地中海

2012年11月21日 (水)

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる

「ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?」のブログの中で
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html


 「ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の領土だったということは、
  どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

  ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
  ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
  無理だということが、身に浸みて理解できました。」

と、記述しましたので、


私がヴェネツィア隆盛期のポイントだろうと考えている
ヴェネツィアとビザンツ帝国の経緯をご紹介させて頂きます。



812年
シャルルマーニュとビザンツ帝国が アーヘン条約を締結して、

シャルルマーニュの皇帝戴冠を承認すると共に、
ヴェネツィアやイタリア南部がビザンツ帝国の領土となりました。


潟の中のリアルトに実質的な建国したばかりのヴェネツィアにとり、
このアーヘン条約は、今後の発展の基礎となる条約でした。

即ち、
ビザンツと提携することで

 1.東方世界で勢力を伸張する基盤を獲得すると同時に、
   フランク帝国内での商業に従事する権利も獲得して
   有利な立場を与えられただけではなく、

 2.ビザンツ帝国の領土となることで、
   事実上の独立を獲得すると共に、

   イタリアを支配していたフランクが干渉してたときには、
   ビザンツ帝国を盾に対抗することが出来たのです。


ビザンツ帝国の領土だったことは、

 1.中世になっても ヴェネツィアが、

   イタリアの政治権力、

   即ち
   皇帝や教皇の支配の外にいることができて、

   他の都市のようにイタリアの政治闘争に巻き込まれることを
   避けることが出来ました。


 2.また、教皇から距離を置くけたことにより

   近世に至るまで イタリアで唯一と言って良い「言論・思想の自由」を
   維持できたもととなったのです。


ヴェネツィアは、
800年代に ビザンツ帝国のために南イタリアに出兵しています。

例えば、

 1.840年
   サラセンに攻撃されたタラントに艦隊を派遣して、敗北しています。

 2.また、867年から871年にかけて

   841年から30年間
   イスラムに占領されたバーリを奪還するための

   フランク(皇帝イタリア王 ルイ2世)とビザンツの連合軍に、
   艦隊を派遣して、バーリ奪還に貢献しています。



なお、バーリは、

876年
ビザンツ帝国が攻略して以来

1073年
ノルマン人のロベール・ギスカールが攻略するまでの約200年間、

南イタリアでのビザンツ帝国の中心都市でした。


992年 5月 ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と同盟条約を締結して、事実上の独立を果たしました。


ビザンツ帝国 バシレイオス2世が、

ブルガリア王 サムイルとの戦いに際して、
ヴェネツィアと同盟を締結したのです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国にとって かけがえのない海軍の同盟者だったのです。

