ローマ、ビザンツ

2022年7月18日 (月)

歴史の違いは 料理 にも 差異をもたらすのでは?

何年か前、ドイツに旅行した際に、
ベルリンを訪問したことがありました。

夕食を食べようと、ガイドブックを開いてみると、
「ソニー広場のレストランが評判である」
との記述がありましたので、訪れてみることにしまた。

クリーム系のシチューを注文したのですが、
一口食べて、家内と顔を見合わせてしまいました。

出された料理は、
無理やり飲み込んだ はるか昔の小学校の給食レベルの味で、

現在においては レストランの料理として提供されるレベルに
およそ遠く及ばない まずい料理 だったのです。


あまりのひどさに
家内とホテルに帰ろうと話しあって、食事を中断してホテルに帰りました。

ホテルに戻るってから、口直しに ベルリンの名物料理といわれていた、
ソーセージにカレーをかけた料理を注文しました。

出された料理を一応食べましたが、
これが、ドイツの首都であるベルリンを代表する料理か
と、びっくりしてしまいました。

日本では、
お祭りの屋台で売られているような
ソーセージにどこにでもあるうま味もこくもないないカレーをかけただけの料理
だったのです。

それをベルリンを代表する料理だ と、
一流ホテル(ウエスティンホテル)で 堂々と提供されているのです。

当時は、
ドイツの料理は、評判通りまずいな と、思っただけで、
一つの思い出となったのですが、

最近、「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」を考えるとき、
歴史の違いを表している象徴的な現象が、この思い出では?
と、考えますので 少しお話しさせていただきたいと思います。


家庭料理で煮込み料理を作る際には、
多量の野菜や肉を煮込んで作るのではないでしょうか。

長時間これらを煮込むことによって
肉や野菜からうまみ成分が出てきて、おいしく仕上がります。

レストラン料理では、見た目も大切ですから、
野菜 や 肉は、
必要最小限に抑えて、色添えみたいな役割となりますので

料理をおいしくすために
ブイヨン(出汁)やバター(油脂分)を 隠し味として使用して
仕上げるのではないでしょうか。

ところが、
ベルリン で 経験したことは、
スープ を作る際に ブイヨンやバターを使用しないで、
客 に 提供しているのです。

ですから、
我々の世代 が 経験した 小学校の給食 の まずい料理 と 同じようなもの が
提供されたのだろう と、思います。

60年近く前に
大学1年の時 に 南ドイツ から オーストリーに3週間ぐらい
バス旅行をしたことがありました。

その時に、
毎日 食事のたびに 炭酸系のリンゴジュースを支給されて飲んだのですが、
うまれてから初めて飲むリンゴジュース は、
最初 は 口に合いませんでしたが、

毎日飲むうちに、おいしさが分かってきて、
今では大好物の一つとなっています。

このように、
最初は 口に合わなくとも、
飲んだり食べたりしているうちに 味が分かってきて、
評価 が 変わることがあります。

ドイツ人 は、
ブイヨンの使わない料理 を 毎日食べているうちに、

それなりに おいしさを感じて
料理とは、こういうものだ と 思い込んで過ごしているのでしょう。

ですが、これは、
「繰り返しの歴史の国」であるドイツで生じたことであり、

「積み重ねの歴史の国」においては、
料理 を もっとおいしくする方法なないだろうか と、工夫 を 重ねる人 が 出てきて、

試行錯誤しているうちに、
ブイヨン を 加えると、もっと料理がおいしくなる
と、気が付くのではないでしょうか。

数年前に、
ドナウ川クルーズを レーゲンスブルクからブタペストまで楽しんだことがります。

利用したクルーズ船は、
日本企業の 「ニッコウトラベル」(JALさんの子会社ではありません)さんの所有船で、
料理を担当してくだっさったシェフは、ルーマニア人とのことでした。

実は、家内が ドナウ川クルーズは一度経験したいけど、
ローヌ川クルーズと比べて 料理 が まずいのでは?
と、逡巡していたのです。

ところが、
実際には、毎日提供される食事は、素晴らしいもので、
日本人の団体だからと言って提供された日本料理は、
日本人が作ったのではと思えるほどの出来栄えでした。

「ニッコウトラベル」さんに聞いてみると、
シェフを日本に呼んで、日本料理を含めて徹底的に教育しているとのことでした。

なるほど、それでおいしい料理を提供していただいているのだな、
と、感謝したのですが、

出されるスープには、
ブイヨンは使用していないなと感じられました。

シェフも、プロの料理人ですので、
日本で教育する際に、
初歩の初歩であるブイヨンの作り方までは、
教程に入っていなかったのでしょう。

ですから、
ベルリンとはまるで比較にならないレベルの大変おいしいスープでしたが、

やはりルーマニア人は、
繰り返しの歴史の国の人だなと、感じた次第です。

 

フランスは、
「積み重ねの歴史」と「繰り返しの歴史」の人々が 半々の国ですが、
指導者層は、「積み重ねの歴史」に属する人でした。

例えば、
渡辺一夫先生は、16世紀後半の宗教戦争の時代
ユグノー(新教)、カトリック、ユグノーと対立した3派の指導者は
「積み重ねの歴史」の地域である北フランス出身者だったと記述されておられます。

フランスは、
クローヴィスがベルギーよりパリに南下して建国した国であり、
支配層は、「積み重ねの歴史の国」の人々でした。

フランス料理は、
16世紀フランス王家に嫁いだメディチ家がもたらした
イタリア料理より発展したもであり
フランス王の宮廷をはじめとるる貴族の城館において 発展した料理なのです。

それが、フランス革命により
宮廷や貴族の城館に雇われていたシェフが失業したため
パリなどの町に出てレストランを開業したため、庶民にもフランス料理が広まり
国民的な料理として発展し現在に至っているのです。


イングランドは、
ノルマンディーからフランドルにかけての人々が、
ルマンディー公ウィリアムに率いられてイングランドに侵入して
現在に至る イングランド史 が 始まりました。

ノルマンディー公ウィリアムが征服した直後の イングランドは、
支配階級のノルマン人と、
アングロ・サクソン人やケルト人、ローマ人の末裔からなる
被支配階級との間に画然たる差がありました。

言葉からして、
支配階級のノルマン人は、フランス語、
被支配階級の人々は英語を使用していたのです。

ですから、
支配階級にとりブリテン島の領地は、征服した植民地みたいなもので、
本拠は、ノルマンディーからフランドルの間の地域だったのです。

その後、
イングランド王家のヘンリー2世が、アキテーヌ女公アリエノールと結婚して
スコットランド国境からピレネーに至るフランスの西半分の膨大な地域を支配する
アンジュー帝国 を 構築したのですが、

ヘンリー2世の息子ジョン王が、
フランス王フィリップ2世に フランスよりイングランドに駆逐されてしまい、

ジョン王の後継者が、
フランス領土奪回のためフランスを百年戦争を戦ったのですが、
最終的にフランスに敗北し、
ブリテン島の王朝としての歴史を歩むことになったのです。


その後、
イングランド王が、革命により断頭台で斬首されたころもありましたが、

フランスのように 共和制になることもなく、イングランド王が存続したために、
宮廷や貴族の城館で雇われていたシェフが 失業して、
庶民相手にレストランで営業するようなことが生じなかったのです。

これが、
イングランド料理は、まずい料理である との評価になった 一番の原因では?
と、考えています。

イングランド料理のまずさを象徴する例えとして
「イングランドでおいしい料理を食べたければ、朝食を2回食べればよい。」
と、云われています。

イングランドの朝食は、おいしいとの定評があるのです。
このことは、
イングランド料理を評価する際のヒントになるのでは?
という気がしています。


イングランドで 本当においしい料理は、
おそらく 宮廷や貴族の城館で食されているのではないでしょうか。

宮廷や貴族の城館で働いていたシェフが、
失業することもなく過ごしてきたため、

町のレストランの料理レベルが、上昇しなかったことが、
イングランド料理は、
まずい との評価 が 定まった原因ではないでしょうか?


例えば、
ティーで提供されるお菓子は、上質なものです。

特に、
クロテットクリームとジャムをスコーンを付けたものは、

トースト に バターとジャムを付けたものよりも
数段上質たと思います。

このクロテットクリームとジャムをつけたスコーンを食していたのは、
城館に住んでおられた貴族ではないでしょうか。


ロンドンで駐在員をしていた友人から、
最もおいしい紅茶は、イングランドより輸出を禁止されていて、
英国人が独占している

と、聞いたことがあります。

また、
ある年の正月休みに訪れたエジンバラの駅前のホテルで食したスモークサーモンは、
生涯最高のスモークサーモンでした。

日本人の大好きなイチゴと生クリームのショートケーキの原型は、
イングランド料理だと聞いたことがあります。

思いつくままに、イングランドの料理について述べさせていただきましたが、
私は、本当のイングランドの最高の料理を知らないのだろう
と、想像しています。

彼らは、
外国人に知らせずに、
自分たちのインナーサークルで 最高の上質な料理を楽しんでいるのだろう
と、想像しています。

私は、そのごくごく一部 を
垣間見ただけのような気がしています。


イタリアは
繰り返しの歴史の国です。

ローマ帝国終焉後、
ゴート人やランゴバルド人に支配された後、
ドイツ人が、神聖ローマ皇帝をしてイタリア政策を実施するのだといって
イタリアを支配していました。

その間に
ロンバルディアでは都市国家が栄て、

フリードリヒ2世没後 ドイツ勢力が衰えると
イタリア人の民族の祭典というべき イタリア・ルネサンスという 民族の祭典 を
繰り広げたのですが、

イタリア中部より南は、
ローマ教皇庁が フランス勢力を導入した後、
アラゴンに支配される経験をしたのち、

最終的に、
ハプスブルグ家 が イタリア全体を支配することになり、

19世紀半ば、トリノの宮廷がイタリアを統一するまで、
外国に支配される歴史を経てきました。

ところが、
繰り返しの歴史の国であるイタリアが、
積み重ねの歴史の国の象徴でもあるフランス料理の母国だ
と、いうのです。

残念ながら、
この疑問に対する回答を現在のところ持ち合わせていません。

確かに、
イタリアは海に囲まれていて、新鮮な食材が豊富な国であり、
おいしい料理がたくさんあることは事実です。

また、
フランス料理のように凝った調理法ではなく、
新鮮な食材を生かした料理が多い感じもしています。

例えていうと、
フランス料理とイタリア料理の差は、

日本で言うと京(京都)料理と加賀(金沢)料理の差に相通じるものがあるのでは?
と いう気が しています。

でも、
ドイツでさえ、

「繰り返しの歴史」をそのまま体現する料理 を 現在まで引き継いでいるのに、

ドイツ以上に「繰り返しの歴史の国」であるイタリアが、
なぜ あのような料理 を 保持しているのか、についての説明 が 思いつきません。


敢えて推測すると、

ローマ帝国時代 に 料理の基本が確立して、
それが、
20000年近く保持されてきているのでは?
と いう妄想しか 思いつきません。

この問題は、
ローマ帝国が「積み重ねの歴史」なのか、「繰り返しの歴史」なのか、
の 問題 と 深くかかわっていますので、

私の人生に 残された時間を考えるとき、
これから取りかかるには 大きな問題すぎるな
と、現在感じていますが、
他方、いつかギボンのローマ帝国衰亡史を読んでみたいなとも願っていますので
ひょっとして 考えるチャンスが訪れることが あったらな と 願っています。


以上、ヨーロッパ諸国の料理にまつわる雑感 を
お話しさせていただきましたが、

私の雑感について
お付き合いくださり ありがとうございました。

 

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2012年11月21日 (水)

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる

「ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?」のブログの中で
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html


 「ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の領土だったということは、
  どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

  ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
  ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
  無理だということが、身に浸みて理解できました。」

