ドイツ

2022年7月18日 (月)

歴史の違いは 料理 にも 差異をもたらすのでは?

何年か前、ドイツに旅行した際に、
ベルリンを訪問したことがありました。

夕食を食べようと、ガイドブックを開いてみると、
「ソニー広場のレストランが評判である」
との記述がありましたので、訪れてみることにしまた。

クリーム系のシチューを注文したのですが、
一口食べて、家内と顔を見合わせてしまいました。

出された料理は、
無理やり飲み込んだ はるか昔の小学校の給食レベルの味で、

現在においては レストランの料理として提供されるレベルに
およそ遠く及ばない まずい料理 だったのです。


あまりのひどさに
家内とホテルに帰ろうと話しあって、食事を中断してホテルに帰りました。

ホテルに戻るってから、口直しに ベルリンの名物料理といわれていた、
ソーセージにカレーをかけた料理を注文しました。

出された料理を一応食べましたが、
これが、ドイツの首都であるベルリンを代表する料理か
と、びっくりしてしまいました。

日本では、
お祭りの屋台で売られているような
ソーセージにどこにでもあるうま味もこくもないないカレーをかけただけの料理
だったのです。

それをベルリンを代表する料理だ と、
一流ホテル(ウエスティンホテル)で 堂々と提供されているのです。

当時は、
ドイツの料理は、評判通りまずいな と、思っただけで、
一つの思い出となったのですが、

最近、「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」を考えるとき、
歴史の違いを表している象徴的な現象が、この思い出では?
と、考えますので 少しお話しさせていただきたいと思います。


家庭料理で煮込み料理を作る際には、
多量の野菜や肉を煮込んで作るのではないでしょうか。

長時間これらを煮込むことによって
肉や野菜からうまみ成分が出てきて、おいしく仕上がります。

レストラン料理では、見た目も大切ですから、
野菜 や 肉は、
必要最小限に抑えて、色添えみたいな役割となりますので

料理をおいしくすために
ブイヨン(出汁)やバター(油脂分)を 隠し味として使用して
仕上げるのではないでしょうか。

ところが、
ベルリン で 経験したことは、
スープ を作る際に ブイヨンやバターを使用しないで、
客 に 提供しているのです。

ですから、
我々の世代 が 経験した 小学校の給食 の まずい料理 と 同じようなもの が
提供されたのだろう と、思います。

60年近く前に
大学1年の時 に 南ドイツ から オーストリーに3週間ぐらい
バス旅行をしたことがありました。

その時に、
毎日 食事のたびに 炭酸系のリンゴジュースを支給されて飲んだのですが、
うまれてから初めて飲むリンゴジュース は、
最初 は 口に合いませんでしたが、

毎日飲むうちに、おいしさが分かってきて、
今では大好物の一つとなっています。

このように、
最初は 口に合わなくとも、
飲んだり食べたりしているうちに 味が分かってきて、
評価 が 変わることがあります。

ドイツ人 は、
ブイヨンの使わない料理 を 毎日食べているうちに、

それなりに おいしさを感じて
料理とは、こういうものだ と 思い込んで過ごしているのでしょう。

ですが、これは、
「繰り返しの歴史の国」であるドイツで生じたことであり、

「積み重ねの歴史の国」においては、
料理 を もっとおいしくする方法なないだろうか と、工夫 を 重ねる人 が 出てきて、

試行錯誤しているうちに、
ブイヨン を 加えると、もっと料理がおいしくなる
と、気が付くのではないでしょうか。

数年前に、
ドナウ川クルーズを レーゲンスブルクからブタペストまで楽しんだことがります。

利用したクルーズ船は、
日本企業の 「ニッコウトラベル」(JALさんの子会社ではありません)さんの所有船で、
料理を担当してくだっさったシェフは、ルーマニア人とのことでした。

実は、家内が ドナウ川クルーズは一度経験したいけど、
ローヌ川クルーズと比べて 料理 が まずいのでは?
と、逡巡していたのです。

ところが、
実際には、毎日提供される食事は、素晴らしいもので、
日本人の団体だからと言って提供された日本料理は、
日本人が作ったのではと思えるほどの出来栄えでした。

「ニッコウトラベル」さんに聞いてみると、
シェフを日本に呼んで、日本料理を含めて徹底的に教育しているとのことでした。

なるほど、それでおいしい料理を提供していただいているのだな、
と、感謝したのですが、

出されるスープには、
ブイヨンは使用していないなと感じられました。

シェフも、プロの料理人ですので、
日本で教育する際に、
初歩の初歩であるブイヨンの作り方までは、
教程に入っていなかったのでしょう。

ですから、
ベルリンとはまるで比較にならないレベルの大変おいしいスープでしたが、

やはりルーマニア人は、
繰り返しの歴史の国の人だなと、感じた次第です。

 

フランスは、
「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」の人々が 半々の国ですが、
指導者層は、「積み重ねの歴史」に属する人でした。

例えば、
渡辺一夫先生は、16世紀後半の宗教戦争の時代
ユグノー(新教)、カトリック、ユグノーと対立した3派の指導者は
「積み重ねの歴史」の地域である北フランス出身者だったと記述されておられます。

フランスは、
クローヴィスがベルギーよりパリに南下して建国した国であり、
支配層は、「積み重ねの歴史の国」の人々でした。

フランス料理は、
16世紀フランス王家に嫁いだメディチ家がもたらした
イタリア料理より発展したもであり
フランス王の宮廷をはじめとるる貴族の城館において 発展した料理なのです。

それが、フランス革命により
宮廷や貴族の城館に雇われていたシェフが失業したため
パリなどの町に出てレストランを開業したため、庶民にもフランス料理が広まり
国民的な料理として発展し現在に至っているのです。


イングランドは、
ノルマンディーからフランドルにかけての人々が、
ルマンディー公ウィリアムに率いられてイングランドに侵入して
現在に至る イングランド史 が 始まりました。

ノルマンディー公ウィリアムが征服した直後の イングランドは、
支配階級のノルマン人と、
アングロ・サクソン人やケルト人、ローマ人の末裔からなる
被支配階級との間に画然たる差がありました。

言葉からして、
支配階級のノルマン人は、フランス語、
被支配階級の人々は英語を使用していたのです。

ですから、
支配階級にとりブリテン島の領地は、征服した植民地みたいなもので、
本拠は、ノルマンディーからフランドルの間の地域だったのです。

その後、
イングランド王家のヘンリー2世が、アキテーヌ女公アリエノールと結婚して
スコットランド国境からピレネーに至るフランスの西半分の膨大な地域を支配する
アンジュー帝国 を 構築したのですが、

ヘンリー2世の息子ジョン王が、
フランス王フィリップ2世に フランスよりイングランドに駆逐されてしまい、

ジョン王の後継者が、
フランス領土奪回のためフランスを百年戦争を戦ったのですが、
最終的にフランスに敗北し、
ブリテン島の王朝としての歴史を歩むことになったのです。


その後、
イングランド王が、革命により断頭台で斬首されたころもありましたが、

フランスのように 共和制になることもなく、イングランド王が存続したために、
宮廷や貴族の城館で雇われていたシェフが 失業して、
庶民相手にレストランで営業するようなことが生じなかったのです。

これが、
イングランド料理は、まずい料理である との評価になった 一番の原因では?
と、考えています。

イングランド料理のまずさを象徴する例えとして
「イングランドでおいしい料理を食べたければ、朝食を2回食べればよい。」
と、云われています。

イングランドの朝食は、おいしいとの定評があるのです。
このことは、
イングランド料理を評価する際のヒントになるのでは?
という気がしています。


イングランドで 本当においしい料理は、
おそらく 宮廷や貴族の城館で食されているのではないでしょうか。

宮廷や貴族の城館で働いていたシェフが、
失業することもなく過ごしてきたため、

町のレストランの料理レベルが、上昇しなかったことが、
イングランド料理は、
まずい との評価 が 定まった原因ではないでしょうか?


例えば、
ティーで提供されるお菓子は、上質なものです。

特に、
クロテットクリームとジャムをスコーンを付けたものは、

トースト に バターとジャムを付けたものよりも
数段上質たと思います。

このクロテットクリームとジャムをつけたスコーンを食していたのは、
城館に住んでおられた貴族ではないでしょうか。


ロンドンで駐在員をしていた友人から、
最もおいしい紅茶は、イングランドより輸出を禁止されていて、
英国人が独占している

と、聞いたことがあります。

また、
ある年の正月休みに訪れたエジンバラの駅前のホテルで食したスモークサーモンは、
生涯最高のスモークサーモンでした。

日本人の大好きなイチゴと生クリームのショートケーキの原型は、
イングランド料理だと聞いたことがあります。

思いつくままに、イングランドの料理について述べさせていただきましたが、
私は、本当のイングランドの最高の料理を知らないのだろう
と、想像しています。

彼らは、
外国人に知らせずに、
自分たちのインナーサークルで 最高の上質な料理を楽しんでいるのだろう
と、想像しています。

私は、そのごくごく一部 を
垣間見ただけのような気がしています。


イタリアは
繰り返しの歴史の国です。

ローマ帝国終焉後、
ゴート人やランゴバルド人に支配された後、
ドイツ人が、神聖ローマ皇帝をしてイタリア政策を実施するのだといって
イタリアを支配していました。

その間に
ロンバルディアでは都市国家が栄て、

フリードリヒ2世没後 ドイツ勢力が衰えると
イタリア人の民族の祭典というべき イタリア・ルネサンスという 民族の祭典 を
繰り広げたのですが、

イタリア中部より南は、
ローマ教皇庁が フランス勢力を導入した後、
アラゴンに支配される経験をしたのち、

最終的に、
ハプスブルグ家 が イタリア全体を支配することになり、

19世紀半ば、トリノの宮廷がイタリアを統一するまで、
外国に支配される歴史を経てきました。

ところが、
繰り返しの歴史の国であるイタリアが、
積み重ねの歴史の国の象徴でもあるフランス料理の母国だ
と、いうのです。

残念ながら、
この疑問に対する回答を現在のところ持ち合わせていません。

確かに、
イタリアは海に囲まれていて、新鮮な食材が豊富な国であり、
おいしい料理がたくさんあることは事実です。

また、
フランス料理のように凝った調理法ではなく、
新鮮な食材を生かした料理が多い感じもしています。

例えていうと、
フランス料理とイタリア料理の差は、

日本で言うと京(京都)料理と加賀(金沢)料理の差に相通じるものがあるのでは?
と いう気が しています。

でも、
ドイツでさえ、

「繰り返しの歴史」をそのまま体現する料理 を 現在まで引き継いでいるのに、

ドイツ以上に「繰り返しの歴史の国」であるイタリアが、
なぜ あのような料理 を 保持しているのか、についての説明 が 思いつきません。


敢えて推測すると、

ローマ帝国時代 に 料理の基本が確立して、
それが、
20000年近く保持されてきているのでは?
と いう妄想しか 思いつきません。

この問題は、
ローマ帝国が「積み重ねの歴史」なのか、「繰り返しの歴史」なのか、
の 問題 と 深くかかわっていますので、

私の人生に 残された時間を考えるとき、
これから取りかかるには 大きな問題すぎるな
と、現在感じていますが、
他方、いつかギボンのローマ帝国衰亡史を読んでみたいなとも願っていますので
ひょっとして 考えるチャンスが訪れることが あったらな と 願っています。


以上、ヨーロッパ諸国の料理にまつわる雑感 を
お話しさせていただきましたが、

私の雑感について
お付き合いくださり ありがとうございました。

 

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2021年10月14日 (木)

フランスとドイツは、積み重ねの歴史の国?それとも 繰り返しの歴史の国?

知人より、掲題の質問 を 受け、次のような回答 を しました。
少し面白いテーマなので、
ご参考までに書き写してご参考に供させていただきます。


          **********


結論から申し上げると

フランスは、

積み重ねの歴史 の 担い手 が、半分
繰り返しの歴史 の 担い手 が、 半分 の国で

これが、
イングランドとの植民地争奪戦(第2次百年戦争)で
フランスが、イングランド に 後れを取った原因 だろう
と、思っています。


ドイツは、

本来的に 繰り返しの歴史の国でした。

フランス革命後
ナポレオンに敗れたプロイセンが、奮起して
プロイセンを 積み重ねの歴史の国に転換させ

ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して
ドイツを統一し、ヨーロッパで覇を唱えるまでの
積み重ねの歴史の国に転換させたのですが

1990年 冷戦終了後、
繰り返しの歴史の産物であるマルクス主義を信奉する
東ドイツを合併したことにより

繰り返しの歴史の国に先祖返りして
繰り返しの歴史の国に戻ってしまった
と、感じられるのが、現在のドイツだと思います。

ドイツに対して、このような感じを持ったのは、
50年以上前に 大学に入学した年の秋に
3週間 南ドイツやオーストリアを中心にバス旅行した経験と

数年前に
ドイツ旅行した経験を比較して 感じたことなのです。

50年前には、
西ヨーロッパの国を訪れたな
との感じを持ちましたが、

数年前は、
ドイツの資本主義の心臓部であるフランクフルトにおいてさえ
冷戦時代の東方の国と思えるほどの 陰鬱さ、沈滞 を 感じて
驚愕したことが忘れられません。


以下、
フランス史とドイツ史の概略をご説明させていただきます。




1.最初に、

  フランスとドイツの国の成り立ちを理解するための前提として
  ヨーロッパと日本の「封建関係」について、
  一言述べさせていただきます。


日本の封建関係 は、
家臣は、主君に忠誠を尽くして、二君に仕えない
のに反して

ヨーロッパでは、
主君と家臣は、契約関係であり、
すく数の主君を持つ者 も ざらにあることが

異なる点である、
とよく言われますが、

私は、
これに疑問を持っていて、
これが、
ヨーロッパ理解を過つ原因になるのでは?
と、感じています。

ヨーロッパにおける封建関係が、
契約関係だとの認識には、同意しますが
日本の封建関係については、
疑問を持っています。


日本の封建関係は、
二層構造になっているのでは?
と、感じられます。

即ち
主君と家臣との関係 と
対等な 主君同士の 主従関係(契約関係)
(例えば、織田信長と徳川家康、豊臣秀吉と徳川家康)

最初の 主君と家臣との関係は、
一般に言われている通りの
複数の主君に仕えない との封建関係です。

二つ目の
対等な主君同士の主従関係(契約関係)とは、
ヨーロッパの封建関係と同質の
利害に基づく関係だろう と、感じられます。

例えば、徳川家康は、
織田信長や豊臣秀吉が存命中は、
信長や秀吉に従順に従っていましたが、

秀吉没後
豊臣家を打倒できる状況になると、

従来の主従関係を無視して、
豊臣家 に 牙をむいて 滅亡させて、
徳川幕府 を 創始しました。

これは、
ヨーロッパの封建関係と、
全く同質のもののように感じられます。


ヨーロッパで
日本のような主君と家臣の関係が一般化しなかったのは、
地域における権力構造が異なっているからのよう に
思われます。

この点への理解が、
ヨーロッパの歴史理解の前提となるような気がしています。

日本においては、
一つの国(尾張の国とか、美濃の国)の主君は、
原則そして 一人でした。

ところが、
ヨーロッパでは、一つの土地に、複数の主君が存在していました。

例えば、中世の北フランスは、
フランドル伯の領地でしたが、

同時に、
同じ土地に対して
フランス王も 国王としての宗主権 を 有していたのです。

更に、
神聖ローマ皇帝(ドイツ王)も、
フランドル伯の君主としての権利を主張していましたし、

フランドルとの緊密な経済関係を有するイングランドも
領土を奪取しようとして 派兵する動きも見せていました。


このように、
一つの領土 に 対して、権利 を 主張する 複数の君主 が 存在したことが

日本におけるような
主君 と 家臣 との 封建関係 が 成熟せず(一般化せず)に

日本における 君主間の契約関係しか
ヨーロッパにおいて成立しなかった原因では?
と、感じられます。


(注)ヨーロッパにおいても、
   主君と家臣の関係は、一般化はしなかったものの
   当事者間では、存在していたことを否定するものではありません。

   尼子家再興 に 奮闘した 山中鹿之助 のような 家臣 も 存在しましたし、
   武士道 と 同質と思われる の騎士道 も ヨーロッパに 存在していました。

   歴史というものは、
   All or Nothing と、明確に区分できるものではなく
   常にグレーゾーンが存在することを、 ご理解ください。



2.フランス史 の 概略

フランスは、

500年ころ ベルギー の トゥルネー から パリ に 進出してきた
クローヴィス が、建国した国です。

西フランク滅亡後(消滅後)
カペー朝が、 フランス王に選出され、

フランス革命まで
カペー朝の血統(本家の血統が途絶えた後は、分家の血統)が
支配しました。


フランス王に即位したカペー朝は、
フランス王として フランス全土に対する統治権を
理論上は持っていましたが、

実際に統治できていたのは
イール・ド・フランス(パリ周辺)
せいぜい パリからオルレアンまでの地域でした。

即ち、
パリ周辺の 弱小領主が、弱小ゆえに
フランス王に即位したのでした。

ドイツでも、
ハプスブルグ家 が 皇帝 に 選出されたように

フランスでも
強大な諸侯 は、フランス王 への 即位 を 阻まれたのです。


カペー朝がフランス王に即位した当時 の
フランス の 領土範囲は

東は、
シャンパーニュまでで
ロレーヌも アルザスも 神聖ローマ帝国(ドイツ)の領土でした。

また、
ソーヌ川、ローヌ川の東側も、
神聖ローマ帝国の領土で、フランスの統治権の範囲外でした。

パリの西側 は、
北のノルマンディーからピレネーまで
フランス王の宗主権の範囲内でしたが、

実際には、
ノルマンディー公、アンジュー伯、アキテーヌ公などが
統治、支配していて
フランス王の宗主権は、名目だけの存在でした

更に、
ブルターニュ公国、トゥールーズ伯は、
フランス王より独立していて、
フランス王の宗主権も及びませんでした。

(注)トゥールーズよりプロヴァンスにかけては、
   南のアラゴンとの統合の方 に 動いていたのでは?
   と、感じられます。

   アラゴン と トゥールーズ および プロヴァンス
   の 統合 を 阻止するため が、

   13世紀前半 に
   フランス王家とイングランド王家が
   プロヴァンス伯家の4姉妹 と 政略結婚した理由では?
   と、想像しています。

また、
北フランス は、フランドル伯の領土 でした。

先ほど述べたように
フランドル伯は、ほぼ独立していて、

その上位に、
フランス王、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)、イングランド王が
宗主権を主張して けん制しあう 複雑な政治模様 を 呈していました。

