られたパソコンに、
米軍 が 求めている 不正事実 を 確定させるための
ミッシングリング を つなくキー が 入力されているから

と、考えると、納得がいきます。

以上のような推測 が 当たっていれば、
早晩 米軍 or 捜査当局 が 動くことになるのではないでしょうか。

フリンさんが、1月初めに
「この1か月の間に、いろいろなこと が 起こる」
と、おっしゃったとのことですが、

米軍 or 捜査当局 が 動くことを
暗示しているような気がしないではありません。


以上、
途方もない推測 を お話しさせていただきましたが、

歴史好きで、歴史について いろいろ 推理 を 楽しんでいる
時間を持て余した 暇人の戯言 であることを ご理解いただき、

笑いながら 読み飛ばしていただければ 幸いです。

 

 

 

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2012年11月21日 (水)

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる

「ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?」のブログの中で
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html


 「ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の領土だったということは、
  どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

  ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
  ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
  無理だということが、身に浸みて理解できました。」

と、記述しましたので、


私がヴェネツィア隆盛期のポイントだろうと考えている
ヴェネツィアとビザンツ帝国の経緯をご紹介させて頂きます。



812年
シャルルマーニュとビザンツ帝国が アーヘン条約を締結して、

シャルルマーニュの皇帝戴冠を承認すると共に、
ヴェネツィアやイタリア南部がビザンツ帝国の領土となりました。


潟の中のリアルトに実質的な建国したばかりのヴェネツィアにとり、
このアーヘン条約は、今後の発展の基礎となる条約でした。

即ち、
ビザンツと提携することで

 1.東方世界で勢力を伸張する基盤を獲得すると同時に、
   フランク帝国内での商業に従事する権利も獲得して
   有利な立場を与えられただけではなく、

 2.ビザンツ帝国の領土となることで、
   事実上の独立を獲得すると共に、

   イタリアを支配していたフランクが干渉してたときには、
   ビザンツ帝国を盾に対抗することが出来たのです。


ビザンツ帝国の領土だったことは、

 1.中世になっても ヴェネツィアが、

   イタリアの政治権力、

   即ち
   皇帝や教皇の支配の外にいることができて、

   他の都市のようにイタリアの政治闘争に巻き込まれることを
   避けることが出来ました。


 2.また、教皇から距離を置くけたことにより

   近世に至るまで イタリアで唯一と言って良い「言論・思想の自由」を
   維持できたもととなったのです。


ヴェネツィアは、
800年代に ビザンツ帝国のために南イタリアに出兵しています。

例えば、

 1.840年
   サラセンに攻撃されたタラントに艦隊を派遣して、敗北しています。

 2.また、867年から871年にかけて

   841年から30年間
   イスラムに占領されたバーリを奪還するための

   フランク(皇帝イタリア王 ルイ2世)とビザンツの連合軍に、
   艦隊を派遣して、バーリ奪還に貢献しています。



なお、バーリは、

876年
ビザンツ帝国が攻略して以来

1073年
ノルマン人のロベール・ギスカールが攻略するまでの約200年間、

南イタリアでのビザンツ帝国の中心都市でした。


992年 5月 ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と同盟条約を締結して、事実上の独立を果たしました。


ビザンツ帝国 バシレイオス2世が、

ブルガリア王 サムイルとの戦いに際して、
ヴェネツィアと同盟を締結したのです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国にとって かけがえのない海軍の同盟者だったのです。

  注 バシレイオス2世 と サムイル  は、
     991年から1014年の27年間の長きにわたって戦いれました。

    この戦いで、
    バシレイオス2世は、「ブルガリア人殺し」との異名を得たのです。


    「盲者の行進」を参照下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html



ヴェネツィアは、
この条約で、非常に有利な条件を勝ち取っています。

 1.ビザンツ帝国の宗主権の再確認と引換に、
   完全な自立性とビザンツ帝国諸港への自由な出入権を獲得したのでした。

 2.また、ビザンツ帝国の諸港での入出港料が、

   他の国が 30ソルディ金貨だったのに、
   その57%の17ソルディ金貨と優遇されたのです。


同じ年(992年)の7月には、

ヴェネツィアのドージェ(元首)ピエトロ・オルセオロ2世が、
神聖ローマ帝国皇帝に使節を派遣し、

神聖ローマ帝国内での ヴェネツィア商人の商業活動の自由の保証を
要請しました。


ビザンツ帝国との同盟を締結してから5年経った
998年に、

ヴェネツィアは、本格的にアドリア海に乗り出しています。


5月に
ドージェ ピエトロ・オルセオロ2世が、

最初の「海との結婚式(シェンサ)」を行った後、
ザーラの海賊退治に出帆しました。


ザーラで、
アドリア海東岸の20以上の都市に ヴェネツィアへの恭順と服従を誓わせ、

会議に欠席した レジーナ と クルツォラ を 猛攻して、
屈服させたのでした。


この遠征後、
ヴェネツィアのドージェは、

ビザンツ皇帝 バシレイオス2世より ダルマツィア公爵の称号を与えられて、
ダルマツィア公爵と名乗るようになりました。


1002年~1003年に

ヴェネツィアは、
アドリア海南部で、サラセンの海賊を撃破し、

アドリア海の平定を完成して、
アドリア海の統治 を 開始したのでした。


1081年には、
ノルマン人のロベール・ギスカールが、

イタリアよりアドリア海を渡って、バルカン半島に上陸し
コンスタンティノープルを目指して侵入してきました。

この1081年~1085年にかけての
ビザンツ帝国とノルマン人との戦いに際して、

ビザンツ帝国は、
ヴェネツィアと同盟して戦ったのです。


ヴェネツィアにとっても、
ロベール・ギスカールは敵でした。

アドリア海の支配を維持するためには、
アドリア海の出口の両岸を ロベール・ギスカールに奪われるわけには
いかなかったのです。



翌年の 1082年5月
ビザンツ帝国を援助したヴェネツィアは、

皇帝 アレクシオス1世の金印勅書により
例を見ない優遇措置をビザンツ帝国より獲得しました。


 1.ビザンツ帝国内で、何処ででも、
   あらゆる商品を、自由に無税で取引する権利

   → ヴェネツィア商人は、
     帝国内で無制限の自由貿易の権利 と 関税の免除 を 得たのでした。


 2.コンスタンティノープル市内に、

   幾つかの仕事場 と
   ガラタに渡る 3カ所の船着き場が、与えられました。

   → 即ち、
     コンスタンティノープルの金角湾沿いに、

     治外法権のヴェネツィア人の居住区と
     ヴェネツィア船専用の船着き場 を

     獲得したのです。


この優遇措置は、

それだけ ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアの海軍力を必要としていた証(あかし)ですが、