と、記述しましたので、


私がヴェネツィア隆盛期のポイントだろうと考えている
ヴェネツィアとビザンツ帝国の経緯をご紹介させて頂きます。



812年
シャルルマーニュとビザンツ帝国が アーヘン条約を締結して、

シャルルマーニュの皇帝戴冠を承認すると共に、
ヴェネツィアやイタリア南部がビザンツ帝国の領土となりました。


潟の中のリアルトに実質的な建国したばかりのヴェネツィアにとり、
このアーヘン条約は、今後の発展の基礎となる条約でした。

即ち、
ビザンツと提携することで

 1.東方世界で勢力を伸張する基盤を獲得すると同時に、
   フランク帝国内での商業に従事する権利も獲得して
   有利な立場を与えられただけではなく、

 2.ビザンツ帝国の領土となることで、
   事実上の独立を獲得すると共に、

   イタリアを支配していたフランクが干渉してたときには、
   ビザンツ帝国を盾に対抗することが出来たのです。


ビザンツ帝国の領土だったことは、

 1.中世になっても ヴェネツィアが、

   イタリアの政治権力、

   即ち
   皇帝や教皇の支配の外にいることができて、

   他の都市のようにイタリアの政治闘争に巻き込まれることを
   避けることが出来ました。


 2.また、教皇から距離を置くけたことにより

   近世に至るまで イタリアで唯一と言って良い「言論・思想の自由」を
   維持できたもととなったのです。


ヴェネツィアは、
800年代に ビザンツ帝国のために南イタリアに出兵しています。

例えば、

 1.840年
   サラセンに攻撃されたタラントに艦隊を派遣して、敗北しています。

 2.また、867年から871年にかけて

   841年から30年間
   イスラムに占領されたバーリを奪還するための

   フランク(皇帝イタリア王 ルイ2世)とビザンツの連合軍に、
   艦隊を派遣して、バーリ奪還に貢献しています。



なお、バーリは、

876年
ビザンツ帝国が攻略して以来

1073年
ノルマン人のロベール・ギスカールが攻略するまでの約200年間、

南イタリアでのビザンツ帝国の中心都市でした。


992年 5月 ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と同盟条約を締結して、事実上の独立を果たしました。


ビザンツ帝国 バシレイオス2世が、

ブルガリア王 サムイルとの戦いに際して、
ヴェネツィアと同盟を締結したのです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国にとって かけがえのない海軍の同盟者だったのです。

  注 バシレイオス2世 と サムイル  は、
     991年から1014年の27年間の長きにわたって戦いれました。

    この戦いで、
    バシレイオス2世は、「ブルガリア人殺し」との異名を得たのです。


    「盲者の行進」を参照下さい。
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8791.html



ヴェネツィアは、
この条約で、非常に有利な条件を勝ち取っています。

 1.ビザンツ帝国の宗主権の再確認と引換に、
   完全な自立性とビザンツ帝国諸港への自由な出入権を獲得したのでした。

 2.また、ビザンツ帝国の諸港での入出港料が、

   他の国が 30ソルディ金貨だったのに、
   その57%の17ソルディ金貨と優遇されたのです。


同じ年(992年)の7月には、

ヴェネツィアのドージェ(元首)ピエトロ・オルセオロ2世が、
神聖ローマ帝国皇帝に使節を派遣し、

神聖ローマ帝国内での ヴェネツィア商人の商業活動の自由の保証を
要請しました。


ビザンツ帝国との同盟を締結してから5年経った
998年に、

ヴェネツィアは、本格的にアドリア海に乗り出しています。


5月に
ドージェ ピエトロ・オルセオロ2世が、

最初の「海との結婚式(シェンサ)」を行った後、
ザーラの海賊退治に出帆しました。


ザーラで、
アドリア海東岸の20以上の都市に ヴェネツィアへの恭順と服従を誓わせ、

会議に欠席した レジーナ と クルツォラ を 猛攻して、
屈服させたのでした。


この遠征後、
ヴェネツィアのドージェは、

ビザンツ皇帝 バシレイオス2世より ダルマツィア公爵の称号を与えられて、
ダルマツィア公爵と名乗るようになりました。


1002年~1003年に

ヴェネツィアは、
アドリア海南部で、サラセンの海賊を撃破し、

アドリア海の平定を完成して、
アドリア海の統治 を 開始したのでした。


1081年には、
ノルマン人のロベール・ギスカールが、

イタリアよりアドリア海を渡って、バルカン半島に上陸し
コンスタンティノープルを目指して侵入してきました。

この1081年~1085年にかけての
ビザンツ帝国とノルマン人との戦いに際して、

ビザンツ帝国は、
ヴェネツィアと同盟して戦ったのです。


ヴェネツィアにとっても、
ロベール・ギスカールは敵でした。

アドリア海の支配を維持するためには、
アドリア海の出口の両岸を ロベール・ギスカールに奪われるわけには
いかなかったのです。



翌年の 1082年5月
ビザンツ帝国を援助したヴェネツィアは、

皇帝 アレクシオス1世の金印勅書により
例を見ない優遇措置をビザンツ帝国より獲得しました。


 1.ビザンツ帝国内で、何処ででも、
   あらゆる商品を、自由に無税で取引する権利

   → ヴェネツィア商人は、
     帝国内で無制限の自由貿易の権利 と 関税の免除 を 得たのでした。


 2.コンスタンティノープル市内に、

   幾つかの仕事場 と
   ガラタに渡る 3カ所の船着き場が、与えられました。

   → 即ち、
     コンスタンティノープルの金角湾沿いに、

     治外法権のヴェネツィア人の居住区と
     ヴェネツィア船専用の船着き場 を

     獲得したのです。


この優遇措置は、

それだけ ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアの海軍力を必要としていた証(あかし)ですが、

それにしても与えすぎでした。


ヴェネツィア商人は、

ビザンツ商人より優遇されて、
ヴェネツィアの植民地拡大の基盤が築かれたのですが、

他方、
ビザンツ帝国の商業体制に深い亀裂が入ったのでした。


これ以降、
既得権を維持しようとするヴェネツィアに対して、

ヴェネツィアの既得権を減らそうとするビザンツ皇帝や、
ヴェネツィアに対する ビザンツ商人や市民 の 反感による軋轢 が、

約120年間くすぶり続けて、

1204年の
第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃の結末をもたらしたのでした。


先ず、1111年に、

ビザンツ帝国は、
ピサに通商上の特権を与えて、ヴェネツィアを牽制しています。


更に、
1118年に 即位した ビザンツ皇帝 ヨハネス2世は、

ヴェネツィアを、
36年前の1082年の条約で獲得した地位から締めだそううとしましたが、

ヴェネツィア艦隊に
エーゲ海のビザンツ領の島々を攻撃されて、条約改定に失敗し、


1026年に

1082年条約のヴェネツィアの特権を、
100%認めざるを得ませんでした。



1082年より約70年後の 1155年に
一大転機が訪れました。

ビザンツ皇帝 マヌエル1世が、
南イタリアの征服するために、アンコーナに艦隊を派遣したのです。


同じ年(1155年)に
マヌエル1世は、

1111年にピサに与えたのと同じような通商上の特権を、
ヴェネツィアの最大のライバル ジェノヴァに与えています。



オストロゴルスキーは、
「ビザンツ帝国史」で、

 1.一時的に、バルカンの状態が旧に復した

   即ち、
   ハンガリーとの戦闘も静まり、

   キエフの王座に
   ビザンツの同盟者 ユーリー・ドルゴルーキーが即位したことと


 2.ノルマン・シチリア王 ロジェール2世が、
   前年の1154年に没したために

   イタリア攻撃を決意した
   と、記述されておられます。



これに加えて、
次の事情も、マヌエル1世が 遠征の好機と考えた理由と思われます。


 1.前年(1154年)の秋

   神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭)が
   第1回目のイタリア遠征を開始し、

   北イタリアのピアチェンツァの北のロンカール平原で
   帝国会議を開催した後、

   その後長く続く ロンバルディア諸都市の盟主 ミラノとの対立、諍いを
   開始しています。


 2.また、1155年の春

   ロジェール2世を継いだ ノルマン・シチリア王 ヴィルヘルム1世
   (ギョーム、グリエルモ)が、

   フリードリヒ1世がローマに到着する前に、
   教皇との和平を結べると考えて、

   教皇領に侵入して攻撃を始めています。



ビザンツ帝国は、

ノルマン・シチリア王の教皇領の侵入の空隙をついて、
アプリエンに侵攻して、

バーリ、トラーニなどの都市を占領しました。


このため、
ノルマン・シチリア王は、

教皇領で奪ったものを 教皇に返還し、
教皇 と 和解をして、

ビザンツ帝国に対抗せざるを得ませんでした。


マヌエル1世 と シチリア・ノルマン王との争いは、
1155年から3年間続きましたが、

1158年に、
マヌエル1世がシチリア・ノルマン王と和平を締結して、

イタリアへの侵略を断念して撤退しました。

ただ、
1157年頃取得したアンコナは、

ビザンツ帝国がその後も支配を継続しました。


今回のビザンツ帝国の南イタリア征服に対して、

ヴェネツィアが、
どの様な対応を取ったか、勉強不足のせいか、よく分かりません。


しかし、

ヴェネツィアが、
ビザンツ帝国を宗主と認めたのは、

名目的に認めることにより、
コンスタンティノープルなどビザンツ帝国内での通商を
有利に行うためだったのでしょうから、


ビザンツ帝国が
アドリア海に姿を現して、勢威を振るうようになると、

ヴェネツィアとビザンツ帝国が衝突するようになるのは、
時間の問題でした。



神聖ローマ帝国皇帝 フリードリヒ1世は、

1166年秋に
第4回目のイタリア遠征を開始していますが、


1167年早春には、
自ら軍を率いて エミリア街道をアンコナまで進軍して、

ビザンツ帝国が支配するアンコーナの攻略を開始しました。


この時、
ヴェネツィアは、

ビザンツ帝国が、イタリアに拠点を築くことに 危機感を持って、
マヌエル1世に背を向け、

マヌエル1世の船を提供する要請を拒否しています。


こうしてヴェネツィアは、

1082年獲得した
ヴェネツィア人の商業特権を維持するために必要だった
ビザンツ皇帝への義務 を 破ったのです。


マヌエル1世は、
同じ1167年に、

ハンガリーが支配していた
ダルマチア、クロアチア、ボスニア、シルミウム地方を
武力制圧しています。


ビザンツ帝国が、
ダルマチア沿岸地方を支配することは、

アドリア海の盟主であるヴェネツィアにとり、
危機的な状況でした。


ヴェネツィアは、

ダルマチア沿岸地方の主要な都市を押さえて、
船の物資や船員を補給していましたが、

都市の後背地が宗主であるビザンツ帝国が支配するとなると、
従来のようなスムーズな補給が不安となったのでした。


1168年には、
ヴェネツィア の ドージェ(元首) ヴィターレ・ミキエレが、

マヌエル1世が、
ヴェネツィアの特権継続を渋ったための対抗措置として、

全ヴェネツィア人に、
コンスタンティノープルでの交易を禁止しています。


2年後の1170年に、
ヴェネツィアとビザンツ帝国との和解が成立して、

コンスタンティノープルに、
ヴェネツィア人が見え始めたのですが、

その翌年の1171年 3月12日に、
コンスタンティノープルで

反ヴェネツィアの外国人排斥暴動が勃発しました。


この暴動は、

今まで貯まってきたビザンツ人(ギリシア人)の
反ヴェネツィア感情 が 爆発したものですが、

オストロゴルスキーは、

3月12日の一日で
ビザンツ帝国のヴェネツィア人全員(1万人)が逮捕され、

財産、船舶、商品が没収されたのは、
ビザンツ帝国政府の行政機構が確実に機能して、

事前に徹底的に準備していたことを証拠立てるものだ
と、記述して、

この暴動は、
マヌエル1世の煽動により生じたものだと断定しています。


1171年3月12日の暴動後、

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国と国交を断絶しています。


国交断絶は、10年以上続き、
アンドロニコス1世帝(在位1183~1185)の治世に
漸く回復したのでした。

国交断絶期間中
ヴェネツィアは、ビザンツ帝国の敵として行動しています。

例えば、

1174年春から10月にかけての半年間
皇帝 フリードリヒ1世の特使 マインツ大司教 クリスチャン1世が、

ヴェネツィアと同盟して
アンコーナを攻囲しています。


ヴェネツィアは、

マヌエル1世に、
アドリア海制覇を奪われる危険性の方が、

ドイツに脅かされる危険性より大きいと判断して、

フリードリヒ1世と同盟し、
海からアンコーナを攻撃したのでした。


また、1177年

ヴェネツィア ドージェ(元首)サバスティアーノ・ツィアニが
教皇とフリードリヒ1世の争いを調停し、

1159年から18年間続いた教会分裂を終了させる
ヴェネツィア条約を締結させています。


この1177年、
マヌエル1世は、ヴェネツィアに対して戦争を開始し、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人数千人を逮捕し、
財産と船舶を没収しています。