  注 バシレイオス2世 と サムイル  は、
     991年から1014年の27年間の長きにわたって戦いれました。

    この戦いで、
    バシレイオス2世は、「ブルガリア人殺し」との異名を得たのです。


    「盲者の行進」を参照下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html



ヴェネツィアは、
この条約で、非常に有利な条件を勝ち取っています。

 1.ビザンツ帝国の宗主権の再確認と引換に、
   完全な自立性とビザンツ帝国諸港への自由な出入権を獲得したのでした。

 2.また、ビザンツ帝国の諸港での入出港料が、

   他の国が 30ソルディ金貨だったのに、
   その57%の17ソルディ金貨と優遇されたのです。


同じ年(992年)の7月には、

ヴェネツィアのドージェ(元首)ピエトロ・オルセオロ2世が、
神聖ローマ帝国皇帝に使節を派遣し、

神聖ローマ帝国内での ヴェネツィア商人の商業活動の自由の保証を
要請しました。


ビザンツ帝国との同盟を締結してから5年経った
998年に、

ヴェネツィアは、本格的にアドリア海に乗り出しています。


5月に
ドージェ ピエトロ・オルセオロ2世が、

最初の「海との結婚式(シェンサ)」を行った後、
ザーラの海賊退治に出帆しました。


ザーラで、
アドリア海東岸の20以上の都市に ヴェネツィアへの恭順と服従を誓わせ、

会議に欠席した レジーナ と クルツォラ を 猛攻して、
屈服させたのでした。


この遠征後、
ヴェネツィアのドージェは、

ビザンツ皇帝 バシレイオス2世より ダルマツィア公爵の称号を与えられて、
ダルマツィア公爵と名乗るようになりました。


1002年~1003年に

ヴェネツィアは、
アドリア海南部で、サラセンの海賊を撃破し、

アドリア海の平定を完成して、
アドリア海の統治 を 開始したのでした。


1081年には、
ノルマン人のロベール・ギスカールが、

イタリアよりアドリア海を渡って、バルカン半島に上陸し
コンスタンティノープルを目指して侵入してきました。

この1081年~1085年にかけての
ビザンツ帝国とノルマン人との戦いに際して、

ビザンツ帝国は、
ヴェネツィアと同盟して戦ったのです。


ヴェネツィアにとっても、
ロベール・ギスカールは敵でした。

アドリア海の支配を維持するためには、
アドリア海の出口の両岸を ロベール・ギスカールに奪われるわけには
いかなかったのです。



翌年の 1082年5月
ビザンツ帝国を援助したヴェネツィアは、

皇帝 アレクシオス1世の金印勅書により
例を見ない優遇措置をビザンツ帝国より獲得しました。


 1.ビザンツ帝国内で、何処ででも、
   あらゆる商品を、自由に無税で取引する権利

   → ヴェネツィア商人は、
     帝国内で無制限の自由貿易の権利 と 関税の免除 を 得たのでした。


 2.コンスタンティノープル市内に、

   幾つかの仕事場 と
   ガラタに渡る 3カ所の船着き場が、与えられました。

   → 即ち、
     コンスタンティノープルの金角湾沿いに、

     治外法権のヴェネツィア人の居住区と
     ヴェネツィア船専用の船着き場 を

     獲得したのです。


この優遇措置は、

それだけ ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアの海軍力を必要としていた証(あかし)ですが、