それにしても与えすぎでした。


ヴェネツィア商人は、

ビザンツ商人より優遇されて、
ヴェネツィアの植民地拡大の基盤が築かれたのですが、

他方、
ビザンツ帝国の商業体制に深い亀裂が入ったのでした。


これ以降、
既得権を維持しようとするヴェネツィアに対して、

ヴェネツィアの既得権を減らそうとするビザンツ皇帝や、
ヴェネツィアに対する ビザンツ商人や市民 の 反感による軋轢 が、

約120年間くすぶり続けて、

1204年の
第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃の結末をもたらしたのでした。


先ず、1111年に、

ビザンツ帝国は、
ピサに通商上の特権を与えて、ヴェネツィアを牽制しています。


更に、
1118年に 即位した ビザンツ皇帝 ヨハネス2世は、

ヴェネツィアを、
36年前の1082年の条約で獲得した地位から締めだそううとしましたが、

ヴェネツィア艦隊に
エーゲ海のビザンツ領の島々を攻撃されて、条約改定に失敗し、


1026年に

1082年条約のヴェネツィアの特権を、
100%認めざるを得ませんでした。



1082年より約70年後の 1155年に
一大転機が訪れました。

ビザンツ皇帝 マヌエル1世が、
南イタリアの征服するために、アンコーナに艦隊を派遣したのです。


同じ年(1155年)に
マヌエル1世は、

1111年にピサに与えたのと同じような通商上の特権を、
ヴェネツィアの最大のライバル ジェノヴァに与えています。



オストロゴルスキーは、
「ビザンツ帝国史」で、

 1.一時的に、バルカンの状態が旧に復した

   即ち、
   ハンガリーとの戦闘も静まり、

   キエフの王座に
   ビザンツの同盟者 ユーリー・ドルゴルーキーが即位したことと


 2.ノルマン・シチリア王 ロジェール2世が、
   前年の1154年に没したために

   イタリア攻撃を決意した
   と、記述されておられます。



これに加えて、
次の事情も、マヌエル1世が 遠征の好機と考えた理由と思われます。


 1.前年(1154年)の秋

   神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭)が
   第1回目のイタリア遠征を開始し、

   北イタリアのピアチェンツァの北のロンカール平原で
   帝国会議を開催した後、

   その後長く続く ロンバルディア諸都市の盟主 ミラノとの対立、諍いを
   開始しています。


 2.また、1155年の春

   ロジェール2世を継いだ ノルマン・シチリア王 ヴィルヘルム1世
   (ギョーム、グリエルモ)が、

   フリードリヒ1世がローマに到着する前に、
   教皇との和平を結べると考えて、

   教皇領に侵入して攻撃を始めています。



ビザンツ帝国は、

ノルマン・シチリア王の教皇領の侵入の空隙をついて、
アプリエンに侵攻して、

バーリ、トラーニなどの都市を占領しました。


このため、
ノルマン・シチリア王は、

教皇領で奪ったものを 教皇に返還し、
教皇 と 和解をして、

ビザンツ帝国に対抗せざるを得ませんでした。


マヌエル1世 と シチリア・ノルマン王との争いは、
1155年から3年間続きましたが、

1158年に、
マヌエル1世がシチリア・ノルマン王と和平を締結して、

イタリアへの侵略を断念して撤退しました。

ただ、
1157年頃取得したアンコナは、

ビザンツ帝国がその後も支配を継続しました。


今回のビザンツ帝国の南イタリア征服に対して、

ヴェネツィアが、
どの様な対応を取ったか、勉強不足のせいか、よく分かりません。


しかし、

ヴェネツィアが、
ビザンツ帝国を宗主と認めたのは、

名目的に認めることにより、
コンスタンティノープルなどビザンツ帝国内での通商を
有利に行うためだったのでしょうから、


ビザンツ帝国が
アドリア海に姿を現して、勢威を振るうようになると、

ヴェネツィアとビザンツ帝国が衝突するようになるのは、
時間の問題でした。



神聖ローマ帝国皇帝 フリードリヒ1世は、

1166年秋に
第4回目のイタリア遠征を開始していますが、


1167年早春には、
自ら軍を率いて エミリア街道をアンコナまで進軍して、

ビザンツ帝国が支配するアンコーナの攻略を開始しました。


この時、
ヴェネツィアは、

ビザンツ帝国が、イタリアに拠点を築くことに 危機感を持って、
マヌエル1世に背を向け、

マヌエル1世の船を提供する要請を拒否しています。


こうしてヴェネツィアは、

1082年獲得した
ヴェネツィア人の商業特権を維持するために必要だった
ビザンツ皇帝への義務 を 破ったのです。


マヌエル1世は、
同じ1167年に、

ハンガリーが支配していた
ダルマチア、クロアチア、ボスニア、シルミウム地方を
武力制圧しています。


ビザンツ帝国が、
ダルマチア沿岸地方を支配することは、

アドリア海の盟主であるヴェネツィアにとり、
危機的な状況でした。


ヴェネツィアは、

ダルマチア沿岸地方の主要な都市を押さえて、
船の物資や船員を補給していましたが、

都市の後背地が宗主であるビザンツ帝国が支配するとなると、
従来のようなスムーズな補給が不安となったのでした。


1168年には、
ヴェネツィア の ドージェ(元首) ヴィターレ・ミキエレが、

マヌエル1世が、
ヴェネツィアの特権継続を渋ったための対抗措置として、

全ヴェネツィア人に、
コンスタンティノープルでの交易を禁止しています。


2年後の1170年に、
ヴェネツィアとビザンツ帝国との和解が成立して、

コンスタンティノープルに、
ヴェネツィア人が見え始めたのですが、

その翌年の1171年 3月12日に、
コンスタンティノープルで

反ヴェネツィアの外国人排斥暴動が勃発しました。


この暴動は、

今まで貯まってきたビザンツ人(ギリシア人)の
反ヴェネツィア感情 が 爆発したものですが、

オストロゴルスキーは、

3月12日の一日で
ビザンツ帝国のヴェネツィア人全員(1万人)が逮捕され、

財産、船舶、商品が没収されたのは、
ビザンツ帝国政府の行政機構が確実に機能して、

事前に徹底的に準備していたことを証拠立てるものだ
と、記述して、

この暴動は、
マヌエル1世の煽動により生じたものだと断定しています。


1171年3月12日の暴動後、

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と国交を断絶しています。


国交断絶は、10年以上続き、
アンドロニコス1世帝(在位1183~1185)の治世に
漸く回復したのでした。

国交断絶期間中
ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の敵として行動しています。

例えば、

1174年春から10月にかけての半年間
皇帝 フリードリヒ1世の特使 マインツ大司教 クリスチャン1世が、

ヴェネツィアと同盟して
アンコーナを攻囲しています。


ヴェネツィアは、

マヌエル1世に、
アドリア海制覇を奪われる危険性の方が、

ドイツに脅かされる危険性より大きいと判断して、

フリードリヒ1世と同盟し、
海からアンコーナを攻撃したのでした。


また、1177年

ヴェネツィア ドージェ(元首)サバスティアーノ・ツィアニが
教皇とフリードリヒ1世の争いを調停し、

1159年から18年間続いた教会分裂を終了させる
ヴェネツィア条約を締結させています。


この1177年、
マヌエル1世は、ヴェネツィアに対して戦争を開始し、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人数千人を逮捕し、
財産と船舶を没収しています。


この時
ヴェネツィアが派遣した艦隊は、ビザンツ帝国に敗北しましたが、

その後、ヴェネツィアが、

ザーラとスパラートに 海軍を置くとともに、
シチリア王国と同盟を結んで 体勢を立て直すと、

ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアに恐れをなして 平静を保つようになりました。



1180年9月24日
ビザンツ皇帝 マヌエル1世が没しました。

  マヌエル1世 在位 1143~1180 37年間


息子のアレクシオス2世が 即位し、
母のマリー・ダンティオッシュが摂政となりましたが、

    注 マリー・ダンティオッシュ は、
       十字軍国家 アンティオキア公国 ボエモン3世の娘です。


マリーのラテン人優遇策が、
ビザンツ国民のヨーロッパ人への敵愾心を増大させ、

イタリア商人とヨーロッパ人傭兵が、
彼らの憎しみの的となりました。


1182年5月
コンスタンティノープルの
反ラテン(反ヴェネツィア)外国人排斥暴動を利用して、

マヌエル1世の従兄弟 アンドロニクス1世が、
コンスタンティノープルに乗り込み、

9月には
共治帝の即位し、

11月には
アレクシオス2世をベットで絞殺して単独の皇帝となったのです。


3年後の1185年6月
シチリア王 ギョーム2世が、

アドリア海東岸のディラヒオンに上陸して、
ビザンツ帝国への侵攻を開始しました。


8月24日には、

セサロニキ(テサロニキ)を陥落させて、
コンスタンティノープルを目指して進軍しています。


アンドロニクス1世は、

シチリア王の遠征に対処するために、
ヴェネツィアと条約を締結したのですが、


条約締結後、
コンスタンティノープルに 再びヴェネツィア人が現れるようになると、

アンドロニクス1世の人気が真っ逆さまに急落してしまい、
コンスタンティノープルで貴族が反乱、決起する事態となりました。


そして、9月12日
イサキウス・アンゲロス(イサーク2世)が皇帝宣言して、

アンドロニコス1世は、
黒海に逃れようとして市民につかまり、リンチにより殺害されたのです。


こうして、
コムネノス朝が滅亡して、アンゲロス朝が始まったのです。


又、この事件で、
ビザンツ帝国の反ラテン感情が残り、

それが第4回十字軍の背景となったのでした。



1195年4月

イサーク2世は、
弟 アレクシオス3世に廃位されて、目を潰されて幽閉されました。


翌年(1196年)