(注)第4回十字軍 が、ビザンツ帝国 を 滅ぼして、
   フランドル伯が、十字軍 が 建国したラテン帝国の初代皇帝 に
   即位しています。

   また、
   フランドル伯家 が、短期間で血統 が 断絶した後
   フランドル伯の娘と結婚した カペー朝の分家が
   その後の皇帝に即位しています。

   フランス王ルイ9世 が、 聖遺物を購入して
   パリの シテ島で、サント・シャペルを建立したのは、
   このような関係があったからでしょう。


フランスの歴史を一言で申し上げると、

パリ周辺の弱小領主が、
フィリップ2世以降 フランス王の宗主権を活用して
周辺の大諸侯 を
駆逐するか or 服従させるか、または 併合して、
統治権 を 拡大、確立し、

更には、
神聖ローマ帝国 や、
独立諸侯だった
フランドル伯の一部、ブルターニュ公、トゥールーズ伯より
領土を併合していって

フランスという国 を 統合、統一していった歴史
と、いえるでしょう



積み重ねの歴史の担い手は、
北フランスからフランドルにかけての地域の人々ですので、

フランス の 大部分の地域 では、
繰り返しの歴史の人々 が 居住しているのです。

従って、
フランスにおいては、積み重ねの歴史の担い手は、
少数派というべきでしょう。

しかし、
積み重ねの歴史の担い手が、
カペー朝が、フランス各地を併合する際に
主導的役割を果たしたのでは と、想像しています。

言い換えると、
フランスという国 を
リードし、形成した人 との側面から 観察すると

少数派の積み重ねの歴史の地域の人々が リードしたのでは
との 少し 別の見方 になるような気がしています。

例えば、
16世紀後半 フランスは、
宗教戦争の嵐 が 吹き荒れました。

この時期、宗教戦争をリードしたのは、
北フランス出身の人々だ
と、 渡辺一夫先生は、記述されておられます。

カルバン派
カトリック、
それに
ユマニスト の3派 が 現れましたがが、

その3派 の リーダー は、
全員 北フランス出身者だった というのです。

渡辺先生は、
繰り返しの歴史の地域である
ロワール川下流地方出身のラブレー研究における 世界的権威
で あられましたが、

その先生が、
16世紀後半 の フランス を 分析して、
フランス を リードしたのは、北フランス出身者だ
と、考えておられるのです。

ですから、
フランス史において、
北フランス出身者の影響力 は、無視できないのでは?
と、想像しています。



3.ドイツ史 の 概略

フランクの支配が終了して、ドイツ史と歩み始めたとき
ザクセン朝が、ドイツ王に即位しました、

ドイツは、フランク解体過程で
中フランク(ロタールの国)が、ドイツに編入されたため

ドイツ王が、
神聖ローマ皇帝 を 名乗る とともに

ローマ帝国の本拠だった、イタリア の支配に注力して
ドイツ国内の統治がおろそかになりました。

ザクセン朝の男系血統が断絶して、
ザクセン朝の娘 と 結婚した シュタウフェン朝 が、
ドイツ王 を 引き継いだ後 も、状況 は 変わりませんでした。

というよりは、
更にイタリアの統治 に 注力し、

中世最大の皇帝 と いわれる フリードリヒ2世 においては、
イタリア生まれのパレルモ育ちだったこともあって、

ドイツにはほとんど赴かずに、
イタリアの王様として 生涯 を 過ごしています。

神聖ローマ帝国(ドイツ王)に
北と南から攻められる状況に陥った
教皇権 と ロンバルディアなどのイタリア都市国家が、

シュタウフェン朝に 対抗するために、

フランス を
イタリア に 引き入れて
ヨーロッパ史 を 大きく動かすことになるのですが、

今回とは別の話なので、割愛させていただきます。


皇帝不在(国王不在)のドイツは、
不在の間 に、大諸侯 が 割拠する 領国体制 を 確立しました。

この領国体制が、
19世紀初頭 ナポレオン に ドイツ が 敗北するまでの
500年以上 継続しています。

その間の歴史は、
繰り返しの歴史であり、

積み重ねの歴史を重ねて、実力を蓄えた
イングランドやフランスの後塵を拝したのです。

後塵を拝した表れとして、
フランス王より一つ格上の皇帝だったドイツ王(神聖ローマ皇帝)が
イングランド王やフランス王の家臣として、
先頭に従軍した例をご紹介させていただきます。

フリードリヒ2世に対立した ヴェルフェン家 のオットー4世は、
イングランド王 ジョン王の家臣として、

1214年 ブーヴィーヌの戦いに出陣し、
フィリップ2世に敗北し ドイツに逃げ帰っています。

オットー4世の父は、シュタウフェン朝の皇帝を対立して 敗北し、
ドイツから追放された際に
妻の実家のプランタジネット朝(アンジュー家)を頼って亡命しました、

オットー4世も、父に従って フランスに赴き
ポワトゥー伯として、プランタジネット朝の家臣として働いたのです。

ですから、
ジョン王が、フィリップ2世と戦った際に、
ドイツよりはるばるフランスに出陣し、
ジョン王の家臣として フィリップ2世 と 戦ったのです。


カール4世も、
1346年クレシーの戦いで、
主君である フランス王 に 従って、出陣しています。

カール4世のルクセンブルク家は、事実上フラン王の家臣でした。
カール4世自身も、フランスの宮廷で育っています。


カール4世 は、自分の名前 を
崇拝する フランク王 シャルルマーニュに因んだカールとしました。

シャルルマーニュ
即ち、
シャルル大帝のシャルルは、ドイツ語ではカールなのです。

(フランス語のシャルルマーニュを、
 日本で カール大帝 と 呼ばれるのは そのためです。)

カール4世は、
ドイツ王に即位して間もなく、
父ボヘミア王(チェコ王)ヨハネスに従って、
フランス王の許に はせ参じたのです。

尚、カール4世 は、父 クレシーの戦いで戦死した後
ボヘミア(チェコ)王として、国民から敬愛された国王でした。

カール4世の娘さんが、
イングランド王と結婚したことにより、

カール4世 を 敬愛していた チェコ人 が、
イングランド に 多数 留学して、
ウィクリフの教え を チェコ に 持ち帰り、

チェコで
フス派 が 勃興して、
フス戦争(宗教戦争)を もたらしました。


少し横道にそれましたので、話を戻しますと、

ドイツは、
繰り返しの歴史である 領国体制が、
19世紀初め に ナポレオンに敗北するまで継続しました。

このため、
激烈なイングランドとの積み重ねの歴史を競ってきたフランスに対抗できず、
簡単に敗北してしまいました。


ナポレオンに敗北後、
プロイセンが、奮起して、プロイセンを積み重ねの歴史に転換させ
ビスマルクやモルトケなどの天才を輩出して、

19世紀後半に フランスを破り
中世末に フランスに奪われた ロレーヌとアルザスを
ドイツに取り戻したのです。

現在 ストラスブール大学に、
フランス唯一の プロテスタント の 神学部 が 存在するのは

もともと アルザスが、
ドイツだった との経緯 に よるものだろう と、思います。

(注)アルザスは、
   中世において、ドイツ の 政治における心臓部 でした。

   シュタウフェン朝の宮廷は、
   ストラスブールの北のアグノー(Haguenau、ハーゲナウ)に
   所在していて、

   リチャード獅子心王の母 アリエノールが、
   ローヌ川の南の ポワトゥーから 船で ライン川 を 河口から遡って
   身代金を運んだ先が 

   現在においては
   フランス国内の町だったのです。

20世紀に入り、ドイツは
ヨーロッパ
更には 世界制覇 を 目指して
第一次大戦、第二次大戦 と 戦いましたが、
アメリカに 敗北して 挫折しました。

冷戦終了後
西ドイツが、東ドイツを併合して
戦前のドイツに戻りましたが

文化的というか、歴史的というか
ドイツとしての国の立ち位置が

積み重ねの歴史の国から
繰り返しの歴史の国に 先祖がえりをしたような気がしています。

今後、このままでは、
激烈な国際競争の中で、

ドイツが、
経済面で後れを取ることになろうかと思いますので、

ドイツが、いつ目覚めて 積み重ねの歴史の国に復帰するのか
それとも
イタリアみたいな繰り返しの歴史の国のまま推移するのか
注目していく必要があるのでは、と感じています。

というのは、
ドイツの動向が、今後のEUの動向を左右する
大きなファクターとなるのでは?と感じられるからです。

また、
アメリカと中共の間で、戦争が勃発したら、
繰り返しの歴史の国であるドイツの動向も 注目されるのでは?
と、思われるからです。



 

 

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2020年4月23日 (木)

現在は、既に 第4次世界大戦 が 始まっているのでは?

アメリカとチャイナの間で 戦争を始まるのでは?
との感じが広がり、

ネットで、安倍首相が、田原氏に、
「今度の戦争では核が使われるだろう」と発言したと、拝見しました。

考えすぎかもしれませんが、
安倍首相も、戦争を覚悟して、

為政者の責任として
密かに、それとなく 国民に 覚悟 と 準備 を 求めたのでは?

と、拝見して感じました。


現下の情勢は、
コロナウィルスの沈静化 が 最重点課題 ですので、

チャイナへの責任追及 は、
流行が終息した後の話 との感じ を 持たれる方が、大半では
と、推察しています。

私も、そのように考えていたのですが、
安倍首相 の 発言 を 知り、いろいろ考える内に、

実は、チャイナ が、
昨年末に 戦争 を 開始したのでは、

米中首脳の間では、
既に 現在 世界大戦の真っ只中 というべきでは?
との推定 も  あり得るのでは?

との考えが 浮かんできましたので、

歴史が、この推測 が 間違っていた と
否定することを 念じつつ

考えるところを 簡単に お話させて頂きます。


   **********


チャイナが、
昨年暮れに 第4次世界大戦 が 開始した との 前提 で
昨年の経緯 を、太平洋戦争 と 重ね合わせてみると、

1.米中の関税戦争 が、
  ABCD包囲陣 or 米国による対日石油禁輸であり、

2.武漢肺炎の流行 が、
  日本による真珠湾攻撃に相当する
  チャイナの戦争開始の狼煙では?

と、言えるのではないでしょうか。


第3次世界大戦ではなく、第4次世界大戦
と、お話しする歴史認識 を 含め

米中対立(今般の世界大戦)の本質 については

昨年暮れにアップロードした
米中対立 の 根底に潜む ヨーロッパ文明 の 解決不能な難問
を、ご覧頂ください。


詳しくは、
上記のブログを参照下さることを願っていますが

今回の戦争の本質(と、私が考えている 理由)を
一言で言うと

「積み重ねの歴史」に世界制覇された
「繰り返しの歴史」のチャンピオンである チャイナ が、

「積み重ねの歴史」である、アメリカ、ヨーロッパ諸国 に 対して

1.復讐戦 を 開始しする と共に
2.世界における 本来の地位 への 復権 を 目指す実力行使
 
だろうと 思います。


主要国で、
チャイナ陣営に与する可能性のある国は、

ロシアとドイツだろうと思います。


ロシアは、

マルクス主義を信奉する ソ連邦の後継国 であり、
チャイナと、根底の所でつながっている国 では ないでしょうか。

勿論、有利な陣営に属するべきとの政治的判断により、
今後、チャイナとの同盟を拒否するかもしれませんが、

プーチンさんが、素直に判断すれば、
チャイナ と共に アメリカ と 戦うことになる と、思います。

マルクス主義 が、
「繰り返しの歴史」に属するものであることについては

ヘーゲル「歴史哲学」における進歩史観やマルクスの史観は、キリスト教終末論のパクリでは?
を ご参照下さい。


ドイツも、
本質的に「繰り返しの歴史」の国です。

ドイツの歴史を概観すると、

東フランクが滅亡した後、
北ドイツ(ザクセン)が、支配するようになりました。

その後、
南ドイツのシュタウフェン朝が支配しましたが、
オットー朝以来、ドイツの王権はイタリアに引きつけられて
ドイツ国内において 権力の空洞化 が 進展し、

13世紀半ば
イタリアの君主(シチリア王)に定着した
フリードリヒ2世没後、
18世紀末 の フランス革命 まで
(約550年間)

諸侯 が 割拠する 領国体制
即ち
「繰り返しの歴史」が 継続しました。

ナポレオン に 敗北後
プロイセン(北ドイツ)が、奮起し、


「繰り返しの歴史」の国から
「積み重ねの歴史」の国に 大転換して、

南ドイツのチャンピオンである
ハプスブルグ家 を 排除して ドイツ を 統一し

「繰り返しの歴史」の英米と対抗して、
帝国主義時代のチャンピオン決定戦である
第1次大戦、第2次大戦 に 参戦したのですが、

アメリカ に 敗退して、世界制覇 に 失敗しました。

その後、冷戦(第3次世界大戦)終了後
東西ドイツが合併して、
東ドイツ(プロイセン)出身のメルケル首相が統治する間に
「繰り返しの歴史」の国に、先祖帰りした感じを持っています。

今後、米中対立が激化する中
ドイツが、

1.北ドイツ(プロイセン)の支配下に留まるのか、

2.それとも、
  南ドイツが、北ドイツと袂を分かつのか

注目すべき点である と、思いますが、

現在の北ドイツの政権 が 継続するとしたら、

「繰り返しの歴史」の国同士であるチャイナと同盟を締結して
アメリカと対抗するのではと思われます。


それぞれの陣営の結束 を 固めてから、戦争 を 開始するのが
「積み重ねの歴史」の国が制覇していた時代 の 常識ですが、

「繰り返しの歴史」のチャイナは、従来の常識に囚われずに

生物兵器を使用して
アメリカとの戦争 を 開始したのではないでしょうか。

ですから、
ロシアやドイツが、チャイナに与するかどうかは
今後のチャイナの動向次第だと思いますが、

チャイナを見ていると、
大人の振る舞いとは思えず

韓国同様
小学校低学年か、幼稚園児 の 精神年齢レベル のような感じ
が します。

ただ、だからといって、侮ってはいけません。

本当かどうか分かりませんが、
チャイナは、世界第2位の経済規模 を 誇っていますので、

それなりの軍事力を保有していると考えて対処すべきでしょう。
(フタを開けると 「張り子の虎」の様な気もしますが・・・)