それにしても与えすぎでした。


ヴェネツィア商人は、

ビザンツ商人より優遇されて、
ヴェネツィアの植民地拡大の基盤が築かれたのですが、

他方、
ビザンツ帝国の商業体制に深い亀裂が入ったのでした。


これ以降、
既得権を維持しようとするヴェネツィアに対して、

ヴェネツィアの既得権を減らそうとするビザンツ皇帝や、
ヴェネツィアに対する ビザンツ商人や市民 の 反感による軋轢 が、

約120年間くすぶり続けて、

1204年の
第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃の結末をもたらしたのでした。


先ず、1111年に、

ビザンツ帝国は、
ピサに通商上の特権を与えて、ヴェネツィアを牽制しています。


更に、
1118年に 即位した ビザンツ皇帝 ヨハネス2世は、

ヴェネツィアを、
36年前の1082年の条約で獲得した地位から締めだそううとしましたが、

ヴェネツィア艦隊に
エーゲ海のビザンツ領の島々を攻撃されて、条約改定に失敗し、


1026年に

1082年条約のヴェネツィアの特権を、
100%認めざるを得ませんでした。



1082年より約70年後の 1155年に
一大転機が訪れました。

ビザンツ皇帝 マヌエル1世が、
南イタリアの征服するために、アンコーナに艦隊を派遣したのです。


同じ年(1155年)に
マヌエル1世は、

1111年にピサに与えたのと同じような通商上の特権を、
ヴェネツィアの最大のライバル ジェノヴァに与えています。



オストロゴルスキーは、
「ビザンツ帝国史」で、

 1.一時的に、バルカンの状態が旧に復した

   即ち、
   ハンガリーとの戦闘も静まり、

   キエフの王座に
   ビザンツの同盟者 ユーリー・ドルゴルーキーが即位したことと


 2.ノルマン・シチリア王 ロジェール2世が、
   前年の1154年に没したために

   イタリア攻撃を決意した
   と、記述されておられます。



これに加えて、
次の事情も、マヌエル1世が 遠征の好機と考えた理由と思われます。


 1.前年(1154年)の秋

   神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭)が
   第1回目のイタリア遠征を開始し、

   北イタリアのピアチェンツァの北のロンカール平原で
   帝国会議を開催した後、

   その後長く続く ロンバルディア諸都市の盟主 ミラノとの対立、諍いを
   開始しています。


 2.また、1155年の春

   ロジェール2世を継いだ ノルマン・シチリア王 ヴィルヘルム1世
   (ギョーム、グリエルモ)が、

   フリードリヒ1世がローマに到着する前に、
   教皇との和平を結べると考えて、

   教皇領に侵入して攻撃を始めています。



ビザンツ帝国は、

ノルマン・シチリア王の教皇領の侵入の空隙をついて、
アプリエンに侵攻して、

バーリ、トラーニなどの都市を占領しました。


このため、
ノルマン・シチリア王は、

教皇領で奪ったものを 教皇に返還し、
教皇 と 和解をして、

ビザンツ帝国に対抗せざるを得ませんでした。


マヌエル1世 と シチリア・ノルマン王との争いは、
1155年から3年間続きましたが、

1158年に、
マヌエル1世がシチリア・ノルマン王と和平を締結して、

イタリアへの侵略を断念して撤退しました。

ただ、
1157年頃取得したアンコナは、

ビザンツ帝国がその後も支配を継続しました。


今回のビザンツ帝国の南イタリア征服に対して、

ヴェネツィアが、
どの様な対応を取ったか、勉強不足のせいか、よく分かりません。


しかし、

ヴェネツィアが、
ビザンツ帝国を宗主と認めたのは、

名目的に認めることにより、
コンスタンティノープルなどビザンツ帝国内での通商を
有利に行うためだったのでしょうから、


ビザンツ帝国が
アドリア海に姿を現して、勢威を振るうようになると、

ヴェネツィアとビザンツ帝国が衝突するようになるのは、
時間の問題でした。



神聖ローマ帝国皇帝 フリードリヒ1世は、

1166年秋に
第4回目のイタリア遠征を開始していますが、


1167年早春には、
自ら軍を率いて エミリア街道をアンコナまで進軍して、

ビザンツ帝国が支配するアンコーナの攻略を開始しました。


この時、
ヴェネツィアは、

ビザンツ帝国が、イタリアに拠点を築くことに 危機感を持って、
マヌエル1世に背を向け、

マヌエル1世の船を提供する要請を拒否しています。


こうしてヴェネツィアは、

1082年獲得した
ヴェネツィア人の商業特権を維持するために必要だった
ビザンツ皇帝への義務 を 破ったのです。


マヌエル1世は、
同じ1167年に、

ハンガリーが支配していた
ダルマチア、クロアチア、ボスニア、シルミウム地方を
武力制圧しています。


ビザンツ帝国が、
ダルマチア沿岸地方を支配することは、

アドリア海の盟主であるヴェネツィアにとり、
危機的な状況でした。


ヴェネツィアは、

ダルマチア沿岸地方の主要な都市を押さえて、
船の物資や船員を補給していましたが、

都市の後背地が宗主であるビザンツ帝国が支配するとなると、
従来のようなスムーズな補給が不安となったのでした。


1168年には、
ヴェネツィア の ドージェ(元首) ヴィターレ・ミキエレが、

マヌエル1世が、
ヴェネツィアの特権継続を渋ったための対抗措置として、

全ヴェネツィア人に、
コンスタンティノープルでの交易を禁止しています。


2年後の1170年に、
ヴェネツィアとビザンツ帝国との和解が成立して、

コンスタンティノープルに、
ヴェネツィア人が見え始めたのですが、

その翌年の1171年 3月12日に、
コンスタンティノープルで

反ヴェネツィアの外国人排斥暴動が勃発しました。


この暴動は、

今まで貯まってきたビザンツ人(ギリシア人)の
反ヴェネツィア感情 が 爆発したものですが、

オストロゴルスキーは、

3月12日の一日で
ビザンツ帝国のヴェネツィア人全員(1万人)が逮捕され、

財産、船舶、商品が没収されたのは、
ビザンツ帝国政府の行政機構が確実に機能して、

事前に徹底的に準備していたことを証拠立てるものだ
と、記述して、

この暴動は、
マヌエル1世の煽動により生じたものだと断定しています。


1171年3月12日の暴動後、

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と国交を断絶しています。


国交断絶は、10年以上続き、
アンドロニコス1世帝(在位1183~1185)の治世に
漸く回復したのでした。

国交断絶期間中
ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の敵として行動しています。

例えば、

1174年春から10月にかけての半年間
皇帝 フリードリヒ1世の特使 マインツ大司教 クリスチャン1世が、

ヴェネツィアと同盟して
アンコーナを攻囲しています。


ヴェネツィアは、

マヌエル1世に、
アドリア海制覇を奪われる危険性の方が、

ドイツに脅かされる危険性より大きいと判断して、

フリードリヒ1世と同盟し、
海からアンコーナを攻撃したのでした。


また、1177年

ヴェネツィア ドージェ(元首)サバスティアーノ・ツィアニが
教皇とフリードリヒ1世の争いを調停し、

1159年から18年間続いた教会分裂を終了させる
ヴェネツィア条約を締結させています。


この1177年、
マヌエル1世は、ヴェネツィアに対して戦争を開始し、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人数千人を逮捕し、
財産と船舶を没収しています。