イサーク2世の娘 イレーネは、
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップと結婚しています。


フィリップとイレーネの結婚後、
フィリップの兄 皇帝ハインリヒ6世が、

ビザンツ帝国に
1194年頃した要求と同じ脅迫的な要求をして、
金16ケンテーナーリウムの支払いを、
ビザンツ帝国に承諾させています。


皇帝 ハインリヒ6世は、

1185年
ビザンツ帝国を侵略したシチリア王の後継者でもあったのです。


アレクシオス3世は、
ドイツ税を新設だけでは支払いきれないため、

コンスタンティノープルの諸聖使徒聖堂の皇室の墓から
貴金属装飾を剥ぎ取らねばなりませんでした。

このドイツ税は、
ビザンツ帝国の人々の反ラテン感情を 更に悪化させたのでした。


ハインリヒ6世は、
脅迫的要求による法外な支払いだけに満足せず、

1197年
シチリア島 メッシーナ に大艦隊を準備して、

ビザンツ帝国征服に出発しようとしているときの9月に
病没したのです。

(ビザンツ帝国は、
 ハインリヒ6世の死により ドイツ税の支払いを免れました。)


この頃、
ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に
色々な理由から 攻撃されるべき存在と見られていました。


 1.商業上の競争相手
 2.ビザンツ帝国の 西欧人攻撃の 生々しい記憶

 3.シリアとパレスティナでの キリスト教徒の弱体化
 4.東西教会の分裂

 5.ビザンツ帝国のとみに対する羨望
 6.コンスタンティノープルにある 聖遺物


今まで述べたような経緯を踏まえて、第4回十字軍があるのです。


歴史の本を読むと、
今まで述べたような事件が、それぞればらばらに記述されています。

これらを一つの流れとして再構成しないと、歴史の理解が難しいと思い、
拙いお話しをさせて頂きました。


ヴェネツィア史は、

我々が世界史で学んだ西ヨーロッパ側から見るだけでは、
歴史上の出来事の意味を理解するためには 不充分であり、

西ヨーロッパ と ビザンツ帝国 の 両方の視点から
歴史を理解する努力が必要だろう と 思います。


マクニールの「ヴェネツィア」(岩波書店)は、
この両者に加えてスラブ、ロシアを含めた相互連関を記述した名著であり、
ご興味ある方に是非とも一読をお勧めしたい本です。



次回は、

この後生じた第4回十字軍について、
考えていることをご説明させて頂きます。


ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html




ヴェネツィア史 関連ブログ



ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html

539年 フランク ヴェネツィアを占領
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d303.html

ちょっと変わった 第4回十字軍論
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2011年8月16日 (火)

ちょっと変わった 第4回十字軍論

第4回十字軍は、
十字軍の中でも「最もおぞましい十字軍」である、と、

高校の世界史で学んで以来、
約30年間、そのように思い込んできました。

ところが、
40代後半よりヨーロッパ史の本を読むようになってから、

「おぞましい十字軍」との評価は、
カトリックを中心とする 一つのイデオロギーからの
一方的な評価であり、

もっと客観的で冷静は評価をせねばならないのでは、
と、思うようになりました。

勿論、
コンスタンティノープルでの掠奪は、

当時の戦争には つきもの だとしても、
感心するものではありませんし、

ましてや、
他人の国である ビザンチン帝国を占領したことは、
許されることではないでしょう。

でも、
最近までの(本質的には現在でも)歴史 は、
弱肉強食の論理が支配していて、

弱みをみせたら、
つけ入れられるのが当たり前だったのです。

第4回十字軍のビザンツ帝国の征服 と
オスマントルコのビザンツ帝国の征服 は、

本質的に
同じような性質のものではないでしょうか。

一つの立場より 歴史につきものの悪を、

あるものは非難し、
あるものを是認するというのは、

公平でも、客観的でもないような気がしています。

その意味で、
第4回十字軍を巡る環境について、

あまり歴史の本では記述されていない
いくつか視点をお話しさせて頂き、ご参考に供したい
と、思います。


第1の視点

第4回十字軍は、
ヴェネツィアとビザンツ帝国とのそれまでの歴史の総決算
ともいうべき事件でした。


ヴェネツィアの立場からすると、

ビザンツ帝国は、
困ったときには、美味しい話で協力を依頼するくせに、

それが過ぎると、
約束を反故にするだけでなく、

ヴェネツィアの生命線である
アドリア海やイタリア本土 を 侵略したり、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人 を
虐殺しているのです。

ですから、
ヴェネツィアにとって 第4回十字軍は、

我慢に我慢を重ねた結果、
乾坤一擲の反撃に出た と、いうことなのだろうと思います。

この点については、
「ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係の略史を
簡単にご説明させて頂きましたので、