日本は、どの様に対処するのでしょうか。

安倍首相を拝見していると、トランプ大統領と誼を通じていて
チャイナに対抗するのでは?との感じを持ちますが、

チャイナは、
現地にいる日本人を人質にとって
日本政府を脅すでしょうし、

戦前以来 チャイナに傾倒している「財界」や、
チャイナや朝鮮の工作員と思われる行動をする「マスコミ」が

総力を挙げて、
アメリカとの同盟 に 反対するでしょうから、

自民党がよほどしっかりしないと、
戦争に耐えることが出来ないのでは と、危惧しています。

自民党内にも
日韓議連始めとする チャイナ派、朝鮮派がおられますし、

本質的には朝鮮派である
公明党や維新の党の動向も気になりますので、

「積み重ねの歴史」の国陣営の一員として
日本が一致団結するためには、

いくつもの山を越えなければならないでしょう。


まず最初に行うべきは、
チャイナに進出している企業を撤退させることです。

現在戦争状態でないとしても、

今回のコロナ騒ぎで明らかになったように
チャイナは、信頼を置ける国ではありませんので

早急に撤退させることで、国論を統一すべきでしょう。

個々の企業で、
損失 が 発生するかもしれませんが

それは、自業自得だと諦めてもらい、
それぞれが対処すべきだと思います。


以上、
ひょとして あり得るのでは と 思われましたので、

私の夢 や 幻 に 終わること を 念じつつ
ご紹介させて頂きました。





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2017年1月 4日 (水)

マックス・ウェーバー 「職業としての学問」の要約、抜き書き

 


東大紛争を混迷化、泥沼化させた 折原助教授 の
ウェーバ学問論への誤解
の最後に、掲題の文章を追記したのですが、

字数オーバーで、
抜き書きの最初の部分で途切れてしまいました。

気にはなっていたのですが、今まで放置してしまいましたので、
年が改まったこの機会に再掲載させていただきます。

 

「職業としての学問」は、
大学入学した年に読んだ本ですが、

今から考えると、
全く理解できていなかったなと、反省しています。

短い講演ですので、
翻訳全文を読んでいただければとは思いますが、

私なりの整理をご紹介するのも、
イントロとしてのいささかの意味もあるのかなと考えて、

掲載させていただきます。



    *********



マックス・ウェーバー
  「職業としての学問」
の 要約、抜き書き

 
 
 
ウェーバーは、
本講演で、2つのことを述べておられます。
 
2つのこととは、
「学問の本質」 と
「大学教師」についてです。
 
 
1.「学問の本質」についての ウェーバーの記述
 
 
  第1点  「学問は、無限に進歩する」
 
  ① ウェーバーは、
    学問は、無限に進歩するものであり、
 
    進歩のない芸術と異なって、
    他の仕事によって「打ち破られて」時代遅れになることを、
         欲するものであり、
 
    学問に生きる者は、
    このことを甘んじなければならない。
    学問上の達成は、
    常に 新しい「問題提出」 を 意味する。
    (「岩波」29~30㌻)
 
 
  ② それなら、
     終わりのない、終わりを持つことのできない事柄に、
    何故、
    人は従事するのだろうか?、
    学問の意義はどこにあるのだろうか? 
    との問題に当面する
    と、問題提起されておられます。
    (「岩波」30㌻)
    学問の進歩は、
    元来、人類の合理化の過程の一部であるとして、
 
    学問、学問に裏付けられた技術による
    主知主義的合理化が、
    どのようなことを意味するかについて、
    述べておられます。
 
    即ち、
    欲しさえすれば、
    どんなことでも 常に 学び、知ることができるということ、
 
    全ての事柄は、
    原則上 予測によって 意のままになることを
    知っている、あるいは 信じているということが、
 
    主知化し、また合理化しているとの意味である
    と、されておられます。
    (「岩波」31~33㌻)
 
  ③ 進歩は、
    技術上の意味以上の意味をもつものだろうか?
 
    進歩に対する奉仕は、
    一つの職業を有意義ならしめるだろうか?
    が、問われる事柄だと、問題提起をして、
 
    これは、
    職業としての学問は、
    これに専心する者に対して 何を意味するか
    ということではなく、
 
    むしろ
    人間生活一般に対する学問の職分(本質)は、何であり、
    その価値はどこにあるか?という問題である
 
    と、述べておられます。
    (「岩波」33~35㌻)
 
 
  第2点  「学問の前提」
 
  ① 「論理や方法論上の諸規則の妥当性」
    「我々が世界について知るうえの
     一般的諸規則がもつ妥当性」は、
    全ての学問的研究において 前提とされている。
 
    この前提は、
    少なくとも当面の問題にとって、何ら議論を要しない。
    (「岩波」43㌻)
 
  ② 一般に 学問的研究は、

    更に
    「出てくる結果が、何か「知るに値する」という意味で、
     重要な事柄である」
    ということも、前提する。
 
    この前提のうちにこそ、我々の全問題が潜んでいる。
 
    何故なら、
    ある研究の成果が、重要であるかどうかを、
    学問上の手段により論証しえないからである。
 
    それは、
    人々が各自の生活上の究極の立場から
 
    その研究の成果がもつ究極の意味を、
    拒否するか、あるいは、承認するかによって
    解釈され得るだけである、
 
    と、述べて、いろいろな学問について、検討されておられます。
    (「岩波」43㌻)
 
 
  ③ 「自然科学(物理学、化学、天文学)」の前提
 
    自然科学は、到達し得る限りの最後の宇宙の諸法則が、
    当然 知るに値すること を 前提する。
 
    ここで知るに値するとは、
    「学問それ自らのために」知るに値するとの意味である。
 
    果たして知るに値するかどうかは、
    これらの学問自らが論証しうべき事柄ではない。
 
    況んや
    これらの学問が対象とする世界が、
    そもそも存在に値するかどうかということ
 
    また
    この世界が、何か意味あることであるかどうかということ
 
    こうしたことに至っては、もとより論証の限りではない。
    (「岩波」44㌻)
 
 
    自然科学は、
    もし、人生を技術的に支配したいと思うならば、
    我々はどうすべきであるか、という問に対して、答えてくれる。
 
    しかし、
    それが、技術的に支配されるべきかどうか、
 
    また
    そのことを、我々が欲するかどうか、ということ
 
    更に
    そうすることが、何か特別の意義を持つかどうか
    ということ
 
    こうしたことについては、
    何らか解決をも与えず、
 
    むしろ、
    これを、当然の前提とするのである。
    (「岩波」45㌻)
 
 
  ④ 「医学」の前提
 
    医学の根本の前提は、
    生命そのもの を、保持すること
 
    及び
    苦痛そのものをできる限り軽減すること
 
    を、その使命とすることであると、考えている。
 
    医者は、
    重態の患者が、むしろ死なせてくれと嘆願するような場合でも、
 
    身寄りの者が、
    いろいろな事情から 患者の死に同意せざるをえない場合でも、
 
    あらゆる手段を尽くして、患者の命を取り留めようとする。
    医学の前提と、刑法が、これらの願いを聞くことを、
    医者に禁じているのである。
 
 
    生命が、保持するに値するかどうか、
 
    また
    どういう場合に、そうであるか ということは、
 
    医学の問うところではない。
    (「岩波」44㌻)
 
 
  ⑤ 「美学」の前提
 
    美学は、芸術品が存在するという事実を前提する。
 
    どのような条件の下で
    芸術品が成り立つか、を解明しようとする。
 
    しかし、
    芸術品が存在すべきかどうか、ということは、問題にしない。
    (「岩波」46㌻)
 
 
  ⑥ 「法律」の前提
 
    ある法規や、その解釈上の方法が、
    いかなる場合に有効と認められるかを確定する。
 
    しかし、
    法律は、
         作られるべきであるかどうか とか、
     これこれの規則は、
    設定されるべきであるかどうか、
    という問に対しては、何事も、答えない。
 
    法律学が、我々に教えうる唯一の事柄は、
    我々が、ある効果を求めた場合、
    法律学的思惟の原則上、
    これこれの法規によることが、
    その効果を得るための手続きとして適当である
    ということだけである。
    (「岩波」46㌻)
 
 
  ⑦ 「歴史的文化科学」の前提
 
    これらの学問は、
    諸々の文化現象を、
    その発生の諸条件と結びつけて理解すること
    を、教える。
 
    これらの文化現象が、
    その存在に値していたか、
    あるいは、
    また、いるか
    という問に対しても、
 
    また、
    これらの文化現象を知ることが、その努力に値するか、
 
    という問に対しても、
 
    それ自身としては、
    何ら答えをも与えない。
 
 
    諸々の時代の「文明人」の社会生活に関与することが、
    興味ある事柄であるということを、前提としている。
 
    だが、
    それが、実際に興味あるかどうかを、
    「学問的」に立証することは出来ないし、
 
    また、
    これらの科学が、このことを前提にするということは、
    何らこのことが自明のことであるということの
    証明にはならない。
 
    それは、
    決して 自明のことではないのである。
    (「岩波」46㌻)
 
 
 
  ⑧ ウェーバーは、本講演の後半の、
    神学と他の学問を比較した場所でで、
 
    いかなる学問も、
    絶対に無前提的ではないが、
 
    その前提を拒否する者に対して、
    自己の基本的価値を証拠立てることは出来ない、
 
    と、結論づけておられます。
    (「岩波」68㌻)
 
 
 
  第3点
  「学問の実際生活への積極的寄与」
  及び
  「ウェーバーの価値論」
 
  ウェーバーは、
  学問の本質についての最後に、
  学問の実際生活への積極的な寄与として、
  次の3項目を挙げています。
 
  ① 「技術」
    即ち
    どうすれば外界の事物や、他人の行為を
    予測によって支配できるか
    についての知識。
 
    これは、
    野菜売りの女のすることにすぎないのと同じでは
    と、指摘されると、
    同感であるとして、
    次の項目 を 挙げています。
    (「岩波」61㌻)
 
  ② 物事の考え方、
    及び
    そのための用具の訓練
 
    これも、
    要するに、
    野菜 を 手に入れるための手段にすぎない

    との指摘に同意して、
    この点も、問題外としています。
    (「岩波」61㌻)
 
  ③ 最後に、
    「明確さ(明晰さ)」ということに、
    諸君 を 導くことが 出来ること を 上げて、
    これについて
    次のような価値論 を 展開しておられます。
    (「岩波」61㌻)
 
    (注) 「明確さ」は、尾高先生の訳、
       「明晰さ」は、出口先生の訳です。
 
 
    人が、いつも問題にするのは、
    物事の価値いかんの問題であるが、
 
    例えば、
    諸君がこうした問題について、
    実際にこれこれの立場を取ったとする。
 
    ところで、
    もし、諸君がこの立場を 実際上貫徹するためには、
    学問上の経験から、
    これこれの手段 を 用いねばならない。
 
    ところが、
    その手段は、

    まさに諸君の避けねばならぬ 
    と、思うものであるかも知れない。
 
    そうした場合、
    諸君は、
    目的 と そのための不可避的な手段 との間の選択 を
    行わなければならない。
 
    目的が、
    この手段を「神聖にする」かしないか。
 
    教師は、
    この選択の必然性 を
    諸君に 教えることは出来るが、
 
    教師が、
    扇動家になるつもりがない以上、
    それ以上のこと を 教えることは 出来ない。
 
 
    このことは、
    技術家にとっても起こりうる問題である。
 
    技術家は、
    損失をなるべく少なくして、効果をなるべく大きくするという
    原則に従った手段のいかんを
    決定しなければならない。
 
    ただ、
    技術家は、
    いつも 目的が与えられているが、
 
    こうした目的は、
    真に「究極的」な問題を取り扱おうとする限り、
 
    我々教師の場合には与えられない。
 
 
    かくて、
    我々は、

    明確さということのためになし得る学問の最後の寄与に
    到達する。
 
    そして、同時に、
    これが、
    学問のなし得ることの限界ともなるのである。
 
 
    即ち、
    我々は、

    諸君に、次のことを言明しうるし、
    また、
    しなくてはならない。
 
    これこれの実際上の立場 は、
    これこれの究極の世界感情の根本態度
    (それは、
     唯一のものでも、また、様々の態度でもあり得る)から、
    内的整合性をもって、
 
    従って、
    自己欺瞞なしに、
    その本来の意味を辿って導き出されるのであって、
 
    決して、
    他のこれこれの根本態度からは
    導き出されないということが、それである。
 
    このことは、
    比喩的に言えば、こういうことである。
 
    もし、君たちが、
    これこれの立場を 取るべく 決心すれば、
 
    君たちは、その説く神にのみ仕え、
    他の神には侮辱を与えることになる。
 
    何故ならば、
    君たちが、自己の忠実である限り、
 
    君たちは、意味上必然的に、
    これこれの究極の結果に到達するからである。
 
 
    学問にとって、
    このことは、少なくとも原則上可能である。
 
 
    そして、
    我々も又、我々の任務をわきまえている限り、
    各人に対して、
    彼自身の行為の究極の意味について
    自ら責任を負うことを しいることが出来る。
 
    もし、ある教師が、このことが出来たならば、
    彼は、
    「道徳的」な力に仕えているのであり、
    明確さと責任感を与えるという義務 を、

    果たしているのである。
 
 
    もとより、
    ここに述べたような考えは、
    人生が、
    その深層において理解されている限り、
 
    かの神々の間の永遠の争いからなっているという
    根本の事実に基づいている。
 
    比喩的でなく言えば、
    我々の生活の究極のよりどころとなり得べき立場は、
 
    今日 全て 互いに
    調停しがたく、また、解決しがたく 相争っている
    と、いうこと、
 
    従って、
    我々は、

    当然 これらの立場のいずれかを
    選定すべく余儀なくされている ということ、
    が、それである。
 
    この様な事情の下にあって、
    学問が、
    誰かの「天職」となる価値があるかどうか、ということ、
 
    また、
    学問それ自身が、
    何かある客観的に価値ある「職分」をもつかどうか
    ということ、
 
    これは、
    一つの価値判断であって、
 
    この点については、
    教室では何事も発言しえないのである。
 
    何故なら、
    教えるものの立場にとっては、
    この点を肯定することが、その前提だからである。
 
    私自身、
    もとより、自分の仕事を通じて、この点を肯定している。
 
    そして、
    かの主知主義を、
    最悪の悪魔として嫌う立場にとっても、
 
    また、そうであり、
    否、
    こうした立場にとってこそ、特にそうなのである。
 
 
    学問が、
    今日 専門的に従事されるべき「職業」として
    諸々の事実的関連の自覚 及び 認識を
    役目とするものであり、
 
    従って、それは、
    救いや啓示をもたらす占術者や預言者の贈り物や、
    世界の意味に関する
    賢人や哲学者の瞑想の産物ではない
    ということは、
 
    もとより
    今日の歴史的状況の不可避的事実であって、
 
    我々は、
    自己に忠実である限り、これを否定することが出来ない。
 
 
    もし、ここに再び かのトルストイが現れて、
    学問が、それをなし得ない以上は、
 
    例の
    「我々は、一体何を為すべきか、
     また、
     如何に 我々は生きるべきか」
    という問い
 
    ・・・あるいは、今夜 ここで使われた言葉で言うならば
    「相争っている神々の 何れに 我々は、仕えるべきか、
 
     また、
     もし、それが、
 
     これらの神とは 全く違ったもの であるとすれば、
     一体 それは 何物であるか」
 
   という問い・・・
 
   に、答えるものは誰か、と尋ねたならば、
 
   その時、諸君は、
   「それは、ただ預言者か救世主だけである」
   と、答えるべきである。
    (「岩波」61㌻~66㌻)
 
 
 