この時
ヴェネツィアが派遣した艦隊は、ビザンツ帝国に敗北しましたが、

その後、ヴェネツィアが、

ザーラとスパラートに 海軍を置くとともに、
シチリア王国と同盟を結んで 体勢を立て直すと、

ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアに恐れをなして 平静を保つようになりました。



1180年9月24日
ビザンツ皇帝 マヌエル1世が没しました。

  マヌエル1世 在位 1143~1180 37年間


息子のアレクシオス2世が 即位し、
母のマリー・ダンティオッシュが摂政となりましたが、

    注 マリー・ダンティオッシュ は、
       十字軍国家 アンティオキア公国 ボエモン3世の娘です。


マリーのラテン人優遇策が、
ビザンツ国民のヨーロッパ人への敵愾心を増大させ、

イタリア商人とヨーロッパ人傭兵が、
彼らの憎しみの的となりました。


1182年5月
コンスタンティノープルの
反ラテン(反ヴェネツィア)外国人排斥暴動を利用して、

マヌエル1世の従兄弟 アンドロニクス1世が、
コンスタンティノープルに乗り込み、

9月には
共治帝の即位し、

11月には
アレクシオス2世をベットで絞殺して単独の皇帝となったのです。


3年後の1185年6月
シチリア王 ギョーム2世が、

アドリア海東岸のディラヒオンに上陸して、
ビザンツ帝国への侵攻を開始しました。


8月24日には、

セサロニキ(テサロニキ)を陥落させて、
コンスタンティノープルを目指して進軍しています。


アンドロニクス1世は、

シチリア王の遠征に対処するために、
ヴェネツィアと条約を締結したのですが、


条約締結後、
コンスタンティノープルに 再びヴェネツィア人が現れるようになると、

アンドロニクス1世の人気が真っ逆さまに急落してしまい、
コンスタンティノープルで貴族が反乱、決起する事態となりました。


そして、9月12日
イサキウス・アンゲロス(イサーク2世)が皇帝宣言して、

アンドロニコス1世は、
黒海に逃れようとして市民につかまり、リンチにより殺害されたのです。


こうして、
コムネノス朝が滅亡して、アンゲロス朝が始まったのです。


又、この事件で、
ビザンツ帝国の反ラテン感情が残り、

それが第4回十字軍の背景となったのでした。



1195年4月

イサーク2世は、
弟 アレクシオス3世に廃位されて、目を潰されて幽閉されました。


翌年(1196年)

イサーク2世の娘 イレーネは、
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップと結婚しています。


フィリップとイレーネの結婚後、
フィリップの兄 皇帝ハインリヒ6世が、

ビザンツ帝国に
1194年頃した要求と同じ脅迫的な要求をして、
金16ケンテーナーリウムの支払いを、
ビザンツ帝国に承諾させています。


皇帝 ハインリヒ6世は、

1185年
ビザンツ帝国を侵略したシチリア王の後継者でもあったのです。


アレクシオス3世は、
ドイツ税を新設だけでは支払いきれないため、

コンスタンティノープルの諸聖使徒聖堂の皇室の墓から
貴金属装飾を剥ぎ取らねばなりませんでした。

このドイツ税は、
ビザンツ帝国の人々の反ラテン感情を 更に悪化させたのでした。


ハインリヒ6世は、
脅迫的要求による法外な支払いだけに満足せず、

1197年
シチリア島 メッシーナ に大艦隊を準備して、

ビザンツ帝国征服に出発しようとしているときの9月に
病没したのです。

(ビザンツ帝国は、
 ハインリヒ6世の死により ドイツ税の支払いを免れました。)


この頃、
ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に
色々な理由から 攻撃されるべき存在と見られていました。


 1.商業上の競争相手
 2.ビザンツ帝国の 西欧人攻撃の 生々しい記憶

 3.シリアとパレスティナでの キリスト教徒の弱体化
 4.東西教会の分裂

 5.ビザンツ帝国のとみに対する羨望
 6.コンスタンティノープルにある 聖遺物


今まで述べたような経緯を踏まえて、第4回十字軍があるのです。


歴史の本を読むと、
今まで述べたような事件が、それぞればらばらに記述されています。

これらを一つの流れとして再構成しないと、歴史の理解が難しいと思い、
拙いお話しをさせて頂きました。


ヴェネツィア史は、

我々が世界史で学んだ西ヨーロッパ側から見るだけでは、
歴史上の出来事の意味を理解するためには 不充分であり、

西ヨーロッパ と ビザンツ帝国 の 両方の視点から
歴史を理解する努力が必要だろう と 思います。


マクニールの「ヴェネツィア」(岩波書店)は、
この両者に加えてスラブ、ロシアを含めた相互連関を記述した名著であり、
ご興味ある方に是非とも一読をお勧めしたい本です。



次回は、

この後生じた第4回十字軍について、
考えていることをご説明させて頂きます。


ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html




ヴェネツィア史 関連ブログ



ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html

539年 フランク ヴェネツィアを占領
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d303.html

ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html

 

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2010年12月11日 (土)

ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?