ご覧いただければ幸いです。

  ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる


第2の視点

神聖ローマ皇帝が、承認した攻撃である点


ビザンツ帝国の内紛の一方の当事者を支援する神聖ローマ皇帝
(と、当時の人が考えていたドイツ王 フィリップ)が、

支援し、承認した コンスタンティノープル攻撃であり、

それが、
ビザンツ帝国の征服になったのは、

援助を受けて返り咲いたビザンツ皇帝が、
約束を全く守らなかったためです。

注) この記述は、
   第4回十字軍を正当化しているわけではありません。

   単に、
   2段階に分かれていた事実を、記述しただけです。


ビザンツ帝国の第4回十字軍を導いた内紛は、

1195年4月 イサーク2世が、弟 アレクシオス3世に、
廃位されて、目を潰され、幽閉されたことにより始まりました。

イサーク2世の娘 イレーネは、

1196年に
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップ
と、結婚しています。


イサーク2世の息子 アレクシオスが、
姉のイレーネを頼って、フィリップの許に身を寄せ、

1202年12月に アレクシオスが、
ザーラの第4回十字軍の陣営に赴いて、
コンスタンティノープル攻撃を依頼したことから、

第4回十字軍が、

エジプトではなく、
コンスタンティノープルに向かうことになりました。

このことに関して、

通常の歴史の本に書いていないけど、
見落としてはいけないと感じられるのは、

ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップ を、
当時の人々は、

神聖ローマ皇帝 乃至、もうすぐ皇帝になる人物で、
ローマ教皇に匹敵する人物である と、

考えられていたのであろう と、思われることです。


ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップは、

皇帝 ハインリヒ6世の弟で、

1197年9月 メッシナで 兄 ハインリヒ6世が 没したとき、

甥のフリードリヒ2世(ハインリヒ6世の長男、3才)を
ドイツで 即位させるために、イエージに迎えに行く途中、
ヴィテルボに滞在していましたが、

ドイツで フィリップへの反乱が勃発したので、
危険と追っ手を逃れて
1197年 年末 に ドイツに帰国しました。

1198年3月(ハインリヒ6世の没してから半年後)
ミュールハウゼンでドイツ王に選出されています。

このフィリップに反対したのが、
ローマ教皇イノセント3世やケルン大司教で、

彼らが、
オットー4世を擁立したのですが、
ドイツ国内では、フィリップ支持派が大勢を占めていました。

この争いは、

1204年11月 ケルン大司教が、フィリップと和解して、
オットー4世が見捨てられたことにより
ドイツ国内的には決着したのですが、

ローマ教皇イノセント3世は、
依然として フィリップ の 皇帝即位 を 認めませんでした。

1208年
フィリップは、教皇の反対のため、皇帝に即位できない状況の中、
アルテンブルクで、ヴィッテルスバッハ帝領伯オットーに殺害され、

局面が大転換して、
オットー4世が皇帝の即位したのでした。

ですから、
1202年12月に
フィリップが、妻の弟アレクシオスの依頼を聞いて欲しい、
との意向だったと聞いた、第4回十字軍の幹部連中は、

皇帝(になるだろう人物)からの依頼と受け取ったのだろうと考えるのが、
穏当なところではないでしょうか。

当時皇帝は、
シュタウフェン家のものであり、
シュタウフェン家が ローマ教皇と対立していたことも、
当時の人々には周知のことだったのです。

勿論、一般に言われているように
第4回十字軍が資金が無かったので、
アレクシオスの美味しい話に乗らざるを得なかったことが、
一番大きな要因だと思いますが、

同時に、
フィリップのお墨付きのある攻撃だ、ということは、
ローマ教皇が大反対している状況では、
第4回十字軍の参加者に 心の安らぎ を 与えたのではないでしょうか。


第4回十字軍のレールを切り替えたことに関しては、
総大将が、途中で変わったことも、大きな要因だと思います。

第4回十字軍の総大将は、
最初はフランスのシャンパーニュ伯ティボー3世でしたが、

1201年に ティボー3世 が 没した後、
フィリップの臣下である イタリアのモンフェラート候ボニファチオが、
ソアソン(北フランス)で 後任の総大将に選出され、

ボニファチオは、
その足で フィリップの許を尋ねています。

多分、ドイツで、
フィリップよりコンスタンティノープルを攻撃するよう依頼され、

アレクシオス が、ザーラに赴いてきたとき、
コンスタンティノープル攻撃に意見集約するよう動いたのだろう
と、推測されているようです。


第3の視点
皇帝はじめ、南イタリアの君主は、
ビザンツ帝国を征服することを、常に考えていた。

この点については、

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

 1.ロベール・ギスカールが、ビザンツ帝国を攻撃したこと
 2.皇帝 ハインリヒ6世が、ビザンツ帝国の攻撃直前に亡くなったこと

 3.当時、ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に 色々な理由から
   攻撃されるべき存在と見られていたこと

と、お話しさせて頂きました。

第4回十字軍以後でも、
イタリアから シュタウフェン家 を 駆逐した
シチリア王 シャルル・ダンジュー(フランス王 ルイ9世 の 末弟)も、
ビザンツ帝国を 攻撃しようとしていました。

ところが、
1282年4月の第1週 に、
ビザンツ帝国攻撃するために出帆しようとしていた、
その直前の3月30日に
シチリア晩祷の乱が勃発して、
シャルル・ダンジューが、シチリア島から逆に駆逐されてしまったのです。

この乱は、
シュタウフェン家の遺臣プロチダとビザンツ皇帝ミカエル8世が、
提携して、周到に計画した蜂起である、と記述する歴史家もいます。

この様に、
ビザンツ帝国は、南イタリアに食指をのばし、
南イタリアの支配者は、逆にビザンツ帝国を攻撃しようとしてきたのが、
12世紀から13世紀にかけてのビザンツ帝国を巡る政治情勢なのです。

この中で、
第4回十字軍も位置付けられるべきでは、
と、感じられるのですが、

ヨーロッパの歴史家にとっては、
当たり前のことなのか、それとも、タブーなのか、
あまり言及はありません。


歴史の本を読むことは、
その記述を理解して、
「知らなかったことを知ること」が 大いなる楽しみですが、

その記述を読んで、
「自分なりに熟考すること」も、歴史の醍醐味の一つだと思っています。

歴史の記述は、著者の価値観の反映であり、
記述されている歴史を、別の価値観で見ると、
別の姿が見えることが多々あります。

特に、ヨーロッパ史は、
1000年以上にわたってキリスト教の価値観に基づいて
記述されてきていますので、

ヨーロッパの歴史家は、
無意識のうちに、キリスト教、就中 カトリックの価値観に基づいて
歴史を見ています。

そして、
ヨーロッパに留学した日本の歴史学者、
更には、
彼らから歴史を学んだ我々も、

彼らの歴史の見方を、当然のこと、当たり前のこと と、
無意識のうちに アプリオリに 受け入れているのです。

従って、
彼らや、日本人の歴史家が、記述した ヨーロッパ史 を 読む際には、

そのことを意識して、
その記述を、冷静に、客観的に、その論理を考えてみることが、
歴史を学ぶ際に、非常に大切で、意義のあることだろう
と、思っています。

また、
当事者のヨーロッパ人でない 第三者からの歴史解釈 を 提示することが、
彼らに染みついたキリスト教の見方では 当たり前 と されていることを、
「ちっと違うのでは」と、指摘することが、
日本人の歴史学者に、最も求められていることだろうと、思います。

今回は、
通常の歴史記述と大分異なった、
人によっては脱線しすぎだろう と 思われるようなこと を、
書かせて頂きましたが、

読まれた方の中に、
第4回十字軍についての何かのヒントとなるものが、芽生えられて、
議論が誘発されたらな、と、願っています。

突拍子もないともとられかねないお話しを、
最後までお読み頂き、有り難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2011年1月10日 (月)

「バウドリーノ」上下、中世西洋奇譚集成「東方の驚異」

ウンベルト・エーコ著
「バウドリーノ」上、下(岩波書店)

西洋中世奇譚集成
「東方の驚異」(講談社学術文庫)


          **********


昨年暮れ(2010年12月)に、
エーコ著「バウドリーノ」を 楽しく読ませて頂きました。


「バウドリーノ」のお話しの概略は、次の通りです。

 12世紀 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世(赤髭)が、
 第1次イタリア遠征(1154~1155) トルトーナ包囲中に
 現在のアレッサンドリア近くの森で迷ったとき 道案内したバウドリーノを気に入って、
 養子にしてドイツに連れて帰り、叔父のフライジンクのオットーに教育させました。

 フライジングのオットー 没後
 バウドリーノはパリ大学に遊学して、

 帰国後
 フリードリヒ1世に臣下と仕え、

 第3回十字軍で、フリードリヒ1世が没した後、
 プレスター・ジョンの国を求めて旅し、

 第4回十字軍の際に
 コンスタンティノープルプルに戻ってきて、

 生い立ちから今までの経過を、
 ビザンツ帝国の高官 ニケタス・コニアテスに語ったのでした。

   アレッサンドリア Alessandria
     ミラノ の西南 125km、 トリノ の西 75km、
     トルトーナ の西 25km → 小説では、テルドーナとの古名で出てきま

     なお、エーコは、アレッサンドリア出身だそうです


20年前に、歴史年表を作成し始めたとき、
最初に読んだ本が、
フリードリヒ1世からフリードリヒ2世の時代を記述した
ラウマー著「騎士の時代」でしたので、

年表を読み直しながら、
長らくご無沙汰していた人々に再会したような懐かしさを感じ、

12世紀はやはり面白いと、
途中で中断しているオストロゴルスキー著「ビザンツ帝国史」に再度挑戦しようかと、
決意を新たにしました。

ウンベルト・エーコは、
「薔薇の名前」で有名な方で、「薔薇の名前」も 興味深く読ませて頂きましたが、

今回も、
本の帯に「碩学」と書かれるほどの 歴史知識 を 縦横に駆使して、
読者を飽きさせず、
ぐいぐいと終わりまで読ませてしまう文章力に堪能しました。

また、
翻訳された堤さんの日本語も素晴らしく、
この本の価値を更に高めていると思います。

ただ、最初に
バウドリーノが、ラテン語の作文の練習で書いた文章が、
何の説明もなく出てきて 面食らうし、わけが分からないと、
読者を困惑させています。

これは、
読み進めると、エーコの小説の仕掛けの一つで、
なるほど、と納得もするし、
幼稚な文章にみせながら、慣れてくると 素晴らしい文章だな と
感心させる文章なのですが、