この時
ヴェネツィアが派遣した艦隊は、ビザンツ帝国に敗北しましたが、

その後、ヴェネツィアが、

ザーラとスパラートに 海軍を置くとともに、
シチリア王国と同盟を結んで 体勢を立て直すと、

ビザンツ帝国が、
ヴェネツィアに恐れをなして 平静を保つようになりました。



1180年9月24日
ビザンツ皇帝 マヌエル1世が没しました。

  マヌエル1世 在位 1143~1180 37年間


息子のアレクシオス2世が 即位し、
母のマリー・ダンティオッシュが摂政となりましたが、

    注 マリー・ダンティオッシュ は、
       十字軍国家 アンティオキア公国 ボエモン3世の娘です。


マリーのラテン人優遇策が、
ビザンツ国民のヨーロッパ人への敵愾心を増大させ、

イタリア商人とヨーロッパ人傭兵が、
彼らの憎しみの的となりました。


1182年5月
コンスタンティノープルの
反ラテン(反ヴェネツィア)外国人排斥暴動を利用して、

マヌエル1世の従兄弟 アンドロニクス1世が、
コンスタンティノープルに乗り込み、

9月には
共治帝の即位し、

11月には
アレクシオス2世をベットで絞殺して単独の皇帝となったのです。


3年後の1185年6月
シチリア王 ギョーム2世が、

アドリア海東岸のディラヒオンに上陸して、
ビザンツ帝国への侵攻を開始しました。


8月24日には、

セサロニキ(テサロニキ)を陥落させて、
コンスタンティノープルを目指して進軍しています。


アンドロニクス1世は、

シチリア王の遠征に対処するために、
ヴェネツィアと条約を締結したのですが、


条約締結後、
コンスタンティノープルに 再びヴェネツィア人が現れるようになると、

アンドロニクス1世の人気が真っ逆さまに急落してしまい、
コンスタンティノープルで貴族が反乱、決起する事態となりました。


そして、9月12日
イサキウス・アンゲロス(イサーク2世)が皇帝宣言して、

アンドロニコス1世は、
黒海に逃れようとして市民につかまり、リンチにより殺害されたのです。


こうして、
コムネノス朝が滅亡して、アンゲロス朝が始まったのです。


又、この事件で、
ビザンツ帝国の反ラテン感情が残り、

それが第4回十字軍の背景となったのでした。



1195年4月

イサーク2世は、
弟 アレクシオス3世に廃位されて、目を潰されて幽閉されました。


翌年(1196年)

イサーク2世の娘 イレーネは、
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップと結婚しています。


フィリップとイレーネの結婚後、
フィリップの兄 皇帝ハインリヒ6世が、

ビザンツ帝国に
1194年頃した要求と同じ脅迫的な要求をして、
金16ケンテーナーリウムの支払いを、
ビザンツ帝国に承諾させています。


皇帝 ハインリヒ6世は、

1185年
ビザンツ帝国を侵略したシチリア王の後継者でもあったのです。


アレクシオス3世は、
ドイツ税を新設だけでは支払いきれないため、

コンスタンティノープルの諸聖使徒聖堂の皇室の墓から
貴金属装飾を剥ぎ取らねばなりませんでした。

このドイツ税は、
ビザンツ帝国の人々の反ラテン感情を 更に悪化させたのでした。


ハインリヒ6世は、
脅迫的要求による法外な支払いだけに満足せず、

1197年
シチリア島 メッシーナ に大艦隊を準備して、

ビザンツ帝国征服に出発しようとしているときの9月に
病没したのです。

(ビザンツ帝国は、
 ハインリヒ6世の死により ドイツ税の支払いを免れました。)


この頃、
ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に
色々な理由から 攻撃されるべき存在と見られていました。


 1.商業上の競争相手
 2.ビザンツ帝国の 西欧人攻撃の 生々しい記憶

 3.シリアとパレスティナでの キリスト教徒の弱体化
 4.東西教会の分裂

 5.ビザンツ帝国のとみに対する羨望
 6.コンスタンティノープルにある 聖遺物


今まで述べたような経緯を踏まえて、第4回十字軍があるのです。


歴史の本を読むと、
今まで述べたような事件が、それぞればらばらに記述されています。

これらを一つの流れとして再構成しないと、歴史の理解が難しいと思い、
拙いお話しをさせて頂きました。


ヴェネツィア史は、

我々が世界史で学んだ西ヨーロッパ側から見るだけでは、
歴史上の出来事の意味を理解するためには 不充分であり、

西ヨーロッパ と ビザンツ帝国 の 両方の視点から
歴史を理解する努力が必要だろう と 思います。


マクニールの「ヴェネツィア」(岩波書店)は、
この両者に加えてスラブ、ロシアを含めた相互連関を記述した名著であり、
ご興味ある方に是非とも一読をお勧めしたい本です。



次回は、

この後生じた第4回十字軍について、
考えていることをご説明させて頂きます。


ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html




ヴェネツィア史 関連ブログ



ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-bed6.html

539年 フランク ヴェネツィアを占領
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d303.html

ちょっと変わった 第4回十字軍論
http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-762e.html

 

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2011年8月16日 (火)

ちょっと変わった 第4回十字軍論

第4回十字軍は、
十字軍の中でも「最もおぞましい十字軍」である、と、

高校の世界史で学んで以来、
約30年間、そのように思い込んできました。

ところが、
40代後半よりヨーロッパ史の本を読むようになってから、

「おぞましい十字軍」との評価は、
カトリックを中心とする 一つのイデオロギーからの
一方的な評価であり、

もっと客観的で冷静は評価をせねばならないのでは、
と、思うようになりました。

勿論、
コンスタンティノープルでの掠奪は、

当時の戦争には つきもの だとしても、
感心するものではありませんし、

ましてや、
他人の国である ビザンチン帝国を占領したことは、
許されることではないでしょう。

でも、
最近までの(本質的には現在でも)歴史 は、
弱肉強食の論理が支配していて、

弱みをみせたら、
つけ入れられるのが当たり前だったのです。

第4回十字軍のビザンツ帝国の征服 と
オスマントルコのビザンツ帝国の征服 は、

本質的に
同じような性質のものではないでしょうか。

一つの立場より 歴史につきものの悪を、

あるものは非難し、
あるものを是認するというのは、

公平でも、客観的でもないような気がしています。

その意味で、
第4回十字軍を巡る環境について、

あまり歴史の本では記述されていない
いくつか視点をお話しさせて頂き、ご参考に供したい
と、思います。


第1の視点

第4回十字軍は、
ヴェネツィアとビザンツ帝国とのそれまでの歴史の総決算
ともいうべき事件でした。


ヴェネツィアの立場からすると、

ビザンツ帝国は、
困ったときには、美味しい話で協力を依頼するくせに、

それが過ぎると、
約束を反故にするだけでなく、

ヴェネツィアの生命線である
アドリア海やイタリア本土 を 侵略したり、

コンスタンティノープルのヴェネツィア人 を
虐殺しているのです。

ですから、
ヴェネツィアにとって 第4回十字軍は、

我慢に我慢を重ねた結果、
乾坤一擲の反撃に出た と、いうことなのだろうと思います。

この点については、
「ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

ヴェネツィアとビザンツ帝国の関係の略史を
簡単にご説明させて頂きましたので、

ご覧いただければ幸いです。

  ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる


第2の視点

神聖ローマ皇帝が、承認した攻撃である点


ビザンツ帝国の内紛の一方の当事者を支援する神聖ローマ皇帝
(と、当時の人が考えていたドイツ王 フィリップ)が、

支援し、承認した コンスタンティノープル攻撃であり、

それが、
ビザンツ帝国の征服になったのは、

援助を受けて返り咲いたビザンツ皇帝が、
約束を全く守らなかったためです。

注) この記述は、
   第4回十字軍を正当化しているわけではありません。

   単に、
   2段階に分かれていた事実を、記述しただけです。


ビザンツ帝国の第4回十字軍を導いた内紛は、

1195年4月 イサーク2世が、弟 アレクシオス3世に、
廃位されて、目を潰され、幽閉されたことにより始まりました。

イサーク2世の娘 イレーネは、

1196年に
フリードリヒ1世の息子 シュヴァーベン大公 フィリップ
と、結婚しています。


イサーク2世の息子 アレクシオスが、
姉のイレーネを頼って、フィリップの許に身を寄せ、

1202年12月に アレクシオスが、
ザーラの第4回十字軍の陣営に赴いて、
コンスタンティノープル攻撃を依頼したことから、

第4回十字軍が、

エジプトではなく、
コンスタンティノープルに向かうことになりました。

このことに関して、

通常の歴史の本に書いていないけど、
見落としてはいけないと感じられるのは、

ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップ を、
当時の人々は、

神聖ローマ皇帝 乃至、もうすぐ皇帝になる人物で、
ローマ教皇に匹敵する人物である と、

考えられていたのであろう と、思われることです。


ドイツ王(シュヴァーベン大公)フィリップは、

皇帝 ハインリヒ6世の弟で、

1197年9月 メッシナで 兄 ハインリヒ6世が 没したとき、

甥のフリードリヒ2世(ハインリヒ6世の長男、3才)を
ドイツで 即位させるために、イエージに迎えに行く途中、
ヴィテルボに滞在していましたが、

ドイツで フィリップへの反乱が勃発したので、
危険と追っ手を逃れて
1197年 年末 に ドイツに帰国しました。

1198年3月(ハインリヒ6世の没してから半年後)
ミュールハウゼンでドイツ王に選出されています。

このフィリップに反対したのが、
ローマ教皇イノセント3世やケルン大司教で、

彼らが、
オットー4世を擁立したのですが、
ドイツ国内では、フィリップ支持派が大勢を占めていました。

この争いは、

1204年11月 ケルン大司教が、フィリップと和解して、
オットー4世が見捨てられたことにより
ドイツ国内的には決着したのですが、

ローマ教皇イノセント3世は、
依然として フィリップ の 皇帝即位 を 認めませんでした。

1208年
フィリップは、教皇の反対のため、皇帝に即位できない状況の中、
アルテンブルクで、ヴィッテルスバッハ帝領伯オットーに殺害され、

局面が大転換して、
オットー4世が皇帝の即位したのでした。

ですから、
1202年12月に
フィリップが、妻の弟アレクシオスの依頼を聞いて欲しい、
との意向だったと聞いた、第4回十字軍の幹部連中は、

皇帝(になるだろう人物)からの依頼と受け取ったのだろうと考えるのが、
穏当なところではないでしょうか。

当時皇帝は、
シュタウフェン家のものであり、
シュタウフェン家が ローマ教皇と対立していたことも、
当時の人々には周知のことだったのです。

勿論、一般に言われているように
第4回十字軍が資金が無かったので、
アレクシオスの美味しい話に乗らざるを得なかったことが、
一番大きな要因だと思いますが、

同時に、
フィリップのお墨付きのある攻撃だ、ということは、
ローマ教皇が大反対している状況では、
第4回十字軍の参加者に 心の安らぎ を 与えたのではないでしょうか。


第4回十字軍のレールを切り替えたことに関しては、
総大将が、途中で変わったことも、大きな要因だと思います。

第4回十字軍の総大将は、
最初はフランスのシャンパーニュ伯ティボー3世でしたが、

1201年に ティボー3世 が 没した後、
フィリップの臣下である イタリアのモンフェラート候ボニファチオが、
ソアソン(北フランス)で 後任の総大将に選出され、

ボニファチオは、
その足で フィリップの許を尋ねています。

多分、ドイツで、
フィリップよりコンスタンティノープルを攻撃するよう依頼され、

アレクシオス が、ザーラに赴いてきたとき、
コンスタンティノープル攻撃に意見集約するよう動いたのだろう
と、推測されているようです。


第3の視点
皇帝はじめ、南イタリアの君主は、
ビザンツ帝国を征服することを、常に考えていた。

この点については、

ヴェネツィア史は、コンスタンティノープルより見るとよく分かる」で、

 1.ロベール・ギスカールが、ビザンツ帝国を攻撃したこと
 2.皇帝 ハインリヒ6世が、ビザンツ帝国の攻撃直前に亡くなったこと

 3.当時、ビザンツ帝国は、西欧の人々(ラテン人)に 色々な理由から
   攻撃されるべき存在と見られていたこと

と、お話しさせて頂きました。

第4回十字軍以後でも、
イタリアから シュタウフェン家 を 駆逐した
シチリア王 シャルル・ダンジュー(フランス王 ルイ9世 の 末弟)も、
ビザンツ帝国を 攻撃しようとしていました。

ところが、
1282年4月の第1週 に、
ビザンツ帝国攻撃するために出帆しようとしていた、
その直前の3月30日に
シチリア晩祷の乱が勃発して、
シャルル・ダンジューが、シチリア島から逆に駆逐されてしまったのです。

この乱は、
シュタウフェン家の遺臣プロチダとビザンツ皇帝ミカエル8世が、
提携して、周到に計画した蜂起である、と記述する歴史家もいます。

この様に、
ビザンツ帝国は、南イタリアに食指をのばし、
南イタリアの支配者は、逆にビザンツ帝国を攻撃しようとしてきたのが、
12世紀から13世紀にかけてのビザンツ帝国を巡る政治情勢なのです。