昔、塩野七生さんの「海の都の物語」の最初に、

アッチラがイタリアに侵入してきたとき、
アクィレア陥落後、ヴェネツィアに人々が逃げ込んだ、
との話が ありましたので、

ヴェネツィアの西側の本土の人々が、
ヴェネツィアに逃げ込んだのだろう と、思い込んでいました。

というのは、
ヴェネツィアは、東のアドリア海に面した潟(ラグーザ)の島だったからです。

ところが、歴史書を繙くと、

810年
リド島のマラモッコからリアルトに移住したとの記述がありますので、

何で、
西側の本土からではなく、
アドリア海に面したリド島に人々がいたのだろうか、

何故、
リド島の人が リアルトに移住して、
ヴェネツィアの統治権を握ったのだろうか、
との疑問を、長年抱いてきました。

今回(2010年4月)
クセジュ(白水社)「ヴェネツィア史」(クリスチャン・ベック著)を読んで、
この疑問が解消できましたので、
ヴェネツィアの最初の頃の歴史を、簡単に要約してご紹介させて頂きます。


人々が、ヴェネツィアに逃げ込んだ事件は、大きいもので3回あります。

第1回 401年 西ゴート族 アラリック の侵入
第2回 452年 フン族    アッチラ  の侵入
第3回 569年 ランゴバルド族      の侵入

アラリックは、
コンスタンティノープルから、遠路はるばるイタリアに侵入し、

アッチラとランゴバルド族は、
ハンガリーより侵入したのですが、

イタリアへの出口は、
3回とも、スロベニアよりイタリア東北部への道でした。

イタリアは、
北はアルプスがありますので、
イタリアへの東側の入り口は、
峠の道以外は、スロベニアからの道なのです。

第一次大戦の際も、
オーストリア軍がイタリアへ攻め入ったのは、

オーストリアが支配していたトリエント地方からと、
アラリックなどと一緒の スロベニアよりの道で、

スロベニア国境からヴェネツィアにかけての地方が、
主な戦場となりました。


伝説によると、
ヴェネツィアの建国は、421年3月25日だそうです。

クセジュ「ヴェネツィア史」の著者 ベックは、

452年  アッチラにより アクィレイア が 焼かれ、コンコルディアが破壊された
466年頃 リアルト(リヴォアルト)に 初歩的な政治体制 が 発足したと思われる
と、記述しています。

  コンコルディア  ヴェネツィア の東北 50km、アクイレイア の西 40km
  リアルト(リヴォアルト) サンマルコ広場~リアルト橋辺り一帯の島々

また、
538年 東ゴート カッシオドルスの書簡に、
ヴェネツィアのラグーナ(潟)の住民について言及されていて、

この書簡が、
ラグーナの住民に関する最古の史料だとのことです。

この様に、
400年代の2度の侵入により、
潟(ラグーザ)に浮かぶ島に人が住むようになったのだろう
と、思われますが、

2回の侵入共に一過性だったため、
戦乱により一時的に避難してきた人が多く、
侵入終了後、
元の住処に戻った人が多かったとのことです。

ですから、
このヴェネツィアに、人々が本格的に定住するようになったのは、
568年 ランゴバルドの侵入以降とのことです。

ランゴバルドは、
ご存じの通り、イタリアに侵入してきてイタリアを支配した民族です。
従って、
ヴェネツィアに避難した人が、
本土に帰ろうと思っても、帰るに帰られなかったのでしょう。