ここの部分(特に最初の数㌻)は、少し我慢して読まねばならない
と、覚悟されておいた方が良いと思われます。


エーコが利用した歴史事実は、次の通りです。

 1.フリードリヒ1世のイタリア遠征 と 第3回十字軍
   アレッサンドリアの建設と攻防戦

 2.プレスター・ジョン伝説と三位一体論

 3.暗殺教団

 4.第4回十字軍

 5.415年に アレクサンドリアで キリスト教徒に殺害された
    女性の新プラトン学者 ヒュパティア

 6.パリ大学の学生生活


「薔薇の名前」は、
当時 海外推理小説年度No1となったほど、推理小説としても有名ですが、

「バウドリーノ」も、
推理小説仕立てになっていて、フリードリヒ1世の死の謎解きが楽しめます。

その意味で、
歴史好きの推理小説ファンにとっては、更に面白く読める本だろうと思います。


私にとってのちょっとした歴史の謎解きが、別の所にありました。

ラウマーの「騎士の時代」に、
「1174年 フリードリヒ1世の第5次イタリア遠征では、
 ケニス山を下って、イタリアに侵攻した」
との記述がありました。

この「ケニス山」が、
どの山だか分からず、放置してきたのですが、
今回、読みながら色々地名を調べていくうちに、
ケニス山とはモン・スニ峠であろうと判明しました。

モン・スニは、

フランス語 で Mont Cenis、Mt.Cenis、
イタリア語 で モンチェニージオ Moncenisio と書くのです。

Mt.Cenis を、ドイツ語読みして
「ケニス山」と訳されたのだろうと思います。

モン・スニ峠を、
「ケニス山峠」と記述した例は、寡聞にして見たことがありませんので、

意味を無視して
横を縦に カタカナにする翻訳により かえって分からなくなる例だな
と、苦笑いしたのでした。

一度ドイツ人に、
モン・スニ峠をどう発音するのか、聞いてみたいと思っています。


今回、
著者のエーコ と 翻訳者の堤さん に 教えられ、大いに反省させられる点
が、2点ありました。

第1点 は、

時間軸 を 「縦」、
空間軸 を 「横」とすると、

歴史の理解する際に
「縦」が中心となって、「横」の理解が不充分だな、おろそかになっているな
ということです。

歴史書は、
通常、時間軸に沿って「縦」で記述されています。

例えば、
 1.フリードリヒ1世→ハインリヒ6世→オットー4世→フリードリヒ2世

 2.プレスター・ジョンのついても、サザーンは、

   1122年 ローマに 未知の国のキリスト教徒の王があらわれた
    ↓
   その1世代後、1122年の不思議な王から手紙が来た
    ↓
   1177年 教皇 アレクサンデル3世が、
   プレスター・ジョン宛の返書を 医者のフィリップに託したが、
   フィリップは水平線の彼方に消えたまま帰ってこなかった

     出所 サザーン「中世の形成」52㌻

 3.ビザンツ帝国の内紛

   1195年 アレクシオス3世が、
   兄のイサーク2世より皇帝を簒奪し、眼をくり抜いて幽閉した
    ↓
   イサーク2世の息子 アレクシオスが、
   姉 イレーネが嫁いだ ドイツ王フィリップの宮廷に逃亡した
    ↓
   1402年 ザーラに アレクシオスが現れ、
   十字軍にコンスタンティノープル攻撃を依頼
    ↓
   1404年 第4回十字軍 が、コンスタンティノープル占領

   注 ドイツ王フィリップとは、
     フリードリヒ1世の息子、ハインリヒ8世の弟 で
     ハインリヒ8世没後、オットー4世と皇帝位を争い、
     ほぼ皇帝位を手中にしたときに暗殺された人物です。

他は略しますが、
エーコは、上記の「縦」の歴史に 「横」の関連を 巧みに組み合わせて、
バウドリーノのお話しを作り上げています。


私がショックを受けたのは、

1177年
フリードリヒ1世と教皇 アレクサンドロス3世が ヴェネツィアで和解した後、

ローマに帰った教皇が、
プレスター・ジョン宛の返書を作成していることです。

皇帝と教皇の和解も、
プレスター・ジョン宛の返書も、
両方とも承知しながら、

それが結びつけて理解していなかった歴史認識の浅さを、
大いに反省させられました。


第2点目は、

翻訳者の堤さんが 後書きで 参照した文献として

  1.フリードリヒ1世と フライジンクのオットーの著作に関しては
    佐藤眞典「中世イタリア都市国家成立史研究」(ミネルヴァ書房)

  2.ニケタス・コニアテスの「歴史」については
    和田廣 「史料が語るビザンツ世界」(山川出版社)

  3.「司祭 ヨハネの手紙」の訳文については
    西洋中世奇譚集成「東方の驚異」(講談社学術文庫)

を 挙げられていたことです。

私は、
紹介された3冊とも持っていながら 未だ読まず、本箱に積んでいますが、

1.については、中世都市の本を読むとき
2.については、和田先生が訳された オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」を
  読み終わってから、読もうと思っていましたので、

そんなに気にはなりませんでした。

これに対して
「東方の驚異」ついては、
ショックに近い驚きと共に、大いに反省した次第です。

「プレスター・ジョンの手紙」は、
長年 どんなものか読んでみたいと願っていました。

それが、
その本を購入しているのに、

更には、
毎日机の横の一番近い本箱でその本を眺めているのに
うかつにも 気がつかなかったのです。

「東方の驚異」との題名で、
中国か中央アジアの話だろうと思い込んで、

ぱらぱらと中身も見ずに
本箱の積んどいたのが原因でした。

これでは、
「猫に小判」「ブタに真珠」ではないか、と意気消沈してしまいましたが、

早速、
池上俊一先生の翻訳と解説を読んでみました。


プレスター・ジョンを最初に知ったのは、

高校の世界史の教科書に、
東方への探検やインド航路の発見の動機として、
アフリカのイスラム世界の南にあるキリスト教徒の国を探すことも一つあった
と記述していたことでした。

東を目指して探検したのに、
方向違いの南の国を目指したとは、おかしいのでは、
との疑問が、ずっと記憶に残ったのです。

今回
池上先生 の 次の解説で、約半世紀来の歴史の謎が解けたのでした。

 「東方(オリエント)は、「インド」と呼びならわされてきたのだが、
  この「インド」は、融通無碍、伸縮自在の概念で、
  アジアのみならず アフリカの一部をも包含していた。

  14世紀半ばには、
  旅行家達が「司祭ヨハネ」を求めて旅立ち、

  「アジア」との直接接触を重ねても、この王国がなく、
  ヨハネに相応しい器量の大きな人物のいないことが判明すると、

  司祭ヨハネ伝説の主要舞台は、
  急遽、
  アジアからアフリカへ、特にエチオピアへと移動する。

  これも、
  インドの曖昧で流動的な概念が可能ならしめたのであろう。

  15世紀初頭には、
  司祭ヨハネと接触しようと、

  イングランド王ヘンリー4世(在位 1399~1413)が、
  「アビシニア王」司祭ヨハネに書簡を送り、

  1439年、教皇 エウゲニウス4世は、
  エチオピア「皇帝」司祭ヨハネに 書簡を送り、
  エチオピアのネストリウス派を、ローマ教会傘下に引き戻そうとした。

  最後に、
  ポルトガル王室は、

  1416年のエンリケ航海王以来 ほぼ百年にわたって、司祭ヨハネと交渉し、
  同じキリスト教国として 共に異教と戦おうと考え、
  驚異的な探索活動を展開し、
  海を越え、アフリカの奥地を探検したのである。