この中で、
第4回十字軍も位置付けられるべきでは、
と、感じられるのですが、

ヨーロッパの歴史家にとっては、
当たり前のことなのか、それとも、タブーなのか、
あまり言及はありません。


歴史の本を読むことは、
その記述を理解して、
「知らなかったことを知ること」が 大いなる楽しみですが、

その記述を読んで、
「自分なりに熟考すること」も、歴史の醍醐味の一つだと思っています。

歴史の記述は、著者の価値観の反映であり、
記述されている歴史を、別の価値観で見ると、
別の姿が見えることが多々あります。

特に、ヨーロッパ史は、
1000年以上にわたってキリスト教の価値観に基づいて
記述されてきていますので、

ヨーロッパの歴史家は、
無意識のうちに、キリスト教、就中 カトリックの価値観に基づいて
歴史を見ています。

そして、
ヨーロッパに留学した日本の歴史学者、
更には、
彼らから歴史を学んだ我々も、

彼らの歴史の見方を、当然のこと、当たり前のこと と、
無意識のうちに アプリオリに 受け入れているのです。

従って、
彼らや、日本人の歴史家が、記述した ヨーロッパ史 を 読む際には、

そのことを意識して、
その記述を、冷静に、客観的に、その論理を考えてみることが、
歴史を学ぶ際に、非常に大切で、意義のあることだろう
と、思っています。

また、
当事者のヨーロッパ人でない 第三者からの歴史解釈 を 提示することが、
彼らに染みついたキリスト教の見方では 当たり前 と されていることを、
「ちっと違うのでは」と、指摘することが、
日本人の歴史学者に、最も求められていることだろうと、思います。

今回は、
通常の歴史記述と大分異なった、
人によっては脱線しすぎだろう と 思われるようなこと を、
書かせて頂きましたが、

読まれた方の中に、
第4回十字軍についての何かのヒントとなるものが、芽生えられて、
議論が誘発されたらな、と、願っています。

突拍子もないともとられかねないお話しを、
最後までお読み頂き、有り難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2010年12月11日 (土)

ヴェネツィア人は、どこから移り住んだのだろうか?

昔、塩野七生さんの「海の都の物語」の最初に、

アッチラがイタリアに侵入してきたとき、
アクィレア陥落後、ヴェネツィアに人々が逃げ込んだ、
との話が ありましたので、

ヴェネツィアの西側の本土の人々が、
ヴェネツィアに逃げ込んだのだろう と、思い込んでいました。

というのは、
ヴェネツィアは、東のアドリア海に面した潟(ラグーザ)の島だったからです。

ところが、歴史書を繙くと、

810年
リド島のマラモッコからリアルトに移住したとの記述がありますので、

何で、
西側の本土からではなく、
アドリア海に面したリド島に人々がいたのだろうか、

何故、
リド島の人が リアルトに移住して、
ヴェネツィアの統治権を握ったのだろうか、
との疑問を、長年抱いてきました。

今回(2010年4月)
クセジュ(白水社)「ヴェネツィア史」(クリスチャン・ベック著)を読んで、
この疑問が解消できましたので、
ヴェネツィアの最初の頃の歴史を、簡単に要約してご紹介させて頂きます。


人々が、ヴェネツィアに逃げ込んだ事件は、大きいもので3回あります。

第1回 401年 西ゴート族 アラリック の侵入
第2回 452年 フン族    アッチラ  の侵入
第3回 569年 ランゴバルド族      の侵入

アラリックは、
コンスタンティノープルから、遠路はるばるイタリアに侵入し、

アッチラとランゴバルド族は、
ハンガリーより侵入したのですが、

イタリアへの出口は、
3回とも、スロベニアよりイタリア東北部への道でした。

イタリアは、
北はアルプスがありますので、
イタリアへの東側の入り口は、
峠の道以外は、スロベニアからの道なのです。

第一次大戦の際も、
オーストリア軍がイタリアへ攻め入ったのは、

オーストリアが支配していたトリエント地方からと、
アラリックなどと一緒の スロベニアよりの道で、

スロベニア国境からヴェネツィアにかけての地方が、
主な戦場となりました。


伝説によると、
ヴェネツィアの建国は、421年3月25日だそうです。

クセジュ「ヴェネツィア史」の著者 ベックは、

452年  アッチラにより アクィレイア が 焼かれ、コンコルディアが破壊された
466年頃 リアルト(リヴォアルト)に 初歩的な政治体制 が 発足したと思われる
と、記述しています。

  コンコルディア  ヴェネツィア の東北 50km、アクイレイア の西 40km
  リアルト(リヴォアルト) サンマルコ広場~リアルト橋辺り一帯の島々

また、
538年 東ゴート カッシオドルスの書簡に、
ヴェネツィアのラグーナ(潟)の住民について言及されていて、

この書簡が、
ラグーナの住民に関する最古の史料だとのことです。

この様に、
400年代の2度の侵入により、
潟(ラグーザ)に浮かぶ島に人が住むようになったのだろう
と、思われますが、

2回の侵入共に一過性だったため、
戦乱により一時的に避難してきた人が多く、
侵入終了後、
元の住処に戻った人が多かったとのことです。

ですから、
このヴェネツィアに、人々が本格的に定住するようになったのは、
568年 ランゴバルドの侵入以降とのことです。

ランゴバルドは、
ご存じの通り、イタリアに侵入してきてイタリアを支配した民族です。
従って、
ヴェネツィアに避難した人が、
本土に帰ろうと思っても、帰るに帰られなかったのでしょう。

ベック「ヴェネツィア史」クセジュで、
避難の様子を次のように記述しています。

アクレイアの総大司教は、      グラード に 居を移した。
トレヴィーゾから逃げてきた人々は、リアルトの島々 や トルチェッロに 逃亡した。

パドヴァからは、   マラモッコ に、
フリウリ地方からは、グラード や カオルレに集落を作った。

キオッジャ や イエゾロにも、人々が 避難した。

  アクレイア   ヴェネツィア の東北東 85km
  グラード    ヴェネツィア の東    85km、アクレイアの南 10km

  トレヴィーゾ  ヴェネツィアの北    25km
  トルチェッロ  潟(ラグーナ)の中の島

  パドヴァ    ヴェネツィアの西    35km
  マラモッコ   潟とアドリア海を分けるリド島の町

  フリウリ地方 ヴェネツィアとアクレイアの間のアルプスの南山麓の地方
  カオルレ   ヴェネツィアの東北東 45km

  キオッジャ  ヴェネツィアの南    25km、アドリア海沿岸の町
  イエゾロ   ヴェネツィアの東北東 25km、潟(ラグーナ)の東端南側の町


色々な人々が、ヴェネツィアに避難してきたのですが、

その人々の中心となった
ヴェネツィアの統治権が、リアルトに移るまでのの変遷を、
編年風にご紹介させて頂きます。

569年 ランゴバルド、イタリアに侵入
639年 オデルツォが陥落し、チッタノーヴァ(エラクレア)に権力の中心が移動

697年 チッタノーヴァで、最初のドージェ 選出
742年 チッタノーヴァより リド島 マラモッコ に 権力の中心が移動
751年 ラヴェンナが陥落して、チッタノーヴァのビザンツ支配が終焉した

810年 ピピンの攻撃を撃退した後、
     マラモッコよりリヴォアルト(リアルト)に権力の中心が移動


569年
ランゴバルド侵入後も、
ヴェネツィアの地方は、ビザンツ帝国が支配していて、
行政のの中心地は、オデルツォでした。

  オデルツォ  ヴェネツィア の北 40km、 トレビーゾの東北東 25km

このオデルツォが、
639年に陥落して、行政の中心がチッタノーヴァに移りました。

  チッタノーヴァ Cittanova (現在 エラクレイア Eraclea)
  ヴェネツィア の東北東 30km、 オデルツォの南南東 25km
  ピアーヴェ河畔、ピアーヴェ川河口より 6km

    チッタノーヴァは、
    Civitas Nova Heracliana(ヘラクレイオス帝の新しい町)が 略されたもので、
    現在の都市名 エラクレイアは、ヘラクレイオス帝より 由来しています。

    ヘラクレイオス帝 は
    7世紀初めの東ローマ皇帝で、実質的なビザンツ帝国の創始者です
    東ローマ皇帝 在位 610~641 31年間          

    余計なことですが、
    イタリア語も、Hは フランス語同様 発音しないのでしょうか?

    また、発音しないHは、スペルからも消えてしまうのが、
    イタリア流で フランス語と異なるところなのですね。


697年に、
チッタノーヴァで、ヴェネツィア 最初のドージェ(元首)が、選出されています。
多分、
ビザンツ帝国より チッタノーヴァの自治権が認められたということだと思います。

ヴェネツィアの最初のドージェは、
ビザンツ帝国の人であってヴェネツィア人ではなかったことをご記憶下さい。


最初のヴェネツィア人のドージェは、

726年(29年後)
チッタノーヴァで選出された 第3代ドージェ オルソ・イバートです。
  ドージェ在位 726~737 11年間

チッタノーヴァのヴェネツィア人は、
ビザンツ帝国の臣民にもかかわらず、

聖画像論争でローマ教皇を支持して、
ビザンツ人でない オルソ・イバート を ドージュに選出したのです。

737年(11年後)
オルロ・イバートは、殺害され、
(多分、ビザンツ帝国に都合が悪かったので殺されたのでしょう。)

その後5年間、
チッタノーヴァは、ドージェが選出されずに
ビザンツ帝国の軍政がしかれました。

742年(5年後)
オルソ・イバートの息子 デオタード・イバートが、第4代ドージェに選出され、
即位した742年に、
首都を、チッタノーヴァより リド島マラモッコ に 移しています。

ピアーヴェ川より 船でマラモッコに移動したのだろう
と、想像しています。

マラモッコへの移住は、
ビザンツ帝国の介入を軽減するためだったのでしょうが、

ビザンツ帝国の北イタリアの拠点が、      
ヴェネツィア人が支配するチッタノーヴァでしたので、

ビザンツ帝国の拠点も、
この時に
チッタノーヴァより マラモッコ に 移動したのでした。

751年(9年後)には、
ランゴバルド王 アストルフォ(アイスツルフ)が、ラヴェンナを陥落させ、
イタリアでのビザンツ支配に終止符を打ちました。

この時、
ビザンツ帝国は、チッタノーヴァも、失っています。

800年頃(異説 810年)(49年後 又は 59年後)
ヴェネツィアは、シャルルマーニュの息子ピピンに攻撃されました。

これを撃退した後、
810年に、
アドリア海に面したマラモッコより、
潟(ラグーナ)の中央部のリアルトに、ドージェが率先し定住したのです。

これにより、
現在まで続くヴェネツィアの歴史が始まりました。

今回 ベックの「ヴェネツィア史」を読んで、つくづく感じたことは、
歴史というものは、
頭で知っただけではダメで、
身に浸みて理解しなければ理解できないな、ということです。

ヴェネツィアは、
ビザンツ帝国の領土だったということは、
どんな歴史の本にも書いてあることで、頭では理解していたのですが、

ヴェネツィアの歴史の歩みを理解するには、
ビザンツ帝国の領土であったことを、身に浸みて理解していないと、
無理だということが、身に浸みて理解できました。

恥ずかしながら、
名著と言われるマクニールの「ヴェネツィア」を、何回も読み始めては、
理解する能力がないと、途中で諦めてきました。

今回、曲がりなりにも最後まで読み通すことができたのですが、
それは、
ヴェネツィアがヴィザンツ帝国の領土だったということを
身に浸みて理解していたからだろうと思います。

今までは、どうしても、
ヴェネツィアは、イタリアの一部であり、
西ヨーロッパの側からの視点で歴史を見ていたのです。

これが、
ヴェネツィアの歴史の理解する上での妨げとなっていたのでした。


今回は、
地名の説明をちょっと詳しく記載させて頂きました。

これも、
歴史を理解する上で、
歴史的な事件が起きた場所を、地図で確認することが必要だということを、
身に浸みて感じているからです。

歴史を理解するには、地理学の知識も必須であり、
時間がかかっても、本を読みながら、場所を一つ一つ確認していかなければ、
歴史の理解は不充分となると痛感しています。

逆に、
知らない歴史をよむときに、場所を確認しながら、

また、
今まで作成してきた年表を見ながら読んでいくと、
何とか ぼやっとしたものでも、理解ができるものだと経験しています。

歴史を一歩踏み込んで理解されたい方がおられましたら、
このことを ご参考とされたらよいのでは、と思い、
余計なことを書かせて頂きました。



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2009年3月18日 (水)

「古代文化没落論」 及び ローマの滅亡 再論

マックス・ウェーバー著
「古代文化没落論」(河出書房「世界の思想18」)