  第4点  「神学」と「他の学問」との違い
 
 
  ① 西洋の全ての神学は、
    ギリシア精神に基づいている。
    あらゆる神学は、
    宗教的な救いの主知的合理化に他ならない。
 
 
  ② いかなる学問も、
    絶対に、無前提的ではないのであるが、
 
    その前提を拒否する者に対して、
    自己の基本的価値 を 証拠立てることは出来ない。
 
    ところが、
    「神学」は、自己の仕事のために、
 
    従って、また、
    自己の存在理由を証拠建てるために、
 
    更に、
    2、3の特殊な前提を所有するのを常とする。
 
    全ての神学が有するものとは、
    「世界は何らかの意味をもっているに違いない」
    という前提であり、
 
    従って、
    全ての神学にとっての問題は、
    それが合理的に納得されるためには、
    この意味は 如何に解釈されるべきか、

    ということである。
 
    それは、
    丁度(神学以外の他の学問である)カントの認識論が
 
 
    「学的真理は存在し、かつ それは妥当する」
    という前提から出発して、
 
    次いで、
    このことは、どのような条件の下で合理的に可能であるか
    を、その問題としたのと同様である。
 
    また、ルカーチなどの現代の美学者らが、
    「芸術品は、確かに存在する」という前提から出発して、
 
    このことは、
    どのようにして合理的に可能であるか
    を、問題としているのとも同様である。
 
 
    しかし、
    神学は、

    一般に、この様な前提だけで満足するものではない。
 
    神学は、
    普通 更に、

    一定の「啓示」が、救いのための重要な事実として、
 
    従って、
    「啓示」によって初めて意義ある生活が可能になる
    というような事実として、
    端的に信じられるべきであること、
 
    また、
    特定の精神状態や行為が、
    神聖とされる資格 を 有すること、
 
    つまり、
    それが、

    宗教上意義ある生活と、その諸要素を形成すること、
    等を前提する。
 
 
    かくて、
    神学にとっての問題は、
 
    これらの端的に承認されるべき諸前提は、
    一つの全体的世界像の中で、
    どのようにして意義あるものと 解されうるであろうか、
    ということである。
 
 
    ところで、
    あたかも、この前提こそが、
    神学にとって、
    「学問」であることの彼岸にあるものなのである。
 
    それは、
    普通いう意味の「知識」ではなくて、「所有」である。
 
    だからして、
 
    それら、
    つまり、
    信仰やその他の神聖な状態を、
    「所有」しない者にとっては、
    神学自身によって、
    それの代用をさせるわけにはいかない。
 
    まして、
    他の学問では 到底駄目である。
 
 
    それどころか、
    一般に「既成の」神学では、
 
    信者らは、
    例のアウグスチヌスの
    「不合理なるが故に、我は信ず」という句に
    相当するような境地にまで到達するのである。
 
    この様な「知性の犠牲」の達人となる能力は、
    既成宗教の信仰を持つ人々の決定的特徴である。
 
 
    そうであるとすれば、
 
    この事実は、
    「学問」の価値領域と、
    宗教的救いのそれとの間の争いが、
 
    神学があるにもかかわらず
    否、
    むしろ神学があるが故に、
 
    調停されがたいものであることを、示している。
 
 
    「知性の犠牲」は、
 
    預言者に対して 帰依者らが、
    また、
    教会に対して信者らが、
 
    これを捧げる場合にのみ正当である。
    (「岩波」67~70㌻)
 
 
 
2.「大学教師」についての ウェーバーの記述
 
 
  第1点
 
 
  大学では、
  多くは凡庸な人々が幅をきかしている という事実がある。
 
  教授は、選挙によって選ばれるために、
  教皇選挙やアメリカ大統領の選挙と同じように、
 
  第1の候補者よりも、
  普通には、
  むしろ第2ないし第3の候補者が当選することが多い。
 
  しかし、驚くべきは、
  この様にして選ばれるにもかかわらず、
  いつも適任者が任命されることの方が多い
  ということである。
  (「岩波」16~17㌻)
 
 
  第2点
 
  大学教師は、
 
  学者としての資格 と、
  教師としての資格 が、求められるが、
 
  この2つの資格は、決して常に合致するものではない。
 
  非常に優れた学者でありながら、
  教師としては全く駄目な人もあり得るのである。
 
  例えば、
  ヘルムホルツやランケのような人がそうであった。
 
  しかも、
  この様な人々は、決して特別の例外ではないのである。
  (「岩波」18㌻)
 
 
 
  学問上の諸問題を、
  頭はあるが未訓練の人々に理解させ、
  かつ、
  これらの問題を自ら考えていくように解説するということは、
 
  恐らく、
  教育上最も困難な課題であろう。
 
  こうした解説の技術は、結局、個人的な天賦であって、
  これは、
  何ら、学者としての資質と一致するものではない。
  (「岩波」20㌻)
 
 
  第3点
 
  ひとり、自己の専門に閉じ籠もることによってのみ、
  自分は、後々まで残るような仕事を達成したという、
  恐らく、生涯に二度とは味われぬであろう様な
  深い喜びを感じることが出来る。
 
  第三者には、
  凡そ馬鹿げている三昧境に浸る「情熱」を持たない人、
 
  つまり、
  ある写本のある箇所について
  「これが、何千年も前から 解かれないできた、
   永遠の問題である」として、
  何事も忘れてその解釈をえることに熱中する
  といった 心情がない人 は、
 
  学者には向いていない。
 
  「情熱」は、
  所謂「霊感」を生み出す地盤であり、
 
  「霊感」は、
  学者にとって決定的なものである。
 
  近頃の若い人は、
  学問が、
  まるで実験室か統計作成室で取り扱う計算問題に
  なってしまったかのように考える。
 
  こうした人たちの大部分が、
  工場とか、実験室で、
  どのようなことが行われているかについて、何も知っていない。
 
  実験室でも、
  また、
  工場でも、
 
  何か有意義な結果を出すためには、
  いつも、
  その場に適した 「ある思いつき」を必要とするのである。
 
  とはいえ、
  この思いつきは、無理に得ようとしても駄目なものである。
 
  一般に、思いつきというものは、
  人が精出して仕事をしているときに限ってあらわれる。
 
  思いつきは、
  作業の役をつとめるわけにはいかない。
 
  しかし、他方では、
  作業が、思いつきの代わりをしたり、
  また、
  これを強いたりすることも不可能である。
 
  同様に、
  情熱だけで、思いつきを生み出すことも出来ない。
 
  作業と情熱とが、
  特に、この両者が合体することによって、
  思いつきを誘い出すのである。
 
  だが、
  思いつきは、
  謂わば、その(思いつきの)欲するときにあらわれる。
 
  思いつきは、
  我々の意のままにはならない。
 
  即ち、
  人が机に向かって穿鑿や探求に余念無いようなときではなく、
 
  たばこを吸ったり、
  散歩をしていたりしていて、
 
  人が期待していないようなときに、突如として現れるのである。
 
  とはいえ、
  こうした穿鑿や探求を怠っているときや、
  なにか熱中する問題を持っていないようなときにも、
  思いつきは、出てこない。
 
 
  それはともかく、
  こうした「霊感」が与えあれるか否かは、
  謂わば、
  運次第の事柄である。
 
  学問に生きる者は、
  この点でも、僥倖の支配に甘んじねばならない。
 
  優れが学者でありながら、
  良い思いつきを持つことができない人もある。
 
  学問上の霊感は、誰にでも与えられるものではない。
 
  潜在的な宿命のいかんによって違うばかりではなく、
  特に、「天賦」のいかんによっても、違うのである。
  (「岩波」22~27㌻)
 
 
  第4点
 
  「政策」は、教室で取り上げるべきではない。
  (「岩波」47㌻)
 
  ① 学問的立場から、政策を取り扱っている場合、
    ことに、教室では政策について取り上げるべきではない。
 
    何故なら、
    実践的政策的な立場設定と、
    政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、
    全く別のことだからである。
 
    勿論、
    一般民衆の政治的集会などでは、
    自分の個人的な立場を隠さないのが普通である。
 
    否、
    明らかな党派的態度こそは、
    こうした場合のいまわしい義務であり、責任である。
 
    こうした場合に使われる言葉は、
    決して、学問上の分析に用いられることがではなく、
 
    人々を、
    同じ党派的立場に引き入れようが為の政策的手段であり、
    反対派の人々に向けられた剣、
    つまり、武器である。
 
 
    講義の中で、従って、教室で、
    この種の言葉を使ったならば、
 
    それは、
    許すべからざる濫用であろう。
 
 
    教室では、
    例えば、「民主主義」について語る場合、
 
    先ず、
    その種々の形態をあげ、
 
    その各々(の形態)が、
    その働きにおいてどう違うかを分析し、
 
    また、
    社会生活にとって、
    その各々がどのような影響を及ぼすかを確定し、
 
    ついで、
    他の民主主義を取らない政治的秩序を、これらと比較し、
 
    この様にして、
    聴講者達が、民主主義について、
 
    各自、その究極の理想とするところから、
    自分の立場を決める上の拠り所を発見するように
    するのである。
 
    この場合、誠の教師なら、
    教壇の上から、聴講者に向かって、
    何らかの立場を強いるようなことのないように、
    用心するであろう。
 
    何故なら、
    「事実をして語らしめる」という建前にとって、
    この様な態度はもとより、最も 不誠実なものだからである。
    (「岩波」48~49㌻)
 
 
  ② 大学で、教鞭をとる者の義務は何かということは、
    学問的には何人にも明示し得ない。
 
    彼(大学教師)に求め得るものは、
    ただ知的廉直(尾高訳、出口訳では、「知的誠実」)
    ということだけである。
 
    即ち、
 
    一方では、
    事実の確定、
 
    つまり、
    諸々の文化財の数学的 あるいは 論理的な関係
    及び
    それらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ。
 
    他方では、
    文化一般 及び ここの文化的内容 の 価値いかんの問題、
    および、
    文化共同社会 や 政治的団体の中では、
    人は、如何に行為すべきかの問題の答えること。
 
 
    この二つのことが、
    全然異質的な事柄であるということを、
    よくわきまえているのが、
    それである。
 
    もし、これに対して、
    更に 人が、
 
    何故 教室では、
    このどちらもが、同様に取り扱われてはならないのか、
    と、尋ねたならば、
 
    これに対して、
    預言者や扇動家は、
    教室の演壇に立つべき人ではないからである、
 
    と、答えられるべきである。
 
 
    預言者や扇動家に向かっては、
    普通
    「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、
 
    つまり、
    そこ(街頭)では、批判が可能だからである。
 
    これに反して、
    彼の批判者ではなく、
    彼の傾聴者にだけ面して立つ 教室では、
 
    預言者や扇動家としての彼は沈黙し、
    これに代わって、
    教師としての彼が語るのでなければならない。
 
    もし、教師たるものが、
    こうした事情、
 
    つまり、
    学生達が定められた課程を修了するためには、
    彼の講義に出席しなければならない

    ということや、
 
    また、
    教室には、

    批判者の目を持って彼に対する何人もいない
    ということなどを利用して、
 
    それが、教師の使命であるにもかかわらず、
    自分の知識や学問上の経験を、
    聴講者らに役立てたせる代わりに、
    自分の政治的見解を、
    彼らに押しつけようとしたならば、
 
    私は、
    それは、教師として無責任極まる殊だと思う。
 
 
    私は、
    学問の歴史に徴して、
    主観的な価値判断を事とする学者がいるときには、
 
    決まって、
    事実の真の認識が、やまってしまう
    (出口訳「事実の完全な認識が出来なくなる」)
    ということを、
 
    立証したいと思う。
    (出口訳「証明できる。」)
    (「岩波」49~51㌻)
 
 
 
  ③ 有能な教師たる者が、
    その任務の第一とするべきものは、
 
    その弟子達が、都合の悪い事実、
    例えば、
    自分の党派的意見にとって都合の悪い事実のようなものを
    承認すること を、教えることである。
 
    もし、大学で教鞭をとる者が、
    その聴講者達を導いて、
    こういう習慣をつけるようにさせたならば、
 
    彼の功績は、
    単なる知育上のそれ以上のものとなるであろう。
 
    私は、
    敢えて、この様な功績を言い表すのに
    「徳育上の功績」という言葉を持ってしよう。
 
    勿論、それは、
    教師としては、全く当たり前のことであって、
 
    これほどまでに言うのは、
    恐らく やや誇大にすぎるであろうけれども。
    (「岩波」53㌻)
 
 
  ④ これまで、私は、
    個人的な立場を人に強いることについて、
    専ら実際上の理由から、
    これを避けるべきであると論じてきた。
 
    だが、
    これを避けなければならぬ理由は、以上に尽きない。
 
    実際上の立場を「学問的に」主張することが出来ない
    ということは、
    もっと深い理由によるのである。
 
    というのは、
    今日 世界に存在する様々の価値秩序は、
    互いに解きがたい争いの中にあり、
 
    それ故に、
    個々の立場を、

    それぞれ学問上支持することは、
    それ自身、無意味なことだからである。
    (「岩波」53~54㌻)
 
 
    諸々の価値秩序の 神々を 支配し、
    神々の争いに、決着をつけるものは、
 
    運命であって、
    決して「学問」ではない。
 
 
    学問が、把握しうることは、
 
    それぞれの秩序(価値秩序)にとって、
    あるいは、
    それぞれの秩序(価値秩序)において、
 
    神にあたるものは何であるか
    ということだけである。
 
 
    教室で、教師が行う講義も、
    この点を理解させることが出来れば、
    その任務は終わるのである。
 
    もとより、
    その講義の中に隠されている 重大な人生の問題は、
    これで片付いたわけではないが、
 
    この点については、
    大学の教壇以外の所にある 別の力が物をいうのである。
 
 
 
    実際、だれか、
    敢えてキリストの山上の垂訓における倫理、
 
    例えば、
    「悪しき者に手向かうな」のような句や、
    「人、もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」
    のような譬えを、
 
    「学問上反駁」しようと試みるものがあろうか。
 
    しかも、
    これを、俗世間的立場から見るとき、
    ここで説かれているのは、
    明らかに卑屈の道徳である。
 
    それ故、
 
    人は、
    この教えに従って、宗教上の体面を保つか、
 
    あるいは、
    男子の体面を守るために、何かこれとは全く違った教え、
 
    例えば、
    「悪しき者に抵抗(さから)へ、
     然らずんば、汝は、その悪事の共犯者たるべし」
    というような教えに従うか、
 
    のいずれかを、選ばなければならない。
 
    即ち、
    各人が、その拠り所とする 究極の立場のいかんに応じて、
 
    一方は、悪魔となり、
    他方は、神となる。
 
    そして、各人は、
    そのいずれかが、彼にとっての神であり、
    そのいずれかが、彼にとっての悪魔であるかを、
    決しなければならない。
 
    しかも、
    これは、

    我々の生活の全ての秩序について 言えることである。
    (「岩波」55~56㌻)
 
 
  ⑤ 一部の青年達が犯している誤りは、
 
    「我々は、
     ただの分析や事実の確定ではない 何かあるものを
     体験したくて 講義に出ているのだ」
    という風に、答える場合、
 
    彼らは、
    講義者の中に、

    教師ではなく、指導者を求めていることである。
 
    ところが、
    我々が教壇に立つのは、教師としてのみである。
 
    教えることと
    指導することとは、別の事柄である。
    (「岩波」57~58㌻)
 
 
    ある人を、
    偉い学者や大学教授たらしめる性質は、
 
    彼を、
    実際生活上の、
    就中、
    政治上の指導者たらしめる性質とは違うのである。
 
    もし、
    教壇に立つ人の全てが、

    学生達の無理な期待に応えて、
    指導者としての性質を働かそう などと、考えたならば、
 
    それは、
    極めて憂慮すべき事である。
 
 
    だが、
    それ以上に憂慮すべきは、
 
    教室で指導者ぶることが、
    一般に 大学教授に放任されている場合である。
 
    何故なら、
    自分自身を、指導者だと思っている人ほど、
    実際には、そうでないのが普通であり、
 
    また、
    教壇に立つ身としては、
 
    自分が、
    実際に指導者であるかどうかを、
    証明すべきいかなる手段も
    与えられていないからである。
 
 
    ある大学教授が、
    自分の天職を、学生達に対する助言者たることである
    と、考えていて、
 
    しかも、
    彼ら(学生達)の信頼を受けているようなばあいには、
 
    彼(大学教授)は、
    学生達との個人的なつきあいにおいて、
    彼ら(学生達)の為に尽くしてやるがいい。
 
    もし、また、
    彼(大学教授)が、
 
    世界や党派的意見の争いに関与することを、
    自分の天職と 考えているならば、
 
    彼(大学教授)は、
    教室の外に出て、実生活の市場において
    そうするがいい。
 
    つまり、
    新聞紙の上とか、集会の席とか、
 
    または、
    自分の属する団体の中とか、
 
    どこでも自分の好きなところでそうすいるがいい。
 
 
    だが、
    聴き手が、
 
    しかも、
    恐らく自分と意見を異にするであろう聴き手が、
    沈黙を余儀なくされているような場所で、
 
    得意になって、自分の意見を発表するのは、
    余りに勝手すぎるというものであろう。
    (「岩波」59~60㌻)