  当然、
  司祭ヨハネの国は 発見できなかったが、

  この「発見旅行」は、大航海時代の幕開け、
  そして
  近代的世界観誕生の発端となった」

    出所 西洋中世奇譚集成「東方の驚異」157㌻


西洋中世奇譚集成「東方の驚異」は、
160㌻ほどの数時間で読める本ですので

「バウドリーノ」を読まれる前に、
できれば全部を、少なくとも池上先生の解説を
お読みになられることをお勧めします。

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2011年1月 5日 (水)

539年 フランク ヴェネツィアを占領

フランクは、

ゴート族などの他のゲルマン民族と異なって
膨張的に ガリアに進出して定着し、

754年
教皇 ステファヌス の救援依頼により ピピン3世がイタリア遠征した
と、高校の世界史で学んだことを覚えています。

このため、
他のゲルマン民族と異なり
イタリアへの進出の意欲は少なかったような印象を持っていました。

ところが、ピレンヌは、

クローヴィスは、
507年 ヴィエ で 西ゴートを破った後 地中海進出を目論んだが、
東ゴート テオドリックに阻まれて断念したのであり、

フランクは、
他のゲルマン民族同様 地中海進出を意図していた
と、記述しています。

  出所 ピレンヌ「中世都市」6㌻

この記述を読んでから、歴史書を読む際に
フランクのイタリア進出について気にかけながら読んできました。

フランク成立した後、西ローマ帝国へ進出したことは、
以前お話ししていますので、

今回は、
余り知られていないメロヴィング朝フランクのイタリア進出について
お話しさせて頂きます。

  注 フランク族の初期の西ローマ帝国への進出 については、
     次をご参照下さい

     1.ガリアは、ローマ文明を 灯し続けたのか?
       http://chuuseishi.la.coocan.jp/080215.htm

     2.ホームページ 歴史年表 310年の項目
       http://chuuseishi.la.coocan.jp/rekishiindex.htm
       (5.4世紀 を クリックして ダウンロードして下さい)


クローヴィスは、

西ゴートと戦う際に、東ローマ帝国と連携して、
東ローマ軍をイタリアに侵攻させて、
東ゴートのテオドリックを牽制しています。

一方、
テオドリックは、

クローヴィスが西ゴートに勝利した翌年(508年)に、
プロヴァンスを占領して、
クローヴィスのイタリア進出 を 阻止しました。

526年に
テオドリックが没した後、

東ローマ ユスティニアヌス大帝は、
ベリサリオスに

533年 ヴァンダルを滅亡させ、
535年 シチリア島を征服し、
536年 ナポリを攻略させ、年末にはローマを占領させて、

ゴート戦役を開始しました。

フランク アウストラシア王 テウデベルト1世は、
この機会を捉えて 

536年に
イタリア進出の下心で、東ゴートと一時的に誼を通じて、
1万人の援軍を東ゴートに派遣する見返りに、

508年
テオドリックが併合した プロヴァンス を 東ゴートに割譲させています。

  アウストラシア王 テウデベルト1世  
  クローヴィス の孫、在位 534~548 14年間

538年(2年後)には、
東ゴートとの同盟を理由に、イタリアに介入し、
リグニアに ブルグントの志願兵を 援軍として派遣しました。

東ゴートは、
援軍を得て、ベルサリウスが籠城したミラノを包囲し、占領しました。

  リグリア Liguria  ジェノヴァ周辺の地方


539年(翌年)には、一転して
アウストラシア王 テウデベルト1世が イタリア遠征し、

東ゴート王 ヴィティギス の 本拠 ラヴェンナ を 攻囲しつつ、
ヴェネツィア地方 と リグリア地方の大部分 を 占領しましたが、
疫病のために帰国せざるを得なくなりました。 

この帰国の際に、
ヴェネツィアに 部下の大公を残して、

後に
ヴェネツィアの領有を、東ゴート トティラ王にも承認させたのでした。 

フランクは、
553年(14年後) 東ゴートが滅亡するまで ヴェネツィアを支配しています。

東ゴートは、
滅亡する際に、フランク族とアレマン族に応援を依頼しました。

アウストリア王 テウデベール(テウデバルト)は、
アルプスを越えてイタリアに遠征しましたが、

その後(多分翌年)に
ナルセスに奪い返されてしまいました。

この時、
ヴェネツィアも、ナルセスに奪回されたと思われます。 

  アウストラシア王 テウデベール(テウデバルト)  
  テウデベルト1世 の息子、在位 548~555 7年間

その後、
アウストラシア王 キルデベルト2世 は、
ナルセスに奪われたヴェネツィアを奪回するために、

583年~585年、
588年~589年、
590年 の

3回にわたって イタリアに侵攻しましたが、徒労に終わりました。

  アウストラシア王 キルデベルト2世
  在位 575~595 20年間

以上が、
6世紀のフランクのイタリア進出の経緯ですが、

6世紀に フランクが支配したヴェネツィアとは、
現在の 潟の中のヴェネツィア でしょうか。

当時、
潟には集落はあったものの、
町とは言えるほどの規模ではなかったような気がします。

以前にお話ししたように、
当時の東ローマ帝国のヴェネト地方の拠点は オデルツォにありました。

  オデルツォ Oderzo  ヴェネツィア の北 40km

その後、
639年に、ランゴバルドに奪われて、チッタノーヴァに移り、

697年に、ヴェネツィアの初代のドージェ(元首)が
       チッタノーヴァで即位しています。

  チッタノーヴァ Cittanova(現 エラクレア)
  ヴェネツィア の東北東 30km

ですから、
フランクが支配したヴェネツィアとは、
オデルツォだったと考えるべきだろうと思っています。

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2010年12月11日 (土)

ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?

昔、塩野七生さんの「海の都の物語」の最初に、

アッチラがイタリアに侵入してきたとき、
アクィレア陥落後、ヴェネツィアに人々が逃げ込んだ、
との話が ありましたので、

ヴェネツィアの西側の本土の人々が、
ヴェネツィアに逃げ込んだのだろう と、思い込んでいました。

というのは、
ヴェネツィアは、東のアドリア海に面した潟(ラグーザ)の島だったからです。

ところが、歴史書を繙くと、

810年
リド島のマラモッコからリアルトに移住したとの記述がありますので、

何で、
西側の本土からではなく、
アドリア海に面したリド島に人々がいたのだろうか、

何故、
リド島の人が リアルトに移住して、
ヴェネツィアの統治権を握ったのだろうか、
との疑問を、長年抱いてきました。

今回(2010年4月)
クセジュ(白水社)「ヴェネツィア史」(クリスチャン・ベック著)を読んで、
この疑問が解消できましたので、
ヴェネツィアの最初の頃の歴史を、簡単に要約してご紹介させて頂きます。


人々が、ヴェネツィアに逃げ込んだ事件は、大きいもので3回あります。

第1回 401年 西ゴート族 アラリック の侵入
第2回 452年 フン族    アッチラ  の侵入
第3回 569年 ランゴバルド族      の侵入

アラリックは、
コンスタンティノープルから、遠路はるばるイタリアに侵入し、

アッチラとランゴバルド族は、
ハンガリーより侵入したのですが、

イタリアへの出口は、
3回とも、スロベニアよりイタリア東北部への道でした。

イタリアは、
北はアルプスがありますので、
イタリアへの東側の入り口は、
峠の道以外は、スロベニアからの道なのです。

第一次大戦の際も、
オーストリア軍がイタリアへ攻め入ったのは、

オーストリアが支配していたトリエント地方からと、
アラリックなどと一緒の スロベニアよりの道で、

スロベニア国境からヴェネツィアにかけての地方が、
主な戦場となりました。


伝説によると、
ヴェネツィアの建国は、421年3月25日だそうです。

クセジュ「ヴェネツィア史」の著者 ベックは、

452年  アッチラにより アクィレイア が 焼かれ、コンコルディアが破壊された
466年頃 リアルト(リヴォアルト)に 初歩的な政治体制 が 発足したと思われる
と、記述しています。