          **********


マックス・ウェーバーを読みたくなって、学生時代の本を引っ張り出しました。

見事なローマ帝国論で、流石はウェーバーと感心しました。

また、
堀米先生の翻訳も読みやすく、
本当に歴史を分かっている人が翻訳すると、
このようにわかりやすい翻訳となる見本みたいな 見事な翻訳でした。

ウェーバーの論旨は、次の通りだと思われます。

 ローマが拡大して、奴隷が流入するようになって、
 自由なローマ市民による自由経済が、
 元老院階級が代表する 大土地所有者 の 奴隷を使用した不自由経済 に
 敗退して、没落した。

 巨大な家内奴隷経営 の 不自由な労働の集結のプロセス が 進行したが、
 この奴隷労働による 市場向けの生産 が、増加することにより、
 交換経済の上部構造に、
 無交換的需要充足 という 構成を持った 下部構造 が 入り込んできた。

 帝国の膨張がストップした後は、奴隷経済が萎縮し、
 自給自足の中世の荘園的な経済に移行していった。


ウェーバーを読んで、
ローマ史 や ローマの滅亡に関して、
次のような感想 を 改めて持ちましたので、ご紹介させていただきます。

ウェーバーが 指摘するような要因により、

共和政までのローマ を 担ってきた ローマ市民 が、
ローマを担う力を喪失したから、

カエサルが、
共和政より君主制に 移行しようとしたのだろうと思われます。

ブルータスは、
カエサル が、共和政をなくそうとしている、
と、非難して、暗殺しましたが、

共和政 を なくしたのは、
カエサルを非難したブルータス自身を含む、
元老院階級だったのではないでしょうか。

ローマ市民が、
拡大したローマ帝国 を 担うことができなくなった という事態に対処して、
カエサルは、
共和制を廃止して、君主制に移行しようとしたのであり、

カエサルが、
共和政を破壊しようとしたのではないのだろうと思います。

言い替えると、
カエサルは、
破壊された共和政に対処しようとした と、言うべきだろうと 思います。


カエサルの事業が、頓挫した後、
アウグストゥスが、巧妙な方法で皇帝の統治を実現しましたが、
それでも、200年しか延命できませんでした。

5賢帝のあとの混乱は、
建国以来のローマ市民が担ってきたローマが、立ちゆかなくなったこと
を、示しているのだろうと思います。


その混乱は、
ディオクレティアヌス帝、コンスタンティウス大帝 が、終息させたのですが、

再建されたローマは、
もはや共和政の都市 ローマ の 人々が作った ローマ ではなく、
イリュリクムの軍人達 が 作り上げた「新たな国家」でした。

都市 ローマ が、
もはや 皇帝の所在地ではなくなり、
首都が、コンスタンティノープルに移転したのが、その象徴だろうと思います。


ただ、
コンスタンティウス大帝の作り上げた帝国は、
統治を継続させるシステム を 完備していなかったので、

帝国の西側部分は、
胡散霧消して 蒸発してしまい、
東部分だけが、
610年以降ビザンツ帝国として、新たなスタートをしたのでした。


ローマの歴史は、
中国の歴史同様、「地域の歴史」と捉えるべきだろうと思います。

中国の歴史は、
王朝がいくつも変遷していきますが、

ローマの歴史も、
「3つの国家」が移り変わっていったと考えるべきではないでしょうか。

  ① 最初の 都市ローマ人のローマ(第1期) は、5賢帝で終了し、

  ② それ以後、610年まで(第2期)は、
     軍人皇帝から始まって、主にドナウ川流域出身の軍人達が統治しました。

  ③ 更に、
    610年、ヘラクレイオス帝が新たな帝国(ビザンツ帝国)を創始して、
    1453年まで続く ローマ史の第3期 が 始まったと思います。

以前に「ローマの滅亡」とのブログを書かせていただきましたが、
そのときご説明した、滅亡時期の候補は、
上記のような考えに基づいてあげさせて頂いたのです。

  ローマの滅亡
  http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_d658.html


キリスト教 は、
軍人皇帝時代のの混乱の中で、勢力を伸ばしたのであり、

(共和政以来の)ローマ が 滅亡した後 の
(イリュリクムの軍人が支配する)ローマで、勢力をのばして、国教までなった、
と、言えると思います。

ですから、

ランケは、「世界史の流れ」において、
「ローマ帝国が、キリスト教をもたらした」と、記述されておられますが、

「確かに その通り」だけれど、 

キリスト教をもたらしたローマが、
共和政以来の 都市ローマ の 人々が支配するローマ のような印象 を 持つとしたら、
「それは、事実とはだいぶ異なりますね」
と、ドン・キホーテ振りを発揮して、反論を入れたくなります。

同じく
「キリスト教が勝利した」とよく言われますが、

キリスト教が勝利したのは、
共和政以来の 都市ローマ の 人々が支配するローマ では なかったのです。

キリスト教は、
当時の「異教」
即ち、
「新プラトン派」や「 ミトラス信仰(太陽神信仰)」に、勝利したのです。 

従って、
「ローマが滅びたから、キリスト教が勝利した」
と、言うのが、一見矛盾しているようではありますが、
分かりやすく正確な認識であり、言い方だろうと、思われます。


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2009年3月17日 (火)

「背教者ユリアヌス」

G.W.バワーソック著
「背教者ユリアヌス」(思索社)


          **********


ユリアヌスについて、
1.ガリアでの事跡、特にフランクとの関係
2.哲学者皇帝として、キリスト教にどのように対処したのか
を、知りたくて、

ブルクハルトの「コンスタンティヌス大帝の時代」を読んだ機会に、
本書も読んでみました。

本書は、
だいぶ以前に、たまたまぶらりと入った古本屋さんで入手しました。


著書のバワーソックは、
ハーバード大学のギリシア語、ラテン語担当の教授で、
帝政ローマ時代の政治史、思想史、宗教詩の分野で
優れた業績を発表している方だそうです。

読んでいて、
同時代の史料をよく研究されておられることがよく分かりました。

「日本ほど翻訳が盛んな国は、そんなに無いのでは」と、
翻訳に従事されておられる先生方に日頃から感謝していますが、

本書みたいな 多分殆ど知られていない
ユリアヌスに関する貴重な伝記までも、翻訳出版して頂いていることを知り、
改めて、感謝の念を深くしました。


本書の内容についてご興味ある方は、
私のホームページの年表にまとめておきましたので、
年表をダウンロードして ご参照下さい。

その際には、
361年の ユリアヌスの年譜 を 目次代わりにお使い下さい。

   次の 中世史年表 4世紀(後半)をダウンロードして下さい
   http://chuuseishi.la.coocan.jp/rekishiindex.htm



さて、ユリアヌスは、

355年の冬に
副帝に任命されて、ガリアに赴いて以来、

360年に
兵士により皇帝に擁立されて、

361年7月
コンスタンティヌス2世と対決するために、東方に進軍するまでの
約5年半ガリアに滞在しています。


ガリアでは、
最初、アレマン族対策に従事して、

357年8月
ストラスブールの戦いで、アレマン族を撃破した後、
フランク族のケルン(多分 リブアリ族)に、部下のセヴェルスを派遣し、

秋には、
自らもライン川とマース川の下流地方のサリ・フランク族を攻撃しています。


翌年の358年にも、
前年の秋に引き続き ライン川とマース川の下流地方に遠征して、
フランク族を服従させました。

後に、
サリ・フランク族は、
フランドル方面に、移動して、クローヴィスの時代、パリに進出していますし、

リブアリ族は、
モーゼル川を上ってメッス方面と、

お互い遠く離れた場所に展開していますが、

当時は、
ケンペンとケルンと、約60kmぐらいの範囲に固まって居住していたのです。


ユリアヌスは、
その後
ライン川中流地方を平定して、ガリアの平定が一段落した時に、

コンスタンティヌス2世より、
ガリアの兵力の約半分をペルシア戦に提供するように、との命令を受けて、

360年
兵士により皇帝に擁立され、反乱したのでした。


361年7月
東方に進軍を開始したユリアヌスは、
コンスタンティヌス2世が、急に没したため、

12月には、
無事コンスタンティノープルに入城しています。


半年ぐらい滞在した後、
翌年(362年)6月頃
ペルシア戦の準備のために、アンティオキアに移動し、


363年3月には、
アンティオキアより出陣して、

5月末には
ペルシアの首都 クテシフォンまで進出しましたが、
陥落させることができず、

退却の途中、
6月26日 ペルシア軍の攻撃を受けて、戦死しました。


皇帝としてのユリアヌスの事跡について読んで、

ユリアヌスが、
ペルシア戦などしないで、
じっくりとコンスタンティノープルに居座って、統治していたら、
ローマ帝国はどうなったのだろうと考えたくなりました。

ユリアヌスが、人間的にも成熟して、
政治とは何か、
統治の「こつ」は、こういうところにあるのだな、
ということを理解して、 

20~30年間 ローマ皇帝として統治していたら、
多分ローマ帝国の歴史が変わっていたのだろう、と感じられます。


しかし、現実は、
アンティオキアで ユリアヌスは、
学校出たての 世間知らずの お坊ちゃま皇帝 扱いされて、
手練手管のアンティオキア市民に翻弄されているのです。

しかも、ユリアヌスは、
怒りを 正面から アンティオキア市民にぶつけるものですから、
周りで見ている 側近や軍の兵士 も あきれてしまって、
「これではだめだ」と思われたのでしょう。

戦死した際に、
「甲冑も着けずに戦場に飛び出すことは、皇帝としてあり得ない。
 身の回りの世話をする召使いに(見放されて)サボタージュされたのだろう」
と、塩野七生さんは書いておられますが、
まさにその通りだろうと思います。


ユリアヌスの周囲の人々からも、
「皇帝失格」の烙印を押されたのでしょう。

勿論、
皇帝失格の烙印 を 押した人々が、
立派な人とは言いませんし、
彼らの判断が正しかったとも言いません。

でも、
政治というものは、
立派な人が行うものではないし、
いつも正しいことがなされるわけでもないのです。

また、
立派な人がだけが、
理解でき、支持し得るもので なければ ならない のではなく、

平均レベルの人が、
理解でき、納得して支持し、ついていけるもの、
で なければ ならないのです。

ユリアヌスは、
このことを理解していなかったので、
短期間で、皇帝を退場させられたのだろうと思います。

バワーソックは、歴史家らしく
冷静にできるだけ客観的に抑制した感じで記述していますが、

それだけに、
ユリアヌスは、
キリスト教が非難する点とは別に、
人間的にも、政策的にも、問題の多い人物だったなとの感じがしました。


ユリアヌス ご本人は、
プラトンの哲人国家を目指したのでしょうが、

独りよがりで、自分の考えを押し通そうとしたことが、
短期間に戦死することになった原因があるのだろう
と、思われます。

その意味で、著者が最後に
「ユリアヌスを、
 心から賛美していたエウナビオスも、アンミアヌスも、
 ユリアヌスの弱点と、その終局の失敗については、
 冷静にわきまえていた。

 彼(ユリアヌス)は、余りにも多くを要求した。
 彼(ユリアヌス)は、愚かにも、また 殆ど協調しなかった。

 マクシムスやプリスクスのような忠告者とともに、
 彼(ユリアヌス)が、
 「かの静穏にして厳粛な、霊界への長らくの憧れ」を、
 現実に移し変える道を、見つけ出せなかったことは、
 多分驚くべき事ではないだろう」

と、書いておられるが印象的です。


今回印象に残ったのは、次の2点です。

1.ユリアヌスの信仰が、新プラトン主義であり、
  共和制時代のローマの宗教とは異なること。

2.この時代の歴史の難しさは、
  文献の内容が信用できないことにあるということ、です。


第1点目については、

ユリアヌスが、
新プラトン派の信奉者であることが、よく分かりました。

以前は、なんとなしにストア派の哲学者で、
ローマの伝統宗教を信じていて、これらを復興させようとしていたのかな、
と、思い込んでいました。

日本で、ユリアヌスは、
哲人皇帝ということで、実際より よいイメージを持たれているのだろうな
と、思うようになりました。

新プラントン派については、
最近読んだブルクハルト「コンスタンティヌス大帝の時代」で、

私の感性では想像もできない代物で、
今まで 想像し、思い込んでいたものと全く異なるものだ、
と、いうことが理解できたばかりですので、

これから機会を見て理解を深めていきたいと思っています。


第2点目については、

キリスト教護教家だけでなく、
ユリアヌスやアンミアヌスのような異教の人も、
自分の都合にあわせて事実を改ざんしているので、

この時代において、何が本当なのか、
歴史家は、
いろいろな史料を読み比べて、吟味しなければならないから
大変だな、と、痛感しました。

一つ一つの歴史事項について、長年色々研究した後、
「確実にこうだ、とは言えないまでも、
 多分、これが歴史の事実だろう」
と、結論づける 何人もの学者の作業を重ね合わせないと、