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2012年7月23日 (月)

2012年7月ドイツ旅行・・・ドイツ鉄道とケルン駅の女スリ

2012年 7月3日から12日まで、家内とドイツに行ってきました。

年寄り旅行のため、フランクフルトをベースに、

前半は、ライン下り、
後半はベルリンと、
旅行を2つに分けて、ゆったりとしたスケジュールにしました。

最初は、
フランクフルト→プラハ→ベルリン→フランクフルトを計画していたのですが、

一筆書きの旅程だと
海外旅行用の大きなトランクをずっと持ち運びせねばならなくなるので、

フランクフルトのホテルに大きなトランクを預けて、
2,3泊の小旅行を2つとしたのでした。

ドイツは、
フランスより日本人には親しみを持てる国だな、と改めて感じました。

一つには、
英語がフランスより通じることもあるのでしょうが、

親切心の表し方が日本人により親近感を感じさせるものでした。

観光の内容については、皆さんご承知のことばかりだと思いますので、

今回の一番のメインだったドイツの鉄道旅行を中心に、
感じたことを ご報告させて頂きます。



   **********




< ドイツの鉄道 >

  ドイツの鉄道は、全般的には、
  フランスの鉄道よりくつろげるし、設備的にも不満の点が少なかったので、
  今までフランスのTGV中心に旅行してきた経験より快適な旅行ができました。


  ドイツの新幹線であるICEは、
  「のぞみ」登場前の新幹線と同じレベルの感じがしました。


   (「のぞみ」は、現在の鉄道の到達点であり、

    早さだけでなく、快適さと運行の正確さにおいても
    他のの鉄道を遙かに引き離した世界最高峰と言っても過言ではない
    と、思います。


    他の国が「のぞみ」レベルに到達するのは可能でも、
    「のぞみ」を抜くのは、リニアモーターカーだけでは、想像しています。)


  ドイツでも、フランス同様日本のサーヴィス、方法を取り入れて、

  車内放送が行われ、
  車内や駅での案内も昔と比べて大幅に改善されている感じがしました。


  ただ、率直に申し上げて、

  言葉の問題や習慣の慣れを除いたとしても、
  日本の鉄道旅行と比べてストレスを感じる旅であったことは否めません。



  ストレスを感じる原因を いくつかご紹介させて頂きます。



  1.長距離列車は、遅れが常態化している


    今回の旅行で、長距離列車を3ルート、6回乗車しました。

    第1回 ケルン→マインツ乗換→フランクフルト空港駅
    第2回 フランクフルト空港駅→ハノーヴァー乗換→ベルリン
    第3回 ベルリン→フランクフルト中央駅乗換→フランクフルト空港駅


    第1回目の2つの列車は、共に30分遅れでした。

    第2回目の2つの列車は、
    最初の列車が30分遅れ、ハノーヴァーで乗り換えた列車が15分遅れでした。

    第3回目の2つの列車は、定刻で運行されていましたが、
    ベルリン中央駅で乗車する際に、
    前の列車が遅れのためホームを占拠していたので、
    隣のホームに入線してきました。


    列車を待つ間、列車のj情報は、ホームの掲示板にですのですが、
    あまりあてにならないのです。

    例えば、
    定刻より30分過ぎでも、案内板には25分遅れですと表示されていました。


    言葉が分からないものですから、いつ来るかもありますけど、
    このホームに列車が来るのか来ないのかも含めて、
    待っている間のストレスがたまりました。



    第1回目に マインツ駅で待っている間、家内が次のような話をしました。

    「大分以前に、ドイツの国鉄が、
     そのダイヤに従うと、確実に衝突するダイヤ改正をしたことがあった。

     日本だと、
     鉄道マニアがダイヤ改正されるとすぐチェックして、
     このダイヤだと衝突するよと、JRに指摘するのだけれど、

     ドイツではそのようなこともなく、ダイヤ改正の日を迎えたのだが、
     衝突事故は起きなかった。

     翌日も、その次の日も衝突が起きず、
     10日目に衝突事故が発生した。

     10日目には、ダイヤ改正後初めてダイヤ通り運行がされたのだった。」


    私は、この話を、
    遅延が常態化しているドイツ国鉄を皮肉った小話だと思ったのですが、

    後日、この話が話題になったとき、
    家内がまじめな顔で「実際にあった話だ」と言ったのには
    仰天してしまいました。

  2.指定券の号車が、ホームのどの部分に停車するのか分からない。


    今回の旅行では、
    ドイツ鉄道日本総代理店の「鉄道の旅」社さんに、
    ジャーマンレイルパス1等車と指定券を手配して頂きました。

    非常に懇切丁寧な手配や質問に対するご返事を頂き、大変感謝しています。
    「鉄道の旅」社さんには、改めて厚く御礼申し上げます。


    最初に面食らったのは、
    ボンからケルンに行く近郊列車に乗る際でした。


    1等車が、ホームのどのあたりに停車するか、
    皆目見当がつかないのです。

    ボンからケルンまでは 乗車時間が20分なので、
    高を括って ホームの真ん中辺りで待っていると、
    1等車は、先頭の車両でした。


    ある程度ドイツの鉄道に慣れてから分かったことは、

    日本のグリーン車は、真ん中辺りに連結されていることが多いのですが、
    ドイツでは、列車の先頭か最後尾の車両に1等車が連結されているのです。



    家内は足が悪いし、列車の発車のベルがドイツではありませんので、
    とりあえず、目の前の車両に乗車して、1等車の方向に車内を移動しました。

    途中、2人掛けの前向きの席が空いていましたので、
    そこに座ってケルンまで行きました。


    ケルンで乗り換えて、アーヘンまで行ったのですが、

    ケルン駅で、ホームにいた駅員に1等車の停車位置を聞いて、
    1等車に乗ることができましたが、乗車の際に、スリ被害に遭うところでした。

    この件の経緯は、後ほど 3.で ご報告させて頂きます。



    長距離列車は、近郊列車と異なり、ホーム毎に

    そのホームに停車する列車が、ホームのどの位置に停車するかが
    掲示されています。

    ホームをA、B、C、D、E、・・・と区分して、
    ホームには、ここがAだよ、とかBだよと、看板が出ています。


    ですから、事前にそれを確認しておれば、
    目的の号車近くで待つことができるのですが、

    掲示通り列車が来ないことがあるので、ストレスがたまってしまいました。


    掲示通り来ない列車というのは、
    短い2つの編成が1つの列車として連結されている列車でした。


    ハノーヴァーからベルリンに行くとき、この経験をしました。

    この列車は、
    ICE941という列車と、ICE951という列車が連結されていたのですが、

    ホームで掲示と実際の連結が、逆になっていたのです。

    我々は、後ろの連結の編成の列車の先頭車に乗る予定でしたが、
    実際には、前に連結されていたので、


    最初、何が何だか分からずパニックになりました。

    編成と編成の間は、連結器でつながれていて、移動できないので、
    間違った編成の車両に乗車すると、指定席にたどり着けないのです。


    ホームの駅員に聞くと、前の方だと指さしますので、
    ホームの掲示と異なる 前の編成の車両に飛び乗りました。

    通路を伝って、先頭車まで行こうと思ったのですが、
    列車に乗ってみると、通路に人がたむろしていて前に行けないのです。


    ドイツでは、座席指定された以外の座席は、自由席ですので、
    座席指定券を持っている人が着席してから、自由席の人が着席するのです。

    その間、通路に人がたむろして、しばらくの間移動ができなかったのです。

    列車が動き出して、しばらくしてから通路が空きましたので、
    やっと移動できました。


    日本だと、指定席の車両と、自由席の車両が分かれていますので、
    気が動転しているときに、このような状況に遭遇して、大変面食らいました。



    同じ経験を、ベルリンからの帰りに経験しました。


    フランクフルト中央駅からフランクフルト空港駅に移動する際、

    ホームの掲示では、先頭車両が1等車だというので、待っていると、
    入ってきた列車の1等車は、最後尾の車両でした。


    (フランクフルト中央駅は、列車が折り返す方式の駅で、

     ホームに入ってきた列車の先頭車(折り返すときには最後尾の車両)に
     連結されている1等車が目の前を通り過ぎるのを見て、吃驚しました。)


    家内が足が悪いし、1駅の乗車ですので、目の前の2等車に乗車しました。

    このように、折角1等車の切符を持っていたにもかかわらず、
    今回の鉄道旅行の最初と最後は2等車に乗車する羽目となりました。 




  3.ケルン駅の 女スリ


    それは、ケルンからアーヘンへの列車に乗車する際でした。


    待っている列車が、30分ほど遅れたため、
    ずっとホームのベンチで待っていました。


    ドイツのホームは、日本のホームより幅が狭く、
    そのホームは、頻繁に列車が到着するホームでしたので、
    ホームが大変混雑していました。


    遅れてやっときた列車に乗車しようと、1等車の車両に行くと
    その列車は2階建車両で、出入り口が通常の倍ほどあったのです。

    その出入り口に、乗車しようとした乗客が群がり、
    列車から降りようとする乗客と乗り込もうとする乗客がせめぎ合って、
    スムーズな乗降ができかねていました。


    私はというと、
    2階建車両がどうなっているのか、列車に注目していました。

    よく見ると、1階が2等車で、2階が1等車なのです。


    雑踏の中で、1等車は2階だねなどと家内と話しながら、
    ほつれた糸をほぐすように列車に乗り込もうと、

    足の悪い家内を支えながら、徐々に前に進んでいくと、
    家内が「ぎゃー」と大きな声を突然上げたのです。


    何が起きたのかと、はっとして身の回りを見ると、

    若い女の子が、
    私ショルダーバックのチャックを開けて、手を突っ込んでいたのです。


    家内が、とっさに女スリの手首をつかんだら、
    バックから手を抜いて、

    その手に持っていたハンカチを何気なしに動かしていたというのです。


    ショルダーバックに手を突っ込まれただけでしたので、
    言葉もできないし、そのまま列車に乗り込みました。


    女スリも、一緒に乗り込んで、隣の車両に行ってしまいました。


    去年パリの地下鉄では、若い女性の3人組の犯行でしたが、
    今回のスリは、若い女性1人の単独犯行でした。

    去年と同じように、人種的にはヨーロッパ系の女性ではなく、
    アラブ系かロマ系(ジプシー)のような感じがしました。


    ドイツも、注意せねばならないとは考えていましたが、

    慣れない列車の旅で、色々初めての経験をしている最中でしたので、
    注意が行き届かなくなったのです。


    すんでの所で被害に遭わなかったのは、

    ① ショルダーバックを、体の前に抱えるようにしていたため、
      横にいた家内が、スリに気がついたこと

    ② 金目のものは、バックの内側のチャックに入れていたので
      表側のチャックを開けただけでは、お金を取られることはなかったこと
      だろうと思います。


    でも、注意はしていても、他のこと(今回は列車)に気をとられると、
    注意が行き届かなくなるなと反省しています。



    多分、あのホームで、日本人である我々は目立ったのでしょう。

    家内の足が悪くて、私が介助しながら動いているのを見て、
    これはカモだ思われたのだろうと思います。


    最近ヨーロッパで日本人と出会う頻度が、大変少なくなっていますので、

    だからこそ、
    スリのターゲットになりやすくなったのかもしれません。 



  その他、印象に残ったことをいくつかお話しさせて頂きます。


  1.ドイツ人は、自転車がお好き

    日本の鉄道と、一番異なっているのは、
    ホームに自転車を持ち込む人が多かったことです。

    そう言えばと、列車を見ると、
    自転車のマークのつけた車両が、列車編成の中に、必ずありました。


    駅まで自転車で来て、
    列車に乗り込むのだろうと思われる人が多かったのですが、

    背中にリュックをしょって、
    目的地で自転車旅行をするのだろうと思われる家族ずれも見受けられました。


    ドイツは、日本と違って平坦な国ですので、
    健康のため、特に自転車が人気があるのだな、と感じた次第です。



  2.列車の設備面の不具合


    TGVみたいに、

    トイレのドアが動かなくなったり、
    トイレのにおいが車両中に広がるというようなことはありませんでしたが、

    列車が 駅に停車したので降りようと、ドアの青いボタンを押したら
    ドアが開かず、慌てて隣の車両から降りたことがありました。


    日本も地方に行くと見かけますが、
    ドイツの列車は、自分でドアを開け閉めするのです。

    ホームで列車を待つ間 見ていると、他の列車でも、

    青いボタンを押してもドアが開かず、
    隣のドアから乗り込んでいる人を見かけました。

    この点は、ドイツの列車旅行をする際に、
    ちょっと頭に入れておかれた方が良いと思います。



  3.前向きの座席

    ドイツも、フランス同様、座席は固定されたままで、
    進行方向に対して後ろ向きの座席がありました。

    家内が、後ろ向きの座席だと 車酔いとなるため、
    「鉄道の旅」社さんに、何とかならないかとお願いしたのですが、

    実際に現地に行ってみて、
    前向きの座席を事前に確実に予約するのは無理だということが、
    良く分かりました。


    「鉄道の旅」社さんは、無理な注文に良くお答え頂いて、
    向かい合った座席を予約して頂きました。

    多分、向かい合った座席を予約できるまで、
    何度もキーをたたくご努力をして頂いたのだろうと、感謝しています。

    ヨーロッパの旅をすると、
    日本の列車が全て前向きの座席となっているありがたさを痛感しています。



  4.車窓の景色・・・風力発電と原子力発電所


    ヨーロッパの車窓の景色が、現時点で一番異なるのは
    風力発電の風車が見られることです。

    ドイツは、
    フランスと比べても、風力発電に力を入れていることが良く分かりました。

    ハノーヴァーからベルリンへの途中、
    風車が100基単位で並んでいるのを見て、感心してしまいました。


    フランスでは、止まっている風車が何割かあるのが通例でしたが、
    ドイツでは、だいたい動いていて、稼働率の高さを感じられました。


    設置場所も、
    広い平原のど真ん中で、人家からも離れていて、
    低周波の問題も、これなら それほどではないだろう
    と、思われるロケーションであったことも感心した一つです。



    ケルンからマインツに行く左岸線とライン川の間に、
    2カ所 原子力発電所が設置されているのには、吃驚してしまいました。


    1カ所は、停止していたようでしたが、
    もう一つの発電所は、1基稼働していました。

    左岸線とライン川の本当に狭い場所に、
    左岸線が発電所の敷地の横を走る場所に、
    原子力発電所が設置されているのです。


    これでは、万が一でも原子力発電所で事故が発生したら、
    ライン川の水運や、鉄道がストップするだけでなく、

    そこに住んでいる人への影響も日本の何倍、何十倍になるのだろう
    と、感じられ、

    福島原子力発電所の事故により、
    ドイツで原子力発電所の稼働を停止しようとの話が本格化した理由が
    分かるような気がしました。


    また、想像ですが、

    あの日本人でさえ、津波による原子力発電所の事故をふせげなかったのだ、
    とのショックが、ドイツ人には大きかったのだろうという気がします。


    フランスも、ローヌ川のクルーズで見た限りでは、
    住宅地の横みたいなところに原子力発電所を立地させていましたが、

    現在の所、原子力発電所に対する信頼を維持しています。

    これから、注意深く経緯を見ていかねばならないな、という気がしています。



    ただ、フランスでも、ドイツでも、

    こんなに人家に近いところに、原子力発電所を設置してきた理由も
    考えてみる必要があるのでは、という気がしています。


    原子力に対して、
    単に、反対だとか賛成だと主張しあうだけでなく、

    原子力発電所は、

    ① 地震に対しては備えが十分だったのかどうか、
      活断層などの問題はないのか、
    ② 津波に対する備えは、どうすれば十分となるのか

    ③ テロに対する備えは、どうすれば十分となるのか 
    ④ 想像もしていない事態が生じた際にも、十分対応できるのか、

    等々、
    原子力をどんな場合にも安全に稼働させることが可能かどうかについて
    冷静に、技術的な議論をすべきだろうと思います。


    また、
    コストや地球温暖化も勘案して
    原子力発電に変わるべき代替エネルギーが

    ① いつ頃までに開発できるのか、
    ② いつ頃までに商業ベースの戦力となるのか
    等々も、

    地道に検討していかねばならないと思います。


    現状の日本の原子力を巡る動きは、
    賛成派、反対派の政治的思惑や動きに あまりにもてあそばされすぎていて

    「ちっとも前進していないのでは?
     まるで太平洋戦争開戦前の日本と同じではないか?」
    との危惧を持っているのは、私だけではないと思います。


    反対派は、
    ウソでも何でもいいから闇雲に反対を主張し、

    賛成派は、
    都合の悪いことを隠蔽し、東大話法を駆使して推進しようとすることを

    いい加減やめなければならないな、と痛感しています。


    「どうしたら、このようなことをやめさせることができるのだろうか?」
    実は、これが人類の永遠の重要課題の一つなのでしょう。

   