  コンコルディア  ヴェネツィア の東北 50km、アクイレイア の西 40km
  リアルト(リヴォアルト) サンマルコ広場~リアルト橋辺り一帯の島々

また、
538年 東ゴート カッシオドルスの書簡に、
ヴェネツィアのラグーナ(潟)の住民について言及されていて、

この書簡が、
ラグーナの住民に関する最古の史料だとのことです。

この様に、
400年代の2度の侵入により、
潟(ラグーザ)に浮かぶ島に人が住むようになったのだろう
と、思われますが、

2回の侵入共に一過性だったため、
戦乱により一時的に避難してきた人が多く、
侵入終了後、
元の住処に戻った人が多かったとのことです。

ですから、
このヴェネツィアに、人々が本格的に定住するようになったのは、
568年 ランゴバルドの侵入以降とのことです。

ランゴバルドは、
ご存じの通り、イタリアに侵入してきてイタリアを支配した民族です。
従って、
ヴェネツィアに避難した人が、
本土に帰ろうと思っても、帰るに帰られなかったのでしょう。

ベック「ヴェネツィア史」クセジュで、
避難の様子を次のように記述しています。

アクレイアの総大司教は、      グラード に 居を移した。
トレヴィーゾから逃げてきた人々は、リアルトの島々 や トルチェッロに 逃亡した。

パドヴァからは、   マラモッコ に、
フリウリ地方からは、グラード や カオルレに集落を作った。

キオッジャ や イエゾロにも、人々が 避難した。

  アクレイア   ヴェネツィア の東北東 85km
  グラード    ヴェネツィア の東    85km、アクレイアの南 10km

  トレヴィーゾ  ヴェネツィアの北    25km
  トルチェッロ  潟(ラグーナ)の中の島

  パドヴァ    ヴェネツィアの西    35km
  マラモッコ   潟とアドリア海を分けるリド島の町

  フリウリ地方 ヴェネツィアとアクレイアの間のアルプスの南山麓の地方
  カオルレ   ヴェネツィアの東北東 45km

  キオッジャ  ヴェネツィアの南    25km、アドリア海沿岸の町
  イエゾロ   ヴェネツィアの東北東 25km、潟(ラグーナ)の東端南側の町


色々な人々が、ヴェネツィアに避難してきたのですが、

その人々の中心となった
ヴェネツィアの統治権が、リアルトに移るまでのの変遷を、
編年風にご紹介させて頂きます。

569年 ランゴバルド、イタリアに侵入
639年 オデルツォが陥落し、チッタノーヴァ(エラクレア)に権力の中心が移動

697年 チッタノーヴァで、最初のドージェ 選出
742年 チッタノーヴァより リド島 マラモッコ に 権力の中心が移動
751年 ラヴェンナが陥落して、チッタノーヴァのビザンツ支配が終焉した

810年 ピピンの攻撃を撃退した後、
     マラモッコよりリヴォアルト(リアルト)に権力の中心が移動


569年
ランゴバルド侵入後も、
ヴェネツィアの地方は、ビザンツ帝国が支配していて、
行政のの中心地は、オデルツォでした。

  オデルツォ  ヴェネツィア の北 40km、 トレビーゾの東北東 25km

このオデルツォが、
639年に陥落して、行政の中心がチッタノーヴァに移りました。

  チッタノーヴァ Cittanova (現在 エラクレイア Eraclea)
  ヴェネツィア の東北東 30km、 オデルツォの南南東 25km
  ピアーヴェ河畔、ピアーヴェ川河口より 6km

    チッタノーヴァは、
    Civitas Nova Heracliana(ヘラクレイオス帝の新しい町)が 略されたもので、
    現在の都市名 エラクレイアは、ヘラクレイオス帝より 由来しています。

    ヘラクレイオス帝 は
    7世紀初めの東ローマ皇帝で、実質的なビザンツ帝国の創始者です
    東ローマ皇帝 在位 610~641 31年間          

    余計なことですが、
    イタリア語も、Hは フランス語同様 発音しないのでしょうか?

    また、発音しないHは、スペルからも消えてしまうのが、
    イタリア流で フランス語と異なるところなのですね。


697年に、
チッタノーヴァで、ヴェネツィア 最初のドージェ(元首)が、選出されています。
多分、
ビザンツ帝国より チッタノーヴァの自治権が認められたということだと思います。

ヴェネツィアの最初のドージェは、
ビザンツ帝国の人であってヴェネツィア人ではなかったことをご記憶下さい。


最初のヴェネツィア人のドージェは、

726年(29年後)
チッタノーヴァで選出された 第3代ドージェ オルソ・イバートです。
  ドージェ在位 726~737 11年間

チッタノーヴァのヴェネツィア人は、
ビザンツ帝国の臣民にもかかわらず、

聖画像論争でローマ教皇を支持して、
ビザンツ人でない オルソ・イバート を ドージュに選出したのです。

737年(11年後)
オルロ・イバートは、殺害され、
(多分、ビザンツ帝国に都合が悪かったので殺されたのでしょう。)

その後5年間、
チッタノーヴァは、ドージェが選出されずに
ビザンツ帝国の軍政がしかれました。

742年(5年後)
オルソ・イバートの息子 デオタード・イバートが、第4代ドージェに選出され、
即位した742年に、
首都を、チッタノーヴァより リド島マラモッコ に 移しています。

ピアーヴェ川より 船でマラモッコに移動したのだろう
と、想像しています。

マラモッコへの移住は、
ビザンツ帝国の介入を軽減するためだったのでしょうが、

ビザンツ帝国の北イタリアの拠点が、      
ヴェネツィア人が支配するチッタノーヴァでしたので、

ビザンツ帝国の拠点も、
この時に
チッタノーヴァより マラモッコ に 移動したのでした。

751年(9年後)には、
ランゴバルド王 アストルフォ(アイスツルフ)が、ラヴェンナを陥落させ、
イタリアでのビザンツ支配に終止符を打ちました。

この時、
ビザンツ帝国は、チッタノーヴァも、失っています。

800年頃(異説 810年)(49年後 又は 59年後)
ヴェネツィアは、シャルルマーニュの息子ピピンに攻撃されました。

これを撃退した後、
810年に、
アドリア海に面したマラモッコより、
潟(ラグーナ)の中央部のリアルトに、ドージェが率先し定住したのです。

これにより、
現在まで続くヴェネツィアの歴史が始まりました。

今回 ベックの「ヴェネツィア史」を読んで、つくづく感じたことは、
歴史というものは、
頭で知っただけではダメで、
身に浸みて理解しなければ理解できないな、ということです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国の領土だったということは、
どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
無理だということが、身に浸みて理解できました。

恥ずかしながら、
名著と言われるマクニールの「ヴェネツィア」を、何回も読み始めては、
理解する能力がないと、途中で諦めてきました。

今回、曲がりなりにも最後まで読み通すことができたのですが、
それは、
ヴェネツィアがヴィザンツ帝国の領土だったということを
身に浸みて理解していたからだろうと思います。

今までは、どうしても、
ヴェネツィアは、イタリアの一部であり、
西ヨーロッパの側からの視点で歴史を見ていたのです。

これが、
ヴェネツィアの歴史の理解する上での妨げとなっていたのでした。


今回は、
地名の説明をちょっと詳しく記載させて頂きました。

これも、
歴史を理解する上で、
歴史的な事件が起きた場所を、地図で確認することが必要だということを、
身に浸みて感じているからです。

歴史を理解するには、地理学の知識も必須であり、
時間がかかっても、本を読みながら、場所を一つ一つ確認していかなければ、
歴史の理解は不充分となると痛感しています。