その時代の ほぼ信頼の置ける歴史 にはならないのだろう
と、思います。

一つの史料、文献を読んで、
これが歴史的事実である、と断定するのは、
地雷原を、オートバイで疾駆するようなもので、

ブルクハルトが「コンスタンティヌス大帝の時代」で述べている
「当時の著作者の罠」に易々とはまってしまう可能性が
大きいのでだろうと思います。

歴史家が、この時代を語るためには、
1次史料だけでなく、2次史料、3次史料、

更には、
その時代を深く研究されている歴史家の本を、読んだ上で、

慎重に 歴史的事実を積み重ねて、
自分の歴史観を築いていかねばならないので、

一冊の本の裏には、
膨大な作業と思考が行われていることが、よく理解できました。

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2009年3月 1日 (日)

「コンスタンティヌス大帝の時代」

ヤーコプ・ブルクハルト著
「コンスタンティヌス大帝の時代」(筑摩書房)


          **********


何十年か振りに、
大学の本格的な充実した講義を、まじめに受講した感じを受けました。

本書は、
ディオクレティアヌス帝 と コンスタンティヌス帝の時代、
特に、
コンスタンティヌス大帝についての記述 を 目的としていますが、

その前段の説明として、
5賢帝以降の約200年間のローマ史(政治史)を、導入部で記述されています。

軍人皇帝達一人一人に対するブルクハルト評を楽しく読まして頂きました。
この部分だけでも、非常に参考となる、価値がある本だと思います。

また、
前段の説明として、
新プラトン主義や異教の宗教関係を記述されていますが、
読んでいて、よく分かりませんでした。

自分の思っていることと、
ブルクハルトが書いてあることが、ちぐはぐで、かみ合わず
読んでいて、ブルクハルトの記述が頭に入ってこないのです。

「何でこうなんだろう」と思いながら
この部分を読み終わって、しばらく経ってから、

私が、新プラトン派というものを、
「完全に思い違いをしていた」ことが原因だろうな
と、いうことが分かってきました。

ブラウンが、「古代末期の世界」で、
「中世に伝わったプラトンは、新プラトン派のプラトンである」
と、記述されておられるのを承知していたのですが、

その意味を全く理解できていなかったのだな、と思い至りました。

新プラトン派は、
プラトンの哲学を論じていると、思い込んでいたのですが、

ブルクハルトによると、
哲学より、魔術や供犠等の宗教的なものを含んだ、
キリスト教に対抗する異教なのです。

プラトンという名前が強烈なため、
哲学だと思い込んでいたものですから、

ブルクハルトが、
宗教的な要素を説明している記述を読んでも、
拒絶反応をもよおしてしまって理解できなかったのです。

従って、
この部分については、もう一度読み直さねばならないと考えていますが、
他の宗教や哲学を論じた本を幾つか読んだ後、トライしようと思っています。


さて、
本書に関して、一番問題なのは、

ブルクハルトが、

何故この本を書いたのか、
本書で何を訴えたかったのか、
ということだと思います。

私には、ブルクハルトが、
この時代のキリスト教護教家の著述は、

歴史家の眼から見ると
「全く信用できない、でたらめの記述」にもかかわらず、

19世紀 ブルクハルトが本書を記述した頃は、
「歴史的事実」として通用していたため、

学問的見地から、
これを正そうとされたのではないだろうか、と感じられるからです。

そして、このことは、
当時としては、大変勇気がいることだっただろうと推察されます。

その意味からも、
本書の歴史的価値は高く評価されてしかるべきと、思います。

本書における ブルクハルトの意図は、
幸いなことに、
その後の歴史家に 連綿と 受け継がれて、

コンスタンティヌス帝は、
「キリスト教を優遇したと共に、異教も信じていた人物である」
との 客観的で公平な見方が、現在では、定着しているのだろうと思います。

キリスト教の立場からみると、
本書により、自分たちの「嘘」をばらされた訳ですので、

だからこそ、
本書が、
「イタリアルネサンスの文化」ほど有名にならなかったのだろうと思いますが、

この時代の基本的な歴史書の一つとして、
今後とも読み継がれていくべき名著だと思います。

ただ、
この本を読んだ後では、

キリスト教関係者による「この時代の キリスト教史」の 記述 は、
「この時代 の キリスト教護教家の記述」を、
「正」として記述せざるを得ないでしょうから、

書いてあることが、歴史的事実かどうか、常に疑いを持って
一つ一つ本当かどうか、考えながら読まざるを得なくなったな
と、ちょっと気が重くなっています。



印象に残ったブルクハルトの記述を、
ご参考までに、幾つか抜き書きさせていただきます。


1.「コンスタンティヌス大帝伝」の著者 カイサレイアのエウセビオスについて

エウセビオスの著書は、
全ての歴史家が、彼に従っている とはいえ、

彼の著書に指摘されている
恐ろしく沢山の 歪曲、隠し立て、そして 捏造 のことを考えると、
もう決定的史料としての 役割を果たす いかなる権利 も 全く持っていない。

  出所;「コンスタンティヌス大帝の時代」410㌻

コンスタンティヌス帝についての記憶は、
歴史という観点から見た時、考え得る限り最大の不運を持っていた。

異教の著作家達が、
彼に敵意を抱かざるを得なかったことは自明のことであり、
このことは、
後世の眼から見れば、彼にとって何の不利にもならないであろう。

しかしながら、
彼は、あらゆる賞賛演説家のうちで、最も不快なものの手中に陥っていた。
というのも、
この者は、この皇帝のイメージを徹底的に歪曲しているからである。

それは、
カイサレイアのエウセビオスであり、
そして
その「コンスタンティヌス大帝伝」である。

非常な誤りを犯しているとはいえ、
とにかく重要で、強烈なこの人は、
ここでは徹頭徹尾一人の敬虔な信心家の顔をしているが、

反面、他の所では、
この著作家の犯した罪業の非常に多くが、あらゆる方法で確認されている。

また、
この曖昧な賞賛は、心底不誠実なものである。

エウセビオスは、
人物について述べているが、

実は、
ただある事柄だけを、
即ち、
コンスタンティヌス帝によって非常に強力に、かつ十分に確立された
教階制度の利害のことだけを考えているのである。

ちょうどうまい時に、こうしたものに気づいた人は、

そのことによってむしろ、
自分に何かが隠蔽されている、という、まさにその理由から、
最悪のことをうかうかと推測させられてしまうのである。

  出所;「コンスタンティヌス大帝の時代」359㌻


2.コンスタンティヌス帝 と 聖職者 との 取引について

コンスタンティヌス帝は、
聖職者階級が、すでにきわめて固有な仕方で組織化されて、権力となり、
また、
迫害されることで大いに高揚しているのを見出したのである。

そのため、
彼は、この団体と、その高い信望とを介して支配しなければならなかった、

でなければ、
この団体を遅かれ早かれ敵に回さざるを得なかったのである。

それ故、
彼は、この団体に、
一種の共同統治を含めた、ありとあらゆる保障を与えた。

そのかわり、
聖職者達 は、
コンスタンティヌス帝の権力のいとも恭順なる伝播者となり、

また、
彼がなお、一方の足 を 異教 の中に おいていたこと、

それどころか、
その両手が、すっかり 血で 汚されたいたことさえ、
完全に 不問に付したのであった。

  出所;「コンスタンティヌス大帝の時代」426㌻


3..コンスタンティヌス帝 の「臨終の床での洗礼」について

この人の行動について、
首尾一貫した方式を立証したいと思うであろうが、

この点において
故意に首尾一貫した態度をとろうとしていない人間に
そういうことをしても無駄である。

彼の キリスト教信仰告白 と、
臨終の床での洗礼 についての判断 に いたっては、

各々が、
自分の基準に立って 判断を 下さねばならないであろう。

  出所;「コンスタンティヌス大帝の時代」426㌻

(補足)

この文章には、衝撃を受けました。

コンスタンティヌス帝は、
逝去直前 ニコメディアのエウセビオスより、アリウス派の洗礼を受けた
というのが、歴史的事実として通用していることです。

これに、
ブルクハルトは、疑問を呈しているのです。

確かに、
コンスタンティヌス帝の洗礼は、
キリスト教関係者が、「洗礼を授けた」との発言しているだけですから、

「本当に、コンスタンティヌス帝が 洗礼を受ける意志があったのか」と、
キリスト教関係者の証言に疑問を呈したら、

キリスト教側から、
物的な直接的な証拠 を 提示することはできないだろうともいます。

逆に、
洗礼は、
密室で、キリスト教徒しかいないところで行われたのでしょうから、
洗礼がなかった との 物的な直接証拠 も ありません。

要するに、
「言った、言わない」
「やった、やらない」 と、同じ性格の問題なのです。

ですから、
「洗礼を受けたか どうか」の 判断 は、
「洗礼を授けた」との キリスト教側の証言 を、信用するか どうか によるのです。

ブルクハルトは、
コンスタンティヌス帝の「太陽神への信仰」や、「キリスト教政策」を
トータルとしてみた時に、

臨終の床で 洗礼を受けなかった可能性 も あるのでは、
との、ぎりぎりの言い方で、
疑問符をつけた形の記述を しているのだろうと思います。

これは、
いくら学術書の中とはいえ、
19世紀のヨーロッパでは、大変な勇気を必要としたでしょうし、
大変な覚悟をして 決断した上での記述 だろうと思います。

実は、
この文章は、唐突に出てきましたので、
その意味合いを理解するまで時間がかかりました。

ブルクハルトは、
ちょっと読んだだけでは、記述の意味の重大性を 悟られないように
書こうとしたのだろうと想像しています。




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2008年12月17日 (水)

「ネイションという神話」第4回 オドアケル

前回
「歴史の本を読むことは、ジグソーパズルをするようなものだな、
と、つくづく感じています」とお話しましたが、

歴史のピースを組み合わせた例 を ご紹介させて頂きます。


ギアリの「ネイションという神話」を読んでいると、
次のようなオドアケルの記述にびっくりしました。

「サクソン人海賊は、
 3世紀(200年代)に北海沿岸から(ローマ)帝国に侵入してきたが、
 幾つかのサクソン人軍団は、それ以降ずっとローマ軍に仕えていた。

 5世紀(400年代)に、その中の一集団がガリアに現れた。
 彼らは、
 後にイタリアの支配者となった蛮族の王 と恐らく同じ人物であるオドアケルに
 率いられていた。」

  <出 所> パトリック・J・ギアリ「ネイションという神話」(183㌻、白水社)

注に、
グレゴリウス「フランク史」第2巻18 と、
ギアリの記述の出所が記されていましたので、

早速 フランク史を ひもといてみましたところ、
概略は次の通りでした。

  463年
  オルレアンの戦いで、
  ローマ人 アエギディウス と フランク人キルデリクス1世(クローヴィスの父)の
  連合軍 が、

  西ゴート テオドリック2世に勝利した後、
  オドアケルが、
  サクソン人を率いて アンジェに やって来ました。

  サクソン人は、
  ソーミュール と アンジェの間の ロワール川の島 を 基地にして、
  アンジェを占領し、近隣を荒らし回ったのですが、

  アエギディウス没後、
  フランクのキルデリクス1世に敗れて、盟約を結び、

  イタリアに去って、
  イタリアの一部を荒らし回っていたアレマン人を征服した。

   (注) アエギディウス の 没年 464年 or 465年

  <出 所> トゥールのグレゴリウス「歴史十巻」(フランク史) 第2巻18、19
          東海大学出版会版 Ⅰ-127㌻
          新評論版       73㌻


オドアケルは、

476年
西ローマ帝国を滅亡させたとして、
中学以来おなじみの人物ですが、

その経歴についての記述 を 読んだ記憶 が
殆どありませんでした。

例えば、
岩波書店の「西洋人名辞典」の オドアケル を見てみると、

476年以前の記述は、次の通りです。

  ゲルマンの傭兵隊長、スキリア族の出身、
  470年 ラヴェンナで 西ローマ皇帝の親衛兵 となった、

読んだ本を 年表に記入する作業を積み重ねて、
歴史の一こま一こまを集めていくと、
ある人物の経歴が、見えてくることがあります。

今回
ギアリの記述により、
オドアケルの経歴が、おぼろげながら見えてきたような気がしています。

トンプソンの「フン族」によりますと、

オドアケルは、
アッティラのロガーデス(重臣) の エデコの息子 であろう、
と、記述されています。

エデコは、

449年
アッティラの使節として、コンスタンティノープルに派遣された
アッティラの側近ですので、

オドアケルも、
アッティラの家臣として451年のカタラウヌムの戦いに参戦したのだろう
と、思います。

  <出 所> トンプソン「フン族」(168㌻、法政大学出版局)