ベック「ヴェネツィア史」クセジュで、
避難の様子を次のように記述しています。

アクレイアの総大司教は、      グラード に 居を移した。
トレヴィーゾから逃げてきた人々は、リアルトの島々 や トルチェッロに 逃亡した。

パドヴァからは、   マラモッコ に、
フリウリ地方からは、グラード や カオルレに集落を作った。

キオッジャ や イエゾロにも、人々が 避難した。

  アクレイア   ヴェネツィア の東北東 85km
  グラード    ヴェネツィア の東    85km、アクレイアの南 10km

  トレヴィーゾ  ヴェネツィアの北    25km
  トルチェッロ  潟(ラグーナ)の中の島

  パドヴァ    ヴェネツィアの西    35km
  マラモッコ   潟とアドリア海を分けるリド島の町

  フリウリ地方 ヴェネツィアとアクレイアの間のアルプスの南山麓の地方
  カオルレ   ヴェネツィアの東北東 45km

  キオッジャ  ヴェネツィアの南    25km、アドリア海沿岸の町
  イエゾロ   ヴェネツィアの東北東 25km、潟(ラグーナ)の東端南側の町


色々な人々が、ヴェネツィアに避難してきたのですが、

その人々の中心となった
ヴェネツィアの統治権が、リアルトに移るまでのの変遷を、
編年風にご紹介させて頂きます。

569年 ランゴバルド、イタリアに侵入
639年 オデルツォが陥落し、チッタノーヴァ(エラクレア)に権力の中心が移動

697年 チッタノーヴァで、最初のドージェ 選出
742年 チッタノーヴァより リド島 マラモッコ に 権力の中心が移動
751年 ラヴェンナが陥落して、チッタノーヴァのビザンツ支配が終焉した

810年 ピピンの攻撃を撃退した後、
     マラモッコよりリヴォアルト(リアルト)に権力の中心が移動


569年
ランゴバルド侵入後も、
ヴェネツィアの地方は、ビザンツ帝国が支配していて、
行政のの中心地は、オデルツォでした。

  オデルツォ  ヴェネツィア の北 40km、 トレビーゾの東北東 25km

このオデルツォが、
639年に陥落して、行政の中心がチッタノーヴァに移りました。

  チッタノーヴァ Cittanova (現在 エラクレイア Eraclea)
  ヴェネツィア の東北東 30km、 オデルツォの南南東 25km
  ピアーヴェ河畔、ピアーヴェ川河口より 6km

    チッタノーヴァは、
    Civitas Nova Heracliana(ヘラクレイオス帝の新しい町)が 略されたもので、
    現在の都市名 エラクレイアは、ヘラクレイオス帝より 由来しています。

    ヘラクレイオス帝 は
    7世紀初めの東ローマ皇帝で、実質的なビザンツ帝国の創始者です
    東ローマ皇帝 在位 610~641 31年間          

    余計なことですが、
    イタリア語も、Hは フランス語同様 発音しないのでしょうか?

    また、発音しないHは、スペルからも消えてしまうのが、
    イタリア流で フランス語と異なるところなのですね。


697年に、
チッタノーヴァで、ヴェネツィア 最初のドージェ(元首)が、選出されています。
多分、
ビザンツ帝国より チッタノーヴァの自治権が認められたということだと思います。

ヴェネツィアの最初のドージェは、
ビザンツ帝国の人であってヴェネツィア人ではなかったことをご記憶下さい。


最初のヴェネツィア人のドージェは、

726年(29年後)
チッタノーヴァで選出された 第3代ドージェ オルソ・イバートです。
  ドージェ在位 726~737 11年間

チッタノーヴァのヴェネツィア人は、
ビザンツ帝国の臣民にもかかわらず、

聖画像論争でローマ教皇を支持して、
ビザンツ人でない オルソ・イバート を ドージュに選出したのです。

737年(11年後)
オルロ・イバートは、殺害され、
(多分、ビザンツ帝国に都合が悪かったので殺されたのでしょう。)

その後5年間、
チッタノーヴァは、ドージェが選出されずに
ビザンツ帝国の軍政がしかれました。

742年(5年後)
オルソ・イバートの息子 デオタード・イバートが、第4代ドージェに選出され、
即位した742年に、
首都を、チッタノーヴァより リド島マラモッコ に 移しています。

ピアーヴェ川より 船でマラモッコに移動したのだろう
と、想像しています。

マラモッコへの移住は、
ビザンツ帝国の介入を軽減するためだったのでしょうが、

ビザンツ帝国の北イタリアの拠点が、      
ヴェネツィア人が支配するチッタノーヴァでしたので、

ビザンツ帝国の拠点も、
この時に
チッタノーヴァより マラモッコ に 移動したのでした。

751年(9年後)には、
ランゴバルド王 アストルフォ(アイスツルフ)が、ラヴェンナを陥落させ、
イタリアでのビザンツ支配に終止符を打ちました。

この時、
ビザンツ帝国は、チッタノーヴァも、失っています。

800年頃(異説 810年)(49年後 又は 59年後)
ヴェネツィアは、シャルルマーニュの息子ピピンに攻撃されました。

これを撃退した後、
810年に、
アドリア海に面したマラモッコより、
潟(ラグーナ)の中央部のリアルトに、ドージェが率先し定住したのです。

これにより、
現在まで続くヴェネツィアの歴史が始まりました。

今回 ベックの「ヴェネツィア史」を読んで、つくづく感じたことは、
歴史というものは、
頭で知っただけではダメで、
身に浸みて理解しなければ理解できないな、ということです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国の領土だったということは、
どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
無理だということが、身に浸みて理解できました。