逆に、
知らない歴史をよむときに、場所を確認しながら、

また、
今まで作成してきた年表を見ながら読んでいくと、
何とか ぼやっとしたものでも、理解ができるものだと経験しています。

歴史を一歩踏み込んで理解されたい方がおられましたら、
このことを ご参考とされたらよいのでは、と思い、
余計なことを書かせて頂きました。



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2008年7月30日 (水)

672年 ベネディクトの遺骸が、 フルーリに到着

気が向いたときに、
クセジュ文庫の「フランス中世史年表」(シャルマソン著)の記述を、
一つ一つを確認しながら、年表に書き写して楽しんでいますが、

672年の項目に
「修道士達が、モンテ・カシーノより持ち帰った
 聖ベネディクトゥスの遺骸、フルーリに到着」
との記述を見て、目を見張ってしまいました。

    ベネディクト 生没年 480頃~550頃 享年 70才

ベネディクト(フランス名 ブノワ)は、
イタリア の モンテ・カシートで 529年頃 修道院を開設して、

ベネディクトの戒律を制定し、
修道院制を確立したことで有名な方です。

そのベネディクトの遺骸が、
没後100年以上たってから、フランスに移されたとは、
思ってもみなかったものですから、本当にびっくりしました。

あわてて、
本箱に積んであった
坂口昮吉先生の 「聖ベネディクトゥス」(南窓社)の関係あるところを
拾い読みしてみましたので、ご紹介させていただきます。

モンテ・カシーノの修道院は、

577年に
ランゴバルドにより掠奪・破壊され、放置され、

約150年後の 718年に
再建されたとのことです。

修道院が、廃墟になっていた
672年(坂口説 によると673年)に

フランスの修道士が、
ベネディクトのお墓を暴いて、フランスに遺骸を持ち帰ったのです。


坂口先生は、
遺骸がフランスに移されてから150年以上後の

フルーリ修道士 アダルベルトゥス(855年没)の記述を
次のようにご紹介されています。(要約です)


フルーリ・シュル・ロワール(Fleury sur Loire)修道院長 ムムモルス が、

聖ベネディクトゥス と 姉妹の スコラスティカ の 遺骨を探し出して、
持ち帰らせるために、

司祭 アイグルフス を、
モンテ・カシーノ に 派遣した。

司祭 アイグルフス は、

モンテ・カシーノ修道院の廃墟 で 夜中 遺骸発見後、
イタリア人に見つからないうちに 大急ぎで イタリアを去り、

7月11日 or 12月4日 に、
フルーリ に 帰国した。

フルーリ・シュル・ロワール は、
もうブルゴーニュといってもよい ロワール川の上流に 位置しています。

   ヌヴェール   の 東南 20km
   オルレアン  の 東南 160km

   ディジョン  の西南西 140km
   パリ     の   南 230km

フランス革命で、
各地の墓が暴かれ、遺骸が捨てられていますので、
ベネディクトの遺骸がどうなったのか、心配になりましたが、

坂口先生が、

ベネディクトの遺骸は、
オルレアン近く の ロワール川沿い の
フルーリ・サン・ブノア教会 に 安置されている
と、記述されておられるので、安心しました。

墓暴きは、
最も人倫に反することの一つだと思いますが、

キリストの教えのどこに、
墓暴きをして盗掘しても良いと書いてあるのでしょうか。

もし、
本当にキリストが許しているなら、

キリスト教は、
およそ宗教として唾棄すべきものであると思います。

ベネディクトの祝日は、

西方教会では、3月21日 と 7月11日、
東方教会では、3月14日 と あります。

3月21日は、
ベネディクトの命日で、

7月11日は、
盗掘された遺骸が フランスに到着した日とのことです。


泥棒が成功した日を祝うということは、

キリスト教は、
人倫に反する唾棄すべき墓暴き、盗掘を、
公認しているあらわれなのでしょう。


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2007年11月 9日 (金)

「トリノの聖骸布の謎」

リン・ピクネット+クライブ・プリンス著

「トリノの聖骸布の謎」(白水社)

 

          **********

 

読み始めると、終わりまで 一気に読み終えてしまいした。

 

レオナルド・ダヴィンチが、「 トリノの聖骸布」の作者で、

製法は 「写真」であった

との 全く面白い推論 を、説得力ある論法 で 書き上げた本です。

 

「歴史の謎解き」として大変面白く、

まさに、「事実は小説より奇なり」でして、

 

「下手な小説より、歴史の方がよっぽど面白いな」

と、思わず 独り言 が 出てしまいました。

 

また、

話の舞台である、フランスとイタリアの国境を跨いだ サヴォイアの歴史 が

垣間見れるのも、収穫の一つでした。

 

本筋とは離れますが、

 

パリのノートルダム寺院は、

「マグダラのマリア」に捧げられた寺院である

と、記述してあり、

 

「本当だろうか?」と、

ちょっとビックリしました。

 

一つ覚えておいて

別の本で、真偽を調べてみようと思っています。

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2007年8月15日 (水)

「アシジの聖フランシスコ」

J.J.ヨルゲンセン著
「アシジの聖フランシスコ」(平凡社)


フランシスコ会が、
修道院派と厳格派 に 分かれたことに興味を持ち、
創始者の伝記を読んでみました。

ヨルゲンセンは、
なかなかの力量を持った著者で、良質な伝記だと感心しました。


今回 色々考えさせられましたが、

1.宗教における「組織維持」と「純粋性維持」の 調和の問題」と 、
2.「信仰における「学問の役割」について」
   が、特に 気になりました。


最初の点(第1点)は、

宗教的に非エリートである 聖職者 や 一般のキリスト教徒を
宗派内に取り込んで組織化しなければ、
宗教団体の発展はないのですが、

両者の関係を どう調整し、調和させていくのか が、
難しい問題だなということです。

フランシスコが、1223年の会則を作るときに、

後の総長のエリアより
「フランシスコは、厳しすぎて 私たちの守れないこと を 命じるので、
 我々が守れる会則にして欲しい」
と、要求されたことが 象徴していると思いますし、

これが、
フランシスコ会が 2派に別れた原因 でしょう。


後者の点(第2点)は、

宗教において
「学問が 必要かどうか」、
「学問の果たす役割 とは何であろうか」
という問題です。

フランシスコ会主流派の「ボローニャ大学出身者」に対する
フランシスコの「厳しい対応」は、
この点の問題点を鋭く指摘しているな と考えさせられました。

又、
12世紀のベルナールとアベラールの対立 の
よってきたるものよってきたるもの が、
漠然とですが 分かってきたような気がしました。

今迄は、
ベルナールは「論外だ」と 思っていましたが、

宗教には、
ベルナール的なもの(神を感じる神秘主義) が 大切で、
アベラール的なもの(論理性)は、
「宗教の外にあるのでは」と いう感じが し始めています。

エラスムスが、
1519年頃 カトリック保守派と 論争した際、

「エラスムス が、
 「教会、秘跡、教義」を、「文献学的透察の従位」に 置いていたので、

 エラスムスが、
 もはや「純粋カトリック的」では無くなっている事実 に 気がついていなかった」
と、ホイジンガが 批評していますが、

この意味する所が、
少し理解できるようになった感じがしています。

無宗教で宗教心を持った経験もなく、
キリスト教も良く知らないために、

キリスト教に
何処から取りついてよいのか困惑していましたが、
今回 一つの切り口が 見えてきたような気がしています。


 < 追 記 >

以前ホームページの掲示板に掲載した内容ですが、
この本は アッシジのフランシスコ の基本的な伝記だと思いますので、
ブログにも掲載させていただきました。

本文にも書いたように
宗教心ではなく
歴史的な関心からキリスト教を考えて見ようとする人には、
この本は色々示唆を与えてくれる本だと思います。

アッシジのフランシスコについては、

キアーラ・フルゴーニ著
「アッシジのフランチェスコ」(白水社)もご参照ください。
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_583b.html

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