その後の足取り が 分からなかったのですが、
今回のギアリの記述により、

455年
フン帝国が 瓦解した後、

460年代半ばに、
オドアケルは、サクソン人を率いて ロワール川を荒らして、
フランク人に敗れた後、

イタリアに行って
ローマ軍の傭兵となったのだろうと想像されます。

そして、
476年に 
オルテスを殺して、オルテスの息子 ロムルス を廃位し、
西ローマ帝国を滅亡させたのでした。

なお、
オルテスは、

パンノニア生まれのローマ人ですが、
アッティラのロガーデスの一人 で、

オドアケルの父エデコと共に、
449年
コンスタンティノープルに赴いています。

オルテスも、
フン帝国瓦解後、イタリアに行って、
ローマ軍の傭兵として働いていたのでしょう。

長い伝統を誇った西ローマ帝国が滅亡したとされる事件が、
アッティラの遺臣同士の争いだったとは、
歴史の皮肉というべきなのでしょうか。

あの偉大なローマの歴史を思い起こすとき、
何とも複雑な感慨がわいてきます。




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2008年12月15日 (月)

「ネイションという神話」第3回 スラヴ人の生い立ち

歴史の本を読んでいると、

エルベ川を越えると スラヴ人がいた
との記述 が あるかと思うと、

ギリシア は、
スラヴ人 が 進出してきて、その支配下になった
との記述 が 出てきます。

スラヴ人は、
ヨーロッパの西北のエルベ川より、
南のギリシア、東のロシアまでの広大な地域に、
散在して居住していたのです。

ゲルマン民族は、
ゴート人、ヴァンダル人、
フランク人、アレマン人、ランゴバルド人など、
それぞれについての記述がなされていますが、

スラヴ人についての記述は、それほどなく、
スラヴ人は、
茫洋としていて、よく分からないな と、思いながらも、

特に それ以上調べようともせずに、
時間が、過ぎてきました。

私にとって、スラヴ人は、
気にはなるけど、放置してきた歴史事象の一つでした。

今回
ギアリ「ネイションという神話」の
スラヴ民族の生い立ちの記述を読んで、

なるほどそういうことだったのか、と、理解できたと共に、

歴史を学ぶに際に 注意せねばならない点 を、
改めて考えさせられましたので、ご紹介させて頂きます、

最初に、
ギアリのスラヴ民族の生い立ちについての記述
を、抜粋してご紹介させて頂きます。

なお、
(注)の記述は、私の補足説明です。

   パトリック・J・ギアリ著「ネイションという神話」(185㌻~193㌻、白水社)


5世紀~7世紀(400年代~600年代)

ゲルマニア とされた地域の東側 を
バルカン半島や黒海地方のローマ帝国属州を含め バルト海~地中海まで
スラヴ人 が 支配した。

スラヴ人の起源は、
ローマ側の史料が
スキタイ人、サルマタイ人と呼ぶ者 と

ゲルマン人軍団が
ローマ帝国に向かった際に残した エルベ川東部地域のゲルマン系集団
の 混合体 として形成された。

最近の研究では、

数世紀前(200年代前半)に
西方のライン川沿岸で フランク人とアレマン人が 誕生した
のと 同様に、

ビザンツ帝国 の 軍事的、経済的圧力のもとにあった
ビザンツ辺境地域 で スラヴ人 が 誕生した
と、もっともらしく 説明している。

  (注)ギアリは、最近の研究の結果に、賛同してないようです。

スラヴ人支配への変化は
強力な王の物語もなく、あまり目立たずに起こった。

スラヴ人自身の資料が 残っておらず、
ビザンツ帝国、ラテン世界 の 観察者による 理解や記録 も 乏しかったが、
スラヴ化の影響 は、きわめて深かった。

ローマ と 同盟を結んだ 西方の蛮族(ゲルマン諸部族)は、
ローマ の 政治体制、宗教、入植地 を 引継ぎ、
最終的には 完全なローマ人となったが、

スラヴ人の移住は、
ローマ の課税制度、農業、社会構造、政治組織
を 取り入れたり、
それを 基礎とすること が なかった。

スラヴ人の組織は、
ローマを模範とするものではなく、

その指導者も、
通常は、
ローマの富で 成功を買うようなまね を しなかった。

それ故に、
彼らの影響力は、
ゴート人、フランク人、サクソン人が及ぼした影響 を、
遙かに上回っていた。

  (注)ローマ帝国は、
     侵入してきたゲルマン民族に、
     金を渡して引き取らせることがよくありましたが、

     スラヴ民族は、
     原則として ローマの買収に応じなかった、ということです。

7世紀(600年代)を通じて
スラヴ人は、ドナウ川を越えてバルカン半島に少しずつ入っていた。

スラヴ人 は、
ゲルマン民族のような 税を取り立てる軍団としてではなく、
農耕民 として現れた。

従って、征服後、
先住民を スラヴ人の 言語構造 や 社会組織 に 組み込んだ。

こうした拡大は、
まとまりを欠き、急速に分散化した。

戦士 と同時に 農耕民でもある スラヴ人の征服 は、
2世紀前の 単に税収の移転だけだった ゲルマン人の征服 とは 異なっていた。

スラヴ人 は、
捕らえた兵士を 殺害したり、身代金を取って 売却した。

その地 に とどまった者は、
逃亡するか、スラヴ社会の農民層 に 組み込まれるか の決断を迫られた。

  (注)ゴート族やヴァンダル族などのゲルマン民族は、
     兵士の集団でしたので、

     多数のローマ人を支配するために、地域的に まとまらざるを得ず、
     その収入を、ローマの行政組織(徴税組織)に依存したのでした。

     これに対して、
     スラヴ人は、農民でしたので、

     先住者の農民を、駆逐するか、農奴にして、
     自らが、征服地に分散して耕作に従事したのです。

     ゲルマン民族に支配されたローマ人は、
     原則として税金さえ納めれば、従来の生活を維持できましたが、

     スラヴ人に支配されたローマ人は、

     移住するか、
     スラヴ人の下で農奴として下働きをするか

     の 選択を、迫られたのでした。

中世盛期に至るまで、
スラヴ人 の 言語 や 物質的文化 は、
東ヨーロッパ全体で、驚くほど均質であった。

これと対置されるのが、
内部の集権的権力 の 著しい欠如 だった。

スラヴ人の成功の鍵は、この権力の分散化 だった。

スラヴ人には、
王や有力な首長 が いなかったので、

ビザンツ帝国は、
スラヴ人を 滅ぼしたり、
帝国体制に 組み込んだりしよう とは 考えなかった。

スラヴ社会を、
大規模かつ階層的 に 組織化する場合、

必然的に、
外部から持ち込まれた指導体制 に従って 行われることになった。

スラヴ人の組織化のきっかけは、アヴァール人だった。

スラヴ人の軍は、
アヴァール人の指揮下に入り、

その他のスラヴ人は、
アヴァール人の支配を受け、
アヴァール王国が続く限り、その構成要素となった。

アヴァール人が現れる前から、
エルベ川~ドナウ川下流にかけて、
スラヴ化が 進行していた。

スラヴ人は、
新興の草原帝国 アヴァールに 押しやられる形で、
ビザンツ帝国との境界地域 を 窺うようになった。

6世紀後半(500年代後半)
スラヴ人が、ギリシア半島に初めて侵入した原因
は、これによって説明がつく。


< アヴァール族の進出についての ギアリの記述 >

558年 or 559年 ローマ帝国 ユスティニアヌス帝 に使節 を 送り
            毎年の報酬支払い と 引き換えに帝国の敵と戦うと申し出た

567年 カルパチア に 姿を現し、ゲピート族を打倒して アヴァール王国建国

 アヴァールのハン(支配者)  バヤーン(バヤン)
   在 位  562~602 40年間

   バルカン地方 の 支配権 を 確立し、
   ウティグール人、アント人、ゲピート人、スラヴ人を 戦い、
   20数年間で 巨大な多民族連合 を 作り上げた。

   ランゴバルド人が、
   パンノニアよりイタリアに移住後
   パンノニア(ハンガリー)に、確固たる支配を樹立した。

626年
アヴァールのコンスタンティノープルでの大敗北の後、
アヴァール人の周辺にいた 多くの集団 が 反乱を起こし、

西においては、
フランク人 と アヴァール・ハン国の間に、サモの王国、

東では、
ビザンツ帝国 と アヴァール・ハン国の間に、
複数の自立的な政体が、作り上げられた。

サモ の 王国は、

フランク人サモが、
現在のチェコ地域 で、アヴァールに反抗して、

生まれも様々な スラヴ人の一団 を、
戦闘的な集団へとまとめ上げ、35年以上にわたって統治した。

626年
アヴァールのコンスタンティノープルでの大敗北の後、
サモに率いられたスラヴ人が、
アヴァール王国の同盟軍から離れたが、

これは
敗北後の いくつもの反抗運動 の 一例に過ぎない。

10世紀(900年代)に、
クロアチア人、セルビア人として知られる集団 も、

626年の敗北後、
アヴァール・ハン国が、内部危機を迎えた この時期に、生まれた。

ブルガール人についても、
同様の起源 を みることができる。 

  (注)626年夏 アヴァール族のコンスタンティノープル攻囲

     622年~628年(6年間)
     ビザンツ皇帝 ヘラクレイオスが、ペルシア遠征しました。

     遠征中の626年夏に
     ペルシアが、アヴァール族と同盟して反撃の為に
     皇帝の留守を狙って、コンスタンティノープルを攻撃しました。

     ペルシア軍は、
     対岸のカルケドンに陣を取り、
     実際にコンスタンティノープルを攻撃したのは、アヴァール族でした。

     アヴァール族は、
     スラヴ族やゲピート族、ブルガール族を引き連れて、

     7月27日に
     海陸からコンスタンティノープルの攻囲を開始して、

     8月10日
     総攻撃をかけましたが、壊滅的な打撃を受けて敗退しました。

       <出 所> オストロゴルスキー「ビザンツ帝国史」140㌻


     ギアリは、
     敗北後アヴァール人の中核部分は、
     勢力 を かなり衰えさせたものの、滅亡せずに なんとか持ちこたえた
     と、記述しています。 

     また、
     アヴァールの最後について、

     シャルルマーニュが、
     ハンガリー の アヴァール王国中心部まで攻め込んだ。

     これにより、
     アヴァール王国は、多民族的な連合軍 を 維持できなくなり、

     その後、
     大きな戦いもないまま 1世代のうちに
     アヴァールは、歴史から消えてしまった
     と、記述しています。

     シャルルマーニュ の アヴァール戦役

     791年 レーゲンスブルクで交渉決裂後、ハンガリー遠征

     795~796 第2次ザクセン戦役終了後 再開し
             息子のイタリア王ピピンが、パンノニア に 遠征して
             アヴァール王国 を 滅亡 させ、フランク王国 に 併合し
             →  アヴァール 辺境領 (オスト マルク)を 設置した