    話が脱線して申し訳ございません。
    ドイツで、こんなことを考えていました。

        
       

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2009年4月23日 (木)

アンヌ・ド・ブルターニュ

最近 渡辺一夫著作集を 第1巻より読み始めていますが、
第3巻の「胎児監理人」の話 という大変興味深い文章の中に、
アンヌ・ド・ブルターニュについて、次のような文章に出会いました。

「しかし、アンヌ王妃は、
 ルイ12世との間に男子相続人が生まれないことになった時、
 自分の資産であるブルターニュ公領を、
 ヨーロッパのしかるべき王家の嫡男に譲ろうと思い、

 当時 まだイスパニア王であった
 後の神聖ローマ・ドイツ皇帝カール5世に眼をつけ、
 これに娘クロード姫を嫁がせようとした。

 近代国家の誕生前のこと、
 所謂 国境よりも、割拠した諸王侯の勢力圏のほうがはっきりしていた
 封建時代 の 余韻が残っていることであったから、

 国境を固め、国防に全力をあげている
 現代の国家意識では律し得ないようなことが、起こりえた。」

 (「渡辺一夫著作集3」25㌻)


この文章を読んで、
アンヌの心境は、どんなものだったのだろうか、と、
天涯孤独で薄幸なアンヌへの同情が、従来にも増して強く感じられたのです。

アンヌ・ド・ブルターニュは、
1477年 に 誕生して
1514年 に 亡くなっています。

37才の誕生日まで あと約2週間 という
享年 36才の若さでした。

アンヌの両親は、アンヌが子供の時に没しています。

母のマルグリッドは、
1486年 アンヌが9才のときに亡くなっています。

父のブルターニュ公フランソワ2世は、
1488年 アンヌが11才のときに、
3年間にわたって ルイ・ドルレアン(後の ルイ12世)と共に 戦った
フランスとの戦いに敗れて

8月19日 ヴェルジュ条約を締結した 半月後 の
9月 9日 に、亡くなっています。

更に、
妹のイザボーも、
父が没してから2年後 の 1490年に亡くなっています。

父 フランソワ2世 が締結させられた、ヴェルジュ条約には、
アンヌは、
フランス王の許可なしには、結婚できないことになっていました。

これは、
ブルターニュ公国をフランスに併合するため、
フランスが、戦いに敗れたフランソワ2世に押しつけた条項でした。

国が敗れた上に、
身よりもない まだ小学生の年齢である 11才の アンヌが 引き継いだ
ブルターニュ公国は、

外には、
公国を併合しようとするフランスが控えていて、
内には、
フランスより利益供与を受けて、
自分の国より自己の利益を優先する大貴族が、反乱を繰り返していたのでした。

早速、
公国を引き継いだ アンヌに、

公国の総司令官で 後見人のリュー元帥 と、
アンヌの養育係の フランソワーズ・ド・ディナン (ラヴァル伯爵夫人)が、

フランソワーズ・ド・ディナンの異父弟 アラン・ダルブレとの結婚を、
強引に申し入れてきたのです。

これは、
4年前に 父 フランソワ2世が、アラン・ダルブレの軍事援助を期待して、
アンヌとの結婚 を 約束していたためですが、

彼らの目的 は、
この結婚によって ブルターニュ公国を奪取しようとすることだったのです。 

そうこうしているうちに、
年が明けた1489年1月初め フランスが、

ヴェルジュ条約を無視して、
ブルターニュ公国に宣戦布告し、攻め入ってきました。

更には、
1月半ばには、
リュー元帥 と フランソワーズ・ド・ディナン との 結婚話の交渉 が、決裂し、

彼らは、それではと、
アンヌに背いて、ブルターニュ公国のナントを拠点として
ブルターニュ公国 を 分裂させてしまいました。

アンヌは、
2月5日に レンヌでブルターニュ女公として即位していますが、
まさに、戦争の最中の即位でした。

この時のフランスとの戦いは、

イングランドやスペインからの援軍や、
ブルターニュ公国の住民の蜂起により、
フランス軍を押し戻し、

7月 フランス王 シャルル8世が、
フランスの北や東から攻められるのを避けれるために
マクシミリアン1世と締結した「フランクフルト条約」により、

アンヌが 両者から
ブルターニュ公国の君主として認められて、終了しました。

その翌年の
1489年3月から5月にかけて 2ヶ月間、

アンヌは、
ブルターニュ公国各地を巡幸しています。

この巡幸は、
明治天皇や昭和天皇の巡幸 と 同じような効果をもたらしたようで、

アンヌは、
その後ブルターニュの人々の心に「良き女公」として、記憶されたのでした。

その3月に、
ハプスブルグ家 の マクシミリアン1世が、アンヌに結婚の申し込みをしています。

マクシミリアン1世は、
ブルゴーニュ公 シャルル突進公の娘 マリアが没してから
再婚していなかったのです。

この結婚交渉がまとまって、
1489年12月19日に、
アンヌとマクシミリアン1世は、レンヌのサン・ピエール大聖堂で 結婚したのでした。

但し、
結婚式に、マクシミリアン1世は出席せず、
マクシミリアン1世にアンヌとの交渉に派遣された ボルハイム元帥が、
新郎 マクシミリアン1世の代理人として 出席したのでした。

アンヌは、
現在だったら まだ小学生の12才の年齢 で、
自分の判断で マクシミリアン1世との結婚を決断しているのです。

まだ子供といえるアンヌの双肩に、
ブルターニュ公国の将来が託されていたのです。

この時のアンヌの気持ちは、どんなものだっただろうと、
いろいろ考えさせられるものがあります。

この結婚を聞いた フランス王 シャルル8世は、激怒して、
すぐさま ブルターニュ公国に攻め入ってきました。

激怒した理由は、2つあります。

1つは、
アンヌの結婚にはフランス王の許可が必要と定めた
ヴェルジュ条約に違反していることです。

アンヌの今回の結婚は、
アンヌの結婚相手を指定して、フランスのものにできると思っていた
ブルターニュ公国を失うことになるのです。

もう1つは、
アンヌの結婚が現実になると、
ブルターニュ公国を自分のものにできないどころか、
敵対する マクシミリアン1世のものとなり、

フランスは、
西は ブルターニュ、
北は フランドル、
東は ブルゴーニュ と

マクシミリアン1世に3方面から包囲され、
フランスの安全が脅かされるからです。

「ヴェルジュ条約に違反する 」との シャルル8世の言い分は、
フランスが、
ヴェルジュ条約を締結してから半年も経たないうちに
ブルターニュ公国に宣戦布告していますので、
私には勝手なものと思われます。

でも、
歴史というものは、勝てば官軍なのです。

アンヌは、
マクシミリアン1世に救援を求めましたが、

ちょうど同じ時期に、ベーメン・ハンガリー王が亡くなり、
マクシミリアン1世は、
ハンガリー王の即位を主張して、戦っている時でしたので、

1491年3月のニュルンベルクの帝国議会で、
マクシミリアン1世が 父の 皇帝 フリードリヒ3世に、
ブルターニュ公国への救援を要請した時に、

「ハンガリー問題を解決せよ」と拒否されて、
アンヌへの救援に赴くことができませんでした。

このため、
アンヌは、レンヌに閉じ込められて、

10月に降伏して、
11月15日に「レンヌ条約」が締結されました。

この時、
アンヌは、シャルル8世との結婚に承諾させられ、

11月19日には 婚約式、
12月 6日には ロワール川中流の ランジェ城 で 結婚させられたのです。

この時の アンヌの気持ちは、どんなものだったのでしょうか。
特に、
マクシミリアン1世に対して、どんな感情を持っていたのか、
いろいろ想像させられます。

聡明な上に、
子供とはいえ 大変な苦労を重ねてきたアンヌのことですから、

「マクシミリアン1世が救援に赴いて来てくれなかったことに対して
 感情を害していなかったのでは?
 マクシミリアン1世への思いは 残っていたのでは?」
と、何とはなしに 思っていました。

「アンヌが、
 マクシミリアン1世の孫の カール5世 と 娘のクロードを結婚させようとした」
との 渡辺先生の文章を読んで、
2つの思い が 生じてきました。

1つは、
「やはりそうだったのか、
 マクシミリアン1世が 忘れられなかったのかな?」
との思いですが、

もう1つは、
「アンヌにとり最も重要だったのは、ブルターニュ公国の独立だったのだな」
との思いです。

どちらが正しかったのか、
はたまた、
両方とも正しかったのか、
これからアンヌの記述を読む際に、考えていこうと思っています。

アンヌは、
その後、ルイ12世と再婚していますが、
長くなりますので別の機会にお話しさせて頂きます。


ところで、
シャルル8世のアンヌとの結婚は、
マクシミリアン1世にとり、全くひどい話でした。

正式に結婚した妻を奪われたばかりでなく、
娘 マルグリットのシャルル8世との婚約が 解消されているのです。

マルグリットは、
シャルル8世が成人に達した 1490年頃より 王妃と呼ばれていたようです。

(日本の歴史書では、
 マルグリットの最初の夫は シャルル8世
 と 記述されているのが多いようです。)

シャルル8世とマルグリットは、
1482年12月 アラス協約により 婚約することになりました。

このアラス協約は、
シャルル8世の父 ルイ11世が、フランドルの市民と交渉した結果を、
マクシミリアン1世に押しつけたものでした。

当時 マクシミリアン1世は、
フランドルともフランスとも戦う力がありませんでした。

ちなみに、
マルグリットは、1480年に生まれていますので 当時2才の幼児でした。
(シャルル8世は、1470年生まれですので、12才です)

アラス協約は、
単なる「婚約の取り決め」だけでは ありませんでした。

ルイ11世は、
マクシミリアン1世の妻マリアの父 ブルゴーニュ公シャルル突進公が戦死した後、
ピカルディ、アルトワ 及び フランシュ・コンテ 等のブルゴーニュ公国の領土を、
火事場泥棒的に占領していたのでした。

マクシミリアン1世に押しつけた アラス協約には、
「これらの領土は、
 一度マクシミリアン1世に返還するが、
 マルグリットの婚資としてフランスのものとする」
との条項があったのです。

マクシミリアン1世の娘を奪うと同時に、
どさくさに紛れて簒奪した領土も、フランスのものにしようというものでした。

アラス協約の締結の半年後の1483年6月に 、
シャルル8世とマルグリットの婚約式の後、

マルグリットは、
人質同然に フランス アンボワーズ城に連れて行かれて、

その後
シャルル8世の姉 アンヌ・ド・ボージュ に養育されたのでした。

シャルル8世は、
アンヌとの結婚により、マルグリットとの結婚(婚約)は解消しましたが、
マルグリットの婚資の領土は 返還しようとしませんでした。

このため、マルグリットは、
1493年5月 サンリス条約で、婚資問題が解決するまで、
再度 人質同然に フランスに留め置かれていたのでした。

フランスは、
アンヌとマルグリットの2人の女性を天秤にかけて、
アンヌを選択したのではありません。

天秤にかけたのは、
ブルターニュ公国とマルグリットの婚資の領土でした。

フランスにとって、ブルターニュ公国は、
2人の王が
他の誰よりも優先して アンヌを妻にし、獲得するだけの価値があった領土なのです。

この2つの結婚により、
ブルターニュは フランスの領土となりましたが、

ブルターニュの人々は、
フランスの植民地支配に苦吟したそうです。

ですから、
アンヌの娘 クロードと、ハプスブルグ家の カール5世との結婚を、
フランス王家が認めるわけがありませんでした。

クロードは、アンヌが没した数ヶ月後、
ルイ12世の次のフランス王 フランソワ2世と結婚しています。

どうして
形だけでも クロードとカール5世との婚約が成立したのか、
しかも、
数年後 更に確認の条約まで締結されたのか、

訝しく感じ、
機会があったら調べてみたいなと思っています。


最後に、
カール5世の婚約者について 少しお話しさせて頂きます。

カール5世の祖父 マクシミリアン1世 は、
「最後の騎士」といわれた皇帝ですが、

その名にふさわしく、
国の存亡の危機に瀕した2人のお姫様から、救援を求められています。

1度目は、
白馬?にまたがって 駆けつけ、お姫様を救出して めでたく結婚したのですが、

2度目は、
それが かないませんでした。

これに反して、
孫のカール5世は、
赤ん坊の時から、ふられっぱなしで、かわいそうなくらいなのです。

先ほど述べたクロードとの婚約は、
1500年8月に成立しています。

カール  は、1500年2月に生まれ、
クロード は、前年の1499年に生まれています。

アンヌは、
カール5世が 生まれた直後に 話を進めて、
8月には 婚約まで持ち込んだのです。

しかも、
1504年 ブロワ条約で、婚約を確定させています。

ところが、
1506年に、
アンヌの2度目の夫ルイ12世により、この婚約が破棄されています。

カールにしてみたら、
生まれたての赤ん坊の時に約束された未来の奥さんが、

6歳の時に、
生涯の仇敵となるフランス王に奪われたのでした。

さらに、
カール5世の悲劇は続きます。

カール5世は、
その後、イングランド王の娘 メアリーと婚約したのですが、

このメアリーも、
アンヌ没後、フランス王ルイ12世に奪われてしまいました。

最初にご紹介した渡辺先生の「胎児監理人」の話は、
このルイ12世とメアリーの結婚後の話なのです。

このように、カール5世は、
人生の初めにおいて、自分の知らないところではありますが、
2度もフランス王家により 婚約者を奪われているのです。

カール5世は、
生涯フランスと戦い続けた皇帝ですが、
その戦いは、
実は 赤ん坊の時から始まっていたのでした。




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2008年7月22日 (火)

フス派 と ウィクリフ

歴史の中には、
「気にはなるけど、放置したまま」になってしまう事柄があります。

昔、高校で、
「ウィクリフの考え方が、
 イギリスへの留学生によりチェコに輸入され、
 フス派に影響を与えた」
と、学んで、

「フランスやイタリア等ではなく、
 何故
 チェコ人が、イングランドに 留学したのかな」

「ウィクリフは、
 何故
 チェコだけに広まったのかな」

と、気にはなりましたが、
それ以来40年以上、放置してきました。

  ウィクリフ 生没年 1320頃~1384 享年 64才位
  フス     生没年 1370頃~1415 享年 45才位

最近、
ゴンサレスの「キリスト教史 上巻」を読んでいたら、

「当時、
 イングランド王リチャード2世が、ボヘミアの王女の結婚していた関係で、
 多くのチェコ人学生が、イングランドで学んでいた。

 このため、
 ウィクリフの著作は。彼らによってボヘミア(チェコ)にも持ち込まれた。」
との記述を読んで、

びっくりすると共に、
早速「ウィキペディア(英語版)」で、調べてみました。

  出所;ゴンサレス「キリスト教史 上巻」374㌻


リチャード2世は、

1382年1月22日
神聖ローマ皇帝 兼 ボヘミア王 カール4世の娘  アン・オブ・ボヘミア と
結婚しているのです。

アンは、可哀想なことに、
12年後の 1394年6月7日に ペストで没しています。

リチャード2世は、
1396年 フランス王 シャルル6世の娘 イザベラ と再婚しています。

  アン       生没年 1366年7月11日~1394年6月7日 享年 27才
  リチャード2世 生没年 1367~1400 享年 33才
  カール4世   生没年 1316~1378 享年 62才