恥ずかしながら、
名著と言われるマクニールの「ヴェネツィア」を、何回も読み始めては、
理解する能力がないと、途中で諦めてきました。

今回、曲がりなりにも最後まで読み通すことができたのですが、
それは、
ヴェネツィアがヴィザンツ帝国の領土だったということを
身に浸みて理解していたからだろうと思います。

今までは、どうしても、
ヴェネツィアは、イタリアの一部であり、
西ヨーロッパの側からの視点で歴史を見ていたのです。

これが、
ヴェネツィアの歴史の理解する上での妨げとなっていたのでした。


今回は、
地名の説明をちょっと詳しく記載させて頂きました。

これも、
歴史を理解する上で、
歴史的な事件が起きた場所を、地図で確認することが必要だということを、
身に浸みて感じているからです。

歴史を理解するには、地理学の知識も必須であり、
時間がかかっても、本を読みながら、場所を一つ一つ確認していかなければ、
歴史の理解は不充分となると痛感しています。

逆に、
知らない歴史をよむときに、場所を確認しながら、

また、
今まで作成してきた年表を見ながら読んでいくと、
何とか ぼやっとしたものでも、理解ができるものだと経験しています。

歴史を一歩踏み込んで理解されたい方がおられましたら、
このことを ご参考とされたらよいのでは、と思い、
余計なことを書かせて頂きました。



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2007年8月20日 (月)

樺山紘一著「地中海」

樺山紘一著
「地中海」(岩波新書)


          **********


ヨーロッパ中世史に慣れ親しむと、
フランス、イギリス、ドイツなどの西ヨーロッパより
地中海に関心が移ってしまうな、と、感じていましたが、

樺山先生も同じだったのかな と、感じられました。

地中海の歴史の本質 を 理解しないと、

それを栄養分として成長してきた「ゲルマン民族の歴史」
(通常言われるところの「西ヨーロッパの歴史」)
の 本質的な理解が得られないのでは、と 思われます。

本書は、

地中海にちなんで、
プルタルコスの「対比列伝」のスタイルを取っていますが、

率直な感想を言わせていただくと、
地中海の歴史は、
ゲルマン民族の歴史以上に多様性、多重性に富んでいるので、

さすがの樺山先生も、
料理の仕方に少し困惑されたのかなと、感じられました。

というのは、
書かれておられることは、

個別の知識としては非常に参考になるのですが、

さて
樺山先生が、地中海の歴史について、
どうお考えになられておられるのか、が、

よく理解ができなかったからです。

このことは、
新書という性格に負う所が大なのだろう思いますので、

本書のような本をお書きになった樺山先生が、

地中海、更には ヨーロッパ史について、
どのような歴史哲学をお持ちなのか、

今後の著作に期待し、注目していきたいと思っています。

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2007年5月 6日 (日)

中世の騎士は、スーパーマン

11世紀後半に
ロベール・ギスカールが 南イタリアにノルマン国家を樹立しますが、

そのきっかけは、

1016年に
エルサレムへの巡礼帰りにサレルノに立ち寄ったノルマン人騎士40人が、
サレルノ公に雇われて、サラセンの大艦隊を奇襲し、
サレルノ包囲を断念させたことだ と、歴史の本に書いてあります。