      <出 所> 五十嵐修 「地上の夢 キリスト教帝国」 150㌻


以上が、ギアリの記述の抜き書きですが、

この本を読んで、

スラヴ人に対する基本認識ができたことを喜んでいると共に、
歴史書を読む際に、

西ヨーロッパやビザンツ帝国の視点から、
スラヴ人やアヴァール人を見ていたから分からなかったのだな、
と、痛感しました。

我々は、
西ヨーロッパの学者の本や
西ヨーロッパに学んだ日本人の本を読んで勉強しています。

彼らの視点は、
当然のごとく西ヨーロッパにありますので、

例えば、
アヴァール人の侵入から崩壊までを、
アヴァール側からの視点で記述するのではなく、

西ヨーロッパやビザンツの歴史を記述する中で、
関係する場合にのみ、その時々の事象を記述しています。

ですから、
スラヴ人のような 西ヨーロッパ人から見ると二流の歴史の担い手は、
必要がない限り記述されないことになるのだろうと思います。

だからこそ、
西ヨーロッパ人の書いた書物を読む際に、
読者側が意図的にスラヴ人について
自分なりの整理をする必要があるのでは、
と、思います。

また
私は、最近歴史の本を読むことは、
ジグソーパズルをするようなものだな、
と、つくづく感じています。

歴史の一つ一つの事象が、
ジグソーパズルのピースのようなもので、

勿論、
一つ一つのピースを丹念に蓄積することが、
最初の作業として必要ですが、

それ以上に、
ジグソーパズルのピースを、歴史書を読む際に、
我々読者側が、主体的に意味づけをして、

それぞれのピースを組み合わせる努力が、
必要なのではないでだろうか と、感じています。

また、その際に、
ピース一つ一つの意味を、理解するためにも、

ピースを組み合わせて できあがるであろう歴史の全体像 を、
概略でも良いから描こうとする努力も必要だと思われます。

これは、
今回のご紹介で割愛しましたが、

オストロゴルスキーの「ビザンツ帝国史」を以前に読んで、
オストロゴルスキーのブルガール人の記述を、
一つ一つのピースとしてしか理解できなかったものが、

今回ギアリの文章を読んで、
いくつものピースが、あっという間に結合して、

初期のブルガール人の歴史が理解できるようになったことで、
痛感した次第です。

更に、
歴史、特に世界史は 暗記科目だ、と嫌われています。

これは、
ピースを、一つ一つ暗記せねばならない
と、思われるからだろうと思います。

でも、
ジグソーパズルのピースの山を集めることは、
ジグソーパズルを始めるための最初の行為であり、

ピースの山を積み上げても、
ジグソーパズルを解いたことにならない
と、同様に、

歴史の事象を暗記することは、
歴史を学ぶ前提作業のようなものであり、
歴史を理解したことになりません。

ただ、
暗記しておけば、

暗記の際に、
自分の頭の中で いろいろな思考 が 自ずから生じてきて、
歴史を考える際に、より深く考えられる利点はありますので、

特に 暗記がそんなに苦にならない方には、
できるだけの暗記を 推奨いたしますが、

歴史を考える際において、
暗記することよりも もっと大切なことは、

どのような視点で、ピース一つ一つを認識して、
歴史の全体像を構築していくかだろう と、思います。

ホイジンガ-は、

 「物理と対比して、結論的に言うならば、
  歴史的知識や理解の物理的完全性などは、
  どんな点からも考えられない。

  誰も、世界史や大帝国の歴史 の
  ありとあらゆる細部までは知ってはいない
  という意味ばかりでなく、

  もっと深い意味、

  つまり、
  一つしかない対象についての歴史的知識は、

  A氏の頭とB氏の頭とでは 違って考えられてしまうし、
  たとえ、
  あらゆる書物 を 共に読み通していても、同じことが起こる」
  と、記述しています。

   <出 所>ホイジンガ「文化史の課題」(7㌻、東海大学出版会)

私は、
歴史のピースピース一つ一つの解釈が、人により異なり、

従って、
できあがった歴史像も 全く異なるからこそ、
歴史はおもしろいと感じています。

今回 ギアリ-の本を読んで、
ギアリーという秀でた歴史家 の すばらしい視点から、
いくつものピースを組み合た 見事な歴史絵画を 十分に堪能させて頂いき、

久しぶりに
読後の余韻に浸れる本 を読んだなと、感謝しています。


    次回 「オドアケル」              
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-4c22.html



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2008年12月 2日 (火)

「ネイションという神話」第2回 ディアスポラ(離散の民)について

前回の「ユダヤ人が、民族として存続した理由」において、

ギアリが、「ネイションという神話」で、

「ユダヤ人は、ローマ人だった」とか、
「6世紀末から7世紀にユダヤ人が民族として成立した」と、記述している
と、ご紹介しましたが、

「ちょっと違うのでは」
と、お考えになる方がおられるのではないでしょうか。

    「ユダヤ人が、民族として存続した理由」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-b1b5.html


ユダヤ人 は、
メソポタミアから パレスティナを経由してエジプトに来て、

その後
モーゼが、エジプトより出国させ

モーセの後継者のヨシュアが、
カナンの地(パレスティナ)にユダヤ人を戻した後、

1000年以上の間、パレスティナで定住してきました。

その間に、
ユダヤ人のユダヤ教が形成され、民族の宗教となったのです。

多分、ギアリは、
この点については、当然のこととして、

ローマ時代に、
ユダヤ王国は滅亡し、

ユダヤ人は、
ローマ市民として吸収されていたのが、

西ローマが滅亡し、
東ローマがビザンツ帝国に変容したことで、

改めて
現在につながるユダヤ人、

いわゆる
ディアスポラのユダヤ人が成立した、

と、述べているのだろうと思います。

この点について
少しお話しさせていただきたいと思います。

一般に、ユダヤ戦争で、

AD70年
ティトゥスが
エルサレムを陥落させて、

ユダヤが滅亡し、ユダヤ人が追放されたのが、
亡国の民ユダヤ人のディアスポラ(離散)の始まり
と、言われていますが、

これは、
歴史によくある「もっともらしい作り話」の一つだと思います。

というのは、

第1に、
ユダヤ王国は、

AD70年の100年以上前のBC63年に、
ポンペイウスが、エルサレムを陥落させて、滅亡しているのです。

その後、
ヘロデ大王が、ユダヤ王に即位していますが、

これは
ローマが擁立した傀儡政権でした。

BC4年 ヘロデ大王没後
3人の息子が、ユダヤ王国を分割して、
太守(テトラルク Tetrarch)となりましたが、

ローマは、
3人とも ユダヤ王の称号 を 与えませんでした。

その10年後のAD6年に、

アルケラウスが、
罷免されてガリアに流罪となった後は、

エルサレムは、
ローマのユダヤ長官が統治することになりました。

その後、
カリグラの親友のアグリッパス1世が、

AD41~AD44年の3年間
ユダヤ王となりましたが、

息子のアグリッパス2世は、
エルサレムの統治を認められず、
それ以外の地方の王 として 統治していました。

AD66年に
ユダヤ戦争が勃発していますが、

これは
ローマのユダヤ長官 フロールス が、
無神経にも
エルサレム大神殿の17タレント の 金貨を 没収したことが
発端で生じた、エルサレムのユダヤ人の反乱です。

ユダヤ人は、
なかなか強力で 

エルサレムを攻めた
ローマのシリア総督 ケスティウスに勝利しました。

ローマは、
ヴェスパシアヌス に ユダヤの反乱に対処させましたが、

ネロが暗殺され、
その後の混乱を経て
ヴェスパシアヌスが、皇帝に即位したので、

ユダヤ戦争は、
ヴェスパシアヌスの息子 ティトゥスが

AD70年に
エルサレム を 鎮圧したのでした。

ヴェスパシアヌスのローマ軍には、
先ほど述べたアグリッパ2世が、参加しています。

ユダヤ戦争で、
ユダヤ王国が滅亡したというなら、

ユダヤ王が、
ユダヤ王国を滅亡させたと いうことになるのです。


第2に、

ローマは反乱鎮圧後、
ユダヤ教徒のユダヤ人をエルサレムから追放しましたが、

ユダヤ教徒以外のユダヤ人を含めて、
他の住人(例えば、キリスト教徒のユダヤ人)は、追放されず、

相変わらず
エルサレム に 住むことができたのでした。

これは、
ある意味当たり前の措置ですが、

あれだけローマに反抗したユダヤ人に対する措置としては、
ローマらしい寛容な取り扱いであったと思います。

ユダヤ戦争で、
多数のユダヤ人が殺され、
生き残ったエルサレムの多くのユダヤ人が、追放されたのですが、

ユダヤ人全体を見た時に、

ユダヤ人全員が、
国外追放されたわけでもないし、

ユダヤ教徒のユダヤ人も、
エルサレムには住めませんでしたが、
ユダヤ国内の他の町には住むことができたのです。

ですから、
ユダヤ人が、何も国外に離散する理由がなかったのでは
と、思います。

それが証拠というわけではありませんが、

約60年後の132年に、
エルサレムのユダヤ人 が 反乱を起こしています。

ユダヤ人が、
ユダヤ戦争で、ユダヤ人が離散して、
亡国の民として流浪していたのではありません。

それでは、
ユダヤ人が、ディアスポラと言われるようになったのは
どういう訳なのでしょうか。

ユダヤ人は、
ローマに併合され、ローマ帝国の一員となって、

ユダヤにこだわらずに、
広くローマ世界全体で活動するようになったのだろう
と、思います。

彼ら自身が、
自分の意志で、ローマ帝国のあちこちに、活動の輪を広げたのでしょう。

先ほどご紹介した
ヘロデ大王の息子の アルケラウスや、
ヘロデ・アンティパス(サロメの父)は、
ガリアに流罪となっていますが、

ガリアに流罪になったのは、
彼らの所領がガリアにあったからだとのことです。

ユダヤの支配者は、
ローマの元老院議員と同じように、
ガリアの属州に所領を持っていたのでしょう。

また、
(イエスの妻だったと思われる)マグダラのマリアが、
プロヴァンスに行った との伝説がありますが、

このような伝説が生じた背景には、
ガリアやスペインで
ユダヤ人が多数活躍していたからだと思います。

ローマ時代のユダヤ人は、
ローマ市民権を持つローマ人として、
ローマに受け入れられたのでした。

ちょうど、
アメリカの市民権を持ったユダヤ人、

即ち
ユダヤ系アメリカ人が、
アメリカ人として 幅広く活躍しているように、

ローマ時代のユダヤ人も、
ユダヤ系ローマ人として、
ローマ中で活躍していたのだろうと思います。

中世になっても、

商人というと、
シリア人とユダヤ人が活躍していますが、

これも
ローマ時代からの彼らの活動の延長線に考えるべきだと思います。

ところが、
時代が進むにすれ、
さしものローマ帝国も夕暮れを迎え、

西ローマ帝国は、消滅し、
東ローマ帝国は、ビザンツ帝国に変容していきました。

そして、
ギアリが記述しているように、

ローマ人が、
民族移動により建国したゲルマン人と、
一つのキリスト教共同体に 融合して、

現在のイタリア人やフランス人、スペイン人の母体となる民族 を
形成していったのです。

(注) このローマ人は、
    ローマの市民権を持った いろいろな民族からなるローマ人
    と、ご理解ください。

ローマ帝国は、
アメリカ合衆国のような多民族国家だったことを
思い起こしていただければ幸いです。

ローマ市民権を持ったローマ人のうち、
ユダヤ人以外のローマ人は、

いつの間にか、
それぞれの地域で形成されたキリスト教共同体からなる民族の一員として
融合されていきましたし、

キリスト教徒のユダヤ人も、

多分同じように、
キリスト教共同体の一員として、
いつの間にかユダヤ人でなくなったのだろうと思います。

例えば、
コンスタンティヌス大帝の母 ヘレナは、
キリスト教に改宗したユダヤ人でした。

ですから、
コンスタンティヌス大帝は、半分ユダヤ人のはずですが、

どの歴史書をみても、
ユダヤ人のユの字もお目にかかったことがありませんので、

ユダヤ人が、ユダヤ人でなくなった例の一つだろう
と、思っています。

また、
ユダヤのお隣のシリア人も、

中世まであれだけヨーロッパで活躍していたのに、
いつの間にか、
歴史の中に吸収され、消え去っています。

ユダヤ教を信じるユダヤ人だけが、
ユダヤ教の固執して、キリスト教徒に改宗しなかったために、

新たに形成された
キリスト教共同体からなる民族の一員 としての 仲間に入ることを 拒絶され、

ユダヤ人として
まとまらざるを得なかった のだろう と、思います。

それを、ギアリは、
「ユダヤ人としての新たな民族が形成された」
と、記述されたのだろうと思いますし、

自己と他者 を 峻別する ヨーロッパのキリスト教社会において、

ユダヤ人が、
常に「おまえはユダヤ人だと」と、区別され、差別されてきた故に、

かえって
1000年以上もの間、
歴史の中に埋没して消え去ることなく、

ユダヤ人が、
ユダヤ人としての民族のアイデンティティを
存続せざるを得なかったのだろう と、思うのです。

ユダヤ人にしてみたら、
ローマの平和を享受しているうちに、

気がついてみたらローマがなくなってしまって、
今更故郷のユダヤにも帰れず、
置いてきぼりを食ったような感じを受けたのでしょう。

故郷のユダヤの地から遠く離れたユダヤ人が、
その故郷に帰って、
自分たちの国を再度建国しようにも、
できない状況に気がついて、我が身の境遇を嘆き、

「何故このようになったのか、
 自分たちの落ち度ではなく、
 ローマが、ユダヤ人をユダヤから追放させたのが原因である」

と、思いたかったことが、
ディアスポラとの概念 が 生まれたのではないでしょうか。


    次回 「スラヴ人の生い立ち」
    http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-76f9.htmll


    追記 旧約聖書よりみた ユダヤ人の離散についての
        次のブログもご覧いただければ 幸いです。

        旧約聖書の神も、ユダヤ人も、
        カナンを「約束の地」とは 考えていなかったのでは?
        http://hh05.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-bf1b.html




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