アンは、
父カール4世が没してから、15才で イングランドに嫁いでいます。

10代のアンが嫁いだイングランドに、
チェコ人が、多数留学したというのですから、

チェコ人が、イングランドに留学したのは、
アンの父親である カール4世へのチェコ人の親愛の情の表れでは、
と 思われます。

カール4世は、
チェコ人に よほど好かれていた王様だったのでしょう。

そのカール4世の息子 ジギスムントが、
1415年
コンスタンツ公会議 で フスを だまし討ちみたいな形で 処刑し、

チェコ人の反乱(フス戦争 1419~1436)を招いたのは、
避けることの出来ただろう 残念な歴史の一つだと思います。

カール4世は、

皇帝の選挙制を確定させた 1356年の「金印勅書」や、

1348年 
ドイツでの最初の大学として プラハ大学を創設したことが有名ですが、

私には、
1346年 クレシーの戦いに、

歴代ドイツ王(皇帝)の中で、フランス王の臣下として参戦した
ただ一人のドイツ王(皇帝)として、印象に残っています。

クレシーの戦いでは、
カール4世の父 盲目のボヘミア王 ヨハンが、 戦死しています。

ヨハンは、
目が見えないのに、敗戦と知って、
馬に体をくくりつけて、敵陣に飛び込んでいったのですから、
殺されるのは当たり前ですが、

それだけ、
主君のフランス王への忠誠心が篤かったのだろうと、思います。

ルクセンブルク朝以外のドイツ王(皇帝)で、
外国の王様の臣下だったのは、

1214年
ブーヴィーヌで フランス王 フィリップ2世 と 戦った、オットー4世がいます。

オットー4世は、
皇帝に即位する前に、

アンジュー家(プランタジネット朝)ジョン(欠地王)の臣下(ポワティエ伯)として
仕えていました。

オットー4世の主君のイングランド王ジョン(欠地王)が、
ブーヴィーヌの戦い の事前の戦いで敗れていたため

ブーヴィーヌの戦いには参戦できませんでしたので、
形は、
皇帝とフランス王の戦いとなりました。



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2008年2月12日 (火)

ランケの歴史哲学

ランケの「世界史の流れ」(ちくま学芸文庫)は、

1854年秋に
バイエルン王マクシミリアン2世の要請により、

ローマよりランケの時代までのヨーロッパ史の概略
を、講義した講義録です。


   ランケ 生没年 1795~1886 享年 90才 


その講義の冒頭に、ランケは、
序論として 自らの歴史哲学 を 述べています。

この講義内容 は、
多分に ヘーゲル を 意識したもの と 思われますので、

学問好きの マクシミリアン2世 が、

ヘーゲルの歴史哲学 と ランケのそれ との違い を
質問される前 に、講義の冒頭 で 述べたのだろう
と、推察しています。


解説の 佐藤真一先生 によると、

ランケ は、
「真の理論 は、事実認識 の うちにある」として、

「歴史叙述の形 をとって 間接的に 語っている」ので、

このように
ランケの歴史観 が 論じられているのは 貴重である
と、述べておられます。


ランケが、
ヘーゲル歴史哲学 を どのように 評価していたのか、
興味深いものが ありますので、

その記述 を 抜書きして、ご紹介したい と 思います。



<ランケ の 歴史哲学>


1.歴史における進歩の概念 を、
  どのように考えるべきであろうか

  全人類は、原始状態から
  一定の確かな目標 に 向かって 発展してし続けてきた、
  と、仮定するならば、

  2つの考え方 が、可能である。

  ① 全てを導く 一つの「意思」 が あって、

    人類の発展 を、
    一つの点 から 他の点 へ 推し進める 

  ② 人類には、
    何か 「精神的な特質」 が あり、
    必然的に 一定の目標 に向け、駆り立てる

  の、いずれかであろう。


  私(ランケ)は、
  この二つの考え方は、

  哲学的にも 成り立たないし、
  歴史的にも 実証できないとしたい。


  ①の場合は、

  人間の自由 は、完全に破棄され、
  人間は、
  意志のない道具 に されているから


  ②の場合は、

  人間は、
  全く「神」であるか、(又は)「無」であるか、
  で なければ ならないから。


  更に、

  この考えは、
  歴史的にも 実証されえない。


  ① 第一 に、

    人類 の 多くの部分 が、

    現在もなお
    原始的状態であり、出発点そのままであるので、


    「進歩」とは 何か、
    「人類の進歩」は、どの点に認められるのか、

    との疑問 が、起こってくる。


    確かに、

    ラテン的、ゲルマン的民族には、
    偉大な歴史的発展の諸要素 が 定着している。

    そこには、
    段階的に発展する 精神的な力 が 存在する。


    歴史には、

    全て、
    人間精神の歴史的な力 というべきもの が あることは
    否定できない。

    それは、
    原始時代に起こされ、
    ある種の恒常性 をもって 続けられている
    一つの運動 である。


    しかし、

    この普遍史的な運動 に 参加しているのは、
    全人類中 の 一系統 にすぎない。


    しかも、

    この歴史的な運動 に 加わっている 諸民族 が、
    一般的に、
    絶えず進歩しつつある と、みなすことは できない。


    例えば、

    アジアにおける 歴史の運動 は、
    むしろ逆行的だった。


    アジア文化 は、

    最古の時期 が 一番盛んであり、

    ギリシア的要素 や ローマ的要素 が 優勢であった
    第二、第三の時期 は、
    もはやそれほどたいしたものではなく、

    蛮族(蒙古族)の侵入 と 共に、
    全く 終わりを つげてしまった。


    (注) アジア とは、
       小アジア(現在のトルコ)を指すものと思われます。


    進歩の概念 は、

    地理学の上からも 確認されえない。


    ピョートル大帝のように、

    文化は、地球を一回りする。 
    即ち、
    東方から始まって、再び東方に戻るのだ、
    と、主張するものがあるとすると、

    私(ランケ)は、

    初めから
    それに、反対 を 唱えなければならない。



  ② 第二の誤謬 は、

    幾世紀にもわたる 進歩的発展 が、

    あたかも、
    人間の知識や能力 の 全部門 を、

    同時に 包んでいたかのように
    考えることである。


    例として、一つ上げると、

    近世において、
    美術 は、

    15世紀と16世紀の前半 に
    もっとも栄えたが、

    反対に、
    17世紀末と18世紀の四分の三の時期には、
    極度に衰えた。


    このように、

    地理学的な考え を排し、

    諸民族の発展 を、

    はじめから
    必ずしも 一切の分野 に 及ぶことなく
    滅亡することがありうる、

    という点を、
    認めなければならないとすると、

    およそ、
    人類の継続的運動の本質は 何であるか
    が、明らかになろう。


    それは、

    人類を支配する 偉大な精神的諸傾向 が、

    あるときには、
    相(あい)分かれて 現れ、

    また あるときには、
    相(あい)連なっている

    という事実 に、基づいている。


    しかし、

    これらの諸傾向の中には、
    いつも 一定の特別なもの があり、

    それが、
    特に 強く働き、

    ために、
    他のものが目立たない。


    例えば、

    16世紀後半には、

    宗教的なものが、圧倒的 で あったため、
    文学的なものは、その背後に 退いていた。


    従って、

    人類の あらゆる時代には、
    一定の大きな傾向 が 現れる。


    そして、

    「進歩」 は、

    全ての時代 に
    人間精神 の 何らかの運動 が 表れ、

    あるときは、
    この傾向 を、

    また、あるときは、
    別の傾向 を 盛んにして、

    自らの姿を 顕著に示す という点に存する。


    上記の考え方と反対に、

    人類の生活が、
    時代を追って 向上する点に 「進歩」があり、

    どの時代も、
    その前の時代 を 完全に凌駕するもので、


    それ故に、

    一番あとの時代が、
    最も 優れている と、考えるのは、

    神の不公正 ということになろう。


    私(ランケ)は、
    次のように 主張したい。


    おのおのの時代 は、
    どれも 神に直接するもの であり、


    時代の価値 は、
    それから生まれるものに 基づくものではなく、

    「時代の存在 そのもの」
    「そのもの自体の中」 に、存する。


    これ故に、

    歴史の考察、
    歴史における 個体的生命の考察 が、
    独自の魅力を持つ。


    歴史家は、

    A.第一 に、

      人間が、

      一定の時代に

      どのように 考え、
      どのように 生きたか、

      に、注目せねばならない。

      そうすれば、
      永久不変の基本理念 は 別として、

      各時代が、

      それぞれ 特殊な傾向 や 固有の理想
      を 持つことが、明らかになる。

      しかしまた、

      各時代が、
      それ自身 それぞれの 権利と価値 を 持つ とはいえ、

      それから派生したものを、見逃してはならない。


    B.第二 に、

      個々の時代の間の 相違 をも、識別し、

      その連続関係 の 内的必然性
      を、考察せねばならない。


      そうすれば、

      この場合に、
      ある種の進歩 が あることは、否認できない。


      しかし、私(ランケ)は、

      この進歩が、
      直線に 進むものではない と、主張したい。



    あえて言うことが 許されるとしたら、

    神について、
    次のように考えたい。


    神の前には、
    時間というものが、存在しないから、

    神 は、

    歴史上の人類 を、
    全体的に見渡し、同じ価値を認めている。

    神の前においては、

    人類のどの時代も、
    全て平等の権利 を 持つものである。


    従って、歴史家も、

    問題 を
    このように見なければならない。



2.いわゆる 歴史における指導的理念 を
  どのように 見るべきであろうか。


  ヘーゲル学派 は、

  人類の歴史は、一つの論理の過程 のように、

  正ー反ー合 という形で、
  肯定 と 否定 という関係で、織り成されている、

  との見解を、打ち立てた。


  このような歴史の見方、

  即ち
  種々の 論理的範疇 に従って
  自己発展する精神 の このような過程 もまた、

  先に、
  我々が 退けたところに帰着する。


  このような(ヘーゲルの)見解に従うならば、

  ひとり、
  理念のみが、独自の生命 を 持ち、

  人間は、

  全て、
  この理念によってみたされた 影像 もしくは 幻影 に、
  すぎぬものになろう。


  世界精神が、

  いわば、
  詐術によって事件をひき起こし、

  あるいは

  自己の目的 を 達成する為に、
  人間の激情 を 利用する となす
  学説の基底には、

  神と人間 の 品位を
  著しく損なう考えが、潜んでいる。


  こういう説は、

  必然的に
  「汎神論」に 帰着するだけ である。


  即ち、

  人間は、
  神に なりつつあるもので、

  その本性に具わる 精神的過程 によって、
  自己自身 を 生み出す
  と いうのである。


  (注) 汎神論 ;

     全ての物体や概念・法則が、

     神の顕現であり、神性を持つ、
     あるいは
     神そのものである、

     という宗教観、哲学観

     (出所;「ウィキペディア」)


     万物は、神の現れであり、
     万物に、神が宿っており、
     一切が、神そのものである、 とする 宗教・哲学観。

     古くは、ウパニシャッドの思想、ストア学派の哲学、
     近代では、スピノザの哲学など。

     (出所;Yahoo 大辞泉)

 

 

 

  (注) ヘーゲル「歴史哲学講義」の最後の文章

     世界史とは、
     自由の概念の発展 に 他ならない。

     が、
     客観的な自由の表現たる 実在の法律 は、
     形式的なものにすぎぬ 偶然の意思の抑制
     を、要求します。

     客観的な法 そのものが、
     理性的であれば、

     人々の認識も、
     理性に ふさわしいものとなり、

     主観的自由も、
     社会に 不可欠の要素となります。

     ・・・・・・

     哲学の関心 は、
     自由の理念の発展過程 を 認識すること
     にあるのです。

     歴史に登場する民族が、次々と交替する中で、

     世界史が、

     そうした発展過程 を 辿り、
     そこで、
     精神 が 現実に 生成されていくこと

     ・・・・・

     それこそが、
     正真正銘の「弁神論」であり、

     歴史の中に、
     神の存在することを 証明する事実 です。


     理性的な洞察力 だけが、

     聖霊 と 世界史の現実 とを 和解させうるし、

     日々の歴史的事実 が、
     神なしには おこりえないということ、

     のみならず、
     「歴史的事実」が、

     その本質からして
     「神自らの作品」であることを 認識するのです。


     出所;ヘーゲル「歴史哲学講義 下」373㌻、374㌻
         (岩波文庫)


  (注) 弁神論;

 

     世界における 悪の存在 が、

     世界の創造者である 全能な神の善性 と、
     矛盾するものではないこと を 弁明しようとする
     神の弁護論。

     ライプニッツが、
     初めて 用いた語 で、

     著書「弁神論」において、
     体系的に論じた。神義論

      (出所;Yahoo 大辞泉)



  従って、私(ランケ)は、

  指導的理念を、
  各世紀における支配的傾向以外のもの と、考えることはできない。

  これらの傾向は、
  記述はできても、究極的に一つの概念にまとめることはできない。

  それ故に、歴史家は、
  各世紀の大きな傾向を分析し、

  これら種々の傾向の複合体にほかならぬところの
  人類の大きな歴史を示さなければならない。


  神の理念という立場からすれば、

  人類は、
  限りない発展の多様性を自らの中に蔵しており、

  それは、徐々に、
  しかも、我々の知らない法則にしたがって、
  人が考えるよりも 遥かに神秘的かつ偉大に、表れてくる、

  と、考えるほかない。


  「物質的なもの」に関係ある領域では、
  無条件の「進歩」が認められる。

  この方面では、
  非常な異変でもない限り、退歩と言うことは先ずおこりえない。

  ところが、
  「精神的な方面」では、「進歩」は認められない。

  道徳、宗教、哲学、政治学、歴史記述では、進歩はない。

  キリスト教とともに、真の道徳と宗教が現れて以来、
  この方面では進歩は起こりえない。

  プラトンのあとには、もはやプラトンは現れ得ない。
  シェリングが、プラトンを凌いだとは思えない。

  プラトンやアリストテレスが完成した最古の哲学で十分である。

  何びとも、
  ツキディデスより偉大な歴史家だと自負することはできない。




< マクシミリアン2世 の 質問 >

  神が、
  個人の自由な自己決定を妨げずに、全体として人類に何らかの目標を定め、

  人類は、
  強制的ではないにしても、その目標に向かって導かれていく、

  と、考えてはいけないだろうか。

< ランケ の 回答 >

  それは、歴史的に実証できない。
  「いつかは、一人の牧者と、一群の羊だけになろう」
  との聖書の言葉があるが、

  今までのところ、
  世界史の有力な動きとして証明されていない。



以上が、
ランケの序論の講義の抜書きです。


ランケの家系は、
祖父まではプロテスタントの牧師で、
ランケ自身も敬虔なプロテスタントであったと思われます。

歴史学に対して、
非常に近代的、科学的な姿勢であり、
まるで、20世紀後半の人物かと思わせますが、

最近
次のようなランケの言葉を知り、

神を信じていながら、
学問に関しては神から距離を置いたランケの姿勢に、
一層の敬意を感じています。

「全ての物事には、神聖なる定め が 存在する。
 我々人間は、その存在を 直接証明することはできないが、
 その存在を 感じることはできる。

 ・・・・・・

 摂理を 信ずること、
 それは、
 あらゆる信念のうちの 最高のもの、全ての信念の 実質をなす。

 その点で、
 私の心は 揺らぐことがない。」

1873年 ランケより息子へ

 (出所;「誠実という悪徳」8㌻)



追記 2020年1月25日 記述

 

ランケは、

戦前、歴史の第一人者 として
いろいろな著作が 翻訳されているようですが

最近は、影が薄くなった印象があり
「もっと評価されてしかるべき大歴史家では?」
と、少々残念な気がしています。

ランケを偉大な歴史家だと考えるからこそ
ヨーロッパ人特有の欠陥がきになり、

本書を読んだ機会に
ドンキホーテぶりを発揮して、ランケを含めた
ヨーロッパ人の歴史認識(歴史常識)についての疑問
を 記述したことがあります。

今でも、この点について、ランケ先生に質問できたらな
と、叶わぬ願いを持っていますので、
一度お読み頂いて、感想を コメントを頂ければ幸いです。 

ガリアは、ローマ文明を 灯し続けたのか?