サラセンの大艦隊というからには、
千人単位の軍勢が、サレルノに押しかけてきたのだろうと思うのですが、

たった40人の騎士が奇襲しただけで、どうして簡単に撃退できたのかな、
と、長年疑問に思ってきました。


最近、
ビザンツ帝国史の副読本みたいな感じで、
マクニールの「ヴェネツィア」の第1章を読みましたら、

冒頭にこの疑問の回答が書かれていましたので、
ご紹介させていただきます。



ロワール川からライン川間の地域から来た
フランク人と自称していた騎士は、

よろいに身を固めて、
片手に盾、
片手に槍をしっかり抱えて、

馬に乗って敵に突撃する
という戦闘形式を好んだ。


激突の瞬間、
彼らは体を前のめりに馬の首の上に倒し、
そのショックに耐えるために足を思いあぶみで支えた。

突撃する騎士の槍の先端に、
圧倒的な力を集中することができるのが、その効果だった。


この集中的な力に対しては、
これまでのどんな軍陣も対抗し得なかった。

騎馬による突撃が可能であるような広い場所で戦闘が行われる限り、
1940年代の重戦車のように、
数十人の武装した騎士たちは、戦闘の流れを変えることができた。

ロベール・ギスカール麾下の騎士たちの例が示しているように、
そのような男たちが200~300人いれば、
一つの国全体を征服することもできた。

フランク式の装備と訓練を受けた騎士たちは、
およそ13世紀末に至るまで、
ヨーロッパと地中海地域の戦場における主役だった。

出所:マクニール「ヴェネツィア」7㌻(岩波書店)


要するに、

中世の人は、
我々がクリプトン星からきたスーパーマンに対して持つのと同じ感じを、
甲冑に守られて、敵から傷つけられることがなく、
突進により敵に大打撃を与える騎士に対して持ったのだろうと思います。

スーパーマン1人いれば、
ギャングが何十人いてもやっつけることができますよね。

それと同じで、
数人ないし数十人の騎士がいれば、
何倍もの敵を撃退することができたのでしょう。

サレルノのサラセン人は、
「とてもじゃないけど敵わない」と、

スーパーマンと戦うギャングが持ったのと同じ感じを持ったのだろう
と、想像をたくましくしています。


1204年
第4回十字軍でクレタ島を入手したヴェネツィアは、
クレタ島全島を支配するためにわずか
132名の騎士で十分であると考えていたとのことです。

出所:マクニール「ヴェネツィア」292㌻(岩波書店)


マクニールは、
1282年シチリアの晩祷の際に、

この戦場での騎士の天下が、
甲冑を射抜くアラゴンとジェノヴァの「いし弓」の出現により、崩れ去った
と、記述しています。


「いし弓」とは、
ウィリアム・テルが持っていた弓のことです。

「いし弓」兵が、騎士に勝つ原理は、
長篠の戦で信長が甲州の騎馬軍団を鉄砲で壊滅したのと同じ原理で、

突進してくる騎士を、
突進の最中に(接触する前に)「いし弓」で射抜いてしまうことです。


1282年
シチリアの晩祷の際には、

10月11日のメッシーナ沖の海戦で、

アラゴン軍が、
シャルル・ダンジューの軍隊に勝利した際に、
「いし弓」兵が大活躍しました。

当時の海戦は、
船同士を接舷させて船上で戦ったのですが、

この戦いでは
船を接舷する前に、ジェノヴァの「いし弓」兵が、
シャルル・ダンジュー艦隊の乗組員を射抜いて、勝利したとのことです。

出所:マクニール「ヴェネツィア」52㌻(岩波書店)


歴史の本を読んでいて、
今回のような疑問が生じても、なかなか回答が見つからないことを
経験してきました。


それだけに、
マクニールの文章を読んでいて
目からうろこが落ちるような感じでうれしくなり、ご紹介させていただきました。

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2007年3月30日 (金)

「バルバリア海賊盛衰記」

スタンリー・レーン・プール著 前嶋信次訳
「バルバリア海賊盛衰記」(Libro)


非常に面白い本。
年表に記入継続中なのに 先に読んでしまいました。
通常の歴史ではでてこない話が続々出てくるので 興味津々でした。 

本書は、
スレーマン大帝の本を読もうかな?という気を 持たせる本です。

この様に
読んだあと 次の本が出てくる本は 本当に良い本の 証だと思います。


長年考えてきた
モーツァルトの「後宮よりの逃走」の舞台は、

キプロス島でなく
やはり地中海の真ん中の アルジェかチュニスと考えるのが
穏当であろう との結論になりました。



補足

日本人の感覚からすると
裏庭の地中海から16世紀を覗いてみるには絶好の本です。

地中海からヨーロッパを見ると、
ドイツやフランスからの視点より広い視野でヨーロッパ史を眺められるようになる
と、思います。

たとえば、

1.フランス王が、オスマン・トルコのスレーマン大帝と同盟を結んで、
  カール5世に対抗したこと、

2.スレーマン大帝のウィーン攻撃は、その一環でもあったこと
は、案外知られていないのではないでしょうか。


難しいことを言いましたが、
冒険活劇として気楽にも読める本ですので、
歴史を楽しみたい方にはぜひともお勧めしたい本の一つです。

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