 

以 上

 

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2008年2月11日 (月)

ヘーゲル著 「歴史哲学講義 上、下」

ヘーゲル著
「歴史哲学講義 上、下」(岩波文庫)


          **********


ランケの「世界史の流れ」の冒頭で、
ヘーゲルの「歴史哲学」に対する批判が記述されていたので、
思い切って読んでみました。

ヘーゲルは、
最晩年の10年間(1822年~1831年)に
ベルリン大学で半年単位の歴史哲学を5回講義したそうで、

ヘーゲル没後、その講義録をまとめたのが
今回読んだこの本(「歴史哲学講義」)だそうです。

多分、ヘーゲル哲学を集約したものの1つであろう
と、想像しています。

   ヘーゲル 生没年 1770~1831 享年 61才


読み終わって感じることは、残念ながら、

ヘーゲルの論理 に 「本質的な矛盾」があり、
また
ヘーゲルが、無視or理解していないと思われる点もあって、

非常に「問題の書」、
端的に言うと
「悪魔の書」というものが世の中にあるとしたら、
まさに「この本」であろう、ということです。

長大なヘーゲルの論述を、
一言でまとめるのは、それこそ問題であることは十分承知していますが、

ヘーゲルの矛盾や問題点を端的に判りやすくする為に、
あえてさせていただきます。 

< ヘーゲル歴史哲学の要約 >

  1.理性=神 が 歴史を支配している

  2.歴史の目的は、自由の実現であり、
    この自由実現に向って、歴史は進歩する

    東洋人は、
    一人だけ(専制君主)だけが、自由を知り

    ギリシア、ローマでは、
    特定の人々が自由を知った

    ゲルマン人に到って
     全ての人間が自由を知るようになった

  3.国家が、自由を実現する

  4.世界史は、東から西へと向う

    アジアは、世界史の始まりであり、
    ヨーロッパは、文句なく世界史の終わりである

    中国→インド→ペルシア→エジプト→ギリシア→ローマ→ゲルマン世界 


< ヘーゲル歴史哲学、歴史観 に対する疑問点 >

私が、
ヘーゲルの歴史哲学、歴史観 に対して疑問に感じる点は、
次の4点です。

1.自由の実現の目的に向かって、歴史は進歩する、との 進歩史観 は、
  矛盾した記述だと思います。

  進歩は、
  その本質から「到着点がない、永久につづく無限運動」なのです。

  「到着点のない永久に続く無限運動」が、
  有限の「ある目的」に向かって進んでいくということは、
  矛盾であり、あり得ないことです。 

  もし、
  「歴史が進歩する」というのであれば、

  ヘーゲルが、
  「自由が実現された」と宣言した状態で、
  歴史の進歩が停止することはありえず、
  更に前進するはずです。

  これは、
  ヘーゲルを引き継いだ、 
  「プロレタリアート独裁」において弁証法的唯物論の過程に終止符を打った
  マルクスや、

  「リベラルな民主主義」をもって「歴史の終わり」を主張する
  ネオコンのフクヤマにも
  共通する、矛盾なのです。

  進歩については、
  ランケの批判もありますし、
  私も「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」で述べていますので、
  そちらを参照いただければ幸いです。

  ランケの歴史哲学
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_d322.html

  「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」
  http://chuuseishi.la.coocan.jp/070717.htm


2.「神=理性」が、歴史を支配するということ と、
  歴史の目的が、「自由」の実現であるということは、
  矛盾していると思われます。

  ヘーゲルは、
  敬虔なプロテスタントであることが文章から伺われますので、
  何故矛盾と考えるかについて、
  信教の自由を例にご説明したいと思います。

  信教の自由とは、
  どの宗教、どの神様を自由に信じることができるということです。

  ヘーゲルは、
  勿論 プロテスタントのキリストでしょう。

  でも、
  ヘーゲルが否定するカトリックのキリストを信じる人もいますし、
  イスラム教を信仰する人もいるのです。

  勿論
  仏教徒もいるでしょうし、
  他の地方地方の神様を信じる人が、多数いることは、
  言うまでもありません。

  このように、
  色々な神様 を 自由に信仰できること が 自由なのですが、

  「理性=神が、歴史を支配する」ということになると、
  「1つの神しか存在しない」ことになり、
  色々な神様を信じる自由が奪われることになります。

  このように、
  「神=理性の支配」と「自由」は、両立しない矛盾であり、

  この矛盾が、
  その後の歴史に、大きな災いをもたらす原因ことになったのです。


3.更に、ヘーゲルが、
  「価値観の多様性」を 無視or理解していないことが、
  あげられる と 思います。

  歴史を支配する「神=理性」を、誰が認定するのでしょうか。

  ヘーゲルにとって
  「神=理性」が支配する歴史は、自明のことなのでしょう。

  また、
  ヘーゲルが考える以外の歴史は、存在し得ないのでしょう。

  でも、
  例えば、
  「歴史は、東から西に向って進歩する」とヘーゲルにいわれても、
   事実に反して嘘ですね、ヘーゲル教の信者しか信じませんよ。」
  と、反論したくなります。

  (例えば、ヘーゲルが言及している孔子は、
   ペルシア戦争が終了した年に亡くなっています。)

  たとえ、
  ヘーゲルが、歴史事実を正確に記述したとしても、

  それは、
  ヘーゲルの歴史解釈であり、
  私の歴史解釈は別ですよ、という、
  ランケのような歴史家が当然出てきます。

  このように、意見が対立したときに、
  歴史を支配する「神=理性」が、どちらに軍配を上げているのかということを、
  誰が判定するのでしょうか。

  言い換えると、
  ヘーゲルは、色々な価値観が存在して、色々な考え方がある、
  即ち
  「価値観の多様性」を無視しているのです。

  というよりは、
  私には、理解していないと思われるのです。

  理解していないからこそ、
  啓蒙専制君主のプロイセン王 フリードリヒ2世を賛美し、
  「国家(プロイセン)が、自由を実現する」と平気で言えるのでしょう。


4.最後に、

  ヘーゲルが、
  「人間」
  特に、
  「人間の欲望、エゴイズム、損得への執着、既得権を奪われる際の
   猛烈な抵抗」を無視or理解していないことが、

  上記2点と併せて
  致命的な欠陥だろう と、思います。

  歴史は、
  人間の活動の軌跡なのです。

  それを見て、
  「神=理性」が支配すると感じるのは、個人の感性の問題だと思いますが、

  だからといって、
  歴史が、人間が作り上げたものであることを無視することは、
  誤りの原因だろうと思います。



< 本書の欠陥が、その後の歴史にもたらした例 >

1.大量殺人の悲劇

  ヘーゲルの進歩史観をベースに、
  マルクスが、
  「資本主義が終焉して社会主義の時代が来る」との
  マルクス主義を生み出したのだと思います。

  そして、
  ロシア革命によりソ連が建国され、
  スターリンによる粛清が生じました。

  また、
  ソ連が崩壊して、ほっとする間もなく、

  アメリカで、
  フクヤマの「歴史の終わり」をイデオローグとするネオコンが抬頭して、
  9.11にかこつけて、イラクへの侵略が行われました。

  スターリンにしても、
  ネオコン にしても、

  ヘーゲルの歴史哲学における矛盾が、
  その凶暴性を正当化してお墨付きを賦与しているのだろうと思います。


  スターリンの「粛清が生じた論理」を申し上げると、

  ① すべての人の自由を実現する為には、
    資本主義を革命で打倒して社会主義を実現せねばなない。

  ② 社会主義を実現する為には「プロレタリアート独裁」が必要である。

  ③ プロレタリアート独裁を実現する為には、反対者を粛清せねばならない。

  といって、

  最初は、
  党外の ボルシェヴィキに対する反対者、

  次には、
  党内の反対者、

  更には、
  スターリンの権力掌握を支援した同志を殺害したのです。

  当時のソ連では、外国人と話しただけで処刑されました。

  スターリンの行状は、
  フランス革命のときにロベスピエールとそっくりであり、

  ヘーゲル流に言うと、
  スターリン時代において、スターリン一人だけが自由を知っていたのです。


  何故このようになったのでしょうか。

  ロシア革命は、
  マルクス主義に従って 自由の実現を目指してソ連が建国されました。

  ところが、
  「神=理性が、歴史を支配する」のですから、

  「神=理性」を握ったスターリンが、自由を判定し、
  「自由に反する者=スターリンと意見を異にする者」を処刑したのでした。

  中世において
  「神の代理人」である「ローマ教皇」に従わない異端者が火刑に処されたのと、
  同じ論理です。

  更に、
  ロシアの共産党の支配は、ソ連だけではなく、
  コミンテルンを通じて全世界の共産党が、従わねばならなかったのです。


  同じことが、
  ネオコンにも言えます。

  ホームページ「ブッシュ の イラク戦争」で、詳述していますので、
  そちらをご参照いただければ幸いですが、

  一言でいうと、
  自分の考えと異なる人を、武力で抹殺してまでも、
  「リベラルな民主主義」を実現しようと言うものです。

  「リベラル(自由)な民主主義」を標榜して、
  自分の考えに反対する人々を、抹殺する点は、
  スターリンの粛清と全く同じ論理だと思います。

    ブッシュ の イラク戦争
    http://chuuseishi.la.coocan.jp/030830.htm

  「神=理性」が歴史を支配する こと と、
  「自由」が歴史の目的である ということが、
  並存する矛盾 と、

  「多様な価値観」を認めないヘーゲルの考え方が、
  20世紀に多数の人間が殺された原因となったのだと思います。 

  更には、

  要約では言及しなかった
  ヘーゲルの「ゲルマン人の優越性」の観念が、

  19世紀から20世紀にかけての「黄禍論」や、
  ヒットラーの「ユダヤ人虐殺」の遠因にもなったのだな、
  と、感じられます。

  このように、本書は、
  20世紀の不幸をもたらした「悪魔の書」であるように、私には思えます。

  ヘーゲルは、
  真摯に歴史哲学を講義しただけであり、

  この本が、
  その後の歴史に悲劇をもたらすと予想だにしていなかったと思います。

  だからこそ、
  まさに「ペンは、剣よりも強し」であり、
  1つの本が、これだけの影響を歴史に及ぼすことができるのか、
  と、愕然とするのです。


2.社会主義国の勃興と崩壊

  「社会主義」は、先ほど申し上げた通り、
  ヘーゲル哲学の「マルクス・バージョン」だと思います。

  その「社会主義」のソ連が、
  100年も持たずに20世紀末に崩壊して、
  マルクスが 滅びると予言した「資本主義」が、生き残りました。

  このような現象が生じた理由は、

  先ほど述べた
  ヘーゲル歴史哲学の矛盾や価値の多様性を無視していることに加えて、

  人間の欲望を無視している ヘーゲルの歴史哲学に基づき
  「社会主義」の理論を構築したことが上げられると思います。

  最初に、
  何故「資本主義」が生き残ったのか、についてご説明します。

  「資本主義」は、
  人間が欲望のおもむくまま、自由に経済活動することを前提に
  自然発生的に発展してきました。

  人間が欲望のままに活動すれば、
  行き過ぎが生じ、人道上許されない事態もおこってきます。

  しかも、
  その是正は、自由を前提としている為になかなか困難であり、
  「このような体制は、崩壊するだろう」
  と、マルクスが考えたのも もっともな面があったと、思います。

  例えば、
   若年者や女性の低賃金長時間労働、劣悪な労働環境、
   経営者の恣意による解雇、雇用不安、ストライキした労働者への弾圧、

   勝ち残った資本家による独占の弊害、
   公害などの環境汚染、健康被害、

   自由貿易による経済強国の一方的な搾取、
   景気変動による大不況等々、

  「資本主義」の将来はなく、
  「社会主義」が、理想の社会であろうと思う人々が、多数現れたのでした。

  しかし、
   労働法、独禁法の制定、
   財政出動による経済の安定化、

   公害などに対する環境規制
   国際協調による貿易の安定等々、

  これらの弊害、病根を、一つ一つ解決して、
  孔子の言う「心の欲するところに従いて、踰(のり)を矩(こ)えず」 

  即ち、
  各人が自由に経済活動を実現しつつ、
  弊害を、ミニマイズした社会 を 目指して 努力してきたのです。

  「資本主義国」では、
  各人、各企業が、自分の「欲望」に従って、利益を目指して
   「自由」に好き勝手に、しかも「競争」しながら、活動しました。

  ユーザの支持を得て、「マーケット」で勝利する為に 自由に活動した結果、
  予想もしないアイディアが出現したのです。

  その結果、
  「技術」、特に「先端分野」において、
  20世紀の終わり近くになって目を見張る進歩が表れたのです。

  これに比し、
  ソ連をはじめとする「社会主義国」は、

  国民の自由な活動ではなく、
  共産党が決定する「計画」に従って、国が運営されました。

  個人は、
  言われたことをやりさえすればよいと、自発性は、摘み取られて、
  「自発的な活動」は、国家に対する「犯罪」であると断罪されたのでした。

  「自由の実現」を目指した革命が、国民の自由 を「抑圧」し、
  国全体に将来への希望を見出せずに、前向きな姿勢がなくなってしまい、

  「共産党の特権階級」だけが、良い思いをしていて、
  豊な西側諸国との格差がどんどん拡大していく状況の中で、

  共産党による「統治の正統性」が喪失して、
  ソ連をはじめとする社会主義諸国家が「崩壊」したのです。

  「資本主義」は、
  自然発生した体制ですが、

  「社会主義」は、
  マルクスなどの思想家の創造物だったのです。

  理性=共産党 の 指導者が、
  歴史を支配すれば、自由を実現できる と 思い込み、

  「人間」に対する認識、
  特に、
  「欲望への執着」に対する認識が欠落していた為に、

  「自由が抑圧される社会」を 生み出して、
  「崩壊」していったのです。

  一番皮肉に思えるのは、

  共産党の指導者が、
  彼らが非難してきた資本家以上に すぐに堕落して、
  利権を貪るようになることに、思いを至らなかったことです。

  また、
  利権を貪り、利権にしがみついている 悲惨な自分を、
  鏡に照らして見ることのできなかった 彼らに、
  人間としての哀れみさえ感じられます。

  しかも、
  資本主義は、それぞれの部門間の牽制作用があり、
  マルクスが非難した資本家でも、
  思うような行動を 100%出来ず、是正を強制されたのですが、

  共産党の独裁下では、
  この歯止めがないだけに、
  国民が、一層悲惨な境遇に追い込まれたのでした。

  長年時間をかけて、自然に出来上がってきた資本主義は、
  それなりに柔軟性と対応力があったのですが、

  人工的な社会主義は、
  人間や歴史に対する根本的な認識の欠陥故に、
  硬直的で、存続が不可能だったのです。



< 結語に代えて >

「歴史哲学講義」を読むのに、
12月から1月と2ヵ月もかかってしまいました。

理由は、
途中で読む気がうせてしまったのに、

ヘーゲルの呪縛にかかって、他の本に移ることもままならず、
1ヶ月以上の期間が、無為に過ぎていったのでした。

最後に、
終わりまで読めば離れられるだろうと決意して、
読み通したのですが、

今まで述べたような理由で、
この本は「悪魔の書」であり、
「はい、さようなら」と言って、完全にこの本から離れることができない
何物かを感じています。

多分、この本は、
何かしらヨーロッパ人の深層にある どろどろした「感情」、「エートス」
を、記述しているような気がするのです。

これからは、
ヘーゲルの記述を頭の隅に残しながら、ものを考えていこうと思っています。

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2007年11月23日 (金)

「トーマス・ミュンツァー」

マンフレート・ベンジング著

「トーマス・ミュンツァー」(未来社)

 

          **********

 

「中世への旅 農民戦争と傭兵」(ハインリヒ・プレティヒャ著 白水社)を読んでいて、

 

「ドイツ農民戦争の指導者 トーマス・ミュンツァー」というのは 本当だろうか、

との疑問が生じましたので読んでみました。                                                         

 

その結果、

ミュンツァーが 「農民戦争全体の指導者」であるというのは、

虚像であり、誤りではと感じられました。

 

というのは、

 

1524年12月に

ミュンツァーが、南ドイツのシュヴァーベンの指導者と会って 話をしていますが、

 

それをもって

「シュヴァーベンの農民一揆のイデオローグとして、農民一揆を指導した」

とは言えない と、思われます。

 

また 

ミュンツァーが参加した テューリンゲンの農民戦争でも、

 

ミュンツァーは、

実際に農民指導のイニシアティヴをとれず、

 

一部の農民と共に ミュールハウゼン より フランケンハウゼンに行って

そこで敗れて処刑されています。                                           

このように、

 

ミュンツァーは、

実像より過大に評価されている人物ではと思われます。

 

その原因は、

多分 エンゲルスの記述にあるのでしょう。

 

ルターの事跡を読んでいないので、

確たることは言えませんが、

 

この本を読んでみて、農民戦争の際に、

「インテリ階層が 農民に接触して指導した」との感じが あまりしませんので、

 

農民戦争は、

ルターだとか、カルヴァンのような 指導者を持たない

農民の自然発生的な一揆であったのではないでしょうか。                                                     

今回は、

16世紀のドイツに少し手を伸ばしてみました。

 

ちょっとずつでも、中世より範囲を拡げることができればよいな

と、願っています。

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